みなさん さようなら

1985年(S60)月刊「NewTRUCK」6月号
1冊の本

「零戦燃ゆ」
柳田邦男著 飛翔篇・熱闘篇 文藝春秋刊 

日本は物量だけで負けたのではない

――噛みしめたい敗者の戦訓――

名パイロットとの出会いから
「零戦燃ゆ」を読むきっかけになったのは、富士トラック羽切松雄社長(静岡県トラック協会長)との出会いである。
 連載中の「とらっく人国記」静岡県の巻取材第一日の4月22日、羽切社長は私のことがこの本に載っています、と同書熱闘篇のその部分を示した。この日の取材を終わった後、静岡駅構内の書店で購入、その夜から読み始めて、静岡3泊浜松2日のホテルで読み続けたあと、帰京の新幹線から地下鉄東西線に乗り継ぎ、わが家に辿り着く直前に読了した。飛翔篇603ページ、熱闘篇618ページ合計1,221ページ、合計字数およそ100万字、連日の過密スケジュールの間を縫っての5日間の読破には相当の努力を要した。

 零戦とは言う迄もなく、第2次大戦で最も活躍した海軍の戦闘機である。
 本書はその零戦を軸に、太平洋における日米の死闘を、残された公刊資料や生存者の証言を通じて余すところなく描き出してゆく。
 それは戦闘部門だけでなく、日米の航空機に対する設計思想や量産についての取組み方、さらにより高度な戦術、戦略、情報などの分野に大きなスペースを割き、その相違を際立たせている。

 昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾の奇襲に成功してからの零戦は向かうところ敵なしの強さを発揮して西南太平洋の制空権確保の主力になっていた。既にその前年から中国大陸に投入された零戦の恐るべき性能についての情報はアメリカにもたらされていたのだが、日本の工業技術軽視の先入観によって無視されたままであった。

 米軍機に対して、空戦能力や航続力などの点ではるかに優る零戦は、米軍を戦慄させたが、やがてその性能についての情報の収集と、零戦との対戦方法の研究、零戦に対抗できる機種の開発に全力を挙げることになる。日本でも零戦を超える次期戦闘機の設計試作に取りかかって、日米技術開発競争の観を呈する。

天王山ミッドウェー 戦訓日米の大差

 開戦以来、米軍を押しまくっていた日本海軍の優位は僅か半年そこそこで崩れてしまった。昭和17年6月5日のミッドウェー海戦は、虎の子の「加賀」「赤城」などの航空母艦4隻、零戦105を含む航空機285機、兵員約2500人を失いながら米側に与えた損害はわずか空母1隻、兵員約300人という惨憺たる大敗北に終わって、立ち直りのチャンスに恵まれないまま20年8月の終戦を迎えたのである。

 日本はアメリカの物量に負けた、とよく言われるが、ミッドウェー海戦では日本軍の戦力はむしろ米軍のそれを凌駕していた。後に零戦を悩ますグラマンF6Fはまだ投入されておらず、航空機の性能も搭乗員の技能も日本の方が優れていた。
 にも拘わらず大敗を喫した原因については現在でも議論が盛んである。例えば“プレジデント”誌の本年2月号では、特集「ミッドウェー」の教訓を編集して、現代のビジネスにも通じるその敗因をいろいろな角度から分析している。
 ここでその評価について論ずるゆとりはないが、軍神扱いの山本五十六連合艦隊長官を含むトップの指導の誤り、緒戦の大勝による慢心、情報力価値軽視などが挙げられている。

 著者は戦訓の捉え方そのものにも日米にも大きな相違があるとする。日本軍は兵術思想や戦術論に力点を置き、責任論的な色彩が投影されているのに比較して、アメリカ側はいかにも合理主義的な視点をベースにして、技術論的な部分に重点を置いている。米側の捉え方は、企業の技術開発やマーケティングのための戦略・戦術研究の手法にそのまま通じるように見える。(同所飛翔篇351ページ

