みなさん さようなら

2017.10.19 06:00|「周作閑話」
1983年(S58) 月刊「特装車とトレーラ」10月号
周作閑話

浅間爆発と地底に消えた村 (あがつまぐん つまごいむら)

 群馬県吾妻郡嬬恋村――全国に多くの市町村があるが、これほど女性に優しい地名は他に見られない。天明の大爆発によって壊滅した旧鎌原村は、現在このように呼ばれ、キャベツの産地として知られている。

 日本武尊が東征のあと、碓氷峠から関東平野を望んで、海神の怒りをなだめるために入水した妃、弟橘姫を偲んで「吾妻はや」と呼びかけた故事による命名であろう。
 碓氷峠を越えて信州に入った中山道は軽井沢、沓掛、追分の浅間山南麓のいわゆる浅間三宿を経て諏訪湖に向かう。その沓掛、現在の中軽井沢から真っ直ぐ北に浅間山の東を進んだ所に旧鎌原村はあって、さらに北に進むと草津温泉があり、高崎と北信州の上田地方を結ぶ脇往還の宿場的要素を持った農村だった。幕府直轄の天領で、戸数120戸前後、人口約600人、と記録されている。

 9月号に書いたように、天明3年(1783)の浅間山爆発は、4月頃から始まって大量の浮石や火山灰を空中に噴き上げていた。そのクライマックスの旧暦7月8日(太陽暦8月5日)午前11時、火口にたまった大量の溶岩があふれ出して、高熱の溶岩流となって一気に山肌を駈け降りた。火砕流、熱泥流とも呼ばれるこの溶岩流は、火口の北側の斜面、標高差1,100mを滑り落ちる間に時速360㎞という信じられないスピードになって、山肌の土砂、岩石を削ってそれらを巻き込んだ巨大な溶岩、土砂の雪崩状の本流となって、火口から12㎞北の鎌原村を襲った。

 村を襲う頃はスピードが衰えていたが、それでも時速50~100㎞位、とても逃げ切れるものではない。外出していた人、奇跡的に横の高地へ脱出した93人を除く477人が、人家、牛馬、田畑とともに一瞬のうちに火砕流にのみ込まれて押し流された。
 アッという間に殆どの身寄りと家屋、田畑を失って、それらをのみ込んだ火砕流を眼前にした生き残り住民は、唯一高地に残った観音堂に集まって7月7夜、泣き明かしたという。

 火山爆発によって全滅した町として有名なのは西暦79年のポンペイである。ヴェスヴィオ火山の爆発で丸一日降り続いた軽石や火山灰によって高い文化を誇っていたポンペイの町は7mの堆積物の下に埋もれてしまった。しかし鎌原村のように一瞬のうちに横ざまにのみ込まれたのと違って、空からの降下物なので住民には逃げ延びる余裕があり、2万人の人口のうち、死者はその1割の約2千人程度と推定されている。死者の割合は鎌原村の場合とはほぼ逆である。

 ところが、9割が生き残ったポンペイの住民はポンペイを捨てて再び戻ることはなく、忘れられた町となって地下に眠り続け、漸く18世紀になっての発掘作業でその姿を現した。
 これに対して、8割強の村民を失った旧鎌原村の生き残り住民は、その地を捨てることなく埋没村の真上に新鎌原村を再構築していった。地に執着する日本民族の特性と言ってしまえばそれまでだが、ポンペイと鎌原村のこの比較は様々のことを考えさせる。

 すべてを失った生き残り住民に対する救いの手は近隣の商人や住民、代官所から差しのべられて、犠牲者の百ヶ日忌が過ぎた10月24日、7組の集団結婚式が行われるまでになった。
 夫を失った妻、妻を失った夫達が、それぞれの過去を振り切って新しい縁組みをすることについては、複雑な気持ちがあったに違いない。しかし、村の構成単位である家が組み立てられないようでは村の再建は覚束ない。同時に親を失った子供、或いはその逆の養子縁組も進められた。
 折しも天明の大飢饉のさ中、家財、備蓄食糧の一切を失った残存住民が、荒土を耕しながら生き抜いてゆくには、彼ら自身の努力もさることながら、代官所や近隣商人、住民の手厚い援助と激励が不可欠であったろう。

 大爆発から33回忌に当たる文化10年には被災者供養のため、それぞれの戒名を彫った大きな供養碑が観音堂に建てられた。この頃にはほぼ村の再建は完成していたと思われる。大きな石碑の4面にびっしり彫り込まれた犠牲者をその頃はまだ記憶に留めていた人もあったに違いない。
 過去と訣別した新しい家族達によって鎌原村は生き返った。しかし、村の性格はかなり変わって、それまで濃厚に持っていた宿場的要素は失われて純粋の農村となり、最近に及んでいる。

