みなさん さようなら

2018.02.12 06:26|社長の軌跡/人に四季あり
1995年(H7) 月刊「NewTRUCK」 10・11月号
社長の軌跡

日野自動車工業(株) 取締役社長 二見富雄氏 終わり

荒川さんへの序文と弔辞
それぞれの論語の読み方


追善囲碁大会 日新出版②
                   荒川政司氏 追善囲碁大会 (日新出版主催)
追善碁会 日新出版①


増田 荒川さんの追善碁会の時に、荒川さんがお出しになった自費出版の『寒椿』を日野自工から寄贈して頂いて参加者にお配りしました。
 荒川さんの随筆と連句も素晴らしいものでしたが、二見社長の序文も良かったですよ。荒川さんはご自分が文章を書かれるだけに、他の人のものには評価が厳しかったと思いますが、二見社長の文章については。
二見 松方さんが社長の時の年頭の辞、創立記念日や販売店総会の挨拶などの原稿は私が下書きして荒川さんが真っ赤になるまで訂正する。荒川さんが社長になって、ご自分でやられると思っていたら、オイまだか、これからはいいんでしょうと言ったら、本当に怒りました。何言ってんだ、書くのはお前の仕事、それを採用するしないは俺の仕事だ。
 『寒椿』の時も序文書けと言われたんですが、高邁な連句や文章の序文は書けないと答えると、命令だ、ときた。早々に書いて出すと、お前ね読まないで書くとは何事だ、読んだら余計書けなくなるから読まないうちに書きました。仕様がない、とあの序文だけは一語の修正もなしでした。
 気に入ったらしくて、ご褒美やるよと、英國屋のセビロ一着頂きました。(笑)
 そのお話を荒川さんの密葬の後で奥さんにお話ししたら、社葬が済んでから大変いい弔辞でございました、と今度は奥さんから洋服下すった。催促するようなまずいことを言っちゃって。(笑)
―― あの弔辞は私もお聞きしました、飾らずに真情が籠もっていて良かった。こんな弔辞しか読めないのかと荒川さんに叱られそうだという意味のことおっしゃっていましたが、とてもとても。
二見 文芸のすさびのようなものがあるといいと思うのですが。
―― 変にこねくり廻さない方がいいんじゃないですか。
 時に論語の言葉を引用された文をお書きですね。
二見 お恥ずかしい話で、引用を時々間違えたり、勝手な引用をして解釈しているだけです。
 論語については、戦後、価値観の転換ということで顧みられなかった時期があります。
 私も軽薄な学生だったから論語なんて、と思っていた。ところが幸田文さんの書いたものの中に、文さんが何かつべこべ言うと露伴が孔子様はこうおっしゃっていると、ひとこと言う時にはどう仕様もない、とあった。
 なぜ、孔子様がおっしゃったのがどう仕様もないのかわからないけれども、父露伴の言葉はもう絶対というのを読んで、露伴という人は文化勲章貰ってドテラの上に付けてみたり、これは粋なものだなと思ったりしたこともあって、それがポツンと心に残っていたんですね。(注1)
 その後、桑原隲蔵(しつぞう)さんの息子でフランス文学者の桑原武夫さんの論語解説を読んで、ハア成る程と思って、それで何か好きになりました。(注2)
 増田さんのように、ひとつひとつの言葉をみっちりおやりになればいいんでしょうが、これは大変なことで、それだけの根気もありません。それでも、教えを説いたり、弟子達との問答の中に“アレ”と思うのも入っています。
 『孟子反、伐(ほこ)らず。奔(はし)りて殿(でん)す。将(まさ)に門に入らんとして、その馬に策(むちう)ちて曰わく、敢て後(おく)るるに非ざるなり、馬進まざるなり』
 静かに馬に鞭打って、いや俺、格好良くやったんじゃない。馬が走らなかっただけなんだ。あれ読んで、いろんな要素があるし、奥深いなと思いましたね。
―― 論語にはありありとその情景が浮かび上がってくるドラマチックな場面が沢山あって、それが論語の大きな魅力になっています。何かのお説教の本だと思い込んでいる人が多いのは残念ですね。いろんな、その人なりの受け止め方、解釈の仕方があっていいんで。
二見 私も論語を読んで何か書く時、勝手にそれを盗んだり、曲解したり。
―― 論語読みの論語知らずという言葉もありますし、決まり切った解釈にとらわれることはないと思います。曲解、誤解も大いにいいんじゃないですか。
二見 論語はそれができるんですね。
 あちらの言葉で聞いてみたいと思います。調子もいいし、言葉として素晴らしく簡潔で、美しいリズムがあるんじゃないか。
―― 私の論語の勉強会は大きな声を出して皆で朗誦するんですが、いいものですよ。昔はわけもわからない字もろくに読み書きできない子供の時分に暗誦させています。その暗誦した言葉の本当の意味がある年齢になると段々理解できてくる。それが本モノだと思いますね。
二見 今から2500年前も前に大変な方がいらしたもので、孔子様とほぼ同じ頃にお釈迦様もいらっしゃるし、500年ほどたってキリストも生まれている。
 孔子、釈迦とキリストの間にはソクラテスやプラトンが生まれて活躍しています。
 そう考えると2000年来、人間は進歩していないですねえ。

