みなさん さようなら

2017.08.24 07:25|人に四季あり
今回は、貴重な記録が綴じられた『輸送に生きた五十五年 私の奉公袋』から、まとめとして3つを抜粋しておおくりします。本著は父も校正作業のお手伝いをしたようですが、終戦から72年経つ現在、実体験として戦争について書ける人も校正できる人もごく少なくなりました。
「昭和初年からハンドルを握って運輸業に従事し、トラックの近代化に生涯を捧げた明治生まれの前田さんのような人物が、もう現れないことを考えると、トラックの、ある時代が終わったことを実感させられる…」(2006年10月号 NewTRUCK)
「95歳にもなった前田源吾さんだから、お別れの覚悟はできているはずだったが、日新出版36年の歴史の大きな部分が消えた感がする」(2006年9月号)
と、前田源吾氏のご逝去を嘆いた父でした。(妙)


(第10章 私の信仰   付 私の行)
● 他力本願と自力本願
 私は人に語れぬ苦労をして育った。そうして人では何ともならない中を自ら道を求め、やがては「誠心こそ神の心なり」と一つの理想を自らのものとして心に留めた。
……「花の嵩」は岩が御神体であり、沖の島は島全体が御神体であり、一木一草たりとも手を触れることもできず、島のことを語ることも禁じられている。
……
 門徒である私がなぜ自力本願他宗派のように自ら厳しさを求めることになったのか。他力に頼っていたのでは自分の生命は続かなかった。私は母親の愛を知らないからどうしても我が強かった。現役免除という烙印(らくいん)を押された時に「俺が…」という我があっては自分の体は持たないことを自覚し、我を捨てようなどと思っても仕方ない。果報は寝て待てと半年の静養、ようやく自信を持ちかけたが体力の回復を待たずに応召。後年30歳の大晦日に弱さのために何物かに頼る心があったが、頼るべきは自分だ、人には嘘を言っても自分を偽ることはできない。今日から自分を律し、自力で生きて行こうと決意し自力本願にはっきり替えてからは、一段と物事を厳しく考えるようになった。そして信仰とは何か、極点に立たされた時、うろたえないこと、そうして決断ができること。こうして愛陸3度の危機に際し、常にひらめきと決断ができたのである。

● 修業のまとめ
 父曙次郎の最後は綺麗だった。31歳にして妻を亡くし、3人の子供を抱えて泣くにも涙さえ出なかったことと思う。アイデアに富み、横笛は天下一品。8人姉弟の末っ子、田舎としては気楽に育ったと思うが妻を亡くした父親は末っ子の甘さというものを全然なくしていた。厳しさ一点張りで頭をなぜて貰った覚えは全然ない。ほめられた覚えも全然ない。それだけに父親に対しては反(そ)りが合わなかった。その父も子供を甘やかすことは全然しなかったが、子供に甘えることは知った。女房がよくつとめてくれたので一番親不孝者のところへよく来てくれた。親父の顔を見ると私はやさしい言葉が出ないので、お前が私に替ってつとめてくれと、妻には口グセの様にたのんでいた。昭和46年、88歳の秋2週間ほど私の家に滞在、帰ってからは畑の牛蒡(ごぼう)を掘り、これは兄義雄のところ、これは源吾のところと仕分けして藁でしばり、教太郎さんという隣の老人に託していた。
 床に就いて2週間ぐらい、下の世話になったのが2日。すべてのものの整理をしたが、押入れが苦になるから掃除をしてくれと家内がたのまれた。丸い缶の目張りしたものが出てきたので、これは何かと尋ねたところ、「それは俺の葬式の時に使うお茶が作ってある」と言う。妻とこれにはおどろいた。人はいつまでも生きることしか考えていないのが現在の世相であるが、私もここで初めて親父を見直した。人はこうありたいものだ。修業をして最後の目標は何か「死を前にして心の迷いのないことだ」。昔の人は偉い。老病死は人とし生きとし生けるものとして避け得られないものであることをよく知っていた。必ず辞世の句というものを残している。息絶える直前にはそれだけの行為はできないはず。常に世を去る時の心構というものを句に託していたのではないかと推察する。
 祖母は、昭和3年11月4日に亡くなった。父もその4日までは持つと思っていたが、脈は弱く衰弱が進んだ11月1日に昼ごろ家内が「おじいさん、もうぼつぼつ念仏でも出ないかね」と話しかけたところ、「まだ早い、今日一日は持つ」と答えたが、これが最後で、静かに呼吸をし「誰々が来たよ」と伝えると静かにうなずいていたが言葉は出なかった。午後2時12分、一寸口を開いた。それから兄妹が騒ぎ出したが私は「口を少し開いた時が最後だ」と皆を納得させた。実に立派な大往生だった。葬式は村に例のない程立派な葬儀を出させて頂いた。

