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みなさん さようなら

2018.12.10 10:12|「周作閑話」
1990年(H2) 月刊 「NewTRUCK」 11月号

ベルリンにて

 ベルリンの象徴のブランデンブルク門は、10月3日の東西ドイツの統合日に行われるこの門の前での記念行事を控えて修復工事中だった。名物の4頭立ての戦車の上の女神像も取り外されていたし、これで僅か5日後の式典に間に合うだろうかと思われる工事の進み具合で、門のすぐ横ではベルリンの壁の搬出作業も進められている。

 ベルリンの壁の殆どは撤去済みで、その一部は壁を利用したギャラリーになって富士山に平成二年と書いたのもある。壁の破片が記念品として売り出されている、と聞いていたがその通り。むき出しのかけらは3~5マルク、日本円で300円から500円、ケースに入ったのが10マルク、ベルリンの壁撤去が決定した昨年11月9日付けの通行許可証に壁の破片をくっつけたのが20マルク、2000円弱である。このビザがホンモノかニセモノかは知らない。売っているのは東ドイツの人だということで、これから式典に向けて彼らの稼ぎ時となるだろう。

 西ベルリンから東へ入って、先ず鼻にくるのは排気ガスの臭いである。トラバントという2サイクルの小さな乗用車、その少し上の大きさのヴァルトブルクが街中の到る所に駐車し、走っている。クルマのことは余り知らない私にも、これはひどいと思われるシロモノで、西独車に買い替えるために物凄い投げ売りが行われていて、1500円くらいから買えるという。

 街の活気もガラリと違う。西ベルリンの商店街はきらびやかに飾り立てられているが、東の方はまばら、それもこの1年ほどの間に開店したもので、それまでは店も商品も殆どなかったという。西ベルリンに初めて入った人達の驚きぶりが想像される。
 高さ365m、世界で3番目とかいう別名“アスパラガス”というテレビ塔がニョキッと突っ立っている。東西ドイツ合併の主役は西側の繁栄ぶりを伝えるテレビであった、という人もある位だから、東ベルリンの中にあるテレビ塔は何とも皮肉な存在だ。

 表通りのビルは、スターリン様式ともいう大きく古典的な建て方で、ビルの石材は殆どが戦争で倒壊したものの再利用らしい。黒いのから白いのまで様々に色合いが違う。戦災の瓦礫を積み上げたところが小さな山になって、すっかり緑に覆われているのが半世紀の歳月を物語っている。
 大通りに面した高層住宅の表面は一応きれいだが、その裏側にあるものは一様に暗い感じで、満足な暖房設備もシャワーもないのが大半だという。

 街の中心部に放置したままの大きな空地がある。ヒトラーが君臨した総統官邸の跡で、この地下室で、ベルリンがソ連軍に包囲されて戦局が全く絶望的になった1945年4月30日午後、彼は自殺、5月7日ナチスドイツは無条件降伏した。
 ヒトラーはその前日の夜から未明にかけて、長年彼に長く連れ添ったエヴァ・ブラウンと正式結婚してヒトラーはピストル、エヴァは毒薬で自殺したといわれる。
 2人の遺体は直ちに官邸で火葬にされたが、十分焼けきれないうちにソ連軍の手に入り、その死因やこの死体が本人のものかどうか、ヒトラーの関係者を逮捕して厳密な調査が行われた。関係者はピストル自殺を主張、ソ連軍は毒薬死をとり、その遺骸が全く行方不明となった現在、その真相はナゾに包まれている。その死の2日前、イタリアのムッソリーニは人民裁判で銃殺刑になり、2ヵ月半後、日本も降伏して第二次大戦は終わった。
 戦後すぐのニュース映画で、アメリカの原爆実験などや愛人と共にに逆さに吊されるムッソリーニの死体を見たときの、強烈な印象が残る。

