みなさん さようなら

2018.01.08 06:00|「周作閑話」
伊勢神宮 19378

1998年(H10) 月間「NewTRUCK」 1月号 周作閑話

お伊勢まいり

 3、4歳の時であったと思う。朝、目が覚めると父が外から帰ってきて、ミヤゲの御幣の形をした生姜板を小さく割りながら食べた記憶がある。その頃は大阪に住んでいたので、お伊勢さんに初詣をした父が夜行の電車で帰ってきたところだったのだろう。
 昭和4年(1929)10月に第58回の式年遷宮が行われているので、その翌年の初詣に出かけたとすると、私は3歳だった。
 初めて伊勢参宮をしたのは31歳の時で、11月27日の今回は9度目になる。

 伊勢へ七たび 熊野へ三たび
  お多賀さまへは月参り

 3度目の参宮の時、戦後最大の被害をもたらした昭和34年の伊勢湾台風の後の、神宮の森は惨憺(さんたん)たるものだった。杉の巨木の倒壊は数知れなかったが、不思議なことに、それらは正殿を避けて四方に向けて倒れたために正殿には何の被害もなかったという。

 第6度目の時には、近鉄の宇治山田駅で、吉田茂元首相を間近にする機会があった。伊勢には皇學館大学があり、吉田元首相はその学長をしていて、卒業式に臨席のため伊勢を訪れたものらしく、伊勢参宮の思い出のひとつである。
 今度の参宮は、余りにも惨めな現在の日本の諸相に愛想を尽かしたというわけではないが、やはりこういう時には、日本の原点ともいうべき伊勢神宮に心静かにお参りしてみたいという願いからである。

 神宮は全く変わっていなかった。台風後すでに40年近くたって、樹々も鬱蒼とした茂みを見せて元の姿に戻りつつある。
 変わらないことが、神宮の最大の特徴なのである。われわれの住む町は、10年もすると大きく変貌する。私は大阪を離れて30年近くなるが、迷子になる程、すっかり変わってしまった。故郷の町や村もそうである。
 1ヵ月程前、45年ぶりに故郷近くの足摺岬を訪れた。前に来たときには全く見かけなかった近代的なホテルがいくつも建っていた。88ヵ所遍路の時にお詣りした38番札所の足摺山金剛福寺も、本堂は新しくなり、それ迄にはなかった三重塔が建って、昔の面影を留めているのは古びた大師堂だけ。最近は観光バスでお詣りする団体が多いものだから、札所の寺の収入も良くなっているのだろう。
 神宮は変わっていないが、しかし、20年ごとにすっかり生まれ変わっている。これを「式年遷宮」というのだが、皇大神宮つまり内宮と、豊受大神宮の外宮だけではなくて、約20社ある別宮と摂社すべてが造り替えられるのである。

 単に経済的理由だけでいうなら、これ程の無駄はない。現在の社寺によく見られるコンクリート造りは論外としても、柱を直接地中に建てる方式をやめて礎石を置き、屋根も銅葺きにすれば、百年も二百年も、あるいはそれ以上も維持できるに違いない。補修を重ねていけば法隆寺のように千年以上も保持は可能だろう。
 しかし、神宮はそれらの方法をとらずに、かたくなに古代そのままの建築方式を守って2千年近くの間、形を変えないで、常に新しくあり続けてきた。

 皇室の祖神天照大神を祀る内宮と産業の神豊受大神を祀る外宮であるだけに、皇室の尊崇が篤く、その維持のため大変な努力をされてきた。武家政治の世になっても鎌倉、徳川の両幕府はその維持に努めた。皇室も式微(しきび)、足利幕府の威令も行われなくなった室町から戦国時代にかけては約130年間も式年遷宮が行われなかった時期がある。
 この神宮にとっての暗黒時代の打破に身を捧げたのは神宮に所属する尼院慶光院の二人の女性、清順尼と周養尼で、彼女達の熱心な勧進に、神仏を否定して比叡山を焼き討ちした織田信長さえも、大枚の金子を寄進している。豊臣秀吉も大金を寄せているが、信長、秀吉ともに短期政権であり、恒久的な維持方法を確立したのは徳川時代であった。