 10年後の今日のDIARYの巻頭に
① 息の切れるような仕事をしないこと
② 午前中2時間、午後3時間以上の重労働をしないこと――と書いてあるが、先日も庭木を移し重労働1日15時間働いた。業界に入って御世話になり薫陶(くんとう)を受けた小西与吉さん。そして仲田光三郎さん。中西与一さん等も物故され、一昨年は小笠原冨次郎さんと大将格の方々が次々物故され、一番若かった私が71歳と6ヵ月。いつの間にか年長者になった。ほどほどにしておかないといけない。

まえがき
 私の厳しい人生は、2歳10ヵ月にして母親を失ったことから始まる。祖母むらが背中をなでてくれた以外は、人の愛情を感じたことはなかった。
 父は厳格、8歳のときから大八車の先綱を引かされ、夏の間中、田の草取りを行った。雪の朝も雨の日もひたすら前進あるのみだった。百姓の父親がこれからの運送は自動車だと気がつき、昭和3年の春、28年式のシボレーを買い入れた。そのときから、苦労を共にして育った兄義雄と2人が、自動車の道を踏み出した。
 兄は昭和4年兵、私は昭和7年兵、同じ連隊の同じ中隊に入隊した。私はトラックで鍛えた体、力は中隊一番、自動車の成績は連隊2番だったが、猩紅熱に罹って死線をさまよい、そして伍長のとき現役免除となった。生きる力を全く失った私は、一歩でも前に出て死ぬことを考えた。人生目標を生から死へと置きかえたのは、このときであった。
 そのときから静養期間を含めて2年後に召集令状が来た。よき死に場所を得たりと何一つ未練のない白紙の状態で、奉公袋片手に応召、飛行隊の自動車班長として実務を指揮、そうしてよく勉強した。零下30度の北満の露営、ノモンハン事件のときの111日の天幕生活、やがて中支へ転戦、辛酸に耐え抜いて凱旋した。しかし、戦況は厳しく、輸送も決戦体制に突入、民間戦士としての再度の奉公も空しく、名古屋はもとより国内の主要都市はB29の猛爆にさらされ、焼野原を残して戦争は終結した。
 しかし、一日たりとも休むことができないのが輸送である。国の復興は輸送から……と息つく間もない日常業務にとりくみ、その過程でドッジラインをはじめ数次の経済危機にも見舞われた。加えて大株主から見放され、つぶせとまで言われた愛知陸運を引き受け、高度成長の波に乗って5年間に約5倍の成長を遂げたが、39年には再び危機を迎えた。
 いわゆる激動の昭和の時代に幾度か死に直面し、試練に会い、深刻な経済危機を体験しながら、反面、行き詰まったときには必ず道が開けた。そして、どん底に落ちたときこそ、立ち上がりが早いことを体得し、いやいやながら進まねばならぬ道は必ずあとで、それて行くことを会得した。若いころ、世の中を逆に渡ってやろうと実行しているときに、神仏の御縁に会ったことは、私の人生に厳しさの中にも潤いをもたらした。窮地に立ち、極点に追い詰められたときは必ずひらめきを感じ、決断できた。
 例えば、「満鉄」からの卸下作業など人間業(わざ)では不可能なことを常に神仏に導かれて、実現することができた。さらに、平時、戦時を問わず、55年間を車と共にすごしたことは、自分の生き甲斐であった。私は学歴とは無縁の人間だった。その代り、現実の経験を積み、これを記録して自分の身につけるため、1,000冊近いメモ、記録、ノート、ファイルの中に埋もれてきた。
 自動車を愛し、自動車に愛され、水呑(みずのみ)百姓の次男坊が今日このようにして社会奉仕ができることは、神仏の加護と、私をとり巻く多くの人々のご支援の賜と感謝にたえません。
 拙(つたな)い人生ではありましたが、打たれても踏まれても、はい上がり立ち上り七転八起の生きざまを印したく、書かねばならぬと思い続けて数年がすぎ、書き始めてから脱稿するまでに3年有余をついやしました。かつては人生の目標を死と定めた者が、一念発起、「輸送に生きた55年 私の奉公袋」として生き続けた足跡を綴る結果となり、恥ずかしさひとしおの感がありますが、あえて皆さまのご高覧・ご高評を戴きたく存じます。
(昭和58年7月3日)


