みなさん さようなら

1冊の本
1975年(S50)「特装車とトレーラ」10月号

1冊の本
「定年後」  
岡田誠三 著  中央公論社刊 680円

サラリーマン人生の哀歓
定年なんか恐くない?


定年と隠居の違い
 本誌の読者の大半はサラリーマンであろうと思う。サラリーマンというものは宿命的に定年の日を迎えることになっている。社長になったところで、会長、相談役と棚上げされていって、忘れられる存在となる。ある車体メーカーの最大手の前社長で、現会長をよくその社内で見かけるが、孤影悄然、声をかける社員も少ない。

 この本は、文藝春秋9月号で知った。著者の岡田誠三氏と評論家の鶴見俊輔氏との「定年とは何か」をテーマにした対談で、これは面白かった。55歳から60歳という定年ラインは昔の人生50年の時代なら文字通り一生の面倒を見ることになるのだが、平均寿命70ン歳という時代になると、定年になってから後が大変だ。そこで、隠居という知恵をもう一度取り戻さなければならないのではないか。相撲社会の年寄り制度は、相撲取りだけの自治社会を作り上げている非常に上手くいっているシステムである、というような話が続いていた。
 世襲社会と現代社会とでは全く基準が違うが、隠居という制度には、跡継ぎが立派に成人したという喜びと、これから自由にやりたいことができるという期待がある。時には不都合のことがあって、“隠居申付ケル”ということもあった。

 私のサラリーマン時代は、31歳から38歳にかけての僅か7年そこそこである。その短いサラリーマン時代にやはりこの定年ということを考えた。生命的死は天の命ずるところで、これはどうにもならない、その上社会的生命まで定年という制度で自動的に決められてしまう。こんな馬鹿げたことがあるか、せめて社会的生命くらい自由にできなくてどうする、と20年もあとの定年のことをあれこれ思いめぐらしたものである。
 私がサラリーマン生活におさらばしたのは、この定年の問題だけではないのだが、大きな伏線になっていたのは事実のようだ。定年という悩みは無くなったかわりに、所属する企業に尾を振っておれば、おまんまにありつけるという安心感も吹っ飛んでしまって、まさに綱渡りのような人生をその後の6、7年は送るハメになった。恐怖の報酬ならぬ、定年解放に対する恐怖の代償である。

社会的死と生命的死―本書の内容
 さて、その「定年後」の目次を見ると、
1.定年葬
2.古猛妻
3.独房
4.死
5.血縁

と、恐ろしい字が並んでいる。
 1の定年葬とは、定年に伴ういろいろな行事を葬式になぞらえたもの。社員から贈られる餞別は香典であり、定年の日から生身(なまみ)の新仏になる。この新仏も生前のランクによって死後の世界、つまり定年後の世界にも格差が生じる。死者と葬儀委員長を兼ねたような定年の挨拶廻りなどを筆者は淡々と描きながら、回想の世界に入ってゆく。筆者は太平洋戦争の従軍記「ニューギニア山岳戦」で直木賞を受賞していて、死線を越えたふてぶてしさというようなものが、感じられる。
 2の古猛妻は、よくもこういう恐ろしい名称を奉ったものと思うが、先ほどの対談では女房は屋敷神ということになっている。ここでは、大阪の最新最大のホテルでの殺人事件のスクープなどが語られる。ともかくヴァイタリティにあふれた茂子夫人を描いて余すところがない。
 戦争末期、ふとしたことから、結核の重症患者であった女性と同棲しているところへ、終戦で疎開していた細君が子供を連れて帰ってくる。ちょうどその時、女性は喀血と流産の出血が同時に起こる。細君は甲斐甲斐しく看病するが女性は死に、その蝋人形のような死体を女性の父親はふとんにくるんで背負って帰っていった。鬼気迫るような話は先の殺人事件の描写にもあるが、やはり記者サンだなと感心させられる。
 著者の父君は大阪に多い町人学者のひとりであったようで、その変人・奇人ぶりも紹介される。江戸時代から大阪には町人、つまり商人の中にかなり高いレベルの学者が多数存在した。血は争えないもので、著者はこの父君から多くのものを受けているようである。

