みなさん さようなら

2017.03.16 06:00|「今月の論語」
(毎週/月曜・木曜 更新 )
今回の原稿を読んで、まず、「ああ、やっぱり日本人の根本は変わってないんだなぁ」と思いました。
サッカーの試合後、サポーター達によるスタジアムでのゴミ拾いや、どの国にも分け隔てのない応援をするスポーツマンシップに感激されたり、大震災の被災者が寒風の中でも辛抱強く列に並ぶ様子がネット上に掲載され、各国のメディアも随分取り上げて話題になりました。
110年前の「笠戸丸」移民の様子を知る人は今では皆無に近いと思われるのに、平成の人も同じ事をしているんですね。DNAでしょうか、日本人を作った一切のものに感謝です。(妙)


1994年(H6) 月刊 「NewTRUCK」 3月号
今月の論語

ブラジルの新聞が絶賛
神州清潔の民の誇りを持った「笠戸丸」第一次移民のひとびと

 年末から年初にかけて遠く南米へ旅をした。
 ブラジル第一の都市サンパウロの『ブラジル日本移民史料館』を訪ねたいきさつについては、本誌『周作閑話』に書いたが、同館で入手した『日本移民八十年史』(B5版451ページ)の記事の中で、強く胸を打たれた部分を紹介する。
 日本からブラジルへの集団移民約780名が「笠戸丸」でサントスに上陸、サンパウロの移民収容所に到着したのは1908年(M41)6月19日のことだった。以下に引用するのは同じ月の25日付の現地新聞「コレイオ・パウリスターノ」紙に掲載のソブラード記者の記事である。

 「移民は19日、船より上陸し、同日サンパウロに到着せり。その船室及びその他の設備を見るに、皆相当の清潔を保ちおり……さればサントスにては日本船の3等室は、大西洋航海の欧州船一等室よりも清潔なりとまで評せるものありき。
 ……移民収容所に入るに当たり彼等は整然として列車より下り少しも混雑せず、その車中を検するに一点の吐唾の痕なく、又果物の皮等の散乱せるもの一もなかりき。則ち見る者をして不潔なりと思わしむべき一物も存ぜざりしなり。
 ……又真鍮の頭を有する小さな竹の棒の先に付けたる小旗を持ちたる者多かりき。この旗は一対宛ありて一は日の丸にして他は黄緑なり。則ち日本国旗及び伯国(ブラジル)国旗なり。これらの移民は吾人に厚意を表さんが為、日本において作れる絹の伯国国旗を持ち来るなり。優美なる又高尚なる心事なるかな。
 ……而してその洋服は皆移民らが自身の費用を以て買い整えたるものにして、見るさえ心地よき清潔なる新しきものなりき、又婦人は木綿の手袋を用いたり。
 1時間ほど食堂にありし後、彼等は自己の室及び寝室を見んがために出て行きたり。然るに驚くべし、彼等の去りし後には一つの煙草の吸殻及び又は一つの吐唾もあらざりき。是れ他国移民が忽ちその居所を踏み蹂みたる煙草及び吐唾を以て不潔を極むるに比して雲泥の相違なり。」

 ソブラード記者の目に映った85年前の日本人移民の姿は、ややベタ褒めのところがあるにしても、他の国の移民達とは全く違った清潔で心事高尚な人達だった。
 同記者はさらに次のようにも書いている。

 「781名中読書力を有する者532名で総数の68%、残余の249名は無学だといっているが、全く文字を解さないのではない。結局文盲は全数の10%にも達しない。
 ……伯国語を学ぶに熱心であること、妻を信頼し、多額の現金をこれに托すること、携帯品が多いのは、欧州移民の如くには全くの貧困者ではない証拠であり、将来サンパウロの産業は、この日本移民に負うところが大きいだろう。」