あとがき

 かつて行を共にした軍隊現役時代の飛一会では174名が戦病死、八日会では岡部戦隊長以下668名が戦死(編成時680名)、応召され死を決した時から私の第二の人生が始まった。
 死を決したら死すべきだ。生きて記録など書いていることはナンセンスだ。しかし戦友の分まで、我々が国のため社会のために尽くさねば…というのが戦友会の心意気だ。毎年一同、靖国神社に昇殿参拝を行い、亡き戦友の冥福を祈り、自らの姿勢を正し、命ある限りは社会に奉仕を続けて行く。
 瞑目して過去を振り返れば、加藤三郎先生、今は亡き相場信次先生、徳永中隊長殿、片山大尉殿、小沢軍医殿、伊藤隊長殿、加藤曹長殿、小西与吉氏、仲田光三郎氏、小笠原冨次郎氏、中西与一氏と…、多くの方々の面影が目に浮ぶ。
 そして、60余の公役職に毎日東奔西走しているが、あと残された仕事は以下の二つにしぼられる。
① 業界は永年近代化を進めて来たが、いよいよ最後の仕上げ、総合型構造改善事業の達成と全国ネットワークシステムの完成へ。
② 車両の大型化とトレーラ化、20余年の取り組みに基づき運政審答申の実現を期し、省エネ・低公害適法輸送体制の確立へ。
 この二つの事項を重点として、私の最後の仕事としたい。字数にして50万余字、400頁余、永年の懸案であった脱稿を前に、昨日は田舎の畑に行ってファイル記録360冊、約半分近くを焼却、思い出の1頁毎を自らの手で焼葬した。
 仕事の重点目標を前記の二つにしぼることにより、運輸事業助成交付金等課題難問が多い中でも過去の厳しさは少しずつ忘却していかなければいけない。
 それにしても、資料が多過ぎ、1行書くためにも資料の山を掘り返し、行きつ戻りつした。70年の事実を一文に表すことは、我々文盲に等しい者には不可能なこと。今になって読み返してみれば、過ぎ去った事実を、そのまま記録したに過ぎない。書くことは私どもには苦手だ。それでも書き終われば、肩の重荷がおりるような気がする。
 私の人生は余りにも厳しすぎた。それでもよくこれまで耐え抜いたものだと我ながら感心する。余生は信仰と自然を共に、自己の個性のままに最後の緞帳(どんちょう)を静かにおろしたいものである。
 資料を提供して戴きました八日会の花輪久夫さん、ノモンハン会の堀田堅一さん、編集、その他格別の御高配を頂いた大宝運輸(株)二世小笠原和俊氏、輸送経済新聞社の皆様方に感謝申し上げると共に、天に地に、神仏に、国に、人に感謝を捧げて稿を閉じる。
(昭57.8.19 本文脱稿)

 
スポンサーサイト

みなさん さようなら

2017.08.21 06:00|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 9月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑪

