みなさん さようなら

2018.06.21 06:00|その他月刊誌記事
走れ歌謡曲 1人じゃないんだ日野ファミリー
真夜中のラジオガール達の本ができました

下写真左: スタート時のフルメンバー
前列右から 成田あつ子、兼田みえ子、西条ゆり子、後列右から 夏 杏子、美川玲子、長野悦子 の皆さん
          (右端円内は 山沢じゅんさん)

走れ歌謡曲

1982年(S57) 月刊 「特装車とトレーラ」6月号

あちら 15年目に入った日野提供早朝ラジオ番組

 日野自動車が提供する早朝のラジオ番組“走れ歌謡曲”の女性パーソナリティの楽しいおしゃべりなどをまとめた一冊の本が出来た。その名もズバリ“真夜中のラジオガールたち「走れ歌謡曲」”。

 火曜日から日曜日の早朝3時から5時まで文化放送をキイ局に、地方放送局を結んだこの番組がスタートしたのは昭和43年11月、もう15年近くになる長寿番組である。
 何しろ、3時から5時といえば、深夜と早朝の狭間(はざま)の時間帯、現代の丑三つ時に人気番組を誕生させた日野自販やラジオ局の担当者の先見の明には感服の他ないが、この番組を生んだ最大の原動力はやはりモータリゼーションの急速な展開であろう。

 実はこの私、“走れ歌謡曲”の隠れファンで、聴取歴は10年を超える。わが社のトップスポンサー日野自販に義理立てして聞いているのでもなく、特にお目当てのパーソナリティがあって熱を上げているわけでもない。長距離ドライバーと同じく、生活上の必要があって断続的ではあるが聞いているのである。

 この雑誌の経営を引き受けた昭和44年から2年間、カネはない、家はない、事務所はない、時間はない、社員はいない、のないない尽くしだった。市販の原稿用紙と鉛筆と若干の資料を持って安宿を転々としながら早朝に記事を書き、昼は地理もろくすっぽわからぬ大東京をさまよい歩いて広告を貰ったり、購読を勧誘したりの生活が続いた。頑張りの甲斐あって、どうやら本の方もメドがついて家族を大阪から呼んで都内のあばら屋に落ち着いたのが、昭和46年11月だった。

 ここで早朝作業の伴侶ができた。ラジオである。ソニーCF1110、カセット付きの一番安物のラジオだが、このラジオから飛び込んできたのが“走れ歌謡曲”だった。
 今もそうだが、何かまとまった仕事をする時には2時から2時半に起きる。当時はたった1人で何もかもやらねばならなかったから、1ヵ月のうち、10日間ぐらいは早起きして、仕事をしながら聞いた。

 玲子ママ、たか子姫、ゆりっぺ、みえ子さん、当時のパーソナリティが懐かしい。このうち、ゆりっぺこと西条ゆり子さんの担当日である昭和47年7月1日の“走れ歌謡曲”を中心にこの番組の記事を掲載したのが本誌47年7月号。この本を持って文化放送にゆり子さんを訪ねたのだが、女性に向かうと喋れなくなる私のことで、殆ど何も話さず帰ったことを記憶している。

 あれから10年経った。“走れ歌謡曲”はすっかり定着したが、パーソナリティのメンバーは全て入れ替わって若い世代に引き継がれている。
 私の周辺も大きく変わった。銀行が無理矢理カネを置いてゆくし、家も事務所も社員も揃い、東京の地理にもすっかり慣れて、長く住んだ大阪に出張すると迷う位である。
 メインの記事は社員が書くので、「今月は残りこれだけですからお願いします」という具合で、いわばお余りのページにこういう雑文を書く形となった。

 早起きの習慣は相変わらずなので、時間はたっぷりあるのだが、そのうち生活のための原稿書きの時間はごく一部になっている。朝の時間は読書、英会話、書道に振り分けて使っているのだが、どれもこれも“走れ歌謡曲”を聞きながら、できるシロモノではない。従って、この番組を聞く回数は少なくなったものの、原稿書きやその整理の仕事が皆無になったわけでもない。毎月締切前の何日かは必ず聴きながら仕事をする。