 この予見は見事に適中して、現在のサンパウロとその近郊の農産物生産はほぼ日系人の独占状態であり、ブラジル最高レベルのサンパウロ大学の学生中、全人口の1%に過ぎない日系人が10数%を占めて、卒業生はブラジル社会のあらゆる分野で活躍している。

 論語に次の言葉がある。
   君子コレニ居ラバ、何ノ陋(いや)シキカコレ有ラン。(小罕第九)

 夢に描いた新天地とは大きく異なる苛酷な状況の中で、移民達はひたすら働き、子供を教育した。その移民の子孫が10数万人も日本に出稼ぎに来ている。父祖の国の日本は彼らの目にどう映っているだろうか。


ブラジルの新聞は、他国の移民との違いを描写していますが、「恥ずかしくないように」という気持ちが日本人の心の底にあるのだと思います。その心構えで精一杯身なりも整え、日の丸と、これからの国の旗を持って上陸したのでしょう。(妙)


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みなさん さようなら

2017.02.20 06:00|「今月の論語」
1994年(H6)月刊「NewTRUCK」2月号
今月の論語

地位も職場もすべて捨てて

 先日、30数年前に勤務していた新聞社の社員が数名訪ねてきた。ある展示会を開きたいので意見を聞きたいとの用件である。
 退社したのがちょうど30年前だから、在社当時の同僚や10歳下ぐらいまでの後輩も社に残っていない。その社は55歳が定年で、ごく近く60歳に改めたばかりなので、あのまま勤務していたら、もう13年も前に定年になって放り出されていたことになる。

 誰彼の消息を聞くと、死亡した者、病気の人が多い。社長はよろしいな、というからそれなら会社を辞める勇気があるかと聞くと、いやとても、という答えである。
 その時に、何を根拠にしていたのか、脱サラで成功しているのは38歳の時に実行した人であると、その中の1人が言い出した。その新聞社を私が辞めたのが38歳だった。
 サラリーマンにとって38歳は、通常であれば何らかの管理職の肩書きがついているだろうし、子供は小学校から中学へ進むくらいになっている筈だ。

 折角の地位も捨てて新しい仕事を始めて、果たして妻子を養ってゆけるだけの収入があるだろうか、10年先、20年先はどうなるだろうとの不安もあるに違いない。退職金や貯金だってたかが知れている。第一、女房が賛成してくれるかどうか。第一線でバリバリやって会社も期待をかけているようだから、うまく行けば重役コースに乗れるかも知れない。
 こういうことを考え出すと、脱サラを決行する勇気は消え失せてしまう。そのうちに40代が過ぎ、50代に入ると、脱サラを言い出さなくても、肩たたきで関連会社への出向ならいいが退社勧告も起こる。窓際で余命を永らえても数年のことである。

 どこそこは何千人などと雇用調整の新聞記事が踊っているが、その新聞社でも大幅の人員削減は避けられないという。
 入社させた以上は定年まで面倒を見る終身雇用制度は、社員の忠誠心、企業との一体感を持たせる意味では実に有効であるが、現在のように変化が多く、技術革新による省力化が進む時代、果たしてそのままの制度が維持できるかどうか疑問である。

 ぬるま湯でも何でも、とにかく会社にしがみついていたいという人は、どのような待遇を受けようと甘受して残るべきだろう。
 しかし、この会社では俺の能力は発揮できない、トップも頼りないと考える人は思い切って飛び出すことをお勧めする。38歳の当否は別として、40歳までのまだ体力も十分で変化に対応能力のある年齢が望ましい。

 子曰(のたま)ワク、鄙夫(ひふ)ハ与(とも)ニ君ニ事(つか)ウベケンヤ。ソノ未(いま)ダ之ヲ得ザレバ、之ヲ得ンコトヲ患(うれ)エ、既ニ之ヲ得(う)レバ、之ヲ失ワンコトヲ患(うれ)ウ。イヤシクモ之ヲ失ワンコトヲ患ウレバ、至ラザル所ナシ。(陽貨第十七)

