みなさん さようなら

2017.06.26 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1984年(S59) 月刊「特装車とトレーラ」 7月号

社説
「富者の万燈」と「貧者の一燈」
零細企業も参加できるトラックショーを

 この5月に開催した 「第13回 呉越会」 の早朝セミナーでお話した、“富者(長者)の万燈より貧者の一燈”はお経の中に出てくる言葉である。詳しい説明は略するが、貧しい人のたとえ僅かの寄進であっても、その志は金持ちの多大の寄進にも勝る、という意味である。

 佐川急便の佐川清会長は比叡山延暦寺に大塔を1人で寄進した。「富者の万燈」の典型例である。宗教活動はもともと貧者の一燈によって支えられるもの、1人を救うよりも万人を済度することが宗教の目的である筈だが、手っ取り早い方法を選んだものだろう。歌舞伎の勧進帳は、東大寺大仏殿の再建の寄付を集める山伏、実は義経と弁慶が安宅の関で関守富樫に咎められて白紙の勧進帳を読むのだが、その中に、たとえ一紙半銭たりとも、の言葉がある。これこそ「貧者の一燈」なのである。

 佐川急便自体が、大口荷主偏重を避けて小口、零細荷主を対象にして急成長したことはよく知られる。そのオーナーが延暦寺に対する最大の寄進者となることに、何の心理的痛痒も感ぜず、叡山もまた易々としてその申し出を受け入れたことに対して、何か割り切れなさを感じる。佐川問題が国会で取り上げられたりしていて、このあたりの考え方にその一因がありそうである。

 本誌は、自動車メーカーの大口広告だけに頼ることをせず小口の車体、機器メーカーの協力を求めることを主眼としてきたトラック専門誌である。筆者ひとりの時もコツコツとそれらのメーカーを訪ねたものであった。この多くの小口の協力者のお陰で、第一次オイルショック以降のトラック不振の中にあっても、小社の売上実績は一度も下降することはなかった。もし、自動車メーカーや大手の車体メーカーにだけ依存していたら、惨憺たる様相を呈したであろう。

 先月号(※)に書いたように、筆者は四国を縦断する活魚輸送車に体験乗車して、7時間余、飲まず食わず、休みなしで走った。輸送の第一線を支えるドライバーは実に苛酷な労働条件を強いられているのである。
 車体メーカーもまた、規模の小さい所は血みどろの苦闘を展開しており、トラック産業の底辺には陽の当たらない人達が多く存在する。この人達への理解がなくては、トラックを語ることはできない。

 モーターショーは、いわば「富者の万燈」のお祭である。そこには、トラックを作り、使う末端の人達の汗の臭いは伝わってこない。その人達が喜んで参加できるのが、本来の「トラックショー」であろう。

(※) 1984年6月号「べったり取材 活魚輸送メーカーと同乗記」を6月8日、12日の2回にわたってアップしました。


 
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みなさん さようなら

2017.04.03 06:14|コラム・巻頭・社説・社告
1987年(S62) 月刊「 NewTRUCK」4月号

月旦短言

金剛製作所の終焉を弔う
貴重な犠牲を無駄にしてはならない

 特装車メーカーの灯がひとつ消えた。
 創業50年を超えた名門金剛製作所の閉鎖解散である。倒産という最悪の事態を回避したのは賢明ともいえるが、埼玉県与野市の本社工場を売却して、群馬県前橋市に移って1年、皮肉なことに同社の主力製品のダンプ需要は昨年以降上昇に転じている、というのにである。経営陣の見通しの甘さを指摘されても仕方のないところであろう。
 この全責任を最後の小林社長に帰するのは酷であって、抜本的解決を図れないまま、現在に至らせた歴代の経営陣もその責めを負うべきである。

 同社を解散に追い込んだ遠因は労務対策のまずさで、かなりの長期にわたって正門脇に赤旗が立っていた。対外的な信用を考えた場合、これは大きなマイナスであったと思う。そのような経営陣の消極的な及び腰の姿勢が、いろいろな対応策のうえで、後手後手と廻ることになったのだろう。
 筆者が同社に出入りするようになって、16年になるが、第一次、第二次のオイルショックを経てゆく中で、同社の経営陣は確固とした方針を定めることができないまま、時勢に押し流されていった、という感じを受け続けてきた。
 同社の主力製品であるダンプなどの建設型特装車が退潮してゆくなかで、このような消極的な姿勢を取る限り、企業の発展は望むべくもないのは自明である。

