みなさん さようなら

2017.10.23 04:27|外部 寄稿者
※ 加藤氏の記事中の写真・図はすべて「特装車とトレーラ」に掲載したものです。

事故車①

1976年(S51) 月刊 「特装車とトレーラ」 11月号
くるまの安全シリーズ・1  記事 加藤正明
加藤正明氏: 日本ハイウェイセーフティ研究所所長 2008年心不全で死去

なぜ追突はさけられないか
高速走行とボデーの視認性


● はじめに
 10数年前、箱根山中の国道1号および246号において故障車・事故車の排除に携わって以来、東名高速道路が開通するに及んで、沼津を基地として一貫して安全事業に関わりあい、今日に至っている。こうした業務を通しての特異な立場から、悲惨な事故を未然に防止する方法について、これまでにもいろいろと考えをめぐらし、自分なりの方法で資料の収集や分析を行ってきた。すなわち、事故現場の写真やデータの収集、事故ドライバーとの寝食を共にしながらの対話記録、事故カルテの作成、あるいは各種の実走行テストなどを行ってきた。
 もちろん、私は学者ではない。仮説を立て、必要なデータだけを利用する、という方法にはなじみがない。事故現場に駈けつけ、牽引作業を行いながら、事故の直接原因、誘因、その他の要因について考えをめぐらし、帰社するとなにもかも余さず、フィールド・ノートに書きつける。
 ところで、事故ドライバー(加害者)の答えは、いつもきまって判で押したように似通ったものである。いわく、まさかぶつかるとは思わなかった。いわく、止まっているとは思わなかった。いわく、十分に止まれると思った。いわく、まるで氷の上みたいに、路面があんなに滑るとは思わなかった。
 どれもまさかと予想を裏切られているわけだが、この予測に反する非常事態に対し、ドライバーがどれだけの予備知識をもっていたかになると、きわめて怪しいというほかはない。つまり、緊急時の認知、判断、動作という基本についての安全教育が、どれだけ徹底されているか疑わしい。本来なら、君子危うきに近寄らずは当然として、正確な操作が条件反射的な習性としてなされたかどうか、である。なされたとすれば、まさかが入り込むすきはないはずである。

● 不可抗力としての事故とドライバーの意識
 ともかく、事後診断としてどのような弁明解釈がなされるにしろ、事故はけっしてあとを絶たない。しかも、一定の安全教育がなされ、安全運転管理も徹底しているとしたら、決定的な事故誘因は、予想外の別なところに隠されているにちがいない。こうした道筋を辿りながら、私はドライバーの意識の薄暗がりの中に踏み入ることになった。つまり、私は居眠りとはなにか、ということに注目し、遂に運転中の覚醒度の低下現象をつきとめ、これに覚低走行あるいは覚低運転と名づけた。幸い、この研究は多方面からの関心を集め、一応の成果が認められることとなった。
 それはともかく、この実験の過程で、私は事故ドライバー(この言葉の用法はきわめて日常的に理解してほしい)について、興味深い事実を発見した。それは、きまってどの事故ドライバーも、自分が安全運転義務違反に該当しない、と自認していることである。自分はまったく正常に、認知・判断・動作などを行ったと信じ込んでいる、という事実である。事故は、その正常なワクを超えた、不可抗力の突発事として自分に襲いかかってきた。したがって、自分こそ不運な被害者なのである、という論理である。いわば無過失責任というわけだが、この論理がおかしいことは、第三者なら容易に気づく。前方不注意、車間距離不適当……しかし私は、実験中に覚低状態に陥っていた自分を記録紙でみせつけられて慄然とし、その奇妙な論理がまったく正当であることを理解した。
 逆説的に聞こえるかもしれないが、高速道路上の事故には、加害者がいないのである。どちらも被害者だとしたら罪の意識・反則意識がないのは当然といえよう。だが、果たしてそれは不可抗力だったろうか。ともかく具体的な事故例にあたってみよう。

