みなさん さようなら

安岡先生 伊與田先生 書
                  左・ 安岡正篤先生    右・ 伊與田覺先生

       ※ YouTubeで安倍首相、麻生太郎副総理、習近平主席の字が見られます。(妙)

2003年6月5日(木)

敗戦前の指導者A級戦犯の書
  

 昭和23年12月23日深夜、東京軍事裁判で死刑の判決を受けたいわゆるA級戦犯が、処刑直前に手錠を嵌められた不自由な手で寄せ書きした色紙は知られているが、起訴されたA級戦犯27名全員の揮毫が出版されたのには驚いた。揮毫の本物は行方不明だが、そのコピーを不思議な縁で入手した著者が、各人の経歴と揮毫した字句を解説している。なぜ獄中の戦犯の揮毫がある一定の時期に集められたのか、誰が何の目的でそうしたのか、現在では全く分からないそうである。半世紀以上も前のことで永遠の謎になるだろう。

 この人たちは昭和前期の日本の指導者で、軍人が多かった。そのいずれもが超エリートコースを歩んでおり、その教養素養を知る上で貴重な資料である。それは、明治大正の指導者には及ばないが、現代の政財界の指導者と比較するとやはり勝っている。日本の指導者層は江戸時代以降、教養素養の面では確実に低下しているのがよく分かる。

 貴方は、手元に資料が何もない場合、座右の銘の揮毫を要請されたらどういう字句を書くだろうか。石原慎太郎氏によると岸信介氏は、500くらいならすべて違った字句の揮毫ができると語っていたらしい。使用した筆が粗末だったらしいのが気の毒である。


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みなさん さようなら

浅草 ほうずき市

                7月9・10日は浅草のほうずき市 (本文と関係ありません)

2005年(H17)6月18日
過って改めないのは厚顔無恥の朝日新聞そのもの

 先週のこの欄で、東条首相を英雄として賛美したのも日本人であり、侵略戦争指導者として断罪しているのも日本人であると述べた。人物に対する評価が時代によって変わるのは珍しいことではないが、東条首相は現代史の中の人物で、筆者はその評価の激変ぶりを身をもって体験してきた世代に属する。

 中国では、同一人物に対する評価が時代によって変化する。文化革命の時には批孔運動で孔子が槍玉に挙げられた。ところが現在は論語を小学校の正課に取り入れるほどになっている。東条首相の評価も激変したが、戦後の占領下においての東京軍事裁判の裁決が最大の原因で、現在もその処断を金科玉条のように、朝日新聞などのマスコミ、野党、中国、韓国が振りかざして、首相の靖国参拝反対、A級戦犯の分祀問題を主張しているのである。 東京軍事裁判の決定を日本が受け入れたと言うが、敗戦国に選択の余地はなかった。
 戦中の朝日新聞はひたすら軍部に迎合して、国民の戦意高揚に大きな役割を果たした。戦後はもともとあった共産主義的体質を露骨に表して、親ソ連、親中国、親北朝鮮論の論調を展開して社会党の精神的支柱となった。

 中国が嵩に懸かって日本を攻撃したり、無礼な言動を繰り返すのは、朝日新聞など親中国のマスコミ論調こそ日本の世論であると中国共産党が信じているからに他ならない。朝日新聞がA級戦犯を侵略指導者として糾弾するなら、軍部の尻馬に乗って国民を戦意高揚に駆り立てた朝日新聞の責任もまた大きいと言わねばならない。

 朝日新聞の5月18日付け「孔子は嘆いていないか」と題する社説の最後は「過って改めざる、是を過つと謂う」の論語の言葉で結んでいる。朝日新聞は過ったことはなかったのか。戦時中は軍部に、戦後はかつてはソ連、現在は中国などの社会主義国家に阿諛迎合した論陣を張り続けてきたのは過ってはいなかったのか。文化大革命の暴挙を賛美したのも朝日であった。最近のNHKとの紛争も納得のいく説明はできていない。過ちを認めないで糊塗するのはマスコミの常套手段で、厚顔無恥とはまさにこのことであろう。 現代史の評価を変えたのは、大人に対してはマスコミ、青少年に対しては歴史教育である。戦後、墨で塗りつぶした教科書での教育が行われたが、墨で消された内容は全部間違っていたのか、その後に出た教科書がすべて正しいのか。東京軍事裁判の占領軍による一方的断罪に対しては、その判事団の一員だったインドのパール判事の東京裁判無効全員無罪の主張もあった。東京軍事裁判史観の評価が確定するのはかなりの時日を要する。

みなさん さようなら

勇 歌碑

             萩に来て ふと おもへらく
                  いまの世を 救はむと起つ 松陰は誰      (吉井勇)

2005年5月21日
「如是我聞 孔子伝」
老熟した一世の碩学が語る孔子の生涯 

 先週の論語に、湯島聖堂でお会いした鎌田正先生と「大漢和辞典」の諸橋轍次先生との師弟の情について述べた。鎌田先生が従軍中に戦死の報が留守宅にもたらされて、諸橋先生は慟哭したが、後で誤報と判明した事情を書いた。それは、孔子が匡(きょう)で恐ろしい目に遭った時、高弟の顔回と離れ離れになり、てっきり死んだと思った顔回が追いついた時の師弟の問答を思い出させる。
 「子、匡に畏す。顔淵後れたり。子曰く、吾女(なんじ)を以て死せりと為す。曰く、子在(いま)す。回何ぞ敢えて死せん。」(論語 先進第十一)

