みなさんさようなら

2013.04.30 07:38|その他月刊誌記事
桜が咲いたと言っては飲み、散ればまた飲む。
ありとあらゆることが飲む口実になり、春は、桜前線を気にしながら必死で原稿を書き上げていました。(妙)


-酒なくてなんのおのれの桜かな-
平成14年年4月号「カメラ風土記」から

(新宿御苑の)開演時間が昼間だけであるし、園内は塵ひとつ見当たらないほどに管理されているので、車座になって喧噪の花見酒を飲んでいる風景は見当たらない。しかし、酒なくてなんのおのれの桜かな、カップ酒と花見団子を買って、花の下で静かに飲む。まさに王者の酒の趣だが、野暮な私には詩の一つも浮かばないのが残念。

平成2年年5月号「わだち」

 上野のさる店でふた夜続けての桜見物のあと、論語の方の会で二日がかりで名古屋城やその周辺の花をたっぷり観賞、今度は三河路へ出て、西浦温泉の窓の外に展開する海を背景にした桜を見ながら一献、数日間は花と人と酒に酔っていた。
 桜にはお城がよく似合う。東京の千鳥ヶ淵、大阪城、弘前城、信州高遠城跡、お堀と城壁、天守閣、松の緑と揃えば、日本人にはたまらない景観となる。
 中国では桜を見かけなかった。中国人の好むのは梅であり、牡丹であり、菊である。大輪の牡丹も美しいが、盛りを過ぎると厚化粧の大年増みたいでどうにも戴けない。
 これから新緑のシーズン、これがまたいい。円安、株安というが、日本の樹と花は世界でも最高だと思う。


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みなさん さようなら

2013.04.22 08:27|「周作閑話」
増田周作サラリーマン時代の先輩、司馬遼太郎さんのこと


―「あの人が司馬はんや」―
1996年(H8) 4月号 「周作閑話」から

 産経新聞大阪本社では「梟の城」で直木賞を受賞した司馬遼太郎、本名福田定一氏は既に有名人だった。当時、既に文化部長だった司馬さんと、中途入社の平社員の私とはもちろん口をきく間柄ではなくて、何かの時に同僚から教えられただけのことだが、目の澄んだ人だなという印象が残っている。
 その次にお会いしたのは、司馬さんも私も新聞社を退社した後のことで、昭和四十年代に入っていたと思う。
 故安岡正篤先生の教えを奉じる人達によって結成された関西師友協会の青年部長を退いた後も、何くれとなく相談を受けていたが、青年部主催の講演会に司馬さんを、という依頼だった。…産経新聞の後輩という縁だけで厚かましく押しかけたのだが、およそ講演料とは言えないほどの少額の申し出なのに快く承諾して頂いた。

 司馬さんより3年遅れて新聞社を辞めたが、収入のメドが立っているわけでもなくて、妻子4人を抱えての生活は難渋を極めた。その間、司馬さんはどんどん階段をかけ上がってゆき、押しも押されもせぬ大作家になった。
…新聞は「産経新聞」週刊誌は「週刊朝日」月刊誌は「文藝春秋」と決めている…実はこの3誌(紙)には司馬さんの連載記事があり、私は真っ先に読んでいた。
 産経新聞には原則として月1回毎月第1金曜朝刊に「風塵抄」が連載されていた。…本来なら、2月5日に掲載される予定が、12日になって、その夜のうちに死亡のニュースがテレビを通じて流された。…司馬さんは高熱のため、1週間原稿が遅れて8日夜に届けられた。原稿の遅れで編集担当者を困らせるようなことは絶対になかったのにこの時だけが違った。…10日未明に吐血して救急車で運ばれたことからすると、8日夕刻には相当深刻な状態に立ち至っていたと思われる。
 司馬さんの絶筆になった「風塵抄」の最後の記事は「日本に明日をつくるために」と題した住専問題に関するものだった。…住専処理に公的資金を導入すべしとの論調は一般マスコミのそれとはかなり様相を異にしている。
 この司馬さんの論理は週刊朝日3月1日号に掲載の評論家田中直毅氏との対談「日本人への遺言―住専問題は経済敗戦だ」でより一層鮮明に主張されている。

