みなさん さようなら

0814 山寺 2002年
           山寺 2002年 (NIKON E880)

2006年1月24日
変化に乗り遅れたコニカミノルタの悲劇

 コニカミノルタのカメラ・フイルムからの撤退は、小西六といった前身時代のセミパールカメラを愛用した筆者にとって、感慨深いものがある。レンズをつけただけの蛇腹式のボデーに手巻きでフイルムを送る装置の原始的な写真機を持って、青年時代には四国巡礼にも出かけた。もちろん白黒フイルムで、自分で現像焼付けをした。総天然色さくらフイルムが登場してからも、月刊誌が単色刷りであったために暫くは白黒写真のままだった。

 月刊誌にカラーで「世界の旅」などを連載することになり、カメラはニコンの一眼レフと、印刷が鮮明に出るリバーサルのフジフイルムをもっぱら愛用することになった。

 ごく初歩のデジカメもニコンだったが、これはホームページ用。月刊誌にデジカメ撮影の写真を掲載するようになったのは、一眼レフに革命を起こしたニコンD70型が登場した一昨年からで、今や、月刊誌にホームページに大活躍の愛用機となった。一眼レフデジカメは、ニコンとキャノンが市場の80%を占めて、わが社でも筆者のニコンと他社員のキャノンに2分されている。老舗名門のコニカとミノルタはこの流れに完全に乗り遅れて撤退するのだが、時勢の変化を読み取れなかった経営陣の責任は大きい。(続く)

9069 ペルー 2005年
                ペルーで撮影の海鳥 2005年 (NIKON D70)

2006年1月26日
「どう撮るか」「何を撮るか」
―被写体をひたすら追って―

 旅行中、携帯電話を片手で操って写真を撮っている人がいる。携帯を使わない筆者は、携帯で写真が撮れるなど知らなかった。デジカメでも片手でかざしてパチパチやっている。軽いし、性能も良くなって補正がかなりきくからだろうが、筆者愛用のニコンD70はデジカメでもかなり重くて、とても片手で扱いきれるものではない。両手でガッシリ構えた昔ながらの撮影方法でないと、シャッターが押せないのである。

 以前は、絞り・シャッタースピードを変えたり濃淡をつけるプラス1とか2とか、ブレ防止の三脚使用など、写真撮影にはそれなりの苦心をはらったものだが、今や使い捨てカメラ、バカチョン安直デジカメ普及で「どう撮るか」でなく「何を撮るか」だけになった。

 被写体を前に講師があれこれ指導する写真教室があって、筆者も参加したことがある。同じ被写体をどうひねくり回しても結果は大同小異、被写体を替えるにしかずと、ひたすら旅の写真を月刊誌やこのページに掲載している。予備のもう1台の軽量ニコンE880に比べると、一眼レフD70は3倍もの重さだが、それだけ画質が違うし、両手で構えるだけのことはある。カメラ歴60年、カメラもメーカーも撮影者気質もずいぶん変わった。

9094 ペルー 2005年




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みなさん さようなら

2007年1月19日~24日 (硫黄島・サイパン ⑩~⑭)

 30日朝サイパンに着岸した「飛鳥Ⅱ」の船客のうち、大半は戦跡めぐりの半日コースに参加した。帰途一部の人がショッピングセンターに立ち寄った程度で、船に戻り午後5時には出航した。観光とレジャーには無関係でサイパンを離れていて、クルーズ船ならではの、きわめて敬虔なサイパン訪問者だろう。

 戦跡見学に向かって最初に訪れたのは、島の最北端のサバネタ岬とラグア・カタン岬の間の断崖ブンタン・サバネタで、通称は「バンザイクリフ」、サイパン陥落の時、米軍の投降の呼びかけを無視して「天皇陛下万歳」と叫んで多くの民間人が身を投げたところである。

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青い海と白波のラグア・カタン岬 
サイパン最北端のサバネタ岬の断崖通称バンザイクリフ(崖)


 天皇皇后両陛下は硫黄島、サイパンに慰霊のために訪れておられる。特に多くの民間人が「天皇陛下万歳」と叫んで身を投じたバンザイ・クリフの巌頭に立たれた時のお気持ちは、どうであったろうか。深々と頭を下げておられる写真が新聞に載っていた。
 多くの慰霊碑が断崖の上の広場に建っていて、その中には韓国人のものもある。