補給の続かない消耗戦と無謀な命令

 アメリカ側は殆ど無傷の零戦をアリューシャンで捕獲して実際に飛ばせてその性能を徹底的にマーク、防御力の欠陥などの弱点を見抜いた戦法を編み出していった。
 さらに、持久戦の様相を呈するようになると日米国力の差は歴然としてきて、空母を基幹にした機動部隊の大増強、日本に決定的打撃を与えることになるB29の開発などが着実なパースで進められた。

 一方、日本側は機体、兵員の消耗に補給が追いつかなくなる状況に追い込まれ、日米の差は拡大の一途を辿ることになる。
 この間の状況を羽切松雄富士トラック社長は同書の中で次のように語っている。
「ベテランがどんどん戦死してゆく。代わりに内地から補充されるのは若い人ばかり。私が配属の204空の7月の時点で4~50人いた搭乗員たちも、一人欠け、二人欠けと減っていき、10日もすると、編成の搭乗割がすっかり変わってしまうのです。私が負傷した9月下旬までのわずか3ヵ月間に、搭乗員の70%もの人々が南の空に消え、新しい顔ぶれに変わってしまったのです。」

 このような烈しい消耗戦を展開していながら軍部首脳は、さらに消耗を強いるような無謀な命令を次々に出して、いたずらに貴重な人命や機体を失ってゆく。
 そして、遂に特攻という非人道的戦法を生み出すに至るのだが、それらは第3冊目の渾身篇に紹介されることになろう。

若鷲に励まされての強行取材
 私が6日間の取材を通じてお会いした未知の人物は50名に上る。今日はどのような人にお目にかかれるのか、ふと敵機を求めて基地を飛び立つ搭乗員を連想することが多かった。
 しかし彼等と根本的に異なるのは、私は確実に基地つまりホテルに生還でき、数日後には妻子の住む家に帰れるのに対し、搭乗員達は時には全員未帰還となる可能性が大であった。
 彼等は出撃の時、何を思っていたであろうか。愛妻の写真を飾っていた隊長もある。

 私の取材は食うか食われるかではない。しかし、その人物からできるだけ多くのものを引っ張り出さねばならぬ。それには気概が必要で、取材中にこの本を読み続けたことは私をより力づけた。

 取材最終日の4月27日土曜日、午前中2社午後1社の取材を済ませて浜松駅へ3時過ぎ到着した時にはかなり疲れていた。このまま東京まで帰ってしまいたい、とも思ったが敵機を求めて幾度となく疲れた体に鞭打って飛び立った若者に励まされた形で、静岡で下車、清水の丸高運送の高橋新一社長を訪ねたのである。高橋社長もまた、シベリアで飢えと寒さで次々と死んでゆく戦友を見ている。これもまた凄絶な体験で、「零戦燃ゆ」を読み続けた取材の締めくくりとして鮮やかな印象を留めるものになった。

 同書は、現代の経営に繋がる戦略、マーケティングについて示唆するところがきわめて大きい。敗者の戦訓は最も貴重な教科書である。
 さらに、南方の空に海に、青春を燃焼しきった若者達、生命永らえて戦後を生き抜いてきた男達の記録は無限の感慨を読者に与えずにはおかない。この本を読むきっかけを作って下さった羽切富士トラック社長に感謝したい。


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みなさん さようなら

硫黄島 12539
                       「飛鳥Ⅱ」から 2007年撮影

2007年(H19) 月刊「NewTRUCK」 3月号 図書紹介

文藝春秋3月号記事と『十七歳の硫黄島』

 「飛鳥Ⅱ」で、年末から年始にかけて、硫黄島沖、サイパン、グアムを訪ねたことは本誌にも書いた。その後も、出版会での「硫黄島ブーム」は一向に衰えを見せない。
 月刊誌『文藝春秋』3月号には栗林忠道中将を主人公にした『散るぞ悲しき』の著者梯久美子さんが2月号に続いて、「硫黄島三人の若き指揮官の肖像」と題する記事を寄稿している。燃えるような夕陽に浮かぶ摺鉢山が今も強烈に筆者の瞼に残っている硫黄島には、まだまだ隠された事実、世の中に知られない事実があるようだ。それだけドラマ性にも富んでいたということだろうか。