誤解敬遠されている儒教
争えない氏素性からの顔


――
 孔子は「怪力(かいりき)乱神を語らず」と入って神秘的なもの、オカルト的なものをキッパリと否定しました。2500年後の現在、そのオカルト的なものと科学技術が結び付いたオウムによって日本中が振り回されています。
 こうなった原因は、何か精神的な拠り所を失っていて、ちょっと強い刺戟にあうとコロリと参ってしまう。私は、日本人の精神的な拠り所は儒教によって形成されたところが大きいと思っています。儒教とか論語というと、先程もお話の出た刻苦勉励、我に七難八苦を与え給えといったシビアな生き方を強制するものであるという既成観念が強いですね。それで反発して近づこうとしない。古い封建思想の残滓(ざんし)という考えですが、そんなもんではない。もっと儒教なり、論語の良さを一般に知って貰いたい、ということで300年以上続いた湯島聖堂の後援会のお世話もさせて頂いて、日野さんにもご協力頂きました。
二見 今度取締役になった小林裕君が、増田さんの論語の会に出ていて、こういう会がありますというので、そりゃいいことだと、入会しました。
―― こういう会を盛り立てることも企業文化の現れという気がするのですが、なかなか理解が得られませんね。
 この後援会の羽倉信也会長は元の第一勧銀頭取(現相談役)で、なかなかの学者です。
二見 自販のメインバンクをして頂いているし、よく存じ上げていますが、大変なお家柄で、足利時代までは先祖の資料的文献的裏付けがあり、その前は言い伝えになるそうです。
―― お顔が違いますね。
二見 そう、冠を着ければよくお似合いになりそうな、この世のものとは思われないようなお公卿さんの顔ですよ。ああいう端正な顔立ちには憧れがある。やや口惜しいけどね。(笑)
―― 全く同感です。湯島聖堂本体の会長の徳川恒孝(つねなり)さんは家康から数えて18代目の徳川宗家の当主で、こちらは甲冑を着ければピタリと決まる大将軍の風貌です。トラックとは全く違った世界に首を突っ込んでいると、仕事の上ではお目にかかれないような方とお会いできて、いい勉強になります。
 まあ、ああいうお家柄の方々は何代も永い年月をかけて、それらしい風貌になったり挙措(きょそ)動作ができ上がるんで、真似してできるものでもありません。
 しかし、社長ともなると、またそれなりにお家柄と関係なく変わってくるんじゃないですか。
二見 さる商社の方が、お前は取締役企画部長あたりまでは面白かった、社長になってからはつまらない、というものですから、当たり前だ、社長になってまで面白いこと言ってたら会社がおかしくなっちゃう(笑)と言い返してやりました。
―― たしかに、軽はずみな言動は許されんでしょうが、謹厳実直慎重ばかりでも困ると思いますね。
 大変な時期に差し掛かっているだけに社長の采配は重要ですが、生地(きじ)のままでいかれたらいいんじゃないでしょうか。
 お忙しい中を有難うございました。

(注1) 幸田文『父・こんなこと』新潮文庫
……父は孔子様をえらい方だと敬語を使って云うが、私には孔子より父の方が絶対である。その「絶対」が、えらい孔子様をしょって頭の上へ落ちて来るのだからたまらない。……

(注2) 桑原武夫『論語』筑摩書房
……孟子反は敵をささえて味方の敗兵を一人残らず収容し、さて最後に首都の城門をくぐろうとしたとき、みんなの拍手にこたえて、「いや私はあえてしんがりをかってでたわけではありません。なにしろこの馬が走りませんので。」そういって馬に鞭をあてた。その功に誇らぬゆかしい情景を孔子は記録しようとしたのである。……