 3の独房には定年後、閑居することになった河内の風土などが語られる。河内は私も10年ほど住んだところ、言葉が日本一悪いと言われる。
 4の死は照子という著者の妹の事故とも自殺ともつかぬ死が語られる。肉親と、記者と二つの目で著者はその死の原因を突き止めようとする。
 さらに、朝日新聞社は人の臨終30分前から解剖に至る経過を追う連載企画を立てて、著者はその担当となる。
 著者の取材は、家族の諒解が取り付けられて、臨終の場から解剖室での立ち会いに成功する。私なら、肉親の死の場面に好奇心に満ちた第三者の侵入は拒否したであろう。
 4と死、語呂合わせみたいであるが、この章は著者の死生観も語られていて読み応えがある。

 5の血縁は、著者の子供達のことが語られている。男の子ばかり3人の著者と女ばかりが3人の私の方とはどうも共通点がなく、しかも当方は長女がやっと社会人になったばかりという状況で、年代的なズレもあってか、前4章に較べて、この章は訴えるところが少なかった。

男の聖域
 この本のオビに作家の陳舜臣氏が、「男の聖域を描く」と題して、次のように書いている。

 「定年を焦点に描かれた『この道』は、哀歓を超えた男の聖域のようなもので、むしろ女性に読んでほしいと思う。
 生活と心境のなまなましい部分を、これほど淡々と知的につむぎあげた文章は稀有である。心斎橋や渡辺橋など、大阪の芯のにおいが濃厚に漂い、愛すべき河内の風物の遠景に、私はニューギニアと戦争とをありありと見た。」

 作家だけに見事な紹介である。陳氏はむしろ女性に読んで欲しいと言っているし、私もそう思うのだが、女性にはわからない、というか理解し難い部分の多い本では無いかと思う。
 やはり、この本は大阪のものである。きびしい現実に直面し、これを直視しながら、ひょいと我が身を第三者の位置に置いて、時にはこれを劇画化する。上方(かみがた)文化の底流のようなものを感じるのである。一種のしぶとさ、ふてぶてしさであろうか。よく大阪のど根性とか、最近はどてらいという言葉まで創造されているようだが、この言葉からくるギスギスしたものは本来大阪人は持っていない。もっと、ほんわかと包み込んでいる。
 近松浄瑠璃や上方歌舞伎の悲恋心中物には、悲劇と喜劇がごちゃまぜになっている場合が多い。いまの長谷川一夫のいわゆる長谷川歌舞伎の上方物がその伝統を最も踏襲しているように思われる。

 この本を読んでいる最中、8月16日のこと、新聞はその片隅に一人の老人の死を伝えた。私も時々訪ねたことのある三井系のある会社の相談役の某氏(69歳)が、15日の深夜、勤務していたビルから飛び降り自殺をしたというものである。その会社の専務まで勤めた某氏は相談役の任期が切れて、あちらこちら挨拶をして、会社に残っていたが、その夜自殺した。この事件は、週刊新潮の「墓碑銘」という欄に掲載されたので、ご記憶の読者もあろう。
 岡田氏の筆法からいえば、社会的死の定年葬と生命的死とを同時にやったようなものである。
 このビルからすぐ近くの日本銀行でも40歳代の中堅社員が飛び降り自殺をして騒がれている。それほど勤務先に怨恨があったとも思われないのに永年勤めているそのビルから飛び降り自殺をすることもあるまいに、と思うのは第三者の無責任な推理であろう。
 もし、この「定年後」という本を読む機会が二人にあったとしたら、自殺は思いとどまったのではあるまいか。特に老人の場合、70歳近くなってやっと自由の身になれたのに、その日に自殺するとはどうにも不可解である。岡田氏の言によれば、55や60歳では人間まだ生かわきの状態で枯れきっていない、それで放り出されるのは残酷かも知れないが、70にもなればもう枯れきっていなければなるまい。

