みなさん さようなら

2016.05.16 06:00|その他
2004年に三菱ふそう脱輪事故が起き、会長以下7人のトップ、幹部が逮捕されました。当時、技術士の立場から西襄二氏が「NewTRUCK」に掲載した記事をお届けします。(妙)


2004年(H16) 月刊 「NewTRUCK」 6月号

技術検証    技術士・経営工学 西 襄二
誰が保証する?大型トラックの安全性

伝統的な車軸構造
 大型トラックの車軸構造は、我が国ではここ60年余に亘って基本的に変わっていない。自動車工学的にいえば、前軸は「逆エリオット式」後軸は「全浮動式」だ。長期に亘って基本構造が変わっていないということは各車間設計が類型化していることであり、構成部品も設計的に類型化している。モデルチェンジに際して前例に倣うという取り扱いを受けることが多いことでもある。長い歴史の中で設計担当者は次々に入れ替わり、新人が設計を担当する機会もある筈だ。

ものづくりの進め方
 フルモデルチェンジ(FMC)を想定して、トラックの商品企画から量産に至る標準的組織と行程を簡単に示しておこう。
 先ず組織。近年の場合、総責任者(プロジェクトマネージャー・PM)が任命され、マーケティング、商品企画、デザイン、設計、実験、生産、品質保証、購買など全社関係部門から担当者が選出・組織される。そして、経営層から示される全体日程及び予算に従って、消化しなければならない数多の課題に取り組む。
 次に行程。大日程としては、PMの任命、担当者(プロジェクトメンバー)の専任、企画取りまとめ、コンセプトづくり、と進み、以後同時展開的にデザイン、車型構成、概要設計、細部設計、生産性・コスト検討、生産設備・方式計画、試作・各種実験、デザイン審査・決定、品質審査、量産試作、設備試行、各種発表資料手配、量産開始(SOP)、発表・販売開始(SOS)と続き、更に市場の初期流動管理まで一連の重要イベントが続く。

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みなさん さようなら

2016.05.02 06:00|その他
三菱自動車がニュースになっています。
過去に大規模なリコール隠しが2度、今回は「燃費データ改竄」ですね。もはや他の三菱グループも助けようがないのではないでしょうか。第1回目、2000年度のリコール隠しについてレポーター、大山健一郎氏が月刊「NewTRUCK」に寄稿した記事を掲載します。(妙)


2000年8月号「NewTRUCK」8月号
問題提起レポート   自動車評論家 大山健一郎

なぜ起こした、三菱自動車のクレーム隠し
間口の広いメーカーの不覚

社会の安全より会社の安泰
 日本で初めての地方開催の沖縄サミット、その直前の8月19日、全国民がその成りゆきを固唾をのんで見守ろうとした矢先、三菱自動車によるクレーム隠しの第一報が朝刊の一面のニュースになった。リコール対象69万台、クレーム報告書半数開示せず、見出しを見てこれはひどい、何でこんな馬鹿な、との思いを抱いたのは三菱自動車のユーザーばかりではなかった。

 そのわずか1ヶ月前に発生し、日本中を震撼させた雪印乳業による食中毒事件にも匹敵する不祥事と言っていい。雪印の事件は1万4千人の食中毒の被害者を出したが、三菱のクレーム隠しの人的被害は、今のところゼロではないかという比較の問題ではない。リコールに匹敵するクレームは、情報開示をしていれば防げたかも知れない事故を、隠すことによって起こし続ける可能性があるのだ。万一起こったときには即人命に関わる危険なものも含まれている。或いは隠したクレームの中に、すでに事故や人的被害を伴ったケースが無いと言い切れるのか。
 雪印のケースは意図的というより、会社の上から下まで弛み切った姿勢と対応のまずさに唖然とし、そこには悪質な組織的隠蔽というより、あえて言わせてもらえば、処理のまずさに自ら墓穴を掘り、傷を深くしていく哀れささえ感じられた。三菱自動車の場合は不名誉なクレーム情報は極力外部には出さず、できるものは内部で処理をするという長年の慣行があって、それが今回の発覚で一気に噴出したとしか考えようがない。社会や顧客の安全より、まず不利な品質情報はできれば隠蔽して、世評を気にし会社の安泰を優先するという古い感覚が今でも残っていて、改革と変化に乏しい伝統ある大企業の体質を見せつけられた思いがする。

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みなさん さようなら

2015.12.31 06:00|その他
大晦日の今日、律儀にこのブログを開いてくださった方のために写真を掲載します。
平成13年12月の浅草羽子板市です。あの顔もこの顔も…話題の人でした。
今年1年、おつき合いいただき有難うございました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。(妙)


H13年12月浅草

H13年12月浅草②




みなさん さようなら

2015.04.06 06:00|その他
「関西師友」 1961年(S36)4月号
―暁の鐘― 

四国へんろ

 戦後まもなく、学校を卒えて、土佐の西南隅にすっ込んだ私はその翌年、昭和26年の3月から4月にかけて四国八十八ヶ所の霊場行脚、俗にいう“四国へんろ”を行って、戦災の瓦礫と夏草の中で陣没先輩学生の菩提を弔う誓いの一部を果たした。

