みなさん さようなら

2018.02.22 06:00|その他月刊誌記事
1995年(H7) 月刊「NewTRUCK」 3月号

進取果断と強運のトラック王 ②
「西濃記念館」に田口利八の足跡を追う

命運を決した大垣進出

 昭和5年は、田口にとって生涯で最も重要な年になった。生涯の伴侶となるこのゑさんと結婚したこと、トラックを購入して運送を始めたことである。自動車がまだ珍しい時代で、運転手もいい収入になり、派手に遊ぶ者もあって、堅実な職業と見なされてはいなかったから、親族などの反対は当然であったが、田口は押し切り、新妻のこのゑさんも夫に従った。

 前田源吾氏(前愛知県トラック協会長)は同じ頃、トラックの運転手をしている。遊びまわって、入隊の時にはきれいどころが勢揃いで見送りに来たのはいいが、隊内で遊びのたたりの病気が発生、隠蔽するのに苦心したと語っている。トラックにしろ、タクシーの運転手にしろ、そういう人達が多かったのは事実だろう。前田氏の名誉のために言っておくと、兵隊から帰ってからはピタリと遊びを止めて現在に至っている。

 田口が1500円のフォードトラックを500円の頭金で購入して事業を始めたのは岐阜県の萩原町で、木曽路より北東、当時の国鉄高山本線の建設やダム工事で活気を呈していた。この地を選んだのは戦友の手引きによるという。
 トラックの月賦を一日も遅らせずに返済していったこと、荷主には必ず届けたことを報告したこと、信用とサービスを最重要視する田口の考えは、後のトラック王の原点となったものであろう。

 体も頑丈で働きに働いて月賦は1年足らずで返済、翌6年には1台を追加、7年の1月には長男利夫氏が誕生して、読書(よみがき)村から父や弟妹を呼び寄せた。昭和8年にはトラックの保有台数4台、創業から僅か3年での快進撃には目を見張るものがある。
 相対的にトラックが低廉になり、割賦で買い易くなった現在でも、保有台数が4~5台という事業者は結構多い。まして昭和初期の飛騨の町で4台持ちとなれば、押しも押されもせぬトラック事業者であった。

 この小成に甘んじていれば、後の西濃はなかったのだが、田口は敢然と大垣進出を決定する。
 ある程度の基盤もでき、安定した収入が得られるようになると、そこで落ち着く、あるいは己の能力の限界を知るというべきか、その小成の位置から踏み出さない。
 昭和5年の時点で、トラックを持ち、運送業を営んでいた人の殆どは小成に甘んじている間に、戦時統合の波に呑まれて、戦後の立ち直りのきっかけを掴めないままに姿を消していった。

 田口の大垣進出はそのトラック人生の大きな転回点であり、昭和8年以降、現在に至るまでの60余年間、大垣を本拠地として西濃は躍進を続ける。

田口

強運の持主、田口と渋谷の違い
 経営の神様松下幸之助は事業成功の要素として“運・鈍・根”の3つを挙げた。田口の場合を見ても、運の強さを痛感する。
 明治末年ごろから大正生まれの健康な青壮年にとって、兵役は免れることのできない義務であった。当然、この年代層に戦争の犠牲者は集中している。命を落とさないまでも、貴重な青壮年時代を兵役に取られていたことは、その間の民間での活動を停止させられることになる。

 田口は現役入隊で、通常は一等兵止まりであるのに一階級上の上等兵で除隊しているから戦局の進展につれて召集令状、いわゆる赤紙が来るのは必然だった。
 大垣進出の前年、利夫氏の誕生した昭和7年に田口は招集されて入隊したが、戦局はまだそれ程逼迫(ひっぱく)していなかったせいもあって妻帯者は間もなく除隊となった。ここで、兵役のままだったら大垣進出があったかどうか。

 日中戦争が起こった昭和12年、再び田口は招集された。7月から8月ににかけての応召の風景は私の瞼に今もあり、各村々には「名誉の戦死」の公報が続々と届いた。私の叔母の夫も7月招集、9月に戦死した。

 ここでも強運が田口を救った。後年の田口は見事な巨軀だったが、30歳の頃には既に100kgに達しており、足に靴を合わすんじゃない、靴に足を合わせろの軍隊式でも田口に着せる軍服のサイズはなく、軍医が腹をつまんで、痛いか、お前は盲腸炎じゃ、の理由で即日帰郷となった。招集した兵の体格に合う軍服が用意していないとあっては天皇陛下に申し訳ない、ということなのだろう。

