みなさん さようなら

2018.06.04 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1992年(H4)月刊「NewTRUCK」5月号 
『社長の軌跡』

NewTRUCK1992年5月号

      写真左: 矢野羊祐社長  右は “アロー号”を整備する晩年の矢野倖一氏 

(株)矢野特殊自動車 矢野羊祐社長 ②

鹿児島の大学で山登り
入社時はダンプ大忙し

増田 労働争議の解決に赤司さんがお入りになって矢野特殊は新しい時代を迎えました、社長は学生時代で。
矢野 そうです。私の頃は学制切替えの頃で、旧制の中学最後の生徒で3年済ませて新制高校3年、中学では後輩がいなくて頭を押さえられたままです。(笑)
―― 鹿児島大学に行かれたのは何か事情があったのですか。
矢野 東京や大阪に出したら何をするやらわからんと思ったのか、鹿児島に父の知り合いがいるから行けということで、まあ、体のいい島流しです。(笑)
―― 鹿児島大学は藩校造士館からの旧制第七高等学校の跡で、今は歴史資料館の黎明館になっているところでしょう。桜島の噴煙がすぐ前に見えて、七高生の銅像がありました。
矢野 よくご存じで。橋を渡って石段登ったところの七高時代のままの木造の古い校舎で、この校舎は在学中に焼けました。七高の名物教授といわれた先生方がまだおられたし、七高時代から残留の猛者(もさ)が寮なんかにいて、ストームでバンバンやられたりしました。
―― 薩摩健児、隼人(はやと)の国ですし、蛮カラな風習はまだ学校に残っていたでしょう。
矢野 目の前に桜島はあるし、当時は噴煙も今のようじゃなかったですから、春夏秋冬登ったし、屋久島、高隈山、霧島だとか九州の山へはよく登りました。
―― 昭和27年入学で、31年卒業、すぐ矢野入社ですか。
矢野 いや少し道草食っています。どうしても神戸に出たくて、神戸大学経済学部の大学院コースを目指したのですが、赤司さんからそれ以上勉強してもダメ、実務優先だと止められ、志をひるがえして会社へ入りました。
―― 経済学をもっともっと究めて、学者になろうと思ったのですか。
矢野 いや、神戸、横浜、長崎に憧れのようなものがあって。
―― ロマンチストなんですな。
矢野 昭和31年の12月1日の変則入社で、現場に放り込まれて徹夜、徹夜の連続でした。当時はまだ炭坑時代の残り火のようなものがあって、ダンプが結構忙しかった。冷凍車やタンクローリは少し後からです。

多種生産の効率化が課題
見通し明るい九州の展望

―― 社長が入社されてから35年、ダンプは早い時期に撤収しておられます。生産機種は随分多くなっていますね。カーゴ系、ローリ系、作業車系にわたって国内で一番多くの機種をお持ちだと思います。これは幅広いユーザーニーズに対応できる強味がある反面、多品種少量生産、一品生産的なものが多くなって効率生産に問題が出てくる、この点はどうお考えになりますか。
矢野 お客さんのご要望を充分に消化できればいいのですが、生産体制の対応はなかなかで、これは難しい課題です。
 お客さんのご要望に応えながらノウハウを蓄積してここ迄やってこられたのですが、前にこんなの作って貰った、今度は少し変わったものとご要望が次から次へと出てくると、果たして充分に対応できるかどうか。やれます、やれますと技術力だけが前へ出てカタがつくことでもありませんし。
―― 九州が治外法権みたいに中央メーカーが入ってこないのならいいですが、地域の経済力も向上して、特装車の使用台数も増えてきますと、中央メーカーも九州市場を重視するようになってきます。逆に矢野さんの方でも、中四国、近畿の四日市あたりまで進出して、市場が広域化、交錯してきています。
矢野 幸い私どもは長い間ご支援を戴いた沢山のユーザーさんがあって、これが強味ですが、それに甘えることは許されませんので、ある程度量産的車種の生産効率向上と、一品生産的車種の受注消化をどう両立させるか、これからの課題です。
―― 今日午前中、福岡県トラック協会の会長で博運社の真鍋会長とお話ししていたのですが、福岡県はイベントが次から次へと続いているし、大いに期待が持てる地域だそうですから、本拠を地元に置いているのは何よりの強味でしょう。
 これからの市場を見ますと、矢野特殊自動車はある程度に生産車種を絞り込んで、一品生産的なものは、矢野特殊の中のもうひとつ特殊なものばかり手掛ける部門を作るか、それぞれの専門メーカーと提携した商社的な機能を持つ会社を作って、ユーザーのニーズに対応する、そういう行き方もあるのではないかと思いますが。
矢野 たしかに九州は製鉄、炭坑からハイテク、自動車へと次から次へと産業が興って切れ間のない感じで恵まれていますし、これからの発展も期待されます。今、おっしゃられたことも含めて、私ども地元の車体メーカーの果たす役割は大きいと覚悟を新たにしています。