 サイパンには砂糖工場などがあって、多くの日本人が働いていた。その一部だけが本土に引き上げて、ほとんどの人は残留して軍に協力した。硫黄島では少数の民間人は引き上げて戦闘員だけの戦いになったが、サイパンでは民間人に多くの犠牲者を生み、それが悲劇に連なった。

 現在から考えると、戦闘員でない民間人がアメリカ軍に投降するのが当然ではないかと考えるが、戦時中の教育では軍民の区別なく「生きて虜囚の辱めを受けず」、敵に投降するのは日本人として恥である、という観念が徹底していた。まして、鬼畜米英兵に捕まったらどのような目に遭うかもしれないという恐怖感も大いにあったのだと思う。

 サイパン最北端のマッピ山周辺に追い詰められた民間人が、投降呼びかけにも応じることなく粛然として身を投げる光景は、米兵を戦慄させたであろうことが想像できる。

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          慰霊の観音像と日本人が最後に追い詰められたマッピ山


 司令部跡からバスでクネクネした道を登るとマッピ山の尖端に出る。スーサイド・クリフ(自殺崖)と呼ばれているところで、眼下に見える平地には日本軍の飛行場があった。

 この崖まで追い詰められた日本の民間人は、沖合いの米軍艦艇や陸上の米軍からのマイク放送による投降勧告を無視して、次々に高さ100メートル余の断崖から身を投じた。砲弾と投降勧告のマイク放送、上空を飛び交う航空機、騒然たる戦場の雰囲気の中で、子供を交えた民間人が次々に空中に身を躍らせる光景を、この地で想像することは難しい。

 バンザイ・クリフの下は海だったが、スーサイド・クリフの下は平原。米軍は累々たるその死骸の上に、ヘリコプターから促成植物のタネを蒔いて覆い隠したと言われる。

 十字架をバックにした仏像の慰霊碑がある。この悲惨な民間人の集団自決のニュースは戦後まで日本には伝えられず、学生の勤労動員で駆り出された私が軍需工場で聞いたのは、サイパン防衛軍の玉砕と「本土防衛」の掛け声だけであった。

 サイパンを飛び立ったB29による空襲が始まって、住んでいた大阪は焼け野が原になり、敗戦直前に陸軍に召集された日に原爆が落とされ、日本はボツダム宣言を受け入れて無条件降伏をした。

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写真左: スーサイド・クリフの下には日本軍の飛行場があった
写真右: 十字架を背にした仏像のあるスーサイド・クリフの慰霊碑



みなさん さようなら

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2007年1月15日
献花するインパール戦死者の子息(硫黄島サイパンへ⑥)

 硫黄島の上空を覆っていた暗雲の中から一条の陽光が差して、海面は金色に輝き摺鉢山は黒いシルエットに見えたのも一瞬で、空はやや明るくなり、薄暮の状態になった。

 「飛鳥Ⅱ」の甲板には多くの船客が出て、或いは瞑目、数珠を出して祈る、涙をじっとこらえているなど、様々な形で慰霊の気持ちを表していた。奥さんの持っていた花束をご主人が受け取って、摺鉢山に向けて投げかけようとした人がいた。

 “ちょっと待って下さい!” と声をかけて慌ててカメラを構え、撮ったのが掲載した写真である。
 中央に摺鉢山が収まって、再度撮りなおしのきかないこの写真は、船内のカメラショップで現像して差し上げて感謝された。この方、S氏は熊本県球磨地方で薬局清風チェーンを手広く展開しており、父君をインド方面のインパール作戦で失った。米軍を迎え撃って凄惨な戦いを展開、大きな損害を与えた硫黄島と違って、インパール作戦は戦略が完全に誤っていて、犠牲者も餓死者戦病死者が相次ぎ、作戦そのものを中止することになった。

 わざわざ日本から持参した花束を硫黄島摺鉢山に向けて捧げるS氏は、父君の無念さを、せめて敵軍に大打撃を与えた硫黄島戦死者を弔うことで果たしたかったのであろうか。

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硫黄島摺鉢山に向けて献花するS氏

2007年1月16日
有名な星条旗写真は2度目のもの(硫黄島サイパンへ⑦)