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みなさん さようなら

2018.02.08 06:13|社長の軌跡/人に四季あり
1995年(H7) 月刊「NewTRUCK」 10・11月号
社長の軌跡

日野自動車工業(株) 取締役社長 二見富雄氏 ②

増田 荒川さんの後、技術畑の深沢さん(俊勇氏)が社長をなさって昭和62年に自販の社長を経て自工の社長に就任されました。荒川さんの当時とは全く状況が変わってきた日野をどういう方向に持って行こうとしておられるのか、いま大切な時期ですが。
二見 トラック、バスも含めてヂーゼル車の社会的な有用性の認識は全社員がちゃんと持っているし、将来とも必要である、これもわかっているのですが、社長就任の頃の印象としては皆疲れ切っているな、という感じでした。
 なぜかというと、ヂーゼルに対する社会的な要請、規制が物凄く強いわけです。
 燃料の効率性の点から言えば、ヂーゼル車の方がガソリン車より高い。CO2の問題の対応ならヂーゼルの方がいい。CO2というのはグローバルな課題なんです。ところが、ヂーゼル車の問題とされているNO2はローカルで、ある地点、ある時点で蓄まってしまうことによって大気汚染とかいろいろな問題が起こる。
 NO2とか黒煙とか煤とかいったものを技術的に解決してゆけば、有用な内燃機関として生き続けられる筈なのですが、ひとつクリアしたと思ったら、どんどん次の規制が追っかけてきている。物凄い国内の販売競争の中ではシェアだと尻を叩かれる。海外展開にしても、各国、各地方で事情は違うから、それぞれ市場調査しなければならない、技術屋も、販売の方も皆疲れ切っちゃっていました。現状でもさしたる改善が見られません。
―― たしかに、疲れ切っているという感じがありますね。これは日野自動車だけでなくて自動車業界全体に言えるように思います。トヨタ自動車の豊田達郎前社長の病気降板もそのあたりに原因があるんじゃないでしょうか。
二見 豊田前社長にはご病気になる少し前、上海でお会いしました。たしかにその前後のスケジュールはオーバーだったようです。ご病気が快復して復帰されると思っていたのに残念です。
 うちの若い人達の胸を叩くと、先輩達がガンガン働いて、日野自動車をでっかくして沢山の車を売っちゃった。それで公害だとか、シェアだとか、海外だとか、課題ばかり残して、その後始末を俺たちがやらされているという気持ちもないではないんですね。
 それに対して、諸君違うよ、そうじゃないと思う、と次のように話しています。
 この世界になくてはならない道具としてのトラックの、内燃機関としてのヂーゼルをやっている。それについて一生懸命取り組むことは決して尻拭いではなくて、何か新しいものを生み出していることなんだ。そう思わないとやり切れんだろう。そういう気持ちに切り替えなければならない、ということを喋っている間に、企業の理念を作ろうじゃないか、新しい価値を創造し続ける企業でありたい、それでいこうとなってきました。
 我々の前に聳え立つ規制をハードルとは思うまい。ハードルと思えばこそ、なるべくスレスレに飛び越して儲けようとか、なるべくうまくチョロまかしてギリギリのところで掻き回してやろうとなるので、そんなことは考えまい。
 将来に向かっての新しい価値の創造のための努力であると考えて、それに一生懸命、どこの誰よりも上手にやれるよう取り組もう、これは生存競争だからやらなければならない、そういう風に考え方を変えよう、と言い続けてきました。
 トラックのコンセプトにしても、美しいトラックにして、デザインも上物も含めて美しいものにするのは勿論、排出ガスや騒音も含め、地球環境に優しく、街の景観に調和するトラックなりバスなりを送り出していこう。
 宣伝にしても、丈夫で長持ちと言うだけでは駄目だと、8年間取り組んできました。かなりこのことは浸透してきた気がします。
―― トラックは美しくなければならないというのは私の方でも言い続けて、商業車デザインコンテストを開催したりしました。メーカーでは日野さんが先行していましたね。
二見 ともかく課題が多すぎて、あれもやらなければこれもと、人やカネで詰んじゃう話になる。そんな高いクルマは売れない、そんなに豪勢な投資をしたって回収できない、となると全部が詰んじゃいます。
 はじめのうちは詰んじゃう話ばかりだったのが、3年ほどしてから、どうせ詰んじゃうんだったら、今、日野にとって一番大事なことは何なんだの優先順位を決めて、その実現のためのオプションをいろいろ設定して、皆で議論した上で経営的に見てそこから手をつけようと決定する。そのためには我慢をして貰う部分もあるかも知れないが、経営全体から見ての整合性を求めていく動きが出てきました。
 長期規制をハードルとしてではなくて企業としての体力なり体質を強化するための契機、試練の場としてとらえようとしているのが日野の現在の姿です。

