みなさんさようなら

2013.07.29 03:03|「東京トラックショー」
交詢社 

(写真右から 日本フルハーフ社長 輸送機工業社長 新明和工業社長 東急車輛製造社長 増田周作 極東開発工業社長 パブコ会長 日本トレクス社長   2000.4.19 交詢社)

2000年(H12)6月号「NewTRUCK」

モーターショーとの競催で
車工会と予期せぬ激突が

 ほぼ三十年、私はトラックと共にあったが、その主要な部分を構成していたのは車体メーカーとのおつき合いである。車体メーカーを軸に回転していたといってもよい。月刊誌の名称が「特装車とトレーラ」から「NewTRUCK」 に変わってもその内容は殆ど同じであるし、トラックショーも、車体メーカーを主体に構成されている。
 その車体メーカーの多くが所属しているのが(社)日本自動車車体工業会(以下車工会と略称)だが、この団体との相性はあまり良いとは言えなかった。昨年後半から今年にかけて、その相性の悪さは頂点に達した。
 言う迄もなく、トラックショーと東京モーターショー商用車(以下モーターショー商と略称)との激突である。
 その業界を基盤にするいわゆる業界誌と業界団体が、それに属する会員メンバーを展示会で奪い合うという事態はまさに前代未聞だろう。両者が提携して展示会を開催するのが一般的だから、まさにその逆を行ったことになる。行き着くところ迄行ってしまったという表現が正しいかも知れない。
 その原因は車工会の体質と、私の気質という根元的なところにあった。
 車工会は自動車メーカーで組織している(社)日本自動車工業会(以下自工会と略称)の下部組織である。このところずっと、自動車メーカー直系の車体メーカーの社長もしくは会長が車工会の会長に就任していることからも、それは裏付けられよう。……
 しかし、車工会のトップはそうであるにしても、独立企業である車体メーカーまでが、自動車メーカーや、ディーラーに隷属することはない、というのが私の考えであった。
 頭を押さえつけられるのは死ぬより嫌だ、という考えの持主が、最も隷属色の濃厚な業界の業界誌を出版しているのだから、これはもう悲劇であり、喜劇である。両者の体質と気質が一変しない以上、妥協点は全く見出せないのは当然だ。
 初めの頃こそ、車工会の体質問題を論じていたが、これは所詮無理であるとサジを投げて、もう言論の時代ではない、実行あるのみと、車体メーカーの隷属性と、東京モーターショーの乗用車偏重の打破を目指して立ち上げたのがトラックショーだった。
 このトラックショーに対して、理解を示した車工会の会長もいたし、前回までは、乗商併存の東京モーターショーと、トラックショーが隔年に、棲み分けながら開催してきたのである。
 その均衡を破ったのは東京モーターショーの商用車分離だった。


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みなさんさようなら

2013.07.19 23:25|その他月刊誌記事
1997年(H9)1月号「NewTRUCK」

本年の編集方針
是々非々ジャーナリズム精神一層の徹底を


 平成9年の本誌はこの方向で進みたい、と改まって言うことはないかも知れない。
 ジャーナリズムの姿勢は一貫したものであるべきで、その時その場合でころころと変わるのはジャーナリズムの名に値しない。
 しかし、ジャーナリズムの歴史は一面変節の歴史であることもまた事実で、是々非々の批判精神を貫き通すことは難しい。
 特に、いわゆる業界紙の場合は、広告や購読などを提供するスポンサーと、取材ソースがほぼ一致していることもあって、あゆ迎合のちょうちん記事で埋められる場合が多い。
 個々の企業だけでなく、それらの企業が属している業界団体やその背後にある所轄の官庁にまで遠慮して批判をさし控えているのが一般的だ。

 本誌の発行を始めた昭和40年後半は、業界のことがよくわからなかったせいもあって私は随分きびしい論陣を張っていた。社員は私以外に誰もいないし、広告はごく少ない。遠慮しなければならない団体も企業もなかったから、思う存分書けたのである。その頃の方が面白かったと言って下さる古い読者もあるし、私自身も記事を書く張り合いがあった。

 ところが、トラックメーカーはじめ車体メーカー、部品メーカーなど多くのスポンサーから広告を頂けばそのためのサービス記事を載せねばならず、記事を分散して書くものだから、ジャーナリズムの濃度は薄められる一方になった。

 そこにトラックショーが登場する。
 日本の自動車ショーが乗用車主体の東京モーターショーひとつではいけない、トラック主体の商業車ショーが絶対に必要であるとの批判記事からトラックショーは実現した。
 しかし、いざ実現して規模も段々大きくなると、記事を書く場合とは違った気くばりが要請されることになった。第4回から(社)全日本トラック協会の後援を受けているが、後援を受けながら、真っ向から批判するわけにもいかない。