 「飛鳥Ⅱ」に持ち込んだ硫黄島関連の図書は、映画の原作になった『父親たちの星条旗』を始め、梯さんの著書2冊、城山三郎の西中佐を描いた『硫黄島に死す』などであるが、その後もさらに月刊誌やここで紹介する『十七歳の硫黄島』などの出版が相次いでいる。

 梯さんが文春2月号で紹介した硫黄島の若き指揮官3人のうち、折口春洋については、石川県のその養父折口信夫(しのぶ)と共同の墓に詣でたこともある。その墓には「もつとも苦しき たたかひに最もくるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋ならびにその父 信夫の墓」の文字が刻まれている。春洋が小隊長として、硫黄島で戦死したのは38歳の時だった。
 この歌碑から、戦後に折口信夫の逝去する昭和28年の少し前に建てられたことが分かる。戦時中に、このようなわが子の戦死を悲しむ詠嘆の墓碑など建てられるわけがないからである。
 折口信夫は釈迢空のペンネームを持ち、戦時中に大津皇子を描いた『死者の書』を出版、筆者は強く打たれたもので、その折口父子の墓に参った10数年前が、硫黄島の戦死者を意識した最初であった。

 特攻隊もそうだが、陸海軍双方とも、死地に赴いた下級将校には、陸士、海兵卒業のいわば軍内部でのエリートコースより、一般の大学を卒業した幹部候補生、予備仕官上がりの将校が多かった。軍としては消耗品として扱ったのだが、その芽を摘み取った悲劇は数知れない。
 梯さんが若き指揮官として名を挙げた3人の折口以外の2人は、河石達吾と森茂である。

 硫黄島ではロサンゼルスオリンピックの馬術障害で金メダルを取ったバロン西竹一中佐がよく知られている。慶應義塾大学3年の時に、西と共に100m自由形で銀メダリストだった河石達吾陸軍中尉も、エリートコースの道を捨てて、新婚早々の身ごもった妻を残し、硫黄島で戦死した。32歳。
 30歳で戦死した森茂陸軍中尉は、昭和電工など森コンツェルンの後継者と目されて、東大・京大卒、三木武夫元首相の睦子夫人の弟に当たる。硫黄島では、約1000人の生還者がいるが、森の指揮した部隊では、米軍に対する組織的抵抗が終結した後、総員86名中、67名が生還したという事態が起こった。これは、森中尉が戦死した時、部下には投降するように勧めていたから、と言われる。

 『十七歳の硫黄島』は、少年通信兵として17歳で志願、硫黄島に渡り、最後の攻撃には負傷していたため参加することができず、境内で奇跡的に生存、生還した現在79歳の秋草鶴次さんが、帰国後書き留めた記録を出版したものである。硫黄島の最後を克明に追ったこの本は、摺鉢山に星条旗が揚がった後も、日の丸が掲揚された事実などの新たな事実も述べている。

 生と死の極限状態に置かれた兵士たちが何を考え、どう行動したか、読み進めていくのが恐ろしいような記述が続く。硫黄島関連の出版物には、伝聞によるものが多い中で、珍しい体験者の実録であることに本書の価値がある。

硫黄島 12324

みなさん さようなら

1987年(S62) 月刊 「NewTRUCK」 12月号

日米韓でとらえた韓国の現状と未来像

『地図にない韓国 ―日米韓から見たコリアンパワーの源泉―
大前正臣著 徳間書房 ¥980

 一ヶ月足らずのうちに日本と一番関係の深い国、アメリカと韓国を訪ねた。そのトライアングルの観点から韓国をとらえたのが本書である。
 日本と韓国は有史以前から深い交流があったが、アメリカと韓国とは第2次大戦後の僅か40年そこそこの関係に過ぎない。
 しかし現在の韓国は、日本よりもアメリカと経済的にも文化的にも、そして心情的にも深いきずなによって結ばれているように見える。

 日本人に対してはきびしい入国制限をしているアメリカも、韓国に対しては好意的で、既に日系人を超える百万人ものコリアンが移住、ロサンゼルスだけで30万人がいて、コリアンタウンはリトルトウキョウを圧倒する勢いである。
 韓国製自動車や電子製品、雑貨の米国流入は凄まじく、留学生もアメリカの方が日本よりはるかに多い。ハイテク分野で米韓の結びつきは強い。