 つまらない人間と一緒に就職してはいけない。課長にならないうちは早くなりたいと思い、いざなってみるとその地位を失いたくないと心配する。その地位を守るためには何をするか分からないからだと、いう意味である。
 課長、部長、重役、社長とて同じで、いったん手にした地位は何としても失うまいとする。30代後半の脱サラはいったん手にした地位を捨て切れるかどうかであり、その勇気と実行力が新分野を開拓する根源となる。管理職にもなり、会社が未来を嘱望する程の男でなければ脱サラは成就しない。
 思い切って変化の時代に身を投げ出してみてはどうだろう。道は開ける筈である。


みなさん さようなら

2017.02.13 06:00|「今月の論語」
1990年(H2)月刊「NewTRUCK」2月号
今月の論語

筆禍で廃刊したある月刊誌
唯だ女子と小人とは養い難しと為す

 「孔子と日本人の幸福感」というタイトルに惹かれて“DAYS JAPAN”(月刊誌 講談社)を購入した。初めて見る月刊誌だが驚いたことに、この1月号で廃刊するという。その理由は、アグネス誤報の一件で読者の信頼を失ったからである、と土屋編集長が痛恨の「お別れの言葉」で述べている。11月号の特集記事「講演天国ニッポンの大金持ち文化人30人」で事実誤認があった、というが、私はこの記事は読んでいない。

 アグネス・チャンについては“文藝春秋”誌上で華々しい論戦があったことは記憶している。あの舌足らずの日本語の話を有難がって拝聴する人達が大勢いる、という金余りニッポンの現状を揶揄(やゆ)したところに勇み足があったのだろう。
 最後の号となった1月号の孔子特集の中に評論家、海江田万里氏の「80年代日本10大ニュースを“論語”で読む」があり、よく知られている論語の言葉を引用して社会現象を分析している。

 そのひとつに次がある。いわゆる“セクシャル・ハラスメント批判流行”の風潮を取り上げる。

 唯ダ女子ト小人トハ養ナイ難シト為ス。之レヲ近ヅクレバ則チ不遜ナリ。之レヲ遠ザクレバ則チ怨ム。(陽貨第十七)

 その解説、叱れば泣き出す、おだてればつけ上がる、そこで殺せば化けて出る、と日本では古来から言われてきた。さすがの孔子でも、女子と徳のない者は扱いにくかったようで、近づけると無遠慮になり、かといって遠ざければ怨む。……

 DAYS JAPANの編集者がアグネス・チャンを引き合いに出さず、男性だけを取り上げていれば、まさかの廃刊に追い込まれることはなかったと思うのだが、相手が悪かった。最終号で、女子と小人は養い難し、を取り上げてみても時既に遅しである。
 この字句は女性蔑視の封建儒教思想の表れである、として攻撃材料にされることが多い。

 「婦女子の言、聞くべからず」は会津松平藩の家訓であった。しかし、その教えを受けた藩士の娘の中から最も進んだ女性を多く生み出しているのである。12歳で渡米、帰国してから明治社交界のトップレディとなった大山捨松、新島襄を助けて京都に同志社大学を興した山本八重子など、封建思想の権化とみられる会津出身の女性の活躍は光っていた。

 現在、私は儒教の総本山ともいうべき東京湯島聖堂斯文会で、論語も勉強しているが、学友の3分の2は女性であるし、幹事役2人もその中から出ている。本誌に連載中の中国旅行に出かけたメンバーも男女同数であった。セクシャル・ハラスメント反対を叫ぶ人達よりも彼女達の方がその生き方に主体性を持ち、進んでいる。

 孔子をして養い難しと言わせた女性関係については、殆どわかっていない。ただ、単なる女性蔑視論でなかったことは、とかく問題は多いが、衛の国公の実力夫人である南氏に政治理想実現のために近づいて、高弟の子路からたしなめられている事実からも立証できよう。
 ふと洩らした言葉が記憶され論語に入ったことは、編集者の中にも共感を覚えた人がいたからだろう。もっとも、この言葉を実感として体験しなかった男性がいれば幸せだが。 



