みなさん さようなら

2004年(H16) 「論語之友」 5月号

徳治と陰徳
狸オヤジ家康と懐刀の前奏崇伝が禅僧たちに与えた論語の宿題

 昨年から今年初めにかけて、東京国立博物館では「鎌倉―禅の源流展」(6月~7月)、「大徳寺聚光院の禅絵展」(10月~12月)、そしてこの年初めから「南禅寺展」(2月29日まで)と、立て続けに禅宗にまつわる大型の特別展示会があった。
 「南禅寺展」は、駆け込みで25日の開館と同時に入ったが、すでに相当の人が入場を待っていて、禅もしくは仏教に対する関心の深さを窺わせた。その前には「西本願寺展」(昨年3月~5月)があったのだから、平成15年度の東京国立博物館の特別展示は、ほとんど仏教関係であり、さらにこの4月から5月にかけては「空海と高野山展」の開催が予定されている。仏教寺院の日本文化に占める地位の大きさを示す例だろう。「南禅寺展」で、「水呑の虎」などの有名な展示物に多くの人が注目していたようだが、私は詩文を貼り混ぜた屏風の前に釘付けになった。

 徳川家康が晩年、駿府に禅宗の各寺院の僧侶を集めて、論語の、
子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。」(子曰わく、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰(ほくしん)その所に居りて、衆星(しゅうせい)これに共(むか)うがごとし。)
の章を示し、その解説を2日後に詩文にして提出せよと宿題を出した時の回答である。おそらく、後で清書したものを貼り合わせたのだろう。なぜ、これが南禅寺展に出品されているのかと言えば、家康の傍らで幕府の政策立案に大きく関与した以心崇伝(いしんすうでん・金地院崇伝の方が有名)が、南禅寺の住持でその塔頭(たっちゅう)金地院に住み、駿府、江戸にも金地院を建立して、その南禅寺塔頭の金地院にこの論語の章の解説詩文貼り合わせ屏風が伝えられたのである。

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会津若松9623
                   会津若松城と武家屋敷 (平成17年12月23日 撮影)

『関西師友』 昭和48年3月号
発行所: 関西師友協会
編集兼発行人: 伊與田覺

先学余芳・6
「会津士魂」 増田周作  

2冊の本
 明治維新100年を記念して各種の行事が開催された頃、関西師友協会でも河内師友会の山本重文氏をチーフとする研究会が生まれ、筆者もその一員として参加した。筆者は幕府側から見た維新史をテーマとして取り上げた関係上、いろいろな史料を渉猟(しょうりょう)したのであるが、その中でも特に興味を惹いたのは次の2冊であった。

・ 昔夢会筆記 渋沢栄一編   大久保利兼校訂
・ 京都守護職始末 (旧会津藩老臣の手記)  山川浩著
(いずれも平凡社刊行の東洋文庫に収録)

 前者は旧幕臣で、明治、大正、昭和の3代にわたってわが国の経済界に君臨した渋沢栄一が、旧主15代将軍徳川慶喜を囲む史談会を明治40年から大正3年まで前後26回にわたって開催したものの記録であり、渋沢栄一はその殆んどの会に出席しているし、質問者は若手の史学者であり当時の関係者も陪席している。その中には国語学者新村出博士の養父であり、慶喜股肱(ここう)の臣の一人で後にその家扶となった新村猛雄の名もある。この記録は幕末の錯雑した政争の中に生き抜いた慶喜その人の語った史料として非常に貴重なものであるとともに、旧主の正しい姿を後世に伝えようとする渋沢栄一の美しい心情の発露ともいえるものである。なお慶喜は大正2年11月、77歳で歿しているが、死後5年を経た大正7年にはやはり渋沢栄一の編で厖大な徳川慶喜公が刊行されており、慶喜伝というより幕府側からみた幕末史の役割を果たしている。この昔夢会筆記の今回の刊行にあたって校訂者となった大久保利謙(としあき)氏はその名の示す通り明治の元勲大久保利通の孫に当る人で、日本近代史の大家である。利通は西郷隆盛とともに徳川幕府を倒した中心人物であり、慶喜は長州は許せるが薩摩だけは、といっていたそうで、このあたり、まことに興味深い。

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父が綴じてあった『関西師友』3月号に、よく知られた論語の言葉で安岡正篤先生の講義記録がありました。
(昭和48年『関西師友』3月号 №173 掲載 原文のまま。 妙)