大きな成果を挙げた
訪米による研究課題

──(増田) アメリカ視察の課題のうちタコグラフですが、帰国後間もなくの昭和37年には路線車両には取り付けが義務付けされていますね。
前田 現在では常識になっているが、運送中にドライバーがどういう行動をしているかについて、以前は全然わからなかった。
 戦後まもなく、愛知貨物にいた林五郎蔵という人がドライブゲージというものを開発したが故障が多くて使い物にならなかった。
 昭和34年になって、運輸省から東海道路線の運転手の疲労度調査の委嘱が当社にあり、たまたまドイツのキンツレーと矢崎計器との技術提携でタコグラフが開発されたので、当社でテストしました。
 アメリカの州際輸送の事故発生率は10万マイルに2分の1件、つまり32万キロに1件で、当時のわが社の1件あたり5万3千キロのほぼ6分の1、タコグラフの装着でアメリカの事故率は40%減少したという話であった。
 帰国後の日ト協車両資材委員会での報告を聞いた運輸省の宮田車両課長さんが熱心にタコグラフの取材法制化に取り組んで、37年に路線やダンプで実現、事故防止に大きな役割を果たしました。
 ただ、現在では事故を起こした時などに警察に資料として提出するというような使われ方をしているが、コンピュータに連動して給料計算やその他にもっと活用する方法があるのではないかと思う。
―― ダブルストレーラについてはちょっと問題が大きいので後でお聞きします。
 車体の軽量化は、昭和38年の日本フルハーフの設立などでアルミバンの導入があったりして、かなり早く実現しますね。
前田 当時はまだ木製ボデーが多くて、8t車といっても積載量1tに対して自重0.95tという有様で、アメリカのバントレーラの場合は総重量に対する自重は約3分の1だった。
 自重を軽くすることは経済、機能、安全上最も重要なので、車両資材委員会で日ト協A型ボデーの規格を決めて業者大会に展示したし、引き続いてB型、C型ボデーまで開発したんだが、日本フルハーフ、日本トレールモービルなどが出来てアメリカ技術導入の本格的なアルミボデーが国産され出して研究を打ち切りました。
 中途で終わったが、我々のボデー開発がその後の軽量ボデーの普及の大きな引き金になったのは事実です。
―― エンジン寿命と保安部品の命数のところで、当時の日本のディーゼルエンジンは5万から10万キロに延長されている過程なのに、アメリカでは35万マイル、58万キロも持つといわれて驚いたと書いておられます。そんなに差があったものですか。
前田 当時はまだ舗装道路が少なくて砂を吸い込んだり、ガタガタ道だったり、それに過積という過酷な使い方がエンジンや部品の寿命を短くしたのも事実ですが、技術的にはやはり遅れていた。
 わが社でも部品の総点検をやって、車両資材委員会に持ち出したり、メーカーに要望書を出したり、根気強い活動をした。
 その時分に乗用車ではいわゆる欠陥車問題が出たりしたが、トラックではそれがなかった。決して完全とはいえない車を、我々のユーザーテストで改良しながら、現在のアメリカ車を凌ぐエンジンや部品を作り上げていった。
 ターミナル問題も、我々の調査結果を盛り込んだ施設があちらこちらで作られ、共用、企業用とも世界に比類のない発展を遂げています。
 アメリカ視察による研究課題は、殆どが我々の予想以上に達成され実現した。エンジンでも10倍も持つようになったし、トラブルは殆どなくなった。

官民挙げての取組みが
夢は捨てないダブルス

──  20年前、私がこの本を手がけて初めて取材したのが前田さんで、ダブルストレーラのお話を、もうクシャクシャになった図面を広げて熱心に説明して戴いたのを昨日のことのように思い出します。
前田 あの当時は官も民も一所懸命に取り組んだ。アメリカでの体験から、ダブルスこそ最適の車体形態だと判断して準備を進めていた時に、昭和43年の車両資材委員会の席上、運輸省の影山久車両課長さんから、「とやかく言ってるより、先ず作って動かしてみましょうや」と発言があり、連結車両懇談会から試作運行委員会へ発展、私が委員長を仰せつかった。
―― 文字通り官民挙げての組織で、私の存じ上げた方も随分参加しておられました。その中で車体工業会の野寺(哲二郎)さん、日本フルハーフの山下(哲也)さん、東急車輛の柳(茂)さんのように亡くなられた方もあります。
 運輸省、建設省、警察庁、日本道路公団から各団体、メーカー・ユーザー企業を網羅した空前の組織が、文字通り試作車のテスト運航に終わってしまった原因は何ですか。
前田 昭和46年からテスト運航に入って1000万キロ無事故走行を果たして、技術的には何ら問題のないことが立証されました。
 ダブルスのモデルになったのはシーランドの24フィートのコンテナです。これが当時の8t車のバンボデーにほぼ匹敵したのでその寸法にした。ところが8t車から10t車、11t車になりセミトレーラ、フルトレーラも出てきて、8t2両のダブルスの大量輸送のメリットが必ずしも強調できなくなり、10t2両の研究開発も実施しました。
 しかし官の方も、ともかくやってみましょう、というような積極的な姿勢は見られなくなって及び腰だし、企業の方でも何としてもという気迫にかけてきた。
―― 一般運航をするには車両規制の法的問題も出てくるので、いささかサジを投げたところもあるような気がしますね。官側のカベの熱いことはよく承知しています。
前田 コンテナ輸送が普遍化するんなら、それに足をつけただけのものだし、合理的なシステムだと思う。これからますます長距離の運転手が不足するのは確実で、大量で効率輸送できるダブルスが陽(ひ)の目を見る時代は必ず来る。夢は決して捨ててはおらん。
―― ご一緒に見学した宇部興産では私有道路ですが、ダブルスよりさらに進んだトリプルス運行で効率を上げています。
 高速道路がもっと普及して労働力問題が深刻化すれば、必ず見直されるシステムでしょう。

