みなさん さようなら

2018.07.19 03:50|「周作閑話」
1985年(S60)7月号
周作閑話

あかり

 長女が遊びに行った土産に手造りの和蝋燭を買ってきた。
 普通に使っている洋蝋燭と違って、少し黄ばんで上方が大きく、さわるとねばねばした感じでひんやりとしている。
 朝晩のお勤めに火を点(つ)けてみると、やはり黄色っぽい焔が出て、大きくなったり小さくなったり。風がないのにゆらゆら揺れたりして、神秘的とも思える燃え方をする。
 途中で火を消すと、燃えつきた灯芯はそのまま白くなって残る。この白くなった部分を取り去っておかないと、火をともすことはできない。灯芯を切っておくことが、昔の“あかり”を担当する人達の重要な仕事であったことは聞いていたものの、実際に体験したのは初めてである。

 西洋蝋燭は、鉱物性、動物性の油脂を型に流し込んで作る。和蝋燭はハゼの実の木蠟を芯にねりつけて次第に大きくしてゆくので量産できないし、一本ごとに多少の違いが出る。
 西洋蝋燭はドライで、和蝋燭はウエット、前者が蛍光灯なら後者は白熱灯という見方もできよう。
 この仏壇によく似合う和蝋燭も 洋蝋燭に押されて、現在は民芸品扱いに近く、一部の寺院や映画TVなどで使われているだけという。

 現在の私達はスイッチひとつで自由に点滅する便利な“あかり”を持っているが、電灯の発明される迄の人類は“あかり”をとることに苦心してきた。お灯明もそうであるし、火祭りのような形での宗教的行事はその名残である。
 仏壇にゆらめく和蝋燭の炎を見ながら、これ迄体験したいろいろの“あかり”について想いを回(めぐ)らすこともある。

 私の両親は土佐の出身だが大阪で世帯を持っていて、大阪で生まれた私が初めて郷里を訪れたのは昭和7年の4月、5歳の時だった。
 養子に出ていた父の弟が、新しく建てる居宅の木材の伐採中に墜落死した。即死ではなかったが、余程の重傷で「キトクスグカエレ」というような電報を父宛に打ったものであろう。
 私を連れた父は神戸港から土佐商船の「浦戸丸」か「室戸丸」かに乗船した。四国山地を横切る土讃線はまだ開通していなくて、海路による他なかったのである。
 初めての船旅で、酔った私は食物をもどして苦しんだ。外の風に当てようと思ったのか、室戸岬の灯台の灯を見せようとしたのか、父は私を抱いてデッキに上がった。くろぐろとした海の向こうに、点滅する灯台の“あかり”が見えた。郷里の土佐との初めての出会いである。

 高知からさらに西の中村まで鉄道やバスに乗り継いだ筈だが、初めて乗ったであろう汽車の記憶はない。瀕死の叔父は40km近くの道をこの中村まで運ばれた。救急車のある時代ではないし、恐らくその途中で絶命したと思われる。杉という病院で叔父の死を知った2人が、叔父の養家のある小さな部落に辿り着いた時はもうすっかり暗くなっていて、その庭先であかあかと、まるで火事のように大きな炎を上げて木が燃やされていた。
 その炎の中で、父は弟との最後の対面をしてそのまま埋葬された。私も棺の中を見たが、ただ黒い物体が横たわっていたという記憶しかない。闇の中に燃え上がる炎に照らされた白木の棺の印象だけが鮮烈である。