 “ふたり酒”を引っ提げて紅白にも出場した川中美幸さんもこの番組のレギュラーパーソナリティで、応募してきた“ふたり酒”の替え歌を番組の中で歌っていたが、歌手生活との両立は難しくなったとみえて、この3月末で降りた。そのお別れの放送も聞いている。

 いま、この原稿を書きながら聞いているのは山沢じゅんさんの担当である。(4月30日)この山沢さんで驚いたのは、先程の彼女たちの書いたものをまとめた本の中で、各パーソナリティの趣味や好きな言葉、好きなタレント、愛読書などを紹介する欄があって、そのうちの好きな言葉がピッタリ私のそれと一致したことである。

 少ニシテ学ベバ壮ニシテ為スアリ
 壮ニシテ学ベバ老イテ衰エズ
 老イテ学ベバ死シテ朽チズ

 この佐藤一斎の言葉は好きな言葉というより、私の終生の指針としているもので、本誌にも紹介したことがある。この言葉が、サンフランシスコの放送局に勤めたこともあるというこの行動的な娘さんの好きな言葉であるとは。一体彼女の周辺で誰がこの言葉を教えたのか、あるいは彼女自身見つけ出したのか、非常に興味のあるところで、一度聞いてみたいと思っている。

 好きな言葉が一致したものだから山沢さんにスペースを取られてしまったが、勿論他のパーソナリティの担当も聞いている。聞いてはいるのだが、聞く時間が少なくなったこと、彼女達の入れ替わりが多くて、なかなか名前と声が一致するところまでゆかぬ。
 その点、玲子ママ、ゆりっぺ、みえ子さんは番組スタート時から昭和53年の引退までまるまる10年間、なかでも玲子ママ、ゆりっぺは水曜・土曜を受け持って、文字通り10年選手として通した。私の耳には彼女達の語り口がまだ残っている。

 何しろ年頃の娘さんの職場であり、10年選手が揃っていたということ自体が珍しい現象であったかも知れない。しかし、番組をリードする迫力のあるキャリアパーソナリティが1人あるいは2人は必要であると思う。ドライバーが甘えられるような、お姉さん的存在、あるいは姉御といった方がいいかも知れぬが、そういう貫禄のあるパーソナリティが育ってほしい、と考えるのは身勝手だろうか。

 間もなく満15年を迎えるこの長寿番組、制作スタッフも聴取者も変わるのは当然である。ごく初期のパーソナリティ成田あつ子さんのように若く逝ってしまった人もあるし、落合恵子さんや川中美幸さんのように文筆や歌謡曲の世界で脚光を浴びている人もある。
 誰かの言葉を借りれば“走れ歌謡曲は不滅です”。番組のある限り、私もおつき合いをしたいと思っている。


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みなさん さようなら

2018.06.18 06:00|その他月刊誌記事
1982年(S57) 月刊 「特装車とトレーラ」6月号

こちら いすゞ、日軽etc.提供のテレビ番組スタート


トラック人情物語 “女(め)かじき特急便”
“なっちゃん”トラックドライバーで大奮戦

 女だてらのトラック運転手、しかもイキの良さが身上の焼津魚市場が舞台、彼女は亡兄の子を養っているが、好きな男もいる。その男の遠洋への出漁の日、彼女は岡山からの帰り、便乗のおばあさんを乗せたりしたものだから、出航の時間に遅れた。沖合はるかに出て行ってしまった船を波止場で見送る―――。

 4月28日から日本テレビ系で始まった“女(め)かじき特急便”第1話“恋の追っかけッ娘(こ)”のラストシーン。彼女を演じるのは、星野知子、NHK朝のドラマ“なっちゃんの写真館”でお馴染み、最近は「ワインな関係」というポスターや広告にもぐっと若やいだ坂田栄男囲碁9段などと登場している長身で目の大きな女優さんである。どちらかといえば明るいお嬢さんタイプと考えられているので、トラック運転手という男っぽい役を演じるのはどうか、と懸念していたが、第1話を見た限りはまずまずの出来であった。

 もともと、魚市場に出入りするトラック運転手という設定そのものに大きな意外性、珍しさがあるので、ストーリーそのものに現実性を求めることはかなり難しい。その非現実性をどう克服して、ドラマとして定着させてゆくか、製作スタッフの苦心するところであろう。