 明治以降、皇室によって維持されて造営費用は国費から出ていたが、昭和20年の敗戦による政教分離の進駐軍命令で国費の支出は認められなくなった。私の父がお詣りした昭和4年の式年遷宮の次は24年の筈だったが、敗戦後の事情もあり、4年間の遅延の後に昭和28年、式年遷宮が実現した。
 そのあと昭和48年、平成5年と国民の基金による式年遷宮が実施され、平成5年、闇の中でのその模様は好感度フィルムで撮影され、テレビに初登場した。

 世界には神宮より年代的に古い宗教的移籍はいくらでもある。
 しかし、それはあく迄も遺跡であり魂の抜けた宗教施設の石の残骸でしかない。ギリシアのパルテノン神殿でお祈りする観光客は誰もいない。
 ローマのヴァチカン宮殿はたしかに壮麗ではあるが、ミケランジェロも参画した大聖堂の完成は4百年程前である。
 中国曲譜にある孔子廟の建物も明から清時代、三~四百年ほど前に建てられたもので、孔子の時代とは全くスタイルの違う宮殿方式になっている。
 釈迦を生んだインドにあるのは仏教遺跡で、庶民の信仰はヒンズー教または回教である。

 神宮のうちの内宮が伊勢の現在地に鎮座したのは紀元三百年前後と推定されており、すでに千七百年もの間、同じ場所に同じ様式で建てられてきた。このような例は神宮以外には世界のどこにも全く見ることはできない。
 古く、変わらず、常に新しいのが神宮である。
私は神宮の建物に力強さと明るさを感じるのだが、ドイツ人ブルーノ・タウトは次のように言っている。
 「伊勢神宮は、独創的な真の日本だ。日本固有の文化の精髄であり、世界的観点からみても、古典的天才的な創造だ」
 イギリスの歴史学者アーノルド・トインビー博士は、2回目に神宮を訪れた時、
「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する」と書いた。
 現代の建築家丹下健三氏は、
「これほどに長い歴史に耐えてきた正確なフォームがまたとあるだろうか。(中略」日本建築のその後の展開は、すべて伊勢に発しているといってもよいだろう。素材の自然なあつかい、形態比例の感性、空間秩序の感覚、とくに建築と自然との融合などの、日本建築の伝統は、すべてここに起点を持っている。(中略)伊勢のフォームを創造した古代人のたくましい構想力の背後には、日本民族のエネルギーがそれを支えていた。この伊勢のフォームには日本民族の原質が含まれている。
と、同氏の著書『伊勢―日本建築の原型』に述べている。

 20年ごとの遷宮は、古来の建築、染織、工芸、祭祀の伝承という点でも大きな意味を持つ。これが、五十年あるいは百年ともなればその伝承は極めて困難になる。同じ人が、一生に少なくとも2回は遷宮による造替を体験できるはずであり、そこに滞りはない。技術の伝承だけでなく、“心”の伝承もあるだろう。
 用材の確保も息の長い仕事で、常に将来を見越して植林をしておかなければならない。
 人と技術の永遠のつながりによって伊勢神宮は守り続けられてきたといえよう。

 現在は消えたが、戦前には『神嘗祭(かんなめさい』という祭日があった。その年の新しい米をご祭神にお供えする神宮にとって最も重要なお祭りで、五穀豊穣を感謝するこの祭日こそ復活してほしいものである。
 「勤労感謝の日」という、わけのわからぬ祝日は天皇が神と共に新穀を召し上がる「新嘗祭(にいなめさい)」の名残だが、もう国民にはその意義はわからない。


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みなさん さようなら

2017.12.21 07:40|「周作閑話」
月曜日アップできなかったお詫びを、昨日20日掲載しました。

1995年12月号 周作閑話

ワシントン


 “音”の記憶の中で最も鮮烈なのは、B-29の爆音である。
 第二次大戦の末期、制空権を全く失った日本の空を悠々と飛んで、焼夷弾や爆弾を雨のように降らせたB-29の、ズーンと腹にこたえる爆音を記憶している人はもう少数派だろう。その爆音のテープをワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館の中、広島に原爆を落とした“エノラ・ゲイ”の特別展示場で聞いた。

