みなさん さようなら

2017.10.23 04:27|外部 寄稿者
※ 加藤氏の記事中の写真・図はすべて「特装車とトレーラ」に掲載したものです。

事故車①

1976年(S51) 月刊 「特装車とトレーラ」 11月号
くるまの安全シリーズ・1  記事 加藤正明
加藤正明氏: 日本ハイウェイセーフティ研究所所長 2008年心不全で死去

なぜ追突はさけられないか
高速走行とボデーの視認性


● はじめに
 10数年前、箱根山中の国道1号および246号において故障車・事故車の排除に携わって以来、東名高速道路が開通するに及んで、沼津を基地として一貫して安全事業に関わりあい、今日に至っている。こうした業務を通しての特異な立場から、悲惨な事故を未然に防止する方法について、これまでにもいろいろと考えをめぐらし、自分なりの方法で資料の収集や分析を行ってきた。すなわち、事故現場の写真やデータの収集、事故ドライバーとの寝食を共にしながらの対話記録、事故カルテの作成、あるいは各種の実走行テストなどを行ってきた。
 もちろん、私は学者ではない。仮説を立て、必要なデータだけを利用する、という方法にはなじみがない。事故現場に駈けつけ、牽引作業を行いながら、事故の直接原因、誘因、その他の要因について考えをめぐらし、帰社するとなにもかも余さず、フィールド・ノートに書きつける。
 ところで、事故ドライバー(加害者)の答えは、いつもきまって判で押したように似通ったものである。いわく、まさかぶつかるとは思わなかった。いわく、止まっているとは思わなかった。いわく、十分に止まれると思った。いわく、まるで氷の上みたいに、路面があんなに滑るとは思わなかった。
 どれもまさかと予想を裏切られているわけだが、この予測に反する非常事態に対し、ドライバーがどれだけの予備知識をもっていたかになると、きわめて怪しいというほかはない。つまり、緊急時の認知、判断、動作という基本についての安全教育が、どれだけ徹底されているか疑わしい。本来なら、君子危うきに近寄らずは当然として、正確な操作が条件反射的な習性としてなされたかどうか、である。なされたとすれば、まさかが入り込むすきはないはずである。

● 不可抗力としての事故とドライバーの意識
 ともかく、事後診断としてどのような弁明解釈がなされるにしろ、事故はけっしてあとを絶たない。しかも、一定の安全教育がなされ、安全運転管理も徹底しているとしたら、決定的な事故誘因は、予想外の別なところに隠されているにちがいない。こうした道筋を辿りながら、私はドライバーの意識の薄暗がりの中に踏み入ることになった。つまり、私は居眠りとはなにか、ということに注目し、遂に運転中の覚醒度の低下現象をつきとめ、これに覚低走行あるいは覚低運転と名づけた。幸い、この研究は多方面からの関心を集め、一応の成果が認められることとなった。
 それはともかく、この実験の過程で、私は事故ドライバー(この言葉の用法はきわめて日常的に理解してほしい)について、興味深い事実を発見した。それは、きまってどの事故ドライバーも、自分が安全運転義務違反に該当しない、と自認していることである。自分はまったく正常に、認知・判断・動作などを行ったと信じ込んでいる、という事実である。事故は、その正常なワクを超えた、不可抗力の突発事として自分に襲いかかってきた。したがって、自分こそ不運な被害者なのである、という論理である。いわば無過失責任というわけだが、この論理がおかしいことは、第三者なら容易に気づく。前方不注意、車間距離不適当……しかし私は、実験中に覚低状態に陥っていた自分を記録紙でみせつけられて慄然とし、その奇妙な論理がまったく正当であることを理解した。
 逆説的に聞こえるかもしれないが、高速道路上の事故には、加害者がいないのである。どちらも被害者だとしたら罪の意識・反則意識がないのは当然といえよう。だが、果たしてそれは不可抗力だったろうか。ともかく具体的な事故例にあたってみよう。

