みなさんさようなら

『特装車』改題 『特装車とトレーラ』
1972年(S47)12月号 編集後記

どうかよいお年をお迎え下さい
 今年も暮れる。騒がしい1年だった。…今年の数多いニュースの中でも特筆すべきは田中首相の訪中であった。この訪中に対して、どの新聞も雑誌も大歓迎の意を表して、金魚のウンコのようにゾロゾロ特派員を連ねて訪中させたが、送ってくる記事はすべて同じものばかり。
 それもその筈でいまの中国に知る権利だとか、報道の自由なんてものは全くありはしないのである。発表記事があるだけ。ナンバー2であった林彪の死亡したその真因はいまでもナゾに包まれたままである。ましてその他のこと政府内部や、外交政策のこと、われわれはどれだけ中国のことを知らされているのだろうか。
 筆者はいささか臍(へそ)まがりであるかもしれない。しかし、中国一辺倒のいまのジャーナリズムには何としても我慢がならないのである。四次防にしても田中首相は周恩来首相でさえ、国防のための軍事力は必要である、と言ったから当然である、というような言い方をしたが、これでは一体どこの首相かといいたくなる。そのうえ、最近の外電の伝えるところによると、周恩来首相は「日本の軍事力はソ連に対する抑制力になる」と放言している。おそらく本音であろう。アメリカの軍事力も、ソ連への抑止力として必要である。
……
 こういう問題を何故、マスコミはもっと取り上げないのであろうか。…厖大な輸出が見込まれる、というので、経済界もまた、上げて中国詣り。政治は政治、商売は商売と割り切れる国柄であろうか。政治がすべてで、商売など、その時の都合でどのようにでも変わるのが社会主義社会の筈であって、経済がすべてに優先するエコノミックアニマルの国とは根本的に違うのである。

 先号に70を超した筆者の父のことを書いたが、先日大阪へ行って弟の家を訪ねると、父が胸を打って入院したという。なぜ長男のオレに知らせないんだ、と聞くと、大したことでもないし、その原因が、他人の喧嘩の仲裁かなんぞしていて、それに捲きこまれたものらしいので、知らせなかったんだろう、という。
 全くおそれ入った親爺である。年寄りの冷水はこういうのをいう。冷水といえば、筆者元旦には水を浴びて新しい年に祈ることをずっと続けている。その日がだんだん近くなってきた。毎朝やりたいのだが、つい無精になって、元旦だけになっている。
 初詣でしかお宮参りをしない人達とよく似ている。読者の方にも、どうかよいお年をお迎え下さいとお祈りして今年最後の鉛筆を擱(お)く。
20141。2初詣 2290
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みなさんさようなら

2012(H24)年「NewTRUCK」1月号
「わだち」(NewTRUCK編集後記)

……
 入居しているビルは築60年にもなろうかという老朽建築で、地震があると危険だからと大家に店子は脅迫されて、大方は退去した。しかし、あの地震にもひび割れ1つなくて、私は立ったままで揺れの収まるのを待っていた。
 次々にテナントは退去して、それでなくても古びたビルに灯りの点いているのはわが社だけ、ゴーストビルのようになり、最後の退去者になった。
 入居して37年、このビルには日新出版を創業して数年後からの歴史が詰まっていて、いざ出るとなると、次から次へ想い出が湧いて止め処がないほど。
 入居した当時、近在には安直な飲み屋が何軒もあって、毎晩のように呑んでいた。銀座の飲み屋にもまだ汲み取り式の便所があって、店に入るとプーンと臭ってくるが、お酒が少し入ると気にならなくなった。立ち呑みか、椅子はビールのケースを代用していた。
 ゴキブリがお銚子からお酒と一緒に出てきたこともある。板さんに文句を言うと、コッテリ脂気が染みこんでいるから、酒は美味いはずだという。
 ビルの下の一家で働いて美味かった「そば屋」、世話好きのママがいる喫茶店、手頃な値段でお客も誘って行ける少しマシな飲み屋、一帯はそういう気さくな店が多かったのに、櫛の歯が欠けるように次々と消えて行った。
 私の頭を刈って40年近くになる床屋も、主人の高齢化と客の減少で廃業、さてどこか探さなくてはと物色中だ。
 移転と言っても、歩いてすぐの所だし、下にそば屋があるのも、ソバ好きの私には、今のビルにそば屋がいた当時を想い出して嬉しい。まだ美味しいかどうか分からないが、お昼時、立ち寄ってソバを召し上がってください。
 飲み屋、そば屋、床屋の他にも想い出は一杯あるが、何時も楽しい想いをさせてくれたのはこれらの店だった。

ブログ用 東銀座ビル5966 
 2004(H16)年当時の東銀座ビル。左のブルーシートは建築中のマンション。以前は1Fの「QB」に喫茶店、右隣の角(独の国旗掲揚)にそば屋があった。現在、このビルは取り壊されて、新しい建物を建設中である。
 蕎麦は2011年12月末、東銀座ビルからの事務所移転日、引越そばと年越しそばを兼ねて、周作は通りを隔てた「長寿庵」に自ら注文に出向き、口にあったようで時々「長寿庵」へ顔を出していた。(妙)

