みなさんさようなら

2014.02.10 01:42|その他月刊誌記事
試乗展示会
   (写真)
   夢のまた夢――昨年11月本社主催の試乗展示会で
   向こう側第2セントラル、手前第6セントラル、2隻揃った珍しい写真でこの姿はもう見られない
   ―川崎フェリー基地―

1972年(S47)「特装車とトレーラ」12月号
セントラルフェリーへの挽歌
―短かったその命と想い出―


薄命だったセントラルフェリー
 短い命だった。僅か1年半。昨年4月、阪神首都の二大産業圏を結ぶフェリーとして華々しく登場して、本年11月にはもう幕を閉じた。有為転変(ういてんぺん)盛者必衰は平家物語ならずとも、われわれの周囲には多いのだが、このセントラルフェリーのような例はまことに珍しい、といわねばならない。
 その原因について、もともと経営の成り立つはずがない航路であった、これにいきなり5隻ものフェリーを投入した経営者の無知、無謀を責める声は大きい。結果からみれば確かにそうなのだが、経営者をしてフェリー開設に踏みきらせたいろいろな資料はその計画が決して無謀のものではないことを示しているのである。
 そういうデータを作製した学者先生や、輸送の評論家、関係官庁の審議会委員達の責任はどうなるのであろう。全くアテにならない予測ならば、立てない方が数等ましである。その点、阪九フェリーの入谷豊洲会長はこのセントラルフェリーは成りたたない、と断言していたようで、実業家と、無責任な人達の違いである。その無責任な例が下の図である。
 この図は昭和50年におけるフェリーが必要とされる1日の往復回数をその線の太さで表したもので、東京、大阪間は1日に11往復が必要という数字になっている。60年には16.6往復という厖大な数字である。その根拠となる数字は運輸省の審議機関である港湾流通基地に関する調査委員会による需要予測から出ている。
 そういう数字を鵜呑みにするからいけないといえばそれ迄であるが、自分の腹の痛まない政府関係の事業とは違うのである。十分検討し、各方面の意見を聞いて結論を出してほしいものである。この予測では大阪(阪神―北九州)は昭和50年で4.2往復となっているが、現在既にこの数字は突破している。まことにお粗末の一語に尽きるデータといわねばならない。
 しからばお前自身はどうか、といわれると汗顔の至りであるが、これほど早く解散に追い込まれようとは正直のところ予想しなかった。数年は赤字でも、それを持ちこたえてゆくであろうと思っていた。まことにアッ気なくフィナーレを迎えてしまって、いささか面食らっているところである。しかし、短い期間ではあったが、セントラルフェリーと筆者は実に深い縁(えにし)のもとにあった。いま、その追想のページを繙(ひもと)きながら、関係の写真などを並べてゆくことにしたい。薄命であったセントラルフェリーへ、貧しいながら筆者の捧げる挽歌(ばんか)である。
日本地図



往きはよいよい帰りは荒れたテスト航海
 セントラルフェリーとの出合いはその営業航海に先立ったテスト航海から始まる。昭和46年4月6日、東急車輛の関係者の人達、トレーラ、クレーンなどのテスト車輌とともに乗船した。住友倉庫などのユーザーも同船。筆者は東急グループのなかに入っての乗船だった。往路は東急車輛の自動車工場長だった安住清氏(現在常務取締役大阪工場長)、ほかの方々と一緒。帰路は現在取締役コンテナ担当の堀田浩氏の一行と一緒になった。
 往路、紀伊水道から大阪湾へ入る頃から船内ラウンジで関係者が集って座談会を開催した。その記事は本紙昨年5月号に掲載したので、ご記憶の読者もあろう。
 この座談会で、陸路にくらべて余りにも長い航走時間が問題になった。
 しかし、出席の新阜(にいおか)正三専務取締役、小島勉常務取締役、沢村嘉寿百(かずお)営業部長は、この航走時間のデメリットを補って余りのあるメリットがフェリーにはあると、強気であった。その強気の根拠が先程あげたような資料であったようだ。