 “エノラ・ゲイ”の展示についてはアメリカ内部でも論議があり、展示方法について日本側からも意見が出されるなど、相当に紛糾したようである。そのせいかどうか、特別展示場へ入る際の検問はきわめて厳重で、妻のバッグまで開かせる程だった。

 薄暗い室内で銀白色に光る“エノラ・ゲイ”は翼を外して後半部をカットした前部胴体部分で、尾翼やエンジンは切り離し、下部には原爆の模型が取り付けられている。この機体から切り離された原爆が、人類最初の惨禍を広島にもたらした。
 これで日本をやっつけた、日本を降伏させた、という派手な説明もなく見学者達も一様に厳粛な表情であったのは何か救われた気持ちではあったが、誇らしげな乗組員達の記念写真にはひっかかるものを感じる。

 昼間、下から仰ぎ見るB-29は巨大だったし、昭和20年3月14日深夜の大阪大空襲で撃墜された大きな火の玉となって落下したB-29の残骸が大阪駅前に展示されて何と大きなものかと驚いたものだったが、こうしてみるとそれ程大きくはない。ジャンボを見慣れたからだろう。

 スミソニアン航空宇宙博物館にはライト兄弟が初めて空を飛んだ飛行機から最新の宇宙衛星に至るまで、まさに人類の空への挑戦の歴史ともいえる展示物がある。その中での“エノラ・ゲイ”を除いて、科学技術やパイロットの輝かしい記録と勝利を物語っている。
 『翼よ、あれがパリの灯だ』の大西洋を初めて横断したリンドバーグの“スピリット・オブ・セントルイス”や第二次大戦の花形戦闘機である“ゼロ戦”(日)、“メッサーシュミット”(独)、“スピットファイヤー”(英)、“グラマン”(米)など、私達の記憶にある展示物は心の躍るものがあるが、“エノラ・ゲイ”だけは全く異質の展示である。
 科学技術発達の究極の恐ろしさ、現在は広島原爆とは比較にならない強力な破壊兵器が生まれ、その保有国が実験を繰り返している現実を訴えるのが目的であれば“エノラ・ゲイ”の展示も意義があるだろう。そのためには誇らしげな乗組員の写真よりも広島の惨禍を示す生々しい写真こそが望ましい。

 航空宇宙博物館の吹き抜けドームのガラスの向こう側に国立博物館が見える。この一帯はスミソニアンの各種博物館の建物が連なり、一大文化施設区域である。
 首都ワシントンは17年前と殆ど変わっていない。“エノラ・ゲイ”が航空宇宙博物館に加わり、ジョン・F・ケネディ大統領の墓の傍らにジャクリーン・ケネディ・オナシスが寄り添ったことなどであろうか。

 南北戦争の南軍の指揮官リー将軍の邸宅跡一帯のアーリントン国立墓地にはJ・F・ケネディ、その弟のロバート・ケネディのほか、戦後の日本に馴染みの深いダレス国防長官などの有名人、戦死者10万人余りが葬られ、軍人などで希望すれば現在でも遺体は埋葬できる。この日も、星条旗の半旗が掲げられていたから、埋葬があったのだろう。真新しい白い墓標にはベトナム戦争の死者が多い。

 1789年のワシントン初代大統領就任からクリントンまで、ほぼ200年の間にアメリカは41名の大統領を送り出している。最も評価の高いのが、建国のワシントン、南北戦争のリンカーン、大恐慌から第2次大戦のF・D・ルーズベルトで、中でもリンカーンがベストワンであるらしい。ケネディは暗殺から暫くの間の評価は急騰したが、現在は下降しているとのこと。最近の大統領の評価はもう少し年月を置かないと定まらないだろうが、ベスト3に入る大統領は見当たらない。

 F・D・ルーズベルトは第2次大戦の末期、チャーチル、スターリンとともにヤルタ会談に出席した2ヶ月後に病死した。その時の、頬がこけてやつれきった顔の映像は時々放映される。だが、元気な時は堂々とした、いかにもアメリカを代表する立派な顔だった。
 ファーストレディ、つまり大統領夫人についてもアメリカ人はなかなかうるさい。リンカーンの妻メアリーだけは悪妻だったとされるのに対して、トップはF・D・ルーズベルト夫人のエリノアである。小児マヒで体の不自由な夫を助け、その死後は人権運動などに活躍した。夫婦の得点がF・D・ルーズベルトのように高いのはむしろ珍しい。

