みなさん さようなら

2018.01.29 06:36|「幽冥録」
日野 社長

左: 日野自動車社長 二見富雄氏(1995年11月号NewTRUCK 『社長の軌跡』Photo)
右: 荒川政司元社長の社葬で弔辞を述べる二見氏(1995年3月14日)

2007年1月30日 おはようコラム
恬淡とした人柄だった二見日野自動車元社長逝く

 日野自動車の元社長だった二見富雄さんが、25日に79歳で亡くなられた。肺ガンで長い闘病生活を続けておられたが、その苦しさから解放される日がきたのである。新聞記事では、葬儀は親族だけで行うことになっているようだ。すべてに恬淡としていた二見さんらしい生前からの配慮であるのだろう。

 二見さんは、日野自動車に大きな足跡を遺した荒川政司元社長の秘蔵っ子だった。荒川さんは、厳しい実業人であると同時に、囲碁、連歌、文筆にも玄人はだしの腕を振るった洒脱な風流人の色彩濃厚な人物であった。現在の無味乾燥な実業人とは一味も二味も違った荒川さんの薫陶を受けた二見さんだけに、ご両人は東大出身にもかかわらず秀才肌とは程遠い、味わい深い人柄だった。荒川さんは、秘書役だった二見さんが作った社長としての挨拶や文書を、原型をまったく留めぬまでに書き直した。それなら、ご自分でお書きなったらという二見さんに、文章の練習をさせているのだ、と荒川さんは言ったそうで、荒川さんの社葬で葬儀委員長として弔辞を読んだ二見さんは述懐した。日野には二代続けてトヨタから社長が派遣されている。二見さんを知り弔辞を読める人は日野にはいない。

二見氏 13022

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みなさん さようなら

2017.12.11 06:00|「幽冥録」
1995年(H7)月刊New TRUCK」12月号 
「幽冥録」
松永義正氏(日本軽金属名誉会長)

危機に真骨頂を発揮した80歳事業人生
日軽金苦難の時代を超克

92年
右写真/ 「'92トラックショー」開場式テープカット 
(右・松永義正日本軽金属名誉会長 中・増田 左・前田源吾全ト協副会長   11月17日)

 11月3日から5日にかけて、伊豆下田を起点に西伊豆清遊の小さな旅に出た。快晴に恵まれて、達磨山からは富士山が絵葉書そのままに西へ裾野を長く引いて沼津、蒲原、由比、清水、日本平が鮮やかに見えた時、ふと松永さんを思い出したのである。

 もう4年前になるが、早春に松永さん直々のご案内で日本軽金属の清水工場を見学したあと、日本平のホテルで一泊、「女房に余り飲んではいけないと言われるから、分量がわかるようにコップ酒にしている」と言いながらも、そのコップを何杯かお代わりして、陶然と昔話に興じられるのを時を忘れて拝聴した。
 翌朝、日軽金にご不幸があって帰京されたあと、一人で蒲原工場に行き、日本で唯一ヵ所になった自家水力発電によるアルミ鋳造施設などを見学した。その後松永さんは清水工場をお訪ねになったことがあるだろうか。

 富士が真正面に見える三津港の宿にさらに一泊、5日午後帰宅、6日の朝刊で4日夜半近くの松永さん死去の訃報を知った。
 松永さんとは何回にも分けた長い対談を別にしても、よくお会いしている。中でも、まるで愛おしむように清水工場の中をご案内下さったり、もう50年にもなる終戦直前のアメリカによる阿波丸撃沈事件による日軽金犠牲者の碑の前で写真を撮ったことと、その夜の酒が格別に印象に残っている。その清水、日本平を目の前にした宿で眠っている時、松永さんは永眠された。

 松永さんは、現在はもう少なくなった戦前に入社して、戦中、戦後の困難な時期を克服、終生社業を離れなかった数少ない事業人である。さらに、他の製造業とは違ったアルミの構造不況の波を、自らの給料返上という非常の不退転の決意で見事に乗り切った日軽金にとっては大恩人、救世主とでもいうべき存在であった。さればこそ、同社もまた終生名誉会長としてその功に報いたのであろう。

 今年、私は事業の上からも、人生修業の上からも師というべき先達を二人失った。ひとりは2月6日逝去の荒川政司日野自動車工業相談役元社長であり、そして松永さんである。
 振り返ってみると、お二人には共通の因子が多量にあった。

