みなさんさようなら

2013.09.10 01:20|「東京トラックショー」
昭和59年、漸くにして成立した「第1回トラックショー」のドキュメントを掲載します。
世の中には多くの創立者・創業者がいますが、自らの筆で克明に記録し続けた人はそう多くはありません。
「社会の木鐸(ぼくたく)でありたい」というジャーナリスト精神と、恩師安岡正篤先生から示された「日に新た」を亡くなるまで実践しようと努力した父でした。
「自分でもよくやったと思うよ」の病床のつぶやきが、「幸せな人生だった」と何度も述懐した晩年の言葉に重なります。(妙)


1985年(S60)1月号「New TRUCK」
ドキュメント 
トラックショーもの語り

 私は決断は早い方である。…社員から決裁を求められても大体即決するのが通例だ。大学を出て、サラリーマン生活に入らずに郷里に帰って父の土建業を手伝う時、その土建業に失敗して大阪に出る際、またサラリーマン生活に袂別する、そして東京に出てこの雑誌をやるように求められたとき、そのいずれもわが生涯の行方を決定する大事の場合でも、私は半日と考えたことがない。
 ところが、トラックショーでは平素の私に似ず、まことに優柔不断、考えに考え、迷いに迷って、決断を下すことがなかなか出来なかった。
 昭和59年が、私にとってトラックショーを実現できる最後の年になるであろう、このチャンスを逃したら、再び私の手によるトラックショーは絶望となる、いやわが国でトラックショーが開催されることがたとえあったとしても、それはかなり将来のことになる、ということは殆ど確信となっていた、のにである。
 迷いの最大の原因は、もし失敗した時、どう収拾するか、ということであった。4年前、梶原清衆議院議員(元運輸省自動車局長)を担ぎ出して見事に失敗しているが、この時は自動車工業会が反対したから成立しなかった、という理由づけも可能であった。
 しかし、日新出版、つまり私の単独主催の場合にこのような言訳は許されない。私の愛誦し、現在月例講座を開いている論語に「過チテ改メザル、コレヲ過チト言ウ」という言葉がある。一度の過ちは許されるが、再び同じ過ちをすることは許されない、という意味である。
 それらの精神的、心理的原因の他に、失敗した場合、果たして財政的に日新出版は立ち直れるだろうかという、現実的な問題もあった。
 前回は、具体的に出品勧誘をする前段階で潰れてしまったから、損失も比較的に軽微だったが、この次はいきなり出品勧誘から始めなければならない。会場確保その他、打つべき手は打って乗り出す必要がある。

 また、私の年齢から来る限界もあった。59年の8月に58歳を迎えたのだが、一般のサラリーマン社会では定年にはならないまでも、第一線を退く年令である。役員などトップに上ってゆく場合には集団指導体制に組み込まれて、その一身に経営上の全責任を負うことはない。
 トラックショーという、いわば乾坤一擲の大勝負に打って出る肉体的、精神的強靱さが果たして58歳の私に残されているだろうか。

続きを読む >>

スポンサーサイト

みなさんさようなら

2013.09.02 10:17|「東京トラックショー」
2005.8.29 「増田周作のおはようコラム」
「トラックショー」初志貫徹の第一歩

 8月26日開催の「2005東京トラックショー説明会」で、私は次のような挨拶を行った。
 関係者の皆さんのご協力で、従来にも増して盛大に開催の見通しが立ったことに対して厚くお礼申し上げる。2000年来、日本自動車工業界主催の東京モーターショーから分離した商用車ショーと競合関係にあったが、商用車ショーの方は昨年開催の第3回で中止となり、トラックショーがわが国で唯一の商用車専門ショーになった。昭和55年、トラックに関連する業界挙げての組織運営母体によるトラックショーを企画したが、自動車工業会の反対に遭って挫折、やむなく昭和59年に日新出版単独主催でトラックショーを開催した。挫折から25年、第1回トラックショーから21年、ようやく初志に従ったトラックショー実現への環境は整いつつある。…今回の「東京トラックショー開場式」に臨席の徳川恒孝氏にも、従来の経過と今後の構想について詳しくお話している。徳川氏は、徳川宗家当主であると同時に、国際物流ビジネスマンとして著名であり、私とは論語という共通項を持つ間柄である。
 東京モーターショーには宮様が臨席されるが、その釣り合いで上様というわけではない。

2005 10 12 新 5015
「東京トラックショー2005」屋外会場で左、徳川様と (2005.10.12)




プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