悲願の総重量見直し
実現を阻む多くの壁

―― 前田さんは車両技術の部門だけでなく、昭和42年からは愛知県トラック協会副会長、51年からは愛ト協会長のほか全日本トラック協会の副会長として、車両技術とは別の高い次元の問題に取り組んでこられていますが、余りにも範囲が広いので、とてもいちいち取り上げることはできません。
 そこで現在最も大きな課題であり、本誌とも密接な関係にあるいわゆる「車両の大型化」つまり20t総重量の見直し問題に焦点を当ててお聞きすることにします。
 昭和56年に運輸政策審議会の答申で、トラックのトレーラ化促進と車両総重量規制を20tから25t程度まで緩和することについて検討するよう提言があって、私などはいよいよ実現かと期待したのですが、ああだこうだと役所や関係者で協議している間に慎重姿勢が目立ってきましたね。
前田 荷主さんの団体である経済団体の方からのご要望も強いし、トラック業者からも実現を望む声は高いのですが、関係各省庁の意見の一本化ができず、昨年3月に全ト協が発行した「トラック輸送合理化に関する研究報告書」でも各委員の意見の併記の形に留まっています。
 何も世界の最先端を突っ走ろうというのではなくて、30年ほど前のレベルに日本の車両総重量を持ってゆこうとしているだけなんだが、慎重意見が強くて前進が見られないのは残念です。
―― エリート官僚というのは僅かな年数でポストを移ってゆきますから、問題のありそうな課題についてはどうしても及び腰になって、問題を先送りにし勝ちです。
 やはり強力な政治力というものが必要でしょうか。
前田 関係の国会議員の先生方にもお願いしようということにはなっているんだが。
 ダブルスにしても、総重量見直しにしても、一所懸命に取り組んできたが、ここにきて何か力の限界というかむなしいような気持ちに襲われることもある。
―― そのお気持ちよく分かります。
 しかし、前田さんは病魔にも会社のピンチにも見事に対応して克服するだけの強い意志力をお持ちです。単なる夢ではなくて、理想は必ず実現するという強い信念に支えられてこれ迄やってこられたと思いますね。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.08.17 04:37|人に四季あり
前回はアップをお休みしてしまい、失礼しました。キーボード不調のため、別のキーボードをつけて入力。
Windows10バージョンアップしたら、今まで使っていた「ジャストホーム」が使えなくなり、「ペイント」でサイズ変更だけして、今回は1枚写真掲載しました。「Photoshop Elements15」を入れましたが、画面のガイドだけでは素人には分かりにくい。カタカナ用語にも苦労、ということでガイドブックを購入、これから少しずつトライしていきます。(妙)


1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 9月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑩

定額の仲田を上廻る 
業界活動のめりこみ

――(増田) これ迄5回にわたって前田さんのトラック人生のお話を聞いてきました。現在はトラック事業者というより、全ト協副会長はじめ業界団体や地域社会の奉仕者として、献身しておられる。
 さらに車両規制の見直しなどトラック輸送の効率化の目標を掲げて、終始そのリーダーでした。
 私も随分沢山の方々とのお付き合いがありますが、前田さんの様な人は例がない。
 何が前田さんをそういう方向に引っ張っていったんでしょう。
前田 私が勤務していた愛知陸運の仲田光三郎社長は、昭和23年に結成された愛知県貨物自動車協会の会長に就任してから、トラック運賃の定額現金払いの実現に奔走して、「定額の仲田か仲田の定額か」と言われたものです。そのために親会社から睨(にら)まれもした。
 その仲田さんのカバン持ちをしていて、なんでこれほど熱を入れるのかと思ったものですが、気がついてみたら、こっちの方がよっぽど上だ。(笑)
―― 仲田さんの感化ですかね。
前田 30年余りもトラックで働いたんだから、50になったらきれいさっぱり足を洗ってと考えたこともありますが、現実は正反対で。
―― 前田さんで感心するのは、実に克明に資料やメモを保存しておられることです。「輸送に生きた五十五年」のご本はその資料やメモの積み重ねで、貴重なものです。
 実際にトラックに乗って、エンジンや部品、燃費の正確なデータを取っておられる。トラックに乗る人は随分沢山いたと思うんですが、前田さんのようにずっと記録を取っていった例はないでしょう。そのことが、全ト協の車両資材委員会委員長として活躍される素地になっていると思うんですが。
前田 愛知陸運は鉄道省、後の運輸省が指定した全国6社の1社としていろいろなデータの提出が義務づけられていて、それが終わった後もデータはよく取っていた。このデータは運輸行政の上にいろいろお役に立った筈です。
―― 個人と会社の双方のデータ作りで前田さんの中に、トラックの技術や運航について確固とした信念を築いていったと思います。
前田 その信念に基づいて30年近くやってきたんだが、目標にはなかなか到達せんうちに、こちらの蝋燭の灯が消えかかってきた。目の黒い間に何とか、と思うんだが。

驚き連続アメリカ視察
隔世の感日米30年の昔

ロサンゼルスで S35
          後列左2人目から 野坂、綿貫、田口、梶本、中西、川中、保志、野村の各氏
          前列左2人目から 落合、大橋、前田、京極の各氏 (昭和35年3月 ロサンゼルスで)

―― 前田さんの公職の最初は昭和33年、愛知陸運の専務当時に日本トラック協会(全ト協の前身)の車両資材委員会の副委員長就任で、35年の2月にアメリカ視察をされたことが、トレーラ問題などに打ち込むきっかけになったと思います。
前田 日本生産性本部から派遣された道路輸送専門視察団の一員として参加しました。団長は田口利八西濃運輸社長で12名の参加者のうち、田口さんはじめ7名の方が亡くなられて存命は5名、淋しくなった。
―― まだ海外渡航は制限を受けていた時代で、1ドル360円の固定レート、見るもの聞くもの全てビックリしたでしょう。
前田 当時の日本はまだ8トン車時代、高速道路はやっと名神高速が工事に入っていたくらい。それがアメリカでは高速道路が四通八達して、トレーラが走り、トラックターミナルが整備されている。フレームのないトレーラにも驚いた。フレームは背骨のようなもので、折れたり曲がったり困ったものだが、そのフレームがない。
 私は車両技術の担当ということで、田口団長のはからいにより各訪問先では30分間の優先質問時間を取って貰って、いい勉強になりました。
 この時に持って帰った課題が次の5つです。

① タコグラフによる運行管理と事故防止対策、
② ダブルストレーラ
③ 車体の軽量化
④ エンジン寿命と保安部品の命数
⑤ ターミナルの構造

で、この時の視察の見聞をまとめた「アメリカのトラック輸送」という180ページの本を翌年に輸送経済新聞社から出した。学校出でもないのに、この時に本を書いたのは私だけです。
―― 田口さんが序文を書いている本ですね。アメリカの事情もよく把握しておられて、日本の当時の自動車輸送の状態もよく分かる貴重な資料です。国道1号線の全面舗装も近いとか、アメリカのトラックは50万キロも持つのに日本ではその3分の1の寿命しかない、と今から見ると隔世の感があります。
 田口さんは序文で前田さんのことを、技術屋ではないが優れたエンジニアの素質が多分にあり、他の団員のカメラが故障した時には一手に引き受けて修理して、さながら写真技師の感があった、と書いておられます。
前田 田口さんは惜しいことをした。お元気でおられたら全ト協も日本のトラック業界ももう少し変わっていたと思う。
―― 「アメリカのトラック輸送」を読みますと、30年前のアメリカと現在とでは大して変わっていないように見えます。自動車も道路も。
前田 アメリカでの自動車輸送は30年前にはほぼ成熟の段階に達していて、それから向上しようという努力が余り見られなかった。
 日本の方はまだ黎明期で、物凄いスピードでアメリカに迫っていったということでしょう。
 アメリカで4層もの高速道路があってビックリしたが、それから僅か4年後の東京オリンピックの年には新幹線や名神高速道路が開通、都内にも高速道路ができた。
 ある人が日本の高速道路は5層ある、上3層が自動車で、その下に川があり、さらにその下には地下鉄が走っている、と笑っていた。
―― 前田さん一行がアメリカに行かれた昭和35年は安保反対の国会デモ、岸首相退陣と池田内閣誕生、浅沼社会党委員長刺殺という大事件が続いて、日本の運命を決定するような大変な年でした。
 貧乏人は麦を食え、と言って問題を起こした池田さんが登場して「所得倍増計画」を景気よくぶち上げて、多少の波はありながらも日本が高成長路線に移る転換の年であったような気がします。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.08.14 03:38|未分類
お詫び
折角のお盆休み、このブログを開いて下さった方々には誠に申し訳ありません。
PCのキーボードの具合が悪く、入力作業がはかどりません。