 それから丁度十年になる。
 まだ幼かった頃には、私達の部落へもよくお遍路がやって来た。小さなお堂に泊まっていることもあったし、身なりのいいお遍路さんは家に泊めたりもした。身なりのいいということは乞食遍路ではなくて修行遍路であることを意味する。
 この修行遍路の中にも、浮き世を捨ててしまって、まじない、占い、お灸、はりなどを施しながらぐるぐるとお四国を何十回となく廻る専門化した遍路と、発願の筋があって、お四国の札所だけを打って廻り娑婆に帰る遍路とがある。お四国とはお大師さま、弘法大師が開基された四国八十八ヶ所霊場のことをいう。四国遍路についてはこれ位の知識しか持っていず、平素、余り信心もしない私が唐突にお四国に行くと言い出したので、家族も半ばあきれたり驚いたりしたが、母は遍路の制服を白無垢で一通り作ってくれたし、笠も金剛杖も恰好だけは一人前の遍路が出来上がり、国家安穏、家内安全祈願四国八十八ヶ所奉納と、型通りのお札を謄写版(とうしゃばん)で印刷して、「戦没学生之霊」「先祖代々之霊」と書いた位牌と共に経箱に納め、奥の細道に匹敵する紀行文を物にせんと原稿用紙も十分用意した。

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みなさんさようなら

2015.03.05 06:00|その他
於久田氏 「東京トラックショー」創立者になりすましか
彼を会員や講師に抱えているところ以外は、プロフィルを全部削除したり、ページそのものを消して下さいました。
ご協力に感謝します。(なりすましの模様は2月9日アップに載せました)

そして今回、〈街道シリーズ東海道〉の箱根から三島へ進もうと、次の「特装車とトレーラ(月刊NewTRUCKの前身)」1977年10月号を出してきたところ、当時の横路・於久田氏にほんの少し触れている箇所があったのでご紹介します。実にいいタイミング!!
◆リレー連載 読者のつくるページ◆の項に、矢野完氏が寄稿したもので、三島~沼津の紀行は次回にまわします。(妙)


1977(S52)年10月号
◆リレー連載 読者のつくるページ◆
矢野 完(まさる)
S47年4月 日本沿海フェリー(株)貨物部次長
S50年4月 同社 東京港営業所長 現在に至る

第6章 親分ご免なすって
 ボスと異なり、親分というのは上下関係にて“親分子分”というように子分が頼れるのが親分である。すなわちボスより何となく“アタタカミ”のあるのが親分であろう。
 最近の“特装車とトレーラ”ルポ記事・あとがきと毎号“親分”という二字が繰り返されているのはご承知の通り。於久田君が入社してから目立って多くなったようである。(横路君は自分も親分と思っているのだろう“親分”の二字が割合に少なかった。)
 けれど、“親分”という敬称を使っているのは、これは当たり前のこと。

1.親分と、横路君・於久田君の間には雇用関係があること。
2.親分が子分達の面倒みがよいこと。
3.親分と呼ぶにふさわしい知識(常識より少し上)と教養を身につけていること。
4.社長と呼ぶには企業規模が余りにも小ぢんまりとし過ぎていること。
5.酒を飲んでも子分達は親分に勝てないこと。

のようであるが、私が“親分”と呼ぶ理由は、こんな世の中のありきたりのものではない。
 日本に長距離フェリーがポツリポツリ。フェリーとトレーラを組み立てて儲けようという運送屋さんも少ない頃のこと。
 “セントラルフェリー”というのがあった。首都・阪神の二大経済圏を結んでの華々しいデビューに比しては事業は順調でなかったようである。
 親分が、このフェリーを借り切って、お客を満載し東京湾をひと廻りしたことがある。このフェリーは間もなく外国に売られてゆく運命にあったが、とにかくお客を満載したのはあとにもさきにもこの一度だけ。
 私は、この航海こそ“カラユキさん”のように売られてゆくフェリー“セントラル”への最後の親分のハナムケであったと今でも信じている。そして親分にとっては多分一生を通じての忘れられぬ快挙であったことだろう。
 私は、親分のこの行為に対して勲章に代わるに“親分”の称号を捧げ、この人こそ“親分”とよぶゆえんである。

第7章 トレーラ業界にもの申す
 当日の川崎港フェリー岸壁には何百人という“特装車とトレーラ”関係の人達が招待された。私もその一人であったが、一業界誌が、これだけの人達を集めることが出来たのは親分の人徳と、もの珍しさからではあろうが。
 振り返ってみると、当時の“特装車とトレーラ”誌は主幹の親分と秘書、兼編集助手、兼カメラマン、兼家事担当の“女房殿”の二人きりで東京は十条の梁山泊で雑誌をつくっていたのである。

 折角、親分は“身銭を切って”フェリーを借り、「フェリーとはこんなもの」と教えたのだ。そこに集まったトレーラ・メーカーの諸賢兄殿。何故、親分を利用して、フェリーとトレーラの組み合わせを大いに売り込まなかったのだろうか。

 アメリカでは既に、その数年前に“トレーラ船”が就航している。トレーラ船の所有会社トランスアメリカン・トレーラ・トランスポート社のカーター社長は「商船の近代化は、いずれも高度の自動化技術が導入されており、荷役方法には従来のクレーンに代わってロール・オン・オフ方式が、強調されている。世界の新しい商船は、この方式が、今後の輸送の合理化・高速化に重要な役割を果たすと考えているためだ」といっているではないか。

 話は元にもどって。
 これだけの人達を船に缶詰にしておいての手ぬかりは千載一遇のチャンスを逃したのではないかと、非常に残念に思っている。この場を利用して“フェリーとトレーラの組み合わせこそが次の輸送革新である”と打ち上げていれば少なくとも、フェリーによるトレーラ無人航送もテンポが速かったのではなかろうか。そして、かのオイル・ショック時にあわてふためくこともなかったのではないか。


*******
サイト内 ご参考 増田周作原稿 アーカイブの項

① 「フェリー航送見学試乗会始末記」  2014.1.17~2014.2.7 アップ
1972年(S47)「特装車とトレーラ」1月号 
―50号記念行事―  ドキュメンタリー

② 「セントラルフェリーへの挽歌」  2014.2.10~2014.2.23 アップ 
1972年(S47)「特装車とトレーラ」12月号
―短かったその命と想い出―




プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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