対応型と発見型の勝率へ
望みたい企業文化の確立


―― モーダルシフトが盛んに言われています。トラックが貨物の陸上輸送の主役の座を降りることは近い将来にも絶対ないといえますが、必要不可欠の道具だからといって、規制の強化やシェア争いに追われっぱなしでは、何か淋しい気もします。この点については。
二見 トラックの移動のための内燃機関のエネルギーが天然ガスや原子力にとって代わられることになるとしても、それは遠い未来の最後の手段で、やはりヂーゼルに頼らざるを得ない。
 だからといって、日野自動車がトラックだけにしがみついていいのか、トラック・バス、トヨタ、輸出の3本柱はわかるが、それだけでは夢がない、ということで社内部課長と40回近い集会を持ちました。
 あまり飛び離れたものでも困るが、価値観のあるものでもいろいろあるのではないかと、エンジンを利用したマリン事業、マリン用のエンジンとか、デザイン提供会社、物流コンサルタント会社、大きいトラックの立体駐車場など、いくつかの案が出た。
 その中でいくつかの戦略子会社を作って、そこへ出たい人は手を挙げてと、出て貰った人もあります。3年くらいで芽を吹き出したところもあれば、どうも駄目だ、いやもう一年待って下さいというのもあり、様々です。
……
 フォーラム21といって部課長中心の勝手に喋る会があって、自由気ままにやれと言っているんですが、休暇の取り方にしても一生懸命に遊ぼうとする。何か違うんだなァ。有意義な休暇を過ごさねばならぬとか。オモチャでもゴロ寝でも何でもいいんじゃないか、と言うんですがね。
増田 私はトラック文化と言っています、企業文化も必要だと思いますね。その点で、オール日野の文芸同人誌だった『白沙(しらすな)』が荒川さんの追悼号の第24号で打ち切りになったのは残念です。もっとも寄稿者は年輩者、OBとその家族の方ばかりで、このままではと思っていたのですが。
二見 若い人がいない、日野の情操枯れたりの感じもありますが、荒川さんが出来過ぎていて、恐れをなしたという面もあります。
 たしかにおっしゃった企業文化というものの必要性は痛感します。
 ただし、社長になってからの私はむしろ日野の企業文化の反逆児ではなかったかという気がしないでもない。暗くなった時、ひとり明るいことを言ったり、
 家貧しくして孝子出づ、とか我に七難八苦を与えたまえといった人ばかりの感じで、そうではなくてもっと前向きに楽しく明るくいこうという企業文化に変えたいというのが、先ほどお話ししていることです。
―― やはり日本の企業風土なり、企業文化には刻苦勉励型というか、骨身を惜しまずに会社のために働くのを美徳とする観念がしみついていますね。これにリストラだとか、価格破壊とかが加わってますます窮屈でゆとりがなくなっているように感じます。
 刻苦勉励は否定することではありませんし、生存競争には必要かも知れませんが、そこから抜け出たものも欲しい、そうでないと自由な発想も出ないのではないかという気がします。
二見 やはり刻苦勉励型の考えは強い。そういう風に育ってきた人がいっぱいいるから、いま自主的に選択する空気も出てきたと言いましたが、一般的にはなかなかそこまで到達していない。
 荒川さんは仕事の方も大変な方でしたが、そこからピョンと飛び抜けたところがありました。鈴木副社長(孝氏)も紙のヒコーキ模型づくりに熱中したり、『白沙』にしても俳句の仲間が何か出したいと荒川さんのところに相談に行くと、俺も書くよ、と言って一生懸命書いて下さいました。そういうトップもいらっしゃらないし。
(つづく)


   

みなさんさようなら

2018.02.05 00:00|社長の軌跡/人に四季あり
前々回(1月29日)、2007年1月25日肺ガンで亡くなられた元日野自動車社長、二見富雄氏の『幽冥録』をお届けしました。
平成7年10・11月号『社長の軌跡』に登場してくださっていますので、3回に分けてアップします。2号にわたって『社長の軌跡』記事が載るのは珍しいことでした。二見氏のお人柄もあって、お話が弾んだのでしょうか。(妙)


1995年(H7) 月刊「NewTRUCK」 10月号
社長の軌跡

日野自動車工業(株) 取締役社長 二見富雄氏 ① 
日野 社長
       写真右: 「第2回モーターショー」日野展示場の前で 写真中央 (昭和30年5月 日比谷)

日本橋生まれの五反田育ち
理科から法学部転身日野に


増田 年頭早々の松方さん(正信元社長)、2月の荒川さん(政司元社長)のほかにも、日野自動車の歴史を刻まれた方々が次々に亡くなられて、年明けからしばらくは大変だったでしょう。
二見 黒い服を脱いだり着たりのお葬式が続いて、本当に何となく淋しいですね。仕様がないといえばそれまでかもわかりませんが。
 お陰で社葬のマニュアルは完備して、その内規もできました。少なくとも自分は社葬には絶対ならないようにと思って。
―― 先輩の方々が日野はもう二見さんに任せて大丈夫だと申し合わせていち時に逝かれたような感じもします。
 ほかの方は余り存じ上げないのですが、荒川さんにはじっくりとご一代記をお聞きしましたし、碁も教えて頂きました。
 二見社長は荒川さんの秘蔵っ子と言われたこともあるそうですね。
二見 自販の社長になった時、ある新聞記者に書かれて、何であいつがと物議をかもしたことがあったと、後で聞きました。もちろんそれはなかったのですが、入社以来、荒川さんの下で仕事をすることが多かったのは事実です。
―― 荒川さんについては後でお話も出る筈ですから、日野に入社されるまでのことを簡単にお聞きします。
 昭和2年(1927)東京のお生まれです、代々の江戸っ子で。
二見 まことに出自定かならずで、先祖で遡れるのは私の親のそのまた親あたりまで。父親の方は徳島の出らしく、母親はどうやらひどく落ちぶれた家の娘で養女に出されたりして苦労したようです。
 お前は日本橋北島町で生まれたんだと言っていましたが、この町名は現在はなくなって昔の人に聞くと茅場町何丁目あたり、今は高速道路が入り組んでいるところです。
 生まれてしばらくたって、教育上環境よろしからずということで、郊外の五反田で育ちました。
―― 孟母三遷のようなえらいお母さんだった。
二見 それはどうか。時々、日本橋に来ると、近所の小母さんが富ちゃん、東京にきたらまたお寄りよ、と言ってくれたりしたんで、アレ俺の住んでいるところは東京じゃないのか、と考えたり、まあ江戸っ子とは思いませんが、「ヒ」と「シ」の区別がつかなかったり、どうも江戸っ子の悪いところは受け継いでいるようです。
―― 荒川さんは江戸っ子でしたね。
二見 深川生まれの本モノでした。出自もチャンとしていまして、あなたは川向こう、私はこちらと言ってみたり。(笑)
―― 隅田川の東側を川向こうと昔は言っていました。旧制高校の理科甲類から東大の法学部というのは変わってますね。
二見 おかしいと皆さんに聞かれるんですが、戦時中の理工系の学校には徴兵猶予があって兵隊に行かなくて済んだ。命惜しさに理科を選んだようなものですが、戦争もすぐ終わってどうも俺は理科には向いていないし、怠けていたから大学の理学部へは入れそうもない。(笑)それで、2年浪人して、法学部なら論文と英文の和訳だけで、和文英訳は出ない。これならいけそうだということで理科から法学部へ入りました。4修で1年早く高校へ入ったのに較べると3年、新制大学になると4年もの遅れの社会人です。
―― 相当なマイペースですが、終わり良ければすべて良しですよ。
 日野を選んだ理由は。
二見 どんな会社かよくわからなかったが、繊維なんかよりトラックやバスの方が俺には合いそうだという感じはありました。紹介してくれた人が荒川さんに会えというんで挨拶に行ったら、ラバソールの靴なんか履いた威勢のいいオジさんで、お前も東大か、俺もだという調子で。
 あの人も何かのハズミで日野に入ったんで、青雲の志を抱いて入社したとは思えない。(笑)
―― ご本人も教授が推めるから入社試験受けたんで、何をしている会社かよくわからなかったとおっしゃってました。
 そういう人の方が出世して、会社の運命を担うようになるケースも多いですね。
二見 入社してみて、こんなものかと思いました。まあ、ゲームみたいなもので、あいつよりもうちょっとうまくやろうとか。それでいて給料も出るんだから結構楽しいゲームであるし、言いたいことも言わして貰っていたから、世間一般からすると、高からず低からずの給料であっても俺にとっては高い給料貰っていることになるなと自ら慰めたりして。(笑)
―― 初任給は。
二見 私の入社の昭和28年で8千円から9千円の間、初任給が1万円を超えたのは昭和30年代に入ってからだと思います。