みなさん さようなら

2016.12.22 05:38|「今月の論語」
1993年(H5) 月刊「NewTRUCK」12月号

反省を要するマスコミ姿勢

浅はかな大衆迎合のマスコミ論調は大きく政治を歪める。
マスコミ記事は国民の声でもない。皇室はもっと超然と。

 マスコミの言論がマスコミを賑わせている。
 ひとつはテレビ朝日による偏向報道問題であり、いまひとつは一部月刊誌週刊誌の報道に対する皇后陛下の反論が出された直後の失語症で、20日後の今日(11月9日)も回復されていないという。
 テレビ朝日の椿とかいう前局長の発言は思い上がりも甚だしいものである。マスコミの報道なり、論調が社会に与える功罪について考えると、功より罪の方が大きいと思う。

 今でこそ平和平和と叫ぶマスコミが戦前戦中どのような報道をしてきたか、ソ連や中国の社会主義礼賛、安保、文化革命問題、美濃部ばらまき放漫都政の容認、消費税反対など結果としては、殆ど的外れの論調ではなかったか。いわゆる55年体制の打破についても、それによって誕生した野合内閣がこの不況に対してどのうような有効な手段を講じているのか。支持率の高さを言うなら発足当初の近衛内閣、東条内閣など、挙国一致といえるほどの支持率を誇っていた。マスコミは、支持率は低くても、本当の意味で国益になる政策にこそ支持を表明すべきであろう。

 大宅壮一はテレビ社会を一億総白痴化現象であると評したが、この言葉は至言である。テレビをあまり見ない筆者がこのようなことを言う資格はないかも知れないが、政治はお茶の間で、ひとときの喝采を浴びるような性格のものではない。
 新聞はまだしも活字を通じて読者に訴えるので、若干の判断を下すことができるが、テレビは一方的即断的に視聴者に迫ってくる。お笑い番組やスポーツ番組ならそれでいいが、政治番組となるとそれでは困るのである。今、政治評論や解説ができる相当の識見を持ったニュースキャスターが果たしているだろうか。政治と芸能の番組が同次元で論じられてないか。今回の事件を好機にマスコミは猛反省すべきである。

 皇后陛下の反論は正直いって全く意外であった。ご自身でその種の雑誌にお目を通しておられるという事実についてである。筆者がそのような記事があるのを知ったのは通勤電車の中吊り広告によってで、これは否応なしに目に入ってくる性質のものである。
 国民の声に耳をお傾けになるのはおよろしいが、福田元総理の名言のように、天の声にもおかしな声がある。ましてや、百家争鳴、針小棒大、火のないところに煙を出させる雑誌はおかしな声の方が多い。そのような声は無視なさればおよろしいし、掲載記事が全くの事実無根であれば、宮内庁が記者会見を通じて反論を加えるだろう。

 皇后陛下はかつて国母陛下として国民敬慕の対象であり、一般民衆とは隔絶した超的存在であった。その当時と現代では背景は大きく異なるけれども、民衆レベルとははっきり一線を画して頂きたいと思う。
 九重の奥深く(この言葉も死語となってはいるが)その種の雑誌をご覧になっている光景を想像すると、背筋が寒くなる。まさかご自身で売店に買いに行かれるわけもなく、それを命じられた者がどのような気持ちでお届けするのかとも思う。
 それに、天皇陛下がなぜお止めにならなかったか、これも理解に苦しむところである。

  民ハ之(これ)ニ由ラシムベシ。之ヲ知ラシムベカラズ。(泰伯第八)

 民衆にすべてを知らせようとするのは難しいから、その由るべきところを示すべきであるとは孔子の言葉で、皇室もマスコミも民衆も、つまらないことを知ろう知らせようとしているように思えてならない。