 それから200年近く、鎌原村は嬬恋町となった。平和なキャベツ産地として記憶されることはあっても、浅間大爆発の被災地として一般の注目を集める土地にはならなかったのである。
 旧鎌原村が俄然クローズアップされ、観音堂が浅間周辺の観光地の一つになったのは、昭和54年から始まった一連の発掘作業によって、その村の生態がかなりはっきりわかってきたこと、特に観音堂の下から発掘された2体の女性の遺体が、マスコミに取り上げられたことが大きく作用している。

 鎌原観音堂は、現在の地表面から15段の石段を上がった所にあって、ここまで上がった住民は助かったといわれ、「天明の生死をわけた十五段」の石碑が建てられている。
 この石段は120段から150段あると伝えられていたが、実際に掘ってみると、50段で終わって、その先はゆるい下り坂で当時の村のメインストリートに達していたらしい。
 この階段の最下部で折り重なるように倒れていた2体の女性は、あと35段を駆け上がれば助かった筈だが、上の1体は腰の曲がった老人らしく、下の1体は中年、恐らく年上の女性を背負っていたと推定されている。
 この頭骨に肉付けすると、二人はうりふたつ、しかもヒナには稀な高貴ともいえる顔立ちであったことが人々を驚かせた。年の近い母娘、或いは離れた姉妹か、身元はわからないが、肉体労働には縁遠い上流家庭、富裕な商家の内儀のようだ、と専門家は言っている。

 発掘した地点はごく一部であるし、村の中心部は根こそぎ、横なぐりに削り取られて下流に押し流されたため、旧鎌原村の全容を突きつめることはできないが、意外に豊かで、当時の江戸でも使われ始めたばかりの輸入品のガラス製鏡などの奢侈品も発掘品には含まれている。
 我々は江戸期の農村といえば、すべて暗く陰惨な生活を強いられていた、と考えがちである。

 私は東海道、中山道のすべてを歩いてみて、自分が育った昭和初期の土佐辺鄙の貧乏漁村より、生活水準も文化水準もずっと上の生活が江戸期の街道沿いの農山村にはあったことを知った。旧鎌原村もその例外ではないことをタイムカプセルから出てきたばかりの発掘品は教えてくれたのである。

 多くの見学者を前に、村のお年寄りは観音堂でお茶と漬物をすすめて話の相手をしていた。村の再建の礎になった縁組夫婦から6代目くらいに当たるそうである。被災200年を記念して立派な観音が昨年建立された。
(参考文献 東京新聞出版局発行「嬬恋・日本のポンペイ)


スポンサーサイト

みなさん さようなら

2017.05.29 06:00|「周作閑話」
1983年(S58) 月刊「特装車とトレーラ」 5月号

周作閑話

「赤城の子守唄」②

 控え室で、舞台の袖で、東海林太郎はやはり謹厳だった。私はさりげない挨拶を交わした程度だったが、この人を大きな舞台に戻した、という満足と昂奮で胸はいっぱいだった。

 高度成長の時代に移り、テレビが普及、古き良きものへの再評価が高まり、東海林太郎も昭和40年、66歳で歌謡界初の紫綬褒章、44年、70歳でこれも初の勲四等旭日小綬章を受け、40年には日本レコード大賞特別賞を、47年10月4日73歳の死に当たっては正五位勲三等瑞宝章と、その晩年は栄光に包まれ、ブラウン管にもよく登場したので、ご記憶の方も多いと思う。

 その東海林太郎の舞台を昨夜観た。もちろんご本人である筈はなく、藤田まこと扮する東海林太郎だが、姿形を似せているだけでなく、その人になり切っていて、いい舞台だった。
 藤田まことは「ことし芸歴30年ですが、前半15年は雑歴みたいなもの。昭和28年冬、東海林太郎先生と初めて会った。大雪の夜、5、6人しか客が居ない舞鶴の小屋で、先生はノーカットで舞台をつとめられ、若い私は感激した。その感動はいまも体の中にある。」(2月23日朝日夕刊)と語っている。彼にとって東海林太郎は芸能生活を支える心の師でもあるのだろう。その心の師を演じる彼の演技がまた観客の感動を呼ばない筈がない。時に笑い、泣き、大きな拍手が起こる。