 ヒトラー総統官邸は東西ベルリンの境界線にあり、両陣営とも手を付けずに放置したと思われるが、ところどころ草の茂る無残な荒れ地では、ヒトラーの夢の跡を辿る感慨の情も起こらない。ベルリンが新ドイツの首都になれば、主要な官庁が建つことだろう。
 ブランデンブルク門は東ベルリンの人口に当たる。この門からまっすぐ東に伸びるウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)通りはかつてのメインストリートで国立オペラ劇場や聖ヘドウィヒ大聖堂、フンボルト大学などがあり、その突き当たり、シュプレー川を渡ると博物館島、文字通りいくつもの博物館がある。まだ修復工事中のものもあるが、クラシック様式の建物が水面に生えて落ち着いたムードを漂わせている。
 東西ベルリンの面積はどちらも同じ位で、文教の中心は東側にある。ソ連はベルリンのいいところを手に入れていたわけだ。

 博物館島に着いたのは、既に陽が傾いて暮色が漂い始めた頃になった。博物館の中では最も有名なペルガモン博物館に入る。この博物館はトルコの地中海海岸にあったベルガモン神殿の遺跡をそのまま移築したもので、2世紀後半に作られたギリシア自由都市の神殿の貴重な遺稿である。この5月にトルコに残るイズミル神殿の遺跡を訪ねたとき、おなじようなタイプのベルガモン神殿はそっくりベルリンに移されたことを聞いていたが、これほど早く訪ねようとは全く予想もしなかった。

 西側のホテルで一泊、取材先の物流会社へ向かう。電器店の前には行列ができて、大変な人だかり。これはポーランドからの買い出し部隊で、そのための数十台のバスが路上駐車していた。彼らは電気製品だけでなく、安売りのスーパーの品物も買いあさって、これを転売して儲ける。西側の年金生活者とか低所得者は安い物が買えなくなって非常に困っているという。

 取材を終えて、チェコスロバキアのプラハに向かうため、東ベルリンの鉄道駅へ。東西を結ぶ高架軌道が壁のあった場所でプツンと切断されている。
 薄汚れた駅にはポーターなどいない。全員トランクを引っ張ってホームへ出てびっくり。大きな袋の上に子供を乗せた難民風の群衆でホームは溢れ返っている。声高に喧嘩している者もあるし、アルコールをラッパ飲みする者もあってまさに無秩序、無政府状態。ホームには警官も駅員も見当たらない。ベルリンに来て9年目という現地の女性ガイドも日本からの添乗員も東ベルリンの鉄道駅は初めてで、我々の乗る客車はどのあたりに停車するのかさっぱり分からぬまま中央部付近の一番人の多いところで列車の到着を待つ。現地ガイドは恐ろしいと唇を真っ青にしているし、私が難民にカメラを向けると恐い顔で手を振って阻止する。

 列車が入って、指定の客車は最後尾であることが判明、乗り込もうと殺到する群衆の間を縫って移動するが、我々の坐るべきコンパートメントには既に人が入っているようだった。それを排除する添乗員との間にやりとりがあったようだが、私はもめ事の収まるのを待って乗ろうと妻と共にホームにいた。彼らが前の方に移るのが見えたので車内に入ったが、事件はその間に既に発生していた。
 同行のK夫妻のご主人の方は金を、夫人は小物入れを彼らに引ったくられたのである。添乗員と若い人達を先に乗せて、先ず座席を確保してやや老齢のご夫妻を誘導すべきであったが、プロのかっぱらいが我々の座席に入っていようとは思いもかけなかった。

 国際列車の発着する駅は空港と同様に、最も治安を必要とする場所の筈だ。東西統一を控えて東側の治安当局も浮き足立っていようが、合併のその時まで秩序は整然と維持すべきである。あるいは体制批判抑圧のみを心がけた社会主義国家のこれが本当の姿であろうか。
 あのドイツがなぜ、風光明媚のエルベ河畔を車窓に眺めながら私はこのことを思い続けていた。



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みなさん さようなら

2018.12.06 06:00|「呉越会」
1990年(H2)月刊 「NewTRUCK」11月号
「第18回 呉越会レポート」

ベルリンからベンツ社、パリへ 終わり


 10月2日の夜半12時を期して東西ドイツは合併した。
 ドイツ統一についての現地新聞の扱いは意外に地味で、パリに着いてから見た日本の新聞の方がはるかに扱いは大きかった。もう既定の事実だから騒ぎ立てることもないというのか、或いはフランスなどの隣国をあまり刺戟してはいけないとの配慮が働いたものか。
……
 旅行の最終日はパリモーターショーの見学日。会場に向かうバスはミッテラン大統領の車列の通過のために一時停車。
 会場正面には一群のデモ隊が横幕を掲げてシュプレヒコールを繰り返している。自動車ショーより我々の待遇改善を、と訴えているのだ。

