みなさん さようなら

2017.11.20 06:00|「周作閑話」
1991年(H3) 月刊「New TRUCK」12月号
周作閑話

山形路(下)-2

 バスは山形県の南部、置賜地方の米沢へ、2時間余りの旅で、最上川が形を変えながら姿を現す。最上川は山形県の最南端に源を発して北に流れ、新庄あたりで西に転じ、日本海に入る。これほどの大河で同一県内だけを流れているのは珍しいそうで、まさに山形の母なる川である。

 うつらうつら快いバス車中での眠りのうちに、南陽市赤湯の『結城記念館』に到着した。
 結城豊太郎といっても、ご存じの読者は少ないと思うが、私達の年代では大蔵大臣、日本銀行総裁として記憶に残る人物である。しかし単なる財政マンでなく、臨雲と号した文人であり、安岡先生とも親しかった憂国の士であり、郷土の赤湯に臨雲文庫、風也塾を興した教育者であり、上水道を私費で赤湯に敷設するなど、郷土をこよなく愛した人物であった。
 その蔵書は夥しいものがあり、特に中国の碑文、法帖の拓本は貴重なもの、昨年8月、安岡先生はじめゆかりの人々のお話を収録した『臨雲講堂――結城豊太郎先生と郷学』が出版された。没後40年、記念館前には和服の銅像も建ち、赤湯の人達の追慕の念をよく表している。
……

 山形第二夜は小野川温泉の河鹿荘、米沢の町外れである。到着は5時少し前、宴会場の大広間の半分は既に主席の準備が整っており、襖で仕切った半分の方、余興のできる舞台のある側で講義が始まる。このあたりが、研修を主とする聖廟巡拝会の面目躍如たるところ。

 講師は『細井平洲』の著書のある山形県立興譲館高校の元校長大井魁先生で、米沢での研修のお世話をして戴いた山形しあわせ銀行の方によると、非常に時間に厳格な方で、1時間と言えばかっちり1時間でお話を終えるとのことであった。その大井先生が講義時間を20分も超過、宴席で隣り合った先生にそのわけをお聞きすると、聴衆の態度が余りにもいいものだからつい、とのお答えであった。永年教職にあった先生がそう言われるのだがら、我々は実に躾の良い聞き手なのだろう。

 細井平洲と米沢藩中興の名君上杉鷹山との師弟の情の細やかさについては、戦前の国定教科書に掲載され、日本人すべてが熟知した美談で、大井先生によって改めてその感動を呼び戻したことだった。
 よく学びよく飲む、師弟と道友の楽しい酒の語らいの一夕である。

 3日目、最終日は慌ただしく駆け巡った。上杉鷹山が血判の誓紙を奉納した白子神社、鷹山が江戸から来た細井平洲を鄭重に出迎えた建物が今も残る普門院、上杉藩校だった興譲館の額が保存されている興譲館高校は昨夕の大井先生じきじきのご案内である。秀吉や家康をも畏怖させた名臣直江兼続の墓所の林泉寺、謙信以来の上杉家廟所、上杉神社ほか、バスを激しく乗降して見学、山形路の研修旅行は福島駅で解散した。



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みなさん さようなら

2017.11.16 07:07|「周作閑話」
1991年(H3) 月刊「New TRUCK」12月号

山形路(下)

 昨夜は近来の痛飲で、出羽三山齋館の大広間に戻ってすぐ寝てしまった。寝付きの良さは私の特技で、横になるなり直ちに深い眠りに入る。3時頃目が覚めると、あちらこちらでさまざまなスタイルの鼾(いびき)がする。修学旅行のように布団と布団がくっついた形で、30数名がしこたまきこしめして寝るのであるから、各所で大鼾が発生するのはやむを得ない。こういう場合は早く寝てしまうに限る。

 6時には皆さん洗面もすませて、長い長い渡り廊下を伝って、出羽三山合祭殿の神前に出る。出羽三山とは、月山、羽黒山、湯殿山の総称で、古くから山岳信仰と修験(しゅげん)道の霊場として知られる。三山にはそれぞれの神社があるが、月山、湯殿山は深い山の豪雪のため冬季参詣できないので、里(さと)に近い羽黒山に三社の神を合祭して、日本有数の茅葺きの屋根の厚さだけで2mを超す豪壮な大建築を建てた。この羽黒山も先年の冬訪れた時は、私の背丈を超す大雪が積もっていたのである。
 合採殿の内部は朱と黒の総漆塗で、これほどの漆に塗り込められた建物は他には見られない。