 ギリシア風の大建築リンカーン記念堂の前の細長い人工池にはワシントン記念塔の姿がそっくり映って、その向こう側にキャピトル、国会議事堂の大きなドームが見える。観光客が必ず目にする首都ワシントンの顔だ。
 今度の旅行では、リンカーンについての本を何冊か読んでみて、これ迄描いていたイメージの変更を迫られた。
 巨大なリンカーンの大理石の坐像の背面に彫られた「人民の、人民による、人民のための政治」を唱えて、奴隷解放の父と讃えられる民衆政治家、人権政治家、理想主義政治家として彼をとらえることは皮相な見方である。

 リンカーンによって戦われた正味4年間の南北戦争では、両軍合わせて60万人余りの戦死者を出した。アメリカが参戦した第一次大戦で約11万人、第2次大戦の約32万人の戦死者の合計よりはるかに大きな犠牲を払っている。世界の内戦の中でもその数は最も多い。
 なぜ膨大な犠牲を払ってまで戦い抜かなければならなかったのであろうか。
 その原因を詳しく述べることは私にはできないし、その紙数もない。ただ、言えることは、リンカーン大統領が登場した1860年のアメリカは建国から80年は経過しているものの、国としてのまとまりにはまだ欠けている部分が多かった。
 南部の綿花栽培はアメリカの輸出の大きな部分を占めていて、その労働力は奴隷に頼っていたから、南部に奴隷制擁護論者が多かったのは当然だった。
 しかし、家畜のように人を売買する奴隷制の非人道性を批判する動きもあり、奴隷制の拡大に反対する共和党が1854年に結成され、6年後にリンカーンが大統領に就任するのをきっかけにして、南部諸州は続々と連邦を脱退、新しい政府を樹立する動きになった。

 リンカーンは直ちに奴隷制を廃止しようと考えたのではなくて、北部にも南部にも属さない中間の州については奴隷制を認めてもよいとさえ言っている。
 南北双方に妥協の動きはあったけれども、アメリカンはひとつでなければならないとする北部およびリンカーンと、自分たちの国を造ろうとする南部との戦端は回避することができず、泥沼の戦いとなった。結果は北軍の勝利に帰したけれども、戦死者は北軍の方がはるかに多かった。この戦いのさ中に奴隷解放宣言は出されたが、人種問題が現在まで尾を引くことを彼は考えただろうか。

 優れた名演説を遺したリンカーンは正規の教育を受けていない。弁護士から大統領になる迄の彼は相当のかけ引きもしたが、大統領に就任する頃からは実に優れた洞察力と明確な理念を持つ卓抜した指導者に成長していった。第2回大統領当選直後に凶弾に倒れた悲劇性も加わって、殆ど神格化された感じはあるが、やはり歴代大統領のトップであることに異論を挟む人はないだろう。
 彼の死後アメリカは黄金時代に、日本は明治維新から文明開化の道をまっしぐらに進むことになる。


みなさん さようなら

2017.12.14 04:05|「周作閑話」
文中の「中村市」は2005年(H17)、「四万十市」(しまんとし)になりました。(妙)


1990年(H2)月刊「New TRUCK」12月号
「周作閑話」

帝国連合艦隊

 「日本一の清流」というキャッチフレーズで、土佐西部の四万十川は有名になり、テレビやドラマにもよく取り上げられている。流れがゆるやかで、ダム建設に適さなかったという理由もあるが、流域に都市化の波が殆ど及んでいない、ということが最大の原因だろう。
 四万十川流域の町らしい町といえば、全国に数多い小京都のひとつ中村市で県庁の出先機関があり、鉄道の終着駅でもある。中村市から南西30kmほどの所にあるのが宿毛(すくも)市で、愛媛県との県境も近く前面には愛媛・高知両県に挟まれた宿毛湾がある。