 鎌田先生は陸軍病院で生死の間を彷徨しながら、この顔回の言葉を思い出して、自分自身を力づけていたのだろう。論語が我々を引き付けて止まないのは、師弟の間の厳しい中にも温情溢れる問答があるからである。鎌田先生にお会いして、諸橋先生の論語の本を読みたくなり、連休中に『如是我聞(にょぜがもん) 孔子伝』上下2冊を取り出して読んだ。解説を書いているのも鎌田先生である。

 孔孟と並び称されて、論語と孟子は儒教を学ぶための必須の教典だと言われる。吉田松陰など孟子を推奨した人物も多いし、筋道はよく通って、若い者の心を奮い立たせる文章が並んでいる点では論語より上かも知れない。
 しかし、上に引用したような師弟の問答は孟子には見られない。年をとって、若い者を指導する立場になると、滋味溢れる孔子と弟子の問答のある論語が好ましくなる。

 諸橋先生が『如是我聞 孔子伝』上下2冊を書き始めたのは、80歳を過ぎてからで、4年間に亘って雑誌『大法輪』に連載したものをまとめて刊行した。如是我聞(かくの如く吾聞く)と仏教じみた言葉が先に付くのは、そのことと関係があるのかも知れない。
 孔子の生涯は、分からないことが多い。何しろ、2500年も前の人物で、孔子自身がその経歴をほとんど語っていないし、司馬遷が『史記』に孔子を取り上げたのは、ずっと後で伝承が主体になっている。その他『左伝』だとかの孔子についての書物も同様である。

 諸橋先生は「従来私は永年に亘って『論語』を熟読翫味いたしました。そこでそのイメージを本といたしまして、その上、諸書を参酌し、なるほど孔子には古人の伝えているような閲歴もあったろうかと思われるものをとりまとめて、筆をとりたいと考えておるのであります。」と本書に述べている。久しぶりに『如是我聞 孔子伝』を読んで、若い時には分からなかった事柄もやや理解できるのは、それなりの年になったということだろう。



みなさん さようなら

銀行の名から「東京」の文字が消えたのは、淋しいですね。「BOT(東京銀行)」は、昭和50年代の勤務先で、毎日のように目にしていた文字でした。(妙)


UFJ銀行

2003年5月21日
銀行名 「りそな」「UFJ」など誰にも分からない

 「りそなResona」とは、「共鳴」のラテン語で、「理想な」も含まれていることを今回の公的資金導入で初めて知った。共鳴どころか、政府・監査法人・銀行側の不協和音だけが目立つお粗末さである。日本経済新聞トップの退陣も定見のなさを露呈したが、「りそな」の場合も、それを上回る情けなさであった。日本経済が不況に喘いでいる時、せめて政府・マスコミ・金融関係には、整然とした行動を取って欲しいものである。

 「りそな銀行」は、大阪に基盤を持つ旧大和銀行を母体に地方銀行が合併して誕生したものだが、「りそな」は「UFJ」と同様に、ひどい銀行名である。何もラテン語やわけの分からぬアルファベットを使う必要はない。あちら言葉は、自動車だけで十分だ。

 「名は体を表す」と言うが、社名・個人名にもかくあれかしとの願望が込められる。日新とは「日に新た」で、このホームページはまさにその実践である。私の名の周作は周りを作(おこ)す、作興するというもので、社名、個人名に負けないよう努力している。
合併した自治体の名にもひどいのがある。それぞれの地名には、その歴史なり習俗が込められているもので、私の周辺の妙典、行徳、浦安、塩焼など気に入った地名である。



みなさん さようなら

おはようコラム 2003年(H15)5月14日(水)

善通寺兵営での終戦 石垣で有名な丸亀城


 金比羅さんから善通寺は近い。弘法大師誕生の寺として有名で、その頃は海岸であったらしい。境内は広く、日曜市が立ったりするし、庶民の憩いの場でもある。五重塔があって2階まで上れるというので、初めて転げ落ちそうな階段をよじ登った。天守閣とは違って狭い場所なので、昔の消防署の監視塔の階段みたいなものである。

善通寺 2003年
(2003年 撮影)

 善通寺は、第11師団が置かれていた町で、かつては寺と兵営が町のほとんどを占めていた。大東亜戦争末期、私はこの町の兵営に入隊したのだが、○○連隊の跡という碑があちこちにあるだけで、当時の面影はまったくない。ここに強者どもの集団があったということも人々の記憶からもう消えてしまったのだろう。昭和20年8月15日正午、照りつける太陽の下の営庭で、終戦の詔勅を聞いたのは19歳。58年前である。

 高松空港7時発の東京行きにはまだ間がある。丸亀で下車して駅から見える丸亀城天守閣まで登ったが、この坂道も結構急だった。天守閣そのものは小さな櫓みたいだが、瀬戸大橋が見通せてなかなかの景観である。丸亀城は石垣が有名らしく、私がこれまで見た城では熊本城に勝るとも劣らぬ石組みで、小藩には勿体ないほどだった。

丸亀城 2003年



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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