● 非常駐車帯は安全地帯か
 事故は、形態としてはごくありふれた故障車への追突だった。昨年10月24日の22時30分ごろ、東名高速上り線の非常駐車帯に停車中の故障車に後続車が追突したのである。現場は勾配3%の登り坂で、車線は登坂車線付の3車線、ほぼ直線コースである。原因は居眠りで片づけられた。だれでもすぐに気づくことだが、非常駐車帯でなぜ、という当然すぎる疑問が湧く。登坂車線の外側まで回り込んで、ハザードランプを点滅している停止車両に追突したのだから、だれが考えてもおかしい。私は即座に、居眠り(覚低走行)と断定した。
 しかし、後続車は走行車線(この場合は登坂車線)をそれて、なぜわざわざ非常駐車帯に回り込んできたか。これは覚低現象についての若干の説明がなければ、なかなか理解されにくい。
 ここで詳しく「居眠りのメカニズム」についてふれる余裕はないが、結論を先にいえば、停止車両を走行車両と誤認し、追従走行をしているつもりだったと想像される。とくに大型車両の場合は、運転視界の関係で、夜間走行時にはしばしば覚低状態に陥りやすい。その結果、ドライバーは空間感覚(車間距離感覚)を喪失したまま、ただ先行車両のテールライトだけを頼りに、惰性的な追従走行を行っていることが多い。だから、停止中のテールライトを見ても(この場合はハザードが点滅していたのに!)、それを走行中と簡単に短絡させてしまう。試みに、当事者たちの声を聞いてみよう。

(停止中の車)
 ワイパーが故障したので、非常駐車帯をみつけて停まった。降りたところ、後部が少し車線上にはみだしていたので、もういちど直して、ハザードをつけて降りた。そして、ものの5分と経たないうりにぶつかってきた。
(追突車)
 車が停まっていたとは、まったく気づかなかった。
 追突車のドライバーの答えは、きわめて単純明快である。折から、小雨もようだったが、夜間視界としては、けっして悪くはなかった。ちなみに、事故ドライバーは、約25㎞離れた富士川サービスエリアで約1時間休息をとっており、沼津インターを通過するあたりから、眠気をおぼえたと証言している。
 ところが、タコグラフの記録では、わずか5分間うたた寝をしただけであることが判明した。こうした証言と記録のくいちがいは、事故ドライバーにしばしばみられる事実である。

特装車とトレーラ2月号②

● 見えすぎる運転視界におとし穴
 乗用車とくらべた場合、トラックやバスの運転視界は、比較にならないくらい広い。ドライバーはいちだんと高い位置から、一望のもとに路面状況を見回すことができる。ところが、昼間はこうした有利な条件が、夜間とくに光量の乏しい高速道路では、一転して不利な条件となる。周知のように、高速道路の夜間走行の場合、運転に必要な情報としての光はきわめて少ない。いや、ほとんどないといっていいくらいだ。ところが、無用な光にはこと欠かない。ことに、対向車線の光はまともにこちらの視界にとび込んでくる。カーブなどではとくにひどい。ときによって、光の暴力とさえいいたくなるほどである。当然、ドライバーは自衛策として、走行斜線上に視線を固定させようと努力する。
 ここでもうひとつの矛盾にぶつかる。キャブオーバー・タイプのビームは、乗用車とくらべてかなり下向きに路面を照射する。ドライバーは習性上、できるだけ遠くをみようとするけれども、必要者間距離さえ十分に照射することはできない。眼球の動きは、いきおい小刻みの上下動をくり返すことになる。もちろん、ヘッドライトの照射範囲の外側は闇である。その闇の向こうに先行車のテールライトがみえると、今度はそれを頼りに走行しようとする。しかし、このとき後続ドライバーは、単調な眼球の上下反覆動作の結果、覚低状態に陥っていることが珍しくなく、車間に横たわる闇(ブラック・ボックス)のために正常な空間=距離感覚を喪失している。
特装車とトレーラ2月号④
      車間に横たわる闇(ブラックボックス)のために正常な空間―距離感覚を喪失している