 高知県は維新以来、多彩な人物を出していることで知られる。宿毛はさらにそれを凝縮したような、全国でも珍しい人材輩出地でその伝統は今も引き継がれている。
 在京の宿毛出身者の集まりである「東京宿毛会」は遠く明治時代に始まっており、町単位の郷土の団体としてはきわめて珍しく、歴史も最も長いのだそうである。
 「東京宿毛会」は毎年秋に開催されていて、出席するようになったのは一昨年から、今回で3回目。厳密に言うと私は宿毛出身者ではなく、宿毛湾に面した、行政的に言うとかつての奥内村、現在の大月町生まれの父母から大阪で生まれて小学生の4年余りと大学を卒業してから6年ばかり、父母の故郷に住んだだけである。妻は宿毛から来ているが、余所から入ったもので宿毛の血は流れていない。

 「東京宿毛会」の会則には、会員は宿毛市の出身か小・中・高校に在籍した人、また宿毛に縁があり、宿毛を愛好する首都圏の居住者を中心として組織する、とあるので会員の資格ありと見なされているのだろう。
 もっとも、会員といっても会費を徴収するわけでなく、毎年秋の例会の参加費や、その時に発行する機関誌『土佐すくも人』の広告収入で運営費を賄っているらしい。
 『土佐すくも人』は今回で第7号を迎え、A5判、120頁の堂々とした冊子でその内容もかなり濃いものがある。

 宿毛からはかつての日本一の出版社、冨山房を興した坂本嘉治馬、大隈重信を輔けて早稲田大学を建てた小野梓、情熱の歌人北見志保子など文化面で活躍した人物が多い。政治家にしても吉田茂、林譲治など文人肌が多く、茂の子の健一にもその血筋が見られる。
 現在でも、冨山房は別として私を含めると宿毛出身者で出版社を経営する者が3名もおり、これも珍しい例であろう。法曹部門で活躍する人が多く、この春の叙勲ではそのうちの二人が勲二等受章の栄に浴している。この人達がすべて豊かな文学的素養の持主で、先年の上海付近で起こった中学生の列車遭難事故における賠償金の、困難な折衝をまとめ上げた岡村勲弁護士は立派な漢詩を作る。
 文才豊かな人物や、本づくりのプロが多いのだから内容の濃い機関誌になるのは当然で、7号の編集後記にもあるように、一流誌の読み物にも負けない立派な玉稿ぞろいなのである。

 10月24日、皇居お壕端の法曹会館で開催された「東京宿毛会」で『土佐すくも人』を受け取って開いたら、私の原稿が巻頭に掲載されている。
 絶好の碁敵であり、酒友でもある日本文芸社の兵頭武郎社長は「東京宿毛会」の代表世話人格でもある。今度の『土佐すくも人』は昨年の例会の橋田庫欣(くらよし)先生のお話の“本土決戦と宿毛”を軸にして“太平洋戦争と宿毛”の特集を組むつもりだ、と彼から話を聞いた。

 それなら、宿毛湾に入った帝国海軍連合艦隊の想い出でも書こうか、と軽い気持ちで請け合って“帝国海軍栄光の日々―少年の瞼に焼き付いた連合艦隊―”というタイトルの短い文章を綴って渡しておいたのが、巻頭に載った記事である。その中に、小学校全校児童60名ばかりで戦艦「陸奥」の見学に行ったことを書いたので、1頁大の陸奥の正面写真も載っていた。ただし、この写真は私の見た時より少し後のもので、水雷よけの大きなバルヂが取り付けられ、船腹が大きく膨らんでいる。
 なぜ、宿毛出身者でもない私の原稿を先に載せたのか。恐らくその後に続く玉稿の“露払い”役を私に担わせたのだろうが、事実、他の方々のものはずしりと読み応えがあり、一般市販の図書に決してヒケを取らないものがあった。

 郷土史家橋田庫欣先生の“宿毛湾と日本海軍”は、いわば秘話とでもいうべき宿毛から見た帝国海軍と人物の側面史である。
 宿毛湾が艦隊の錨地として適地である事に先ず着目したのはアメリカ海軍の方であった。もし日本へ侵攻する場合、この辺鄙の地を押さえれば、日本軍がこれを攻めることは難しく、アメリカ側は海上からの補給が容易である、との理由による。

 アメリカの動きを察知した日本の駐米武官の報告を受けた海軍は早速陸海の参謀達を宿毛に派遣、湾の内外をくまなく調査した。その結果、大正9年に第二艦隊が、その翌年には連合艦隊が来航して、昭和3年から毎年、または年に数回も太平洋での訓練の基地となったのである。私の見た帝国連合艦隊は昭和10年から14年にかけてのもので、巨大戦艦の「武蔵」や「大和」はまだ完成していなかったけれども、第二次大戦前の最も充実した時期であった。

