みなさんさようなら

2013.05.20 08:36|「呉越会」
第一回「呉越会」の、はじまりはじまり~っ
増田周作がフェリーで南国土佐へお連れしますよ(妙)


―昭和48年7月号―
呉越同舟太平洋夢枕 
らいばるどうしみなみのうみえぴそうど


 船好き同士で豪華船の旅を楽しみたい、という願望は前から持っていた。しかし、具体的な行動に移すとなると、これはなかなか大変で、時期、目的を、いつ、なににするか、迷ったものである。これに決断をつけたのは今年3月10日から11日にかけての“さんふらわあ5”による東京―高知処女航海の試乗である。フェリーとしては世界一の大きさと豪華さを持っているこのフェリー、この処女航海の高知到着の挨拶で溝渕高知県知事は、このフェリーによる生鮮野菜などの輸送への期待を語った。よし、このふたつを結びつけよう、そう決意すると、早速、実行だ、企画書もスラスラ書けた。こういうとき、ワンマン会社はまことに都合がよろしい。経費も試算すると、3万円くらいはかかる見込だが、筆者の負担。土佐へ来て頂くのである。いわば自宅へご招待するようなものだから、ご馳走するのは当然で、1人当たり2万円に押さえて不足分は主催者負担とする。企画書を配布するのは日頃お世話になっているメーカーの人ばかりだから、そのお礼の意味もある。定員の30名については集めるのに苦労はいらないと考えていた。
 定員はすぐ一杯になった。こちらの希望するとおり、自動車、バン、トレーラ、コンテナ、冷凍車、その他のバランスも取れている。
 …高知県側の受け入れ体制も、5月連休明けに高知へ飛んで、高知県園芸連、三翠園ホテルと話し合った。出来るだけ大きな鯛の活けづくりを作って貰うことも、観光バスのガイドにいい人を選んでほしいことも要望しておいた。高知に住んでいる筆者の父も何くれと世話を焼いてくれた。
 …あとは当日の天候次第、…神経の図太いことでは人後に落ちない筆者もこれには参った。5月23日、当日になっても天気ははかばかしくない。雲ゆきも悪くパラパラと雨さえ降る始末である。天われに予(くみ)せず、かと嘆いたが、なんと当日の午後3時頃になって一天にわかに晴れ上がって青空が見えだした。よし、いける! 

 東京駅の待ち合わせ場所へは定刻の30分余りも前から続続参加者が集合した。殆どが顔なじみだが、数人の初対面の方がある。
 フェリーの船室やホテルの客室の割当も考えればキリのない話。名簿順にやってゆく。東急車輌の中川氏、竹前氏に船室券を渡して頂く。主催者側は筆者ただひとりなので、とても手がまわらない。

 午後8時すぎ乗船。それぞれ割当の船室へ消える。一等船室は2段ベッドふたつにソファーベッドの5人定員だが、これを4人で使用。…スナックバーへ出かけてみるといる、いる、殆どうちのメンバーである。窓外に東京の灯もまたたき、いいムード。

 定刻どおり、午前9時から洋上セミナー。場所は最上階のグリルを借切って、窓外には紀伊半島の山山を眺めながら風流なセミナーである。…
 トップバッターは筆者。農林省の担当官に乗船を依頼したのだが、来年度の予算編成に入っているので参加はできないので、資料を預かっていたのを筆者が読み上げた。…
 一服して、東急車輌製造の物流プロジェクトチーム・リーダーの中川政宏氏の“長距離フェリー航走システムのハードウェアについて”の講義である。テキストはB5版で34ページの立派なもの、これだけでも2万円の値打ちはあろうかというシロモノ、実に微に入り細にわたったテキストで恐れ入る。中川氏なかなかユーモアにも富んでいて、ときどき笑わせる。中でもコンテナのキン定装置は傑作。
 予定にはなかったが、飛入り講師として日産ディゼル工業の第一設計部主任技師の平坂道雄氏が大型車の公害規制について一席。
 平坂氏は、自工会の代表として各官庁や団体と折衝している人で、まさに最適任。騒音に引き続いて振動も今後は問題になるだろうと示唆に富んだ話である。
 定刻を30分延長して12時半までみっちり講習。外部の講義はなかったが、これが本当の切磋琢磨で、お互いに勉強し合う姿勢こそが大切なのである。