みなさんさようなら

2013.12.17 03:18|雑記
増田周作に成り代わりまして、「お礼申し上げます」

 このたび、日新出版は銀座を出て、市川の増田家自宅へ移転しました。増田周作が上京して、北区の借家を仕事場にしてから実に42年、我が家がふたたび事務所になりました。

 日新企画(現・日新)の作った多額の借金をかぶる決意をして「2009年東京トラックショー」を成し遂げた周作はストレスからガン発症。30年以上も前から日新出版社長の座を狙っていたY氏は、分不相応な日新企画を作ってもらった恩義も感じず、好機到来とばかりにすい臓全摘手術直後に押しかけ、枕元で強硬に辞職を迫りました。周作が拒否した理由は、昨年7月号から絶筆の12月号までの「NewTRUCK」に、繰り返し書かれています。
 各所で罵詈雑言、虚言を吐きながら、しかし、Y氏は増田周作の死期を早められたものの、本当に切望したものは何ひとつ手中にすることができませんでした。日新出版の社長職、月刊「NewTRUCK」、「東京トラックショー」の主催権です。

 昨年6月以来、続く混乱の中でこれら3つを守り通せたのは、励ましてくださった旧知の業界の方々、毎月第一金曜の論語素読や各催しに参加して30年を共に歩んできた「日新論語会」の皆さん、弁護士先生方のお陰で、そのご厚情にはお礼の言葉もありません。母と二人だけでは、今日まで持ち堪えることができなかったに違いないのです。

 増田周作の生前から始めたこのブログですが、没後、ブログとは名ばかりになって今日に至りました。43年の「もの書き人生」、いろいろ書き残したものがあります。この数ヶ月の間にも父が祖父母に宛てた書簡を数通見つけましたので、いずれお目にかけようと思います。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。(妙)

みなさんさようなら

日新出版は銀座1丁目から移転しました。
新住所…〒272-0114 千葉県市川市塩焼 1-11-34 
          TEL/FAX  047-395-1117



「土佐 すくも人」第8号 1991年版 H3.10.24発行 非売品(東京宿毛会)

安岡正篤先生と幡多 (終わり)

土佐は文の国 儒学の流れ
 土佐は建依別(たけよりわけ)、武の国であると古来言われてきたし、いごっそ、大酒飲みの荒々しい気性が県民性であると思われているが、実際は辺地でありながら文を以て栄えた国であり、その威風は現在にも脈々と伝えられている。
 土佐日記の昔はさておいて、戦国時代から江戸時代初期にかけて儒学の分野での土佐の地位はきわめて重い。
 鎌倉時代から室町時代にかけての儒学は京都や鎌倉の五山の僧侶達による詩文を主にしたいわゆる五山文化が主体であったが、江戸幕府成立による徳川家康の儒教保護と奨励政策によって、武家層の間に朱子学が急速に拡まっていった。
 この時期の朱子学は大きく分けて三つの流れがあった。京都の藤原惺高、林羅山などの京系朱子学、薩摩に興った薩南朱子学、土佐の海南朱子学(南学)である。山口の地で栄えた大内文化の流れの桂庵が薩摩で、南村梅軒が土佐で朱子学を拡めたのだが、薩摩はその後に勢を失ったのに較べて土佐では、忍性、信西、天室、特に天室の弟子に谷時中、さらにその弟子の野中兼山、小倉三省、山崎闇斎によって大いに振るった。特に京都から吸江寺に禅の修業に来ていた闇斎が、谷時中や兼山の指導を受けて仏を捨て儒に入り、江戸期を通じての儒学の巨峰となり、わが国学問史上、きわめて大きい影響を後世に及ぼした。
 幡多においても学問は大いに興り、宿毛伊賀氏膝下の講授館(後に文館、さらに日新館と改称)で酒井南嶺などの指導のもとに政治、実業或いは文化事業に活躍する幾多の人材を輩出したことは読者のよく知るところである。
 安岡正篤先生は世に陽明学者と呼ばれることが多いが、先生は朱子学、陽明学そのいずれかに枠組みできる人物ではない。いずれにせよ、江戸初期の武家学問の興隆期と、昭和動乱期に儒学の倫理を以て一世の指導者となった二代巨人が、深浅の差はあるにせよ、土佐又は幡多にゆかりを持つ人物であることに大きな感慨を覚える。
 大月町出身の叔父伊与田覚の安岡先生と論語への献身は土佐南学とは形を替えながらも儒学への現代の果敢な取組みであろう。筆者の毎月一回の論語講座は、経営する出版社名に因んで日新論語とも呼ぶ。宿毛小学校の前身は日新館、血縁、道(学)縁、地縁の不思議さをしみじみと思う。
12233野中兼山
(野中兼山遺族の墓地 高知県宿毛市) 
            