 艦隊の錨地として宿毛湾は絶好の地理的条件を備えてきたとされるが、それは陸の孤島にも等しい陸上交通の不便さ、沿岸の未開発というマイナス条件も含まれていた。
 鉄道がつけばスパイが入り易くなるので、歴代の連合艦隊の司令官長は殆ど反対であったというが、もしそれが事実なら宿毛周辺の人達は長い間、海軍のために交通の不便さを押し付けられたことになる。そのせいかどうか、戦後になって鉄道は西に伸びたが、モータリゼーションの普及でそのテンポはダウン、第三セクター方式で宿毛に鉄道が入るのは平成6年の予定である。

 都会がなくネオンの光などもないので、乗組員が陸上を恋しがらないのも理由の一つに挙げられているが、ネオンどころか陸上の灯火は殆ど見えない真っ暗闇の湾内に艦隊は錨を下ろしていたと思われる。逆に式日など、あかあかとイルミネーションされた軍艦の姿は陸上からよく見えたものだった。

 橋田先生の記事によると、昭和16年夏、連合艦隊を率いた山本五十六司令長官が上陸、松田川支流の篠川で長官幕僚12名がフンドシひとつになって子供に返ったように鮎漁を楽しんだという。さらに、第二次大戦の始まったあとの昭和17年のある日。山本長官は旗艦「大和」ほか一部の艦隊を率いて宿毛湾に入港、宿毛町長ほか3名が「大和」に長官を慰問したところ「日本にアメリカの飛行機が来だしたら負けだ、そうならないように全力を尽くして頑張っている」と長官は言った。その後上陸した長官は、ハイヤーで高知に向かい、宿泊して戦陣の疲れを癒やした。これが山本長官最後の本土での夜となる。

 米軍機が日本を初空襲したのは昭和17年4月18日で、山本長官の宿毛入港はその前か後か、米機が日本を襲うようになったら日本は負けだ、との焦りが太平洋戦争の明暗を分けたミッドウェー海戦となり、長官は昭和18年4月18日戦死した。

 宿毛出身の山岡耕筰東京芸大教授がヴァイオリン変奏曲“荒城の月”を演奏の後、来会者は打ち解けて談笑した。その中に大戦末期、宿毛湾にあるわが父祖の地柏島に特攻隊として進駐した震洋134隊半谷達哉元隊長ほか数名の隊員の姿があった。半谷氏とは不思議な縁で、「'90トラックショー」の景品となった大量のキャンディーは半谷氏の寄贈によるものである。


みなさん さようなら

2017.11.30 06:06|「周作閑話」
2006年(H18) 月刊「New TRUCK」9月号
周作閑話
2001年5月 国技館
2001年5月 国技館

双葉山と「木鶏」

 8月の夏休みに入る前の交詢社恒例金曜午餐会の講演者は杉山邦博氏だった。相撲ファンであればNHKテレビ中継で、花道近くの指定席に何時も坐っている、メガネの端正な面持ちの紳士、といえば、アァ、あの…と思い出すに違いない。
 長らくNHKでスポーツアナウンサーを勤めて、年輩の方なら現役時代の放送の記憶をお持ちだろう。相撲記者クラブの名誉会員として、木戸御免、取材もOKだそうである。

 先の名古屋場所では、露鵬が取材カメラマンに手をかけた、ということで3日間の出場停止処分を申し渡されて話題になった。千代大海との取り組みで両者に相撲のマナーに反する行為があり、相撲協会から注意を受けて外に出た時、待ち構えていたカメラマンを排除しようとして、手を上げたらしい。
 杉山氏は、3日間位では生ぬるい、その後の場所全日の出場停止にすべきであった、7勝7敗で迎えた千秋楽の露鵬の相撲は全く卑劣な取り口で、観客からもブーイングが出たくらいだった、と述べている。

