みなさん さようなら

2017.07.10 03:27|その他月刊誌記事
YouTubeで、「抜刀隊」「陸軍分列行進曲」「学徒出陣式」「警視庁機動隊観閲式 分列行進」 などのタイトルを入力すると、西南戦争時の警視庁『抜刀隊』を讃えた曲が聴けます。映像も様々。1886年(明治19年)、作曲者はフランス人にも係わらず、長調の部分以外は、ガイジンさん作曲という違和感はありません。日露戦争「白襷隊」などの貴重な動画もたくさんアップされています。前奏部分が少し違っていたりするのですが、私自身は「抜刀隊 ユニオンポップスブラスバンドによる演奏」が好きで、時々聴いています。コメントによると動画は陸軍戸山学校音楽隊のようです。是非、動画をご覧になって下さい。明治の雰囲気が聴けます。(妙)


1972年(S47) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

特装風土記 その9 熊本県の巻 終わり
雨は降る降る 人馬は濡れる

西南戦争の分岐点―熊本城攻防
 西南戦争は明治6年征韓論にやぶれて薩摩に下野した西郷隆盛が、明治10年2月、旧薩摩藩士を中心とする精鋭1万3千を率いて上京を開始したことに始まる。西南戦争の原因については色々言われており、筆者にも考えはあるが、ここでは触れない。結果から言えば西郷は敗れ、城山で自刃するのである。このクーデターの失敗は西郷さんの声望を落とすことにならず、むしろその人気を高めて、上野の銅像は東京のひとつのシンボルになっている。

 明治10年という年は、明治維新から漸く10年、御一新で政治体制は一変したが、その基礎はまだ固まらず、全国に不平分子はあり、政情は極めて不安定であった。その時に明治維新最大の功労者であり、国民的人気も絶大の西郷隆盛が行動を起こしたのであるから、明治新政府は最大のピンチを迎えたことになる。
 鹿児島から熊本まで、九州各地の不平士族の集団を糾合しながら、無人の野をゆくようにして熊本城に到達した。もし、熊本城が落ちれば九州全土は勿論のこと、全国の不平分子は一斉に蜂起するであろう。

 城は加藤清正築く名城、守るに堅く、攻むるに難い。しかし城兵僅か4千、なかには西郷に恩顧のある者も多い。いつ寝返るかも知れない。1万3千の精兵を迎えて果たして熊本城の運命や如何に!これを守る者は誰ぞ、と書くと大時代的な講談調になるが、この人こそ熊本鎮台司令長官谷干城少将であった。谷干城(たてき)は土佐出身、この時41歳。城を出て西郷軍を討つべし、という議論を押さえて籠城策を採り、固く城を護った。官軍の来援を待つことにしたのである。

 明治10年2月22日、西郷軍は熊本城外へ到達した。これより先、熊本城天守閣及び熊本の街が焼けた。失火となっているが、今日では自ら焼いたという説が有力である。天守を焼き、街も焼いて、籠城軍の覚悟を決めさせたものであろうか。街を焼いたことは西郷軍の利用を阻止し、城内からの見通しを良くしたであろう。城を焼き、街を焼いて谷干城は熊本を護り、政府軍を勝利に導いた。
 22日、23日と一気に攻め落とそうとする西郷軍と籠城軍との間に烈しい戦闘が繰り広げられたが決着がつかず、長期戦の構えになった。

屍山血河の田原坂
 当時、小倉第14連隊長は乃木希典(まれすけ)少佐。谷干城の来援の依頼を受けて、その先発部隊は熊本城へ19日に入城することができたが、後続の本隊は22日、熊本市北の植木町で西郷軍と接触し、ここに両軍、屍山血河の戦闘をほぼ50日にわたって繰り広げることになった。雨は降る降る、の唄の続きである。

  山に屍 河に血流る 
        肥薩の天地 秋さびし

 官軍側が増援される間、乃木隊は頑張った。対手は名にし負う薩摩隼人(はやと)、白刃を引っさげて切り込みを何度も敢行する。この当時大砲、小銃も勿論活躍したが、昔さながらの白兵戦も幅を利かせた。なかでも激しかったのは田原坂の攻防で、3月4日から実に17日、官軍の死傷3千、銃弾を一日に25万発から40万発、大砲も毎日1千余発を撃ち込んで、漸く3月20日になって田原坂を陥している。天守閣に陳列されてある大木にささった砲丸や、弾痕の写真など、狭い地域に文字通り雨霰と飛び交わした状況を想像させるのに十分である。城攻めならいざ知らず、野戦の一地点の攻防でこれほどの長い戦闘は日本の戦史の上にもなかったのではないか。関ヶ原の場合でも数時間で勝負はついている。旗色の悪くなった方は逃げ出すのが相場で、田原坂を中心とする熊本北部の戦闘は、始めは互角、時間の経つほど四郷軍は不利となっていった。