 この叔父の急死が、父と一家の運命を大きく変えることになった。消防車運転手という学歴も全くない男にとっては比較的に恵まれていた父は、恩給受給の資格が成立する翌年を待ちかねていたかのように退職して、一家を挙げて叔父の養家先に身を寄せた。
 その地域の資産家として知られた養父はまた大変なしまりやで、電気よりランプの方が安上がりと言い張って、電灯の取付を拒否したほどの人である。
 食事の時などはまだ薄暗いランプを点(とも)しているが、そのあとは灯がついているのがわかる程度のカンテラだけ。便所は外のはるかに遠い所にあり、真の闇に出てゆくのが恐ろしかった。
 養父と父は忽ちのうちに衝突して、一家はまた大阪へ舞い戻る。ところが無学の父に適当な就職先などあろう筈がなく、土方をしているうちに結核に罹って、また土佐へ帰ることになった。この間、わずか1年そこそこでしかない。

 父は単身で先に引き揚げて、母と私(長男)の兄妹4人は瀬戸内海まわりの第○○宇和島丸に乗船した。1年ほど前の引き揚げは高知まわりで、高知で小さな船に乗り換えて、叔父の養家の部落に近い漁港に夜明け前に上陸したが、艀(はしけ)から波打ち際に降り立って、遠ざかってゆく船の灯を心細く眺めていたことを記憶する。

 「宇和島丸」は石炭炊きの貨客船で、大阪天保山桟橋を出港して、翌日夕刻に母港の愛媛県の西にある宇和島に着く。ここで、あらかたの乗客は降りてしまうし、終点の片島港まで行く人も深夜の出港までの時間を利用して活動を見に行ったり、町へ出て、残ったのは母子5人だけ。船室も荷物と同居の汚い所に移され、カマの火が消えているため電灯は点かず、薄暗いカンテラがひとつ、貨物を梱包した藁の匂いの中での夜は悲惨で、母は生前このことをよく口にしていた。

 一家が引き揚げた小さな漁村にもまだ電気は点いていなくて私の日課はホヤ掃除。小さな棒の先にボロ切れをつけて、ガラスの筒の煤を拭い取る。ここでも夜はカンテラだった。
 秋祭りなどに村芝居がやってくると、急作りの舞台が作られ、集魚灯用のカーバイトを点す。独特の臭気と青白い焔、昼間見るとしわだらけの爺さん婆さんが若衆やお姫様に見えたものである。

 数年して電気が点いたとき、ランプに慣らされた目には眩しいほどであったし、夜でも朝でも気兼ねなく本が読めたのが嬉しかった。当時は従量制でなく、1灯いくらの料金で、電球が切れると交換に持って行った。
 戦時中の灯火管制が敗戦で解除されたと思ったら、今度はのべつ幕なしの停電に悩まされた。ポマードや油に灯芯を浸して小さな灯りを点すようなこともやったが、これでは行燈(あんどん)への逆行である。

 何処も明るくなって、鼻をつままれても分からぬというような真の闇は我々の周辺には殆ど見られなくなった。
 しかし、明る過ぎるということは決していいことばかりではないと思う。闇の中に、かすかに点る“あかり”の厳粛さ、うれしさ、頼もしさを知らぬ人はむしろ不幸ではないだろうか。

 想い出すと、木を燃やすだけの原始的な“あかり”に照らされた叔父の葬式、電気からランプへの繰り返しの子供時代、暗夜の海上で見た灯台、カンテラの灯火の下の船底など、そのどれを取っても明るいものはないが、何かしら運命の変わり目と“あかり”とのかかわりが感じられる。それは明るいところを探し求めて放浪した、その後の人生と無縁ではないと思う。