● 非常駐車帯は安全地帯か
 事故は、形態としてはごくありふれた故障車への追突だった。昨年10月24日の22時30分ごろ、東名高速上り線の非常駐車帯に停車中の故障車に後続車が追突したのである。現場は勾配3%の登り坂で、車線は登坂車線付の3車線、ほぼ直線コースである。原因は居眠りで片づけられた。だれでもすぐに気づくことだが、非常駐車帯でなぜ、という当然すぎる疑問が湧く。登坂車線の外側まで回り込んで、ハザードランプを点滅している停止車両に追突したのだから、だれが考えてもおかしい。私は即座に、居眠り(覚低走行)と断定した。
 しかし、後続車は走行車線(この場合は登坂車線)をそれて、なぜわざわざ非常駐車帯に回り込んできたか。これは覚低現象についての若干の説明がなければ、なかなか理解されにくい。
 ここで詳しく「居眠りのメカニズム」についてふれる余裕はないが、結論を先にいえば、停止車両を走行車両と誤認し、追従走行をしているつもりだったと想像される。とくに大型車両の場合は、運転視界の関係で、夜間走行時にはしばしば覚低状態に陥りやすい。その結果、ドライバーは空間感覚(車間距離感覚)を喪失したまま、ただ先行車両のテールライトだけを頼りに、惰性的な追従走行を行っていることが多い。だから、停止中のテールライトを見ても(この場合はハザードが点滅していたのに!)、それを走行中と簡単に短絡させてしまう。試みに、当事者たちの声を聞いてみよう。

(停止中の車)
 ワイパーが故障したので、非常駐車帯をみつけて停まった。降りたところ、後部が少し車線上にはみだしていたので、もういちど直して、ハザードをつけて降りた。そして、ものの5分と経たないうりにぶつかってきた。
(追突車)
 車が停まっていたとは、まったく気づかなかった。
 追突車のドライバーの答えは、きわめて単純明快である。折から、小雨もようだったが、夜間視界としては、けっして悪くはなかった。ちなみに、事故ドライバーは、約25㎞離れた富士川サービスエリアで約1時間休息をとっており、沼津インターを通過するあたりから、眠気をおぼえたと証言している。
 ところが、タコグラフの記録では、わずか5分間うたた寝をしただけであることが判明した。こうした証言と記録のくいちがいは、事故ドライバーにしばしばみられる事実である。

特装車とトレーラ2月号②

● 見えすぎる運転視界におとし穴
 乗用車とくらべた場合、トラックやバスの運転視界は、比較にならないくらい広い。ドライバーはいちだんと高い位置から、一望のもとに路面状況を見回すことができる。ところが、昼間はこうした有利な条件が、夜間とくに光量の乏しい高速道路では、一転して不利な条件となる。周知のように、高速道路の夜間走行の場合、運転に必要な情報としての光はきわめて少ない。いや、ほとんどないといっていいくらいだ。ところが、無用な光にはこと欠かない。ことに、対向車線の光はまともにこちらの視界にとび込んでくる。カーブなどではとくにひどい。ときによって、光の暴力とさえいいたくなるほどである。当然、ドライバーは自衛策として、走行斜線上に視線を固定させようと努力する。
 ここでもうひとつの矛盾にぶつかる。キャブオーバー・タイプのビームは、乗用車とくらべてかなり下向きに路面を照射する。ドライバーは習性上、できるだけ遠くをみようとするけれども、必要者間距離さえ十分に照射することはできない。眼球の動きは、いきおい小刻みの上下動をくり返すことになる。もちろん、ヘッドライトの照射範囲の外側は闇である。その闇の向こうに先行車のテールライトがみえると、今度はそれを頼りに走行しようとする。しかし、このとき後続ドライバーは、単調な眼球の上下反覆動作の結果、覚低状態に陥っていることが珍しくなく、車間に横たわる闇(ブラック・ボックス)のために正常な空間=距離感覚を喪失している。
特装車とトレーラ2月号④
      車間に横たわる闇(ブラックボックス)のために正常な空間―距離感覚を喪失している