 岡田氏は古猛妻の監督下に独房に呻吟しているように書いているが、どうしてどうして、その境遇を楽しみ、これを劇画化して、しこたま原稿料を稼いでいるのである。この本もよく売れているようだし、文春の対談にも出席して、あちらこちら引く手あまたであろう。
 定年に近い人も、定年がまだまだ先の人にもぜひ読んで貰いたい本である。或いは定年に関係のない私のような自営業の人が読んでも結構面白い。男の生き甲斐、或いはやってきたことは何だったのだろう、と自問するとき、この本はなにがしかの示唆を与えてくれる筈であり、社会的生命の死は決して恐れるに足りないことも、心ある読者には読み取れると思う。



スポンサーサイト

みなさん さようなら

特装図書館
1989年(H元) 月刊「New TRUCK」 9月号

「河殤」
蘇暁康・王魯湘 著 弘文堂 1,300円

なぜ中国は停滞した
黄河に托したその嘆き


 中国で河といえば黄河、江とは揚子江を指す。「殤(しょう)」は悼(いた)む、つまり河殤とは黄河を悼む、黄河は中国の母なる河だから、中国そのものを悼む、ということにほかならない。
 テレビ放映のシナリオを邦訳したのが本著で、中国では昨年放映されたときに大きな話題になったと伝えられる。
 今回の事件(天安門事件)で放映は禁止され、制作者達は逮捕されたというが、少なくとも昨年には放映されたこと自体、中国の民主化は相当に進んでいたと思わざるを得ない。戦前の出版・映画の検閲のあった日本では、恐らく許可されなかったであろう。
 黄河の流域に発達した早熟の中華文明はなぜ長い間の沈滞を余儀なくされていたか、封建制が崩壊してからも依然として西洋や日本に著しく立ち後れているのか、の原因を探究する。
 近代化を阻んだ最大のものは孔子を祖とする儒教であり、伝統尊重の保守思想、中華意識の存在が近代化工業化を阻んできた、とする。その考えは新中国の現在にも引き継がれて、特権階級を生み、その腐敗を招いているとの指摘は今や常識となっているが、相当に勇気を必要としたことだろう。
 動乱のすぐ前に、いわば内部告発のテレビ番組が作られたことの意義は大きい。中国内でこのようなテレビ番組が制作され、放映されることは当分の間望めないと思う。
 今回の訪中で、黄河を間近に二度にわたって見たこともあり、本書は興味深く読み進むことができた。
 しかし、儒教の根本教典である論語を講義し、中国史を読む私からみると、儒教イコール沈滞という図式には反論せざるを得ない。現に日本、韓国、台湾、シンガポールなどの経済繁栄の原因を儒教に求める意見も強いのである。大陸中国と台湾を比較した場合、儒教的色彩を色濃く持っているのは台湾である。
 中国近代化の失敗は、王朝政権と同じような一党独裁の政治体制を選択したところにあった。彼らはそれを言いたかったのかも知れない。

※ 日本では1989年3月に発売された「河殤」です。発売3ヵ月後の6月4日に第二次天安門事件が起きました。
ハンガリーの国境開放は1989年5月、ベルリンの壁崩壊は同年11月、ソ連崩壊は1991年。Amazonでは現在、中古のみ扱っています。(妙)