 命拾いをした筈なのだが、当時としては即日帰郷は決して名誉なことではなかった。私の父は正真正銘の病気上がりだったが、夜中にこそこそと帰ってきて、数日間は全く外に出なかった。お国のために役立つことができなかったことを恥じねばならぬという雰囲気で、母も私達も大っぴらに喜ぶことなどできなかった。田口もその家族も同じ心境であったと思う。
(つづく)


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みなさん さようなら

2018.02.19 03:59|その他月刊誌記事
1995年(H7) 月刊「NewTRUCK」 3月号

進取果断と強運のトラック王
西濃記念館に田口利八の足跡を追う

木曽路での幼少年体験

 “路線のご三家”といえば田口利八、大橋實次、渋谷昇を指すらしく、このうち田口と大橋は前後して全ト協の会長を務めたが、“路線トラック王”と呼ばれたのは田口のみ。しかも田口は優秀な後継ぎを育成して、父子二代の全ト協会長という記録を樹立した。こうして見ると、田口利八こそ、トラック会の第一人者、王者とみるのに依存はないだろう。
 このうち最も後の平成6年に没した渋谷についてはその最晩年に、じっくり話を聞くことができたが、田口、大橋については、パーティの席で顔を合わせたに過ぎない。

 田口は昭和57年、大橋は62年の死去だから、チャンスはないわけではなかったが、渋谷について波瀾万丈の一代記をじかに聞くことができただけに、田口、大橋にその機会がなかったのが残念でならない。
 しかし本号108ページの記事にあるように、田口の長男、利夫全ト協会長とのインタビューの中でかなり克明にその人間像を聞くことができた。
(以下、故人はすべて敬称略とし、田口利八は単に田口、その他の血縁は名で呼ぶことにする。)

 一度だけ田口を見たのは、京都の車体メーカー相互車輌社長(当時)の中川武治が勲三等旭日章を受章したお祝いの席上であった。京都の実力者であった中川だけに出席者には知名人が多かった。中でも主賓は大谷光照西本願寺法主、前尾繁三郎元衆議院議長、そして田口の3人だった。大きな身体の上の入道のような顔は今も強く印象に残っている。

 田口は明治40年(1907)に、長野県西筑摩郡読書(よみがき)村十二兼(じゅうにかね)で生まれた。存命であれば88歳、米寿に当たる。現在は南木曾(なぎそ)町になっていて、JRの駅に十二兼がある。

 「木曽路はすべて山の中である」と書き出したのは島崎藤村の『夜明け前』で、十二兼はその木曽路の小さな集落。木曽川の両岸には険しい山が迫り、旧中山道、国道十九号線、JR中央本線がもつれるように崖っぷちを走っている。もう15年も前、私は中山道を一人歩きしたことがあり、まさに夜明け前の風景だと感嘆した。十二課から少し西へ行くと妻籠(つまご)、そして藤村の故郷であり、夜明け前の舞台の馬籠(まごめ)を過ぎると木曽路は終わって、ひろびろとした美濃に入る。藤村は、西の風が入ってくる、と表現した。

 江戸時代の中山道は東海道が第一国道であるとすれば、第二国道の役割を果たしていた。活発な人と貨物の動きは『夜明け前』に生き生きと描かれているし、奈良井などの宿場でその面影を偲ぶこともできる。
 明治以降、東西の幹線は東海道が主役になり、中山道は取り残された存在になった。しかし、関西、中京から信州や日本海側に至る重要なルートであることに変わりはなく、膨大な面積を持つ木曽御料林と相まって、中山道筋は活発な物資輸送が存在した。

 父儀一、母さくの長男が利八と名付けられたのは、祖父の名が利一、生まれた時刻が午前八時、母方の祖父が八蔵といったので、それらを合わせて名付けられた。八は末広がりで縁起もいい。
 田口の生家は中級の農家で、貧しくはなかったようだが、農業だけで生計を維持することは困難で、御料林の下草刈りなどの作業に出ていたらしい。

 田口の腕白ぶりなどについては、利夫氏の語る通りだと思うが、子供の頃から見ていた中山道や御料林の物資輸送が陸運についての認識を植え付けたのではないだろうか。
 その幼少時代の陸運の認識が、兵役で満州に派遣され、戦車隊に配属になって戦車やトラックを扱うことにより、機動力の大きさに目覚めていったと私は考える。