交通は行通の先代
謡と鼓で夫婦共調

―― 社長に就任されたのが通常のサラリーマンなら定年を迎える年齢で、とても閑日月を楽しむゆとりはないと思いますが、先代は赤司さんに経営をお任せになってから、よく海外に出られたようですね。
矢野 そうです。ポンペイに行った時には、2千年前のわだちの跡を見て感心して、「交通は交わるのではなく、ゆく行通でなければならない」が持論で、工場の塀に「交わらぬ行通、ゆく行通」と看板屋に大書させて、警察に苦情をつけられたり、また「行通の字句改正について」と題して先進の一方行通論を自動車技術会誌に発表していました。
―― ポンペイには私もこの暮れに行きまして、横断歩道までちゃんとあるのにビックリしました。旅はいいものです。
矢野 海外でなくても仕事で地方へ出た時に、地方の文化に触れたり、県民性のようなものを感じたり、味覚を楽しむことができるのは有難いことですね。
―― 狭い日本でもそれぞれの地域の特色もあり、料理や地酒もあって、嬉しいものです。私もそれが楽しみで、こうして出ているようなものです。
 謡をおやりだそうで。

1992年5月号 社長

             写真左: 喜多流幸扇会での矢野社長 最前列 右は鼓の久幾枝夫人


矢野 母が鼓をやっていて、社員の結婚式にも役立つから習えと推められまして、喜多流の宗家ゆかりの粟谷先生に習っています。家内も鼓を打ちます。
―― そりゃいいですね。うちは女房が碁をやり出してまして、生きた死んだなんて、時には盤を囲みます。
矢野 私も学生時代少し打ちましたが、碁はいいですね。私は碁の言葉が好きで、経営にも通じるものがあります。
―― 死中活有り、布石の妙とか、捨石とヨセの大事さとか、いろいろあります。
矢野 気の合う人と一杯やるのもいいものですよ。
―― これはもう最高、言うことなしです。一度ゆっくりやりましょう。今日はどうも有難うございました。
(おわり)


スポンサーサイト

みなさん さようなら

2018.05.31 03:23|社長の軌跡/人に四季あり
1992年(H4)月刊「NewTRUCK」5月号 
『社長の軌跡』

(株)矢野特殊自動車
 矢野羊祐社長

飛行機に憧れた少年の夢を車に託した先代創業者の温故知新、
これからはドシドシ外にも出て伝統企業に新しい息吹を


増田 これ迄は東京などへも余り来られなかったようですが、外へ出るのはお嫌いですか。
矢野 とんでもありません。
 今度も増田さんの出身地の高知のある四国や岡山地方を本当の駆け足で廻ってきました。
 入社以来、ずっと資材、外注、生産と現場を見てきていましたから、、外へ出る機会があまりなかっただけです。その中で、増田さんが主催なさった「第12回呉越会セミナー」に参加させて戴いて、広島から宇部へ廻ったことが印象に残っています。
―― 昭和58年のことで…。赤司会長(新作氏)が車体工業会の方へもずっと出ておられて、社外と社内と役割はそれぞれ分担されていたと思うのですが、社長は外に向けての顔も大事ですから、これからドシドシ外へ出られるといいですね。
矢野 福岡を離れたのは鹿児島の大学へ行っていた4年間だけですから、地元には父の関係も含めて随分沢山の知り合いがあります。これからは自動車関係の方々との交流を深めてゆきたいと思って実行に移しているところです。
―― 社長にご就任になってちょうど2年ですね。矢野特殊は長い間、赤司さんの強力なリードで動いていた感じを受けます。
 矢野社長職を出してゆくのはこれからでしょうが、この点については。
矢野 人にはそれぞれの考えや個性もありますし、置かれている時代背景も違います。
 赤司会長は戦後の激しい労働攻勢にさらされた時に労働コンサルタントの立場で父(倖一氏)と母(栄さん)の要請で経営を見て頂くことになって、昭和28年に専務に就任されてからずっと会社を見ておられました。特に母とはウマが合ったようで、この工場の前の唐の原の工場ができた翌年の昭和41年に母が死亡する迄、何くれとなく母と相談していましたね。
―― 私が赤司会長からお話を聞いたのが昭和46年、専務の頃でしたが、一手に会社を切り回しておられる感じでした。(「第19回周作対談」昭和48年1月号に記事掲載)
矢野 人間に完璧を求めることはできませんし、良いとか悪いとかいうのではなくて、是正すべきものは是正してゆく、ずるい考えかも知れませんが、お膳立てして貰っていますし、指導して頂いたことも貴重な財産として生かしていき、その意味からも非常に恵まれていると思います。
―― 矢野特殊の創業はもちろん先代の倖一さんですが、赤司会長の長い時代があって、血筋では2代目、社長としては3代目の登場です。
矢野 上から号令して引っ張ってゆく方じゃないですね。分かり易い目標を設定して社員と一緒に進んでゆこう、頑張ってゆこうということです。
―― カリスマ的なワンマン的なリーダーが必要な時もありますし、合議制、全員参加方式のリーダーの方がいい場合もあります。ひとりの人間がその時その時の情況に応じて使い分けができるといいのですが、これは難しい。
矢野 ナポレオンの言葉であったと思いますが、負け戦を言いさえすれば済むという感覚では困る、どういう状況であれ、トップの耳に入れておかねばというのが合議制であると、はき違えてはいけないと思います。
 よく言ってくれた、という考えを私も持っていましたが、言うより先ず守れ、これ以上もうどうにもならないところ迄、やるだけやることが大事で、その努力をしないままで持ってこられても対応に苦しみます。
―― これは経営のポイントになる重要な課題でしょう。その人その人の置かれている立場や、同じポストであってもその問題の捉え方、判断の仕方に差が出てくるでしょうし、会社にとって本当の大事であるか、担当ベースで処理できる小事か、問題にする迄もない些事であるか。何でも大変だ、大変だと騒ぎ立てるのも困るし、本当の大事を言わないのは尚困ります。これは軍隊でも同じ事だと思いますが。
矢野 風穴は開けておかなければ、とは心に銘じています。