 力士のマナーの悪さについては、私も常々感じていたことで、相撲のテレビ観戦もかつてのように熱心には見なくなった。相撲は勝負や記録を争うスポーツの部類に属しても、それだけでないところに相撲の魅力があるのだが、それが失われた。
 相撲だけではない。剣道にしても柔道にしても、日本古来の武術は礼に始まり礼に終わるもので、勝者は敗者に対して労(いたわ)りの気持ちを持つ。剣術、柔術と言わなくて、道の字がついているのはその為である。
 ところが、柔道がオリンピック種目になると、ガッツポーズが見られるようになった。

 大相撲には外人力士が60人もいるそうで、番付も上の方になると、かつてのハワイ出身は消えたが、蒙古相撲の伝統を持つモンゴルやロシア、ブルガリア、韓国などが目立つ。一人相撲の朝青龍と横綱最短距離にいる白鵬もモンゴル出身で、日本人力士の三役陣では、横綱を狙えそうな者は見当たらない。
 外人力士が増えたからマナーがおかしくなった、という見方もあろうが、日本人力士の方も決して褒めるわけにはいかない。高見盛という人気力士の、その人気の元は土俵に上がってからの派手なパフォーマンスによるところが大きい。これは、本人の責任もあるだろうが、それに声援を送るファンや協会や親方の指導にも問題がある、と思う。
……
 相撲は、もっとも階級差の激しい社会で、横綱と幕下では王様と奴隷ほどの違いがある。その階級差は、国籍、身分、縁故、学歴に一切関係なく、昇進陥落を決めるのは、土俵の上の勝負だけである。
 しかし、相撲がただ勝負を争うだけのスポーツであるかといえば、明らかに異なる。

 単なるスポーツであれば、外人にまでマゲを結わせる必要はないし、土俵に上がってチリを切る動作に始まり、邪気を払う四股を踏み、戦いが終われば天地三神(神産巣日神・カミムスビノカミ、高御産巣日神・タカミムスビノカミ、天御中主神・アメノミナカヌシノカミ)に感謝の念を込めて、勝ち名乗りを行司から謹んで受ける。
 横綱になれば、行司を先頭に、露払い、太刀持ちを従えて、御幣のついたまわしを着けて土俵入りする。これは神事そのもので、終われば弓取り式で土俵を清める。
 これらの一連の行事は、相撲が五穀豊穣を願う神事として元旦、端午、七夕、重陽(陰暦9月9日の節句)などの季節の変わり目に、天皇の御前で相撲を取った「相撲節会(すもうせちえ)」の名残を留めている。
 江戸時代になると相撲はショーアップされて、土俵入りや清めの塩まき、化粧まわしが定着する。土俵には四本柱が立てられ屋根がついた。この四本柱が取り払われて、吊り屋根になったのはごく近年である。

 このように、相撲は日本の神事の伝統を踏まえながら、躾教育が十分でない日本人や外人を勝負の世界に受け入れていかざるを得ないのだから、その運営が決して容易ではないことは十分に理解できる。
 相撲の力士には、その地位に相応しい人格と品位が要求される。大関や横綱に推薦されると、相撲協会から伝達の使者が派遣される。「大関の地位に相応しい活躍をするよう奮闘努力します」とかのお受けする口上を述べるのが通例だが、最近慣例になっているこの四字熟語を覚えさせるのが大変だと、杉山元アナウンサーは言う。忘れないように手の平に書いて貰ったのはいいが、緊張して汗びっしょり、字が消えて間違えてしまった、という例もあるらしい。

 その点立派だったのは白鵬で、自分の口で「全身全霊をかけて努力します」と口上を述べたという。杉山氏は、この白鵬が次代の相撲界をリードしていくだろう、日本人力士の中に有望な者が何人かいるが、成長するには後数年かかるだろう、と見ている。
 相撲人気が盛り上がるためには、栃錦と若乃花、柏戸と大鵬が競り合った栃若次代、柏鵬時代のような複数の人気力士の存在が必要であろう。さらに、国技の相撲を代表するに相応しい強さと人格の双方を備えた力士が望まれる。
 杉山氏は、強さと人格を備えた力士の代表として双葉山を挙げたが、私にも異存のないところである。