 大三菱を興した岩崎弥太郎は陸の孤島と言われた土佐の出身であり、海運からスタートとした。岩崎、田口とも大変な事業的才能の持主であるが、同じ輸送を目指しても海と陸とに大きく分かれたのは、その出身に追うところがきわめて大きかったと私は思う。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.12.04 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)
1995年(H7)月刊「New TRUCK」12月号

いびつな形の商業車を抱いたモーターショー
英ベテラン記者の不満を本誌に訴えた手紙


商業車分離は次回では不可能
 「第31回 東京モーターショー」は無事閉幕した。好天にも恵まれて人出もまずまず、主催者はホッと胸を撫で下ろしていることだろう。
 ショーが終わって、次回第32回モーターショーの開催要項が発表されたが、会場は従来どおりの幕張であり、内容も乗用車と商業車併存の、これ迄と同じ形式になった。新機軸は打ち出せなかったのである。

 幕張会場は足の便の悪さが指摘されている。事実、JR東京駅の地下深く降りて電車に乗るまでかなりの時間を要するし、海浜幕張駅から会場までも少し歩かなければならない。展示会場としては決して恵まれた環境にあるとはいえない。特に、都心の新橋から観光コースでもある新交通システム“ゆりかもめ”が直結する東京国際展示場“東京ビッグサイト”が開場すると、その差がより鮮明になるだろう。
 「東京モーターショー」は幕張展示場のいわば「顔」のようなものだし、両者は特別の関係にあることでもあり、有明に簡単に移ることはできなかったのだろうが、来場者の便宜や関係者から指摘の会場の狭さから考えると、有明に移す大英断が欲しかったところである。

 乗用車と商業車の分離については以前から話題になったことであるし、特にヨーロッパの二大モーターショーであるパリとフランクフルトが、昨年から今年にかけて実行に移したことで、分離について関係者の間で協議が重ねられていたと聞いていただけに、従来どおり分離しないとの決定は少し意外であった。
 永年、乗用車と商業車の総合ショーでやってきたモーターショーを分離することは決して容易なことではない。

 パリ、フランクフルトの両モーターショーでは、商業車のウエイトが高くて、スペースの点からいえば、乗用車より商業車の方が広く、そのスペースだけで「東京モーターショー」に匹敵していたほどである。
 その商業車の部分を独立させるだけで立派な商業車ショーができるのではないかと私は考えていたのだが、最近まで実行されなかった。スペース的にも充分な広さを持つ会場だから、乗用車、商業車の双方がそれぞれを主張しながら並立してきたのであろう。しかし、やはり理念の違う二つの展示会を同じ自動車だからという理由で同一会場、同一時期に開催することは好ましくないとして分離したものと思われる。

 「東京モーターショー」の場合は、乗用車に較べて商業車のウエイトはきわめて低かった。商業者館に展示してある、およそ商業車とは言えないRV(レクリエーショナル・ビークル)を取り去ってしまった残りの商業車を集めてみたところで、とても商業車の体裁は整わないし、来場者もごく少なくなってしまう。
 「東京モーターショー」から商業車を分離して、独自のショーを開催するためには、相当に思い切った発想の転換と新しい構想が出てこなければならないのだが、それを当事者に求めるのは極めて難しい問題であった。そのための会議を重ねてみても、商業車ショーをこのようにして開催するという明確な理念を責任者を持って表明できる人物はいないと思う。

 「東京モーターショー」の運営は、事務局である(社)日本自動車工業振興会(自工振)と(社)日本自動車工業会(自工会)加盟の各自動車メーカーの広報担当者との話し合いでその大筋が決定されるようだ。
 この担当者レベルで討議されるテーマはモーターショーの入場者数、経費分担、PR枠の設定などで、モーターショーのあり方そのもの、たとえば商業車を分離するという課題に踏み込むことは、その権限の外であろう。
 入場者は10分の1以下に激減する、経費はむしろ増える、モーターショーのようにマスコミは大きく取り上げないなど、事務局や各社のPR担当者にとっては、頭の痛い問題が分離した場合には想定されるのである。担当者ベースからは分離を切り出すことは難しい。
 残るのは、事務局ベースではなくてトップの判断だが、ショーなどのPR,広報問題は担当者まかせで、ましてや1社だけで決定することはできずに、各社の合意が必要となると、主動的な役割を買って出る人物はどのメーカーのトップであるか。トップダウンもまた難しい。