矢野特殊 アロー号
     写真左: シャシ完成のアロー号と資金提供者の村上義太郎氏(左) 矢野倖一氏(右 当時24歳)

現存最古の自動車を作った先代の創業者
―― 先代の矢野倖一さんには昭和46年7月、唐の原の前の工場にタンクローリの新工場を作った披露の時にお会いしました。その時には現存する国産最古の自動車“アロー号”も展示されていまして、矢野さんにはじっくりお話をお聞きしたいと思いながら実現しないまま、昭和50年に亡くなられました。
 社長から見られたお父さんはどういう方だったんですか。
矢野 “温故知新”古きものを温めなきゃいかん、古きものの中から新しきものを求めてゆくのだ、父は常にそう言うとりました。海外は歴史とその遺産を大事にしていると羨ましがってもいましたね。
―― そういうお父さんも相当な新しもの好きだったのでしょう。飛行機に取りつかれたり。
矢野 こちらで言う川筋、遠賀川筋の造り酒屋の倅が、工業学校に進んで模型飛行機作りに熱を上げて、飛行機大会に出品して甲賞つまり最優秀賞を貰っています。
 この時代は徳川・日野両大尉が初めて飛行機に乗って飛んだ(明治43年 1910)ことで飛行機熱が高まりまして、その日野大尉が少佐になって福岡連隊に勤務されていた当時のことで、父が日野少佐に激励されたことが新聞に載りました。
 この新聞記事を見て、当時九州財界の怪物と言われた村上義太郎さんが、父に飛行機はまだ危険であるから自動車をやるように強く言われて、空から陸に方向を変えました。
―― 先代が亡くなられた時、追悼記事を書くため、いろいろな資料を送って頂きました。村上義太郎は大変な人物ですね。
矢野 百年は早いといわれた人物だったようで、村上水軍の末裔と称して、それ迄は馬の背に頼っていた運搬を車力(しゃりき)に変えて、西南戦争の官軍の軍需品輸送で大儲けして、人力車の組合を作ったり、電力会社に関係して、博多港に私設の灯台を作ったりしています。
―― それ程の傑物、怪物が一介の工業学校生の青年をわざわざ訪ねてきて自動車を作るように説得したのは凄いですね。人力車から自動車へ切り替えの考えがあったのでしょうか。
矢野 村上さんの全面援助で失敗を重ねながら“アロー号”が完成したのが大正5年です。
―― 今から76年前ですか。
 “アロー号”は国産車では第4号と言われていますが、その現物がちゃんと残っており、福岡市の博物館に飾られているのは素晴らしいですね。“アロー号”の次に残っている国産車は何処にあるか知りませんが、ずっと後のことになるでしょう。
 この車が残ったのは先代の並々ならぬ愛着心の上に、先代のお作りになった会社が現在まで続いて、その保存に力を尽くしたことも大きな力になったと思います。
矢野 実は最近分かった事ですが、1975年ハンガリー(マジャール)オートクラブ75周年記念として切手が出され、世界のクラシックッカー6枚組の中にアロー号が、日本代表として取り入れられており、光栄に思っています。

オートクラブ 切手

      ハンガリー オートクラブで1975年に発行されたクラシックカー切手6枚に採用の“アロー号”