発行所: 関西師友協会
編集兼発行人: 伊與田覺
「続 論語読みの論語知らず(三)」 安岡正篤
(本文は昭和47年9月開催の先哲講座に於けるご講義の筆録であります。)

 放於利而行多怨 (里仁)
 利(り)によっておこなえば怨(うらみ)おゝし。

 人間は利益本位にやると、必ずいろいろの怨みが起る。一利あれば一害ありで、利というものは案外難しくて、厄介なものです。利を追求したからと言って、誰にも利が得られるというわけのものではないし、逆にとんでもない怨みを買う、そもそも自分自身怨まねばならぬことも世の中にはざらにあることであります。これは人間というものに通ずれば通ずるほど、よくわかることです。

 子曰、道不行、乗桴浮于海、従我者其由也與。子路聞之喜。子曰、由也、好勇過我、無所取材。(公冶長)
子(し)いわく、みちおこなわれず、いかだにのりてうみにうかばん、われにしたがわんものはそれ由(ゆう)か。子路(しろ)これをきいてよろこぶ。子いわく、由(ゆう)や、ゆうをこのむことわれにすぎたり、ざいをとるところなし。

 孔子のような人でも、しみじみと時勢を憂えて、人情の自然で時にはこういう、厭世的と言うか、逃避的な気分にもなる。或る時孔子はこういうことを言われた、「こんなにも道が行われないのなら、いかだにでも乗ってどこかへ逃げ出したいが、その時お供しましょうと言ってまっ先について来るのは、恐らく由(子路)であろうか」と。これを聞いて子路は餘程嬉しかったと見える、「子路これをきいてよろこぶ」。ところが海に浮ぶには乗り物をつくることから始めて何かと準備が要る。そうなると子路だけでは役に立たない。「元気がよくて果断なことは、わしよりも子路の方が勝れておるが、惜しむらくは材をとるところがない、使いものにならぬ」と言われた。孔子もなかなか辛辣です。

 この言葉も今日のわれわれにとって実に身に沁みるものがある。私のところなどにも随分いろいろの人がやって参りまして、中には“こういうことではいかん、何とか思い切った革新をやらなければならん。先生、一つ考えておることを思い切ってやって下さい。私も共鳴していつでも参じます”、そう言って悲憤慷慨する現代の子路的元気者がおる。が、さてそれではいかだをどうしてつくるのだということになると、さっぱりどうも材を取るところがない。

 最近の流行問題で言うと、日本列島改造案というものがそうですね。これはいかだに乗って海に浮ばんの一例です。こんな公害の日本では仕方がない。なんとかして公害のない日本をつくらなければならぬというわけで、どう改造しなければならぬかという抽象的な改造案は始末に困るほどあるけれども、さて、しからば具体的にどうやるかということになると、実に好い加減なものが多くて、空々寂々材がない。改造論どころか破滅論になってしまう。現に、今まででさえ持て餘しておった公害が、公害ではなくて私害になって、われもわれもと公害問題に便乗して、私心・私欲をほしいままにしようという人間がわんさと出て来ておる。或は公害を利用してわいわい騒ぎ立て、そのために警察を動員しなければならぬというようなことが到るところに起っておる。これは本当に難しい問題でありまして、餘程材を選ばなければ出来ることではありません。公害をなくそうとして、却って公害と私害を際限なくばらまくことになる。

 そこで思い起こすのは元の哲人宰相耶律楚材であります。彼は中国五千年の歴史にも類稀なと言われるくらいの大宰相でありまして、この人には私もつとに心服して、大正時代から大いに世に紹介しておるわけであります。あの大平原の英雄ヂンギスカンが当時二十七歳の耶律楚材に心酔して、彼を帷幕に迎えてより、更に次の太宗の時代を通じて三十餘年の間ずっと蒙古の枢要に坐って、実に偉大な成績を挙げました。反面大変な詩人で、又曹洞禅に於ては法嗣の位を取っております。この人の名言と言われるものの中に、これは「百朝集」にもおさめてありますが、

 興一利不若除一害。生一事不若減一事。(耶律楚材)
一利(いちり)をおこすは一害(いちがい)をのぞくにしかず。
一事(いちじ)をふやすは一事(いちじ)をへらすにしかず。