荒川さんの薫陶を受けて
総務部長から長い企画畑


―― 経歴書を見ると企画畑が長かったようですが。
二見 入社してすぐ配属されたのが、総務部庶務課文書係。荒川さんは当時すでに取締役で総務担当でした。
 時あたかも商法改正があった頃で、法律学科出たのだから新商法に基づく定款の改正をやれといわれビックリ。そのうちに株式実務の方に廻されました。
 4年ほどたったら今度は販売に行け、です。ルノー販売というのがあって、ヂーゼル販売と合併して日野自動車販売になったんですが、販売のことはわけがわからんのに、各地の販売店さん廻り。当時は販売についてのノウハウも確立しているわけでもなく、言ってみれば走り使いのようなものでした。
―― 総務を出て販売を担当されたのは良かったと思いますね。総務だけでは頭が固くなってしまいます。
二見 販売に7年ほどいたら帰って来い、で課長で戻りました。それから昭和55年に自販に出るまで、海外企画も含めてずっと企画です。
―― 具体的には何をしたところで。
二見 当時はまだ企画という名のつく部門は珍しい頃でしたが、日野にも作ろうじゃないかと荒川さんが言い出して、何人か集められた。そうしておいて、何をやるか考えろと言うのですから。(笑)
 長期、短期の経営計画から、商品企画まで含まれたものになる筈でしたが、それを組み立てる組織も何もない。大学の先生の本を買ってきて一生懸命読んで計画を立ててみても、そんなものは何の役にも立たない。今みたいに、下からずっと積み上げて5年くらい先のことを考えようというニーズもない頃でしたが、そういうモノの考え方が必要になってくる、そのための予行演習をやり出した、ということから始まったんだと思います。
 商品企画にしても、将来はプロダクトアウト的な、こんなクルマが売れるだろうと設計屋が考えたものを販売が売るやり方より、向こうが欲しがっているモノを考えて作らなければならない。その仕組みを作ろうと、製品企画委員会という組織ができたりしました。
 それで市場調査をやろう、お客さんからヒアリングしよう、アンケートを取ろうとすると、ディーラーの方ではお客のことは我々が一番よく知っている、俺たちの言うクルマを作ればいいんで生意気なことをするな、とか散々に言われたこともあります。(笑)
 そういうことをまるで何もやっていない頃ですから、逆に言えば、面白いといえば面白い。
―― 今でもディーラーがお客のことを全部知っているとは言えんでしょう。お客の方の意識がディーラーよりずっと進んでいる場合も多いですよ。
二見 それにしても上司の荒川さんの人使いは変わっていました。これこれの書類を明日までに作っておけ、と言われる。荒川さんにどこの誰に何の目的で出すのですか、目的と方針がわからないと仕事のしようがない、もうちょっと具体的に、と質問すると、それを聞くな。(笑)
 ちゃんと理由あってのことなんですが、トヨタとの提携の場合などもそうでしたが、最終的にとことんのところで、絶対に誰にも喋っちゃいかんぞ、と念を押されて教えてくれたこともあります。会社の存亡に関わることだからと言われると、なるほど厳しいものだなと感じたものです。
―― 荒川さんは、我々は松方という鵜匠に操られている鵜みたいなものだったとおっしゃっていました。荒川さんご自身も鵜匠だったんでしょう。
二見 荒川さんの謙遜した言い方だったと思いますね。確かに荒川さんから見れば松方さんは鵜匠であったかも知れませんが、松方さんは方向を定めて行けッと言うけど、細かい調整とかネバネバした問題は全部荒川さんがやっておられました。荒川さんのほかにも、高田さん(亮一氏)、家本さん(潔氏)などそうそうたる方がいらして、結構あやなしてやっておられたという感じでしたね。
―― その荒川さんの下でみっちり経営者としての薫陶をうけてこられたのだから、いい師匠に恵まれたということでしょう。
二見 育てて頂いたと感謝しています。
 考えてみると、上司から見るとひどい社員だったし、親から見るとこういう子は嫌でしょうし、教師としたらこんな生徒はご免こうむりたい。(笑)
 荒川さんから、この会議にあいつは出すな、うるさくてしようがないと言っておられたと聞いて、それじゃ楽でいいやというようなこともありました。それがここまで勤めさせて貰ったのだから、仕合わせであったと感謝しています。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.11.06 04:28|社長の軌跡/人に四季あり
1991年(H3) 月刊「New TRUCK」11月号
社長の軌跡 24