「男爵」
大倉雄二 著 文藝春秋 1,200円

最後の文化パトロン
プレイボーイの一代記


 東京市ヶ谷(いちがや)、日本棋院のホールに貴公子然とした大倉喜七郎の胸像がある。碁を愛した彼は資金的な面で最大の日本棋院設立の功労者であった。
 喜七郎は大倉喜八郎の嫡男、喜八郎は一代で大倉財閥を築いた怪物。軍や政府と結びついた政商として巨万の富を築いた。日清戦争の時、戦地に送る缶詰に石ころを詰めて大儲けしたという話は有名だが、これは缶詰がまだ珍しくて庶民の口に入らなかったので荷役の人夫達が抜き取った後に石ころを詰めたのが真相らしい。あの喜八郎ならやりかねない、と思われてまことしやかに流布されたのだろう。
 喜八郎は明治維新の30年前、天保8年(1838)生まれ、著者は喜八郎83歳の時の子である。この一事だけでも怪物の資格は十分であるのに、87歳の時にもうひとり子供を作ったというから驚きで、この末子は夭折した。
 喜七郎は父親に似ない文化人であり、またプレイボーイであった。碁のことは先に書いたが、自動車に、スポーツに熱を上げ、音楽では歌沢、地唄、清元、河東節、新内、小唄、長唄、常磐津、浄瑠璃など邦楽の他に、オペラに興味を示し、尺八とフルートの合いの子のようなオークラウロという楽器も発明、作曲も手がけた。漢詩、書道にも熱心で、イタリアではトップ級日本画家による展覧会を開き、父の造った帝国ホテルのオーナーとして贅を凝らした宴会を主催、川奈には日本離れしたホテル、ゴルフ場を持ち、内外賓客の社交場にした。
 要するに湯水のように金を使った通人粋人であった。昭和初期の時代、喜七郎は最も贅沢に金を使った人物だろう。財閥の規模からいえば、三菱、三井、住友に比較すると大倉はずっと小さいが、大財閥が当主は象徴的な存在として傘下企業の近代的経営を急いだのに対し、大倉は家業の域を余り出なかった。それだけオーナーの権限と収入は絶大だったが、崩壊も早い。
 広く大倉の名を残すのはホテルオークラ位のものだが、帝国ホテルなどと共に所有権は大倉から離れ、大倉土木は大成建設となる。大成院は喜八郎の法号である。
 著者は大倉喜七郎の弟である。年齢が大きく離れているうえ、妾腹であるため栄光の余沢を受けることは少なく、母親の我欲、妄執に悩まされる。
 しかし、著者が定年まで勤務した文藝春秋社は、喜七郎の出資会社である。
 昭和初期の民衆の困苦をよそに、王侯生活を送ったことについての批判はあるかも知れないが、その時代の文化の庇護者であったことは確実である。音楽、演劇、絵画、昔は王侯、富豪がパトロンであった。その最後の人物の伝記を弟が書いているところが面白い。

※ 「大倉山シャンツェ」と呼ばれた札幌のジャンプ台は、喜七郎が昭和6年に私財で建設したもので、当時60m級。以後80m級、90m級と順次伸ばしていき、1970年に「大倉山ジャンプ競技場」と名称変更されました。(妙)


みなさん さようなら

図書紹介

謙信・信玄 リーダーとしての条件

海音寺潮五郎「天と地と」
新田次郎「武田信玄」


歴史小説による川中島の決戦

人が人を得た歴史小説の競作
 本誌の博物館シリーズで上杉謙信と上杉家のその後を取り上げたのを機会に、NHK大河ドラマの原作となった海音寺潮五郎の「天と地と」を読んだ。ついでに、謙信のライバルだった武田信玄を描いた新田次郎著「武田信玄」も読了した。
 いずれも、作者の歴史小説を代表する大作で、殊に新田次郎のそれは彼の著作の中でも最長編ではないかと思われる。
 
この二つの本を読んでみて痛感するのは、作者それぞれの主人公についての思い入れの深さである。
 歴史小説にしろ、伝記にしろ、その主人公を美化して描くのはむしろ当然のことなので、作者なり編者の主観が入るのは当たり前の話で、それがまた読者を魅了する要素ともいえる。

