みなさん さようなら

2017.01.01 20:25|伊與田先生コラム
2017年鎌倉八幡宮
2017年(平成29年) 穏やかな元旦の鎌倉八幡宮

あけましておめでとうございます
今年もこれまで同様、ご高覧いただければ幸いです。
今回の年頭のご挨拶は、伊與田先生のコラムにしました。5日からは、1990年12月号に掲載した「パリモーターショー」の記事と写真を何回かに分けてお届けします。(妙)


2006年1月1日(日)
年頭随想    伊與田 覺
 
新年おめでとうございます。
 クリスマスはキリスト教圏では、イエスキリストの降誕を祝い、自らもキリストの心に還ろうとする最も神聖な日であることはご承知の通りであります。
 日本を含む東洋圏に於いては、正月元日が一年の中で最も敬虔な節目の佳日としているのは古来変わらないのであります。

 平素われわれ人間は相対の世界に住み、そこで自己中心的に動き易いのです。然し人間にはその相対に対して絶対の世界もあるのです。それは時代や民族を超えて変わらないルール即ち道であります。この道を人間の立場から利に対して義というのです。これを又至善とも言います。至善は一です。従って「正」字は至善即ち一に至って止まるという意味です。それは天(神)の心に合致するものです。人間は神と動物の中間的存在です。数学の世界的泰斗と称された岡潔先生が亡くなられて間のない頃にお宅を訪ねました。仏前で先生の噂話をしている時に、奥様が数枚の色紙を持って来られました。その中に「覚(さ)めたる人を神と言い、眠れる神を人と言う」のを発見して強い衝撃を受けたことがありました。正月の元旦は誰しも自(おのず)から覚めたる人となるのは不思議です。近江聖人中江藤樹先生はこの「當下(今)一念」(とうげいちねん)を相続する事が尊い人生だと申しております。かって先師安岡正篤先生が、藤樹書院でこの四字を揮毫される気高い後姿が昨日のように憶い起こされます。孔子の高弟曽子は魯鈍と評されながら「吾日に吾が身を三省す」と生涯変わることなく、後世宗聖(そうせい)と称せられるようになりました。然し一般は正月気分が薄れるに従って俗化し、十一月十二月にもなればずたずたに崩れ、奈落の底へも落ち込むのではないかと不安に思うようになる。そんな時に正月がめぐり来て心機一転するのです。お恥ずかしいことながら私の九十年の生涯はその繰り返しでした。然し人生は諦めてはならない、終わりの日まで及ばずながらも精進を重ねる覚悟です。皆さまの限りないご鞭撻をもお願い申上げる次第でございます。



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みなさん さようなら

2016.12.12 06:00|伊與田先生コラム
(毎週/月曜・木曜 更新)
11月25日(金)に101歳でお亡くなりになった伊與田先生を偲び、2012年6月まで日新出版Web『トラック・X』に掲載された先生のコラムをアップします。次回から増田の原稿に戻ります。
安岡先生・伊與田先生 3395
      右から 伊與田先生、安岡定子氏、安岡正泰氏、増田 (2003年4月 安岡氏お宅)

2007年12月10日
人間修行は脚下照顧からはじまる  伊與田 覺

 先日私は、ある真摯な宿泊研修会に、老骨を引っ提げて参加いたしました。その開会式は広い日本間で行われました。そして入口のスリッパは整然と脱がれており、流石にと感心させられました。
 ところが夜、共同風呂へ行きますと、殆んど足のままに脱がれており、これが同じ人間かと淋しくなり、そっと直しておきました。