 この戦闘で、乃木連隊は軍旗を紛失した。いまの若い人に軍旗、連隊旗といってもピンとこないかも知れないが、軍隊生活を体験した人なら、軍旗は神聖なもので、これを紛失するなど大変な事柄であることが想像できる筈である。この軍旗は旗手が勝手に部署を離れて戦闘に参加して戦死してしまい、西郷軍に奪われてしまったことが真相のようである。この事件で乃木は責任を感じ、死に場所を求めて奮戦したが、重傷を負っただけでこの責任も不問にされた。

 この軍旗事件はその後の乃木の一生に大きな影を落とすことになる。日露戦争の旅順203高地攻防で多くの兵士を死なせたことなどもあり、明治天皇崩御の時、夫人とともに自刃したことは読者もご承知の通りである。
 4月15日、熊本に到着してから50日、西郷軍は敗走を始めた。9月24日、西郷自刃。

 多くの人血を流して西南戦争は終わった。これから明治日本は大きく前進することになる。
 いま、当時の主だった人の年齢をみてみると、そのあまりの若さに驚かされる。
 官軍側からいると、陸軍中将山県有朋が40歳、谷干城41、乃木29。西郷軍の隆盛51歳は別格として、別府晋介31、桐野利秋40,村田新八42である。明治も若かったし、活躍した人達もまた若かった。

 西郷軍には十代の少年も多く参加していたらしい。城内の谷干城の銅像の前に佇みながら、むなしく馬齢を重ねる筆者自身を情けなく、また腹立たしく思ったことだった。





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みなさん さようなら

2017.07.06 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)

1972年(S47) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

特装風土記 その9 熊本県の巻 ②
雨は降る降る 人馬は濡れる

 事務所にもびっくりしたが、清田正光社長に会ってまたびっくり。路線の運転手でも、もう少しまともな服装をしている。人は見かけによらぬもの、ということもあるので敬意を表して挨拶。清田社長も東京から取材に来たことにはびっくりしたらしい。まあまあと、事務所の奥の椅子に案内される。熊本県経済連の仕事は殆ど一手にやっており、東京へも車を出している。年輩の人が入ってくると「おい常務、代わってくれ」と、そそくさと車庫の方へ出てゆく。この常務さんが浜田正雄氏。低温輸送には意欲的で、これからの低温輸送についての抱負を語る。熊本から宮崎にかけての低温輸送業者が軒並みダウンしたのはまだ昨年のことである。情勢が一挙に好転したとは思えないが、中部九州から南部にかけて、これからフェリーなどの影響もあり、低温輸送の需要は起こってくるであろう。業者の再編成の動きもあるようである。ともかく、これまでのような過当競争による運賃のダンピングは避けなければならない。日本冷凍輸送協会設立のことを知ってますかと尋ねると、知らない、という。世話人の福岡運輸あたりから連絡がなかったものであろうか。いろいろ立場は違っても、同じテーブルに着いて業界共同の利益のために話し合うのが協会の趣旨である筈だから、呼びかけるべきだし、またそれに応じるのが筋であろう。

 ボデーは福岡ボデー一辺倒。トレーラタイプに日本トレールモービルが一部入っている。シャシは日野が多い。
 事務所の奥はかなり広い車両置場になっている。熊本県の経済連をバックにしているから、貨物もあり、支払いも堅いであろうが、農産物はとかくシーズンが片寄りがちである。冷凍食品など、加工食品化して付加価値を高めて運賃負担力をつけるとともに、平均した出荷を図ることが課題であろう。輸送業者の立場からすると、生鮮食品にだけ依存するのは非常に危険である。

 浜田常務にバス停まで車で送ってもらい、熊本市内へ引き返す。かなり寄り道になったけれども、地場業者のありのままの姿を見ることがきたのは大きな収穫であった。百聞は一見に如かず、である。福岡ボデーに寄って、吉田勝武直販部長に会ったときにこの話をしたら、あそこまで行きましたか、とびっくりしていた。

加藤清正の築いた名城―熊本城
 昼までの大雨もかなり小降りとなり、傘なしでも歩けるし、夜までに博多に入ればよいので、熊本城へ出かける。
 熊本城に足を踏み入れたのは20年あまり前、学生の頃であった。天守閣はまだ再建されておらず、宇土櫓という三重の櫓というか小天守があるだけの淋しい城趾であった。その時も小雨が降っていたと記憶する。
 天守閣の内部は郷土史料館になっていて、古代からの石器、土器に始まり、加藤清正、細川家から西南戦争関係遺品まで数多く陳列されている。