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みなさん さようなら

2018.06.25 02:53|「周作閑話」
1982年(S57) 月刊「特装車とトレーラ」6月号
周作閑話

お母さんの涙


 職場から自宅へ直帰するのは一ヵ月に2度か3度、珍しくアルコール抜きで家に戻ってウイスキーをなめながらテレビをつけてみると、NHKの五つ子の記録の放映が始まった。
 今更説明するまでもなく、山下さんというご夫婦から五つ子が生まれて大きなセンセーションを巻き起こして、その子供達もこの4月には揃って小学校に入学した。山下さんはNHKに勤務しているという。NHKにとっても、山下さんにとってもきわめて恵まれた条件下にあって、NHKではその成長の過程を実に克明に記録してきたものを、1時間半足らずにまとめて、入学を機に一般公開したものと思われる。
……
 一般よりもはるかに体重の小さい未熟児であったため、哺育器の中で漸く生息させられている五つ子は本当にひ弱く、これで育ってゆくのかという危惧を持ったが、無事退院する。
 自宅に戻ってからも大変で、ご夫婦、おばあちゃん、ベビーシッターの人達の懸命の哺育が始まる。からだの発達も、言葉の理解も通常の子よりはるかに遅れている。
 五つ子の名付け親である京都の清水寺貫首大西良慶師とのご対面の場もあって、両者の年齢差は実に一世紀、これも感動的なシーンだった。

 歩けるようになり、行動範囲が拡がってくるにつれて個人差が出てくると、ボスらしき存在も出現するが、このボスも一時的なものである。
 幼稚園に入園したときが大変で、それまでは5人の群れのなかで生活してきた者が大勢のさらに大きな群れの中に放り込まれたものだから、すぐ5人に戻りたがる。園側でも配慮して、慣れるに従って男児2人、女児3人を先ず男女別のチームに分けたり、友達の家へ少人数で遊びに行かせるなど、だんだん外界の子供との接触の機会を多くしてゆく。
 入園の頃の運動会ではビリでよたよた走っていた子も、3年の園児生活の終わるころには他の子に伍して走るまでになっている。

 身長や体重でこそ、一般の子供の標準レベルにまだ達しないが、体育機能では劣るところがないし、知能レベルではむしろ勝るところがあるというところまで成長して卒園式を迎えた。
 その卒園式でお母さんが流していた涙は本当に美しかった。天下のNHKであり、日本の医学界の名誉にかけてもこの五つ子は健全に育てなければならぬ、ということで万全の体制が取られていたとは充分に考えられることだが、それだけでは心身共に健全な子に育てることはできない。お母さんが手記にも書いていたように、その苦労は並大抵ではなかった、と察せられる。大きなハンディを持って生まれてきた5人の子供達が誇らしげに壇に上がって、1人1人園長さんから免状を貰うシーンには、全くの門外漢である私も目頭を熱くしたものだから、ましてお母さんとしては万感迫るものがあったに違いない。

 小学校入学のための面接の予行演習をするシーンは面白かった。1人1人、部屋に呼び入れて名前を聞いたりする。それぞれの子供の個性が出ていて、机の下に潜ってふざけるのもいる。別室で騒いでいる子供達に「外野、やかましい」とか言って叱るのだが、こういう叱り方はやはり現代のママさんである。
 自分のことは自分でさせるという習慣、食事で出されたものは残さない、必要に迫られたせいでもあろうが、実にいい躾をつけていると思う。全員揃って廊下の雑巾がけをしているシーンがあって、そのうち親の手助けで集団の威力を発揮することになるのだろう。
 少年期から思春期へと、幼児期とはまた異なった苦労もあるかと思うが、このご両親と子供達なら、きっとその難関を乗り越えて、立派にやっていけると思う。

 この五つ子がきっかけとなったわけでもないだろうが、わが国の未熟児の哺育レベルの最近の進歩には目覚ましいものがあると聞く。この世に生を享けた者に、一人でも多くその生を尽くさせることは単に医学的な問題でなく、生命の尊厳という点からも歓迎すべきであろう。

 私は未熟児ではなかったが虚弱児の代表のようなもので、とてもまともには育つまいと言われたし、本当に健康に自信が持てるようになったのは40代に入ってからである。
 この3月にはやっと女房に月給らしきものをまとめて渡した。経営する出版社が昨年9月の決算期で累積赤字を解消、黒字に転じ、銀行の勧めもあって国民金融公庫から借り入れて、漸く手元資金に多少のゆとりができたからである。税務署の査察も何事もなく終了して、社会生活で未熟児、未熟人だった私も、どうやら一人前になった。