 荒川さんは深川の富商の出生でチャキチャキの江戸ッ子、松永さんは富山の生まれだが、少年時代を送ったのは神田旅籠(はたご)町のいわゆる狭斜の巷、平たく言えば色街、父君は古美術を商っていたそうで、生粋の江戸ッ子と言ってもまかり通るだけの気っぷであり、口跡(こうせき)も実によかった。
 早稲田の商学部に入学、中学時代から得意だった水泳は体が小さいので断念して自動車部に入り、その後もずっとハンドルを握っていたというから、事業人としてはかなり早期の60年近い運転歴ということになろう。本誌主催の「´92トラックショー」では運転歴65年の前田源吾前全ト協副会長と、クラシックトラックを運転してヤンヤの喝采を浴びたことをご記憶の方もあるに違いない。

 新聞記者志望だったのもご両人に共通していて、荒川さんは父君の反対で断念したが、松永さんは箱根駅伝の早稲田チームの伴走をしていた縁で報知新聞に入社した。しかし僅か2回給料を貰っただけで、文章は苦手だし、記者は性に合わんと退社した。というものの、松永さんはいい文章を書いて、この点でも荒川さんと共通項がある。

 戦前と戦後の大学卒業生の大きく違うところは、就職先に余り頓着しなかったことで、割合ノンビリしていた。荒川さんは入社した東京瓦斯電気工業が何をする会社かサッパリ分からなかったというし、松永さんも報知新聞を退社してブラブラしているところを親類の推めで富士川電力に入社した。
 この富士川電力に注目したのが山梨県出身の実業界巨頭の当時東京電灯(後の東京電力)社長の小林一三で、軍需的な時代の要請もあって国策会社の日本軽金属が昭和14年に誕生、松永さんも富士川電力の吸収に伴って日軽金入りした。
 蒲原工場の建設現場で荒くれ男を相手に奮闘したこと、ボーキサイトを求めて朝鮮半島の山地に入り、身辺の世話をする現地の女性を嫁に貰ってくれと日本語を話せない父親が娘に言わせるのを逃げたことなど、実に面白い話を聞くことができた。

 戦後はアルミが作れないから、ボイラーと電力を使って塩を製造、従業員や蒲原の町民はその塩を持って企業ぐるみ、町ぐるみの担ぎ屋になってアルミ製造再開まで食いつないだことなど、現役の日軽社員は社史でしか知ることのできない苦労話を淡々と話しておられたことを思い出す。

 順調に伸びたアルミ業界が各社一斉に設備拡張に乗り出して、工場も一部は完成したところに襲ったのがオイルショックで、その後の電力料金高騰、円高などで日本のアルミ精錬は立ちゆかなくなり、僅かに戦後の電力不足時代とオイルショック時に守り切った蒲原工場の自家発電設備に支えられた日軽軽金が孤塁を守る形になってしまった。
 銀座に威容を誇った日本軽金属ビルや新潟工場も売却して、昭和50年、60歳で社長に就任した松永さんは、日軽金の最も苦難の時代に、その真骨頂を発揮して乗り切った。本社売却か、研究所売却か、金融機関などの大勢は金食い虫の研究所処分に傾いたそうだが、本社機能はどこでもできる、しかし若い人達が日本のアルミの、将来のための研究の夢を託する研究所は残さねばならぬと、松永さんは固い決意で本社ビルをリクルートに売却して三田に移った。

 昭和58年会長、平成元年に名誉会長に退いてからも“日軽金の顔”としての松永さんを訪ねる人は多く、外の会合にもよく顔を出されていた。まさに、生涯現役を実践したというべきだろう。

安岡語録を指針にして
 松永さんとは勿論わが社とご縁の深いアルミアオリ材や素材メーカーとしての日軽金、さらには系列の日本フルハーフなどと日新出版としてのお付き合いもあるが、それ以上の深い結びつきは、安岡正篤先生の共通の弟子であった点にある。松永さんの手元には、私が執筆したその関係の機関誌なども届けられているらしく、それを読んでの感想もよく話された。