 双葉山が、前人未踏の70連勝を安藝ノ海に阻まれた時、西欧に向かっていた船中の安岡正篤先生に「ワレイマダモッケイタリエズ」の電報を打って、先生は直ちに双葉が敗れたことを悟った、という有名なエピソードを杉山氏も披露した。「モッケイ」は「木鶏」で、古典『荘子』の中に、ある殿様と闘鶏の調教師との問答に出てくる。
 まだかまだかとせかす殿様に、空威張りして「俺が俺が」の意識が目立っているから駄目だと答えた。さらに10日ほど後にせかすと、「まだ駄目です、相手の姿を見たり声を聞くと昂奮するところがあります」、さらに10日ほど経っても「相手を見ると睨みつけて圧倒しようとするところがあります」と闘わせようとしない。ようやく10日ほど経って「他の鶏の声がしても少しも平生と変わりません。その姿は木で作った鶏のようで、徳が充実して、もうどんな鶏を連れてきても、相手の方が逃げ出すでしょう。」と答えた。

 安岡先生は双葉山にこの話をしたのだが、安藝ノ海との一戦で敗れたのは、その「木鶏」の心がけがまだ身についていなかったからだと反省した双葉山が先生に打電した。
 杉山氏の話によると、この時の安藝ノ海の体調は病気上がりで十分でなく、誰もが双葉の70連勝を信じ切っていたという。記者連中もそう思い込んでいたところに、双葉山が敗れた。その時の和田信賢アナウンサーの名文句が、「前畑頑張れ!前畑頑張れ!」のベルリンオリンピックの放送と共に、歴史に残るアナウンスになった。

 「双葉敗る!双葉敗る!時に昭和14年1月15日、双葉山、安藝ノ海に敗れました。……人生七十は古来希なり!双葉山70連勝ならず…!」。昂奮した現場の雰囲気が伝わってくるではないか。この時には号外が出ている。
 私は、引退後の双葉山に巡業先の高知県中村で会っている。悠揚迫らざる、まさに王者の風格を備えたその姿は、60年近く経った今も鮮やかに瞼に残っている。


みなさん さようなら

2017.11.13 05:39|「周作閑話」
1991年(H3) 月刊「New TRUCK」11月号
周作閑話

山形路(上)
(*「庄内」は「荘内」と2通りの書き方があるが、庄内に統一した。)

 JR奥羽本線の新庄駅で、酒田に出る陸羽西線の各駅停車に乗り換える。最上川に沿って走っている筈だが、夜に入って何も見えない。
 7年前の3月、米沢を振り出しに新庄温泉に泊まった時は大雪で、宿の軒先の大きなつららにびっくりしたものだった。最上川の雪見舟は他に客もなく、老若2人の船頭とわれわれ夫婦だけで、ビニールで囲った屋形船で若い方はとも(船尾のこと)にたち、爺さんとはカンテキで温めた地酒を一緒にやり乍ら、評判になったNHKドラマ『おしん』に筏(いかだ)舟の船頭に扮して出演した時の話をしてくれた。両岸は白一色、山形の生んだ斉藤茂吉の歌に出てくる逆白波が川面に立ち、サービスに歌ってくれた舟歌と共に、数多い私の旅の中でも印象に残る舟行きであった。あのお爺さんは今も元気だろうか。

 酒田に一泊した翌朝7時、同志の懐かしい皆さんと酒田駅で合流する。歴代総理の師と仰がれた安岡正篤先生の教学を信奉する人達によって「関西師友協会」が結成され、寝食を共にする山中の教育施設しての「成人教学研修所」が10年余り遅れて完成した。「成人教学研修所」に「論語普及会」ができて、10年前から日新出版で月一回開講している論語講座も現在は「論語普及会」の活動の一環として組み入れられている。

 論語は孔子の言動を記録した儒教の根本教典であり、儒教を教育の柱とした江戸時代の藩校に、孔子を祀る聖廟が多く作られたのは当然であった。藩校は明治以降、近代的な学制に変わって姿を消したが、今も尚その遺構を残している所もあり、旧藩校以外にも神社などに聖廟は保存されている。
 「論語普及会」と「関西師友協会」の会員有志が各地の聖廟を訪ねて、それぞれの地域に興った学問や活躍した人達のお話を聞くことを目的として発足したのが「全国聖廟巡拝会」で、第9回に当たるこの度は山形県下を9月21日から23日まで3日間にわたって巡ることになったのである。

庄内 6221

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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさんさようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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