 未熟であるからこそ、発育の可能性は大きい。成熟してしまえば、発展は止まってしまう。老子の言葉であったが、嬰児のようにありたい、というのがある。
 落ちこぼれ、というイヤな言葉もある。何を基準として、落ちこぼれ、というのであろうか。或る時点に限って、一定の基準に達していないからといって、これを落ちこぼれであるとキメつけてしまうことは許されないのではないか。

 人生はすべて未熟から成熟への道程であろう。熟年という言葉もあり、私もこれに相当する年齢には到達しているのに、とてもとても成熟には程遠い。事業人、経済人としてはやっとスタート地点に立ったばかりだと考えている。
 人生五十、まさに未熟人で過ごしてきたが、未熟であったからこそ、まだまだ可能性も楽しみもあるというものだ。三女もこの春、就職して、子育ては一応の終了を見た。未熟ぶりを発揮しながら、将来に夢を託して、これからも頑張るつもりである。


みなさん さようなら

2018.05.10 06:00|「周作閑話」
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 5月号
周作閑話 

春の憂鬱
 毎年、春先になると憂鬱になる。人生の煩悩が生じるとか、花粉症が心配というようなデリケートなことではない。総合健康診断の時期だからである。
 別に誰から強制されて受けるのでもなく、嫌なら止めてしまえばいいようなものだが、ちっぽけな会社でも経営していれば、健康様態をチェックしておいて、もし具合が悪いとなると打つべき手は打たねばならぬ。大企業のように、社長の候補者が沢山いて、いつトップに異変があっても、スムーズに選手交代できる、という結構な環境にはない。
 しかし経営上の問題は建前であって、安心して酒を飲みたい、という方がホンネである。60代の半ばともなると、医者から止められた、翌日に酒が残って苦しい、すぐ酔ってしまう、などの理由で禁酒したり節酒している例が多いが、私の場合は相変わらず酒はうまいし、多少過ごしたなと思っても朝はすっきりしている。これだけ飲めるんだから体は大丈夫だろうと思ってみても、裏付けの保証は欲しい。

 検査を受けているのは、ある生命保険会社の診療所で、その会社が売り出している大型保障保険の私は加入者である。この保険は中小企業経営者向きのもので、保険料は掛け捨て、満期の払い戻しはない。中小企業の場合、経営者が倒れると、信用不安が起きて経営危機を招くこともある。そのピンチを回避するためにまとまった金を払うというもので、生きていては一銭も手元には入ってこない仕組みなのである。

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みなさん さようなら

2018.03.26 06:25|「周作閑話」
サイパン 12390

2007年(H19) 月刊 「NewTRUCK」 3月号  「周作閑話」

硫黄島とサイパン・グアム (下)

 一瞬、雲間から差した閃光のような陽光が消えて、硫黄島の摺鉢山は淡いシルエット状になり、甲板に出た多くの船客は或るいは数珠をつけて合掌、涙を湛えてたたずんでいる。花束を奥さんから受け取って、投げようとする人がいたので、写真を撮って差し上げた。熊本球磨地方で手広く薬局チェーンを展開する白石敬旺氏で、父君は無謀としか言いようがないインパール作戦で戦死したという。硫黄島戦死者は、その職分を尽くしてアメリカ軍を戦慄させたが、インパール戦線では無謀な牟田口廉也司令官の指揮により多数の餓死者病死者を出した挙句に作戦を中止、牟田口中将は戦後20年も生きて生き恥を曝した。

 硫黄島で戦死したバロン西こと男爵西竹一中佐は、栗林忠道指揮官と同じく騎兵科出身で、ロサンゼルスオリンピック馬術競技で優勝、日章旗を掲げた当時の国民的英雄であった。日本のオリンピック出場選手は陸軍騎兵科将校で構成されていて、西はその中でも際だった存在だった。
 『硫黄島に死す』(新潮文庫)は西の華麗奔放な生涯と、硫黄島でのその死を描いた城山三郎の半世紀も前の短編で、一連の硫黄島関連作品ではもっとも早く、また白眉の話題作でもあった。
……