 番組のスポンサーは、いすゞ自動車、日本軽金属ほか。当然使用トラックはフルハーフボデーを架装したいすゞ車で、4トン車になっているのは主演者が大型免許を持っていないおいう理由からと思われる。従って、物語の展開もトラックの迫力を画面にぶっつけるというより、なっちゃん、いや“オッコ(主人公名)”と彼女を取り巻く人達の人情話に重点が置かれるかと思う。

 しかし、この原作は劇画というから、“オッコ”の運転技術も急速に上達して、大型トレーラを引き回せるようになり、大暴れするシーンも見せて貰いたいものだ。美女が牽引する大型トレーラ、これもまたいいではないですか。
 ともあれ、近来の大型女優と言われる星野知子が従来の清純イメージをかなぐり捨てて挑戦する“女かじき特急便”に期待しよう。女かじきは正式には眼カジキ、オスメスには関係なく眼が大きいカジキで、体長3m以上に達するものもある。

 なお、本誌では焼津でロケ中のこのドラマを密着取材して読者にお届けするつもりであるが、取材出張の希望者が多く、目下その人選に難航している。(何しろ、美味い漁と酒つき、一番行きたいのは社長ではないか、との声もある。)


みなさん さようなら

2018.06.14 06:00|その他月刊誌記事
1992年(H4) 月刊「NewTRUCK」 5月号

忙しいと言ってはならぬ ②
佐藤一斎(いっさい)


 一斎の主著『言志四録』はその名の通り、4部から成る。
 42歳から52歳にかけて『言志録』、57歳から66歳までに『言志後録』、67歳から78歳までに『言志晩録』、80歳から82歳にかけてが『言志耋(てつ)録』、前後実に40年にわたる読書録・感想文で、一斎の人と学問がこの中に凝縮している。

 現代もこの『言志四録』は脈々と生きていて信奉者は多い。東京電機大学の学長だった川上正光氏は詳細な訳注を試みて講談社学術書文庫から出版され、私も直接にお話をお聞きしたことがある。
 今年の2月、湯島聖堂で山崎道夫先生から紹介されたのが、鈴木恭一氏の『佐藤一斎に観る理想の指導者・人間像』(日経事業出版社)で、著者鈴木氏は一斎ゆかりの岩村町出身、名古屋大学の化学工学科卒業、三菱化成(株)に勤務する方で、お年は私より11歳下、今年55歳になる。この本は重厚な装丁で、カバーは鈴木氏の代々が岩村で染物をやっておられる旧家であることから、染めの型紙を模した分厚いもので、一般市販本には余り見られぬ逸品である。一斎の主著の『言志四録』をメインとしてもう1冊安岡先生初めいろいろな方が取り上げた『重職心得箇条』を取り上げて、事業社会に生きる人達の心の拠り所として一斎の言葉を「指導者観」「経営観」などに分類・解説しておられる。
 電機の川上氏、化学の鈴木氏、それぞれご専門外の分野に取り組まれ、立派な著作をものされたのは素晴らしいことだと思う。

 佐藤一斎は青白きインテリ、干からびた儒学者ではなかった。若い日の血気は内に秘めたものの、凜乎(りんこ)とした熱気は生涯通じて衰えなかったのであろう。それがなければ、88歳没年までの現役の活躍は不可能だ。まさに文教の上での巨人、哲人の生涯で、その言葉、文章と相まって後世の私達を引きつける要因となっている。

忙しいと言うな 生涯学習
 佐藤一斎に『重職心得箇条』があることは先に書いた。
 中小企業に限ったことではないが、オーナー企業では経営者の二世、三世が若くして重職、つまり重役やトップの座に就く場合が多い。これは封建制の江戸時代も同じ事で、藩主、家老重臣の後嗣ぎは親の身分を世襲する。佐藤一斎にしても、そのまま武士階級に止まっていれば家老の職に就いたに違いない。どうすれば立派なリーダーになり得るか、指導者としての人のあり方を説いた儒教を武士階級が熱心に勉強したのは当然だった。