という言葉がある。これはあの大元国建設の準備的大事業の中から生まれた名言でありますが、確かにそうですね。すべて利には害が伴なうから、利を興す前に先づ害を除くことを考えなければならぬ。又軽々しく事をふやすよりは、悪いこと、餘計なことを省くことの方が大事であります。人間、何でもそうですね。身体でも、うまいものを食うことよりも、くだらぬものを出す方が――宿便を一掃する方が――どれだけ健康によいかわからない。日本列島をよくしようと思ったら、新規に何をしようかと考えるよりも、一つでも害を除くことを考えるべきである。これが日本列島を真に救う所以であります。害を除かずして利を興すことは出来ない。利を興そうと思ったら先づ害を除かなければならない。この二つが併せ行われることが大事でありますが、しかしいづれかと言うと、害を除くことの方がより大事であります。

 同様に義と利の問題も、利を追求しようと思ったら、先づ義を正すことを考えるべきであります。それでなければ本当の利にはなりません。中共との貿易にしてもそうであります。日本人は大きな期待を寄せるのですけれども、現実の中共は決してあの厖大な人口に目が眩(くら)んで考えるような消費市場にはならない。建設の面から考えても、今俄に大きな建設をやるなどということは到底出来ないと思われる。大きな建設は餘程政権が安定しておらなければ出来るものでないことは、少しその道に通じておる者ならすぐわかることであります。

 ご承知のように、もう毛沢東は殆んど廃人に近いと言ってよい。その上うち続く妖異極まる粛正の結果、多くの人材が失われ、或は隠れてしまっておる。今残っておるのは周恩来と江青を取り巻くわずかな人間に過ぎない。これが内部の大きな弱点になって、今や蔽うことの出来ない状態にある。そこで対外的に派手な手を打って、その内政の弱点をカバーしようとする。これは中国の歴史に繰返し行われておることです。今日の中共の対外政策はその典型的なものである。だから日本がそういう国に対するには、先づ何が義かということを考えて、落ち着いて形勢を観望することが一番賢明であり、且つ一番堅実なやり方であります。何もあわてて向こうの注文通りに躍る必要はない。躍らないからと言って、向こうが直ぐ日本を侵略するとか、攻撃するとかいうことは実際問題としてあり得ないし、又今日はそういう国際情勢にはない。それこそおっとり構えておってよいのであります。

 この正月、壬子のお話を致しました時に、今年は去年からの続きの問題にいろいろと新たな問題が加わって、これに便乗する野心家が跋扈(ばっこ)すると申しておきましたが、このまま進みますと癸丑には、癸にはご破算という意味がありますだけに、悪くゆくと、今日一応兎にも角にも落ち着いておる安定勢力というものがご破算になりかねない。それは政権の交代を意味する。又対外政策も厳しくなると見なければなりません。恐らく日本はアメリカから、内外の諸問題等に対して相当の変化を強いられることを予期しなければなるまいと思われます。或は経済的には、日本の円はまだ惰性で何とか従来通り保っておるけれども、最近では実際のところ二百四十円位までいっておりますから、いよいよとなると、再び切り上げの問題が現実となって、可成りな衝撃を起すだろうと予測されます。

 このように見てくると、どの問題をとっても、好い加減にしておけないことばかりでありますが、さて、それをどう解決するかとなると、最後はやっぱり材、人材であります。これは各人がそれぞれ自分の私生活に於ても真剣に考えなければならぬことであります。


みなさんさようなら

日新出版は銀座1丁目から移転しました。
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「土佐 すくも人」第8号 1991年版 H3.10.24発行 非売品(東京宿毛会)

安岡正篤先生と幡多 (終わり)