木曜日には続きをアップの予定ですので、またご覧いただければ幸いです。(妙)



みなさん さようなら

2017.08.10 06:06|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 8月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑨

地獄絵図のやりくり算段
悪夢のような昭和29年

――(増田) 朝鮮動乱という川向こうの火事で潤った日本経済も、動乱が治まると火の消えた様になって再び不況になります。この時に、愛陸の仲田社長が定額現払いを強く主張してその実現に奔走されたことは特筆すべき事柄ですね。
前田 「定額の仲田か仲田の定額か」と言われるほど徹底してその実現に打ち込んだ。この問題は現在でも大きな課題で、その完全実施にかけた意欲には頭が下がる。
 仲田さんは愛知県貨物自動車協会の会長という立場で奔走されたのですが、愛陸そのものの業績は必ずしも良くない時期に業界の為に努力したことについては、親会社からも時に忠告されていた程です。
 もし、あの当時の業界に仲田さん程熱心な方が数名おられたら、その後の高度成長期を後盾にして業界の地位向上と安定成長が図れたものだと残念です。
―― 昭和28年から29年にかけての業界は倒産したり、吸収合併されたり大変な試練の時期を迎えます。愛陸も例外ではなく、給料の遅配や高利の金の借用など、倒産寸前のようなところまで行っていますね。ビール会社がバックについていながら、どうしてそんなところ迄追い詰められたのですか。
前田 ひたすら安全に欠損を出さないようにという消極姿勢で、必要な時に資金の投入ができなかった。ビール会社から来た重役も一緒に、東京のビール本社へ行って事情説明してもなかなかラチがあかない。その間にも状況は一層悪化して、金融機関、ディーラー、燃料資材方面などあらゆる手を打ったし、40余両の車両減車、104人の人員整理を含む荒療治も断行した。
 私自身もありとあらゆるツテを頼って、10万、20万の金策に走って私の責任で借用した金は1200万円に達した。これは当時の運賃収入のほぼ半月分です。
 そうこうしているうちに、ある生命保険会社からの融資も決定、地獄のようだった昭和29年を乗り切りました。
 ビール会社の方には仲田社長に対する不信感もあったようで、年末に辞任された。
 仲田社長には当初、小西の残党として睨まれたが、是非の判断と人物評価は厳正であり、人や業界の面倒もよく見た人です。第二次集約会社の形で13年間持ちこたえたのは仲田さんの功績であり、私にとっても34歳で重役に登用して戴いた大恩人です。