―― 乗用車は“アロー号”迄でその後はダンプなどの特装車の架装に移っていますね。
矢野 大正9年に柳瀬商会の福岡支店の依頼を受けて、ワイヤーロープで荷台を吊り上げる方式のダンプを開発して熊本県に納入しています。これがわが国で一番古いダンプじゃないかと思います。
―― 特装車では最も古い歴史の犬塚製作所で技術を担当していた堀久さん(平成3年4月99歳で死去)のお話で、ダンプを作ったのは関東大震災の後だそうですから、わが国では最古のダンプでしょう。
 大正時代の特装車としては消防車が東京消防庁に保存してあって、トラックショーに出品しました。
矢野 うちでも消防車を作っていた記録が残っています。大正11年に矢野オート工場というハイカラな社名を付けて特装車生産に乗り出して、ちょうど満70年になります。
 戦争になって、海軍直轄の管理工場になり、従業員も軍人を含めて200人にも膨れ上がり、トヨタから専務を迎えて東京にも事務所を持っていました。それ迄は技術屋の父が工場を一切取りしきって母が帳面を見る状況でしたが、急に規模が大きくなって、上海や大連に行く錨のマークの付いた海軍の車が並んでいたのを覚えています。工作車のようなのが多かったですね。
―― 敗戦で海軍からの発注がなくなって困ったでしょう。
矢野 アメリカがやってきたら真っ先にやられるだろうと逃げたのですが、PXガレージを仰せつけられシビリアンが持ってくるピカピカの外車の整備やジープの改造、また部品もなかったのでピストンリングからコンロッド、割メタルなどの部品作りもしていました。筑豊の石炭も活発でダンプの需要もあって、従業員30名位の規模でやっていた昭和26年に、戦闘的な労働運動を展開していた総評の自動車産業労働組合が九州の標的にうちを選んで、共産党バリバリのオルグを打ち込んできました。
(つづく)


みなさん さようなら

2018.05.17 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1990年(H2)月刊「NewTRUCK」5月号

社長の軌跡 〈古往今来〉こおうこんらい 終わり
自動車精工 堀 正樹社長
― 技術の源流70年 父子二代の開発精神 ―

ヒット商品セイコーラック
新分野にも積極的に進出を

増田 飼料運搬車の次に主力製品に登場したのが、アオリ開閉装置の“セイコーラック”ですが、その考案者は誰なんですか。
  オヤジとボクの親子合作というのかな。
 これの開発の契機は長距離大型フェリーが登場して、各港で使用するランプウエイを移動可能なブロック組立式で作ることになり、これを請け負って、いろいろ話しているうちに、大型トレーラのアオリ開閉が大変だということを聞いたわけです。
 それ迄にもトラック大型化に対応してアオリ開閉補助装置はいくつかあったんですが、機能的にはいまひとつだったようです。そこで、私が原型のアイデアを考えてオヤジに相談、フランス仕込みの“からくり”が好きなオヤジがうまく仕上げてくれました。それを工場の技術者がうまく製品化してできたのが“セイコーラック”です。
 うちの会社はキャブオーバーシャシをメーカーが出してから、一般のカーゴを作る車体メーカーさんとのおつき合いが殆どなくなっていたのです。アオリの機能部品を作ることになって、いろいろ教えて戴いたり、販売にご協力をお願いすることになりました。最近商品化した回転型中柱はその好い例だと思います。
―― “セイコーラック”は、トラックボデーの機能部品の中でヒット商品ですね。現在も伸びていますか。
  アオリつきの普通トラックは減っていると思うのですが、最近急速に普及しているウイング車のアオリにも取り付けられるし、中型車にもということで、伸びていますね。売上げからいうと半分近くになりますか。
―― 開発商品の機能部品で全体の半分の売上げを占めているというのは大したものです。
  今ではトラックだけでなく、建設業界や、産業機械にもかなり使われるようになってきました。
―― 新しい材料を使った幌材なんかもでてきていますし、アオリはまだまだ根強い需要を持っていますから、セイコーラックはこれからも伸び続けるでしょう。
 ただ、セイコーラックが出たのが昭和50年、15年前のことです。それからセイコーラックのようなヒット開発商品に恵まれていない気もしますが。
  うちは発足以来下請型企業でなくて、オヤジ以来の技術の伝統を武器にした開発型の企業で、そのために昭和53年には、精工技研を設立しているのですが、セイコーラックの成功に気を許したところがあるかも知れない。ただ、今までの開発と商品化の歴史と見ますと、運のあるなしが大きいように思われます。
 ウイングの機能ユニットや“中柱クルット”などの開発商品もあります。
 また最近は英国の車輌メーカーとの間の作業機や、大手建設会社と提携の土木機械の共同開発といった新しい分野も手掛けています。
 トラックシャシに架装する特装メーカーからの変化も進みつつあると思います。