 さきほどの事故例で、ハザードランプの点滅に気づかなかった(みていなかった)、というのもこのことで説明がつくはずである。つまり、後続ドライバーは、まったく無意識にテールランプを頼りに、惰性的にハンドルを握っており、光が点滅しているかどうか、どれくらいの車間があるかさえも判断しようとはしていない、とみてよい。
 では、こうした居眠りを防止するにはどうすればよいか、ということになるが、低下した覚醒度に刺激を与えて、覚醒度を高めてやればよいわけだが、これはイソップ童話に出てくる猫の首の鈴の比喩に似てくる。また、いまはそのことへ論点を移す前に、少しばかり角度を変えて、加害者側の意識について考えてみよう。

特装車とトレーラ2月号③
〈 上図説明 〉: 上から4本目は目の上下運動、運転席が高いので中心から下方向しか見ていない。睡魔におそわれやすい。
上から5本目は目の左右運動。ほとんど運動していない。従って、運転席が高く視界の広い大型トラックは、目の位置が高速走行に合わない。

● 覚低走行と空間感覚
 前述のように、覚低に陥ったドライバーの視界は、先行車のテールライトと線で結ばれ、先行車がない場合も一種の視界狭窄(きょうさく)状態にあると考えられる。したがって、かろうじて二次元の平面感覚を保ってはいても、安全走行に必要な空間感覚を喪失している。これでは、テールライトに吸い寄せられるように近づいて、その結果「まさか停まっているとは思いもかけなかった」ということになるのは当然といえば当然である。後続ドライバーは、ライトを目にしたときから、走っている車だと決めてかかっているのだから。
 実際に高速走行をしてみればわかることだが、ビームを上向きにして走れば別だが、ふつう正常な車間距離に近づくまでは、先行車の車種は見分けがつけにくい。とくにダークな色調の幌型や平ボデーの車の場合はなおさらである。だいいち、ライトがボデー上部まで照射しないのだから、大きさなど(後部平面も)わかるわけがない。先行車の車種が不明であることは、ドライバーに心理的な不安を与える。逆にいえば、近づいてそれを確かめたいという心理が働く。ここで、窮屈な運転席に閉じ込められたドライバーの孤独感について考えてもらえば、このことは一層よく理解できるはずである。高速道路で、特に大型車が異常接近の状態で追従走行することは、よく知られている事実である。
(つづく) 


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みなさん さようなら

2017.10.12 06:00|外部 寄稿者
ニュートラジャーナル (Webサイト『トラックX』より)
執筆者紹介
大山健一郎氏…トラック技術の権威、経営の元トップ。鋭い批判姿勢が好評

儲かってます、高速道路 (2006年9月7日掲載)

 昨年10月に道路公団を三分割民営化した後の初めての決算は三社共黒字だった。過大な借金とその利子の返済によりかなり厳しいと思っていたが、正しい会計によって透明になったとたん、以外にもそこそこの利益が上がっている。路線別収支も20路線で百億円を超す黒字を達成した。

 東、中、西日本三社合計の料金収入による利益は519億円、SA/PA等の事業利益は48億円、納税額は276億円と立派なものである。昨年10月からの6ヵ月決算だからあまり楽観視はできないが、年度のベースにすればこの数字は倍になる。とても乾いた雑巾を更に絞るほど経費を詰めているとも思えないし、まして公団時代の人員を民営化の時にリストラした話は全く聞こえてこなかった。民営会社になってむしろ会長さんが三人増えた分、総コストは膨らんだはず。公団時代の経営がいかにずさんだったかである。

 会社は景気の拡大によってトラック交通量が増えたとか、ETCの普及が予想ほど伸びずに割引料金が適用にならなかった、などと言っているが、それだけではないだろう。なにより高速道路の建設談合で副総裁と審議官が逮捕有罪になったことで、社内が一気に引き締まったに違いない。更に大口割引の後払いの回収不能とか、子会社によるハイカの横流しや大量の5万円偽造ハイカの横行などルーズ極まりなく、公団時代はいわば経営の体をなしていなかった。新会社の経営方針と行動規範にはこの反省に立って法の遵守とコンプライアンス(従う)の精神が高く掲げられている。