 10時開場の筈が15分、20分になってもオープンしない。ミッテランが来ているかららしいが、詰めかけた来場者を待たせて主催者側からは何の釈明もないとは呆れた話で、来場者も何の不平も言わない。文句を言っても始まらぬし、やりとりするだけ損だ、ということのようだ。
 入口前のデモといい、平気で来場者を30分も待たせる大統領周辺と主催者側といい、フランス革命200年を経て、フランスをどうしていると叫びたい。自動車を例にとっても、ルノーシトロエンに昔日の面影はない。フランスとドイツは古来宿敵の間柄だが、このようなことでは経済的に統一ドイツに屈服するのが目に見えている。

 30分待たされて漸く入場できた。展示面積は約25万㎡で、幕張メッセの約3倍、1000社を超える出品者があり、入場者数の予想はおよそ100万人。8会場に分かれていて商業車関係はそのうちの4館をしめる。展示面積では50%をかなり上回るようだ。
……
(おわり)





みなさん さようなら

2018.11.15 07:15|「呉越会」
1990年(H2)月刊 「NewTRUCK」11月号
「第18回 呉越会レポート」

トラバントと西独車
                 トラバントと西独車 (ベルリン1990年)

ベルリンからベンツ社、パリへ (2018年11月15日~12月3日アップ分)

美しくなったロンドン

 9月26日、成田午後1時30分発の英国航空BA008便はシベリア上空を飛んでロンドンに向かう。正月、エジプト往還の時に見たシベリアは白一色だったが、氷雪も溶けて果てしない緑の山野が眼下に展開する。
 ブラインドを下ろして機内を暗くしているが外は明るいまま。ほぼ12時間後の午後6時ごろロンドンのヒースロー空港に到着、薄暮の道を市内のスキタス・セントアーミンズホテルへ1時間ほどかけて入る。

 現在、日本とベルリンを結ぶ直行便はないが、出発の朝、航空会社が申請を出していると新聞に出ていたので、近く実現することになるだろう。当初はパリ経由でベルリンに入ることになっていたのが変更されてロンドン経由になり、訪問国は東・西ドイツ、フランス、チェコスロバキア、オーストリアにイギリスが加わることになった。このうち、東西ドイツは10月3日に統合されたのはご承知の通りで、我々一行はその日の朝を西ドイツの大学の町ハイデルベルグで迎えて、夕刻パリ入りした。

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みなさん さようなら

2005年11月19日(土)
紀宮様のご結婚への両陛下のお心遣い

 紀宮様と黒田慶樹さんのご結婚式のテレビを拝見して、皇室も大きく変わったなとの思いを深くした。
 先ず、両陛下が結婚式だけでなく、披露宴にもご出席になったことに驚いた。披露宴の模様をテレビで見ると、「新郎新婦のご入場でございます」など一般の披露宴とまったく変わらない。変わっているといえば、通常は末座になる新婦側の親族の席がメインテーブルの新郎新婦と両陛下が向き合った形でお座りになり、皇太子他のお身内が同席されて、新郎の黒田家側は通常のように末座に席が設けられていたことぐらいである。

 昭和天皇の内親王の場合、ご長女は皇族、次女は公爵というように、皇族華族の順位にご降嫁されたものだ。今や皇族はごく限られた天皇に近い親族になり、華族そのものがなくなって、いきなりサラリーマンのマンション住まいで、家事に追われるお嫁さんになるのは、何か侘しい気がしないでもない。戦後、一気に皇族華族を整理したけれども、世界でもっとも古い伝統を持つ皇室とその周辺の貴族は、日本文化の保持のためにも維持される必要があったのではないだろうか。少子化は皇室も例外ではなく、秩父宮、高松宮はお世継ぎがなくて絶家になっている。