 隣席の妻もハンカチを顔に当てている。妻は小さいとき、母と生別した。そのあと、2人で山道を歩いている時、父がしみじみと歌ってくれたのが「赤城の子守唄」だったという。その義父も、私のどん底の時代に亡くなり、葬儀に帰郷した私達は大阪に戻る旅費さえない有様で、この父には夫婦とも何もして上げられなかった。その父を思い出しての涙でもあったのだろう。

 東海林太郎は晩成の歌手である。早稲田を出て、当時随一の国策会社南満鉄道に入ってエリート社員の道に入ったものの、軍閥政治を批判するような調査論文を出したりして閑職に置かれ、8年後退職、30歳を過ぎて「赤城の子守唄」でデビューした。
 藤田まことの舞台は何処までが実話か、フィクションなのか、これはわからない。しかし、歿後まだ10年、その人を知る関係者も多く、フィクションにも自ら限界があったろうし、何より主演の藤田まことが心の師の姿を観衆に訴えたかったに違いない。

 歌手の芝居は最近の流行だが、役者の藤田まことが歌手東海林太郎として、そのヒット曲を歌いまくったのには驚かされた。口の開け方など、まるでその人を見るようでさえある。芸歴30年、その結晶を演技だけでなく、歌にもぶっつけたのであろう。
 藤田まことの父は藤間林太郎といった往年の時代劇のスター、いわば蛙の子は蛙の例で、スチャラカ社員、てなもんや三度笠など、彼のいわゆる雑歴から脱してホンモノの役者として前進しつつあるのはひとつのバックボーンがあり、それには東海林太郎の影響も大きいだろう。

 客演の辰巳柳太郎、新国劇の方の赤城山であまりにも有名な人で私も舞台を見ているが、77歳の今日も立派に舞台を勤めるその役者根性に接することが出来たのも嬉しかった。

 記念にと妻が買ってきた東海林太郎のカセットテープが、「赤城の子守唄」「野崎小唄」「すみだ川」「旅笠道中」「名月赤城山」「むらさき小唄」「お夏清十郎」「麦と兵隊」など彼のヒット曲を幾度も反転するのを聞きながら、この原稿を書き上げた。
  「宮本武蔵は剣を通じて己を完成させた、私は歌によって己を完成させたいのである。」と東海林太郎は書いている。
 窓外はしとどの春の雨、間もなく夜明けだ。(3月17日早朝)



みなさん さようなら

2017.05.25 06:00|「周作閑話」
1983年(S58) 月刊「特装車とトレーラ」 5月号

周作閑話

赤城の子守唄

 昭和26年か27年かはっきりしないが、何れにしても30年も前のことになる。小さな土木請負をしていた父の頼みを受けて郷里の土佐へ帰っていたが、その事業そのものも順調でなく、私自身、全く畑ちがいの世界であったこともあって、失意の時代だった。

 そんな時、Sという小さな町の劇場に東海林太郎の実演がかかったことがある。テレビも民放もなく、都会には満足な劇場が少なかったその頃、歌手や俳優はいわゆるドサ廻りに活路を求めていた。美空ひばりに代表される戦後派の若い歌手達が既に台頭してきており、戦中、戦前のオールド歌手にとっては受難の時代で、東海林太郎もその1人であったのだろう。

 大きくもないその劇場は大入満員ではなかったと記憶している。自他共に認める音痴の私でも、東海林太郎の唄だけは無性に好きだっただけに、直立不動、真剣に歌い込むその唄には大きな感動を受けたものだった。
 こんな貧しい小屋で東海林太郎が歌っている。彼にはもう華やかな舞台は訪れないのだろうか、いやその時はきっと来る、このままで消えてしまうような東海林太郎ではない筈だ、と自問自答を繰り返したことである。

 郷里の仕事がどうにもならなくなって、着の身着のまま、夜逃げ同然の姿で大阪へ出たのが昭和31年、朝鮮動乱も治まって不景気のさ中、まともな就職先もなく、サンケイ新聞の当時はまだオーナーであった前田久吉氏の弟、冨治郎氏が経営していた生活合理化協会へ縁あって就職することになった。この協会を簡単に説明するのは難しいが、大阪に沢山ある市場を結んで販売促進を図る、というような一見もっともらしい趣旨はあったが、その内容は入社した私にも十分理解できないところもあるという、何とも為体(えたい)の知れないものだった。