 さらに、マスコミや専門誌も分離問題については突っ込んだ報道をしない。商業車に理解が薄いマスコミは当然として、物流やトラックの専門新聞雑誌であっても、本誌を除いて分離を唱える論調は見られない。
 もし、マスコミや専門紙がモーターショーは商業車を分離すべきであるとの論陣を張ったら事情は違ってくるだろうが、モーターショーのあり方まで彼らに求めるのは無理というものだろう。
 結果として「第32回東京モーターショー」は、従来どおりの形で開催することになったが、乗商併立の世界で唯一となったビッグモーターショーのあり方、しかも商業車のウエイトが極めて低いままでのあり方は正しいのか、大いに問題とすべきであろう。

東京モーターショー
                  車体はほんの僅か、と指摘された屋外展示場

英ベテラン記者の見たショー
 今回の「東京モーターショー」には海外からのマスコミ取材陣の来日があったと思うが、その中にイギリスにある商業車専門週刊誌「COMMERCIAL MOTOR」(以下、C・M誌と呼ぶ。日本にも同名の専門誌があるが無関係)のブライアン・ジャービスBryan Javis記者がいた。

 C・M誌はトラックが市場に出るか出ないかの1905年の創刊で、既に90年の世界最古の歴史を誇る専門誌であり、1979年(S54)に私も訪問したことがある。

 そのブライアン記者が「東京モーターショー」取材記事掲載のC・M誌11月2~8日号と共に私宛の手紙を送ってきたのには驚いた。連休があって到着したのは11月6日だが、差出しは10月30日。25日のマスコミ取材の初日の記事と写真がもう30日には立派に本になっている。まるで一般の週刊誌なみではないか。本誌と同じサイズで、約100頁の専門誌を毎週出すためのコスト、取材源、それを支える広告主、読者層はどうか。失礼ながら、イギリスのトラック市場は日本よりかなり小さい。その中でこれだけの週刊誌が出せるのは伝統の重みというものだろうか。

 ブライアン記者は車体担当の編集記者であったから、モーターショーの車体展示の余りの少なさに驚き、ボルボ・トラック・ジャパンのヨアキム・イエルペマーケティング本部長に会って私のことを聞いて「トラックショーの細かいデータを送ってほしい」と依頼状を送ってきたのである。

 商業車の比率が大きく、しかもその商業車の中での車体のウエイトが高いヨーロッパのモーターショーを見てきたブライアン記者にとって、「東京モーターショーは一体何だ」という気になったものであろう。彼には「トラックショーがあるからモーターショーに車体の出品はごく少ない」のではなくて、「モーターショーに車体の展示がごく少なかったからトラックショーが出てきた、その主催者はC・M誌と同業である日新出版である」という事情は理解できていないだろうと思う。


みなさん さようなら

2017.09.25 04:16|その他月刊誌記事
宮嵜氏の講演中で、パブコの二次架装の話が出てきます。これについて、月刊「NewTRUCK」に記事がありますが、Net発信していた「増田周作のおはようコラム/論語」(2006年4月22日・29日)では、『車検後工作は世界の情勢に合わなくなった現行車両法規の改正で解決する問題』であると意見しています。このブログコーナーにもすでにアップ済みなので、併せてお読み下さい。月別アーカイブ、2017年4月10日アップのページ。(妙)


2006年(H18) 月刊「New TRUCK」 10月号
特別講演
講師 自動車検査独立行政法人 宮嵜拓郎 理事

今、緊急課題の不正改造問題を学ぶ
“トラックに関するコンプライアンスと今後の自動車検査について”
 終わり


3.トラックのコンプライアンスと二次架装
 この項では、トラックのコンプライアンスと二次架装という題でお話をします。トラックのコンプライアンスの本命は二次架装にあります。この二次架装については、「New TRUCK」誌でもキャンペーンを行っていますので、「二次架装の防止に関する経緯」を配付資料としてお付けしたのはそういう意味もございます。