 一服して事務長の案内で船内見学へ。車輌甲板ではキン定装置や、冷凍機用電源について熱心な質問がつづく。一流ホテル顔負けの豪華な貴賓室におどろいたりしているうちに、船は室戸岬沖にさしかかる。全員船橋ブリッジへ。
 空は青く、海は青黒く、室戸岬の灯台はわれわれを迎える、何たる感激!東の室戸岬、西の足摺岬、この両岬に抱えこまれるように土佐湾が拡がる。○○湾というのは多いが、これほど間口のひろい湾はどこにもない。これは湾というより土佐灘とでも称すべきものだろう。その土佐湾へ船は迂回して入ってゆく。
 ブリッジは一般公開しないところで特にこの団体のために開放したもの。

 5時定刻、高知フェリー埠頭接岸。全員下船したと思ったが4人足りない。ホテルゆきのマイクロバスは先に出発させたが、待てども降りてこない。タラップも外しかけたので、先に行ったんだろうと思って、タクシーでホテルへかけつけたがやはり4人足りない。あとで聞いたところでは、ある一室の4人、まだまだ着岸しないだろうと、のんびり船室で喋り合っていたが、周囲が急に静かになって出てみたら、タラップを外しかけていたので、あわてて下船したという。(つづく)

 ガイドさんはなかなか愛嬌のある人。よく観光バスのガイドで見られる流れるようないわゆるガイド調の説明をしない。沿道に大きな旗が五月の空にひるがえっている。フラウという。英語ではフラッグ、フラウというのはオランダ語、筆者の育った漁村でも漁船のあげる大漁旗をフラウといった。このあたり揚がっているのは鯉幟りと同じような意味で使用される。
 沢山の鯉を飼っているレストランで中食。ここでも鰹のたたきが出たが、このバスガイドさん、よく飲み、よく食べる。酒飲み天国土佐の女性らしい。ほんのりと赤くなって、たたきのにんにくの臭いを気にするのか、これからあと口を押さえたり、前を向いたり、いささか変調になり、公害問題を論じたりする。大体、高知の人間は議論好きなところがあって、犬が利口か猫が利口か議論し合って夜どおし酒を飲むといわれる位、議論をさかなに酒を飲むクセがある。
 そのうち、このガイドさん“どうしてこのバスはこんなにガタガタなんでしょうねエ”と、酔った挙句、とんでもないことを言い出した。このバスのメーカーも乗っているのである。さすがに気が引けたのか、“わたしの会社も経営が苦しいんで、お金を払わないからでしょうかねエ”と喋り出す。このバス高知県交通は倒産状態なのである。既に人妻のベテランであるらしいが、かなり人を食ったガイドではあった。

 夕食をとった大西観光はえび料理で高知で知られたところ。ここでも昨夜には及ばないが、鯛の活けづくり、鰹のたたき、えびの活けづくりである。昼もたたきは出たので、三食続きのたたきぜめで、もう皆さんうんざりしたのではないかと思ったが、きれいに平らげてくれた。
 父が皆さんにおみやげものを配り、ひとり、ひとりと名刺交換を始めた。この日、父は朝から観光バスにも同乗して、何くれとなく世話を焼いていたものである。丸友商事代表取締役というあやしげな名刺を配るのはまさに汗顔の至りだが、72歳の誕生日もすんで天皇と同じ年であることを自慢する父に何をいっても始まらない。子供の主催する行事にせいいっぱいの努力をする父の姿は、やはり有難い。…
 筆者の日頃親しくさせて頂いている人達にお目にかかって父は本当に幸わせそうだった。父にとって筆者は心配のタネであった。他の弟妹は銀行員、公務員、会社員と堅実な職場なのに筆者ひとり、ジャーナリストくずれのようなことで、いったい東京で何をしているものか、生活的にも落ち着かない時代が余りにも長かった。今度の企画でおぼろげながら筆者のしていることがわかったようである。これも親孝行か。

 日は変わって5月26日、朝6時半、フェリー“なにわ”はもう大阪南港に入っている。全員、スナックバーのあるラウンジに集まり解団のあいさつを行なう。先ず主催者の増田から殆んど奇蹟的ともいえる好天に恵まれ、参加者全員のご協力により、このような呉越同舟の混成団体が最後まで和気あいあいと終始できたことはこの研修視察団の目的を十二分に果たしたものでまことに感謝に堪えない、ぐっとこみ上げてくるものがあり、あとは言葉にならない。
 参加者を代表して東急車輌の中川氏から、主催者および、主催者の父の協力により参加者に十分の満足を与えて頂いたことを感謝する、と丁重なあいさつがあった。