 聖廟巡拝会参加者が正座する中、10名近い神官が着座して早朝の神事が始まる。やや朗詠調の祝詞(のりと)は、この神社のかつての神仏習合時代を思わせ、夢幻の世界へ誘われる。一同を代表して上段の神前に進み玉串を奉奠(ほうてん)、身の引き締まる一瞬である。
 神事が終わって、なみなみと注がれたお神酒(みき)を戴く。昨夜の快い酔いがまた戻った感じ。
 羽黒山の杉並木は国の特別天然記念物に指定されている貴重なもので、山気、神気がそくそくと身に迫る。五重塔は国宝。

 バスで松ヶ岡開墾地に向かう。
 なだらかな丘陵地帯、びっしりと柿の木が植えられた広大な敷地の中に、大きな養室の建物が数棟出現する。その一棟は記念館となり、一棟は庄内農具館として公開されている。
 この柿畑と養蚕室のある一帯が国指定跡であるのは、それにふさわしい歴史を刻んでいるからに他ならない。詳しく書くゆとりはないが、この見学の後、お話戴いた開墾場リーダーの武山省三氏によると、大略次のとおりである。なお武山氏には松ヶ岡開墾史の著書もある。

 明治維新によって、各藩と武士団は解体、中央集権の行政と兵制の時代に移ったが、庄内の酒井藩では旧中老の菅秀実(すげひでざね)の献策により3千人の武士団を挙げて、山林であった松ヶ岡の開墾に乗り出した。それは単なる失業武士団に生計の道を立てさせる、いわゆる士族授産の場としてのみ計画されたものでなく、さまざまの意図が含まれていた。
 徳義を本とし、産業を興して国家に報じ、庄内に理想郷を建設することを目的として、明治5年(1872)に、開墾に着手、ほぼ7年で開墾と桑畑の造成、蚕室の建設が完成の域に達した。
 
 武士団は刀を斧や鍬に替えて、出陣よろしく早朝から樹木の伐採と畑地の造成に取り組んだのだが、隠居も含めて2890名の武士開墾事業は全国に例がない。明治初年のまだ流動の時代、武士団の一大エネルギーを温存しておこうとする意図もあったのであろう。
 当時の外貨獲得の最大のものは生糸の輸出であり、松ヶ岡開墾が桑畑の造成、蚕室の建設に向けられたのは国策に沿うものであった。

 開墾が一応終了すると、300町歩で3千人もの人間は必要でなくなる。武士団は、その開墾の実績を評価されて北海道開拓の屯田兵として赴く者、官僚、教師、巡査などに就職するなどして、人員は次第に減少、30軒ほどが定着、土地共有で運営しながら、1世紀余りの風雪に耐え抜いて現在に至った。
 桑畑は庄内柿と庄内米の田畑に変わったが、庄内武士の気骨と志を今に伝えて、松岡蚕種(株)、松岡(株)、松岡機業(株)などの関係企業を擁して繁栄を続けているのは偉とすべきである。

 本陣と称している建物は、加藤清正の嗣子忠広が庄内に配流となり、その居宅が焼失後京都から移建、忠広死後は藤島町に移し、藩主江戸往還の休憩所になり、明治5年に開墾場の集会室、事務室として3度目の移築をした由緒を持つ。
 開墾場に付設する形で安岡正篤先生の高弟であった菅原兵治氏の興した(財)東北振興研修所があり、地主正範理事長、前記武井氏のお話を拝聴した後、研修所関係者の夫人方手作りの珍しい昼食を戴く。

 ここで庄内から離れたのだが、昨日来お会いした旧藩主家ご当主の酒井忠明氏その他の方々に脈々と流れる庄内武士の血というか、現在の浮薄な日本で忘れられたものが、この庄内の人士の中に生きていることを痛切に感じる。庄内空港が完成し、明年は新幹線が山形に入って庄内も変わってくるだろうが、この気質だけは保って戴きたいと思う。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.11.13 05:39|「周作閑話」
1991年(H3) 月刊「New TRUCK」11月号
周作閑話

