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みなさん さようなら

2019.06.24 07:44|「幽冥録」
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」6月号 「幽冥録」

兼松エンジニアリングの再建を果たし
新たな飛躍への布石を終えて

山本健社長還暦の死

 5月10日の夜のこと、高知県中村市に住む私の妹から訃報がもたらされた。5月10日午前10時48分、病気療養中の山本健氏が逝去したという。山本社長が妹の勤務する養護施設に温かい援護の手を差し伸べて戴いたことは、妹からも聞かされていた。
 翌11日、出社すると、社葬を13日午前11時から執り行うとの葬儀委員長大谷昌永同社専務からのFAXが入っていた。
 山本社長と最後にお会いしたのはちょうど3年前の昭和62年4月18日のことで、この日は故人にとって恐らく人生最良の日であったと思われる。

 兼松エンジニアリングは、パイオニア企業の多くがそうであるように、強力吸引車の開発に伴う苦難の時代が続いていた。わが郷土唯一の特装メーカーとして、その順調な発展を願う気持ちの強かったのは当然であったが、事態はなかなか改善されなかった。
 その兼松エンジニアリングの再建の切り札として昭和52年に登場したのが鉄鋼商社の常務であった山本健社長で、持ち前のファイトと経営感覚、さらに厚い人脈や企業の後援によって同社の業績は好転していった。

 山本社長の10年の努力が実って、工場ともいえないほどの南国市岡豊(おこう)町の旧工場から、高知市布師田(ぬのしだ)にある高知機械工業団地の一画に建設された近代的な工場に移ったのは昭和62年4月のことで、その18日に完成披露パーティがあった。
 新装なった新工場の前には10数台の新鋭車両がズラリと展示され、神事のあと、土佐でよく行われる屋上からの餅まき行事などがあり、市内から中心部の“はりまや橋"の国際ホテルで、華やかなパーティが300名を越す来場者を迎えて開催された。

 血色のいい顔をさらに紅潮させて、山本社長は15年に及ぶ苦難の歴史を語った。その人生で最も感激の時であったに違いない故人の表情は今も鮮やかに私の瞼にあり、その力強い語り口は耳に残っている。

 それから3年、相対した山本社長は柩の中に横たわっていた。4ヵ月に及ぶ闘病の跡の面(おもて)は最後に会った、あの紅潮した顔とは余りにも遠く、溢れ出る涙を止めることができなかった。
 山本社長が体の不調を訴えたのは昨年末のことであったらしい。血液のガンともいうべき悪性リンパ腫という難病に冒されながら、持ち前のファイトで闘病生活を送ったと聞く。

 会社のより発展を目指して、工場と事務所の拡張を自ら師事しながら、その工事の進捗ぶりを遂に見ることなく、葬儀を前にした遺体が工場に別れを告げた。
 山本社長は典型的な土佐の男であった。数年前に見た朝のNHKドラマは土佐をテーマにしており、中村梅之助扮するオヤジが余りにも山本社長に似ていて、驚いたことがある。

 昭和5年生まれ、還暦の故人は私より4歳も若かった。経営者としての60歳は油の乗り切った年齢であり、まだまだやりたいことも多かったに違いない。さらに、激しい事業人生の後に迎えるべき老後の夢もあったであろう。
 企業を興すことは容易ではないが、企業を再建するのは更に難しい。その難事を成し遂げた山本社長は、土佐の男の一生として見事に完結したものであった。謹んで応生院健徳隆観居士のご冥福をお祈りする。


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みなさん さようなら

2019.06.20 09:19|コラム・巻頭・社説・社告
1986年(S61)月刊「NewTRUCK」 6月号
月旦短言

ベンチャービジネスで挫折の戦士達

 月刊誌「プレジデント」5月号の「ベンチャーの挫折」という特集記事の中に、大日機工というロボットメーカーの話が載っていた。「とらっく人国記」で山梨県を訪ねたとき、甲西工業団地の同社の堂々とした外観を見て、ロボット企業とは急成長するものだなァと思ったものである。
 ところが、その外観とは裏腹に昨年から経営危機が表面化して、第一生命が救済に乗り出し、創業者でありオーナーの河野敏旺氏は会長に就任するとはいうものの、実質的には棚上げされ、今後は研究開発会社の経営に専念するという。

 昭和15年生まれ、23歳の時に新機工業という機械設計会社を設立、最盛時には従業員40名月商200万円に達した同社は昭和42年に3,000万円の負債を抱えて倒産、その借金を返済して4年後の46年には大日機工を。創立時の資本金は150万円、従業員15人だった。