 しかし、この2作のように、同時代に生きた主人公を美化すると、その相手に低い評価しか与えない、ということになる。海音寺潮五郎は信玄を、新田次郎は謙信を、それぞれ一段も二段も下に見ている。こうなると、実際の謙信像なり、信玄像は果たしてどうであったのか、読者としては困るのである。
 たとえば、両雄決闘のハイライトともいうべき川中島での謙信自身の信玄本陣への斬り込みにしても、新田次郎の方では、謙信が取り乱して信玄の本陣へ迷い込んだものである、という書き方になっている。
 このあたりの事情を小林計一郎氏(長野高専教授)は、海音寺描く信玄像、新田描く謙信像がやや事実に近いのではないか、と見ている。(日本放送出版協会「歴史への招待」11)

 こういう見方もあるかも知れないが、このふたつの本を読んで、心に残るのはやはり謙信の「さわやかさ」であり、信玄の「いやらしさ」である。信玄はいくら美化しても、領土獲得とその経営に腐心し、女性には目のない戦国の武将としか映らない。一生不犯と伝えられる謙信と女性の面での比較はできないが、領土獲得と経営については、たしかに信玄の方に分があるように思われる。その点で、謙信は関東管領という名分のもとに、無用とも思われる戦を何回も行って、兵力を消耗している。
 男の行実の美学、というような観点から、謙信、信玄を比較すると、これは問題にならない。

 海音寺潮五郎は南国鹿児島の出身で、当然のことのように「西郷隆盛」を書き、彼の代表作のひとつである。「平将門」は、これもNHK大河ドラマにもなったことがある。
 一方の新田次郎は海のない山国、長野県の出身、気象庁永年勤続というキャリアを活かした山岳、気象に関する著作が多い。ヒット映画の原作「八甲田山」はその例で、「武田信玄」の中にもその知識は大いに駆使され、誌面に生彩を与えている。
 海音寺が謙信を、新田が信玄を描いたというのは、まさに人が人を得た絶妙のコンビで、さればこそ、歴史小説の傑作が生まれ出たのであろう。現代作家による川中島決戦であり、角川書店(天と地と)と文藝春秋社(武田信玄)の出版界戦争でもある。(いずれも文庫版)

堅実安定経営の武田軍団だったが……
 「時代を同じくして生まれ合わせ、どちらかを主人と選ばなければならないものなら、信玄を選んだ方が得であろう。ぼくは人の家来になるのは嫌だが、どうしてもということになれば、謙信の方だ。」と海音寺潮五郎はそのあとがきに書いている。
 謙信と信玄を現代の経営者に見立てて、大学新卒者にどちらの会社を希望するか、と質問すれば100%近くが信玄の会社を挙げるかもしれない。
 何といっても、信玄の方は堅実で安定経営だし、その人に相応しい地位も与えられる。一方の謙信の方は、思いつきで動いたりして、危なっかしい。事実、謙信はその領土内の内紛に悩まされたが、信玄の在世中にはそれがない。

 経営的に見るなら、勝負あった、という感じなのだが、経営というものが社長の一代だけでなく、永続性が問われるとすれば、結果論にはなるが、武田は次の代で潰れ、上杉は規模こそ縮小したものの、大名としての家名を全うしてその家系は現代に繋がっている。武田会社に入ったより上杉会社に入社した方が得だった、ということになる。ただ、大会社が貧乏会社になって苦労させられることにはなったが。

後継者で差の付いたポスト謙信・信玄
 信玄の跡を継いだ武田勝頼は暗愚な人ではなかったものの、政略という点では父にはるかに及ばず、ひたすら武力による拡張政策を取った。時代は戦国から信長、秀吉、家康の天下統一へ大きく動きつつあり、勝頼にはそれが見抜けず、しかも、鉄砲による近代化兵備にも後れを取った。従来の戦法にこだわって長篠の戦いで大敗、重臣の多くを死なせ、残った人達も殆ど離反して、孤立無援になって武田家は滅亡した。
 最近、大沢商会が倒産したが、3代目社長は重役達の制止も聞かず、ひたすら積極制作に走って、堅実経営で知られた同社を破滅に追い込んだ。武田の末路とやや事情が似ている。