 では重職の人はどうあるべきか。
 身近な問題として、私は安岡先生から、最近の経営者は忙しいなどと言って手帳を出してみたりするが、忙しいなどというのは恥ずべき事である、と言われたのが深く心に焼き付いた。
 私のポケットには手帳がなく、忙しいという口実で人と会うのを避けたことはない。5分でも10分でも時間が作れないのは、その人が忙しがっているに過ぎないのだと思う。
 一斎の言葉を引用しよう。

 重職たるもの、勤向(つとめむき)繁多と云ふ口上は恥(はず)べき事なり。仮令世話敷(たとえせわしく)とも世話敷(せわしき)と云はぬが能(よ)きなり、随分手のすき、心に有余あるに非れば、大事に心付かぬもの也。重職小事を自らし、諸役に任使する事能はざるが故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職多事なる勢あり。(第八条)

 訳文は必要ないと思うが念のため。

 (重役がいや忙しくてね、などと言うのは恥ずかしいことだ。忙しいのは事実であっても忙しいなどと言わない方がいい。バタバタ仕事に追いまくられているようでは本当に大事なことには気がつかぬものである。重職がつまらぬ仕事に口を出して担当の者に任せきることがことができないから、部下がよりかかって、余計に重役は忙しくなるのだ。)

 忙とは忙(こころ)を失うこと、うろうろと日常の現象面にだけ心を奪われていては、肝心のところが抜けてしまう。忙しいと言いながら、部下に任せていいことも任せもしないで、つまらぬ会議や会合に時間を潰すことが多いのが現代の重役だが、一斎の時代にもそれがあったらしい。
 一斎は任使というが任用も同じ事、任は任命する、あるポストを命令する意味もあるが、委任の任(まか)すの意味合いもある。任命しながら、任せないような上司が結構多いのは読者も体験済みだろう。

 この任使、任用は実に経営の根本で経営者が最も留意しなければならない課題である。忙しいと言うな、任使、任用が重要である、一斎の重職心得を読み、安岡先生から直接教えられたこの言葉だけでも、私は学問した値打ちは十分あったと思っている。
 世間的に見るならば私も結構忙しい部類に入るに違いない。日新出版、日新企画、パラボックスの小さいながらも三つの会社の社長にイベントのトラックショーの会長が加わる。
 一斎の言う手のすき、心に有余(ゆとり)があると、じっくりと計画を立てることができる。

 少(わか)くして学べば壮にして為すあり
 壮にして学べば老いて衰えず
 老いて学べば死して朽ちず
  (言志晩録)

 最近ボケ防止に囲碁が流行しているそうだが、実際は定年になってから始めるというのでは遅い。生涯学習の大切さを一斎は説いているのだが、その一生はまさにこの言葉のとおりで、88歳の没年まで学び続けて、現代に至る迄大きな影響を及ぼしている。
 中小企業の経営者二世はその職にある年数が長い。年を取れば取ったで、大所高所から会社を見てやる必要がある。老いて衰えてはならない。生涯学習の最も必要なのは二世、三世である。
(おわり)

みなさん さようなら

2018.06.11 02:36|その他月刊誌記事
1992年(H4) 月刊「NewTRUCK」 5月号

忙しいと言ってはならぬ
佐藤一斎(いっさい)

 いま、織田信長がブームになっている。時代を見抜く洞察力と果断と実行力によって群雄に先駆けて天下の覇者になるかに見えた。しかし、己の才能と天分に自信を持つ信長は、仁とか徳の観念に到達する以前に、自ら引き立てた明智光秀によって中道で斃れる。
 バブルが崩壊した今、ひたすら富と利を求めるだけの経営は行き詰まりを露呈している。本当の力、利は道義と徳によるものでなければならない。お酒の徳利は言い得て妙である。あの人はやり手だと評価されるより、人徳があると言われる方が望ましい。徳は得につながる。

三十而立(じりつ)六十耳順(じじゅん)と一斎
 今から30年余り前の大阪で新聞社勤め時代、私はある早朝読書会の世話役をしていた。故安岡正篤先生の教学を奉じる人達によって「関西師友協会」が結成されたのが昭和32年。(つい先日35年記念祝典が開催された。)青年部長を2年ほど勤めた後、30歳代から40歳代の壮年層を対象に而立(じりつ)クラブを結成して早朝読書会に取り組んだ。
而立とは論語の中の、