空への夢から地上に
日野車体工業 山内一郎社長
New TRUCK1991年11月号
増田 日野のグループでは、荒川さん(政司氏 元日野自動車工業社長 現相談役)とこの本で何回か対談しました。こちらの方は岡本さん(利雄氏 元いすゞ自動車社長 現顧問)とか現役を退かれた長老からお話をお聞きするシリーズですが、今日はバリバリの現役社長とお話するシリーズの方で。
山内 もうそろそろ老兵は消え去る時期かなと思っているのですが。(笑)
―― まだまだお若い。何年のお生まれですか。
山内 大正13年、ちょうど67歳で、干支(えと)でいえば甲子(かっし きのえね)一番始めです。
―― 私は2年あとの大正15年丙寅(へいいん ひのえとら)生まれですが、大正生まれの現役社長は段々少数派になりましたね。しかし、60歳代はて経営者として脂の乗りきったいい年代だと思いますよ。ずっと東京ですか。
山内 都内の大田区の生まれですが、本籍は山形県で、旧制の山形高校に3年いて東京に戻って東京大学の第二工学部航空原動機科に入学、終戦で内燃機関学科に変わり、空を飛ぼうと思って入ったのに、日野へ昭和21年入社して地上に降りたまま45年が過ぎました。
―― 日野重工の時代ですか。トレーラのバスなんかを作っていましたね。
山内 私が入社してすぐ日野産業になったのですが、トレーラを10台まとめるといって、皆がわいわいやっていました。
―― 東大出身のエンジニアということで大事にされたんでしょう。
山内 とんでもない。入ったばかりは実習で、ボーリングという機械について、工員さんがバイトをセットしてくれて送りをかけて、切削油をそこへかけるという先手の仕事から入りました。
―― ボーリングは私も学生時代の勤労動員で使いました。穴開けの機械です。
 あの当時、トレーラの発想があったとは凄いですね。
山内 外国にはいろいろあったでしょうが、戦時中に日野重工では兵員輸送車の戦車まがいのようなものをやっていて、エンジンや足回りはある程度の技術を持っていた。それを使って何かやろうとなって、トレーラのバスやトラックになったと思います。

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みなさん さようなら

2017.08.24 07:25|社長の軌跡/人に四季あり
今回は、貴重な記録が綴じられた『輸送に生きた五十五年 私の奉公袋』から、まとめとして3つを抜粋しておおくりします。本著は父も校正作業のお手伝いをしたようですが、終戦から72年経つ現在、実体験として戦争について書ける人も校正できる人もごく少なくなりました。
「昭和初年からハンドルを握って運輸業に従事し、トラックの近代化に生涯を捧げた明治生まれの前田さんのような人物が、もう現れないことを考えると、トラックの、ある時代が終わったことを実感させられる…」(2006年10月号 NewTRUCK)
「95歳にもなった前田源吾さんだから、お別れの覚悟はできているはずだったが、日新出版36年の歴史の大きな部分が消えた感がする」(2006年9月号)
と、前田源吾氏のご逝去(2006年8月13日)を嘆いた父でした。(妙)


(第10章 私の信仰   付 私の行)
● 他力本願と自力本願
 私は人に語れぬ苦労をして育った。そうして人では何ともならない中を自ら道を求め、やがては「誠心こそ神の心なり」と一つの理想を自らのものとして心に留めた。
……「花の嵩」は岩が御神体であり、沖の島は島全体が御神体であり、一木一草たりとも手を触れることもできず、島のことを語ることも禁じられている。
……
 門徒である私がなぜ自力本願他宗派のように自ら厳しさを求めることになったのか。他力に頼っていたのでは自分の生命は続かなかった。私は母親の愛を知らないからどうしても我が強かった。現役免除という烙印(らくいん)を押された時に「俺が…」という我があっては自分の体は持たないことを自覚し、我を捨てようなどと思っても仕方ない。果報は寝て待てと半年の静養、ようやく自信を持ちかけたが体力の回復を待たずに応召。後年30歳の大晦日に弱さのために何物かに頼る心があったが、頼るべきは自分だ、人には嘘を言っても自分を偽ることはできない。今日から自分を律し、自力で生きて行こうと決意し自力本願にはっきり替えてからは、一段と物事を厳しく考えるようになった。そして信仰とは何か、極点に立たされた時、うろたえないこと、そうして決断ができること。こうして愛陸3度の危機に際し、常にひらめきと決断ができたのである。