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みなさん さようなら

1冊の本
1975年(S50)「特装車とトレーラ」10月号

1冊の本
「定年後」  
岡田誠三 著  中央公論社刊 680円

定年と隠居の違い
 本誌の読者の大半はサラリーマンであろうと思う。サラリーマンというものは宿命的に定年の日を迎えることになっている。社長になったところで、会長、相談役と棚上げされていって、忘れられる存在となる。ある車体メーカーの最大手の前社長で、現会長をよくその社内で見かけるが、孤影悄然、声をかける社員も少ない。

 この本は、文藝春秋9月号で知った。著者の岡田誠三氏と評論家の鶴見俊輔氏との「定年とは何か」をテーマにした対談で、これは面白かった。55歳から60歳という定年ラインは昔の人生50年の時代なら文字通り一生の面倒を見ることになるのだが、平均寿命70ン歳という時代になると、定年になってから後が大変だ。そこで、隠居という知恵をもう一度取り戻さなければならないのではないか。相撲社会の年寄り制度は、相撲取りだけの自治社会を作り上げている非常に上手くいっているシステムである、というような話が続いていた。
 世襲社会と現代社会とでは全く基準が違うが、隠居という制度には、跡継ぎが立派に成人したという喜びと、これから自由にやりたいことができるという期待がある。時には不都合のことがあって、“隠居申付ケル”ということもあった。

 私のサラリーマン時代は、31歳から38歳にかけての僅か7年そこそこである。その短いサラリーマン時代にやはりこの定年ということを考えた。生命的死は天の命ずるところで、これはどうにもならない、その上社会的生命まで定年という制度で自動的に決められてしまう。こんな馬鹿げたことがあるか、せめて社会的生命くらい自由にできなくてどうする、と20年もあとの定年のことをあれこれ思いめぐらしたものである。
 私がサラリーマン生活におさらばしたのは、この定年の問題だけではないのだが、大きな伏線になっていたのは事実のようだ。定年という悩みは無くなったかわりに、所属する企業に尾を振っておれば、おまんまにありつけるという安心感も吹っ飛んでしまって、まさに綱渡りのような人生をその後の6、7年は送るハメになった。恐怖の報酬ならぬ、定年解放に対する恐怖の代償である。

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みなさん さようなら

特装図書館
1989年(H元) 月刊「New TRUCK」 9月号

「河殤」
蘇暁康・王魯湘 著 弘文堂 1,300円

なぜ中国は停滞した
黄河に托したその嘆き


 中国で河といえば黄河、江とは揚子江を指す。「殤(しょう)」は悼(いた)む、つまり河殤とは黄河を悼む、黄河は中国の母なる河だから、中国そのものを悼む、ということにほかならない。
 テレビ放映のシナリオを邦訳したのが本著で、中国では昨年放映されたときに大きな話題になったと伝えられる。
 今回の事件(天安門事件)で放映は禁止され、制作者達は逮捕されたというが、少なくとも昨年には放映されたこと自体、中国の民主化は相当に進んでいたと思わざるを得ない。戦前の出版・映画の検閲のあった日本では、恐らく許可されなかったであろう。
 黄河の流域に発達した早熟の中華文明はなぜ長い間の沈滞を余儀なくされていたか、封建制が崩壊してからも依然として西洋や日本に著しく立ち後れているのか、の原因を探究する。
 近代化を阻んだ最大のものは孔子を祖とする儒教であり、伝統尊重の保守思想、中華意識の存在が近代化工業化を阻んできた、とする。その考えは新中国の現在にも引き継がれて、特権階級を生み、その腐敗を招いているとの指摘は今や常識となっているが、相当に勇気を必要としたことだろう。
 動乱のすぐ前に、いわば内部告発のテレビ番組が作られたことの意義は大きい。中国内でこのようなテレビ番組が制作され、放映されることは当分の間望めないと思う。
 今回の訪中で、黄河を間近に二度にわたって見たこともあり、本書は興味深く読み進むことができた。
 しかし、儒教の根本教典である論語を講義し、中国史を読む私からみると、儒教イコール沈滞という図式には反論せざるを得ない。現に日本、韓国、台湾、シンガポールなどの経済繁栄の原因を儒教に求める意見も強いのである。大陸中国と台湾を比較した場合、儒教的色彩を色濃く持っているのは台湾である。
 中国近代化の失敗は、王朝政権と同じような一党独裁の政治体制を選択したところにあった。彼らはそれを言いたかったのかも知れない。