山形路(上)
(*「庄内」は「荘内」と2通りの書き方があるが、庄内に統一した。)

 JR奥羽本線の新庄駅で、酒田に出る陸羽西線の各駅停車に乗り換える。最上川に沿って走っている筈だが、夜に入って何も見えない。
 7年前の3月、米沢を振り出しに新庄温泉に泊まった時は大雪で、宿の軒先の大きなつららにびっくりしたものだった。最上川の雪見舟は他に客もなく、老若2人の船頭とわれわれ夫婦だけで、ビニールで囲った屋形船で若い方はとも(船尾のこと)にたち、爺さんとはカンテキで温めた地酒を一緒にやり乍ら、評判になったNHKドラマ『おしん』に筏(いかだ)舟の船頭に扮して出演した時の話をしてくれた。両岸は白一色、山形の生んだ斉藤茂吉の歌に出てくる逆白波が川面に立ち、サービスに歌ってくれた舟歌と共に、数多い私の旅の中でも印象に残る舟行きであった。あのお爺さんは今も元気だろうか。

 酒田に一泊した翌朝7時、同志の懐かしい皆さんと酒田駅で合流する。歴代総理の師と仰がれた安岡正篤先生の教学を信奉する人達によって「関西師友協会」が結成され、寝食を共にする山中の教育施設しての「成人教学研修所」が10年余り遅れて完成した。「成人教学研修所」に「論語普及会」ができて、10年前から日新出版で月一回開講している論語講座も現在は「論語普及会」の活動の一環として組み入れられている。

 論語は孔子の言動を記録した儒教の根本教典であり、儒教を教育の柱とした江戸時代の藩校に、孔子を祀る聖廟が多く作られたのは当然であった。藩校は明治以降、近代的な学制に変わって姿を消したが、今も尚その遺構を残している所もあり、旧藩校以外にも神社などに聖廟は保存されている。
 「論語普及会」と「関西師友協会」の会員有志が各地の聖廟を訪ねて、それぞれの地域に興った学問や活躍した人達のお話を聞くことを目的として発足したのが「全国聖廟巡拝会」で、第9回に当たるこの度は山形県下を9月21日から23日まで3日間にわたって巡ることになったのである。

庄内 6221

 バスで先ず訪れたのが日本海に面する日和山公園、昭和天皇が、海に入るまでにござらりけり、とお詠いになった最上川は、数日来の大雨で、日本海の中まで黄濁した流れを押し出している。公園内の池には千石船の2分の1モデルが浮かび、舟路開拓の功労者河村瑞賢の銅像もある。
 元の本間邸の横を通る。300年続いた大地主本間家も最近倒産して話題になった。スーパー進出の失敗ともいわれるが、生き馬の目を抜く現代の流通業界の中では、本間ののれんも通用しなくなったのだろうか。

 山居(さんきょ)倉庫内の日本間で朝食。従業員はここに寝泊まりして、12棟の広大な倉庫群の窓を気温に応じて開閉したという。ほぼ100年前に建った米倉庫の定温管理が庄内米の声価を一層高めたのである。米俵が30キロ入りの紙袋に変わったけれども、人の背の何倍もある「はい付け」はそのままで、その高いところからベルトコンベアーで、外のJRコンテナへ米袋は運ばれる。おしんの母親が嘗めた女丁持(おんなちょうもち)の重労働は昔語りになったが、5俵約300㎏を背中に載せた写真がある。

庄内 6215


 酒田の名誉市民でもあった写真家の土門拳の記念館の近くに「南洲神社」がある。
 戊辰戦争の時、官軍側に抵抗してよく戦った庄内藩を官軍参謀の黒田清隆は、実に寛大な措置で処遇した。黒田の背後に西郷隆盛のあることを知った庄内の士人は西郷をひたすら尊敬して、旧藩主酒井忠篤(ただずみ)は青年達と共に鹿児島に赴き、その薫陶を受けた。西郷の教えを一冊にまとめた「南洲翁遺訓」が庄内で発行されたのが明治23年、既に100年も昔のことで、遺訓の発行は現在も続いている。私が和綴じの立派な遺訓を戴いたのは第一貨物の武藤幸雄会長からで、庄内出身の人々の努力によって「南洲翁遺訓」は全国に普及したのである。
 南洲神社でお会いしたのが長谷川信夫先生で、もう80歳に近いであろうか。質素な羽織袴のその風姿に私は大きな衝撃を受けた。一途に南洲翁に傾倒して、財団法人荘内南洲会を昭和50年に設立、南洲神社と南洲会館をその翌年に建立した。安岡先生によれば「酒田の隠君子」の長谷川老先生のような人物は都塵の中ではもう見られない。