● 修業のまとめ
 父曙次郎の最後は綺麗だった。31歳にして妻を亡くし、3人の子供を抱えて泣くにも涙さえ出なかったことと思う。アイデアに富み、横笛は天下一品。8人姉弟の末っ子、田舎としては気楽に育ったと思うが妻を亡くした父親は末っ子の甘さというものを全然なくしていた。厳しさ一点張りで頭をなぜて貰った覚えは全然ない。ほめられた覚えも全然ない。それだけに父親に対しては反(そ)りが合わなかった。その父も子供を甘やかすことは全然しなかったが、子供に甘えることは知った。女房がよくつとめてくれたので一番親不孝者のところへよく来てくれた。親父の顔を見ると私はやさしい言葉が出ないので、お前が私に替ってつとめてくれと、妻には口グセの様にたのんでいた。昭和46年、88歳の秋2週間ほど私の家に滞在、帰ってからは畑の牛蒡(ごぼう)を掘り、これは兄義雄のところ、これは源吾のところと仕分けして藁でしばり、教太郎さんという隣の老人に託していた。
 床に就いて2週間ぐらい、下の世話になったのが2日。すべてのものの整理をしたが、押入れが苦になるから掃除をしてくれと家内がたのまれた。丸い缶の目張りしたものが出てきたので、これは何かと尋ねたところ、「それは俺の葬式の時に使うお茶が作ってある」と言う。妻とこれにはおどろいた。人はいつまでも生きることしか考えていないのが現在の世相であるが、私もここで初めて親父を見直した。人はこうありたいものだ。修業をして最後の目標は何か「死を前にして心の迷いのないことだ」。昔の人は偉い。老病死は人とし生きとし生けるものとして避け得られないものであることをよく知っていた。必ず辞世の句というものを残している。息絶える直前にはそれだけの行為はできないはず。常に世を去る時の心構というものを句に託していたのではないかと推察する。
 祖母は、昭和3年11月4日に亡くなった。父もその4日までは持つと思っていたが、脈は弱く衰弱が進んだ11月1日に昼ごろ家内が「おじいさん、もうぼつぼつ念仏でも出ないかね」と話しかけたところ、「まだ早い、今日一日は持つ」と答えたが、これが最後で、静かに呼吸をし「誰々が来たよ」と伝えると静かにうなずいていたが言葉は出なかった。午後2時12分、一寸口を開いた。それから兄妹が騒ぎ出したが私は「口を少し開いた時が最後だ」と皆を納得させた。実に立派な大往生だった。葬式は村に例のない程立派な葬儀を出させて頂いた。

 10年後の今日のDIARYの巻頭に
① 息の切れるような仕事をしないこと
② 午前中2時間、午後3時間以上の重労働をしないこと――と書いてあるが、先日も庭木を移し重労働1日15時間働いた。業界に入って御世話になり薫陶(くんとう)を受けた小西与吉さん。そして仲田光三郎さん。中西与一さん等も物故され、一昨年は小笠原冨次郎さんと大将格の方々が次々物故され、一番若かった私が71歳と6ヵ月。いつの間にか年長者になった。ほどほどにしておかないといけない。