 1日おいて再び第一セントラルに乗船して東京へ引き返した。この復路はかなり荒れた。それでも、船内のバーで、東急車輛の堀田氏とウイスキーを飲めた程度であった。ところが、翌日東京湾に入っても風波はますます高い。川崎のフェリー基地に近づいたが、風に流されて接岸できない。白い波頭が牙をむき、タグボートが近づいたが手がつけられない。埠頭を目前にしながらやむなく沖合へ待避し、凪を待った。これは全く予期せぬハプニングだった。防波堤のないむき出しのフェリー基地の弱点をまざまざと見せつけられたハプニングであった。上陸できたのは定刻を8時間も過ぎた午後9時。テスト航海のこの番狂わせは、セントラルフェリーの前途の難しさを予想させるに十分で、文字通りフェリー戦線波高しの感を抱かせた。

大荒れの引越航海、トラック事故発生
 その後、8月に乗船した時はきれいな凪で、全く快適な航海だった。しかし、トラック、乗客ともに乗船率はまことに苦しくなり船内はガラガラの状態であった。開業以来僅か4ヵ月であるが、セントラルフェリーの前途が唯ならぬものであることがこのあたりからはっきりしてきたといってよかろう。

 この頃の筆者は東京での生活が多くなっていたが、大阪の家族はそのままで、いかにも不便である。そこで、適当な家も見つかったことであるし、家族を呼びよせることにした。この時に家族、家財ともにお世話になったのがやはりセントラルフェリーであった。11月3日から4日にかけてのことである。家族5人、筆者の実父と、妻の母を交えた7人と井住運送の大型トラックで、フェリーによる引越であった。このときも井住運送はフェリーを利用することについて余りいい顔をしなかった。井住運送は住友系列の運送会社でセントラルフェリーとも銀行関係などから近いのであるが、その会社がフェリー利用を渋るようでは話にならない。やはり、航走時間の長さが問題となった。

 このときの航海は大荒れに荒れた。紀伊水道を出る迄はそれほどでもなかったが、どんどん荒れ出し、潮岬あたりで頂点に達した。筆者もずい分船に乗ったが、このときほど荒れたことはなかった。前部の特等室にいた両親はどうにも居れなくなり、這って後部船室までやってきた。とても立っておられる状態でない。食堂のあたりでは瓶や食器が盛んに割れる音がする。子供は案外平気で横になっている。こういう機会だ、トラック甲板がどうなっているか、見ておきたいと思って、降りかけたがとても動けない。紀伊半島を廻る間荒れ続け、かなり治ったのは下田沖を通過した頃からである。

 家具を積んだトラックが心配でもあり、トラック甲板を見にいって驚いた。猛烈な酒のニオイである。灘の酒“白雪”を満載したトラックが荷崩れを起こして、何百本という一升瓶が割れている。その横に乗用車が2台置いてあったが、1台は大破、1台は中破である。酒に押し潰された乗用車とは前代未聞だろう。フェリー内の事故はこれまでも聞いたことがあるが、実際にぶつかったのはこれが初めてである。酒を積んだトラックの前に家財を積んだトラックがあったがこれは何の異状もない。引越用のトラックには犬を入れる箱が荷台の下に着いていて、これを開けてみると、駄犬だが子供達が可愛がっている“クッキー”はキョトンとした目を向けている。びっくりしたことだろう。
 ああ、無理をして大ゆれの最中に見に降りてこなくてよかった。いくら酒好きの筆者ではあっても、酒瓶に押し潰されての圧死は困る
 この事故は、平ボデートラックに過積した貨物が荷崩れを起こしたものである。バントラックならこういう事故は起こりようがなかったであろう。筆者の家具は東京の家へ着いて開いてみても何の異状もなかった。
 このアクシデントについて筆者は本誌には一行も書かなかった。これはフェリー側の責任というより、利用者側の責任というべきものであるし、こういう事故を公表することで、セントラルフェリー利用に影響を与えては、との老婆心からである。
 セントラルフェリーも解散したし、もう公開してもよいであろう。フェリー側は積載車についてチェックを余りしていないようであるが、貨物の緊縛、過積載のものについての監視は厳しくする必要がある。この事故はその警鐘のひとつである、