 前田冨治郎氏は別名“つぶしの冨”。この人の手にかかった事業でうまくいったものはない、と言われ、この協会も例外でなく、私の入った時は既に左前になっており、先任の幹部は退陣させられて、私が実務面を見るハメになった。
 市場の顧客サービスに駆り出されて、のど自慢の司会、準ミスワールド嬢達を引き連れての巡回、果てはお伊勢参りのお供、軽飛行機からのビラまき、私の変化の多い生涯の中でも、何とも珍奇な仕事をしたのが30歳を出たばかりのこの頃である。養家の田畑を手放さざるを得なかったすぐ下の弟はこの協会の宣伝カーの運転手をして、本日のお買い得商品は、などと各市場を廻っていたが、協会解散後、元幹部の世話で某相互銀行へ入った。

 この協会で、各市場での“のど自慢”の決勝とアトラクションを、当時としては大阪でトップの座を占めていたサンケイホールで開催することになり、私はそのメインに東海林太郎を主張、反対意見を退けて実現に漕ぎつけた。
 東海林太郎の他に渡辺はま子、かしまし娘、ダイマル・ラケット、右楽・左楽という大阪色の濃いメンバーも入った当日の舞台だった。東海林太郎にとって、戦後、1,300人の観衆の入るホールに立ったのは、これが初めてではなかったかと思う。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.05.15 06:00|「周作閑話」
1987年(S62) 月刊「NewTRUCK」 5月号

周作閑話
金が仇の世の中で  おわり

 私の事務所のあるあたり、銀座でも場末に近いがそれでも土地の値段は坪ン千万円はするらしい。少し行った中心部は億を超えるという。
 事務所の周辺には小さなしもた屋がまだ残っていて、理髪店、すし屋、ラーメン屋、小料理屋などが並んでいる。いわゆる地上げ屋が買い占めに動いているらしいが、一軒当たりの坪数は小さいし、まとめるのに苦労しているようだ。
 オヤジとおかみがチョッキンチョッキンやっている行きつけの散髪屋が持っている土地は数億円、なみのサラリーマンが一生働いても手にできない金額なのである。しかし、彼等にその実感はないらしく、すしを握ったり、ラーメンを茹でたりしている。たとえ、そのような金が手に入ったとしても、自分達が働いて得たものではないことをよく知っているに違いない。

 日新出版の入っているビルの斜め前にホテルがあって、その元は風呂屋、その跡に薄汚いホテル兼旅館のようなものを建て、半地下に一杯飲み屋があった。料金が安いし、よく通った。女主人は、何百円単位の計算はよく間違ったが何千万円とか億単位になるとさすがにがっちりしているらしく、立派なホテルに建て替え、本郷にもかなりのホテルを持っているので、その資産は一体どれ位あるのか見当もつかない。

 この女主人、80にも手の届く老人だが、ホテルの中にある中華料理に手伝いに出て、私達がゆくとコーヒーをおまけに付けてくれたりした。ケチだと言われるこの女主人からコーヒーをご馳走になったのは他にいないらしいが、この人とは奇妙にウマが合った。
 最近、姿が見えないと思ったら入院したという。石川県から裸一貫で出て、巨大な資産を蓄えたこの人も年と病には勝てず、病院で何を思っているのだろうか。金の亡者というより働くことに意義を見出して、働きに働いている間に自然に金の方がその身に寄り添ってきたのではないか、と今では考えている。

 宵越しの金を持たぬ、ことを自慢したのは江戸ッ子だ。彼等とて金は欲しかったに違いない。「コレ小判、今夜ひと晩いてくれろ」の願いは、折角手に入った小判があちらこちらの支払いに消えてゆくのを嘆いた悲痛で、またおかしい風景だろう。
 「金が仇の世の中、どうぞしてその仇に廻(めぐ)り会いたい」、散々に痛めつけられた仇の金だが、何とかその仇に会いたい、複雑な心理である。

 落語の「芝浜」は、しがない魚のぼてふり(天秤1本の行商)が朝早く芝浜に仕入れに行って、縞の財布を拾う、喜んで人を集めて飲んで寝てしまった後、しっかりものの女房に夢だと言われて、酒も断ち、まじめに働くというもの。お店もできて、一杯いかがと酒をすすめる女房に、酒を飲んで寝たらまた夢が覚める、と言って止すのがオチになっている。悪銭身につかず、を面白おかしく教えたものだ。