 この熊本城は加藤清正が慶長6年(1601)から7年の歳月を費やして築城したもので、当時、大阪城、名古屋城とともに天下の三名城と呼ばれた。加藤清正は今でも熊本では人気があり“せいしょこさん”と尊敬されている。清正は賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍や、朝鮮征伐のときの虎退治などで知られる猛将であるが、政治家としても優れた治績を示した。今の熊本市の基盤はこの時にでき上がったし、領内にも堰堤(えんてい)など治水事業も数多く残した。加藤家は次代忠広の時、領土を没取され、細川忠利が小倉から入って幕末に及んだ。細川家は室町時代以来の名家であり、代々文武の嗜みのある領主が出て、領内はよく治まった。赤尾浪士が討入のあと、大石良雄はじめ17人が預けられたのは芝白金細川綱利の邸で、深夜にも拘わらず綱利は一同を引見して厚遇した。この扱いに見習って他の預かった大名も待遇を良くしたと伝えられる。

 薩摩の島津家は徳川幕府にとって油断のならない相手であり、脅威であった。結果は長州の毛利と結んだ島津に徳川幕府は倒されたのであるが、この島津に備えたのがこの熊本城であった。清正は築城家としても知られ、金の鯱(しゃちほこ)で有名な名古屋城天守閣は清正の建造に成る。今の熊本城に見られる下方に緩く上方はぐっと直立して覆い被さるようになった石垣など、優れた築城の技術を今も見ることができる。天守閣前に清正手植えたという大銀杏があり、熊本城を一名銀杏城ともいう。銀杏いすゞモーターの社名のいわれである。

 薩摩の島津に備えた熊本城がその真価を発揮したのは、江戸時代を過ぎて明治に入った10年の西南戦争の時である。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.07.03 06:00|その他月刊誌記事
1972年(S47) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

特装風土記 その9 熊本県の巻
雨は降る降る 人馬は濡れる

熊本のメーカーディーラー
 旅先で雨に降られること位困ることはない。第一に気が滅入ってしまって、意気はさっぱり揚がらぬ。馴染みの対手であればどうってこともないが、初対面ではそうもいかない。
 早朝、大阪からの寝台列車で熊本に降り立ったら、かなりきつい雨脚が駅前広場を濡らしている。ゴミゴミした駅前だが、これは全国の中小都市に共通のもので、駅前のきれいなのは東京駅の丸の内側くらいなものである。

 朝食をすませて、タクシーで市内十禅寺町の南星工作所へ。集材機、ウインチなどのメーカーであり、トラック搭載のクレーンも作っているので、立ち寄ったもの。上野企画課長と面談。技術畑の人らしいが、もひとつハキハキせぬ。初対面でも話が乗ってつい時間を忘れる人もあるが、どうにもうまく入ってゆけないこともある。上野課長は後者のほう。南星工作は熊本の地場産業としては大きく、重工業の少ないこともあり、重きをなしている。

 雨がひどいので、タクシーを呼んで貰って、市内の南のはずれ、南高江の熊本三菱ふそう自販へ。この3号線沿いには各自動車ディーラーが進出している。
 ふそうでは読者の田中保而特販課長と面談。地方では本誌をよく読んでくれている人と語るのは楽しいことである。雨でいささかクサっていた筆者もやっと生気を取り戻した。話しているうちに飼料運搬車の新車が入ってくる。自動車精工の販売会社であるリフトの福岡営業所山田義広君も同乗していたので、呼んで貰い、現地の事情なども聞く。若いハキハキした好青年である。富士自動車の製品の取り扱いもやっていて、新発売のオートゲートは註文をとったのに製品はなかなか到着せず困ったとこぼす。

 ここで傘を借りて、国道沿いのディーラーを訪ねる。熊本日野は畠中哲男業務課長と会う。ここは、以前は購読していたのに今は中止している。内容も良くなったんだからも一度読んで下さいよ、と依頼。冷凍車などにも意欲的であるし、来月は講習を受けにゆきます、と言う。

 また少し歩いて、銀杏いすゞモーターへ。銀杏(ぎんなん)は熊本城にある木で、時には熊本の異称にもなるという。それにしても、植物名のディーラーというのは全国でもここだけではないだろうか。石田四郎業務課長。小型の冷凍車はまだまだだが、保冷車はかなり出るようになったし、これから冷凍車も出そうです、と話す。