 じりじり追い込まれてゆく中で、起死回生の策として断行されたのが、60年11月の与野から前橋への移転だった。
 しかし、この移転も結果としては裏目に出て、厖大な治療代を払いながら死期を早める役割しか果たせなかった。優秀な従業員は地震を予知した動物のように社を去ってゆき、生産性の向上も思うにまかせなかったようだ。さらに同社にとって不運なのは、同社の旧所有地が最近の首都周辺の土地急騰で、売却時より大幅に値上がりしていることである。泣きっ面に蜂とはこのことだろう。ダンプなどの架装工場として建設した交通不便の現工場の売却も困難が予想される。最後まで金剛に運命を托した人達や、その取引先等に対して、筆頭株主であるいすゞ自動車や金剛の経営陣が誠意を尽くすよう希望してやまない。

 名門金剛製作所の解散は“他山の石”以上の重大な教訓を車体メーカーに残した。
 「寄らば大樹の下」というが、自動車メーカーの傘下にあっても決して安泰であり得ない以上、大樹の枝に過ぎないディーラーに全面的に依存する愚かしさは言う迄もない。
 「天は自ら助くる者」しか助けない、という平凡な真理を改めて噛みしめたい。
 さらに、これを機会にダンプなど建設型特装車メーカーが流通問題に真剣に取り組むべきである。そのことを姿を消す大先輩金剛製作所に捧げるせめてものレクイエム(鎮魂)としなければならない。


みなさん さようなら

2016.11.07 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1979年(S54) 月刊「特装車とトレーラ」 7月号

欧州は遅れているのか

欧州商業車特別号発行に当たって

 ヨーロッパから帰国してから少しあと、イギリスの有名なビールメーカーの物流担当部長の某氏と夕食を共にしたことがある。彼は、私のこと及び今回の本誌主催の視察団の内容もよく知っていて、なぜハノーバーメッセなどへ行ったのか、あそこから日本が学ぶものは何もない筈である、日本の技術の方がずっと進んでいる、と開口一番言われたのには正直のところ驚いてしまった。
 日本人が言うのならともかく、現地の専門家が断言するのだから、商業車についての技術は日本の方が上であるかも知れない。

 やはり、欧州から戻って半月後、佐野市にある新明和工業(株)川西モーターサービス佐野工場のローリ工場完成披露に招かれて、同工場をつぶさに視察する機会を得た。特装車工場としては恐らくは世界でもトップに位置すると思われるこの工場の生産設備やそのスピードは、ヨーロッパ各国の工場を見てきた目にはその対照が鮮やかであった。さらに直感的に感じたことは作業現場のピーンと張りつめた空気と、きびきびした動作であった。もちろん、国や工場によって程度の差がある。しかし、川西モーターサービスだけのことでなく、中小の工場であっても現場の空気はまるで違う。

 自動車に直接の関係はないが、パリで有名な“リド”のショーを見学した時のことである。食事があって、ダンスパーティのあとショーが始まるのだが、もの凄い震動とともにわれわれのフロアーが下がる。初めは地震かと思った位だが、張り出し舞台の両横が1メートル位沈下することになっているのである。団員の中で、日本なら油圧をもっとうまく使って殆ど気のつかない位のうちに下げるだろうという人があった。この話を前述のビール会社の某氏に話をすると、なぜそんな必要があるのか、多少の震動があっても、大きな金をかけて改造することはないではないか、と一蹴された。

 その“リド”のショーがはねたのは深夜の午前1時、場外へ出て先ず目についたのが、これから始まる第2回のショーを見ようとする人達の延々とした長蛇の列である。このショーが終わるのは恐らく4時か5時になるであろう。それらの人達は決して深夜族といわれる若者ではなく、ごく普通の中高年が多かった。

 もうひとつ、エピソードを紹介する。欧州に着いて最初の見学先であるハンブルク港を特別船で視察したあと、ミーティング会場のある古びたビルに入った時のことである。このビルのエレベーターが傑作で、扉も何もなくて、立体駐車場のようにぐるぐる回転しているだけ、片方は上がり専用で、まごまごしていると、すうっと上がってしまうし、下りの場合は、頃合いを見計らってエイヤッと飛び降りねばならない。子供が出入りするような建物ではないにしても、日本ならば到底許可が下りないシロモノであるには違いない。

 たしかに、日本の工業技術はすばらしい。その工業技術をフルに応用した日本の商業車が世界のトップレベルにあるのもまた当然であろう。
 しかし、生産技術が世界のトップにあるとしても、その利用技術もトップにあるとは限らない。われわれは、その世界に冠絶した工業技術をどれだけ享受しているのであろうか。西欧の人達は日本人のことを兎小屋に住んで、ただガツガツ働くだけの人種であると酷評することが多い。たしかに、パリの“リド”で見たような“ゆとり”というか“遊び”の精神はわれわれには欠如している。