 「文七元結(もっとい)」は、バクチですってんてんになった大工職人が一人娘を吉原に預けて50両を手に入れて帰る途中、集金した50両を紛失したと思い込んで身投げしようとする若者にそのまま与える。実は集金先で碁を打っていて忘れたもので、主人が礼にゆくと夫婦喧嘩の真っ最中。女房は着るものもなく、と芝居でもなかなか面白い場面だが、吉原から連れ戻した娘と若者が一緒になって元結を売出し大繁盛、がストーリーである。

 江戸時代は現在と較べようもない位貧しかった。しかし、人々の心はもっともっと豊かで、金が大事なものであることは知りながら、醜くそれに執着することはなかった。武士は食わねど高楊枝で、ひたすら金を追って利を求める商人は士農工商の最低ランクに置かれていたのである。
 それが今では士農工がなくて全て金、金の商になり果てた。人間の志というのはすっかり忘れられてしまったらしい。

 藤原弘達氏であったか、金とウンコは蓄(た)まれば蓄まるほど臭いがきつくなる、と言っている。金あまりニッポンもまさにその様相を呈し始めている。
 成金はかつては軽蔑の意味が込められていた。ところが、最近は成金を羨ましがったりする。変われば変わるものである。ええ格好して、そんなこと金を持てない男のひがみだ、と言われればそれ迄だが。




みなさん さようなら

2017.05.11 06:00|「周作閑話」
1987年(S62) 月刊「NewTRUCK」 5月号

周作閑話
金が仇の世の中で

 最近のセールス電話は会社名を言わないでいきなり個人名でかかってくることが多い。いろいろなところに首を突っ込んでいるものだから、知り合いの名が出ると失礼に当たってもいけないと思って電話に出る。

 先日も○○さんですと言われて、大阪に知人がいるものだから出てみると、これは全くの同姓異人で、あなたの学校の後輩と名乗って、商品投資の話を始めた。そういうものに一切興味はないし、耳が穢(けが)れるので聞かないことにしていると言うと、じゃあ何の楽しみがあって生きているんですか、ときた。一瞬唖然としたが、君に生き甲斐を教えて貰う必要はない、と一方的に電話を切ったものの、何か後味の悪い思いがしたものである。
 そのセールスの男は本当に金が生き甲斐と考えているのか、会社がそう言えと教えているのか知らないが、これほどはっきり言ったのは珍しい。

 嫌な世の中、と思ってもマスコミには財テクだ、NTT株だ、土地急騰だ、売上税だ、円高だ、とお金にまつわる情報が氾濫しているのだから、金が生き甲斐と信じる者が出てきても不思議ではないのだろう。
 たしかに生活をするにも事業を経営するにも金は必要だ、これは今も昔も変わらない。しかし、現在ほど金、金がムキ出しになっている時代はないように思う。

 昨年の何月だったか、出勤の朝、銀行や郵便局に長い列ができていた。サラリーマンらしい中年の男も沢山いる。一体何だろうと聞くと、天皇ご在位60周年記念コインの売出しだという。列に並ぶ人達がすべて天皇の長期在位をお祝いしている、というのでもなさそうで、将来の値上がりを見越した一種の利殖を狙ってのことであったらしい。しかし、発行枚数が余りにも多く、売れ残りも出る始末で、この思惑は外れたようだ。

 宝くじの売場でも大の男がよく並んでいるのを見かける。金儲けだけを目指す列の中に臆面(おくめん)もなくいい年の男が並んでいるのは何とも情けない風景に映る。顔色もどこか冴えなくて、ひと仕事もふた仕事もできる人のようには見えない。
 企業もモノを作ったり売ったりして稼ぐほかに、資金運用で利益を出す、いわゆる財テクが盛んで、本業以外に利益を出すことに懸命であるらしい。

 「浮利を追わず」つまり、本業以外の利殖を追求しない、というのは住友の家訓だったが、住友不動産の会長が強引な土地商法を追及脅迫された事件は耳新しい。「浮利」を追うことが現在の企業の常識であり、サバイバルに通じる、と考えられているようだ。

 ある会合で、こんな金、金の世の中はまことに嘆かわしい、と話したら、あなたは金に苦労しないからそんな気楽なことを言う、今の世の中、事業をやって生き抜くのは大変なんだ、この世間知らずが、というような目で見られた。

 金に苦労しないどころか、貧乏というのはイヤというほど体験した。体験し過ぎて身について、不感症になってしまったのが、他の人からは金に苦労しない男のように見られるのだろう。そういう生活を長い間続けていると、今日食べる米はなくても明日は何とかなる、という超楽観的な人生観が確立するものである。さすがに現在は子供達も育ってしまったし、明日の米を心配することはなくなったが、考えは変わらない。
(つづく)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