 芥川賞を受賞した菊村到の『硫黄島』は城山の硫黄島作品と同年の作品で、ややミステリー仕立ての凄惨な硫黄島の暗い闇のような部分を描いたフィクションである。現実に起こりえないような筋立てだが、あの硫黄島からの生還者ならあり得るだろうと思わせるところがミソである。

 これらの作品はいずれも日本側から硫黄島の戦いを描いたものだが、『硫黄島の星条旗』は、アメリカ側の作品で、大きな話題になったクリント・イーストウッド監督映画「父親たちの星条旗」の原作で、文庫本ながらびっしり詰まった小さな活字組みで600ページ近く、これは読み応えがあった。

 米軍の硫黄島上陸4日目に摺鉢山上に星条旗を立てようとする6人のアメリカ兵士の写真は、すぐアメリカ本土に送られて、国民の戦意高揚と戦費調達の国債募集に最大限利用された。その写真を基にして造られた巨大な彫像は、ワシントンの国立アーリントン墓地にある。私はその彫像と、ニューヨーク港の埠頭に繋留されていた空母の公開展示場でもそのミニチュアの像を見た。

 『硫黄島の星条旗』は、摺鉢山に星条旗を立てた6人の兵士の入隊前の生活、戦線での活躍、さらにその中の戦死した3人の遺族と負傷した1人、自分の足で故国の土を踏むことができた2人の戦後を克明に追っている。
 著者のジェイムス・ブラッドリーは、摺鉢山の6人のうち、唯一まともな職業(葬儀施設経営)について、もっとも長く生きた人物ジョン・H・ブラッドリーの子息で、ピュリッツァー賞作家のロン・パワーズの協力を得て書き上げた作品である。

 故国に生還した3人のうち、アメリカ原住民出身者は名誉に溺れてアルコール依存症になり、淋しく死ぬ。もう一人の生還負傷者は、その妻と共に硫黄島の星条旗掲揚者の生き残りヒーローとして各地でチヤホヤされるうちに当人より妻の方が名誉欲に取り付かれるようになり、夫婦仲もおかしくなって、不慮の死を遂げることになった。
 結局、星条旗を掲げたヒーロー6人のうち3人は戦死、二人は不健全な生活を送り、ただ一人、本書の父だけがアメリカ国民として名誉欲にも煩わされず、戦後も50年近く社会活動をして心臓発作で死んだ。

 本書を読んで痛感したのは、アメリカ社会の歪(いびつ)さである。日本のように歴史の古い国では、ヒーローは歴史上に求めるのが一般的だが、アメリカはスポーツ・芸能・果ては単に偶然に支配されて、硫黄島に星条旗を掲げただけの兵士を簡単にヒーローに仕立て上げる。
 硫黄島の戦闘については、アメリカ側に豊富な資料があり、本書を読めば日本側の乏しい資料を補うことができる。お陰で、戦闘の概要を掴むことができたが、それ以上にアメリカ社会の勉強ができたのが収穫だった。

マッピ山 12365

 28日夕刻に硫黄島沖を通過して、29日は終日航海、読書も進んで、30日朝「飛鳥Ⅱ」はサイパンに到着した。船客はそれぞれのオプショナルコースを選定してバスに分乗して目的地に向かう。もっとも多かったのが、戦跡訪問半日コースで、我々も参加した。
 この日は快晴、南海の空と海はあくまでも青く、地の緑と白波が鮮やかなコントラストを描いて美しい。それだけに、多くの慰霊碑が建つ白波の押し寄せる断崖のバンザイクリフやマッピ山頂にあるスイサイドクリフ(自殺断崖)は涙なしに見ることはできなかった。
慰霊碑 12398

