みなさん さようなら

2017.10.09 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1983年(S58) 月刊「特装車とトレーラ」10月号

背水の陣を布いた新明和
川西モーターサービスの名称消える

 特装車のトップメーカー、新明和工業(株)川西モーターサービスの、「川西モ…」の名が9月1日から消えた。
 川西航空機から戦後の駐留軍車両補修時代の苦難の歴史を川西モーターサービスの名称に残した同社は、高度成長期のダンプ時代をリード、それはまたわが国大型トラックの牽引車的存在でもあった。

 新明和工業の川西特装車以外の機械や航空機などの事業部門に比較して、ダンプを主力にしたモーターサービスの売上構成比はきわめて高く、当初は新明和工業の中の独立事業部門の観さえ呈したのである。既に10数年前になるが、城山三郎氏はこの川西航空機の戦中戦後の生きざまを「零からの栄光」のタイトルで週刊誌に連載、後に単行本として出版している。
 この本の書かれた当時のわが国はまだ高度成長時代であり、川西の名は特装車のトップリーダーとして栄光の中に生き続けることができたのである。
 その川西モーターサービスが姿を消す。特装車ジャーナリズムの一員としていささかの感慨なきを得ない。われわれは新明和と呼ばず、常に川西の名を以て代表させてきた。川西でなく新明和が自然に口をついて出るようになるのは、なお暫くの時日を要するであろう。
 それほど、特装車業界には川西ブランドが浸透しているのである。その名を捨てるについて、川西側に何の未練、逡巡もなかった、というのはあり得なかった筈である。

 トラック市場の変化は、総需要の停滞の中でのダンプシェアの低下という、いわば二重苦を川西に強いた。この大きなうねりに対し、川西の名を捨てて立つ、いわば背水の陣を布いて、全員の意識革命の上に新生の途を模索する今回の措置となった。ゼロからの栄光ならぬ、スタートを目指しているわけである。

 川西時代のリーダーであった桂芳雄氏は現役を去り、極東開発を創立した宮原勲氏、ある時期の川西の立役者だった麻野隆平氏のふたりは鬼籍に入り、川西ダンプを今日あらしめた五十川澄男専務も、ラインを離れた。筆者の知る川西を築いた人、支えた人は退いて、次の世代の人達に移ってゆく。

 暑かった夏も過ぎようとしている。感傷を捨てて、川西の良き伝統が新明和特装車の中に生かされて、これからも特装車業界をリードすることを祈りたい。


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みなさん さようなら

2017.10.02 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1975年(S50)月刊「特装車とトレーラ」10月号

大型倒産を他山の石として平凡な真理に徹しよう

相次ぐ大型倒産
 照国海運が倒産した。戦後最大の負債を記録した興人の倒産があったばかりで、産業界を取り巻く情勢の厳しさを改めて訴えている。照国海運や興人の倒産理由については色々な方面から既に論じ尽くされているので、重複は避けるが要するに高度成長の波に乗って実力以上に急膨張した企業が、風船玉に穴があいたようにパンクしてしまったということであろう。興人はよく知らないが、照国海運は系列の日本高速フェリーを通じていささかのかかわりがあるので、このニュースを聞いて、ひとしおの感慨である。

 一昨年の3月、日本高速フェリーの東京―高知航路開設に先立って、同社の誇る豪華フェリー“さんふらわあ5”でレセプション航海が行われ、ご招待を受けて参加した。東京から高知までの20時間、金井克子とそのグループの豪華なショー、ふんだんに提供される料理と酒、文字通り飲めや歌えの、無礼講の航海であった。船上中川喜次郎社長とその一族の記者会見もあり、高知港には溝淵高知県知事が出迎えて歓迎レセプションが行われた。石油ショックの直前、世は高度成長の波にまだ酔い痴れており、中川喜次郎社長にとっては最良の日であったに違いない。
 この航海が縁となって、小社主催の第一回「呉越会」セミナーが東京―高知間の“さんふらわあ”船上で開催されたのをご承知の読者も多いはずである。

 この日本高速フェリーはその発足の当時から採算性が問題視されてきたが、照国グループがそのバックにあるということで命脈を保ってきた感が強い。その照国が倒産では日本高速フェリーもどうなるか見通しは今のところ立っていないようである。あの華やかなレセプション航海から僅か2年余り、栄華の夢は余りにもはかなくて、脆い。