 社長内定の時、安岡先生にご挨拶に参上したらいきなり『退休』の話をされた。上に進む時は人の推挽(すいばん)によるもので、なろうと思ってもなれるものではない、しかし退任は自分で決めなければならない、これが大事なことだ、と話されたことは肝に銘じている、と松永さんは言われた。
 名誉会長としての7年、晩節を全うされたのは、安岡先生の教えを噛みしめながら、自然に生きてこられたからだろう。
 さらに松永さんの苦難の時代を支えた『喜神』の言葉も、安岡先生の教示であった。神が君を鍛えている。それに耐えてゆけば、もっともっと嬉しく喜ばしい世界が開けてくるものだ。この言葉で救われたね、としみじみと話された。

 個人的にお世話になったのは、閑な時には碁が打ちたくて、事務所に近い交詢社に入りたいから推薦人になってほしいとお願いした時だった。二ツ返事で引き受けて下さり、二人必要だから中山君にも頼んで上げようと、中山一郎、松永義正と二代の日軽金社長という身に過ぎた推薦人が実現した。
 その中山さんも先に逝かれ、いま又、人生の師とも仰ぐ松永さんも後を追われた。風が体を吹き抜ける思いである。


みなさん さようなら

2017.05.22 06:00|「幽冥録」
前回、松下緑氏の原稿をご紹介しました。今回はその松下氏の死に際して、父の書いた幽冥録です。
奥様の書かれた「あとがき」によりますと、氏は、80歳までは「湖畔吟遊」を続けたい、とおっしゃっていたそうです。(妙)

1998年(H10) 月刊「NewTRUCK」 1月号 幽冥録
松下 緑氏   (元日通総研調査役)

アット過ギルガ人生ナノサ

 その死の知らせは全く突然だった。
 12月5日の急死のあと8日に訃報を受け、千恵子夫人から急逝心筋梗塞のため69歳で亡くなったが故人の遺志を汲んで、親戚とごく近所の方々で別れの式を済ませたとのお葉書を戴いたのは11日。交遊が広い人であっただけに仰天した友人知己も多かったろう。

 日通総合研究所に勤めて、長い間の機関誌『輸送展望』の編集長時代に識り合った。昭和50年代の初めであったと思う。
 『輸送展望』に日通関係以外の広告を載せることになり、当時の荷役研究所所長の平原先生を通じて私に依頼があったことから、故人及び日通総研とも蜜月時代が始まった。
 しかし、契約問題のこじれから故人の退職後に日通総研とは絶縁して、2人の間柄もやや疎遠になったのは残念だった。

 上海で育っただけあって、中国についての造詣には並々ならぬものがあり、その成果が、漢詩の松下流戯訳に結集して、年賀状に書くことから、月刊誌『しにか』(東アジアの文化を考える総合誌)への寄稿になり、平成5年からは毎月16日にB5版4ページ建ての『湖畔吟遊』刊行に発展していった。
 そのひとつを紹介する。陶淵明の有名な詩の一部である。
(青字が松下氏訳)

 ………
 盛年不重来    花ノサカリハ二度トハコナイ    盛年重ねて来たらず
 一日難再晨    スギタ月日ガモドラヌヨウニ    一日再び晨(あした)なり難し 
 及時當勉励    イマガ大事ヨ大事ニ生キヨ     時に及んでまさに勉励すべし
 歳月不待人    アット過ギルガ人生ナノサ     歳月人を待たず
(しにか’93年1月号掲載)

 松下流戯訳の大先輩、井伏鱒二には人生別離を「サヨナラ」ダケガ人生ダ、の名訳があり、ひとり歩きする程人の口に上がっている。
 漢詩戯訳を一冊にまとめてみたいと語っていたが、その志を果たさぬままの、サヨナラでアッという間に昇天してしまった。松下さんらしいと言えなくもないが、少し早過ぎるのではないか。


みなさん さようなら

2016.09.15 08:00|「幽冥録」
1985年 月刊「NewTRUCK」 1月号 幽冥録

野寺哲二郎氏 元(社)日本自動車車体工業会専務理事


野寺氏1985年1月号
  上機嫌の野寺さん 昭和50年ころ

存在感のあった人
 野寺さんの訃報を聞いたのは、野寺さんが長く専務理事を勤めた丸の内、岸本ビルの日本自動車車体工業会の事務局であった。私は事務局の人達にとって歓迎されざる客のようなので滅多に訪ねないが、たまたま12月5日午後、田村慎一トラック部会長(浜名自工社長)と会う用件があり、そこで前夜4日9時半の永眠を知らされたのである。

