みなさん さようなら

※ 今年は丙申(ひのえさる)。

干支の干のを、安岡先生著『易学入門』の解説で見ると「陽気の発揚」とある。丙に火偏をつける炳(へい)は太陽が燃える「あきらか」の意味である。(2004年1月号巻頭特別記事より)


2004年(H16)月刊「NewTRUCK」1月号
わだち

 今年は申年(さるどし)。お猿さんの絵が年賀状などで氾濫している。猿は手が長いから伸ばしてモノを取ることができる。そう、申に人偏(にんべん)を付けると伸びるとなって、申には伸びる意味がある。手長猿というように、動物で手が伸びるのは猿だから、申を猿に当てたものである。
 猿知恵、猿まね、猿芝居など猿にまつわる言葉には余り良いものがない。その姿や動きが人間に似ているからだが、猿には気の毒な気もする。朝三暮四(ちょうさんぼし)も三猿と同じ教訓で、大昔ある猿使いが猿に向かってトチの実を朝3個夕方に4個やると言ったら、猿は猛烈に怒りだした。朝4個夕方3個にすると言ったら猿は大喜び、結果は同じなのに、その時々の状況で一喜一憂する浅はかさを言う。申は干支の支の方だが、肝心の兄貴分の干は甲(きのえ)、殻を破って芽を出す前兆、今年は良い年だと張り切っていきましょう。

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みなさん さようなら

延光寺 3492
            四国霊場第39番札所 延光寺 (増田家墓所)

11月21日は増田周作の祥月命日です。あれから3年が経ちました。病床で12月号の原稿を仕上げたのが11月15日。翌16日には「…余命は数日と思いますのでお目にかかることは出来ませんが、…来年のトラックショーは是非ご臨席のほどをお願い申し上げます。」と、第18代当主徳川恒孝様へ切なる願いを書きとめ、これが最後の文章になりました。父の言う、“あの世への道行きの時間”は、長かったのか短かったのか。最晩年(2012年)の初夏から、トラックショーの原点であったフェリーで九州から北海道へ懐かしい人々を訪ねてひとり、取材に出かけたのは幸せな道行きの時間であったと思います。取材に快く応じてくださった皆様、また弱った父に手をさしのべてくださった皆様のご厚情に、深く深くお礼申し上げます。(妙)


2003年(H15) 月刊NewTRUCK 12月号
わだち(編集後記)

 まだ年末まで1ヶ月余りもあるから、何が起こるか分からないが、日新出版も私自身にとっても慌ただしい1年だった。「東京トラックショー」、文化講演会があり、『従心日録Ⅲ』発行、各所への論語講義、執筆などこれまでの生涯で一番充実した生活だったし、健康にも恵まれた。生来貧乏性の私は、バタバタしているのが一番で、悠々と毎日が日曜日という風雅な生活はそぐわないのである。
 というものの、来年はトラックショーもないし、江戸開府400年も終わったから少しはのんびりできるだろう。

 旅にも出たいし、本も読みたい、書にも力を入れたい。バリバリ現役でポックリというのが理想と言う人もいるが、その前に僅かながらの、あの世への道行きの時間があったら有難いなと思う。


みなさん さようなら

世は秋のシルバーウィークとやらですが、増田周作のブログはお休みなしでいきます。
夢だった船を加えた雑誌「TTJ(Transport Technical Journal)」を創刊したのは1999年夏。
しかし、月刊「NewTRUCK」発行、毎日のWeb「お早うコラム」発信、講演会、「東京トラックショー」にこの陸海空の季刊誌を加わえては、さすがに並外れた能力の父にも継続は難しく、数年で打ち切ってしまいました。読者からは、いい雑誌なのにと惜しむ声も出たのですが…。社長は特別でも、私たち社員はみな凡庸だったことの証明になりました。(妙)


TTJ.jpg
                      季刊誌 「TTJ」 表紙


1988年(S63) 月刊 「特装車とトレーラ」 9月号

 ある雑誌に世界に珍しい魚を追いかけて剥製をつくっている人の写真が載っていた。その職業が釣りの週刊誌発行、道楽とメシの種が一致した羨ましいご仁である。
 モノを書くことはちっとも苦にならぬが、車は余り好きではない筆者が本当に出したいのは船の雑誌。しかし、今からでは遅すぎる。
 サン自動車に挨拶に行ってモーターボートを見てから、雑誌で果たせぬ夢をモーターボートで叶えたい、と考え出した。
 わがマンションの真下にモーターボートのプールがあり、ディズニーランド沖を横切り、隅田川に入って事務所近くに上陸する。
 一杯機嫌で東京の夜景など眺めながらモーターボートでのご帰宅、ゴージャスな真夏の夜の夢ではありませんか。