70年に及ぶ技術の流れ
自動車から外の世界にも

―― 開発型の企業というのは経営がなかなか難しいと思うのですが、自動車精工の設立から36年間、ご尊父の技術開発尊重の精神を堅持しながら現在までやってこられたのは立派なことだと感心します。
 社長の経営方針というか、理念はどういうものですか。
  理念という程のものじゃないですが、自分がよその会社に勤めて束縛されたくなかったのだから、社員にものびのびと自由度を持って、それぞれの考えを生かしながら仕事をやって貰いたいと思っていますね。
 技術的には高度に、地域は全国的に、市場は小さく、その中でのシェアは高く持って、無駄な競争はできるだけ避けたいし、生産財ですからユーザーに利益になって、それで儲けが出れば皆で分けよう、という姿勢です。
―― 開発型の企業としてはそうあるべきでしょう。
  うちは組織がフラットだし、部長とか課長の呼び方がなく、社長以外は、さん、君で呼んでいます。夏休みは30年も前から1週間とか10日間とか皆でまとめて取るようにしていますし、残業も殆どありません。
―― それは大変なことです。やはりひと味違う。
  うちは会社設立から36年です。オヤジがヤナセさんや犬塚さんにお世話になって、乗用車や特装車を作ってきた、それがうちの技術の源流です。
 私も5、6才の時分からヤナセさんのビュイックやキャデラックの試運転で日光や箱根へ度々ドライブしたり、犬塚さんに可愛がられて、お宅や工場へ出入りして、自然に自動車の世界に入っていきました。
 まあ、考えてみると、オヤジも私も、それから私共の会社もヤナセさん、犬塚さんの影響を受けて、その延長線上にあるとも言えますね。
―― 技術の源流とその維持発展がひとつの企業の中に脈々と生き続けているのは素晴らしいことです。その源流のご尊父の最近はいかがですか。
  もう98才で、殆ど横になったきりになりました。
―― そうですか。ここでお会いしてもう2年余りですが、足の具合がお悪かったですね。 フランスに行かれてすぐルノワールが死んで、モジリアニはまだ生きていた、ピサロの絵が好きだ、70歳過ぎて北朝鮮へ行って、このまま指導してくれないかと引き止められた、などと面白いお話をお聞きしたのは、20年前のことになりました。100歳も、もっと長生きして戴きたいですね。
 弟さん(俊彦氏)はお元気ですか。
  去年10月、亡くなりました。
―― それはそれは。リフトの社長なさってたし、よくお会いして飲んだりしました。社長より多く会っていますね。社長とはかなり肌合いは違いました。
  人気はありましたね。人を疑うことを知らず、一所懸命人のために尽くす男でした。経営者ではなく、いわゆる起業家でしたね。先だっても、何十人もの方が偲ぶ会を開いて下さいました。
―― 夢があって、多少乗せられ易いところがありましたが、それがまた魅力だったんでしょう。
  私は経営者ですから、慎重にならざるを得ないところや、難しくいかなければならないところもある。オヤジは怒ったことがないですね。
―― 人気と経営は別なものだと思っています。
 休日など、どうして過ごしておられますか。
  昨今は庭いじりや畑作に精を出しています。いま時分からは芝生に風呂の腰掛けを持ち出して一日中、草むしりをしたりします。新しいアイデアもこんな時に湧いてきますし、無念無想になるのもこれが一番です。まあ、最近の東京では多少贅沢な暇潰しかも知れません。
―― 草むしりは座禅みたいなものですか。ゴルフなんかは。
  クラブは何本か持っていますが殆どやらない。碁も3級どまり、この頃は石を握る機会も気持ちも余りない。歌を唄うのも伴奏音楽外して書生っぽいのをやる程度です。
 山歩きは好きで、小さな木を庭に移植して成長を楽しむものだから、庭は雑木林です。盆栽は好きじゃないですね。あれを小宇宙という人もあるが。
―― 伸びようとするのを無理に矯(た)めて、ひとつの方にはめてゆくのでしょう。
 もうそろそろ後継者を考えねばならんのじゃないですか。
  いろいろの方からご心配を戴いているようですし、社内でも将来に不安を持つ向きもありまして、日立に勤めている婿さんが手伝いましょうと言ってくれています。それに長い間、自動車関係の仕事をやっていた人が来てくれるというので、安心したところです。
 それと、来年は川口工場に移転して20年になりますが、桶川に新しい工場を建てる計画が進んでおります。
―― 自動車精工の新しい時代が始まるのを期待します。
今日はお忙しいところ、有難うございました。


   

みなさん さようなら

2018.05.14 04:17|社長の軌跡/人に四季あり
1990年(H2)月刊「NewTRUCK」5月号

社長の軌跡 〈古往今来〉こおうこんらい
自動車精工 堀 正樹社長
自動車精工 堀氏
                     右: 堀正樹社長と堀久氏 (昭和62年5月)