 最近のテレビ報道によると再び道路会社の経営を揺るがしかねない新たな問題が起こっている。それはETCゲートの強行突破で、しかも急速に増加しているという。強行突破はスリやカッパライに等しい卑劣な犯罪で、これに生ぬるい対応を重ねるとやがて一事が万事、公団時代のように金にルーズな体質に戻る。どんなにコストを掛けても犯人を一切許さない毅然とした姿勢が必要である。強行突破車両には自動的に赤塗料を吹き付け、直ちに追跡、現行犯逮捕するくらいの方策が有効だろう。

 本四橋公団を含めて、三公団が予定踊り借金の返済をしながら黒字化できることが分かった以上、民営化する前の約束である通行料金の一割引き下げを一刻も早く実現してもらいたい。何しろ世界一バカ高く物流コストの足枷になっている高速料金を引き下げて経済の活性化につなげるべきだ。公団は大口割引や時間帯割引などで実質引き下げていると言いたいだろうが、これでお茶を濁されては困る。まず、一律の料金引き下げを実現して初めて民営化して良かったと誰もが実感できるのではないか。

みなさん さようなら

2017.05.18 06:00|外部 寄稿者
今回は、日新出版とご縁のあった松下緑氏の原稿を掲載します。
氏は1997年12月5日、69歳で急逝されました。(妙)


1987年(S62) 月刊「NewTRUCK」 5月号

功到自然成  ―クンタォツゥランチョン

(株)日通総合研究所 編集長 松下 緑

 私は小・中学生時代を中国で過ごした。しかし、常に日本人社会のなかで暮らし日本人学校に通学したから、遂に中国語を習得するに至らなかった。これは現在においても痛恨の一事である。
 戦時下の小学校であったから、正課の授業はすべて国定教科書によったが、副読本や課外教授には外地の特色を活かしてしばしば中国に関する教材が使われた。あるとき、こんな紙芝居を見せられたことがある。(ちなみに紙芝居は日本人の発明によるもので中国にはない)

 物語の主人公は少年時代の李白である。李白はたいそう腕白で勉強が大きらいであった。ある日、河原で遊んでいると、ひとりの老婆が川べりの石で鉄の棒を研いでいるのが目にとまった。彼は不思議に思って、「おばあさん、いったい何をしているの?」とたずねた。すると老婆は「わたしは針をつくろうと思っているのさ」と答えた。李白は目を丸くして、「こんな太い鉄の棒じゃ何年かかっても針になりっこないよ」と叫んだ。紙芝居を演じていた先生は、ここで中国語をまじえて老婆の声音でこういったのである。
 「リーパイや、李白や、クンタォツゥランチョンだよ、クンタォツゥランチョンだよ」「そうして、パッと煙となっておばあさんの姿は消えてしまいました。あとには1本の針が光っておりました。おばあさんは仙人だったのです」そういいながら先生は紙芝居の最後の場面を引き出した。そこには河原に立って呆然と針を見つめる李白の姿が描かれていた。今もその情景は忘れられない。
 「このクンタォツゥランチョンという言葉は、一生懸命努力すれば必ずかなえられるということです。李白は心をいれかえて修業をかさね立派な詩人になりました。皆さんもクンタォツゥランチョンを忘れずに勉強して下さい。ハイ、今日はこれでおしまい」。