(1)トラックの二次架装の歴史
① 二次架装防止の歴史
 二次架装防止についてお話しすれば、非常に長い歴史があります。二次架装が問題になり始めたのは、昭和40年代後半から50年代にかけてです。近畿地区の大型4社の販売店に対して警察が二次架装を摘発したことを受けて、運輸省も二次架装防止を何回か通達しております。これを踏まえて不正改造防止運動ができました。
 今は不正改造排除運動と言っていますが、実際に始まったのは昭和63年からです。近畿の地域運動として始まり、3年程経った平成3年から全国運動になりました。その後、10数年にわたって不正改造防止運動が実施されてきましたが、平成16年に警察が近畿地区の大型車販売店に対する摘発を行ったことを受けて、国土交通省が再び二次架装防止を通達しました。その後、平成17年に車体工業会の二次架装防止自主対策が実施されました。
 問題は、それにも関わらず、二次架装が今も絶えないということです。

② 最近の二次架装防止の動き
 パブコの大規模二次架装については、本日パブコの方が来ておられたら申し訳ないのですが、皆で二次架装を直さなくてはいけないとしてきた後での発覚でございまして、これまでになく大規模で長期間にわたっていたので、このような事件になってしまったわけです。
 実は、その前に軌陸車(軌道陸上兼用車)の事件もありました。これも結構多数の架装事業者が関与しているのですが、これは軌道用の車両という特殊な車両についての二次架装でしたし、数もそれほどではありませんでした。
 平成17年以降の話ですが、ここで問題なのは、不正改造防止運動に車体工業会が団体として参加している中で「自分たちは不正改造をしません」と言いながら二次架装をやっぱりやっていた、ということに問題があると思います。その後、平成18年に車体工業会が二次架装実態報告をし、その車体工業会の報告を受けて国土交通省が二次架装防止を通達しました。しかし、通達は行政上は法律ではなく通達だから我々は従う義務がない、という事業者もいるようです。法治国家ですから、これだけの事実が重なりますと、国土交通省も検査法人も法令で定めて何かやらざるを得ない状況です。

(2)二次架装防止の強化
 今年の5月19日から施工されました新しい道路運送車両法では、架装メーカーに対する監督の強化ということで、報告徴収と立入検査が実施可能になりました。これまでは、自動車メーカーに対しては報告徴収・立入検査が可能でしたが、架装メーカーに対しては、明確に規定されておりませんでした。それが法律上、はっきり定まったということです。
 それから、自動車検査証にも燃料タンクの個数や容量を記載することになります。これは今年の8月からで、検査法人の仕事になり、さらに将来的な方策の検討としては、もっと高度な二次架装防止策の検討をしています。

4.コンプライアンスの確保と今後の自動車検査について
(1)コンプライアンスの確保方策
① 企業の社会的責任
 企業にとって、この部分を追求することの重要性は非常に大きいと思っております。企業の主体性によるコンプライアンスを第一に考え、企業にとってコンプライアンスは危機管理だという認識を持つことが大切です。
 不正や不祥事は、何時明るみに出るか分からないし、何時事故に繋がるかも分からない。先ほど、新しい道路運送車両法についても簡単に触れましたが、それ以外にも業務上過失致死、あるいは業務上過失致傷に問われる可能性があります。現に三菱の事件、或いは今回のトヨタの件では、業務上過失致傷に問われています。そういう意味で、企業がまず社会的責任の一環として、率先してコンプライアンスに取り組むべきではないかと思います。

② 自動車関係のコンプライアンス確認…(略)
③ コンプライアンス促進の3大キャンペーン…(略)
④ 自動車検査法人の役割…(略)
⑤ コンプライアンスの責任…(略)


(2)自動車検査の新たな役割とコンプライアンス
① 自動車検査制度の位置付け
 コンセンサスにはまだなり切っていませんが、自動車の検査制度は「自動車管理の徹底に不可欠な社会基盤的な制度である」という位置付けだと思っています。
 航空機とか船舶或いは鉄道等のように保有する事業者の数が限られる輸送機関については、相当に厳しい資格要件が定められているのですが、それらの輸送機関と比較しましても自動車に関しては、僅か数十時間の運転免許講習と1回の試験、それによって運転を許可され、また車両の検査についても3年に1回、ないし2年に1回というのが乗用車の検査期間です。さらに、年間に10万台の街頭検査をやっていますが、8千万台を超える自動車の保有数の中で考えますと、年間800台に1台しか街頭検査を受けていないということですから、その中でコンプライアンスを確保していくというのは、非常に難しい。
 自動車は非常に危険な商品であるにも関わらず、多数の方が使うというのを前提としたものですから、もっと色々な方策で管理が徹底されるべきだと思います。その為のひとつの制度が、自動車検査制度で、新しい検査の意義には次の3つがあります。