 南九州のダンプ市場では圧倒的に強い日産ディーゼル南九州販売では、成迫好則業務課長と針貝元章統括課長のお二人と会う。昨年、熊本を訪ねた時、宮本武蔵の墓のことを書いた。そのときの記事を覚えていて、話をされたのには恐縮。何の気もなしに気軽に書いたのに読者はよく覚えていてくれる。有難いことである。北海道で九州で、熱心な読者に会うことは心励まされるものがある。なかには編集後記や随筆しか読まず、肝心の自動車の方の記事には目を通さないという、何の為にこの本を購読しているのだろうかと、当方にとって有難いやら、有難くないような読者もある。成迫課長は勿論そんな読者ではない。新発売の川西の天突きダンプも幾台か入っているが、評判はいいようだという。川西としては思い切った大判のポスターをそれぞれのシャシメーカーごとに作って配布しているし、この天突きダンプに賭ける熱意は相当のもの。南九州はまだまだ建設工事があり、ダンプ需要はかなり見込めるようだ。ただユーザーがユーザーだけにかなり荒っぽい商売をしなければならないと、他のディーラーも言う。虎穴に入らずんば虎児を得ず、か。

 熊本いすゞ自動車では読者の林課長は不在で有馬盛行車両本部長と会う。全車両のうち、特装車のウエイトはまだまだ低く、手間もかかるので、やはり完成車を重点的に考えてゆきたいとのこと。無理からぬところで、ディーラーの最大公約数的な考え方であろう。しかし、将来的にみると特装車のウエイトは高まってくることは事実であり、ディーラーの総合戦略の中での特装車の取り扱いをどうするかも等閑(なおざり)にできない問題と思うがどうだろう。

 熊本で唯一の車体メーカー、松本車体製作所は昨年工場も訪ね、技術担当者にも会ったが、バス、トラックが重点で、特装には積極的でない空気が感じられた。市内中央街のビルの一室にある本社を訪ねると、清水正雄総務部長が、本を売りに来たんですか、とのっけから言う。本のセールスと思われるところを見ると、まだまだ人相が良くないらしい。そんなことで東京から旅費をかけて来るもんですか、こちらも聞きたいことがあるし、あなたの方だって私から話を聞けば何か得るところがある筈だと、暫く話す。この清水総務部長さん、話し出すと車のこともなかなか興味があるようで、FRPのローリ、フルハーフのバンキットのことなど、専門的な話もする。大乱戦の九州のバン市場で、フルハーフのドライバンキットの組立では価格の点で他メーカーと競争することは難しいようだ。

低温輸送専門業者 新九州運輸
 新九州運輸という、低温輸送の専門業者があり、冷凍・保冷車の大型車が20台ほど持っており、トレーラタイプもあるというので、ディーラーに場所を聞き、タクシーで出かける。熊本市からだと北の方向にあたり、この一帯は西南戦争の古戦場で、西軍が死力を尽くして攻防した田原坂(たばるざか)も近い。タクシーの運転手は話し好きであれこれ喋っていたが、田原坂へ行ってくれ、と言うと、あんなところへ行っても何もありませんよ、平べったい台地で、どうしてあの場所で大いくさをやったんでしょうねエ、というので諦める。当時の地形とは変わっているのかも知れないが、田原坂の古戦場というと、天然の要害ということを想像しがちである。

 道路沿いの電柱に酒王“美少年”という広告が連なっている。
 悲壮な歌詞とメロディーで知られる“田原坂”を読者はご承知であろう。
 
雨は降る降る 人馬は濡れる
      越すに越されぬ 田原坂
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
      馬上ゆたかに 美少年

 著者若かりし頃、ある青年運動をしていた。そのグループで酒になると必ずこの唄が出たものである。悲壮のなかにも美しさがあり、熊本では踊りにも振付されているという。
 あれこれ回想しているうちにタクシーは目的の新九州運輸に着いたらしい。所在地は熊本県鹿本郡植木町広住286-1、まことに粗末な事務所でとても冷凍、保冷車の20台も持っている業者とは見えない。間違えたのではないか、とタクシーをともかく待たせておいて、確認したが、小さい看板も上がっているし、社長も在社しているというのでタクシーを返す。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.06.22 06:00|その他月刊誌記事
1998年(H10) 月刊「NewTRUCK」1月号

トレーラ読本《第2号》
特別座談会 温故知新のトレーラ  終わり

幻のダブルストレーラから
海コン40フィートフル積載まで30年の軌跡

(アップ写真は1998年1月号「NewTRUCK」記事内に掲載したもの)

トレーラ 98 1月号
上左: 5軸セミトレーラ
上右: 5軸フルトレーラ
下左: 40フィートコンテナ用5軸セミトレーラ
下右: 20フィートコンテナ2個積みフルトレーラ

国際水準に達した道路と遅れている車両基準改正
―では、現在に目を転じて、運輸の世界では各方面の標準がどの方向に動いているか、これからのグローバルスタンダード(世界基準)はどうなるか、皆さんのお考えをお聞かせ下さい。