 私は48年1月号のこの欄に「浮利を追う日本列島」のテーマで企業が本業以外に不動産や株に投資して、浮利を追求することの危険さを指摘した。高度成長が無限に進行して、強度のインフレが昂進することを前提に考えるならば、浮利を追う商法も成功するであろうが、所詮それは一時のアダ花に過ぎなくて永続性はない。興人は不動産に巨額の投資をし、照国は積荷保証のない外国船を用船することによって、一時期は巨利を博した。年率20%も30%も土地が高騰する神話や、貨物量に比べて船腹が不足した状態が続きさえすれば両社とも問題はなかったのである。
 浮利商法のトガメは興人、照国だけでなく、あらゆる方面に及んでいる。高度成長に便乗した自治体財政もその一種であろう。

車体メーカーの生き抜くための具体的方策
 幸い、自動車、車体メーカーに倒産騒ぎを聞かない。自動車メーカーのなかに一時マスコミに喧伝されたものもあるが、企業内努力と金融筋のバックアップにより危機は脱した模様である。
 車体メーカーも需要減退のなかでよく持ちこたえている。これは受注受註産業で在庫の心配は殆どない、設備投資負担が小さい、蓄積がある、などの理由によるものであろう。私が先に述べた浮利を追う体質を自動車産業が身につけていなかったところにこのような状況下での根強さがあると思われる。
 しかし、もう少し掘り下げて考えてみると、自動車産業は高度成長経済を支えた代表的産業であり、産業全体が膨張し続けており、浮利を追うようなことはしなくても十分の利益を確保できた。その意味では、恵まれた業界であったといえるであろう。この恵まれた環境も、高度成長の神話の崩壊と同時に変化を迫られるのは当然であり、高度成長への甘えは許されなくなる。
 きびしい情勢に対応する具体策はどうか。抽象的な理論は抜きにして、2,3述べてみたい。

(1)生産コストの低減をはかること
 おそらく各社でも実施していることであろうが、さらに工夫を要する。手前味噌になるが、この雑誌は本年の3月号からそれ迄の活版印刷から高級なオフセット印刷に切り替えた。当然かなりのコストアップになるところであったが、業界の常識に敢えて挑戦して、生産工程の合理化を図り、殆ど生産原価は従来と変わらず、質的向上が達成できて、読者から喜ばれている。衆知を結集し、常識のワクを超えて工夫すれば、まだまだ、改善の余地はあるものである。

(2)オリジナル製品、技術を持つこと
 他社に真似の出来ない製品、技術を持っているメーカーは、断然強い。技術革新によって、これ迄熟練を要した作業が誰でもできるようになる。アルミブロックアオリはアオリの取付工程を単純化したし、本号に記事のあるプレハブ工法の冷凍・冷蔵バンボデーは架装工場で現場発泡作業を一切無用にした画期的なものである。これらは当然、生産工程のスピードアップ、工賃の低下を伴う。独自の製品、技術を持たない車体メーカーは苦境に立たされるであろう。他の車体メーカーとはひと味もふた味も違うものを持つことが、車体メーカーのこれからの課題であろう。そのためには利害を共にする他メーカーとの情報交換、技術協力、販売・サービス提携なども真剣に考える必要がある。

(3)経営に自主性を持つこと
 経営者が真にその手腕を発揮するために、経営に自主性がなければならない。もちろん、主要な納品先、取引先、金融筋と密接な関係を保ってゆくことは当然である。その企業の成立の過程からして、資本的人的に親企業の系列に属するものもあるが、可能な限り自主路線を取って、親企業の負担を軽減すべきである。
 借入金もできるだけ抑えて、金利負担を軽くする必要がある。高度インフレ下では金利はそれほど問題にはならないが、低成長時代には大きな負担となる。銀行に儲けさせるだけのような経営の愚はなんとしても避けねばならない。
 以上、まことに平凡であるが、真理は平凡の中に存する場合が多い。さらに、平凡なことは言うに易く、行うに難い。興人、照国海運などの大型倒産を他山の石として、車体メーカーは平凡の中にある経営哲学を体得し、これからの低成長時代を生き抜くよう希望したい。


みなさん さようなら

2017.09.28 06:33|コラム・巻頭・社説・社告
1975年(S50)「特装車とトレーラ」9月号

トレーラ工業会の設立を提唱する

自主独立路線の確立を図るべきである

 一利を興(おこ)すは一害を除くに如(し)かず、という格言がある。良いと思われるようなことでも、その為の組織を作ったりするよりも、不要となったものや邪魔になったものを整理する方がはるかに大事であるし、効果も大きい、という意味である。公社公団を濫造したり、組織や役職を増やすことに熱心な官庁や企業にはいい警告の言葉であろう。
 私が冒頭に掲げたトレーラ工業会の設立は、この格言にいささか矛盾するようではあるが、以下に述べるような状況から是非とも必要であると考えられるので、敢えて提言するものである。