 酒田が本間家始め商人の町であるのに対して南の鶴岡は庄内藩14万石酒井氏の城下町であった。藩校「致道館」の遺構や、明治期の洋風建築や庄内地方の民家を移築した『致道博物館』がある。
 藩校「致道館」において、聖廟を拝した後、「成人教学研修所」の伊与田覚所長の講話を聞くのが第9回聖廟巡拝会のいわばメイン行事として予定されていた。
 ところが8月も終わり頃になって、伊与田所長の体調が少し悪く入院したので代役をやってくれとの電話が入った。所長は私の叔父、10歳年上で至極壮健、昨年頃から時折ふらつくと聞いていたが、低血圧で一時的に上昇するのが原因らしく……、まあいいよと引き受けた。
……
 「致道館」は聖廟、講堂、藩主や重役の控え室の3間続きの御入間が現在遺っている。講堂玄関で斉藤第六鶴岡市長の歓迎挨拶があり、聖廟内で論語を全員で斉唱したあと、御入間で私が『論語と地方文化』について1時間半ばかりお話した。代々の藩主が占めた席であり、明治維新の時には、官軍参謀黒田清隆が16歳の藩主酒井忠篤の降伏を受けた歴史的な場所で、左には聖廟が見える。50名ほどの聴講者は畳の上にじかに坐り、藩校時代そのままの講義風景であった。
 「致道館」は江戸時代では珍しく個性尊重、天性重視、自学自習の教育方針を採用して、荻生徂徠の学風を受けながら、独特の庄内学ともいうべき藩学の体系を作り上げたことで知られる。

 「致道館」の校内には、藩主の隠居屋敷の御隠殿(ごいんでん)があり、床の間には特に我々のために、聖廟に掲げていた古い孔子像が掛かっていた。鄭重なご挨拶を戴いた酒井家のご当主忠明氏は眉秀で目は涼しく鼻筋はすっと通り、口はきりりと結ばれて、まさにお殿様の顔である。また忠篤公の書も見事だが、ご当主もなかなかいい字をお書きだ。血筋というものであろうか。
 忠明氏はじめ関係者とわれわれ一行で論語の斉唱、よく息が合った。
 この夜の泊まりは出羽三山の羽黒山斎館。到着した時にはとっぷり日は暮れて、黒々と聳える杉木立の下の道を足さぐりで歩く。
 300年も経過した齋館の建物は、継ぎ足し継ぎ足しで、大広間に30余りの布団が並んで、修学旅行の如き感がある。
 夕食には宮司さんもみえてご挨拶。山伏修験道の束(たば)ねにふさわしく、風雪に鍛えられたいいお顔である。
 月山その他の精進料理が殊の外おいしく、お神酒もたっぷり、近来の痛飲であった。
(つづく)
 


みなさん さようなら

2017.11.09 06:34|社長の軌跡/人に四季あり
1991年(H3) 月刊「New TRUCK」11月号
社長の軌跡 24

空への夢から地上に ②おわり
日野車体工業 山内一郎社長

金沢工場
            日野車体工業 金沢工場 (1991年11月号掲載写真)