山口 運輸の世界の合理化・効率化は一面でスケールメリットを求めることだと思います。この問題では、重量と嵩(かさ/ボリューム)の両側面から考えなければならないと、当時、運輸省自動車局車両課長の景山さんが発言しておられました。貨物を纏め、大きなロットにして輸送し、車両台数を減らすことが社会の要請で、それがどこまで出来るか、どの単位が合理的かを論じていく必要があると思います。
 海コンによるコンテナリゼーションはISO規格として承認されたものですから、立派な標準だと思います。具体的には長さ40フィート、幅8フィート、高さ9フィート6インチが規格指されています。
 運行する道路はわが国でもヨーロッパ並みのTT43で高規格されて本年4月には主要道路の99パーセントが適合するといわれています。近々高規格道路が公表されるものと思います。
増田 日本の高速道路はアメリカやヨーロッパにヒケを取らないどころか、上をいっているような感じを受けます。幹線道路もぐっと良くなりました。
 ところが、その折角の良い道路を走っているのは依然として変わりばえのしない単体のトラックが圧倒的に多い。
 ヨーロッパでは行くたびに車種が変わって、以前はフルトレーラをよく見かけたのですが、セミトレーラ、それも前2軸後3軸に殆ど統一された仕様がどんどん増えてきている感じを受けます。
 EU各国間の輸送が活発になってきたことも関係しているのですかね。
山口 ヨーロッパでは、アメリカと異なり、トラクタが2軸、トレーラが3軸、合計5軸が主流です。
 日本でも、先般(95年)の保安基準と車両制限令(以下、車限令)の改正でトレーラ連結全長はセミトレで16.5m、フルトレで18mとヨーロッパ並になりました。もっとも、ECのフルトレ全長は18.25mですが…。
 40フィート海コンのフルロード総重量は30t480kgとなり、今度、海コン用トラクタが軸重の上限を11.5tまで緩和されると、TT43規格の道路を走れることになります。(ここで、山口氏は持参されたグラフを示す…)
……
 フランスでは2軸トラクタの駆動軸重を13tまで許容していますが、これはアメリカとのコンテナ輸送が始まった時に打ち出した方針です。ドイツでは10tです。現在EU指令の駆動軸重11.5tは、フランスとドイツの間を取ったものと聞いています。
西 つい先日、ダブルス試作運行のきっかけを作った景山さんにお目にかかって参りました。現在は(財)物流技術センターの副理事長で低公害車の普及のお仕事をなさっていますがお元気です。
 トレーラ研究会のお話を申し上げましたら、日本のトレーラはヨーロッパ型を目指すべきだと話しておられました。

トレーラ98年1月号 ⑤
左: 20フィートコンテナ2個積みセミトレーラ
右: 20フィートコンテナ1個積みセミトレーラ

トレーラ 981月号③
左: 4軸トラック
右: ギリシャのトラックターミナルで撮影


陳情ベースでは進展しない
山口 われわれが反省しなければならないのは、メーカーは合理的な技術論を主張していかなければなれないということです。それを陳情ベースでやっていては合理性を欠く変則的なことになってしまうと思うんです。
平坂 その点、日本コンテナ協会はキチンとした調査に基づく報告に立って主張を展開しています。協会の報告書を見て下さい。
……
 全高4.2mを認めるべきだという主張を国内道路の調査からデータを揃えて行っています。
 実は、日本コンテナ協会には天下りがいないんですね。だから、筋の通った本音の主張が出来るのです。それに対して他の業界団体は役人体質に染まっていませんか。
増田 確かにそれは言えます。トラックショーを開催する時、イヤと言うほど、業界団体の役人的体質、極端な場合は役人以上の官僚的体質を痛感しました。天下りの職員が上の方を押さえているものだから、事務局は上意下達機関で、業界の方よりも上の方を向いている。
 業界団体を通していたら革新的なことは何もできない、業界団体にこだわっていたらトラックショーはまだ日本に生まれていません。
 トレーラの問題にしても、各業界団体が今迄のように揉み手で陳情を繰り返しているんでは前進しない。海上コンテナの外圧に屈して、やっと改正に踏み切るなんてのは、日本の国辱ですよ。
 メーカーそれぞれにも、役所に睨まれたらという恐怖症のようなもので言いたいことも言えないムードがありますが、業界団体もメーカーも正々堂々と言うべきは言う姿勢が必要ですね。
山口 '98年4月からは、海コントレーラに関してはヨーロッパ規格を超えるトレーラが国内で通行することになった。それなのに、一般トレーラはそれより遙かに軽いところで規制を受けるのです。もっとメーカーも運輸業界も論理的に本音を主張すべきだと思います。
根本 道路、橋梁、トンネル、いずれにも技術的にみて荷重や寸法上の許容限度が設けられています。その数字には余裕(安全)を見込んである。これは勿論必要ですが、必要以上の余裕(マージン)は、公共施設の利用のような場面では国家的損失になりかねません。
 これまで、トラックは過積載をするものという性悪説が官側に支配的だったのは民側の問題でもありますね。
 ダンプがその筆頭にあげられ、自重計を義務づけられています。更なる規制緩和を主張するなら、信頼関係を構築するためには、カーゴ車でも軸重規制を明確にする方法をとるなり、駆動軸11.5tを一般的基準として認めよ、と主張するならロードフレンドリー・サスペンションを条件とすることを盛り込んだ提案を行う等の方針を採るべきではないでしょうか。