 このままでは日新出版のジャーナリズム精神は消滅してしまうのではないかという危機感をひしひしと私は持つようになった。
 昨年10月9日に開催したトラックショー報告会では、会場の交詢社創立者福沢諭吉の在野ジャーナリズム精神に触れて、これからはジャーナリズム精神に徹した運営を行ってゆくと宣言した。最近の本誌で官僚規制についてかなり厳しい論陣を張っているのもその一環である。但し、一方的に批判するだけでなく、本号の全ト協野間理事長との対談のように、官、団体側の考え方も取り上げて、その判断は読者に委ねるつもりである。

みなさんさようなら

2013.07.01 11:35|その他月刊誌記事
7月1日・8日・15日にアップしたのをまとめました。(妙)

1971年(S46)11月号「特装車とトレーラ」 

私の坂道
冨田英三画伯《日本の坂道》風景展によせて

 幼い頃の坂道の想い出は村祭につながる。四国の西南端、山々がそのまま海に落ちこんでいる小さな漁村で私は育ったので、どこへ行くにも坂道ばかり、その峠をふたつ越えた隣のまた隣の部落に母方の同年のいとこがいた。あちらの言葉では「おいとう」と呼ぶ。おいとこの転化だと思うが、土佐には荒っぽい風土に似合わず言葉には優雅なものが多い。
 このおいとうさんとは祭に呼んだり、呼ばれたりで、8キロばかりの坂ばかりの山道を喜び勇んで出かけたものである。峠をひとつ越えて小さな漁村を過ぎて又坂道にかかる。喘ぎながら上りつめた峠から見る壮大な眺望は、後年になって思い出してみても、ほかに比較のないほどのものであった。このあたり、九州と四国の間の豊後水道(ぶんごすいどう)が太平洋へ開けた海域で、天気の良いときには九州がうっすらと見え、右手には愛媛県の山々、眼下には柏島、檳榔(びろう)島、沖の島、姫島、鵜来島(うぐりしま)が連なる。この島の線から外側は、果てしない太平洋の水平線である。たまたま落日にさしかかると、海域一面が朱に染まる。
 この峠を下りきった浜辺にその部落の鎮守の社があった。幟が浜風にはためき、坂道を下るにつれて太鼓の音が耳に入ってきて、何時の間にか走り出している。
 その夜は玉川成太郎なんとか一座が、丸太で組んだ特設の舞台にかかる。
 お祭がすんで帰りの坂道はきつかった。夕陽(にしび)を背中に浴びて足取も重い。歓楽というほどのものでないにせよ、そのあとの空(むな)しさはたまらないものだった。
 中学校から大阪で過ごしたので坂道は全く体験しなかった。大阪という街はまことに平板で、わずかに上町台地という大阪城から生国魂さん天王寺に連なる台地があるのだが、郷里での坂道を体験した私にはとても坂道といえるシロモノではなかった。
 坂道をイヤというほど体験したのは、学校を出て再び郷里に帰った翌年(昭和26年)の春、四国遍路(へんろ)に出たときである。
 なぜ四国八十八ヶ所遍路に出たのか、といわれてもその理由がいろいろあって、単純ではないのだが、整理してみると次のようになろう。
 まず、戦没学生の霊を弔いたいということ、戦後「きけわだつみのこえ」という戦没学生の手記や書簡が発刊されたことがあるが、ほんの僅かな間ではあるが軍隊生活を体験した私にとってそれらの先輩学生が余りにも痛ましかった。それから母方の祖先で八十八ヶ所めぐりの願(がん)をかけた人がいてそのまま死んでしまったのでその願をほどくという意味もあった。その頃、私は体、特に胸部に異常があると医者から注意されたことがあるので乱暴な話だが…八十八ヶ所霊場めぐりで、その決着をつけようという気持ちがあった。今から考えるとずい分無茶をやったものだが、不思議なもので、霊験あらたか、その後異常はピタリとなくなり、以来健康そのもの、20年間一切医薬知らずである。こんないろいろな理由が入り交じっての四国遍路であったのだが、始めは誰も本気にしなかった。

 それでも母親は経かたびらのような四国まいりの衣装一切を作ってくれて、納経箱、金剛杖、数珠、饅頭傘と姿だけは一人前のお遍路さんが出来上った。傘には

迷故三界城  まよいゆえさんがいのしろ
悟故十方空  さとりゆえじっぽうのくう
本来無東西  ほんらいとうざいなく
何処有南北  いずくにかなんぼくあらん
同行二人   どうぎょうふたり