日野と一体の車体架装
高まるトラックの比率


増田 エンジンの方から車体の方へ移られて、戸惑うことはなかったですか。
山内 それは余りなかったです
 初めはエンジンでしたが、段々シャシ、キャブまでやってきたし、全体の車づくりの方まで入っていましたからね。大体全部の勉強はしてきたつもりです。
――  この日野車体という会社はいろいろな車体メーカーの歴史を集めたようなところもありますね。
山内 大正時代からボデー屋さんで来ていますね。
―― 車体工業会の初代会長の大町北造さんが、戦前に帝国ボデーにおられて、この場所にあった事務所と工場の周囲が緑地帯であったというお話を聴きました。
 主な系統としては、帝国ボデーと北陸の金産自動車のふたつの流れが日野車体になって現在に繁っているということでしょう。
  バスとトラックの2本立ててきているのですが、最近はどうですか。
山内 6対4でバスが多いですね。ここ3年位はトラックの比重がぐんと増えて、そのうちに半々になる勢いではあります。
 バスは景気にあまり左右されないで殆ど横ばいの状況が続いているのですが、トラックの方は景気によって乱高下が甚だしい。もっとも、私がこちらに来てから4年ほどは上り調子の感じでしたが。
―― そろそろ息切れかとの声も聞かれますが。
山内 この下期くらい迄は何とか行くんじゃないかと言ってます。去年が19万台、今年は17万台とも予想されていましたが、18万台位にはなりそうですね。
―― それだけゆけば十分でしょう。かつては10万台程度に迄落ち込んだこともありますが、もうそういう事にはならないと思います。
 日野車体は日野直系で、他の車体メーカーとはかなり色合いが違うと思うのですが。
山内 それはあるんじゃないですか。よその事は余り分かりませんけどね。一面ではやり易い。日野と同じに行ったり来たりしてますから話は通じ易い。
 その代わり、ワーッと押しつけられたり、言うことを聞いてくれなかったり。(笑)
 そうは言っても内輪のことで、ある程度は相手の気心も分かっているからやり易いとは言えます。
―― 地方の車体メーカーは人手不足の関係もあって、供給力をそんなに増やせない。機械設備を入れたから能力がぐーんとアップするものでもない。日野自動車のボデーを支えるのはシェアを支えることでもあり、日野車体の役割は重要ですね。
山内 どうやって設備をうまく合理化させてゆくかということ、もうひとつはうちのやっているのはウイングとバンで、お客さんはみんなプロ、要求が非常にシビアで千差万別です。最近は荷物に合わせて上を作れと言ってきてますから、これの対応が大事ですね。
―― ユーザーニーズに応じてというシャシメーカー、ディーラー、車体メーカーのサービスが過剰になっている感じもあります。
山内 大型の場合、地場の比較的規模の小さい車体メーカーでお客さんの要望を聞きながら一品生産的に架装していたという成り立ちがあって、それをわれわれの所でもやれと。
―― そこでボデーの標準化の話が出てきたりするのですが、大型はなかなか実現困難ですね。
山内 バスの路線なんか、お客を乗せて運ぶ目的は同じですから、皆同じでいい筈です。同じ物を作ると安くなりますよ、とお話ししても総論賛成、各論反対で、結局はダメです。
 トラックにしても同じ事で、オレはオレの使い勝手の良い車にするんだ、という傾向が強い。
―― 小型から中型まではかなり標準化してきたのだから、大型もその流れにあるという人もありますが。
山内 方向としてはそうでなければいけないと思います。今のままでは人件費が上がるだけボデーは高いものになる。
―― そうなってくると日野車体が強くなる。
山内 出番かなとは思いますが、そこ迄私は持ちそうもない。(笑)
―― 需給の調節をどうするかがカギだと思います。今のディーラーに果たしてその力があるかどうか、各地のトラック協会でまとめきれるかどうか、これはなかなか難しい。
山内 荷物があれば車を発註しようというユーザーもありますから。