― 技術の源流70年 父子二代の開発精神 ―

自動車作りひと筋の父久氏
名古屋から京都の学生時代


増田 私の郷里、高知県の柏島に戦争末期、特攻隊長として駐屯していた半谷さんが社長と八高(第八高等学校、名古屋大学の前身)の同期だと聞いてびっくりしました。(NewTRUCK2月号「周作閑話」に掲載)
  半谷君は近年、同窓会に出ても漢詩と柏島の話ばかり。増田さんが昨年20周年記念号で柏島のことを書いていたのを読んで、あれ、と思って連絡しました。
―― 縁とは不思議なものですが、名古屋の八高に行った理由は。
  大正の中頃から昭和の初期にかけて自動車の技術者として多少は知られていたオヤジ(堀久氏)が、名古屋の日本車輛に招聘されたものですから、家族も移った。私も名古屋の中学から八高に入り、京都大学というコースです。
―― 亡くなられた日本車輛の天野社長(春一氏)からお話をお聞きした時、高級乗用車を日本で初めて作ったのはウチで、昭和7年にアメリカのナッシュをモデルにした“アツタ号”を30台ばかり製作して、宮内庁や役所、陸海軍に納入したと聞きました(昭和45年1月号にも掲載)。そのあと、ご尊父にいろいろ昔話を伺ったのですが、“アツタ号”を作る時に家族も名古屋に行かれた、ということですか。
 ご尊父の自動車人生は多彩ですね。第1次世界大戦が終わったあと、農商務省の海外留学生としてフランスへ行き、ヨーロッパ各国とアメリカを廻って帰国して、ヤナセに入りますね。
  そこのところは前後関係がちょっと違う。ヤナセさんに自動車を作る計画があって、オヤジが大正7年に入社、9年から11年にかけて会社の使命と留学生両方の勉強で行ったということです。
 ただ、5台か10台は作ったようですが、7000円かけた車が3500円にしか売れない。それでヤナセさんでは自動車は作るものじゃなくて売るものだ(笑)となって、輸入車販売で発展されたわけです。
―― 1000円もあれば立派な家が買えた時代ですから、大変な値段ですな。
 ご尊父はヤナセとの間で、「日本で自動車を作る会社ができたら、その時をもって、円満退社する」という珍無類の契約を交わしていたそうですが、余程自動車がお好きだったんでしょう。
  日本車輛は戦中に入って鉄道車両生産が忙しくなり、適当なポストを用意すると言って下さったようだし、トヨタさんからもお誘いがあったらしいですが、日車を退社して東京へ戻りました。
 トヨタの喜一郎さんはヤナセ芝浦工場で暫く勉強されたこともあるようで、オヤジはその頃技師長をしていた関係でご縁があったのだと思いますね。
―― 社長は東京に戻らず京都大学に入っていますね。
堀  東大には図学の試験があって京大にはそれがない。私は機械志望なのに製図に興味はないし、高校3年間はボート生活に明け暮れてしまって、京大に行くしかなかった、ということです。
 東京へ戻ったオヤジは大久保生二さんの作られた協同国産に技術部長として参加しました。
―― いすゞと日野の前身の東京瓦斯電の製品を売るために作った会社ですな。大久保さんは大変な人物で、戦後の日野自動車の基礎づくりに大きな役割を果たしました。
  この協同国産は合併して、東京自動車といういすゞの前身の会社になりましたが、そこでは専務で、自動車技術の権威の星子亮さんに目をかけられたようです。
―― 犬塚入りはその後ですか。
  大正6年頃から住んでいた大崎では、犬塚さんとうちは向かい合わせで、創業者の先々代は私の名付け親、小さい頃から入り浸りで、どっちの家で暮らしたのか判らない暗い、学生時代になっても、訪ねると月給取りのオヤジと違って、ポンと小遣いをくれたりしました。
 両親も長い間、親戚以上のおつき合いで、オヤジもヤナセさんに勤めながら、特装車の技術面であれこれアドバイスしていたようで、大正8年頃、東京市に納入した動力式撒水車はオヤジの設計したものだと聞いています。
 特装車では、犬塚製作所と東邦特殊自動車が両横綱で、犬塚が軍需工場に指定されて、一段と拡大するためには資格を持った技術者が必要になって、オヤジが入った。
―― その犬塚も戦後すぐ辞めてますね。
  敗戦で車が作れず、ナベ・カマ作ってたから、残る気はなかったんでしょう。このあたり、自動車ひと筋の考えの純粋さと、苦労知らずの一面があったと思います。