土佐は文の国 儒学の流れ
 土佐は建依別(たけよりわけ)、武の国であると古来言われてきたし、いごっそ、大酒飲みの荒々しい気性が県民性であると思われているが、実際は辺地でありながら文を以て栄えた国であり、その威風は現在にも脈々と伝えられている。
 土佐日記の昔はさておいて、戦国時代から江戸時代初期にかけて儒学の分野での土佐の地位はきわめて重い。
 鎌倉時代から室町時代にかけての儒学は京都や鎌倉の五山の僧侶達による詩文を主にしたいわゆる五山文化が主体であったが、江戸幕府成立による徳川家康の儒教保護と奨励政策によって、武家層の間に朱子学が急速に拡まっていった。
 この時期の朱子学は大きく分けて三つの流れがあった。京都の藤原惺高、林羅山などの京系朱子学、薩摩に興った薩南朱子学、土佐の海南朱子学(南学)である。山口の地で栄えた大内文化の流れの桂庵が薩摩で、南村梅軒が土佐で朱子学を拡めたのだが、薩摩はその後に勢を失ったのに較べて土佐では、忍性、信西、天室、特に天室の弟子に谷時中、さらにその弟子の野中兼山、小倉三省、山崎闇斎によって大いに振るった。特に京都から吸江寺に禅の修業に来ていた闇斎が、谷時中や兼山の指導を受けて仏を捨て儒に入り、江戸期を通じての儒学の巨峰となり、わが国学問史上、きわめて大きい影響を後世に及ぼした。
 幡多においても学問は大いに興り、宿毛伊賀氏膝下の講授館(後に文館、さらに日新館と改称)で酒井南嶺などの指導のもとに政治、実業或いは文化事業に活躍する幾多の人材を輩出したことは読者のよく知るところである。
 安岡正篤先生は世に陽明学者と呼ばれることが多いが、先生は朱子学、陽明学そのいずれかに枠組みできる人物ではない。いずれにせよ、江戸初期の武家学問の興隆期と、昭和動乱期に儒学の倫理を以て一世の指導者となった二代巨人が、深浅の差はあるにせよ、土佐又は幡多にゆかりを持つ人物であることに大きな感慨を覚える。
 大月町出身の叔父伊与田覚の安岡先生と論語への献身は土佐南学とは形を替えながらも儒学への現代の果敢な取組みであろう。筆者の毎月一回の論語講座は、経営する出版社名に因んで日新論語とも呼ぶ。宿毛小学校の前身は日新館、血縁、道(学)縁、地縁の不思議さをしみじみと思う。
12233野中兼山
(野中兼山遺族の墓地 高知県宿毛市) 
            

みなさんさようなら

(株)日新出版は今週13日(金)をもちまして事務所を立ち退くことになりました。
今後のことにつきましては、また順次追って皆様にお知らせいたします。(妙)



「土佐 すくも人」第8号 1991年版 H3.10.24発行 非売品(東京宿毛会)

安岡正篤先生と幡多 ④

 昭和24年、東京に安岡先生を中心とした全国師友協会が発足、関西師友協会はこれに遅れること8年の昭和32年のスタートであるが、その前にも「先哲講座」などで安岡先生の大阪出講は屡々であった。昭和22年か23年ごろある印刷所の狭い2階で先生のお話を拝聴したが、戦後初めての頃の出講であったと思う。
 伊与田は学生のための教育宿泊施設の有源学院を主宰すると共に、関西師友協会の設立に奔走していたが、この時期、筆者は大月町に帰っており、関西師友協会発足とほぼ時を同じくして上阪、新聞社づとめの傍ら青年部長に就任して後輩の指導に当たった。
 安岡先生は毎月のように大阪に出講、各地にも師友協会ができて、乞いに応じて足を伸ばしている。幡多を訪ねたと思われる昭和39年を見ると山形、仙台、群馬、香川、高知、愛知、伊勢、岐阜、大阪、奈良、八尾と寧日なき有様である。
 同人と青少年の切磋琢磨の研修施設をとの伊与田の願いは、多くの賛同者を得て、昭和44年に(財)成人教学研修所として実現、関西師友協会事務局は同志に委ねて、研修活動に専念することになった。この年に筆者は上京、出版界に身を投じた。

 昭和58年、安岡先生重態となり、東京の全国師友協会は先生あっての師友会として解散を決定した。しかし、関西師友協会は新井正明会長(住友生命名誉会長)の「文王亡シト雖モ猶興ル」の決意もあり、同人もまた結束してその維持発展を誓い合った。安岡先生の本葬が岸信介元総理を委員長として青山斎場で執り行われた後、参列のため上京した伊与田を始め事務局の人達、同士20数名を筆者は某所に案内して、ますます意気を盛にして師友の活動を発展させることを確かめ合ったのである。

 伊与田はその後、成人教学研修所内に論語普及会を設立、自ら浄書した『仮名論語』頒布と研修所での講座、全国各地への出講を通じての東洋倫理道徳の高揚に75歳の心身を捧げ尽くしている。筆者もまた、銀座の事務所において毎月第一金曜の夕刻、6時半から論語講座を開いて一度の休みもなく既に10年目に入っている。
(次回12/13【金】アップは「安岡先生と幡多」の項、最終回)
プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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