 摺鉢山を後ろに飛鳥Ⅱは硫黄島から遠ざかって行き、船室に戻って読書を続ける。
 『硫黄島の星条旗』(文春文庫)は、あの有名な摺鉢山に星条旗を立てた6人の兵士の1人、厳密には看護兵ジョン・H・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリーがロン・パワーズの協力を得て書き上げたドキュメントリーで、船中で読んだ硫黄島関係の図書では分量も最大で一番読み応えがあった。日本側から見た硫黄島の戦闘についての情報は極めて少なく、栗林中将が大本営宛に発信した電報、少数の生き残り者の戦後の証言などに限られる。

 これに対して、アメリカ側は多数の従軍記者やカメラマンを伴っており、あの星条旗を立てるシーンにしても第1回と第2回では、撮影したカメラマンと旗を立てる兵士も別々で、星条旗そのものも違っていた。

 『硫黄島の星条旗』には、最初に撮影された写真が掲載されているが、それは有名になったあの密度の高い写真に比べて散漫とした印象を与える。「日本の領土、摺鉢山に星条旗を立てた」その決定的瞬間はむしろ厳粛な雰囲気に包まれていたのではないだろうか。星条旗も小さかった。
 数時間後、別の隊によってさらに大きな星条旗とポールが用意され、「キチンと決まった」写真が撮影されたのである。

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摺鉢山を背に硫黄島から遠ざかって「飛鳥Ⅱ」は南に進む

2007.年1月17日
写真からヒーローに躍り出た兵士たち(硫黄島サイパンへ⑧)

 硫黄島摺鉢山に掲げられた星条旗の写真は、時間も旗もそれを立てる兵士も違った写真が、複数のカメラマンによって何枚も撮影された。それが、アメリカ本土に送られた時、どれが最初に摺鉢山に上がった星条旗かについては問題でなく、どの写真がアメリカ国民に硫黄島で戦っている勇士を印象させ、国民の戦意高揚に役立つか、アピール度はどれが高いかが選定の基準になったのは当然であろう。そして、選ばれたあの写真はデカデカとアメリカのマスコミに踊ることになった。最初か2番目かについてはもはや関係がなく戦争写真作品として、どれが優れているかが問われたのである。

 写真が有名になると同時に、写真に写っている兵士をヒーロー化する動きも始まった。
 星条旗を立てた6人の兵士のうち、3人はその後戦死して、残りの1人は負傷、2人が自分の足で故国の土を踏むことができた。生還した3人は、軍隊に入るまでの生活と一変した硫黄島の勇士ヒーローとして、各種の会合に引き出され、マスコミの寵児となっていく。原住民出身の1人はアル中になり、負傷した1人は妻の方が有名人病にとりつかれて夫婦仲もおかしくなる。例外は看護兵の『硫黄島の星条旗』著者の父親だけだった。

12353-虹
硫黄島を通過した翌日洋上には大きな虹が現れた



みなさん さようなら

2007年12546
船客を退屈させないように各種のイベントがある

2007年1月10日
日本では最大、世界レベルでは中型の小 「飛鳥Ⅱ」(硫黄島・サイパンへ②)

 「飛鳥Ⅱ」の航海でも珍しいといわれる大時化も、出航翌日の27日午後になると少し落ち着いてきたので、船内を歩いてみた。船の大きさからいえば、15万トンクラスの客船も登場している現在、5万トンを少し出ただけの「飛鳥Ⅱ」は、日本では最大であっても世界レベルからみれば中型の小さい方に属する。昨年乗船した2万余トンの「にっぽん丸」ともう1隻の「ぱしふぃっくびーなす」は小型で、世界は10万トンクラスに移っている。

 今回のサイパングアム・クルーズは、年末年始利用であっただけに、若者の家族連れも混じっていたが、大多数は高齢者で、杖をついたり車椅子利用者も含まれていた。
 9泊10日の旅程中、上陸したのはサイパンとグアムがそれぞれ1日だけ、後はすべて航海日なので、退屈する暇もないように各種のイベントや文化教室が目白押しに組まれている。私は書道教室だけに参加して書初めもした。航海のほとんどの時間は、持ち込んだ硫黄島関連の何冊かと太平洋戦争の戦史を読破に費やしたが、この収穫は大きかった。

125452007年


2007年1月11日
硫黄島に殺到した大量の海兵隊と艦艇(硫黄島・サイパンへ③)