……座談会は9時半に始めたのだが、時計は早くも予定の12時半に近づいてきた……

トレーラ98年1月号 ④
(左から、トレーラ研究会西襄二氏、本誌増田、伊藤康憲氏、山口晟氏、根本直樹氏、平坂重雄氏)

―それでは、お一人ずつまとめて頂きましょう。
平坂 ダブルス試作運行の当初からトレーラ問題に携わって痛感するのは、われわれメーカー側の腰が引けていて、堂々と科学的根拠に立って言うべきは言う、という姿勢が貫けなかったことですね。
伊藤 トレーラ研究会は幅広く啓蒙活動を展開すべきでしょう。各界トップにも認識を正しく持って頂きたい。
 トラクタの仕様については、国内でも寒冷地の冬季路面条件等も視野に入れた動きが望まれます。
山口 海コンのフルロード運行が認められ、国際レベルの道路が整備されたと思います。早く海コントレーラだけでなく、国内の一般トレーラが国際レベルで運行できるように、メーカーも科学的な論理展開に基づき、役割を果たしてゆくべきだと思います。
根本 この四半世紀の間に、トラックの荷重問題は実重量制に移行してきました。繰り返しますが、必要以上のマージンは国家的損失を招きます。情報は正しく開示し、信頼関係を担保する技術的手段を条件としてでも、効率化を追求すべきです。
増田 先日、ボルボトラックジャパンのヨアキム社長と話しました。スウェーデンの国内市場はごく僅かなもので、常に国際的視点に立って戦略を進めなければならない。これと違って日本のトラック市場は大きなものですから、国内戦略が優先されて国際基準、グローバルスタンダードとの整合というものに余り国が向かなかった。欧州と日本のトラックメーカーの違いを痛感しましたね。国内市場も成熟した現在、トラックメーカーが国際競争力をつけるためにも、積極的に国際水準のトレーラリゼーション実現に努力すべきだと思います。
 皆さんは熱心に長い間、この課題に取り組んでこられたのですが、トップもボードもどっちかと言えば無関心だった、メーカーとして取り組む姿勢が見られませんでした。
 国内の道路輸送の効率化を図ることは日本のトラックを真に国際的なものにしてゆくためにも必要なことなのですから、その視点を持って貰いたいですね。
 山口さんのお話のように、これからは緩和された重量に見合う容積拡大にも向かってゆくとしたら、トレーラに向かわざるを得ない、そのためには、荷物の纏め方、運行システム、ドライバーの育成、トレーラむきのターミナル建設或いは改修とか様々の周辺の課題を解決してゆかなければなりません。

―長時間、熱心にご討議頂きまして有難うございました。皆さんのこれ迄のご努力に対しては本当に敬服させられるものがあります。これで終了とさせて頂きます。 (纏め 西 襄二)


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2017.06.19 06:00|その他月刊誌記事
1998年(H10) 月刊「NewTRUCK」1月号

トレーラ読本《第2号》
特別座談会 温故知新のトレーラ ②

幻のダブルストレーラから
海コン40フィートフル積載まで30年の軌跡

(アップ写真は1998年1月号「NewTRUCK」記事内に掲載したもの)

当時の前田氏の話とその経緯
(ダブルス開発の経過については当事者である前田源吾氏の自伝『輸送に生きた五十五年』が詳しく、山口氏持参の資料もこの中に含まれている。また、最初のいきさつを前田氏自身が昭和44年11月に増田に話している。本誌45年1月号掲載より引用)