 マテハンからロボットへ「ロボット業界の風雲児」「ベンチャーの雄」としてマスコミにも華々しく登場、60年1月期には年商90億円、5年間に10倍という急成長である。
 しかし、設備投資の過大、人件費の膨張、補佐役の不在などが絡み合って一転して経営危機に陥り、河野社長の退陣となる。
 さらにこの号には日本背ミックの倒産記事も載せている。こちらは、大日機工と違って、ドロドロとした経営者間の争いが描かれる。

 これらの記事を読んであれこれ考えさせられた。先ず大日機工河野社長は前述のとおり昭和15年生まれ、日本セラミックの真田幸雄社長は昭和11年、いずれも鹿児島県出身であり、両者ともそれ迄に事業経営に失敗しているという共通点がある。真田社長が郷里の鹿児島から上京したのが昭和53年、翌年には協力者と共に日本セラミックを設立しているが、その協力者とのあつれきが経営破綻を招いた。

 現代には夢がなくなった、といわれる。しかし、この人達はベンチャービジネスの世界に男の夢を実現させた。再度したかもしれないが、彼等はまだ若い。三たび、新しい事業に挑戦するだろう。

 筆者がこの雑誌に取り組んだのは昭和45年、会社組織にしたのが54年、大日機工と日本セラミックの設立にほぼ一致する。この両者に較べて、その歩みのなんと遅々としていることか、と嘆かざるを得ない。
 自らを弁護すれば、年齢的に彼等よりかなり上であること、基盤にしているトラック車体業界が既に成熟の様相を呈していることなどが理由として挙げられよう。
 それでも失敗はもうこりごりという気はする。還暦という年で、一から出直すことは精神的、肉体的にかなりきついに違いない。大きな発展性は見込めなくても、現状で以て満足すべきであろうか。



みなさん さようなら

いつもこのブログ欄に来て下さり、まことに有難うございます。(妙)
昨年暮れから、特に中国朝鮮問題が大きく動いて現在も大変な状況になってきました。
ここ数日は香港のデモ参加者が100万人、200万人と報道されて、新唐人テレビでは道路を埋め尽くす人の波が映し出されています。
私はテレビ(地上波)ではなくPCのネットで毎日ニュースを見ています。ほぼ毎日視聴するサイトは以下のようなところです、皆様はいかがでしょうか?

●  妙佛 DEEP MAX
https://www.youtube.com/channel/UCLC5...

● DHCテレビ 【虎ノ門ニュース】
  MC 米粒写経(こめつぶしゃきょう)居島一平

虎ノ門から、政治・経済・社会を斬りつける!!
憂国の志士たちが日替わりで繰り広げる生放送のデイリーニュースショー!
この番組は地上波テレビっぽい、いわゆる「事前の段取ごと」は基本いたしません。
なので、ニュース選びも出演者打ち合わせもすべてダダ漏れ感覚でお送りします。
そのため、司会者やパネラーがスタジオ入りするのも放送直前!
そこからこの日の番組をどう作っていくのか?何にこだわって語るのか?
番組作りの舞台裏もお楽しみください!

●  NTDTVJP
【新唐人NTDTV=米NYに本部を置く中国語衛星放送。中国&国際ニュースを独自の視点でお届けしますhttps://www.ntdtv.jp/】

● WWUK TV
 トランプ大統領が日本海と発言!あの国は東海併記を再強調(反応和訳) ほか

※ 時々見るのは
● みちのく壁新聞

● 世界が賞賛する日本

● 葬儀葬式ch有限会社佐藤葬祭

● 世界は今  JETRO Global Eye



2004年(H16)6月12日 ホームページ論語<第58回>

90歳を越えた父親の
息子を案じる長文の手紙


 地中海の旅から帰国したら、どっさり雑誌類や手紙などが、郵便受け一杯に詰まっていた。新聞は留守をするからまとめて帰国当日に配達するように言っていたからよいようなものだが、その中に分厚い封書があって、しばらく暗澹とした気持ちにさせられていた。

 Yさんという90歳を越えた男性の方からのものであった。東京に出て出版編集の会社を経営している50歳代半ばの息子が、出版不況の折から事務所も縮小して苦労しているようだ、一度会ってくれないかという相談である。

 いわゆる編集プロダクションを経営しているらしいが、出版不況の波をまともに受けているのがこの分野で仕事はめっきり減って、請負価格も下げられっ放しの状態である。昨年亡くなった奥さんが、非常に心配してコメなども送っていたとご本人から聞いていたが、実に切々とした子を思う親の愛情に訴えた長文の手紙であった。

 論語に「父母は唯その疾(やまい)をこれ憂う。」(為成第2)という章がある。ある身分の高い人の長男が、孝について孔子に質問した時の「父母は子供の病気だけを心配する者ですから健康に気をおつけ下さい」と答えたという簡単な分かりやすいところである。おそらく質問した孟武伯という若者は、欠点のない人だったが、病気がちで両親に心配をかけていたのだろう。病気さえしなければそれで立派な孝行なのですよ、と孔子は言った。