なぜそこ迄の義理立て
人間前田の良さと限界

―― ビール会社からは不渡りを出してもかまわぬ、とまで言われたのでしょう。オーナーでもないのに、個人的に金策までして愛陸を支えることはなかったんじゃないですか。前田さんはまだまだ若かったんだし、キャリアも十分、私なら潰れるものは潰れるに任せて、独立しますね。結果がどうなるかは別ですが。
前田 小西のオヤジ(与吉氏)もあんたと同じようなことを言うた。
 首吊りを見た時には、早く楽にしてやろうと足を引っ張るようでないと事業は成功せん、とも言われるが、私についてきてくれた人達を一時的にせよ見殺しにして、外に出ることはとても出来ない。
―― その点が前田さんの本当にいいところですが、事業家としてみると、ある限界を自分で設定しているような感じも受けますね。
 思い切って飛び出して、事業的に大成功していれば、業界の世話役として滅私奉公している前田さんの現在はなかったかも知れないし、前田さんの人生観は別のものになっていた可能性もありますね。
前田 地位も金も何もかも捨てて丸裸になってしまうことはなかなか難しい。オヤジから多少のものを分けて貰っているし、生まれ故郷の近くに住んでいると、みっともないことはできない。
―― たしかにそうですね。私は親父から貰ったのは借金くらい、土佐から遠く東京に離れますと、知ったのは誰もいません。
 おまけに40歳過ぎまで地位も金も何もない、これ以上悪くなったら一家心中という状態で東京へ出たのですから何をやっても恥ずかしくない、人が軽蔑する業界紙でも何でも、ということです。
前田 失うものが何もない、というのは強い。
―― 好き好んでなったわけじゃなく、要するに甲斐性がなかっただけのことです。それでも、社員や身内が増えてきますと、あまり身勝手もできず、安全を考えるようになりましたね。

逸した合同のチャンス
条件付きで愛陸社長に

―― 昭和29年の危機は一応回避して30年から35年頃までは比較的順調に愛陸は伸びているようですね。
前田 減車して30年には135台にまで落とした車両も35年末には439台に増加しているし、30年を基準年とすると、35年には路線部門はほぼ5倍になっています。
 この間、仲田さんの後に社長に就任した並木さんは就任後僅か半年で急死された。初代の飯田社長は着任半年で死亡、並木さんの後の馬場社長も半年目に乗用車が市電と正面衝突して血だるまの大怪我、同日に奥さんの母堂が亡くなって、身替わりになったのだろうと言われた。私も社長になってから暫くは、塩を撒いて出勤したものです。
 愛陸の業績も急上昇して、世間の評価も高くなり蘇東運輸と半田通運と愛陸の三社合同論が持ち出されたことがある。最後の段階になって馬場社長が尻込みして、蘇東と半通が合併、以後は名鉄運輸として発展することになった。
―― 惜しかったですね。もし三社合同が実現していれば愛知の路線の地図は変わっていたのは確実でしょう。どうも肝心の時に、親会社の意向とかで、チャンスを逃しています。
前田 馬場さんは五高で池田勇人元首相と同期、東大出の方だった。親会社の「あまり大きくするな、損は出さないように」という消極姿勢を反映して、資本の蓄積も充分できないうちに、36年の末あたりからまた業績低下に見舞われることになった。
 私としては増資の必要性を感じて、それなりの手は打ったつもりだが、親会社の意向で打ち切りとなり、その間に事情は悪化、39年にはビール輸送部門と路線を分離して名古屋サッポロ運輸の社長には馬場愛陸前社長、愛陸社長には私が就任した。
 金はこれ以上出さない、増資はいけないという条件づきの社長で。

30年式典はお葬式に
トヨタへの軟着陸を

―― 前田さんにとってひとつのチャンスだったと思いますが、従業員を放り出すことはできなかったお気持ちもよくわかります。
 株主でもあり、大手荷主でもあるトヨタへ大きく接近することになりますが。
前田 その頃はトヨタ社内でも輸送効率向上をめぐって論議があったし、ビール会社の意向もあってトヨタに全面的に支援の申し入れもできない状況の板挟みの中で苦心しました。47年には従来の千早町の本社から小牧のターミナルに本社を移した。
―― 私が前田さんに初めてお会いしたのが44年の末ですから、まだ千早町の頃でしょう。
 47年の8月には盛大な30周年式典をホテル・ナゴヤキャッスルで開催していますね。
前田 これが心血を注いだ30年の愛陸でのお葬式で、10月には退任を申し渡されました。そのあと、愛陸はますますトヨタへの傾斜を深めて50年にはトヨタの完全系列に入った。
―― ビール会社のご都合主義と消極姿勢に翻弄されたような前田さんですが、ビールからトヨタへ、愛陸という第二次集約の名門会社を軟着陸させた功績は大きいと思います。
 前田さんには事業人生のほかに車両の効率化や業界の世話役としての大きな活躍がありますし、豊かな信仰と精神生活がある。次回以降にお伺いします。
(つづく)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