 犬が二匹寄った文字に「犬犬」がありギンとかゴンとか読みます。吠え合い、噛み合うという意味です。ケモノ偏は犬から変ったものです。それで桑の葉にくっついて離れない虫を加えると「獨」となります。犬は一匹でも生活し、社会性を持ちません。それに対して人間が二人寄ると「从」となり、「從」の本字です。人間は犬と違いお互いに従い合い、譲り合って「群」即ち社会を構成するわけです。群は、君と羊の合字です。立派な人物を君子といいます。そして羊は同じ草原で、お互いに草を分け合って仲良く集団生活をする代表的な動物です。そういう羊の下に大(人)を書くと「美」という字になります。又譱」は二人が話し合いをするときに、一方的に自分の考えを相手に押し付けるのではなくて、相手の言うことをもよく聞いて両方が譲り合い、従い合うことによって人間関係はうまくいくわけで、これを略したのが「善」です。
 たとえば、スリッパを共用する場合、人のことを考えて、人が履(は)きやすいように脱いでおくのが、人間の在り方だと思います。

 犬と並んで人間に近い動物は猿です。猿は頭脳的にも発達して所謂「猿知恵」があります。昔の偶話に、猿の好きなどんぐりを朝三つやって夕方四つやる。次には朝四つやって夕方三つやる。ところが何と言っても朝四つで夕方三つの方でないと受け容れない。要するに刹那主義で、後のことを考えないのが猿知恵です。ところが「朝三暮四」についての話が納得できるのが人間の知恵です。例えばスリッパにしてもそうです。足のままに脱いでおけば、次に履くときに具合が悪い。だから後のことを考えて脱いでおくのが猿と違う人間の在り方です。

 修行を主とする禅寺へ行くと、よくその玄関に「脚下照顧」と書いた立札があります。脚下とは「足元」、照顧とは「振り返って見る」。履物がちゃんと脱げているか振り返って見よ。これが人間生活の第一歩だぞと暗に教えているのです。



みなさん さようなら

2016.12.08 06:00|伊與田先生コラム
(毎週/月曜・木曜 更新)
11月25日(金)にお亡くなりになった伊與田先生を偲び、2012年6月まで日新出版Web『トラック・X』に掲載された先生のコラムをアップします。

2010年(H22)12月13日
當下一念 (とうかいちねん)   伊與田 覺
  
 毎年正月を迎えて必ず思い出すのは、日本に於て学者にしてはじめて聖人と称せられた中江藤樹先生の遺語「當(当)下一念」です。
 その先生が十一歳の時に読んで、立派な人になろうと志を立てるきっかけになったのが、『大学』の「天子自り以て庶人に至るまで、壹(いつ)に是れ皆身を修むるを以て本と為す」の一句でした。

 かつて明治天皇が、創立間のない東京帝国大学をご視察された時、国家の柱石となるべき人物を養成する学府に、自分を修めるための学科、修身科がないことを大変ご心配され、後に「教育に関する勅語」を発布されました。その末尾には「朕爾(ちんなんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳拳服膺(けんけんふくよう)シテ咸其徳(みなそのとく)ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ」とあります。天皇も国民も目指すところは一つであり、相共にその徳を積んでいくことを願うというのであります。教育勅語にはこの『大学』の精神が息づいていたのです。
 戦後は教育勅語がいち早く廃止され、いまはその存在すら知らない者が大半だということです。ぜひ一度その尊い内容に触れていただきたいと思います。

 『大学』には「物に本末有り、事に終始有り、先後する所を知れば、則ち道に近し」という一節があります。
物には必ず本と末があり、事には必ず終りと始めがある。何を先にし、何を後にするかをわきまえて実行すれば、人の道を大きく踏み外すことはないと説かれています。

 毎年めぐりくる正月になると、誰でも心が清らかになり、新たな決意が湧いてくるものです。その尊い一念を続けて行くところに真の人生があると思います。至聖孔子はもとより僅か四十一歳で逝かれた中江藤樹先生が聖人と称されて不滅の光を放つ所以もここにあると思います。

 藤樹先生道歌
    くやむなよありし昔は是非(ぜひ)もなし
         ひたすらただせ當下一念



 

みなさん さようなら

2016.12.05 06:00|伊與田先生コラム
(毎週/月曜・木曜 更新)
11月25日(金)にお亡くなりになった伊與田先生を偲び、2012年6月まで日新出版Web『トラック・X』に掲載された先生のコラムをアップします。