シャシ改造で高い評価
会社設立と飼料車開発

―― 独立してトレーラをやったということですか。
  犬塚から技術者を連れてきて図面を引かせたり、材料を買い集めてトレーラを作ろうとしたんだがどうもうまくゆかない。考えてみれば世の中はトレーラどころじゃないし、朝鮮動乱前の労働運動の激しい時で工場管理はやられる。とうとう日東自動車というその会社も整理して、当時のボンネットシャシを特殊ボデー用のキャブオーバーに改造する仕事を始めた。
 これは、東神自動車、京成自動車、ヤナセ、加藤車体さんなどの工場へ、ガス切断と電気溶接の道具を持った工員を派遣する。道具担いだ大工を行かせるようなもんです。(笑)
―― それじゃ経費もかからない。
  ボデーメーカーさんのメカ部門といった感じで、この時分は大いに儲かったようです。
 目黒に工場を借りてからは、シャシを預かって、キャブオーバーへの改造、シャシ延長と短縮などの仕事を各地のボデーメーカーさんから受注するようになった。この時のご評価が後日セーコーラックを出した時に生きたように思います。
―― 社長は学校卒業して、どうしていました。
  航空技術将校になって陸軍航空工廠にいました。そのときの体験から宮仕えはもうこりどりだと痛感、オヤジと一緒に仕事をした。もっとも、勤めるところもおいそれとはなかった時代でしたが。
 キャブオーバー改造の前は修理仕事などもやっていて、昭和29年に会社を設立、しばらくは出稼ぎでしたが、30年には中目黒に工場を借りて、体裁が整ってきました。
―― 社長はその時からですか。
  オヤジはもう63歳にもなっていたし、お前がやれというものですから。
―― もう36年、長い社長生活ですな。もっとも、ご尊父は大きな夢を持って、開発に取り組む人で、あまり経営者向きじゃなかったから、いい選択だったと思いますね。
 リフトダンプが出てきたのは会社を作ってからですか。
  昭和32年からです。リフトダンプ以外にも、クレーン車、キャブバッククレーン、高所作業車、いろいろな特装車を作っていますよ。東京陸運局へも足繁く通って、技官の方が転勤の折、いろいろ勉強させて貰ったと礼状を下さったこともありました。
―― リフトダンプの後に出て、今でも主力製品の大きな柱になっている飼料運搬車はいつ頃からですか。
  昭和40年にバルパックを開発、この特長が今の全農さんに認められて採用され、42年、川口に初めて自前の工場を持って、46年に現在の工場に建て直しました。
―― 私がこの本をまだひとりでやっていた頃で、工場の披露と、飼料運搬車“フィードバック”の発表会に呼んで頂きました。
 飼料運搬車も一時期は急速に伸びましたが、現在はそれ程でもないようですね。
  市場が成熟段階に達して、餌の量も増えない。飼料運搬車全体で、年間20億ほどの需要をこれ迄、新明和、東急さんとうちで三分していたのですが、近年極東開発さんも参入されて4社体制になりました。
―― それほどの市場でもないのに、特装車の三大メーカーが製作するというのは、安定した市場だとみているんでしょう。
  さあ、どういうことなのか。ただ他の量産型のように激しい競争がないようですね。客先との平常の結びつきがものをいう業界だとはいえます。
(つづく)


   

みなさん さようなら

2018.04.16 06:55|社長の軌跡/人に四季あり
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 6月号
人に四季あり

岡本利雄氏 
 おわり
いすゞ自動車(株) 顧問

背筋の寒くなったソ連
駘蕩(たいとう)大人の応対の中国

増田 ヒルマンミンクスの国産化の技術習得のためにイギリスに行かれたのはもう40年近くも前のことで、それからGMとの提携話やその他のお仕事で随分海外へ行っておられますね。
岡本 はい、行っていないのは、アフリカの下の方と、南のアメリカ大陸の部分位ですか、随分あちらこちらに参りました。
―― その中で思い出に残る土地はどちらですか。
岡本 ソ連です。その翌年には中国を訪問していますので、二つの社会主義国家を見たのですが、大きな違いがありますね。
 ソ連では、シベリアで六千kmもの石油パイプラインを敷設する計画がありまして、伊藤忠と一勧グループが参加することになり、その折衝のためのグループの団長に瀬島竜三さんが予定されていましたが、終戦後シベリアに抑留、壁塗りをさせられたのでソ連はイヤだとおっしゃる。それでお鉢がこちらに廻ってきました。
 折衝の相手は当時の権力者ブレジネフの女婿で、さし廻しのヘリコプターであちらこちらに行きました。シベリアは大変なところで、夏は泥濘(でいねい)で、冬になって凍りつかねば大きな作業はできんのです。
―― この正月にシベリアの空を西から東に飛びましたが、文字通り白一色で、こんなところに人が住んでいるのかと感心しました。
岡本 私はなぜかフルシチョフが好きで、そのお墓参りに行ったことがあります。モスクワ郊外の修道院の国家功労者の墓地にあって、労働英雄なんか大きなお墓があるのに、フルシチョフのは隅っこの小さなみすぼらしい墓で、ラフなスタイルの写真が貼り付けてあるだけ。墓も国家が指定するんでしょうね。
 ところが、2~3年後、行った人の話によると、少しお墓が大きくなっている、と言うんですな。その時々の評価で、墓が小さくなったり大きくなったり。(笑)
 ともかく、2週間程の滞在でしたが、何か締め付けられる感じで。
――私はモスクワとワルシャワの空港で何時間か過ごしただけですが、背筋が寒くなるところがありました。
岡本 それに較べると中国はまことに駘蕩(たいとう)とした応対で、ソ連とは大きな違いですね。

