みなさん さようなら

2017.05.22 06:00|「幽冥録」
前回、松下緑氏の原稿をご紹介しました。今回はその松下氏の死に際して、父の書いた幽冥録です。
奥様の書かれた「あとがき」によりますと、氏は、80歳までは「湖畔吟遊」を続けたい、とおっしゃっていたそうです。(妙)

1998年(H10) 月刊「NewTRUCK」 1月号 幽冥録
松下 緑氏   (元日通総研調査役)

アット過ギルガ人生ナノサ

 その死の知らせは全く突然だった。
 12月5日の急死のあと8日に訃報を受け、千恵子夫人から急逝心筋梗塞のため69歳で亡くなったが故人の遺志を汲んで、親戚とごく近所の方々で別れの式を済ませたとのお葉書を戴いたのは11日。交遊が広い人であっただけに仰天した友人知己も多かったろう。

 日通総合研究所に勤めて、長い間の機関誌『輸送展望』の編集長時代に識り合った。昭和50年代の初めであったと思う。
 『輸送展望』に日通関係以外の広告を載せることになり、当時の荷役研究所所長の平原先生を通じて私に依頼があったことから、故人及び日通総研とも蜜月時代が始まった。
 しかし、契約問題のこじれから故人の退職後に日通総研とは絶縁して、2人の間柄もやや疎遠になったのは残念だった。

 上海で育っただけあって、中国についての造詣には並々ならぬものがあり、その成果が、漢詩の松下流戯訳に結集して、年賀状に書くことから、月刊誌『しにか』(東アジアの文化を考える総合誌)への寄稿になり、平成5年からは毎月16日にB5版4ページ建ての『湖畔吟遊』刊行に発展していった。
 そのひとつを紹介する。陶淵明の有名な詩の一部である。
(青字が松下氏訳)

 ………
 盛年不重来    花ノサカリハ二度トハコナイ    盛年重ねて来たらず
 一日難再晨    スギタ月日ガモドラヌヨウニ    一日再び晨(あした)なり難し 
 及時當勉励    イマガ大事ヨ大事ニ生キヨ     時に及んでまさに勉励すべし
 歳月不待人    アット過ギルガ人生ナノサ     歳月人を待たず
(しにか’93年1月号掲載)

 松下流戯訳の大先輩、井伏鱒二には人生別離を「サヨナラ」ダケガ人生ダ、の名訳があり、ひとり歩きする程人の口に上がっている。
 漢詩戯訳を一冊にまとめてみたいと語っていたが、その志を果たさぬままの、サヨナラでアッという間に昇天してしまった。松下さんらしいと言えなくもないが、少し早過ぎるのではないか。


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みなさん さようなら

2016.09.15 08:00|「幽冥録」
1985年 月刊「NewTRUCK」 1月号 幽冥録

野寺哲二郎氏 元(社)日本自動車車体工業会専務理事


野寺氏1985年1月号
  上機嫌の野寺さん 昭和50年ころ

存在感のあった人
 野寺さんの訃報を聞いたのは、野寺さんが長く専務理事を勤めた丸の内、岸本ビルの日本自動車車体工業会の事務局であった。私は事務局の人達にとって歓迎されざる客のようなので滅多に訪ねないが、たまたま12月5日午後、田村慎一トラック部会長(浜名自工社長)と会う用件があり、そこで前夜4日9時半の永眠を知らされたのである。

 私は野寺さんをよく怒らせた。現役を引退されてからも、車工会のパーティの席上であからさまに敵意をむき出しにされたこともある。これは無理もない話で、私は車工会のあり方について容赦ない批判の記事を書き、その退陣を迫り、後任の事務局トップ人事のすすめ方についても指弾の手をゆるめなかった。

 この雑誌を創刊した市原富士哉氏は車工会や野寺さんのお世話になったことがずい分多かったらしい。いわば車工会の御用紙といった観のある雑誌が、市原氏から増田に変わった途端に牙を剥いたのであるから、激怒されたのは当然であろう。私は私で、車工会の言いなりになることは決して車体メーカーのプラスにはならない、という自負心があった。

 野寺さんは私より2まわり上の寅年(明治35年生まれ)、向こう意気の強い寅の歳同士とあって、その反発は余計に大きかったかもしれない。
 しかし、喧嘩ばかりしていたわけでもなくて、一度だけじっくり話し合ったことがある。昭和48年1月6日、本誌1月号の「周作対談」取材で、以前の岸本ビルの事務局だった。

 この時は上機嫌で、1月5日の自動車団体の賀詞交歓会は誕生日を祝ってくれているようなもの(同氏は1月5日生まれ)に始まって、車体業界の現状を語ったあと、趣味生活にふれて、川釣りをこよなく愛したこと、その釣日記には俳句も書き入れていることなど、風流人としての野寺さんの一面を覗かせるものだった。