ときまりの字を書く。同行とはいうまでもなくこの四国霊場の創始者弘法大師と一緒という意味である。
 四国は海と山の国、八十八箇所の札所(ふだしょ)には室戸岬や足摺岬のようなところにもあるし、石鎚山横峯寺とか雲辺寺といった高い山にもあり、かなりの難所もある。いまは、バスやマイカーで廻るのがほとんどらしいが、やはり、高い山々へは歩くより仕方がないのではあるまいか。
 次何十何番へ是れより二里三丁といった石の道しるべを頼りに盲人でも霊場めぐりは出来るといわれているが、真剣な信仰に支えられた遍路よりも昔は乞食遍路と呼ばれる人の方が多かったようである。…家族と別れて四国遍路に出てそのまま、行き倒れとなって死んでいったのでその人たちの無縁墓がこの遍路道の至るところに見られたものである。社会福祉、厚生施設の薄かった時代家族からも見放されて、この四国遍路に出て大師様に縋りながら誰に見とられることもなく死んでいった多くの人たちの小さな自然石を置いただけの墓に合掌しながらの遍路旅はいま想い出しても胸が痛む。
 ともかく坂道が多かった。徳島県の札所など丸一日は歩いて人間にお目にかからなかったところさえある。行き暮れると雨露さえしのげれば横になって寝る。始めのうち、一日、8里(30キロ余り)の行程がきつかったが、そのうちに何ともなくなり、お経もだんだん上手になってくる。何しろ八十八のお寺でお経をあげるし、家の門(かど)に立って喜捨も乞う。1円、皿1ぱいの米、お彼岸の時にはぼた餅などいろいろ頂いた。
 いろいろな点でこの四国遍路はそれからの私の生き方に大きな影響を与えた。もう一度、杖をひいて、四国の山々を歩いてみたいと思うが、とてもそういう日数がとれそうにないし、札所も大きく変っているであろう。

 雨に濡れた石だたみの長崎のオランダ坂、京都の東山山麓の寺々への坂道などそれぞれ風致もあり、想い出に残る坂道も多いが、小供の頃のお祭に呼ばれたとき嬉々として越え、うらがなしい思いで帰った坂道、多感な青年のころあれこれ想念をめぐらしながら杖をひいた四国霊場の坂道は何としても忘じ難い。坂道にこういった想い出を持つことができる私は幸わせである。
 人生行路の方でいうと、これはもう坂道だらけ。よくこれだけ坂道ばかり続くものだとほとほと感心させられる。ともかく平坦な道という経験がないのである。何時も息を切らしながら坂道を上っている。行けども行けども果てしない坂道。山の坂道には峠があり、眺望も開けるし、あとはラクになるのだが、この坂道はきりがない。まさにどこまで続く坂道ぞ、である。

 日野自動車販売(株)の月刊機関誌 HINODE〈日ので〉、は同種の雑誌のなかでも格調が高いものであるが、その巻頭を飾って冨田英三画伯の坂のある風景がこれまで10回にわたって連載された。冨田画伯はそのソフトな漫画で、多くのファンを魅了したものだが、最近は油絵、水彩、SFがかったペン画などの分野で活躍されている。その坂のある風景を中心にして画伯の近作をまとめた《日本の坂道》風景展が10月11日から16日まで東京銀座6丁目交詢社ビルの大倉画廊で開催された。日野自販の綜合企画部の久世喬平氏からご案内を受けて、参観する機会を得た。
 自動車ディーラーの機関誌なのにこの坂道シリーズには自動車は一切登場しない。もともと坂道とは自動車とは無縁のものであるのだが最近はドライブウェーとやらが全国の山々に開通してしまった。そういう時勢のなかで自動車の出ないシリーズを通していることについて日野自販の見識に敬意を表したい。筆者も京都、某寺の門前の坂道の小品を購めたが、濃い色彩のなかに白壁がくっきり浮いて、いい作品である。

 この風景展が縁となって、冨田画伯に本誌周作対談のさし絵をお願いすることになった。
 画伯は最近はテレビに出演したり、女性風俗の方面でも活躍されておりずい分お忙しいようであるので無理だと思ったがお願いすると快く引き受けて下さった。その第一作が本誌を飾っている。対談もののはしり、この夏亡くなった徳川夢声老の問答有用のさし絵は横山泰三氏であり、同じ週刊朝日の大橋巨泉氏の巨泉の真言勝負は中川懸司氏がさし絵を、無名の筆者には過ぎた画伯のさし絵を書いている。さし絵に負けないよう頑張らねばと張り切っている次第である。

 それにしても縁とは不思議なものである。袖すり合うも他生の縁という言葉もあるが、人の世のこと、すべてこれ縁につながらないものはない。周作対談もまだまだ続けるつもりであるし、画伯にも末長く健筆を奮って頂き、折角のご縁を長く続けてゆきたい。



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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