 さきほどの事故例で、ハザードランプの点滅に気づかなかった(みていなかった)、というのもこのことで説明がつくはずである。つまり、後続ドライバーは、まったく無意識にテールランプを頼りに、惰性的にハンドルを握っており、光が点滅しているかどうか、どれくらいの車間があるかさえも判断しようとはしていない、とみてよい。
 では、こうした居眠りを防止するにはどうすればよいか、ということになるが、低下した覚醒度に刺激を与えて、覚醒度を高めてやればよいわけだが、これはイソップ童話に出てくる猫の首の鈴の比喩に似てくる。また、いまはそのことへ論点を移す前に、少しばかり角度を変えて、加害者側の意識について考えてみよう。

特装車とトレーラ2月号③
〈 上図説明 〉: 上から4本目は目の上下運動、運転席が高いので中心から下方向しか見ていない。睡魔におそわれやすい。
上から5本目は目の左右運動。ほとんど運動していない。従って、運転席が高く視界の広い大型トラックは、目の位置が高速走行に合わない。

● 覚低走行と空間感覚
 前述のように、覚低に陥ったドライバーの視界は、先行車のテールライトと線で結ばれ、先行車がない場合も一種の視界狭窄(きょうさく)状態にあると考えられる。したがって、かろうじて二次元の平面感覚を保ってはいても、安全走行に必要な空間感覚を喪失している。これでは、テールライトに吸い寄せられるように近づいて、その結果「まさか停まっているとは思いもかけなかった」ということになるのは当然といえば当然である。後続ドライバーは、ライトを目にしたときから、走っている車だと決めてかかっているのだから。
 実際に高速走行をしてみればわかることだが、ビームを上向きにして走れば別だが、ふつう正常な車間距離に近づくまでは、先行車の車種は見分けがつけにくい。とくにダークな色調の幌型や平ボデーの車の場合はなおさらである。だいいち、ライトがボデー上部まで照射しないのだから、大きさなど(後部平面も)わかるわけがない。先行車の車種が不明であることは、ドライバーに心理的な不安を与える。逆にいえば、近づいてそれを確かめたいという心理が働く。ここで、窮屈な運転席に閉じ込められたドライバーの孤独感について考えてもらえば、このことは一層よく理解できるはずである。高速道路で、特に大型車が異常接近の状態で追従走行することは、よく知られている事実である。
(つづく) 


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みなさん さようなら

2017.10.19 06:00|「周作閑話」
1983年(S58) 月刊「特装車とトレーラ」10月号
周作閑話

浅間爆発と地底に消えた村 (あがつまぐん つまごいむら)

 群馬県吾妻郡嬬恋村――全国に多くの市町村があるが、これほど女性に優しい地名は他に見られない。天明の大爆発によって壊滅した旧鎌原村は、現在このように呼ばれ、キャベツの産地として知られている。

 日本武尊が東征のあと、碓氷峠から関東平野を望んで、海神の怒りをなだめるために入水した妃、弟橘姫を偲んで「吾妻はや」と呼びかけた故事による命名であろう。
 碓氷峠を越えて信州に入った中山道は軽井沢、沓掛、追分の浅間山南麓のいわゆる浅間三宿を経て諏訪湖に向かう。その沓掛、現在の中軽井沢から真っ直ぐ北に浅間山の東を進んだ所に旧鎌原村はあって、さらに北に進むと草津温泉があり、高崎と北信州の上田地方を結ぶ脇往還の宿場的要素を持った農村だった。幕府直轄の天領で、戸数120戸前後、人口約600人、と記録されている。

 9月号に書いたように、天明3年(1783)の浅間山爆発は、4月頃から始まって大量の浮石や火山灰を空中に噴き上げていた。そのクライマックスの旧暦7月8日(太陽暦8月5日)午前11時、火口にたまった大量の溶岩があふれ出して、高熱の溶岩流となって一気に山肌を駈け降りた。火砕流、熱泥流とも呼ばれるこの溶岩流は、火口の北側の斜面、標高差1,100mを滑り落ちる間に時速360㎞という信じられないスピードになって、山肌の土砂、岩石を削ってそれらを巻き込んだ巨大な溶岩、土砂の雪崩状の本流となって、火口から12㎞北の鎌原村を襲った。