 いささか長い記事となった。筆者にすれば全部の読者とこういう旅行をしたいのであるが、不可能なので、読者代表の方方と出かけたつもりである。この記事は参加できなかった読者の方方へのレポートである。



 
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みなさんさようなら

2013.05.12 23:36|「周作閑話」
―周作の「閑」―

 
昭和54年3月号「周作閑話」から

 私は仕事も作り出しているかわりに閑の方もまた積極的に取り組んでいる。昨年アメリカに行って、通訳を入れて話すことのロスを痛感したので、一念発起して英会話を始めた。五十の手習いならぬ口習いである。いささか記憶力も衰えて、もどかしい限りであるが、リンガホンのカセットとテキストを買って、通勤の電車の中でも聞いているし、先日の近畿、中四国の出張中も新幹線、鉄道、バス、船の中でずっと聞きどおしであった。

 こうしたなかで閑な時間を1日最低1時間は作り出している。早起きで、4時位には床を出るが先ず乾布摩擦をして、机に向かい、30分位書道をやる。それから原稿書きや英会話の練習をして6時15分となると、テレビ体操、6時半からNHKの教育番組大学講座を見聞しながら墨を磨る。これで字を書くのである。それから洗面、朝食となり出勤する。
 最近は事務所に硯を持ち込んで、ちょっとした合間に墨を磨り筆を取る。何とも心の安らぎを覚える一瞬である。
 先日、ある自動車メーカーの方から、芸術品ともいえる筆の5本セットを頂いた。その軸には増田周作用筆と彫り込まれている。私はまだこのような専用筆を持つほど字も上手ではないし、そのような身分でもないが、そのメーカーの車1台無料で貰ったよりはるかに嬉しかった。
 このような立派なものを頂くと、ますます忙中の閑を作り出さねばならなくなる。真剣に求めると、それにふさわしいものが与えられる。機縁というか、人生とはまことに不可思議であり、興味の尽きないものである。(2.9.記)


みなさん さようなら

2013.05.07 02:28|「周作閑話」
土佐出身 脱藩の坂本龍馬と脱サラの増田周作


―私にとっての龍馬―
1997年(H9) 1月号「周作閑話」から

 10月9日にトラックショー報告会を交詢社で開催した時、トラックショーを成立させた要因として私は論語の義と、坂本龍馬の何ものにも束縛されない自由な考え方と行動力、そして交詢社を創立した福沢諭吉の在野のジャーナリズム精神を取り上げたが、殆ど時を同じくして週刊朝日10月18日号に『日本の朱子学と楠木正成』に論語、龍馬、諭吉が登場した偶然の一致には少なからず驚かされた。

 司馬さんは日本の朱子学や日本陸軍にきびしい目を向けていて、朱子学によって軍部はあんなばかな戦争をやったのだとする、細川護貞氏(元首相の父君)と狩野直喜という漢学者の対話を載せているが、少し飛躍し過ぎた話の引用ではないかと私は不満である。

 龍馬は成すべきことを成し終えた時点で33歳の誕生日に死んだ。龍馬が生きていたら、という話もあるが、それ迄の彼の業績に匹敵する仕事は明治以後にはもう残されてはいなかったと思う。岩崎弥太郎は三菱を創ったが、龍馬には無理である。この点では吉田松陰、高杉晋作にも共通することである。

(「東京龍馬会」の10周年記念式典で童門冬二氏講演後)パーティーに入って、いきなり乾杯かと思ったら小渕恵三国会議員や顧問の先生方の祝辞が続いたが、わが師安岡正篤先生が故佐藤総理の依頼によって選定した「平成」の元号を発表した元官房長官が大の龍馬ファンだとは知らなかった。

 若い人に龍馬ファンが多いのは喜ぶべきことだと思うが、単なるファンの集いであっては、龍馬にとっても不本意であろう。それぞれの生き方の中に龍馬をどう投影させるか、周辺にどれだけ影響を及ぼすことができるかを真剣に考えなければならないと思う。
 脱藩ならぬ脱サラをした私は、龍馬のように天下国家を動かすことはできなかったが、トラックという狭い分野ではあっても龍馬的行動をとってきたとの自負はある。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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