茶道に魅せられて40年
点前で浮かぶアイデア


―― 工場に長くおられた方は、じっくりと取り組む興味をお持ちになってる方が多いようです。社長は何か。
山内 今まで、一番長かったのはお茶です。
―― 裏と表がありますが。
山内 裏千家で昭和23年からやっていますから、もう40年を越えました。
―― それは凄い。まだ若い時からでしょう。きっかけは何ですか。
山内 入社して少し経った頃、膿胸で半年ほど会社を休んだ。治りかけてブラブラしていて退屈だったところで、妹が習ってたお茶に一緒にくっついて行ったのが始まりです。もともとそちらの方面に興味は持っていましたし。
―― お茶のどういう所に惹かれたのですか。
山内 雰囲気とか道具、それを鑑賞するところにですね。
―― お茶にはいろいろの位があるでしょう。奥伝とか。
山内 私の方の流儀では教授、助教授、奥伝それから下にいろいろありまして、その2番目で茶道の名前は宗山(そうざん)です。
―― それじゃあお弟子も取れるわけで。
山内 もっと下の位でも取れるんですが、勤めていてはとてもとても。
―― ちゃんとお茶室も作って。
山内 一応、小間と広間を持っています。
―― 全く本格的ですな。男の人のお茶はいいです。きりっと締まって、もともと大名など武家のもので、女性がやり出したのはずっと後でしょう。
山内 利休から始まって、ずっと男性で、女性は陰で嗜むようになっていたと聞いています。
―― 戦前の財界人はお茶人が多かったですね。益田鈍翁、松永耳庵、原三渓、根津嘉一郎、皆さん壮大な茶会をやったりしていますが、どうも今はそういうのは余り聞きません。それだけせわしなくなったということでしょうか。私も若い時からお茶をやりたいと思いながら、とうとうできないままです。
 毎週一回、湯島の聖堂に通って論語を勉強していますが、緑の中で「子曰わく」などとやっていますと、ふっといい考えが浮かんだりします。お茶でもそういうことがあるのじゃないですか。
山内 点前(てまえ)をしながら、やはりふと、あそこをこうやればいいなあ、など出てきます。余り思い詰めると逆に頭が回転しなくなるものです。論語をやられるなら禅語も嗜まれるといいですよ。お茶の掛け軸は殆ど禅語で、これは面白い。
―― 茶器とかお道具は芸術品ですが、工業製品でも技術的に優れているものは美しいし、芸術品みたいなものでしょう。
山内 いいものは見ただけで格好がいい。いろんな面で趣味を持ってセンスを養っておくのはいいじゃないでしょうか。
―― ご趣味は他に何か。
山内 洋蘭作ったり、焼物をいじったり、お茶の昔の本とか、禅語の本だとか読みますが、すぐ眠くなって。(笑)
―― いいじゃないですか、三昧境で。今日はお忙しいところ、有難うございました。

みなさん さようなら

2017.11.06 04:28|社長の軌跡/人に四季あり
1991年(H3) 月刊「New TRUCK」11月号
社長の軌跡 24

空への夢から地上に
日野車体工業 山内一郎社長
New TRUCK1991年11月号
増田 日野のグループでは、荒川さん(政司氏 元日野自動車工業社長 現相談役)とこの本で何回か対談しました。こちらの方は岡本さん(利雄氏 元いすゞ自動車社長 現顧問)とか現役を退かれた長老からお話をお聞きするシリーズですが、今日はバリバリの現役社長とお話するシリーズの方で。
山内 もうそろそろ老兵は消え去る時期かなと思っているのですが。(笑)
―― まだまだお若い。何年のお生まれですか。
山内 大正13年、ちょうど67歳で、干支(えと)でいえば甲子(かっし きのえね)一番始めです。
―― 私は2年あとの大正15年丙寅(へいいん ひのえとら)生まれですが、大正生まれの現役社長は段々少数派になりましたね。しかし、60歳代はて経営者として脂の乗りきったいい年代だと思いますよ。ずっと東京ですか。
山内 都内の大田区の生まれですが、本籍は山形県で、旧制の山形高校に3年いて東京に戻って東京大学の第二工学部航空原動機科に入学、終戦で内燃機関学科に変わり、空を飛ぼうと思って入ったのに、日野へ昭和21年入社して地上に降りたまま45年が過ぎました。
―― 日野重工の時代ですか。トレーラのバスなんかを作っていましたね。
山内 私が入社してすぐ日野産業になったのですが、トレーラを10台まとめるといって、皆がわいわいやっていました。
―― 東大出身のエンジニアということで大事にされたんでしょう。
山内 とんでもない。入ったばかりは実習で、ボーリングという機械について、工員さんがバイトをセットしてくれて送りをかけて、切削油をそこへかけるという先手の仕事から入りました。
―― ボーリングは私も学生時代の勤労動員で使いました。穴開けの機械です。
 あの当時、トレーラの発想があったとは凄いですね。
山内 外国にはいろいろあったでしょうが、戦時中に日野重工では兵員輸送車の戦車まがいのようなものをやっていて、エンジンや足回りはある程度の技術を持っていた。それを使って何かやろうとなって、トレーラのバスやトラックになったと思います。
―― トラックのトレーラの方は知りませんが、大きなトレーラのバスは見たことがあります。終戦後の人員輸送に大活躍しました。
山内 まだまだバスも少なくて、100人乗りの大量輸送用で、乗り心地は悪かったですが、とにかく運べればいいやという感じでしたね。
―― あのトレーラの時代はそんなに長くなかった、4~5年位ですか。
山内 あのエンジンが重くてどうしようもないし、うんと小さい軽いのを安く作ろうとなって、単車の方に行ったと思います。あんな長いものでは簡単に曲がれないし、路地にも入って行けません。
―― 当時の社長は大久保さん(正二氏)でしょう。荒川さんにお聞きすると相当ユニークな方だったようですが。
山内 いや大した方でした。(笑)当時、御三家といって、トヨタ、日産、いすゞでしたか、うちの給料はその平均だというんで、交渉も何もしないで決まっていました。三菱は重工の時代で別でしたが、そんな時代がありましたよ。一時は良かったのですが、また遅配が出たりして。
―― まだ自動車産業の基盤が確立されてない時代でしょう。
山内 入った時、お前どうなるかこの会社だってわからないぞ、と上司に言われた。その上司も東大だったのですが、成績が悪ければ一生工員だと脅かされてヘェーッと思ったりしました。