前田 一昨年(43年)の8月6日の第31回日ト協車両資材委員会で、私がダブルスにはこれこれの特長がある、運送需要は旺盛だし、労働事情は逼迫している、どうしてもこれを採用しなければならぬということを力説したのです。その頃ちょうど景山さんが車両課長に就任されたところで、いま言ったようなことを説明したのです。よく話を聞いて頂いたので私も調子に乗って喋った。景山さんは「これまでのことはこれまでのこととして、ひとつ前田さんやりましょうや」とおっしゃって頂いて、ダブルス化へ大きく前進した。それから、一層研究も進め、あちらこちらで喋ったり、書いたり、ともかく動き廻りました。そうこうして、一昨年の暮れ12月16日にそれまで話を進めていたトラック協会、自動車工業会、車体工業会、あとから加わった海上コンテナ協会で連絡懇談会をつくり、ダブルスや海コントレーラの研究を協力してやることになったのです。それから何回か会を重ねて、去年の5月26日第9回の連絡会があって、いよいよ試作運行委員会を設けて、実際に動かそうということになったのですが、東名開通直後の大事故、6月の特認車問題、7月の特認車事務取扱い通達などで手間取って、約1000日遅れてやっと10月3日の谷田部の試走に漕ぎつけたのです。
増田 ずい分来ていましたね。
前田 あれは大成功でした。沢山の方が見えてダブルスに対するご理解を深めて頂きました。日本にこれだけの大型車両があったのか、割合スマートじゃないか(笑)など、なかなかよかった。
増田 メーカーも一段と熱が入ってきました。
前田 その前に8月7日京浜のターミナルで、関係者の方にフルトレの運行を見て頂いた。うちのフルトレも丁度ありましたので、これも参加させた。警視庁の石井さんが「前田さん何か見せたいものが他にもあるんじゃないですか」と呼び水を頂いたもので、……今になってみるとね、もっとグングン推し進めたら良かったとも思うが、何しろオッカナビックリ文字通り薄氷を踏む気持ちで、慎重にやってきた。11月11日にいよいよ法制委員会の方へ廻すことになり、試作運転の実施段階に入ってきました。
増田 いよいよ今年が本番ですね。
前田 おかげで関係官庁、団体、メーカーの足並みも揃って来ました。ダブルスに賭けた夢もあと一歩というところです。』

運輸省景山車両課長の発言を受けてダブルスはいよいよ試作運行に一歩踏み出した。

昭43・12  自工会・日ト協・海コン協・車工会の4団体事務局ベース連結車両連絡懇談会発足
 44・6  前田氏委員長に選出
  ・8  谷田部大型車ショー開催
 44・9  連連懇をダブルストレーラー試作運行委員会に変更 第1回委員会開催
 45・6  2セットで予備運行
 46・10  愛陸5セット、大和2セット、日本運送2セット、相次いで試作運行開始
 47・4  走行約40万粁、問題なしを確認
 47・9  無事故走行100万粁達成、
 49・8  300万粁無事故走行確認
 50・1  当初提起された問題点は、300万粁走行で証明されたとして一般公開を要望したのに対する運輸省田付整備部長の発言。「今すぐ一般公開というわけにはいかぬ。今すぐやるとしたなら世界はびっくりする。」
 51・11  ダブルス推進委員会と改称したが、第26回委員会で自然消滅。

ダブルス試作運行トレーラ
          試作運行のダブルストレーラ


なぜダブルスは挫折したか?

―それでは、先ず、改めて当時を振り返って、どのような背景でどのような人達がプロジェクトを盛り上げたか、なぜダブルスは普及しなかったか、等についてお話し下さい…。

平坂 日新出版の96年版「ニュートラックガイド」ブックに私が書いた「連結車両に関する用語解説集」の中でも触れておきましたが、何といっても(トラック)ユーザーの立場で前田氏が情熱を燃やして推進されたということだと思います。背景としては経済の高度成長期であり、荷動きが拡大していました。前向きの良い時代でした。官側も運輸、道路(建設)、交通(警察庁)が同じ目的に向かって協力していた。民間側もユーザーとメーカーが物流の効率化に対して共通の認識で動いていたと思います。
 10年間の試験運行を経て、時代は安定成長期にさしかかり、ダブルスに適当な荷が集まらなくなったことが普及に至らなかった理由ではないでしょうか。
 車両の運行安全に実証が得られた成果と共に、道路の整備が進んだということも成果ではないかと思います。
根本 官民一体となって組織した「連結車両連絡懇談会」(以下、「連連懇」)は、空前絶後の委員会だったと思います。平坂さんの提案をきっかけに発足したと記憶しています。誰がリーダーシップを取ったかといえば、海上コンテナ協会(現在の日本コンテナ協会の前身/以下、海コン協)と日ト協が主役だった。
 前田さんが生産性本部(現在の(社)社会生産性本部の前身)の米国視察団に加わって、あちらのダブルス全盛の時代に接してわが国の物流効率化に必ずや資する方式として普及構想を膨らませたのだと思います。
 何故普及しなかったかと言えば、国道(高速道路ではなく)が狭い、各社のターミナル物流施設が狭い、トレーラ免許保有者が少ない、訓練システムが確立していなかった、等々の理由が挙げられます。それに、本場アメリカのドライバーの体力、あの太い二の腕で軽々とフルトレのドローバーを持ち上げ、いとも簡単に連結脱着操作をする、50回もハンドルを回さなければならないランディングギアの上げ下げ操作も彼らは簡単にやっていました。日本人向きにもっと改良しなければいけなかった。その後、電動ランディングギアが出来ましたが…。
 技術的には、周辺技術が未熟だった。ABSが当時出来ていたら普及を見たのではないかと思います。当初はトレーラのエンジンが弱かった。当時のエンジンは300馬力程度だったでしょう。それでもダブルスは累計で1000万㎞走破し、基本的な問題は全てクリアして、日本のトレーラリゼーション全般に大きな進展をもたらしました。
 その後、トレーラに関する法規上の重要事項が法制分科会の討議を経て法令に反映されるという、大きな成果も得られました。