1993年の「皇后陛下バッシング」はネット検索で事情が詳しく見られます。
ちなみにマスコミがよく使う「美智子さま」「雅子さま」など、“様・さま”ではなく「皇后陛下」「皇太子妃殿下」が正しい敬称のようですね。
大宅壮一氏の言葉「総白痴…」を入力しようとしても「白痴」の字が出ませんでした。差別用語、放送禁止(自粛)用語に分類されてしまったみたいです。入力作業していると、たまにこういう単語にぶつかります。
言葉は時代と共に自然に変わっていくものでしょう。一部の人達が弱者の味方のフリをして、今まで使っていた自国語を悪玉に仕立て上げ、勝手に強制的に別枠にくくってしまう。これは検閲であり横暴で、怖ろしいことだと思います。(妙)



みなさん さようなら

2016.12.19 06:00|「今月の論語」
1995年(H7) 月刊「NewTRUCK」 12月号
展示の名分は正しいのか
モーターショーの商業車

RVを商業車展示に含めるのはおかしい

 「第31回モーターショー」を見た。
 若いカップルやカーマニアらしい人達が多いのは例年の通りであったが、物流で大きな役割を占めるトラックのウエイトは更に低下した感じを受ける。

 屋内の商業車館はRV( レクリエーショナル・ビークル)の氾濫であり、大型車メーカーでも趣向を凝らしたバスや、物流とあまり関係のなさそうなデコレーションのトラックがあって、物流事業者にとって参考になると思われるトラックの展示はごく少なかった。
 物流事業者には「トラックショー」があるからということであれば、「トラックショー」主催者の日新出版としては有難いことだが、それでは乗用車と商業車の併存を建前とする「モーターショー」の姿勢が問われるのではないか。

 RVが果たして商業車であるかについても、疑問のあるところだ。車種分類では小型トラックの中に入っている4WDの乗用タイプのワゴン車を、どれだけの人が商用に使っているだろうか。要するに、遊び用として一般に考えられている車を、登録分類がそうなっているからという理由で商業車展示の中に含めることは、入場者を欺くことになると思う。
 RVは乗用車の中に含めるべきだが、それが困難ならRVだけの展示スペースを作ればよいことで、人気のあるRVで商業車の展示は充分であるとメーカーが考えているとしたら、「モーターショー」に商業車館は要らない。

 さらに、商業車展示の屋外版といもいうべき車体の展示に「特種車」という名称を使用しているが、「特装車」という呼称はあっても、一般的に「特種車」という呼び方はしないし、日本自動車車体工業会(車工会)の分類では別の狭い範囲の車種を指している。このことについては以前にも注意しておいたが、改まっていない。

 「名は体を表す」というし、「名実ともに」の言葉もある。名と実体が離れることは、物事の乱れの元になる。
 商業車にRVの展示が多くなり、屋外展示が僅か17社と、「トラックショー」の十分の一程度まで落ち込んでしまったのも、名と実の乖離(かいり)に鈍感、不感症になった結果であると私は思う。「モーターショー」が国民的イベントであるとするならば、一般入場者に対して、充分納得のできる展示分類と名称を使用すべきである。単に、若者に人気のある車を並べておけばいい、というものではない。

 『名を正す』『正名』という言葉が論語にある。
 孔子は弟子の子路が、「先生が衛の国の政治をなさるとすれば、先ず第一に何から手をおつけになりますか」と聞いた時に「名を正そう」と答えた。当時、衛の国は殿様の地位を父子で争うなど大いに乱れていたので、「これだから先生はまどろこしい、(この急場に)正そうなどとは」と不服顔の子路に、じゅんじゅんと名を正すことの重要性を説くのである。
 名分を正す、というのは廻りくどいかも知れないが、政治も経済もイベントも、このことを常に念頭において運営しなければ、名と実とが乖離して乱れが生じることは明らかだ。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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