みなさん さようなら

2017.05.18 06:00|外部 寄稿者
今回は、日新出版とご縁のあった松下緑氏の原稿を掲載します。
氏は1997年12月5日、69歳で急逝されました。(妙)


1987年(S62) 月刊「NewTRUCK」 5月号

功到自然成  ―クンタォツゥランチョン

(株)日通総合研究所 編集長 松下 緑

 私は小・中学生時代を中国で過ごした。しかし、常に日本人社会のなかで暮らし日本人学校に通学したから、遂に中国語を習得するに至らなかった。これは現在においても痛恨の一事である。
 戦時下の小学校であったから、正課の授業はすべて国定教科書によったが、副読本や課外教授には外地の特色を活かしてしばしば中国に関する教材が使われた。あるとき、こんな紙芝居を見せられたことがある。(ちなみに紙芝居は日本人の発明によるもので中国にはない)

 物語の主人公は少年時代の李白である。李白はたいそう腕白で勉強が大きらいであった。ある日、河原で遊んでいると、ひとりの老婆が川べりの石で鉄の棒を研いでいるのが目にとまった。彼は不思議に思って、「おばあさん、いったい何をしているの?」とたずねた。すると老婆は「わたしは針をつくろうと思っているのさ」と答えた。李白は目を丸くして、「こんな太い鉄の棒じゃ何年かかっても針になりっこないよ」と叫んだ。紙芝居を演じていた先生は、ここで中国語をまじえて老婆の声音でこういったのである。
 「リーパイや、李白や、クンタォツゥランチョンだよ、クンタォツゥランチョンだよ」「そうして、パッと煙となっておばあさんの姿は消えてしまいました。あとには1本の針が光っておりました。おばあさんは仙人だったのです」そういいながら先生は紙芝居の最後の場面を引き出した。そこには河原に立って呆然と針を見つめる李白の姿が描かれていた。今もその情景は忘れられない。
 「このクンタォツゥランチョンという言葉は、一生懸命努力すれば必ずかなえられるということです。李白は心をいれかえて修業をかさね立派な詩人になりました。皆さんもクンタォツゥランチョンを忘れずに勉強して下さい。ハイ、今日はこれでおしまい」。

 それから50年ちかくが過ぎ、私は折にふれこの言葉を思い出すことがあったが、それがどんな漢字なのかは知らないままにいたのである。

 さて、私はここ数年、NHKのラジオ中国語講座を毎朝聴く習慣になっているが、この3月「磨杵成針」という題でこの李白の物語がテキストに取り上げられたのである。しかしテキストでは、老婆は仙人ではなく、クンタォツゥランチョンという言葉も出ては来なかったのである。私は急にこの言葉の漢字の綴りが知りたくなり、当研究所の中国室長K氏に問うたところ、彼はかたわらの中国語辞典をひいて、立ちどころに「功到自然成  (クンタォツゥランチョン)」という熟語を指し示し、私を感動せしめたのである。
 「功到自然成」はいまや私の念仏となった。


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みなさん さようなら

2017.03.27 06:00|外部 寄稿者
記事執筆者・大谷 健氏については、2月16日の図書紹介をご覧下さい。(妙)


1994年(H6) 月刊 「NewTRUCK」3月号

「世相巷談」 大谷 健 (元朝日新聞編集委員) 
大事なことまでケチる

 私の友人に奇特な人がいる。大森和夫さんといい、私と同じく朝日新聞の編集委員をつとめた。政治部出身で、教育問題にくわしく、中曽根首相の教育改革を追跡した「臨時教育審議会3年間の記録」や「偏差値と内申書のウラ講座(どちらも光書房)らの著書がある。

 ところが大森さんは突如として平成元年1月、朝日新聞をやめる。25年10ヶ月の記者生活に別れを告げ、日本にいる外国人留学生との交流を図る「国際交流研究所」を自費で設立したのである。その資金に全退職金を投じた。その話を聞いてわれわれ仲間はびっくりした。俗っぽい新聞記者達はよくぞ奥さんが承知したな、などとうわさし合ったものだ。

 しかしまぎれもなく美挙である。研究所のもっとも大きな仕事は、留学生や海外の日本語学習者のために季刊誌「日本」を2万部発行し、留学生のいる日本の大学と、日本語学部のある海外の大学に配布することだ。国内の大学の一部は買い上げてくれたり、送料を負担してくれるところもあるが、無料である。
 「日本」は全部日本語で書かれているが、総ルビで、文章も外人にわかりやすいようにしてある。留学生にわかりにくい日本人の暮らしや社会生活、日本語を説明している。これが留学生に受けて大評判。海外からもお礼や注文が舞い込んでくる。大森さんは資金が切れる3年でやめるつもりが、やめるにやめられなくなった。

 これを見て外務省と日中経済協会や一部企業、団体が協賛金を出してくれ、大企業は「日本」に広告を出稿してくれた。3年でやめるつもりが、昨年で5周年を迎えた。しかし「日本」の発行費、送料など1500万円の出費に対し、収入は1200万円、その差額を大森さんが負担している。

 ところがバブル後の不況が深刻になって、広告を出してくれていた大企業が次第に出さなくなり、昨年の12月号はゼロになった。会社それぞれに事情があり、中には高年層の人員削減を発表した会社もある。大森さんも「仕方がない」とあきらめている。
 だが広告ゼロの「日本」を手に取ると、何とも情けない思いになる。企業が一生懸命に経費削減に努力するのはわかる。しかし「日本」の広告料を削ってみたところでどうということはなかろう。まず切りやすいものから切ったのだろう。台湾人、中国在住の日本人を含めて個人137人が協賛会費を払ってくれているというのに。
 大森さんが負担に耐え切れず、廃刊ということになれば、留学生達は大いに失望するだろう。ひいては日本への失望につながるのだ。大森さんの仕事は日本と留学生を結ぶかけ橋の役割を果たしている。廃刊になれば一つのかけ橋が消えてしまう。読者は中国人がもっとも多く、海外配布も中国へは49校に達する。このきずなが切れてしまうのだ。

 「日本」の昨年12月号の巻頭に細川首相のメッセージがある。実は大森さんと細川さんは朝日新聞の同期で、大森さんは政治部、細川さんは社会部を担当し、どちらも中途で退社し、1人は首相、1人は社会活動に入った。ひょっとしてこの「ニュートラック」が印刷中に細川内閣がなくなっているかも知れないが、「日本」だけはまだまだ長続きしてほしい。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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