 吾十有五而志学
 三十而立                 
 四十而不惑
 五十而知天命
 六十而耳順   
 七十而従心之欲所不踰矩



  吾十有五ニシテ学ニ志シ
  三十ニシテ立チ
  四十ニシテ惑ワズ
  五十ニシテ天命ヲ知リ
  六十ニシテ耳順(したが)イ
  七十ニシテ心ノ欲スル所ニ従イテ矩(のり)ヲ踰(こ)エズ

からとったもので、青年期を過ぎて、いよいよ自己の確立に取り組む年代に入り、大いに勉強しようとの意気込みからの命名だった。

 毎月第一木曜日の朝6時半から開いたので、読書会の名称は「一木会」で、論語の
   剛毅木訥(ぼくとつ)仁ニ近シ
の「木」の意味も含んでいる。会場は大阪市北区にある天満宮、大阪で言う天満(てんま)の天神さんだった。6時半に集合して先ず拝殿に端座、神官の祝詞の後にお祓(はら)いを受ける。冬の6時半はまだ暗くて、開け放しの拝殿の冷気は厳しい。闇の中の仄かな灯明に浮かび上がる白い神官の姿が印象的で記憶に残る。

 この而立クラブの早朝勉強会である「一木会」で参加者が順番に読んでいったのが、これからお話ししようとする佐藤一斎の『言志四録』だった。3年位かけて全部を読み通した気がする。
 その後も佐藤一斎と『言志四録』については安岡先生からお話を聞いたり、いろいろの立場の方の著書を読む機会はあったが、6年前から急に一斎が身近に感じられるようになった。

 昭和61年、耳順つまり、満60歳の還暦を迎えることになって、自動車車体通信社から日新出版にかけての17年間というもの、会社の基礎固めのため、昼は営業や雑用、休日と朝は原稿書きに追われて勉強らしい勉強をすることが殆どできなかった。青壮年の頃、師と仰いだ安岡先生は亡くなっておられる。その4年前の昭和57年から銀座の事務所で論語の月例講義を始めたものの、内容は空疎きわまる。月謝を受け取るわけではないにしても、折角足を運んで下さる聴講者にお粗末な論語講義では申し訳ない。

 文字通りの『六十の手習い』を東京お茶の水の湯島聖堂で開始したのだが、この聖堂こそ佐藤一斎の活躍の舞台であり、その域内に住まいを持ち、当時としては珍しい長命の88歳で没したのもこの地であった。
 六十の手習いの師は一斎没年と同年88歳の山崎道夫(みちと)先生、『佐藤一斎』の著書もある山崎先生は至極壮健で、一斎の長寿記録を大幅改新することは確実だ。聖堂の山崎先生講義が一斎のそれと時を超えて重複して迫る時もある。

巨人、哲人の一斎の生涯
 一斎が何を説いたのか、それは少し後に廻して、一斎の人物を先に紹介しておく。
 一斎は安永元年(1772)江戸の岩村藩下屋敷で生まれ、安政6年に江戸お茶の水の幕府学問所で没した。その生まれた時代は鎖国下で太平の世を謳歌していたが、一斎88歳の生涯の中で時勢は大いに動いた。没年の5年前にはペリーがアメリカ艦隊を率いて浦賀に来航して開国を迫り世情騒然、井伊大老の安政の大獄があったのは一斎没年の安政6年、没後わずか9年で江戸幕府は崩壊した。一斎の学問と業績を考える場合、この時代背景は大きな意味合いを持つ。
 一斎の父は岩村藩の藩老をしていて、その江戸下屋敷で生まれた。岩村藩は美濃国、現在の岐阜県の南東端に近い岩村町に居城があり、親藩松平氏3万石ほどの小藩で、数年前に筆者は訪れて、その記事は周作閑話に書いた。(62年9月号)

 岩村藩主松平氏の第3子衡(たいら)は幕府学問所の総帥の林家8代目を継いで林述斎となった。述斎は林家代々の中でも傑出した存在で、述斎は文部大臣、一斎は一校だけの国立大学総長というような立場で、藩主と家老の子が困難な時代の幕府文教を支えたコンビであった。