 私自身は、幼時は病気がちで父母に心配をかけ、長じては脱サラして出版業界に乗りだし、妻子を養いかねる状況に追い込まれるという肉体的病以上の心配を父母にかけた。心配をかけていることを知りながら、出版に賭けた夢は捨てきれなかったのである。

 なにしろ、東京でのスタートが43歳と遅かった。編集の下請けのような仕事なら高度成長の時代でもあったし、それなりに食べるだけのことはできただろうが、脱サラ後、大阪で小さな広告代理店を経営して下請けの悲哀を嫌と言うほど味わった私は、定期刊行物の出版元になる以外の道は考えられなかった。しかし、これは最も厳しいコースで、形が付くまでひたすら父母の存命を祈るだけの状態が10年ほど続いた。やっと目鼻がつきかけた創業7年目に母が71歳で、個人企業から会社組織に改めた10年後に父が78歳で死亡した。以来、朝夕読経をして、身分不相応とも思える墓も建てたが、「孝行したい時に親はなし」の風樹の嘆きを持ち続けて現在に至っている。

 Y氏の長文の手紙は、私とまったく同じ心配をかけている息子を案じている。私にできることはないだろうが、近く息子さんに会って話だけでも聞いて上げようと思っている。



みなさん さようなら

2019.06.13 06:00|「周作閑話」
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 5月号 周作閑話

すみだ川

 現在の住まいの行徳は、江戸時代から明治の初めまでお江戸日本橋との間に「行徳舟」と呼ばれる定期船が往来していた。日本橋の近くにはその発着場所だった行徳河岸(かし)が地名として最近まで残っていた。
 行徳と日本橋を一直線に結ぶのが地下鉄東西線で、ディズニーランドのある浦安、かつて大根などの野菜の産地だった葛西(かさい)、下町の木場、深川不動の門前仲町を経て茅場町、日本橋、大手町の東京の中心地に入り、靖国神社のある九段下、堀部安兵衛仇討ちの高田馬場を過ぎ、中野に達する。文字どおり大東京を東西に貫く大幹線である。

 行徳で東西線に乗車して日本橋に向かうと浦安を出てすぐ江戸川を渡り、西葛西(にしかさい)から広い荒川(放水路)を通過して間もなく本当の地下鉄になり、門前仲町(もんぜんなかちょう)と茅場町の間で隅田川の下を潜り抜ける。
 江戸川、荒川、隅田川は江戸から東京にかけて非常に重要な役割を果たした河川で、これほど人工的に手の加えられた川も珍しいのではないだろうか。

 徳川家康の入るまでの関東平野の河川や湖沼は殆ど自然のままに放置されていた。洪水の度に膨大な土砂が上流から運ばれ、流路は変わって沼沢池が出来る。
 現在は房総の銚子から太平洋へ注いでいる利根川の、もとの流れの名残りが江戸川であった。江戸時代初期に、江戸を洪水から救うことと舟運の便を目的にして、利根川を東に流す大改修工事を断行した。関ヶ原の戦いの前の永禄3年(1594)から承応3年(1654)までの60年間、関東郡代伊奈忠次、忠治、忠勝三代かけて行われた。

 この江戸川は明治の中期までは利根川とも呼ばれていたそうで、現在は江戸川の放水路も東側に出来ている。
 利根川の東流が江戸時代の大工事であったのに対して明治、大正、昭和三代にわたる大河川改修事業は、荒川放水路の開削であった。明治44年から昭和5年までの20年にかけて長さ約22キロ、上流部の川幅455m、河口部582mの大きな川が造られたのである。
 川筋に当たる家1300戸を移転、掘った土2000万tを運ぶために12台もの蒸気機関車を使用したと記録されている。
 荒川放水路の完成で、それまで荒川の本流であった隅田川の流量は調整可能になり、東京の中心部は河川による水害からは完全に守られることになった。

 “川は流れる"と言うが、東京周辺の川は人工的に流してコントロールしてきたのである。荒川放水路の満々の水を鉄橋の電車から眺めていると、時々子供の頃の夏の淀川を想い出す。淀川もかつては大阪の市中を流れていたのだが、新淀川を開削して、市中を流れる淀川の水量を調整できるようになり、美しい中之島周辺の景観も保たれている。

 隅田川の底を毎日電車で通っているが、眺めることは出来ない。事務所のある銀座からすぐなのだが、隅田川の上を渡るのはトラックショーの会場である晴海の貿易センターへ行く時など、ごく限られている。元来隅田川の東は下総(しもうさ)で、隅田川に架けられた最初の橋を両国橋というのは、武蔵と下総を結ぶという意味で、両国の国技館は東側にある。