まえがき
 私の厳しい人生は、2歳10ヵ月にして母親を失ったことから始まる。祖母むらが背中をなでてくれた以外は、人の愛情を感じたことはなかった。
 父は厳格、8歳のときから大八車の先綱を引かされ、夏の間中、田の草取りを行った。雪の朝も雨の日もひたすら前進あるのみだった。百姓の父親がこれからの運送は自動車だと気がつき、昭和3年の春、28年式のシボレーを買い入れた。そのときから、苦労を共にして育った兄義雄と2人が、自動車の道を踏み出した。
 兄は昭和4年兵、私は昭和7年兵、同じ連隊の同じ中隊に入隊した。私はトラックで鍛えた体、力は中隊一番、自動車の成績は連隊2番だったが、猩紅熱に罹って死線をさまよい、そして伍長のとき現役免除となった。生きる力を全く失った私は、一歩でも前に出て死ぬことを考えた。人生目標を生から死へと置きかえたのは、このときであった。
 そのときから静養期間を含めて2年後に召集令状が来た。よき死に場所を得たりと何一つ未練のない白紙の状態で、奉公袋片手に応召、飛行隊の自動車班長として実務を指揮、そうしてよく勉強した。零下30度の北満の露営、ノモンハン事件のときの111日の天幕生活、やがて中支へ転戦、辛酸に耐え抜いて凱旋した。しかし、戦況は厳しく、輸送も決戦体制に突入、民間戦士としての再度の奉公も空しく、名古屋はもとより国内の主要都市はB29の猛爆にさらされ、焼野原を残して戦争は終結した。
 しかし、一日たりとも休むことができないのが輸送である。国の復興は輸送から……と息つく間もない日常業務にとりくみ、その過程でドッジラインをはじめ数次の経済危機にも見舞われた。加えて大株主から見放され、つぶせとまで言われた愛知陸運を引き受け、高度成長の波に乗って5年間に約5倍の成長を遂げたが、39年には再び危機を迎えた。
 いわゆる激動の昭和の時代に幾度か死に直面し、試練に会い、深刻な経済危機を体験しながら、反面、行き詰まったときには必ず道が開けた。そして、どん底に落ちたときこそ、立ち上がりが早いことを体得し、いやいやながら進まねばならぬ道は必ずあとで、それて行くことを会得した。若いころ、世の中を逆に渡ってやろうと実行しているときに、神仏の御縁に会ったことは、私の人生に厳しさの中にも潤いをもたらした。窮地に立ち、極点に追い詰められたときは必ずひらめきを感じ、決断できた。
 例えば、「満鉄」からの卸下作業など人間業(わざ)では不可能なことを常に神仏に導かれて、実現することができた。さらに、平時、戦時を問わず、55年間を車と共にすごしたことは、自分の生き甲斐であった。私は学歴とは無縁の人間だった。その代り、現実の経験を積み、これを記録して自分の身につけるため、1,000冊近いメモ、記録、ノート、ファイルの中に埋もれてきた。
 自動車を愛し、自動車に愛され、水呑(みずのみ)百姓の次男坊が今日このようにして社会奉仕ができることは、神仏の加護と、私をとり巻く多くの人々のご支援の賜と感謝にたえません。
 拙(つたな)い人生ではありましたが、打たれても踏まれても、はい上がり立ち上り七転八起の生きざまを印したく、書かねばならぬと思い続けて数年がすぎ、書き始めてから脱稿するまでに3年有余をついやしました。かつては人生の目標を死と定めた者が、一念発起、「輸送に生きた55年 私の奉公袋」として生き続けた足跡を綴る結果となり、恥ずかしさひとしおの感がありますが、あえて皆さまのご高覧・ご高評を戴きたく存じます。
(昭和58年7月3日)


あとがき

 かつて行を共にした軍隊現役時代の飛一会では174名が戦病死、八日会では岡部戦隊長以下668名が戦死(編成時680名)、応召され死を決した時から私の第二の人生が始まった。
 死を決したら死すべきだ。生きて記録など書いていることはナンセンスだ。しかし戦友の分まで、我々が国のため社会のために尽くさねば…というのが戦友会の心意気だ。毎年一同、靖国神社に昇殿参拝を行い、亡き戦友の冥福を祈り、自らの姿勢を正し、命ある限りは社会に奉仕を続けて行く。
 瞑目して過去を振り返れば、加藤三郎先生、今は亡き相場信次先生、徳永中隊長殿、片山大尉殿、小沢軍医殿、伊藤隊長殿、加藤曹長殿、小西与吉氏、仲田光三郎氏、小笠原冨次郎氏、中西与一氏と…、多くの方々の面影が目に浮ぶ。
 そして、60余の公役職に毎日東奔西走しているが、あと残された仕事は以下の二つにしぼられる。
① 業界は永年近代化を進めて来たが、いよいよ最後の仕上げ、総合型構造改善事業の達成と全国ネットワークシステムの完成へ。
② 車両の大型化とトレーラ化、20余年の取り組みに基づき運政審答申の実現を期し、省エネ・低公害適法輸送体制の確立へ。
 この二つの事項を重点として、私の最後の仕事としたい。字数にして50万余字、400頁余、永年の懸案であった脱稿を前に、昨日は田舎の畑に行ってファイル記録360冊、約半分近くを焼却、思い出の1頁毎を自らの手で焼葬した。
 仕事の重点目標を前記の二つにしぼることにより、運輸事業助成交付金等課題難問が多い中でも過去の厳しさは少しずつ忘却していかなければいけない。
 それにしても、資料が多過ぎ、1行書くためにも資料の山を掘り返し、行きつ戻りつした。70年の事実を一文に表すことは、我々文盲に等しい者には不可能なこと。今になって読み返してみれば、過ぎ去った事実を、そのまま記録したに過ぎない。書くことは私どもには苦手だ。それでも書き終われば、肩の重荷がおりるような気がする。
 私の人生は余りにも厳しすぎた。それでもよくこれまで耐え抜いたものだと我ながら感心する。余生は信仰と自然を共に、自己の個性のままに最後の緞帳(どんちょう)を静かにおろしたいものである。
 資料を提供して戴きました八日会の花輪久夫さん、ノモンハン会の堀田堅一さん、編集、その他格別の御高配を頂いた大宝運輸(株)二世小笠原和俊氏、輸送経済新聞社の皆様方に感謝申し上げると共に、天に地に、神仏に、国に、人に感謝を捧げて稿を閉じる。
(昭57.8.19 本文脱稿)

 
プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさんさようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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