 一方、謙信には子がなく、甥の景勝が嗣子となった。この景勝が人物で、しかも直江兼続という超一流の家老が補佐して、関ヶ原では家康に楯突きながら、家名を保つことができた。
 合理主義に徹していた信玄も、子に対してだけは別で、甘さがあったのであろう。
 謙信は甥の景勝の資質を見抜き、さらに直江兼続を配することで万全を期していた。教育も徹底していたと思われるのは、謙信自筆の習字手本などが残っていることからも十分想像できる。

 「天と地と」「武田信玄」両者とも肩の凝らない読み物である。緑蔭、戦国の昔に思いを馳せるのも楽しいことではなかろうか。


 

みなさん さようなら

1984年(S59) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

「興亡 電力 民営・分割の葛藤
大谷 健 著 白桃書房

電力を国鉄にしなかった硬骨の人 ②
“電力の鬼”松永安左ェ門の壮絶な闘いの記録

人材の貧困 電力と国鉄の大きな違い
 電力再編の教訓が最も活かされなければならないのは国鉄であろう。しかし、この本を読んで痛感したのは、電力と国鉄の事情の大きな相違であった。

 国鉄は、国営化されてからの歴史が永く、上から下まで、骨の髄までどっぷりとその悪しき習性が染みついている。電力の場合は、国営化されたといっても僅々数年のことで、松永のように電力会社の経営に当たった人は健在だったし、関西電力の太田垣士郎のように、松永の民営優位論を見事に実証させた人材も電力、配電内には豊富であった。国鉄内部に松永や太田垣を求めることは絶対的に不可能で、人材の点で先ず最大の難関に逢着するであろう。
 外部から求めようとしても、小林一三、堤康次郎、五島慶太のような大モノ鉄道人は全く姿を消してしまった。利権あさりの政治家や、隠居仕事に財界に籍を置いている老人に、松永のような蛮勇と気骨と実行力を求めることは、木によって魚を求めるに似ている。

 電力再編の壮絶なドラマを綴った本書を読了して、国鉄問題の解決はますます難しい、と痛感せざるを得ない。このままでは行き着く所まで行って、再生の途を模索するより方法がないのではないか、という気がする。

今こそ松永イズム その盛り上がりに期待
 確かな先見性、予見性を持つこと、時流に抗してもその信念を堅持することの難しさも本誌は教えてくれる。後になって、どの方法が正しかったかについて、歴史は非常な審判を下すものである。

 この舞台になった昭和10~20年代、私は学生で、卒業後は郷里に帰ったため、このドラマを肌で感じたことはなく、戦後の停電事情を僅かに知るに過ぎない。
 後年、日本工業新聞社に僅かの間就職して社長に就任していた稲葉秀三氏を識った。戦時中は革新官僚として国家統制を進め、思想的背景を問われて検挙された人で、松永とは反対側に位置し、本書にも登場する。稲葉氏は今も健在だが、学者、評論家に終わったままである。

 松永安左エ門が97歳で死去して13年、国鉄などの公営事業が重大な転機を迎えたいま、松永イズムは再び問われ脚光を浴びている。しかし松永その人は求むべくもない。関係者は、自らの非力を嘆くことなく、電力再編の教訓を範として努力すべきであろう。

 私も、国鉄貨車再生の一手段としてピギーバックを提唱し、国鉄と自動車側を結ぶ研究会を本年の「呉越会」のテーマに取り上げて実行した。
 なお、著者の大谷健氏は朝日新聞東京本社論説委員、大阪商科大学(現市立大学)で私の後輩にあたり、本書の再刊に一役買った松下緑氏(日通総研編集長)は私の親しい友人であることを私ごとながら付記する。


・大谷健氏の著書、原稿については、2017年2月16日ブログ 「問題記事―ある朝日新聞記者の回顧―」と2017年3月27日ブログ「大事なことにケチる
・松下緑氏の著書・原稿は2017年5月18日の「功到自然成」と松下氏の追悼は5月『幽冥録』の「アット過ギルガ人生ナノサ
で既出です。(妙)