※ 日本では1989年3月に発売された「河殤」です。発売3ヵ月後の6月4日に第二次天安門事件が起きました。
ハンガリーの国境開放は1989年5月、ベルリンの壁崩壊は同年11月、ソ連崩壊は1991年。Amazonでは現在、中古のみ扱っています。(妙)


「男爵」
大倉雄二 著 文藝春秋 1,200円

最後の文化パトロン
プレイボーイの一代記


 東京市ヶ谷(いちがや)、日本棋院のホールに貴公子然とした大倉喜七郎の胸像がある。碁を愛した彼は資金的な面で最大の日本棋院設立の功労者であった。
 喜七郎は大倉喜八郎の嫡男、喜八郎は一代で大倉財閥を築いた怪物。軍や政府と結びついた政商として巨万の富を築いた。日清戦争の時、戦地に送る缶詰に石ころを詰めて大儲けしたという話は有名だが、これは缶詰がまだ珍しくて庶民の口に入らなかったので荷役の人夫達が抜き取った後に石ころを詰めたのが真相らしい。あの喜八郎ならやりかねない、と思われてまことしやかに流布されたのだろう。
 喜八郎は明治維新の30年前、天保8年(1838)生まれ、著者は喜八郎83歳の時の子である。この一事だけでも怪物の資格は十分であるのに、87歳の時にもうひとり子供を作ったというから驚きで、この末子は夭折した。
 喜七郎は父親に似ない文化人であり、またプレイボーイであった。碁のことは先に書いたが、自動車に、スポーツに熱を上げ、音楽では歌沢、地唄、清元、河東節、新内、小唄、長唄、常磐津、浄瑠璃など邦楽の他に、オペラに興味を示し、尺八とフルートの合いの子のようなオークラウロという楽器も発明、作曲も手がけた。漢詩、書道にも熱心で、イタリアではトップ級日本画家による展覧会を開き、父の造った帝国ホテルのオーナーとして贅を凝らした宴会を主催、川奈には日本離れしたホテル、ゴルフ場を持ち、内外賓客の社交場にした。
 要するに湯水のように金を使った通人粋人であった。昭和初期の時代、喜七郎は最も贅沢に金を使った人物だろう。財閥の規模からいえば、三菱、三井、住友に比較すると大倉はずっと小さいが、大財閥が当主は象徴的な存在として傘下企業の近代的経営を急いだのに対し、大倉は家業の域を余り出なかった。それだけオーナーの権限と収入は絶大だったが、崩壊も早い。
 広く大倉の名を残すのはホテルオークラ位のものだが、帝国ホテルなどと共に所有権は大倉から離れ、大倉土木は大成建設となる。大成院は喜八郎の法号である。
 著者は大倉喜七郎の弟である。年齢が大きく離れているうえ、妾腹であるため栄光の余沢を受けることは少なく、母親の我欲、妄執に悩まされる。
 しかし、著者が定年まで勤務した文藝春秋社は、喜七郎の出資会社である。
 昭和初期の民衆の困苦をよそに、王侯生活を送ったことについての批判はあるかも知れないが、その時代の文化の庇護者であったことは確実である。音楽、演劇、絵画、昔は王侯、富豪がパトロンであった。その最後の人物の伝記を弟が書いているところが面白い。

※ 「大倉山シャンツェ」と呼ばれた札幌のジャンプ台は、喜七郎が昭和6年に私財で建設したもので、当時60m級。以後80m級、90m級と順次伸ばしていき、1970年に「大倉山ジャンプ競技場」と名称変更されました。(妙)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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