 村を襲う頃はスピードが衰えていたが、それでも時速50~100㎞位、とても逃げ切れるものではない。外出していた人、奇跡的に横の高地へ脱出した93人を除く477人が、人家、牛馬、田畑とともに一瞬のうちに火砕流にのみ込まれて押し流された。
 アッという間に殆どの身寄りと家屋、田畑を失って、それらをのみ込んだ火砕流を眼前にした生き残り住民は、唯一高地に残った観音堂に集まって7月7夜、泣き明かしたという。

 火山爆発によって全滅した町として有名なのは西暦79年のポンペイである。ヴェスヴィオ火山の爆発で丸一日降り続いた軽石や火山灰によって高い文化を誇っていたポンペイの町は7mの堆積物の下に埋もれてしまった。しかし鎌原村のように一瞬のうちに横ざまにのみ込まれたのと違って、空からの降下物なので住民には逃げ延びる余裕があり、2万人の人口のうち、死者はその1割の約2千人程度と推定されている。死者の割合は鎌原村の場合とはほぼ逆である。

 ところが、9割が生き残ったポンペイの住民はポンペイを捨てて再び戻ることはなく、忘れられた町となって地下に眠り続け、漸く18世紀になっての発掘作業でその姿を現した。
 これに対して、8割強の村民を失った旧鎌原村の生き残り住民は、その地を捨てることなく埋没村の真上に新鎌原村を再構築していった。地に執着する日本民族の特性と言ってしまえばそれまでだが、ポンペイと鎌原村のこの比較は様々のことを考えさせる。

 すべてを失った生き残り住民に対する救いの手は近隣の商人や住民、代官所から差しのべられて、犠牲者の百ヶ日忌が過ぎた10月24日、7組の集団結婚式が行われるまでになった。
 夫を失った妻、妻を失った夫達が、それぞれの過去を振り切って新しい縁組みをすることについては、複雑な気持ちがあったに違いない。しかし、村の構成単位である家が組み立てられないようでは村の再建は覚束ない。同時に親を失った子供、或いはその逆の養子縁組も進められた。
 折しも天明の大飢饉のさ中、家財、備蓄食糧の一切を失った残存住民が、荒土を耕しながら生き抜いてゆくには、彼ら自身の努力もさることながら、代官所や近隣商人、住民の手厚い援助と激励が不可欠であったろう。

 大爆発から33回忌に当たる文化10年には被災者供養のため、それぞれの戒名を彫った大きな供養碑が観音堂に建てられた。この頃にはほぼ村の再建は完成していたと思われる。大きな石碑の4面にびっしり彫り込まれた犠牲者をその頃はまだ記憶に留めていた人もあったに違いない。
 過去と訣別した新しい家族達によって鎌原村は生き返った。しかし、村の性格はかなり変わって、それまで濃厚に持っていた宿場的要素は失われて純粋の農村となり、最近に及んでいる。

 それから200年近く、鎌原村は嬬恋町となった。平和なキャベツ産地として記憶されることはあっても、浅間大爆発の被災地として一般の注目を集める土地にはならなかったのである。
 旧鎌原村が俄然クローズアップされ、観音堂が浅間周辺の観光地の一つになったのは、昭和54年から始まった一連の発掘作業によって、その村の生態がかなりはっきりわかってきたこと、特に観音堂の下から発掘された2体の女性の遺体が、マスコミに取り上げられたことが大きく作用している。