 司馬さんは一貫して海軍びいきで、日露戦争後の陸軍にはきわめて点が辛かった。日本を誤ったのは統帥権を盾にとった帝国陸軍の暴走であるとしたが、その結果としての第二次大戦敗戦より、現在の日本の状態はもっと深刻ではないかと週刊朝日の田中氏との対談で述べている。
 この国の行く末を護って頂きたい。

みなさんさようなら

―新聞・雑誌の作り方-
昭和46年3月号「編集後記」から

 新聞や雑誌の記事を作るのにもいろいろな方法があって、極端なのはハサミと糊でやり上げる。要するに、あちらこちらに掲載された記事を適当に切り抜いて、つなぎ合わせ合成する、これは一番手っ取り早い方法で、出版物のなかには案外多い。…しかし、あちらこちらのツギ合わせであるから論旨の通らないことはいうまでもない。広告、協賛金目当に多い。
 その次は、原稿をすべて外部に依頼して、まとめるというもの。このスタイルは非常に多い。全部外註しなくても、その殆どを外部に依存しているのは、一般週刊誌で、トップ屋というような人はあちらこちらの週刊誌に同じネタをあれこれ工夫して売り込む、それぞれの特徴を出すことに編集者は苦労するが、編集者がしっかりしないとその個性を出すことは難しい。
 編集者が、殆どの記事を取材して書き、その一部を外註するといういわば個人雑誌。本誌などその典型的なものでこれは案外少ない。このタイプの欠点はひとりよがりになり、アクが強くなること。本誌にもその欠点はあるように思うが、論旨ははっきりしており、いい意味での個性が出ればマスコミに十分対抗できるものとなる。本誌の指向しているのも、そこである。明治時代のジャーナリズムには結構多くそれぞれの出版物をひっさげて論陣を張ったものである。いまのマスコミからはこのタイプは出難い。天上、天下、唯我独尊にならぬよう自戒はしている。
 ともかく、毎月毎月が創造であり、生みの苦しみを体験している。個人雑誌は人間が成長しないと、雑誌そのものも成長しないという宿命を背負っている。この編集後記を一番先に読むというファンもあり、最終ページまで、全く息が抜けない。
 特装風土記の高知県になかなか行けない。先月、カーフェリーで沖合を通過したので、望郷の念しきりであるが、…来月は山形を訪ねる。…東北は初めて。陸奥路の春はどのようであろうか。(増田)


みなさんさようなら

2013.04.08 10:30|コラム・巻頭・社説・社告
昭和46年5月号「特装車とトレーラ」(「NewTRUCK」の旧名)

業界誌の姿勢について
―相次ぐ同業誌の発刊に寄せる―
 他人の喧嘩と、川向こうの火事は大きければ大きいほど面白いという。野次馬根性である。昨年12月に創刊されたコマーシャルモーター誌が4号目の3月号から休刊しているなと思ったら、突然、5月始め、コマーシャルモーターと商業車というふたつの雑誌になって出現、アッと驚かされた。両誌とも、通し番号は、始めからのを使用しており、本家はこちらでといった感じ。コマーシャル側が、「我国唯一の特殊車・商業車の総合誌」とうたえば、片方は「わが国唯一の商業車総合雑誌」と銘打っている。商業車の定義づけはいろいろあろうが普通は商業車のなかに特殊なものも含まれるので、要するにこれは同じことを言っている。これと似たキャッチフレーズに、モータービークル誌の「わが国唯一の商業車専門誌」というのがある。余程わが国唯一という言葉が好きとみえて、これこそわが国出版業界唯一の珍現象ということになろう。
 …
両誌とも申し合わせたように冷凍車を取り上げておられるが、本誌、3、4、本号に及ぶ、冷凍車のキャンペーンに何をプラスしているだろうか。筆者はかなりのスペースをさいて、これから問題となる小型冷凍車に焦点を当てたつもりである。両誌とも、特に小型ということには、一切ふれていない。ヤクルト取材に13ページもの誌面をさいたのも、アルミ、FRP、各種冷凍冷蔵装置の問題点をそこに集中したからであって、この記事には特に神経を使い、本誌〆切にきわめて切迫した時点で座談会が行われたにもかかわらず、筆者は徹夜で記事を整理し、そのコピーをヤクルト側に見せて、印刷所にまわしたのである。単なるカタログの羅列とは違う。読者は正直で、…