面白いエンジンの世界
生産現場での終始一貫

―― 日野に入社されてずうっとエンジンですか。
山内 エンジンというより、むしろ現場ですね。それも製造関係ばかり。始めはエンジンの製造現場で、これを2年位やって、そこの工場の機械は全部自分で扱えるようになりました。
―― 私はトラックの雑誌を出していながら、エンジンは全然理解できません。あれは面白いものですか。
山内 面白いですよ。(笑)
 私は作る側の人間ですが、要求がもの凄くシビアになってくるんです。始めは、いい加減と言ってはおかしいですが、以前は機械加工の精度が上がらないから最後は手で仕上げる。シリンダーブロックの上にシリンダーヘッドが乗っかるのですが、くっつかないとガス漏れがする、それをキサゲで仕上げてガスケットを入れる。そんなことをやっていたらとても間に合わないので、どうやって機械加工の精度を上げるのか、工作機械の発注にもタッチしなければならない、これは本当に面白いですよ。
―― 『エンジンのロマン』という本を戴いたままになっています。(日野自工鈴木孝専務著)エンジンが面白いとおっしゃるから取り出して読んでみましょう。
山内 航研機(※)のことからいろいろ書いてありましてね。エンジンについての要求はシビアになりますが、それがまた工作機械の発展を促して、更に高度のエンジン開発へ進みます。
(※ 昭和31年東大航空研究所で設計された長距離飛行目的の航空機で1万㎞における当時の世界速度記録を樹立。)
―― 社長が製造現場へ出られた頃はまだまだ腕に自信のある職人気質(かたぎ)の人が多かったでしょう。
山内 管理職になる前に係長があって、その補佐を5~6年やるのですが、2年位すると事務所に入る。事務所といっても、現場の中に板を敷いた程度のものです。ガーガー音がして難聴になりそうなところで機械や工具の面倒をみたりするのですが、しょっちゅう工長さん職長さんとやり合う。学校出の若い者が周りにはいませんから、こちらがあれこれ発想してその人達にやって貰わなければならない。頼みに行くと、そんな難しいことできるかと蹴とばされる。
 それをどうやってなだめすかして、こちらの意図する方向にもってゆくかですね。
―― この青二才が、という感じでしょうねえ。
山内 職人さんは強いですよ。皆一応の腕を持っているし、当時の機械では腕に頼る部分がまだまだありました。その職人さんの技術を抜きにして次の工作機械につないでゆくことはできなかったですね。
―― 日本のトラックの殆ど手作りの時代から現在の量産化まで殆ど製造現場で見ておられたことになりますね。それは部長、役員になっても同じですか。
山内 そうです。日野自工は2万坪の殆ど真四角の工場で、その真ん中に事務所がある、副社長になって、昭和62年に日野車体に来る迄そこにいました。
―― その間に、トヨタ自動車との提携、乗用車からの撤退がありました。(昭和41年)
山内 その当時あの難しい乗用車の販売をするだけのエネルギーはとても日野にはない。二頭立体制はできない、というのでバスとトラックに絞ったのです。これは英断であり、結果的にも良かったと思います。
(つづく)



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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