みなさん さようなら

大歩危(おおぼけ)駅付近 土讃線「南風」車窓から見えたスーパーの看板 
列車は四国三郎「吉野川」が流れる崖上を走る (2014/‎11‎/‎13‎ 妙) 
大歩危駅 スーパー 3524

1974年(S49) 「特装車とトレーラ」 8月号

 取材旅行で雨にあうのは辛いものでどうにも意気が上がらない。東京なら晴耕雨読としゃれこんで、雨音を聞きながら家で原稿書きが出来るのだが、スケジュールが決まっているからには、取材先にも迷惑をかけることになるので、強行することになる。

 昨年は空ツユといわれた反動からか、今年はよく降った。取材の時は辛いが、列車の窓からは普段は見られない雨の風景などが眺められて、これはこれで楽しいものである。
 四国の高松から高知へ四国山地を横断する土讃線で越えたときもひどい吹き降りだった。この線路は大歩危、小歩危(おおぼけ、こぼけ)という名のとおり歩くのにも危ないといわれる渓谷に沿って線路が走り、両岸には高い山が連なっている。その深緑の山肌をサアーッと刷毛ではいたような白い雨足が斜めに通り過ぎてゆく。あちらこちらの岩肌には、雨水が滝のようになって谷川に注いでいる。
 荒々しいが、雄渾(ゆうこん)な墨絵をいるような風景を楽しむことができたのは、雨のおかげである。
 
いい気持ちになってうつらうつらしていると、窓にたたきつける雨足の音にハッと目を覚ます。西行だったかに好きな歌がある。

   年たけて また越ゆべしと 思いひきや
    命(いのち)なりけり 小夜の中山

 人生を旅とみるのは芭蕉の奥の細道の文章を借らずとも、実感として迫るものがある。山あり、谷あり、晴れた日、雨の日、嵐の日。行きかう人も、また再び会うのはまれである。
 さすらい、漂白の旅路といえば、何かしらロマンチックな響きがするが、むしろ、苦しきことのみが多い辛い旅路であろう。

 いまは旅がラクになった。7月号のCBトラックの表紙を撮りに長野、松本へ行ったついでに、翌日上高地から乗鞍岳へ車で回った。3千メートルの高山へ車が上がる、若い人達のスキーを楽しむ風景が見られた。

 それだけに、昔の旅人(たびびと)の味わった苦しみや喜びを、現代人は到底知ることは出来ない。
 従って旅の文学もまた、いいものが少なくなってしまった。目的地まで、すうっと、飛行機や鉄道、自動車で快適に直行してしまい、冷暖房完備のホテルに宿泊して、コールドチェーン普及のお陰で大都市と同じメニューが、全国どこでも食べられる、とあっては、旅の文学など、生まれよう筈がない。

 人生の旅路もまた、交通公社の何やらパックのセット旅行のように、何もかも組み込まれてしまっているようなのが多くなったようだ。安易といえばこれほど安易なことはないが、人生もまたセット旅行なみ、というのでは余りにもわびしかろう。

 10年ひとむかし、という。筆者がそれまで勤めていた新聞社を辞めて、あてどもない旅路にさまよい出してこの7月でちょうど10年になる。この特装車という月刊誌を前任者から引き継いだのが44年の7月だから、これもまた5年を過ぎた。…

 毒をくらわば皿まで、どうせパック旅行の団体サンのような人生は送れる筈もない。丁(ちょう)と出るか、半と出るか、運を天にまかせた人生双六(すごろく)はこれからも続くだろう。と書くと何やら股旅小説じみてきた。


みなさん さようなら

1971年(S46) 「特装車とトレーラ 5月号」 (通巻49号)
編集後記

 興行の世界でいうなら、5月号は異色、力作、長編ぞろいの特別興行で、ほとんど主演が増田周作ということになろうか。お金を払って大根役者の芝居を見なければならない読者にはまことに申し訳ないが、大根役者も場数(ばかず)を踏めば、それらしい役者にもなるものである。

 協同一貫輸送は、一度まとめてみたいと思っていたところへ、三菱自販からお座敷がかかって、一席うかがったものを資料を入れたりして掲載したもの。専門家の方からご覧になれば、陳腐なものかもしれないが、本人は結構一生懸命に取り組んだ。読者のなかにも専門の方はそういらっしゃらないと思うし、こちらのレベルが低いものであるから、噛みくだいて、却ってわかり易くなっているのではないだろうか。


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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