 硫黄島は、日米にわたる出版と映画の分野で一種のブームになっているようだ。太平洋戦争末期、アメリカの物量作戦で一方的に押し捲られて、かつて日本が占領した太平洋の島々の日本軍は敗退、玉砕を繰り返した後、生命線のサイパンの守備隊も玉砕、民間人の多くも自決した。サイパンが陥落したことで、サイパンを飛び立った「空の要塞」長距離爆撃機B29は、日本を爆撃して島に戻ることが可能になった。B29を迎撃できる航空戦力はもはや日本には残されていなくて、都市は焦土作戦に曝されることになった。

 開戦から日本を指導してきた東条英機首相は退陣を迫られ、日本は一気に守勢から敗戦への歩みを辿る。サイパンと日本の中間にある硫黄島は、れっきとした日本の領土東京都の一部であり、日本を爆撃して被弾したり燃料不足などでサイパンへの帰島が不可能になったB29の不時着基地として、あるいは中小型機の日本襲撃基地としてアメリカ側にとって、重要な拠点になる。さらに、日本の領土に最初に星条旗を立てるというアピール効果が期待されたのも当然で、栗林忠道中将指揮下の日本軍約2万1千に対して、米軍は海兵隊約7万5千、他に海軍約4万、艦艇約600隻を動員して上陸作戦を展開した。


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神々が降した慰霊の光か 摺鉢山のシルエット

2007年1月12日
荘厳 神々慰霊の硫黄島摺鉢山の夕陽(硫黄島・サイパンへ④)

 大時化でスピードを大幅に落すことを余儀なくされた「飛鳥Ⅱ」は、波が収まるとフルスピードで進んだ。まだ陽のあるうちに硫黄島を船客に見せたいという船長の有り難い配慮である。12月28日午後3時過ぎ、硫黄島北方に接近した。先ず見えてきたのは平坦な島の姿で、摺鉢山は見えない。船が南に進むに連れて、平坦な島の上に幾つかの白い建造物が見えてきた。現在、島を管理しているのは自衛隊で、その関連の建物である。こんな平坦な小さな島で、10万もの日米将兵が死闘を繰り広げたとは信じられない風景である。

 空を覆っていた黒い雲が一瞬切れた。サーッと日没前の陽が差して、島の南端の摺鉢山のシルエットを浮かび上がらせた。神々が、硫黄島の日米双方の戦死者を弔うために降した光である、私はそう感じた。この摺鉢山の麓のアメリカ側命名のグリーンビーチに抵抗を受けずに上陸した米海兵隊は、待ち構えていた日本軍の猛攻撃に遭って566人が戦死、1755人が負傷した。1日のこの大量の犠牲者は長期にわたったガダルカナル島戦闘戦死傷者の半数以上に当たるとして、米軍を震え上がらせた。栗林中将は伝統の水際戦闘作戦を取らず、先ず敵を上陸安心させておいて、無防備のところを叩いたのである。
(一週遅れの論語月例講座を本日6時半から開講。硫黄島・サイパンクルーズの写真映写も行います。)

みなさん さようなら

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           中国の寺院などでよく見るビャクシン(柏槙)

2007年1.月5日
目出度い常盤(葉)の松 変わらぬ節操の表現

 改めておめでとうございます。今日から出勤の方も多いはず、街にはまだ門松などの松飾があって、正月気分を残している。松といえば、竹と梅と合わせてお目出たい植物の三福対で、松はその中でも別格になる。能舞台の背景は松だし「松の位」といえば吉原などの花魁(おいらん)の最高位、盆栽でも松がもっとも賞味される。

 論語には「歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後るるを知るなり。」とある。この場合の柏は、日本の柏餅に使う平べったい葉の木ではなく、コノテガシワというヒバ(檜葉)の一種で、中国の宮殿や寺院などの古い建物でよく見かけて柏槙(びゃくしん)とも言う木である。しかし、このビャクシンは、幹が白っぽくて、松のように青々とした葉はついていなくて、日本の松の方がはるかに姿が良い。

 松の翠を、どんな苦難があっても挫けない節操に例えるのも良いし、老いても若々しさを失わない人の象徴である、とも言えよう。正月は松、2月は梅、3月になればサクラ、これからの春に向かう季節が私は大好きである。松と梅も良いが、昨年に京都の醍醐で見た松と桜のコントラストは素晴らしかった。散る美しさを知るのも日本人である。

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             日本の松と櫻(京都醍醐)






プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさんさようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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