 江戸の町は神田など隅田川の西側で発展して、東側は庶民の町、下町として職人や漁師などが多く住んでいた。現在でも隅田川を越すとゴミゴミした町があり、小さな工場が建て込んでいる所が多い。以前、この本は隅田川を渡ってすぐの門前仲町で印刷していた。また、職人の町らしく、恐ろしく安い飲み屋が多かった。

 大阪の淀川とともに、隅田川は大都市内を流れる河川として市民に親しまれてきた。大阪の天神祭りは淀川を舞台に繰り拡げられる水の祭典でもあり、隅田川の花火も東京の夏の風物詩である。
 隅田川を東に渡れば深川の八幡宮と不動尊、少し上流の吾妻橋の西は浅草観音、その近くには吉原の遊里、梅、桜、納涼、月見、紅葉、雪見と隅田川一帯は江戸から東京にかけての市民の絶好の行楽地であり、屋形船、ちょき船が数多く上り下りしていた。

 その隅田川を市民から遠ざけたのは、かつて白魚が名物といわれた川の汚染であり、水害から守るために造られた長大なコンクリートの護岸である。
 隅田川の語源にはいろいろあるそうで、そのひとつに澄んだ川、きれいな川の意味もあるという。それほど澄んだ綺麗な川が工場と生活の廃水によってどす黒く汚れ、コンクリートは川と市民の結びつきを遮断してきた。
 ところが最近は様子が変わってきた。隅田川の水は、私が東京へ出た20年前より格段に綺麗になった。一方、ちょっとした江戸ブームが起こって、両国には江戸博物館が造られることになり、東京深川に住んだ芭蕉の人気も、テレビに登場するほど凄いものがある。隅田川を愛する市民サークルも誕生しているらしい。

 例年より10日近くも開花の早い桜を見るため、浅草辺りの隅田川を訪れたみた。
 墨堤の桜として、江戸時代から名高かった所だが、私の花見のこれ迄は九段や上野で、初めての墨田川の観桜である。野暮までに、墨も隅もスミ、墨堤は隅田川の堤の意味で、永井荷風に「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」がある。

 夕刻出かけて、夜桜見物となった。夜の帳(とばり)が無粋なコンクリートの護岸や建物を程良くカモフラージュして、照明に浮き出た両岸の桜の下には、数十艘の屋形船が提灯の灯りを水面に映して、走ったり、もやったりしている。
 ひとわたり桜を見て、花の下でコップ酒をやっていると、町内の人らしいグループの花見が始まった。芸者、水茶屋の女、明治の女学生、カウボーイなどの仮装した男女も混じって演芸を披露する。昔の写真を見ると、行楽には仮装が付き物のようだったらしい。その再現である、さすが浅草だ。

 いい気持ちになって吾妻橋まで引き返すと、間もなく夜桜見物の水上バスが出発するという。
 二層デッキのまわりがすべてガラス張り水上バスからの夜桜見物は実に快適で吾妻橋から上流の言問(こととい)橋まで、長堤十里は大げさとしても、墨堤の夜桜水上見物は思わぬ眼福だった。
 東京には現在38隻の屋形船が復活しているという。早朝の歌謡番組からは「春夏秋冬屋形船」がよく流れてくる。宴会好きな日本人向きのお座敷屋形船が平成東京の風物詩として定着する日も近い。


みなさん さようなら

1986年(昭61) 月刊「NewTRUCK」 6月号 一冊の本

男らしく生きて戦った土佐の武将と維新に散った郷士達の物語

司馬遼太郎 「戦雲の夢」講談社文庫
安岡章太郎 「流離譚」新潮文庫


 通勤や出張の車中、ホテルなどで読むのには文庫本が手軽でいい。この一ヵ月ばかりの間に読んだのは司馬遼太郎「戦雲の夢」安岡章太郎「流離譚」上・下 の3冊である。

 「戦雲の夢」は長宗我部盛親が主人公である。長宗我部家は信州から土佐へ移ったと言われるが、盛親の父元親の代になって、地方の一土豪からいったんは四国をほぼ平定したものの豊臣秀吉に服従、土佐一国22万石を安堵された。ところが関ヶ原の戦いでは藩内の意思が統一しないまま西軍に加担、取り潰しになった。
 一介の牢人となった盛親は京都に住み、大坂城に入って冬の陣、夏の陣に傘下、関東勢に一泡吹かせる。豊臣恩顧の大名達が尽く徳川の陣営に馳せ参じて成算が全く持てない大坂城に入るのは自殺行為に等しいが、戦雲の夢を捨てきれぬ盛親としては男であり、武将としての死に場所を求めたのであろう。この点は真田幸村とよく似ている。


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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