 一面に茂る緑の林は、あまりに多い日本人軍民の死体の処理に困った米軍が、ヘリコプターから一斉に植物のタネを蒔いて、その繁茂によって死体を覆い隠した跡であるという。硫黄島では、米軍が飛行場の建設を急いで、死体をブルドーザーでならして、その上にアスファルトを流し込み、整地していった。
 現在もなお、硫黄島・サイパン・グアムなどの遺骨収集は行われている。

慰霊碑 12384

サイパン 12387

慰霊碑 12366

慰霊碑 12368

松江春次 12414

 サイパンに残る唯一の日本人の銅像は、砂糖王、シュガーキングと呼ばれた南洋殖産の功労者松江春次のもので、会津出身、兄の豊寿は徳島のドイツ兵捕虜収容所で人道的にこれを扱い、日本で初めての「第九」を演奏させ、後に会津若松市長として白虎隊の顕彰などに努めた。この銅像はマッカーサーが保護させたという。現在のサイパンは観光収入に依存しているが、戦前は砂糖の栽培などで2万人もの日本人が働いていた。アメリカは軍事上の基地として多大の保護を加え、住民の多くは観光産業に従事、その観光客でもっとも多いのが日本人、という図式である。

潜水艦 12427

 DFSという大きなショッピングセンター立ち寄りはパス、船室に戻り読書していて外を見ると、潜水艦が「飛鳥Ⅱ」を目指して進んでくる。一瞬、敵潜襲撃かとヒヤリとしたが、太平洋戦争史読書中による錯覚で、間もなく「飛鳥Ⅱ」船首すぐ前の埠頭に接岸した。
 午後5時、ヘリコプターからの散華を受けて出航、プールデッキではハワイアンの賑やかな演奏と歌が繰り広げられている。

タロフォフォの滝 12457

 30日早朝、グアム到着。サイパンと並んで太平洋戦争末期の激戦地だが、バンザイクリフのような戦跡見学コースはない。潜水艦による海中見学、ビーチ散策などがあり、午後のタロフォフォの滝見学コースに横井庄一さんが28年間潜伏した跡がその中に含まれているので、これに参加した。

横井庄一さん潜伏 12464

横井庄一さん潜伏 12453

 滝そのものは変哲ないが、少し奥に進んだ横井庄一さん潜伏跡は、なるほどここなら積極的に動かない以上、発見される可能性は少ないと思われる場所だった。出て来た時、「恥ずかしながら」と言ったのが流行語になった、それも30年あまり前のことである。
年越しカウントダウン 12508

 年越しのカウントダウンというドンチャン騒ぎは、写真を撮るだけにした。
 元旦お昼にはおせち料理と一人あたり300mlの祝い酒がプレゼントされ、良い気持ちになって寝てしまい、3時からの書初めに慌てて駆けつけて「洋上之春」と書く。酒酔いと船の揺れながらまずまずの出来。

書き初め 飛鳥Ⅱ 12521

 2日、再び硫黄島沖を往路と反対側で通過する。読書は「天皇―帝国の終焉」(文春文庫)で著者児島襄氏は戦史研究家としては第一人者だけに、日本の敗勢が濃厚になった頃から敗戦までを描いた秀作である。
 4日午後横浜着、戦跡見学と読書に明け暮れた年末年始の「飛鳥Ⅱ」のクルーズだった。


みなさん さようなら

2018.03.22 06:00|「周作閑話」
2017年12月25日、2018年1月11・15・18日アップの写真・コラムもあわせてどうぞご覧下さい。(妙)

2007年(H19) 月刊 「NewTRUCK」 2月号  「周作閑話」

硫黄島とサイパン・グアム (上)

 「空の要塞」巨大な超長距離爆撃機から投下する爆弾や焼夷弾の下を逃げ回った戦中派の我々にとって、サイパンは忘れられない島であった。太平洋戦争の初期こそ、南方水域に幅広く展開した日本軍だったが、アメリカ全土を軍需工場にして、巨大な戦力に膨れ上がった米軍の反攻を食い止める力はなくジリジリと追い詰められて後退していった。