〈検査の意義 その1〉整備不良車の排除…
定期検査を実施することによって、整備不良を排除する。また、リコール未実施車の発見をする。
〈検査の意義 その2〉自動車社会秩序の維持…
不正改造車など迷惑車両の排除と盗難車など不審車両の発見。検査法人では年間200台以上の盗難車を発見しておりますが、このような盗難車は検査の中でしか発見できないだろうと思っております。
〈検査の意義 その3〉自動車使用の適切な管理…
受検状態の正確な記録による二次改造と節税改造の防止や検査結果の通知による使用者の点検・整備など管理責任の啓発。

② 適切な自動車検査方法の規範の策定
 検査法人は、様々な自動車の仕様に応じた検査方法を策定・改訂するだけでなく、指定整備工場等の民間車検期間が行うべき検査方法の規範を提示する必要があります。

③ 先進技術の普及に対応した自動車検査技術の開発
 電子装置化、環境対策装置の高度化などの技術革新等が進んでいますので、新しい検査の方法が必要だということで、それらの新技術を対象として法人としては検討を進めております。実際に審査をする方法については、審査事務規程という規程を設けておりまして、ホームページにも乗っています。…

(3)自動車検査法人の新たな目標…(略)

(4)自動車検査法人の新たな業務のヴィジョンについて
 業務ヴィジョンはいくつかあって、その中でも、特にコンプライアンス関係を抜粋してご説明します。
① 不正改造車の排除
 不正改造車の排除という観点で、平成17年度から、カスタムカー・ショーにおいて、展示車についての啓発・指導を始めました。東京オートサロン等、全国5つの都市で行われております、いわゆるカスタマイズを専門とした乗用車系のショーがございます。その中で、不正改造車がナンバープレート付きで展示されています。そういう車を見て、自分の車も改造したい、というケースも多いわけです。問題のある車については、公道では走行できませんと明示して、レースなどの世界で楽しんで頂くだけにするという活動を始めましたので、今後も継続していきます。
 今年度から、カー用品ショップにおいて、車検対応品についての啓発活動を始めることにしています。具体的には、問題のある部品を付けて検査場に行けばトラブルの元になります。車検対応品として買ったのにも関わらず、どうして問題があるのだという話になります。問題になるようなものは買わないようにして頂く、或いは買う前にそういう問題があることを承知の上で買って頂く。どうすれば問題がないのか。取付方によって問題が解決する場合があります。例えば着色フィルムであれば、貼る位置によって問題にならないケースがあり、付けてはいけない場所もあります。そういった車検対応品と称している部品関連について、問題があるならば前もって予防的に指摘をしていこうということです。取り敢えずは、大手の用品ショップで始めたいと思っております。

② 不正受検と不審車の排除による自動車社会秩序の維持…(略)

③ 3次元画像データシステムの導入による二次架装の防止
 新規検査受検時における車両の3次元画像データのを電子的に記録して保存することを検討中です。先行システムは八王子事務所に配備し、全国の事務所に順次導入することを検討しています。そして将来的には全国何処でも見られるようにデータベース化した画像記録との比較確認により二次架装の不正を防止する、そういう考えでいます。

④ 不正受検防止等のための検査場の電子化
 現在は、検査を非常に大らかな方法でやっておりまして、検査表を受験者に渡して、検査場から庁舎まで持っていって頂いています。整備事業者しか来なかった昔の古き良き時代のシステムなのですが、これは生徒に答案を試験終了後に渡して職員室に持って行ってください、と言っているようなものでして、その間に改竄(かいざん)やすり替えができる、という意味で不正の温床になっていると思います。それを防止するためには電子化する必要があるので、その仕組みを八王子事務所に試験的に設置をしようとしています。いずれシステムができた暁には皆さんにお知らせします。
…(略)…
 今日はこういう機会を得て、皆さんにお話をさせて頂きました。今後も様々な機会に検査法人として情報を発信していきたいと思っておりますし、例えば審査事務規程の説明会等も設けたいと思っております。本日はどうも有難うございました。