2007年12月3日
當下一念の相続  伊與田 覺

 我々人間社会は、善悪の相対関係で動いていることが多いが、これを越えて正邪という絶対の世界があります。 天には天のルールがある。これを「天道」という。地には地のルールがある。これを地理という。この天地のルールを合せて道理といいます。その道理に叶った人間の道を「義」といいます。更に宇宙根元のルールを道ともいいます。つまりこの道を素直に受容して実践されたときに「徳」となるのです。道理、道義は、時、処、位を越えて変らないものです。これを至善と言います。相対は、「二」の世界、「至善」は「一」の世界であります。だから「至善に止まる」というのは「一に至って止まる」という意味で「正」という字になります。従って自分に都合が善いからといっても必ずしも正しいとはいえない。逆に自分には都合が悪いけれども、正しいこともあるのです。

 われわれはよく「正邪・善悪」と言いますが、厳密にいえば、大きな差異があるわけです。そこで世のリーダーたるべき立派な人物即ち大人(たいじん)は、物事を見る場合に先ず、これは正しいかどうかを考え、次に自分に都合が善いのか悪いのかを考えて行動するのです。次の人物は、自分に都合がよいが果して正しいかどうかを考えて行動する人です。ところが道理を無視して自分の都合のみによって動くものは「険を行って幸を徼(もとめ)る」最下の小人(しょうじん)です。

 今年も、はや年末を迎えましたが、果して自分はどうだったかと謙虚に反省すべきときです。クリスマスは、神の心にかえる日です。日本では正月があります。これはその名の如く正しい心・神の心にかえる月です。特に元旦の正念を継続することを「當下一念の相続」と申すのであります。



みなさん さようなら

2016.12.01 06:00|伊與田先生コラム
(毎週/月曜・木曜 更新)
11月25日(金)にお亡くなりになった伊與田先生を偲び、日新出版Web『トラック・X』に掲載された先生のコラムをアップします。伊與田先生
左: 妙典の増田家新築祝いに伊與田先生が書いて下さったお軸。(『論語』 述而第七から)
(憤を発しては食を忘れ、楽しんでは以て憂(うれい)を忘れ、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らざるのみと。)
中: 伊與田先生 (平成5年4月)
右: 湯島聖堂・斯文会での伊與田先生、後列左から4人目 
   (前列は、左から故・宇野精一先生、徳川宗家第18代ご当主徳川恒孝様、石川忠久理事長)


2008年12月1日
「誠」とは自分も他人も欺かないこと 伊與田覺

 四書の『大学』には、「意(こころばせ)を誠(まこと)にすとは、自ら欺くなきなり」とあります。意をこころばせと読んでおりますが、これは意識や感情のことです。内側に心があって、それが表面に現れてくるのです。感情もまた内側にあるものが、何かの拍子に喜怒哀楽となって外に現れるのです。

 忠という字は、中の心と書いてありますけれども、本来の意味は「自分が自分を欺かない」ということです。我々はうっかりすると自己弁護して自分を庇(かば)っている場合があり、又自分を欺いている場合もあるんですね。
 「忠」という字は、本来、自分に対するものなんです。そこから全力投球することをいうようになり、更に人に対して全力投球することをもいうようになります。
 それがだんだん後の時代になると、国家や主君に対して全力を尽くすことを忠ということになってきたのです。
 戦前の日本では「忠義」ということを鼓吹(こすい)しました反動で、戦後になると「忠」という言葉を使うことすら反対されるようになりました。辞典から「忠」がなくなったといってもいい位です。

 これに対して「信」は他人に対するものですね。自分の言ったことは必ず守る。嘘偽りのないこと、二枚舌を使わないことです。余談ですが「偽」は元来人為という意味で音は「い」で悪い意味ではありませんが、人知が発達するにつれて、行為が言葉と違う即ちうそいつわりが多くなり、音も「ぎ」と変るのです。

 自己に対しては「忠」、人に対しては「信」で、これを併せて「誠」というわけです。
 日に人倫道徳地に墜ちて暗澹(あんたん)たる現代、その教育の根本は、特に人間本具の忠、信-誠の心を幼少の時から培養することは今も昔も変わらないと思います。



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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