陽焼けせずゴルフ上達
即効薬的なものは駄目

―― 岡本さんは82歳というお年に見えないお若さですが、その秘訣はゴルフですか。
本 ゴルフだけじゃありませんが、その一つとは言えますね。いすゞの役員になった時、ある会で、岡本というのはゴルフばかりやっているそうだが、という話が出たと聞いたことがあります。たしかに、シングルまで行ったし、下手な方じゃないと思っています。
 始める以上、誰でも上手になりたいもので、私は5年間、夏でも冬でも毎朝30分は家で練習したし、日曜日は多摩川の土手でプロに教わりました。夏はいいが、布団に5分でも入っていたい冬に、服装を整えて外に出て練習するのは大変なことで、陽に当たらないからゴルフ焼けはないが、手の指はねじれている、それだけやれば誰でも上手になれる。いすゞというのはゴルフばかりやって役員になれるような甘い会社じゃない、とその男に言ったことがあります。
―― 出社前の30分の練習を続けたというのはおえらいと思いますね。大体、洗面して飯かきこんで飛び出すのがやっと、というサラリーマンが多い。青竹踏みは今もやっておられますか。
岡本 亡くなられた日本運送の大橋さんに30年ほど前に戴いたものを今でも愛用しています。昔はドシンドシンと家中に響くような音を出して踏んでいたのですが、これは年寄り向きじゃない。今は指先に圧力をかけて土踏まずをゴリゴリ百回くらいこすります。それから手足の体操をしますが、今でも直立して手はピタリと地面につきますよ。
 私は胸、ポリープ、喘息、腎臓ひと通りやって、おまけに脳梗塞まで体験しました。
 脳梗塞の後は100m歩くのも大変で、ガードレールなんかにつかまって一所懸命リハビリしたのですが、それでもゴルフには行きましたね。ご一緒した方には専門のお医者さんがいまして、適切なアドバイスをして戴き、腰の痛む時にはコルセットをはめるなどするうちに楽になりました。
―― 普段の健康についての取組が脳梗塞のリハビリに大いにものをいったのでしょう。
岡本 私は会社関係の人とは殆どゴルフをやりませんので、知らない方とメンバーを組みますが、プレーの後の雑談の時などに、年を聞いて皆さんびっくりされます。年の割には飛びますからね。
 健康法をよく聞かれるのですが、私は即効薬的なものは駄目だとお答えすることにしています。
 今は病院に行っても、風呂敷で包むほどの薬をくれる、私は1日分しか飲まないで捨てますが、知り合いの院長に聞くと、おれも飲まん、あれだけ出さんと病院がやってゆけない、(笑)と言う。
 じわじわ効く漢方薬の方がいいですね。体の方も、つまらんようなことでも毎日続けてゆくことが大事です。
 井上靖さんの『孔子』を最近読み切りました。孔子についてこれまで抱いていたイメージと随分違うと感じました。思案の人であると同時に行動の人でもあるんですね。

浄瑠璃では仲利太夫
声なき声を聞く盆栽

―― 岡本さんは浄瑠璃の名手ですし、盆栽にも堪能であられる。趣味生活も豊かで。
岡本 浄瑠璃は仲利(なかとし)太夫という名を貰って、先日も公演会に出ました。小さい頃、松茸狩りに行くと三味線を抱えて唄ったりしている、そういう素地があったかも知れません。
 盆栽は伯父がやっていて、そのお手伝いをしたのが始まりで、藤沢工場を作った時も一万坪の土地に野菜や実のなる果樹などを随分育てました。
 いま庭に50鉢ほどの盆栽があります。大きなものは一人では抱えられない位です。
 盆栽づくりのコツは、「声なき声」を聞いてやる。水が欲しいのか、こやしが要るのか、息ができないから土を替えてくれ、などの要求を叶えてやることです。
 それと重要なのは剪定(せんてい)で、誤って大事な枝を落とすと、形を整えるまでが大変です。
 随分いろいろなことをやって、中学生の頃は鉄砲と煙硝を自分で作って、鳥を撃っていたし、会社に入ってからは川釣り海釣りに熱中しましたが、腎臓に冷えはいけないというので止めた。ダンスにも一時凝って、かなり上手くなって、いすゞの販売店総会の時に佐良直美さんとゴーゴーを踊ったこともあります。
―― 随分多彩ですが囲碁、将棋の類いは。
岡本 伯父が碁狂いで、市会議長なんかしてたからお客が多い。伯母は食事を作って、夜半にお客が帰るまでコックリコックリやりながら待ってる。これはいかんと思ったので、一切やりません。

郷土で好きな高杉晋作
各部屋に安置の観音像

―― ご出身の山口県は沢山の人材を輩出しています。その中では誰がお好きですか。
岡本 高杉晋作です。思い切ったことをやって、綺麗に死んでゆきました。
―― なるほど、私も大好きです。奇兵隊を作って大活躍しました。粋人でもあり、いいですね。
三千世界の 鳥を殺し
ぬしと朝寝がしてみたい
は彼の作といわれていますし、
面白き こともなき世を
面白く
の辞世も彼らしい。吉田松陰、坂本龍馬もそうですが、大変な人物が出て、若くして死んでいます。
 観音さまをお祀りのようですが。
岡本 家の部屋に一体ずつと、こちらと、7体あります。どれも買ったものはなく、観音さまの方からこちらに見えました。
 私は信者ではありませんが、仏の世界から人間の世界へ一歩踏み出して、衆生と共に苦労を分かって救って下さるという観音さまを尊いものだと思いますね。
 子供をふたり死なしていますので、その命日なんかには観音経を上げています。私自身は余り宗教心は持っていません。死んだらキリスト教でも何でも葬ってくれたらいいと思っています。
 この年になっても、ひとつの悟りというか、確固としたものがなく、本でも手当たり次第です。
―― あんまり早く固まらん方がいいじゃないですか。夢や迷いがあるのは生きている証拠ですよ。
 長い間、有難うございました。
(おわり)
プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