 鎌原観音堂は、現在の地表面から15段の石段を上がった所にあって、ここまで上がった住民は助かったといわれ、「天明の生死をわけた十五段」の石碑が建てられている。
 この石段は120段から150段あると伝えられていたが、実際に掘ってみると、50段で終わって、その先はゆるい下り坂で当時の村のメインストリートに達していたらしい。
 この階段の最下部で折り重なるように倒れていた2体の女性は、あと35段を駆け上がれば助かった筈だが、上の1体は腰の曲がった老人らしく、下の1体は中年、恐らく年上の女性を背負っていたと推定されている。
 この頭骨に肉付けすると、二人はうりふたつ、しかもヒナには稀な高貴ともいえる顔立ちであったことが人々を驚かせた。年の近い母娘、或いは離れた姉妹か、身元はわからないが、肉体労働には縁遠い上流家庭、富裕な商家の内儀のようだ、と専門家は言っている。

 発掘した地点はごく一部であるし、村の中心部は根こそぎ、横なぐりに削り取られて下流に押し流されたため、旧鎌原村の全容を突きつめることはできないが、意外に豊かで、当時の江戸でも使われ始めたばかりの輸入品のガラス製鏡などの奢侈品も発掘品には含まれている。
 我々は江戸期の農村といえば、すべて暗く陰惨な生活を強いられていた、と考えがちである。

 私は東海道、中山道のすべてを歩いてみて、自分が育った昭和初期の土佐辺鄙の貧乏漁村より、生活水準も文化水準もずっと上の生活が江戸期の街道沿いの農山村にはあったことを知った。旧鎌原村もその例外ではないことをタイムカプセルから出てきたばかりの発掘品は教えてくれたのである。

 多くの見学者を前に、村のお年寄りは観音堂でお茶と漬物をすすめて話の相手をしていた。村の再建の礎になった縁組夫婦から6代目くらいに当たるそうである。被災200年を記念して立派な観音が昨年建立された。
(参考文献 東京新聞出版局発行「嬬恋・日本のポンペイ)


みなさん さようなら

1冊の本
1975年(S50)「特装車とトレーラ」10月号

1冊の本
「定年後」  
岡田誠三 著  中央公論社刊 680円

サラリーマン人生の哀歓
定年なんか恐くない?


定年と隠居の違い
 本誌の読者の大半はサラリーマンであろうと思う。サラリーマンというものは宿命的に定年の日を迎えることになっている。社長になったところで、会長、相談役と棚上げされていって、忘れられる存在となる。ある車体メーカーの最大手の前社長で、現会長をよくその社内で見かけるが、孤影悄然、声をかける社員も少ない。

 この本は、文藝春秋9月号で知った。著者の岡田誠三氏と評論家の鶴見俊輔氏との「定年とは何か」をテーマにした対談で、これは面白かった。55歳から60歳という定年ラインは昔の人生50年の時代なら文字通り一生の面倒を見ることになるのだが、平均寿命70ン歳という時代になると、定年になってから後が大変だ。そこで、隠居という知恵をもう一度取り戻さなければならないのではないか。相撲社会の年寄り制度は、相撲取りだけの自治社会を作り上げている非常に上手くいっているシステムである、というような話が続いていた。
 世襲社会と現代社会とでは全く基準が違うが、隠居という制度には、跡継ぎが立派に成人したという喜びと、これから自由にやりたいことができるという期待がある。時には不都合のことがあって、“隠居申付ケル”ということもあった。

 私のサラリーマン時代は、31歳から38歳にかけての僅か7年そこそこである。その短いサラリーマン時代にやはりこの定年ということを考えた。生命的死は天の命ずるところで、これはどうにもならない、その上社会的生命まで定年という制度で自動的に決められてしまう。こんな馬鹿げたことがあるか、せめて社会的生命くらい自由にできなくてどうする、と20年もあとの定年のことをあれこれ思いめぐらしたものである。
 私がサラリーマン生活におさらばしたのは、この定年の問題だけではないのだが、大きな伏線になっていたのは事実のようだ。定年という悩みは無くなったかわりに、所属する企業に尾を振っておれば、おまんまにありつけるという安心感も吹っ飛んでしまって、まさに綱渡りのような人生をその後の6、7年は送るハメになった。恐怖の報酬ならぬ、定年解放に対する恐怖の代償である。