 商業車の世界でも、果たして、その優秀な技術が利用面に活かされているだろうか。官僚側は無闇と規制を強化して、車そのものにがんじがらめの枠をはめようとする反面、使用者側は法規を無視して積もうとする、メーカー側はまたその酷使に耐える車を作ってユーザーの要望に応えるという悪循環が繰り返されてきている。

 欧州の各国は本当に上手に車を使いこなしているという感じが強い。商業車に関してだけ言えば、アメリカより優れている。アメリカではフルトレーラが殆どないのに対してヨーロッパでは、フル・セミ・ダブルスを自由に使いこなしている上に、アメリカでは見られない脱着ボデー使用実績も多い。

 この上手な車の使いこなしの要処要処に活かされた工業技術と人力がマッチングした欧州の商業車に学ばねばならない点はまだまだ多い筈である。この特別号が欧州の商業車を理解し、日本の商業車を考えるひとつの素材となれば、と思う。


みなさん さようなら

2016.04.28 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1977年(S52)「特装車とトレーラ」
社説
減速経済の本格化
―毎日新聞経営危機の教えるもの―

 野球には全く興味のない筆者も、一時期在籍したことがある高知の中村高校が選抜に初出場して、しかも第一回に出る、というのでテレビを見ていた。どうせ1回戦で消えると思っていたら、ラッキーにも準優勝したのはご承知のとおりである。

 試合の前に開会式があり、平岡毎日新聞社長が挨拶したが、これが奇妙なものであった。「毎日新聞」は伝統ある新聞であり、今後もそのよき伝統を保持して頑張るという、およそ開会式挨拶には似つかわしくない内容で驚いた。その前日、「朝日新聞」はじめ各紙に「毎日新聞」は経営危機を打開するために、新会社を作り、債務は旧会社に残して段階的な処理をはかるという記事が載っていたので、平岡社長は全国視聴者に「毎日」健全なりと訴えたのであろう。「毎日」の看板行事である選抜と時を同じくして危機が公表されたのであるから、タイミングが好すぎるというか、まことに皮肉なものであった。

 「毎日新聞」の危機説は今日に始まったものでなく、かなり以前から流布されていた。筆者は30代の数年間「サンケイ新聞」に在職したことがある。その間に経営危機が起こり、財界から水野成夫氏が入って、残酷ともいえる人減らしが始まり、多くの人が辞めていった。「サンケイ」は朝・毎・読の3大紙に迫るべく全国紙の体制を布いたのであるが、脆くも敗退して東京、大阪を中心とするブロック新聞に転落した。

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みなさん さようなら

2016.04.18 05:49|コラム・巻頭・社説・社告
1974年(S49) 「特装車とトレーラ」 3月号

ああ憂(う)き世

 国会で企業の責任者に対する追及が急である。大企業の社長さん達が喚問されてギューギュー油をしぼられている。便乗値上げがけしからぬとか、品不足感をあおったとか、要するに儲け過ぎがけしからぬということらしい。

 社会主義社会はいざしらず自由主義経済のもとにあって、利益をあげることは決して罪悪ではない。むしろ利益をあげようとして経営者も従業員も協力、努力して、効率性を高めることが自由主義経済の特長とされていることはご承知のとおりである。
 では、社長連が何故法廷に引き出された被告のように打ちしおれて、頭を下げねばならないのであるか。財界のご意見番、石坂泰造老ならずとも、そのだらしなさに腹を立てたくもなろうというものである。

 筆者はこう言ったからといって、便乗値上げや不当利益が決していいと言っているのではない。むしろ、それらを憎むことにおいて人後に落ちないつもりで、昨年1月号のこの欄において「浮利を追う日本列島」というテーマで、企業が正常な営業活動によらず、土地、株、投機、などの営業外の収入を上げることを論難した。

 しかし、これらのことが国会で華々しく論じられる筋合いのものである、とは断じて思わない。このことを疑わないマスコミもおかしい。殊に野党議員が提出する暴露的書類はおそらく企業内部の人間が資料を持ちだしたものと思われるが、これは毎日新聞西山某氏が卑劣な手段で情報を手に入れたのと同工異曲で道義的に最も責められるべき性質のものである。

 筆者の情けなく思うのは、テレビで見た社長連の卑屈な態度、手段を選ばず、企業内の人間をそそのかして情報を手に入れようとする議員達、企業でサラリーを貰いながら企業を売る社員、そういう風潮である。日本はいつからこのような情けない国になってしまったのであろうか。ああ憂(う)き世、である。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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