みなさんさようなら

(株)日新出版は今週13日(金)をもちまして事務所を立ち退くことになりました。
今後のことにつきましては、また順次追って皆様にお知らせいたします。(妙)



「土佐 すくも人」第8号 1991年版 H3.10.24発行 非売品(東京宿毛会)

安岡正篤先生と幡多 ④

 昭和24年、東京に安岡先生を中心とした全国師友協会が発足、関西師友協会はこれに遅れること8年の昭和32年のスタートであるが、その前にも「先哲講座」などで安岡先生の大阪出講は屡々であった。昭和22年か23年ごろある印刷所の狭い2階で先生のお話を拝聴したが、戦後初めての頃の出講であったと思う。
 伊与田は学生のための教育宿泊施設の有源学院を主宰すると共に、関西師友協会の設立に奔走していたが、この時期、筆者は大月町に帰っており、関西師友協会発足とほぼ時を同じくして上阪、新聞社づとめの傍ら青年部長に就任して後輩の指導に当たった。
 安岡先生は毎月のように大阪に出講、各地にも師友協会ができて、乞いに応じて足を伸ばしている。幡多を訪ねたと思われる昭和39年を見ると山形、仙台、群馬、香川、高知、愛知、伊勢、岐阜、大阪、奈良、八尾と寧日なき有様である。
 同人と青少年の切磋琢磨の研修施設をとの伊与田の願いは、多くの賛同者を得て、昭和44年に(財)成人教学研修所として実現、関西師友協会事務局は同志に委ねて、研修活動に専念することになった。この年に筆者は上京、出版界に身を投じた。

 昭和58年、安岡先生重態となり、東京の全国師友協会は先生あっての師友会として解散を決定した。しかし、関西師友協会は新井正明会長(住友生命名誉会長)の「文王亡シト雖モ猶興ル」の決意もあり、同人もまた結束してその維持発展を誓い合った。安岡先生の本葬が岸信介元総理を委員長として青山斎場で執り行われた後、参列のため上京した伊与田を始め事務局の人達、同士20数名を筆者は某所に案内して、ますます意気を盛にして師友の活動を発展させることを確かめ合ったのである。

 伊与田はその後、成人教学研修所内に論語普及会を設立、自ら浄書した『仮名論語』頒布と研修所での講座、全国各地への出講を通じての東洋倫理道徳の高揚に75歳の心身を捧げ尽くしている。筆者もまた、銀座の事務所において毎月第一金曜の夕刻、6時半から論語講座を開いて一度の休みもなく既に10年目に入っている。
(次回12/13【金】アップは「安岡先生と幡多」の項、最終回)

みなさんさようなら

「土佐 すくも人」第8号 1991年版 H3.10.24発行 非売品(東京宿毛会)

安岡正篤先生と幡多 ③

安岡先生と幡多の深い人縁
 安岡先生と幡多の縁は、養家が幡多の出であることによるのだが、養父もまた高知から養子に入って東京に永く住んだことを考えると、極めて薄いものであったと思う。
 しかし、その浅い地縁を補って余りある深い人の縁が安岡先生と幡多の間には存在する。その人とは筆者の叔父、大月町橘浦出身の伊与田覚で、大月町弘見の大井田家から嫁を迎えているが、宿毛で盛業中の大井田医院などもその一族である。
 筆者の母の弟、伊与田覚が大阪の師範学校入学のため、上阪していた父の元に身を寄せたのは筆者4歳の頃であった。筆者の中学生時代から大学卒業までは今度は叔父の家に寄宿して、それから後も安岡先生の教えによる道の縁は現在に及び、血縁と道縁による叔父甥の結びつきは60年を越えた。
 小学校の教師をしていた伊与田に連れられて初めて安岡先生のお話を拝聴したのが、昭和15年か16年、筆者の中学2年か3年の頃であった。後年の安岡先生は程よく肉もつき顔も赤みを帯びて温容になられたが、40歳代の先生はカミソリのような鋭さがあった。
 その時のお話は三国史であったが、諸葛孔明とは先生の如き人ではなかったかと思ったものである。場所は大阪の北、箕面にある金鶏書院で、東京の金鶏学院の分院という形で、安岡先生のお話を拝聴すると共に同人講究の場として大阪の有志が昭和8年に設立したものである。
 求道心に燃える伊与田は蓮沼門三先生の修養団、西田天香先生の一燈園などの門も叩いたようだが、終戦後程なく太平思想研究所を設立して以来はひたすら安岡先生に傾倒、そのうちに教職も抛(なげう)って、先生の教えの鼓吹と同人研修、青少年の育成に奔命することになった。太平思想研究所は終戦の詔勅の「万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス」から引用したもので、安岡先生が内閣の依嘱により原文に付加されたと伝えられる。(つづく)
プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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