社会的死と生命的死―本書の内容
 さて、その「定年後」の目次を見ると、
1.定年葬
2.古猛妻
3.独房
4.死
5.血縁

と、恐ろしい字が並んでいる。
 1の定年葬とは、定年に伴ういろいろな行事を葬式になぞらえたもの。社員から贈られる餞別は香典であり、定年の日から生身(なまみ)の新仏になる。この新仏も生前のランクによって死後の世界、つまり定年後の世界にも格差が生じる。死者と葬儀委員長を兼ねたような定年の挨拶廻りなどを筆者は淡々と描きながら、回想の世界に入ってゆく。筆者は太平洋戦争の従軍記「ニューギニア山岳戦」で直木賞を受賞していて、死線を越えたふてぶてしさというようなものが、感じられる。
 2の古猛妻は、よくもこういう恐ろしい名称を奉ったものと思うが、先ほどの対談では女房は屋敷神ということになっている。ここでは、大阪の最新最大のホテルでの殺人事件のスクープなどが語られる。ともかくヴァイタリティにあふれた茂子夫人を描いて余すところがない。
 戦争末期、ふとしたことから、結核の重症患者であった女性と同棲しているところへ、終戦で疎開していた細君が子供を連れて帰ってくる。ちょうどその時、女性は喀血と流産の出血が同時に起こる。細君は甲斐甲斐しく看病するが女性は死に、その蝋人形のような死体を女性の父親はふとんにくるんで背負って帰っていった。鬼気迫るような話は先の殺人事件の描写にもあるが、やはり記者サンだなと感心させられる。
 著者の父君は大阪に多い町人学者のひとりであったようで、その変人・奇人ぶりも紹介される。江戸時代から大阪には町人、つまり商人の中にかなり高いレベルの学者が多数存在した。血は争えないもので、著者はこの父君から多くのものを受けているようである。

 3の独房には定年後、閑居することになった河内の風土などが語られる。河内は私も10年ほど住んだところ、言葉が日本一悪いと言われる。
 4の死は照子という著者の妹の事故とも自殺ともつかぬ死が語られる。肉親と、記者と二つの目で著者はその死の原因を突き止めようとする。
 さらに、朝日新聞社は人の臨終30分前から解剖に至る経過を追う連載企画を立てて、著者はその担当となる。
 著者の取材は、家族の諒解が取り付けられて、臨終の場から解剖室での立ち会いに成功する。私なら、肉親の死の場面に好奇心に満ちた第三者の侵入は拒否したであろう。
 4と死、語呂合わせみたいであるが、この章は著者の死生観も語られていて読み応えがある。

 5の血縁は、著者の子供達のことが語られている。男の子ばかり3人の著者と女ばかりが3人の私の方とはどうも共通点がなく、しかも当方は長女がやっと社会人になったばかりという状況で、年代的なズレもあってか、前4章に較べて、この章は訴えるところが少なかった。

男の聖域
 この本のオビに作家の陳舜臣氏が、「男の聖域を描く」と題して、次のように書いている。

 「定年を焦点に描かれた『この道』は、哀歓を超えた男の聖域のようなもので、むしろ女性に読んでほしいと思う。
 生活と心境のなまなましい部分を、これほど淡々と知的につむぎあげた文章は稀有である。心斎橋や渡辺橋など、大阪の芯のにおいが濃厚に漂い、愛すべき河内の風物の遠景に、私はニューギニアと戦争とをありありと見た。」