 昭和19年(1944)6月15日、日本軍最後の防衛線であったサイパン島に米軍が上陸、7月7日に守備隊が玉砕全滅したのに続いて、テニアンとグアムの守備隊も全滅した。開戦当初から、指揮に当たってきた東条首相は責任を取って内閣は総辞職したが、後継内閣としても、退勢を挽回する妙策のあるはずもなかった。

 これらのマーシャル群島の飛行場から飛び立ったB-29は、制空・制海権を失って丸裸の状態に置かれた日本全土の上空を自由に飛び回り、都市や軍需工場を爆撃して、悠々と戻ることが可能になったのである。

 日本のほとんどの都市を焼き尽くした後、テニアンから飛び立ったB-29によって広島、長崎に原子爆弾が投下されて、中立を守るはずだったソ連までもが参戦して満州に侵入、日本は無条件降伏を受け入れた。

 還暦を迎えた20年ほど前から、生来の旅好きが高じて世界各地に足を伸ばすことになった私も、僅か3時間ほどの空路の距離でしかないサイパン・グアムはどうしても訪れる気にはなれなかった。

 空の旅ともなれば、B-29に思いをいたさねばならないし、海路になると御用船の船倉に詰め込まれて、途中で敵潜水艦の襲撃で海の藻屑と消えて、島に到着しても全員玉砕の運命が待ち構えていた多くの将兵を考えざるを得ない。
 南海の島で散華した軍民を慰霊するより、アメリカの支配下にある観光地化したサイパン・グアムなど見たくもない、という屈折した感情が先に立っていた。

 それが何故行く気になったのか。先ず年末年始のお休み期間、硫黄島を海上から見ながらサイパン・グアムに行く「飛鳥Ⅱ」のクルーズがある、となじみのJTB銀座支店から情報が寄せられた。
 硫黄島が、出版や映画の世界で日米双方で採り上げられる、という事態もあって、一般観光客が上陸できない硫黄島を、この機会に海上から見たいという希望もあった。
 さらに「世界の旅写真集」(仮称)を今年9月に刊行する予定があり、あの戦争の大きな転回点になったサイパンの写真記事を是非掲載したい、との思いもあった。

 暮れの26日、事務所で今年最後の打ち合わせと年内事務処理を済ませて、横浜の大桟橋に近いJR「関内駅」で下車したが、叩きつけるような豪雨である。
 悪天候は午後10時に出港した後、さらにひどくなり雷まで加わって、観音崎から東京湾に出ると、大時化(しけ)に遭遇してかなり揺れそうだと船内放送があった。
 横になって寝るに限る、と早々にベッドに潜り込んですぐ眠りに入った。目が覚めると相当な揺れで、窓から海を見ると海面には牙をむいた白波が躍っている。甲板に出ると、八丈島沖を通過するところだったが、人影はほとんど見えない。

飛鳥Ⅱ 12266


 この大時化で、伊豆諸島通いの客船は欠航したそうだが、「飛鳥Ⅱ」はさすがに5万tを超える日本最大の豪華客船で、縦揺れ横揺れを繰り返しながら、大波を蹴立てて進む。
 大食堂「フォーシーズン・ダイニングルーム」は海面に近い5デッキの中央部から後ろにあって、上級船室のある8・9・10デッキの前後に較べると揺れはかなり少ない。それでも、広く取ったガラス窓に大波が叩きつけて、一瞬水中を行くかのような錯覚に陥る。

 台風銀座の異名をとる土佐西南の海辺に育ったので、大波はいやというほど見てきたが、その波を目の横に見ながら飲食したのは始めて。荒天の海を行く「飛鳥Ⅱ」 を外から見たいと思うが、これは無理な相談である。