 武士の子一斎の若い頃は、剣術はもとより弓術、馬術、槍術武芸百般の達人で、いい気になって吉原通いする侍共を途中で叩きのめして喜んだり、相当の暴れん坊であったらしい。
 19歳の時、藩主松平乗保(のりやす)の近侍となったが翌年免職になり士籍を脱することを願い出て、学問に志すことを決意した。名も捨蔵と改めて、大坂の中井竹山について学んだ。この大坂留学は一斎にとって非常に大きな意味を持つもので、それ迄幕府の官学は朱子学であったが、既に陽明学に関心を寄せていた一斎がこの大坂留学で、より一層傾斜していった。朱子学、陽明学を説明することは容易ではないが、前者はあく迄も物の理を追求する、つまり先ず知って後に行う、先知後行であるに対し、後者は知行一致を唱える。陽明学を行動の学問と受け止める人もある。

 朱子その人は全く意図しなかったことだが、中国においても、朝鮮、日本においても、朱子学が体制側に都合のいい学問として利用された面は否定できない。ただし、日本ではかなりゆるやかで、朝鮮は全く朱子学一辺倒だった。唯一の国立大学総長の一斎が危険思想の持ち主であっては大変で、表面的には朱子学、内面は王陽明の興した陽明学であるということから、陽朱陰王の名を奉られたりしている。しかし、一斎は表も裏もなく、両者の長所を融合して己のものとした。

 22歳の時に幕府の文教を取りしきる林家に入ってから66年間、一斎は己の学問探究、教育、著作に没頭した。
 弟子3千人といわれ、直接の弟子はもとより、一斎の著作の『言志四録』の抄本を自ら作った西郷南洲を初め一斎の影響を受けた人は数知れない。
(つづく)



みなさん さようなら

2018.04.19 06:00|その他月刊誌記事
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 5月号

中国・歴史とその遺産⑪

天下の絶勝廬山(ろざん)と静かな白鹿洞(はくろくどう)書院
日本にも大きな影響を与えた朱子学


四季すべて廬山の名勝
一瞬見せた天下の絶景

 廬山は、日本でいえば軽井沢と箱根をミックスしたようなリゾート地で、一行の宿舎の廬山別野村は毛沢東も泊まっていたし、蒋介石夫人の宋美齢の別荘は廬山賓館となっている。
 早朝、周辺を歩いてみると、一般の民衆生活とは全くかけ離れたような洒落たホテルや邸宅を見かける。この一帯の東谿(とうけい)は昔も今も特権階級の専有リゾート地らしい。少し離れた西谿は一般人も出入りする観光地のようで、土産物屋や食堂、公園などもある。

 廬山の最高峰は海抜1474mで、それほど高い山ではない。切り立った断崖の上は広い台地になっていて、そこに別天地が広がる。
 避暑地として有名で、「春の山は夢の如く、夏の山は滴(したた)りの如く、秋の山は酔うが如く、冬の山は玉の如く」と形容される。
 春は雲や霧に包まれて夢幻の世界のようで、夏は緑したたる美しい翡翠(ひすい)のよう、秋の紅葉は少女がお酒を飲んだみたい、冬は木々が雪に包まれて白玉に似ている、というこの表現は、さすが詩文の中国のものであろう。

 この言葉のとおり、晩春のこの日の朝はすっぽり雲霧に包まれて、10m先も見えないほどだったが、バスで下山するとき、ほんの数秒、ガスがきれいに霽(は)れて廬山の断崖から下界を望むことができた。これこそ南画山水画の世界である。
 400のカーブがあるというガスに包まれた急坂をバスはぐんぐん下ってゆく、この日野製のバスは、今回の中国旅行で乗ったものの中で最高だった。廬山の定期バスは他の路線バスとは比較にならないグレードの高いものだった。カーブの多い急坂や、外人も訪れるリゾート地であることを考慮しているのだろう。下界は日本によく似た田植え時の水田風景である。

1200年の歴史の書院
朱子講学天下第一の学校

 今回の中国旅行の最後で最大の見学地が廬山の南にある白鹿洞書院である、といっても一般の人には殆ど縁のないところで、この日もわれわれ一行の他に人影を見ることはなかった。



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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