 自動車、特にバスについて野寺さんは技術上の権威であったことはよく知られており、勲4等瑞宝章のほか多くの栄誉を受けている。
 優れた技術者であったことが、車体業界の技術レベルの向上に寄与した功績は大きい。
 しかし、人の活用という面では多少甘いところがあったように思われる。中川武治氏を盟主とする近畿車体メーカーの分離独立、その退陣に際しての事務局トップ人事など、車体工業会の活動に大きな影響を及ぼしたことだけに、野寺さんのために惜しまれる。
 もちろんこれは野寺さんにすべての責任があるわけでなく、車工会の会長はじめ理事などの役員に、より大きい責任はあったと思うが。

 野寺さんはそれなりのスケールもあり、車工会の声望を背負って立つところがあった。それは退陣後8年を経ても、多くの会葬者が12月6日の葬儀に参列して別れを惜しんだことにも現れている。謹んで冥福を祈る。


みなさん さようなら

2016.05.25 06:00|「幽冥録」
3月14日アップ、1971年の3月号「ヤクルト特別座談会」の中で、チラッとお名前が出た『宇田川氏』。
座談会から6年後、宇田川氏訃報をうけて書いた周作の弔辞です。(妙)


1977年(S52)「特装車とトレーラ」5月号 幽冥録

清掃界の巨人逝く
宇田川棲氏を悼む

 4月3日、宇田川棲環境保全協会長が逝去した。寒い冬であったのに桜の開花は例年より早く、既に東京では散りそめていた。
 宇田川氏はいうまでもなく清掃業界の大立者で、83年の生涯を業界の発展に捧げ尽くした人である。政府はその功に報いるに昭和40年勲5等、昨年春再び勲4等旭日章を贈っている。
 宇田川氏と筆者は住んでいる世界も違って、おつき合いといえるほどのものはなかったが、一度だけゆっくりお話を聞いたことがある。

 昭和46年1月のことで、周作対談の12回目のゲストとしてお相手願った。国鉄新橋駅近く、ガード下の粗末な全日本清掃協会の事務所で、寒い時であったため、大きな襟巻きを首からぶら下げたまま応対された。
 周作対談でお相手したゲストは50人近く、その一人一人に想い出はある中で、宇田川氏は後まで強く印象に残った人である。当時で既に78歳になっておられたと思うが、いわゆる老人臭というものを全く感じさせないのに驚いた。言葉もはっきりしているし、筋道を立てた話にもよどみがない。ゴミ、糞尿から見た江戸と東京の話など、非常に面白く教えられるところが大きかった。

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みなさん さようなら

2016.05.23 06:00|「幽冥録」
2004年(H16)「NewTRUCK」6月号 幽冥録

永崎重夫氏 (関東美川グループ創業者)
車体の白紙に絵を描き続けた革新的経営者

 永崎重夫氏は車体メーカーの名門、美川ボデー(石川県)の創業者永崎家に生を受けたが、美川ボデーを飛び出して、関東美川グループを創り上げた自立心旺盛な創業者型経営者であった。

 5月1日、肺ガンで死去、22日にお別れの会が開催されたが、筆者は当日海外に出発予定で、出席することができない。16日に成田から中国へ出発した「第32回呉越会」の結団式では、昭和48年に第1回を開催した「呉越会」初の海外となった「第6回呉越会アメリカ視察」に参加した永崎重夫さんのことに触れた。革新的考えを持った経営者であり、皆さんがこれから行く中国に、車体メーカーとしては早い時期に進出した先覚者であった、と参加お礼挨拶の中で述べた。

 中国進出もそうだったが、永崎さんは積極的に新分野に果敢に挑戦するタイプで、フランチャイズ方式というのか、車体メーカー工場を各地に作って、ユニークな労務管理と生産方式による車体製作を開始した。
 石川県に本拠を置いた美川ボデーが平塚に進出したのは、創業者永崎清太郎氏の大英断で、次男の重夫氏は平塚工場の責任者として、28歳の時に平塚工場に派遣された。旧態そのままのボデー工場のあり方に疑問を感じていた重夫氏は、さらに他の新工場建設を兄の博氏に相談するが、その承諾が得られないので、平塚工場を出て、先ず茨城県に関東美川ボデーを設立して東海(岐阜県)・山陽(岡山県)・東北(福島県)・北陸(石川県)と次々に別会社の工場を建設していった。

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みなさんさようなら

2015.01.19 06:00|「幽冥録」
1977(S52)年5月号
清掃界の巨人逝く
宇田川棲氏を悼む

 4月3日、宇田川棲環境保全協会長が逝去した。寒い冬であったのに桜の開花は例年より早く、既に東京では散りそめていた。
 宇田川氏はいうまでもなく清掃業界の大立者で、83年の生涯を業界の発展に捧げ尽くした人である。政府はその功に酬いるに昭和40年勲5等、昨年春再び勲4等旭日章を贈っている。
 宇田川氏と筆者は住んでいる世界も違って、おつき合いといえるほどのものはなかったが、一度だけゆっくり、お話を聞いたことがある。昭和46年1月のことで、周作対談(1989年11月号から新連載として「社長の軌跡」に改題)の12回目ゲストとしてお相手願った。国鉄新橋駅近く、ガード下の粗末な全日本清掃協会の事務所で、寒い時であったため、大きな襟巻を首からぶら下げたまま応対された。

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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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