 披露宴に出席された両陛下のお姿をテレビで拝見して、ふと古典の『大学』に出る詩経の言葉を思い出していた。
  詩云。桃之夭夭。其葉蓁蓁。之子干帰。宜其家人。
 詩に云う。桃の夭夭(ようよう)たる。その葉蓁蓁(しんしん)たり。この子干(ここ)に帰(とつ)ぐ。その家人に宜(よろ)しと。

 詩とは孔子が編纂したと言われる中国古代の詩を集めたもので、その中には民謡のようなものも多く含まれている。これもその一つだろう。若い桃の木の葉が盛んに繁っているのは子孫繁栄の象徴である。嫁ぎ先の人たちと宜しく仲むつまじくして欲しいという親の気持ちをこの詩は伝えている。紀宮様を黒田家に嫁がせた両陛下のお気持ちもそうで、結婚式と披露宴とに、異例のご出席をされたのは、その表れだろう。

 孔子は詩の大切なことを論語の中にもしばしば言及している。「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」(泰伯第8)などもそうだし、子の鯉に、詩を学んだかと聞いて、まだです、と答えると、詩を学ばなければ立派に人と話すことはできないよ、とも言っている。

 論語の中に「未だ之を思わざるなり。それ何の遠きことかこれ有らん。」理想追求の熱意不足に例えられるが、民謡の引用だから「思うて通えば千里も一里」で良いのでは。


みなさん さようなら

2005年11月5日(土)
濁職に留まって世を正す

 辛口経営評論家で知られる佐高信氏が、産経新聞の読書欄「私の修行時代」に掲載する面白い取材を受けていた(10月24日掲載)。慶応大学を卒業の後、郷里山形県の高校で社会科を教えていた佐高氏は27歳で辞職して、上京後に『ビジョン』という経済誌の編集長を10年間務めた。「はじめにびっくりしたのは、そういう雑誌は雑誌を売って金をもうけるのではなくて9割9分が広告収入で、しかも一流企業ばかり、あるとき気づいたのは企業は(雑誌に)広告を出すメリットはないが、スネに傷持つ以上、出さないとデメリットがあるということです」教職という「聖職」から一気に「濁職」に突き落とされる思いがして、辞めたいと思わぬ日は1日もなかったが、結局10年間続けているうちに、徐々に外の仕事が増えるようになって、社長から(アルバイト原稿を書く)休日の疲れが仕事に残らないようにと言われたのがきっかけで退職した、そうである。

 私も論語を多少はかじった後、業界誌の世界に入って間もなく「濁職」どころか、これは人間のクズのする仕事である、と思い知らされた。寄生虫そのもので、ひたすら業界の提灯記事を書いていくばくかの金を貰うのが常識で、出す方も貰う方も当然として疑わない。ジャーナリズム精神など、カケラもない世界であった。

しかし佐高氏のように辞めようとはまったく考えなかった。「濁職」あるいは「濁世」かもしれないが、そこに踏みとどまって、少しでもその世界を正しい明るい方向に持っていきたい、そして自分自身も向上することを目指したのである。業界誌から評論家に転じたのは佐高氏だけではなく、故安岡正篤先生に知遇を得て経営者の「帝王論」を説いた故伊藤肇氏など数多いが、その中に留まって批評・評論をした人物はいない。また、業界誌の性格としてそれは不可能に近いことである。辛うじて、私がそれを曲がりなりにも実践できたのは、対象にした中小企業の経営者もまた上に君臨する大企業親企業を持って悩んでいた、苦しい思いは同様という、多くの方々の理解と支援があったからである。数日前、東海から大阪京都の経営者を訪ねたが、中小企業の経営者ばかりである。

 論語「微子篇」に、孔子の高弟の子路が、隠者に会って孔子にそれを告げ、孔子の命で再びその場所に行ったが、隠者は既に去った後で、残った2人の子供に独り言のように子路は言う。「其の身を潔くせんと欲して大倫を乱る。君子の仕うるや、其の義を行わんとなり。道の行われざるや、已(すで)にこれを知れり。」濁職から逃れて批判をすることも重要だが、濁職に留まって「義」を行う仕事をするのも重要ではないだろうか。





プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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