 トレーラメーカーは現在、(社)日本自動車車体工業会に加入し、トレーラ部会を作って様々な活動を行っているのはご承知の通りである。それで用が足りているのならそれでいいではないか、というご意見もあろうが、用の足り方も様々で、その判断は極めて難しい。しかし、車体工業会のトレーラ部会での活動で十分である、と考えている人は殆どいないのではあるまいか。
 車体工業会の車体というものは自動車の部分である、だからその工業会も自動車工業会の下部組織に過ぎない、と考えるのも当然であるかもしれない。自動車工業会の会長は、トヨタか日産の社長、車体工業会はその下請会社のトヨタ車体か日産車体の社長が会長を務めるのが、不文律のようになっているものか、近年はこういう人事が続いている。車体工業会が多数の会員会社を擁し、立派な事務局を持ちながら、社団法人という業界団体としての認知がされないまま発足以来20数年を経過したということも、その体質を物語るものである。
 私がこの本を前任者から引き継いだ数年前には、なぜ車体工業会はこれ程弱い団体であるのかとまことに歯がゆかったものである。せめて、私の作る専門誌ぐらいは車体を扱っても、もっと強く、完全に自立したものでなければならない、何か意地のようなものが働いて頑張った。しかし、業界の実情が段々分かってくるにつれて、こういう団体であるのも無理はない、体質の強化は一朝一夕には不可能である、ということも諒解されるようになってきた。
 たしかに一般の車体メーカーは直接ユーザーと結びつかず、自動車メーカーまたはディーラーからの受注によって生産するケースが多い。下請企業とみられても仕方のない面もある。
 しかし、トレーラになると様相はかなり異なってくる。構造的にもトレーラはエンジンを持たず、それ自体1個の独立した存在となっており、受注活動もトレーラメーカーが独自に行う場合が多い。
 さらにトレーラには一般車とは異なる法規があり、使用法がある。わが国のトレーラの普及を阻害している大きな原因は法規的な面にある、とは多くの人が指摘するところであるが、この点の打開は車体工業会の一部会の活動では困難である。現在は個々のメーカーが陳情しているケースも多く見られるものの、やはり独立した強力な工業会を通してゆくのがスジというものである。
 ダブルストレーラ、特殊トレーラの許認可などの身近な具体的課題から、ヨーロッパに見られるような軸重による荷重制限への移行、税制面での再検討など地道に長期的に取り組んでゆかねばならない問題もきわめて多い。
 これまで大量輸送ということが言われてきたトレーラのメリットについても、そのシステム的運用についてはメーカー、ユーザーとも理解が十分でない場合が多い。現在の経済活動の停滞による荷動きの低迷で、大型トラック以上にトレーラの需要は落ち込んでいるが、安定成長、低成長にせよ、正常に復した場合、省力・省資源・システム車輛としてのトレーラは必ず見直される筈である。
 トレーラのシステム的効用を最大限に発揮したのは長距離フェリーであり、本年10月からは東京―苫小牧間に貨物フェリーが就航することになっている。航路によっては利用者の少ないところもあるが、東京―北海道のように物流ルートとして確立した航路では、トレーラ化はますます進むであろう。
 これらのシステム的運用については個々のメーカーによるよりも、工業会あたりで訴えてゆく方が効果があろう。

 以上のような観点から、車体工業会のなかでも、トレーラを除くトラック・小型・バン・特装・特種などの部会とトレーラ部会との間には大きな違いがあることが諒解できると思う。
 トレーラメーカーの数は決して多くはない。しかし、目的を異にする多数の集団よりも、少数であっても共通目的を持って結束した団体の方がまとまりはよく、強力な活動ができるものである。トレーラ工業会の設立を真剣に考えてはどうであろうか。


みなさん さようなら

2017.06.26 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1984年(S59) 月刊「特装車とトレーラ」 7月号

社説
「富者の万燈」と「貧者の一燈」
零細企業も参加できるトラックショーを

 この5月に開催した 「第13回 呉越会」 の早朝セミナーでお話した、“富者(長者)の万燈より貧者の一燈”はお経の中に出てくる言葉である。詳しい説明は略するが、貧しい人のたとえ僅かの寄進であっても、その志は金持ちの多大の寄進にも勝る、という意味である。

 佐川急便の佐川清会長は比叡山延暦寺に大塔を1人で寄進した。「富者の万燈」の典型例である。宗教活動はもともと貧者の一燈によって支えられるもの、1人を救うよりも万人を済度することが宗教の目的である筈だが、手っ取り早い方法を選んだものだろう。歌舞伎の勧進帳は、東大寺大仏殿の再建の寄付を集める山伏、実は義経と弁慶が安宅の関で関守富樫に咎められて白紙の勧進帳を読むのだが、その中に、たとえ一紙半銭たりとも、の言葉がある。これこそ「貧者の一燈」なのである。