 ここで、一般に業界誌と呼ばれるものについてふれてみたい。筆者が東京へ進出して、先ず感じたのは業界誌というものの地位の低さである。無冠の帝王といい社会の木鐸(ぼくたく・指標、指針)といわれたジャーナリズムのプライドが全くないことであった。業界の寄生虫的な業界誌は、恫喝か、卑屈か、おどかしかペコペコか、この両面を適当に使いわけて生活の資としているのが殆どであり、自動車、運輸関係も例外でない。
 筆者はそういう業界誌ではありたくないと念願して、まず次の目標を立てた。
①記事で勝負し、
②購読料収入に重きを置き、
③広告は無理をしない。
の三つである。

したがって、メーカーのちょうちん記事は一切書かず、不偏不党の立場を貫くことにした。この姿勢が理解されるには先ず3年はかかるであろうと予測し、その間は経済的にも苦しいことが予想されるので、単独の事務所ももたず、人間も使わず、ひたすら冗費を節約して、誌面づくりに取り組んだのである。この姿勢が時に不遜ととられ、記事内容で物議をかもしたことはあったが、最近漸く、この姿勢が理解されてきているようで、努力がまことに徐々にではあるけれども報われつつある。
…現在のところ、妻子を大阪においての東京での独身生活なので、テレビも見なければ、ラジオも聞かず、一般新聞も読まず、一切のマスコミから絶縁して、この本に取り組んでいる。但し、専門書はよく読んでいるが。
 本号は、トラック戦線と、ダイハツを除いて、全部筆者が書いたものである。原稿用紙に直せば、400字詰めで、200枚を軽く越える。読むのと違って書くことは頭に、叩きこまれる。しかも、校正で、3度は目を通す。海綿が水を吸収するように、新しい知識がドンドン頭に入ってゆく。それをベースにまた次の段階へと進むので、一年後の筆者はいまの筆者と大きく違っているであろう。
 特装業界は大変な時代にさしかかって…。単なる情報屋や、顔で、まかり通れるような甘い環境に特装業界が置かれてないことだけは銘記してほしい。

みなさんさようなら

昭和46年4月号「編集後記」で他誌について少し書いています。
この年の秋、父は東十条に見つけた借家でようやく家族と一緒に生活を始めるようになるのですが、それまでは東京の下町で宿を転々とした後、アパートの1室を借りて一人暮らしでした。(妙)


昭和46(1971)年4月号「編集後記」

 昨年暮れの12月号のこの欄で本誌を前にやっていた市原富士哉氏が自動車業界紙に居られた山本某氏と提携して“コマーシャルモーター”を創刊したことに触れて、競争によって、ジャーナリズムは進歩するので、記事面でも長短相補ってゆけば、共存共栄の途もあろうと書いたことがある。2月号が出てから、あとの雑誌を見ないと思ったら、提携をご破算にして、山本某氏はコマーシャルモーターを持って、ある自動車関係の通信社に移ったという。
 ライバル誌がなくなって、というようなケチな考えは毛頭ない。むしろ、業界誌とはそのようなものかと受け取られることが、すべてを捨てて、この雑誌に全力投球した私には辛いのである。その程度のものに、オレは自分の生涯を賭けたのであろうか、と自問するとき、やり切れなさを覚える。
 とはいうものの、今更、尻ごみをしては、愛読して下さる読者と、余りサービスもできないのに、出稿して頂いている広告主のメーカーに相すまぬ。特装業界、トレーラ業界の人々が、われわれの業界にはこういう立派な内容の本がある、と自慢できるほどのものに何が何でも仕上げたい。
 来々号は本誌も50号を迎える。あれこれ企画を考えているので、来月号には発表する。都会の喧騒も夜半一時を過ぎると、自然の静けさを取り戻す。春雨がしとど歩道を濡らしており、盃を含んでいると寝るには惜しい夜だが、明日の朝は早い。明日じゃない、もう今日になってしまった。お休みなさい。(増田)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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