みなさん さようなら

2017.09.21 06:00|その他月刊誌記事
2006年(H18) 月刊「New TRUCK」 9月号

 宮嵜氏の講演を聴いて ――
車検後工作の根底にあった「面従腹背」姿勢
対決姿勢から対話路線確立に向かう契機に

 初対面の宮嵜氏の印象は、温厚そうだが、有能で職務に忠実な官僚である、この人ににらまれたら怖いな、というものだった。宮嵜氏も、「New TRUCK」誌上で筆者の毒舌は十分承知していたようである。

 宮嵜氏は先ず、コンプライアンスの定義概念について説明した後、自動車検査と不正工作の具体例の説明に入り、三菱自動車のリコール隠蔽、パブコの車検後工作について、その悪質さに言及した。
 詳細な資料を用意して手順良く説明を進めた内容については、別項の講演記録があるので紹介を避けるが、異論を差し挟む余地のない講演内容だった。
 宮嵜氏は、車検後不正工作に荷担した車体メーカーの主体性のなさについて述べたが、この点については筆者も全く同感で、講演後のお礼の挨拶の冒頭でもお詫びをした程である。
 車体メーカーの主体性のなさについては、誰よりも筆者が創刊当初から痛感していたことである、と前置きして次のような内容の話をした。

 “少年時代から論語に親しんで、己を修めて人を治めるのが為政者の努めであると教えられてきた人間が、40歳半ばで初めてトラックの世界に入って見たのは、無法が堂々とまかり通っていた世界だった。
 その中でも車体メーカーは、最も弱い立場に置かれていて主体性はまったくなく、隷属的な地位に甘んじていた。
 このような歪(いびつ)なトラック業界を正常化するために、当時日産ディーゼルに在職して、後に日本自動車車体工業会に転出した故平坂重雄氏に依頼してキャンペーン記事を連載したものの、官庁、メーカー双方から無視されたままだった。
 誌面の上でのキャンペーンに限界を覚えて計画したのが「トラックショー」だった。当初は関係官庁、団体を網羅した運営組織を作って、ショーだけでなくトラック業界全体の課題を討議する機関にしたいと考えたのだが、メーカー団体の反対に遭って挫折した。
 やむなく日新出版の単独主催で「トラックショー」を立ち上げたのが昭和59年。だんだん規模も拡大して、明年はモーターショーと同時開催になった。
 「東京モーターショー」を主催する日本自動車工業会(自工会)は、乗用車と合同のショーから2000年に商用車を分離開催したものの、僅か3回で経済上などを理由に中止した。
 自工会の主力は乗用車メーカーであり、車体メーカーの業界団体である日本自動車車体工業会(車工会)にしても、トラックは幾つかある部会の一つで、メーカー団体で真にトラックを代表して問題に取り組むという体制になっていない。折角東京モーターショーから分離した商用車ショーを僅か3回で中止したのは、自工会も車工会も、トラックを真剣に考える体制になっていないことの表れである。
 このような状況の中で、長年にわたって車検後不正工作が行われてきた。
 その間の、車体メーカーの「面従腹背」姿勢が、不正行為が長く続いた大きな原因であると思っている。できないことはできないとピシャリと拒絶すれば良かったのだろうが、永年に亘って染み着いた車体メーカーの隷属的体質は、毅然たる態度を取ることができないままに、ズルズルと30年以上も不正行為が続いたのである。
 今回の告発で車体メーカーの姿勢は変わってくるだろうが、根本的な解決は時代に合わなくなったトラック法規を変えることで、最大積載量制から総重量制に移行すべきである。憲法でも改正運動が起こる時代であり、関係者が勇気を持って取り組むべき課題であると思う。”

 以上の内容の挨拶をした。
 筆者が本誌で強調したのは、行政側が長年の車検後不正工作の事情を知りながら、有効な手段を講じてこなかった点についてである。その間に、不正行為に対する不感症の様なものが関係者の中に醸成されたのである。
 しかし、宮嵜氏は最近の数年にわたっての取り締まり状況に絞って話をされたのだから、筆者の論陣とは噛み合わない。筆者は論語を勉強してきたので、「温故知新」の観点に立って長いスパンから今後を考える立場を取る者であり、この視点に立った論議をこれ以上続けても不毛に終わるだけである。

 トラック関係者の中で、コンプライアンスの精神が完全に浸透するのを望むという点では、筆者は誰にも負けない。
 宮嵜氏を煩わせた今回の講演会を契機に、これまでの対決姿勢を改めて対話路線を進めていきたい。
 その点で、実りの大きかった日新出版主催の講演会であったと自負している。 




プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさんさようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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