 佐川急便自体が、大口荷主偏重を避けて小口、零細荷主を対象にして急成長したことはよく知られる。そのオーナーが延暦寺に対する最大の寄進者となることに、何の心理的痛痒も感ぜず、叡山もまた易々としてその申し出を受け入れたことに対して、何か割り切れなさを感じる。佐川問題が国会で取り上げられたりしていて、このあたりの考え方にその一因がありそうである。

 本誌は、自動車メーカーの大口広告だけに頼ることをせず小口の車体、機器メーカーの協力を求めることを主眼としてきたトラック専門誌である。筆者ひとりの時もコツコツとそれらのメーカーを訪ねたものであった。この多くの小口の協力者のお陰で、第一次オイルショック以降のトラック不振の中にあっても、小社の売上実績は一度も下降することはなかった。もし、自動車メーカーや大手の車体メーカーにだけ依存していたら、惨憺たる様相を呈したであろう。

 先月号(※)に書いたように、筆者は四国を縦断する活魚輸送車に体験乗車して、7時間余、飲まず食わず、休みなしで走った。輸送の第一線を支えるドライバーは実に苛酷な労働条件を強いられているのである。
 車体メーカーもまた、規模の小さい所は血みどろの苦闘を展開しており、トラック産業の底辺には陽の当たらない人達が多く存在する。この人達への理解がなくては、トラックを語ることはできない。

 モーターショーは、いわば「富者の万燈」のお祭である。そこには、トラックを作り、使う末端の人達の汗の臭いは伝わってこない。その人達が喜んで参加できるのが、本来の「トラックショー」であろう。

(※) 1984年6月号「べったり取材 活魚輸送メーカーと同乗記」を6月8日、12日の2回にわたってアップしました。


 

みなさん さようなら

2017.04.03 06:14|コラム・巻頭・社説・社告
1987年(S62) 月刊「 NewTRUCK」4月号

月旦短言

金剛製作所の終焉を弔う
貴重な犠牲を無駄にしてはならない

 特装車メーカーの灯がひとつ消えた。
 創業50年を超えた名門金剛製作所の閉鎖解散である。倒産という最悪の事態を回避したのは賢明ともいえるが、埼玉県与野市の本社工場を売却して、群馬県前橋市に移って1年、皮肉なことに同社の主力製品のダンプ需要は昨年以降上昇に転じている、というのにである。経営陣の見通しの甘さを指摘されても仕方のないところであろう。
 この全責任を最後の小林社長に帰するのは酷であって、抜本的解決を図れないまま、現在に至らせた歴代の経営陣もその責めを負うべきである。

 同社を解散に追い込んだ遠因は労務対策のまずさで、かなりの長期にわたって正門脇に赤旗が立っていた。対外的な信用を考えた場合、これは大きなマイナスであったと思う。そのような経営陣の消極的な及び腰の姿勢が、いろいろな対応策のうえで、後手後手と廻ることになったのだろう。
 筆者が同社に出入りするようになって、16年になるが、第一次、第二次のオイルショックを経てゆく中で、同社の経営陣は確固とした方針を定めることができないまま、時勢に押し流されていった、という感じを受け続けてきた。
 同社の主力製品であるダンプなどの建設型特装車が退潮してゆくなかで、このような消極的な姿勢を取る限り、企業の発展は望むべくもないのは自明である。

 じりじり追い込まれてゆく中で、起死回生の策として断行されたのが、60年11月の与野から前橋への移転だった。
 しかし、この移転も結果としては裏目に出て、厖大な治療代を払いながら死期を早める役割しか果たせなかった。優秀な従業員は地震を予知した動物のように社を去ってゆき、生産性の向上も思うにまかせなかったようだ。さらに同社にとって不運なのは、同社の旧所有地が最近の首都周辺の土地急騰で、売却時より大幅に値上がりしていることである。泣きっ面に蜂とはこのことだろう。ダンプなどの架装工場として建設した交通不便の現工場の売却も困難が予想される。最後まで金剛に運命を托した人達や、その取引先等に対して、筆頭株主であるいすゞ自動車や金剛の経営陣が誠意を尽くすよう希望してやまない。

 名門金剛製作所の解散は“他山の石”以上の重大な教訓を車体メーカーに残した。
 「寄らば大樹の下」というが、自動車メーカーの傘下にあっても決して安泰であり得ない以上、大樹の枝に過ぎないディーラーに全面的に依存する愚かしさは言う迄もない。
 「天は自ら助くる者」しか助けない、という平凡な真理を改めて噛みしめたい。
 さらに、これを機会にダンプなど建設型特装車メーカーが流通問題に真剣に取り組むべきである。そのことを姿を消す大先輩金剛製作所に捧げるせめてものレクイエム(鎮魂)としなければならない。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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