みなさん さようなら

1984年(S59) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

「興亡 電力 民営・分割の葛藤
大谷 健 著 白桃書房

電力を国鉄にしなかった硬骨の人
“電力の鬼”松永安左ェ門の壮絶な闘いの記録

民営国営の壮大な実験 電力再編成
 今、私の生活の場である東京の電力は東京電力から、その前に住んだ大阪は関西電力、故郷の高知は四国電力から供給を受けているのだが、この体制は昔から同じであった、と考えている人は多いのではあるまいか。
 そう思われるのも無理のない話で、電力会社が現在の編成になったのは昭和26年、既に33年も前である。
 その前は国営(公営)で、さらにその前には民営の長い時代があった。つまり、民営→国営→民営と、振り出しに戻ったことになる。

 電力産業という巨大な基幹産業がこのような変転を重ねたことは、モノを生産し販売し、流通させる事業の主体が、民営、国営いずれがふさわしいかについての壮大な実験作業を展開した、ともいえる。さらに敷衍(ふえん)すれば資本主義経済か、社会主義経済かの論議にも発展するであろう。

 それはまた、行革臨調の目玉ともいうべき国鉄のあり方について、大きな示唆を与えることは言う迄もない。電力も、国営のままでいたら、現在の国鉄と同じようなお荷物になったかも知れないのである。

軍閥、GHQの後押しで壮絶な闘い
 国鉄主体の、だらだらストが横行した少し前まで「むかし陸軍、いま総評」とゴリ押し姿勢が批判された。30年余り前、「うちのマッカーサーがうんと言わん」と女房に頭の上がらぬ亭主は戦後の被占領下の日本を支配した絶対者の名を借りて嘆いたものだった。
 日本の電力は、軍閥とそれに同調する革新官僚と呼ばれるグループによって、国営(公営)に移され、GHQ(マッカーサー司令部)の圧力によって再び民営に戻されたのである。

 しかし、そのいずれの場合も、すんなりと移行したのではない。社会体制を根底から変革する暴力革命ではないのだから、軍閥やGHQといっても、命令一本やりで遂行することは不可能で、そこに現状維持派、改革派に分かれた、政治家、官僚、事業家、学者などが烈しい攻防戦を展開する。

 本書に展開される凄絶ともいえる葛藤のドラマは、まさに事実は小説よりも奇なり、で巷に溢れる企業小説や経済記事など足もとにも及ばぬ迫力を以て読者をその世界に引き込む。
 その立役者が「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門(1875-1971)で著者もまた、松永に主人公の役割を与えている。

“電力の鬼”松永安左エ門の真骨頂
 社会主義国家の経済停滞、英、仏などの国営化政策の失敗、中国の自由化などによって、国営、民営の優劣はほぼ解答が出た観がある。その現在ですら、国営(公営)にこだわる多くの人達が日本にもいる位だから、戦前、戦中、戦後を通じて一貫して民営の優位性を唱え続けた松永安左エ門の存在は驚異に値する。

 GHQの後押しがあったとはいえ、民営に移行する過程での松永は正に四面楚歌、政界も官界も実業界も、そして言論も殆ど松永の敵の観があった。当時、労働界を牛耳った電産はいう迄もない。

 著者は冒頭の部分で、昭和12年当時、東邦電力社長であった松永が長崎で語った談話に触れる。「産業は民間の諸君の自主発憤と努力に待たねばならぬ。官庁に頼るなどはもってのほかのことで、官吏は人間のクズである。この考えを改めない限りは、日本の発展は望めない。」

 松永は長崎県壱岐島の出身、郷里という気楽さもあってこの放言が出たのだろうが、産業の発展は民間の活力で、という持論は終生変わることなく、その身を置いた電力事業の民営化問題でその真骨頂を発揮して巨大な足跡を印したものである。
 著者はこの壮絶な闘いのドラマを淡々とした筆致で進め、鬼の松永の迫力が行動を通して奔(はし)って飽かせない。
(つづく)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