 作家だけに見事な紹介である。陳氏はむしろ女性に読んで欲しいと言っているし、私もそう思うのだが、女性にはわからない、というか理解し難い部分の多い本では無いかと思う。
 やはり、この本は大阪のものである。きびしい現実に直面し、これを直視しながら、ひょいと我が身を第三者の位置に置いて、時にはこれを劇画化する。上方(かみがた)文化の底流のようなものを感じるのである。一種のしぶとさ、ふてぶてしさであろうか。よく大阪のど根性とか、最近はどてらいという言葉まで創造されているようだが、この言葉からくるギスギスしたものは本来大阪人は持っていない。もっと、ほんわかと包み込んでいる。
 近松浄瑠璃や上方歌舞伎の悲恋心中物には、悲劇と喜劇がごちゃまぜになっている場合が多い。いまの長谷川一夫のいわゆる長谷川歌舞伎の上方物がその伝統を最も踏襲しているように思われる。

 この本を読んでいる最中、8月16日のこと、新聞はその片隅に一人の老人の死を伝えた。私も時々訪ねたことのある三井系のある会社の相談役の某氏(69歳)が、15日の深夜、勤務していたビルから飛び降り自殺をしたというものである。その会社の専務まで勤めた某氏は相談役の任期が切れて、あちらこちら挨拶をして、会社に残っていたが、その夜自殺した。この事件は、週刊新潮の「墓碑銘」という欄に掲載されたので、ご記憶の読者もあろう。
 岡田氏の筆法からいえば、社会的死の定年葬と生命的死とを同時にやったようなものである。
 このビルからすぐ近くの日本銀行でも40歳代の中堅社員が飛び降り自殺をして騒がれている。それほど勤務先に怨恨があったとも思われないのに永年勤めているそのビルから飛び降り自殺をすることもあるまいに、と思うのは第三者の無責任な推理であろう。
 もし、この「定年後」という本を読む機会が二人にあったとしたら、自殺は思いとどまったのではあるまいか。特に老人の場合、70歳近くなってやっと自由の身になれたのに、その日に自殺するとはどうにも不可解である。岡田氏の言によれば、55や60歳では人間まだ生かわきの状態で枯れきっていない、それで放り出されるのは残酷かも知れないが、70にもなればもう枯れきっていなければなるまい。

 岡田氏は古猛妻の監督下に独房に呻吟しているように書いているが、どうしてどうして、その境遇を楽しみ、これを劇画化して、しこたま原稿料を稼いでいるのである。この本もよく売れているようだし、文春の対談にも出席して、あちらこちら引く手あまたであろう。
 定年に近い人も、定年がまだまだ先の人にもぜひ読んで貰いたい本である。或いは定年に関係のない私のような自営業の人が読んでも結構面白い。男の生き甲斐、或いはやってきたことは何だったのだろう、と自問するとき、この本はなにがしかの示唆を与えてくれる筈であり、社会的生命の死は決して恐れるに足りないことも、心ある読者には読み取れると思う。



みなさん さようなら

2017.10.12 06:00|外部 寄稿者
ニュートラジャーナル (Webサイト『トラックX』より)
執筆者紹介
大山健一郎氏…トラック技術の権威、経営の元トップ。鋭い批判姿勢が好評

儲かってます、高速道路 (2006年9月7日掲載)

 昨年10月に道路公団を三分割民営化した後の初めての決算は三社共黒字だった。過大な借金とその利子の返済によりかなり厳しいと思っていたが、正しい会計によって透明になったとたん、以外にもそこそこの利益が上がっている。路線別収支も20路線で百億円を超す黒字を達成した。

 東、中、西日本三社合計の料金収入による利益は519億円、SA/PA等の事業利益は48億円、納税額は276億円と立派なものである。昨年10月からの6ヵ月決算だからあまり楽観視はできないが、年度のベースにすればこの数字は倍になる。とても乾いた雑巾を更に絞るほど経費を詰めているとも思えないし、まして公団時代の人員を民営化の時にリストラした話は全く聞こえてこなかった。民営会社になってむしろ会長さんが三人増えた分、総コストは膨らんだはず。公団時代の経営がいかにずさんだったかである。