 私は野寺さんをよく怒らせた。現役を引退されてからも、車工会のパーティの席上であからさまに敵意をむき出しにされたこともある。これは無理もない話で、私は車工会のあり方について容赦ない批判の記事を書き、その退陣を迫り、後任の事務局トップ人事のすすめ方についても指弾の手をゆるめなかった。

 この雑誌を創刊した市原富士哉氏は車工会や野寺さんのお世話になったことがずい分多かったらしい。いわば車工会の御用紙といった観のある雑誌が、市原氏から増田に変わった途端に牙を剥いたのであるから、激怒されたのは当然であろう。私は私で、車工会の言いなりになることは決して車体メーカーのプラスにはならない、という自負心があった。

 野寺さんは私より2まわり上の寅年(明治35年生まれ)、向こう意気の強い寅の歳同士とあって、その反発は余計に大きかったかもしれない。
 しかし、喧嘩ばかりしていたわけでもなくて、一度だけじっくり話し合ったことがある。昭和48年1月6日、本誌1月号の「周作対談」取材で、以前の岸本ビルの事務局だった。

 この時は上機嫌で、1月5日の自動車団体の賀詞交歓会は誕生日を祝ってくれているようなもの(同氏は1月5日生まれ)に始まって、車体業界の現状を語ったあと、趣味生活にふれて、川釣りをこよなく愛したこと、その釣日記には俳句も書き入れていることなど、風流人としての野寺さんの一面を覗かせるものだった。

 自動車、特にバスについて野寺さんは技術上の権威であったことはよく知られており、勲4等瑞宝章のほか多くの栄誉を受けている。
 優れた技術者であったことが、車体業界の技術レベルの向上に寄与した功績は大きい。
 しかし、人の活用という面では多少甘いところがあったように思われる。中川武治氏を盟主とする近畿車体メーカーの分離独立、その退陣に際しての事務局トップ人事など、車体工業会の活動に大きな影響を及ぼしたことだけに、野寺さんのために惜しまれる。
 もちろんこれは野寺さんにすべての責任があるわけでなく、車工会の会長はじめ理事などの役員に、より大きい責任はあったと思うが。

 野寺さんはそれなりのスケールもあり、車工会の声望を背負って立つところがあった。それは退陣後8年を経ても、多くの会葬者が12月6日の葬儀に参列して別れを惜しんだことにも現れている。謹んで冥福を祈る。


みなさん さようなら

2016.05.25 06:00|「幽冥録」
3月14日アップ、1971年の3月号「ヤクルト特別座談会」の中で、チラッとお名前が出た『宇田川氏』。
座談会から6年後、宇田川氏訃報をうけて書いた周作の弔辞です。(妙)


1977年(S52)「特装車とトレーラ」5月号 幽冥録

清掃界の巨人逝く
宇田川棲氏を悼む

 4月3日、宇田川棲環境保全協会長が逝去した。寒い冬であったのに桜の開花は例年より早く、既に東京では散りそめていた。
 宇田川氏はいうまでもなく清掃業界の大立者で、83年の生涯を業界の発展に捧げ尽くした人である。政府はその功に報いるに昭和40年勲5等、昨年春再び勲4等旭日章を贈っている。
 宇田川氏と筆者は住んでいる世界も違って、おつき合いといえるほどのものはなかったが、一度だけゆっくりお話を聞いたことがある。

 昭和46年1月のことで、周作対談の12回目のゲストとしてお相手願った。国鉄新橋駅近く、ガード下の粗末な全日本清掃協会の事務所で、寒い時であったため、大きな襟巻きを首からぶら下げたまま応対された。
 周作対談でお相手したゲストは50人近く、その一人一人に想い出はある中で、宇田川氏は後まで強く印象に残った人である。当時で既に78歳になっておられたと思うが、いわゆる老人臭というものを全く感じさせないのに驚いた。言葉もはっきりしているし、筋道を立てた話にもよどみがない。ゴミ、糞尿から見た江戸と東京の話など、非常に面白く教えられるところが大きかった。

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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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