―かなり論点もはっきりして参りました。これ迄の動きの反省を踏まえて、今後の運動はどう展開すべきか、お聞かせいただければと思います。

伊藤 海コン(トレーラ)は進展しました。ダブルスが普及しなかったのは、運用上の制限が多くまた、日本の風土に馴染まない面が多かったからではないでしょうか。当時のアメリカのダブルスや、トリプルス、オーストラリアで走っている6両連結のロードトレーン等、その国の風土から生まれたものだと思います。
 しかし、ダブルスプロジェクトの波及効果は大きかったと言えます。
山口 当時、アメリカではバン型トレーラとダブルスが全盛でした。日本フルハーフはアルミバントレを日本で普及させる目的で設立されました。一方で、コンテナリゼーションが進み始めました。マトソンが24フィート、シーランドが35フィートコンテナを使い出して日本にもその波が押し寄せて来ました。フルハーフはシーランドと関係が深いものですから、海コンの陸上輸送用トレーラにも当時取り組んでいました。海コンも当時からどんどん進化して、今日の20フィートと40フィートに標準化され、高さが8フィートから9フィート6インチに拡大していったのはご案内のとおりです。
 貿易国たるわが国が、国際物流の流れの中で海コンの規格とその流通問題に逆らえるものではない。基準緩和適用を受けてその都度当面の対応をしてきたのは、道路と関連施設の社会的基盤(インフラ)の未整備との妥協の結果です。
 ダブルスについては、フルハーフはトレーラ部分を担当させて頂き合計5セットを納入しました。累計1000万㎞走破した10年間に、世の中は重厚・長大の時代から軽薄・短小の時代へ変わった、景気も下降方向に向かった、そんなことが普及に至らなかった背景だと考えます。
 アメリカではEUコンテナのダブルスタック(2段重ね)による大陸横断に刺激され、バントレーラのコンテナ化が進み、大きさは53フィートまで大型化する独特の進展をみせました。日本でアメリカの行き方を手本にすることは、国土の事情から無理なところへ行ってしまったと思います。
増田 ダブルスが試作運行された昭和40年代の後半から石油ショックにかけて、日本は高度成長路線を走っていて、輸送量は急速に増えるし、ドライバー不足も懸念された時代でした。
 この時代に、トラック事業者が対応したのは過積みというきわめてイージーな方法で、GVW20tのトラックに積めるだけ積んで走っていた。そういう中でダブルスは過積みをしないで、安全のテストと記録を取るために運行したわけですから、もし過積みという悪しき慣習がなければ、ダブルスに期待が集まったんじゃないでしょうか。
 試作運行しているうちに今度は景気が下降してきて、ダブルスのような大きな車は要らないというムードも出てきたと思います。タイミング的にダブルスはついていないところもあったような気がしますね。

トレーラ US&EU
左: ヨーロッパのセミトレーラの主流は計5軸車(スペインで)
右: アメリカのダブルストレーラ

―皆さんのお話を要約すれば、
① 機運が盛り上がったのは、当時の急テンポな経済発展を背景に、高速道路の整備に呼応して大量輸送の需要に応えるダブルスが脚光を浴びた。民官を上げて普及に向けた試験運行の機運が盛り上がった。そのリーダーシップを執ったのは前田氏を始めとするトラック協会とトラクタ・トレーラメーカーであり、理解を示しインフラ整備と許認可で直接関係する運輸・建設・警察の各省庁の同調があった、ということですね。また、
② 普及に至らなかった理由は、試作運行の10年という期間に社会情勢が変わってきた、インフラ整備が必ずしも進展しなかった。
 いずれにしても、世の中の変化に対応する為に、荷の集め方、ドライバーの訓練、車両の一層の進化、など効率的な運用に耐える総合的システムとして更に広範囲の研究が必要だったのに、機運が萎んでしまった。結果的にダブルスは普及に至らなかったということになりますね。しかし、
③ あのプロジェクトは今日のトラックとトレーラに繋がる大きな波及効果をもたらした、ということですね。
(つづく)


 
プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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