 それから50年ちかくが過ぎ、私は折にふれこの言葉を思い出すことがあったが、それがどんな漢字なのかは知らないままにいたのである。

 さて、私はここ数年、NHKのラジオ中国語講座を毎朝聴く習慣になっているが、この3月「磨杵成針」という題でこの李白の物語がテキストに取り上げられたのである。しかしテキストでは、老婆は仙人ではなく、クンタォツゥランチョンという言葉も出ては来なかったのである。私は急にこの言葉の漢字の綴りが知りたくなり、当研究所の中国室長K氏に問うたところ、彼はかたわらの中国語辞典をひいて、立ちどころに「功到自然成  (クンタォツゥランチョン)」という熟語を指し示し、私を感動せしめたのである。
 「功到自然成」はいまや私の念仏となった。


みなさん さようなら

2017.03.27 06:00|外部 寄稿者
記事執筆者・大谷 健氏については、2月16日の図書紹介をご覧下さい。(妙)


1994年(H6) 月刊 「NewTRUCK」3月号

「世相巷談」 大谷 健 (元朝日新聞編集委員) 
大事なことまでケチる

 私の友人に奇特な人がいる。大森和夫さんといい、私と同じく朝日新聞の編集委員をつとめた。政治部出身で、教育問題にくわしく、中曽根首相の教育改革を追跡した「臨時教育審議会3年間の記録」や「偏差値と内申書のウラ講座(どちらも光書房)らの著書がある。

 ところが大森さんは突如として平成元年1月、朝日新聞をやめる。25年10ヶ月の記者生活に別れを告げ、日本にいる外国人留学生との交流を図る「国際交流研究所」を自費で設立したのである。その資金に全退職金を投じた。その話を聞いてわれわれ仲間はびっくりした。俗っぽい新聞記者達はよくぞ奥さんが承知したな、などとうわさし合ったものだ。

 しかしまぎれもなく美挙である。研究所のもっとも大きな仕事は、留学生や海外の日本語学習者のために季刊誌「日本」を2万部発行し、留学生のいる日本の大学と、日本語学部のある海外の大学に配布することだ。国内の大学の一部は買い上げてくれたり、送料を負担してくれるところもあるが、無料である。
 「日本」は全部日本語で書かれているが、総ルビで、文章も外人にわかりやすいようにしてある。留学生にわかりにくい日本人の暮らしや社会生活、日本語を説明している。これが留学生に受けて大評判。海外からもお礼や注文が舞い込んでくる。大森さんは資金が切れる3年でやめるつもりが、やめるにやめられなくなった。

 これを見て外務省と日中経済協会や一部企業、団体が協賛金を出してくれ、大企業は「日本」に広告を出稿してくれた。3年でやめるつもりが、昨年で5周年を迎えた。しかし「日本」の発行費、送料など1500万円の出費に対し、収入は1200万円、その差額を大森さんが負担している。

 ところがバブル後の不況が深刻になって、広告を出してくれていた大企業が次第に出さなくなり、昨年の12月号はゼロになった。会社それぞれに事情があり、中には高年層の人員削減を発表した会社もある。大森さんも「仕方がない」とあきらめている。
 だが広告ゼロの「日本」を手に取ると、何とも情けない思いになる。企業が一生懸命に経費削減に努力するのはわかる。しかし「日本」の広告料を削ってみたところでどうということはなかろう。まず切りやすいものから切ったのだろう。台湾人、中国在住の日本人を含めて個人137人が協賛会費を払ってくれているというのに。
 大森さんが負担に耐え切れず、廃刊ということになれば、留学生達は大いに失望するだろう。ひいては日本への失望につながるのだ。大森さんの仕事は日本と留学生を結ぶかけ橋の役割を果たしている。廃刊になれば一つのかけ橋が消えてしまう。読者は中国人がもっとも多く、海外配布も中国へは49校に達する。このきずなが切れてしまうのだ。

 「日本」の昨年12月号の巻頭に細川首相のメッセージがある。実は大森さんと細川さんは朝日新聞の同期で、大森さんは政治部、細川さんは社会部を担当し、どちらも中途で退社し、1人は首相、1人は社会活動に入った。ひょっとしてこの「ニュートラック」が印刷中に細川内閣がなくなっているかも知れないが、「日本」だけはまだまだ長続きしてほしい。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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