飛鳥Ⅱ 12280

 26日夜、横浜出航、27日夕刻の船長主催のウェルカムパーティの頃には、かなり波も収まって、タキシードやイブニングドレスの正装の男女が、会場のギャラクシーラウンジに集まって、華やかなムードが漂う。
 船内では、「飛鳥Ⅱ」専属のダンシングチームやその他の芸能人や書道他の文化教室なども開催されて、船客を退屈させることはない。
 私は書道に参加しただけで、もっぱら船室や図書室などで、持ち込んだ硫黄島関連本の読書に大半の時間を費やした。

 『栗林忠道・硫黄島からの手紙』(文芸春秋)『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)『硫黄島の星条旗』(文春文庫)『硫黄島に死す』(新潮文庫)『硫黄島』(角川文庫)『天皇―帝国の終焉』(文春文庫)の6冊で、年末年始にこれだけの読書をしたのは初めてである。年末の26日夜乗船、横浜帰着が新年の4日昼過ぎ、船中に9泊して上陸したのは30日のサイパン、31日のグアムだけだから、読書時間はたっぷりあった。

 前からの2冊は、硫黄島指揮官栗林忠道が硫黄島から家族に寄せた手紙を解説したものと、栗林を主人公にした硫黄島の日本軍の凄惨な抵抗ぶりを描いている。この2冊を読めば栗林忠道の人物、考え方がよく理解できる。

 日本の将軍といえば、大砲の音を聞いて、「今日もいくさがごわすか」と尋ねた茫洋とした日露戦争の大山巌元帥や愛児2人を犠牲にして当然といった神格的な乃木大将などが、一般的だった。しかし、栗林はまったくそれらの将軍とは違って細かいことまで自分で指示し、家族思いで、妻子に切々たる手紙―その中には家の造作、カネのこと、子供の手紙の誤字校正まで含まれている。

 もっとも戦いたくなかった国だと自ら言ったアメリカは、栗林が駐在武官として過ごして、新車を買って国中を走り回り、その実情をよく知った上、知人も多かった。
 細やかな心遣いのできる合理精神の持ち主である栗林は、サイパンなどでみられた日本軍伝統のバンザイ攻撃は極力避けて、最後の一兵まで効率的に戦うよう指導した。この戦法が、圧倒的な将兵と物量を注ぎ込んだアメリカ軍を大いに悩ませるのである。約2万の日本軍はごく一部を除いて戦死したが、戦死約7千名を加えたアメリカ軍の戦死傷者は約2万6千人、劣悪な条件の中で互角以上の戦いを、栗林は成し遂げた。

 『手紙』『散るぞ悲しき』をほぼ読み終えた28日午後3時半頃、「飛鳥Ⅱ」は硫黄島の沖合に到達した。先ず見えてきたのは平坦な低い台地上の島であり、建造物が見えるのは自衛隊の建物である。そのなだらかな台地の先端にお椀を伏せたような摺鉢山がある。

 その麓の米軍が命名したグリーンビーチに強行上陸した米軍を、待ち構えていた日本軍が砲火を浴びせた。従来の日本軍の戦法は水際作戦で敵の上陸を防ぐことに主力が置かれて、その後はジリジリ押し詰められて玉砕する、というパターンだったが、栗林は上陸してきた敵軍を、島中に張り巡らせた地下道や洞窟に潜んだ日本軍が奇襲攻撃した。

 アメリカ軍がグリーンビーチに上陸したのが1945年(S20)2月19日、摺鉢山にもっとも有名になる星条旗が掲げられたのは4日目の23日だったが、戦闘はなおそれから1ヶ月余りも続き、栗林が最後の出撃戦に打って出たのは3月25日夜だった。

 曇り空だったが、日没にはまだ少し間のある頃、雲間から一瞬閃光のような日差しが波間を赤く染めて、摺鉢山をシルエット状に黒々と浮かび上がらせた。
(つづく)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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