 会社は景気の拡大によってトラック交通量が増えたとか、ETCの普及が予想ほど伸びずに割引料金が適用にならなかった、などと言っているが、それだけではないだろう。なにより高速道路の建設談合で副総裁と審議官が逮捕有罪になったことで、社内が一気に引き締まったに違いない。更に大口割引の後払いの回収不能とか、子会社によるハイカの横流しや大量の5万円偽造ハイカの横行などルーズ極まりなく、公団時代はいわば経営の体をなしていなかった。新会社の経営方針と行動規範にはこの反省に立って法の遵守とコンプライアンス(従う)の精神が高く掲げられている。

 最近のテレビ報道によると再び道路会社の経営を揺るがしかねない新たな問題が起こっている。それはETCゲートの強行突破で、しかも急速に増加しているという。強行突破はスリやカッパライに等しい卑劣な犯罪で、これに生ぬるい対応を重ねるとやがて一事が万事、公団時代のように金にルーズな体質に戻る。どんなにコストを掛けても犯人を一切許さない毅然とした姿勢が必要である。強行突破車両には自動的に赤塗料を吹き付け、直ちに追跡、現行犯逮捕するくらいの方策が有効だろう。

 本四橋公団を含めて、三公団が予定踊り借金の返済をしながら黒字化できることが分かった以上、民営化する前の約束である通行料金の一割引き下げを一刻も早く実現してもらいたい。何しろ世界一バカ高く物流コストの足枷になっている高速料金を引き下げて経済の活性化につなげるべきだ。公団は大口割引や時間帯割引などで実質引き下げていると言いたいだろうが、これでお茶を濁されては困る。まず、一律の料金引き下げを実現して初めて民営化して良かったと誰もが実感できるのではないか。

みなさん さようなら

2017.10.09 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1983年(S58) 月刊「特装車とトレーラ」10月号

背水の陣を布いた新明和
川西モーターサービスの名称消える

 特装車のトップメーカー、新明和工業(株)川西モーターサービスの、「川西モ…」の名が9月1日から消えた。
 川西航空機から戦後の駐留軍車両補修時代の苦難の歴史を川西モーターサービスの名称に残した同社は、高度成長期のダンプ時代をリード、それはまたわが国大型トラックの牽引車的存在でもあった。

 新明和工業の川西特装車以外の機械や航空機などの事業部門に比較して、ダンプを主力にしたモーターサービスの売上構成比はきわめて高く、当初は新明和工業の中の独立事業部門の観さえ呈したのである。既に10数年前になるが、城山三郎氏はこの川西航空機の戦中戦後の生きざまを「零からの栄光」のタイトルで週刊誌に連載、後に単行本として出版している。
 この本の書かれた当時のわが国はまだ高度成長時代であり、川西の名は特装車のトップリーダーとして栄光の中に生き続けることができたのである。
 その川西モーターサービスが姿を消す。特装車ジャーナリズムの一員としていささかの感慨なきを得ない。われわれは新明和と呼ばず、常に川西の名を以て代表させてきた。川西でなく新明和が自然に口をついて出るようになるのは、なお暫くの時日を要するであろう。
 それほど、特装車業界には川西ブランドが浸透しているのである。その名を捨てるについて、川西側に何の未練、逡巡もなかった、というのはあり得なかった筈である。

 トラック市場の変化は、総需要の停滞の中でのダンプシェアの低下という、いわば二重苦を川西に強いた。この大きなうねりに対し、川西の名を捨てて立つ、いわば背水の陣を布いて、全員の意識革命の上に新生の途を模索する今回の措置となった。ゼロからの栄光ならぬ、スタートを目指しているわけである。

 川西時代のリーダーであった桂芳雄氏は現役を去り、極東開発を創立した宮原勲氏、ある時期の川西の立役者だった麻野隆平氏のふたりは鬼籍に入り、川西ダンプを今日あらしめた五十川澄男専務も、ラインを離れた。筆者の知る川西を築いた人、支えた人は退いて、次の世代の人達に移ってゆく。

 暑かった夏も過ぎようとしている。感傷を捨てて、川西の良き伝統が新明和特装車の中に生かされて、これからも特装車業界をリードすることを祈りたい。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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