空前で絶後のフェリー実演試乗会
 昨年(1971年)の11月は慌ただしかった。月初めには大阪から東京への引越があり、例年のガイドブックも追い込みの時期に入っている。
 さらに、本誌発刊50号記念行事が控えている。吹けば飛ぶようなこのような雑誌が50号を迎えたところで大したことはないのだが、何かケジメをつけておかねばならない。そこで考えられたのが、セントラルフェリーを利用してのフェリーとトレーラシステム実演と試乗会である。大型フェリーを利用しての東京湾船遊びといった意味合いもある。
 この種の企画はわが国でも初めてのことで前例は全くない。しかも主催者は筆者ひとり、大それた試みであるが、幸いフェリー側、大型ディーゼル4社、主なトレーラメーカーの協力によりほぼ600名の来場者を迎え成功裡に終了した。
 使用したフェリーは第6セントラル、セントラルフェリーが建造した5隻のフェリー最後の船である。当初の計画では次々と同型船を建造する予定であったが、この第6で終止符を打った。(第4は欠号)

 丁度、この実演会をしている隣のバースでは第2セントラルが繋船して長大なスパーンを載せたトレーラが次々と運び込まれる。本社主催の実演会では各種のトレーラが次々とフェリー内へ乗り込む。まことに壮観であった。セントラルフェリーとしては2隻のフェリーが並んでのこの光景は空前のもので、また絶後ともなったシーンである。

 この実演試乗会は筆者にとっても大きなステップにとなった。無謀とも思えるこの試みが成功したことはこれまでのモーターショーを始めとする催しがいささかマンネリ化してきたことに対する各メーカーの批判もあったであろう。この実演試乗会の経験は非常に貴重なものであって、それが、今回の車体工業会の冷蔵冷凍車ショーの運営に対しても、筆者の参画によって生かされているのである。

 この実演試乗会は筆者にミニコミとしての自信を定着させたことでも意義が深い。組織として動かなければならない分野もあるが、言論はそうではない。一人の力でも天下を動かすことはできるのが言論でなければならない。それが忘れられて、すべての言論がマスコミ志向型になってしまった。一般新聞はもうどうにも仕様のないというまできているが業界誌はこの点、ミニコミが存在する余地は残されているように思う。
 業界誌が単に業界の寄生虫であってよい筈はないのは勿論、活字の上でだけでなく、その自由な立場を駆使しての活動の分野があってもいいと思う。フェリー、自動車、トレーラ、ユーザーをそれぞれ結びつけたこの催しは、その点でも画期的なものであったと自負している。

海員ストの影響で満船のときもあった
 セントラルフェリーとのご縁は更に続く。本誌の6月15日から17日にかけてのいすゞ自動車(株)の第5トレーラリーダー研修会のうち、16・17日にまたがるセントラルフェリー内での教育に講師として参加したものである。
 この研修会は総勢26名。本社の大型トレーラ担当者、教育担当者、各ディーラーの営業管理者が参加して行われたもの。
 ちょうどこの時期、海員ストが長期にわたって決行されており、そのあおりで、新車輸送などで、セントラルフェリーは100%の積載である。トラック甲板にぎっしり詰めこまれた車輛を見たのはこの時だけである。

1972年10月17日
              トレーラ研修会記念撮影 中央筆者(セントラルフェリー船上で)

 横浜沖は繋船中の外航船で埋め尽くされている。何百隻あるのだろうか。水平線が全く見えない。これほどまとまった船を見たのは、子供のとき、筆者の郷里土佐の宿毛湾に毎年訪れた帝国海軍華やかなりし頃の連合艦隊を見て以来のことである。茫々35年も前になる。
 その船の間を縫うようにしてフェリーは進んだ。夕食には、研修の慰労の意味もあったのであろう、メニューにはない特別の料理が並ぶ。フェリーのなかで刺身を食ったのもこの時が初めてである。参加者のなかには本誌の読者も多くいて、初対面なのに旧知のように打ちとけて歓談した。この航海はまことに穏やかであった。翌朝、船内ラウンジで講義。
 もうこの頃には東京側川崎港から大阪、神戸へ向けて毎日出航させることはなくなっており、それぞれ隔日便となっていた。5隻建造したうち、3隻は繋船して、買主を探していた。また、セントラルフェリーそのものを売却して、どこかの大手会社に運営して貰うようMO三井船舶大阪商船グループなどへ働きかけている、という噂も流れていた。既に敗色は濃くなっていたのである。

最後の行事三菱トラクタの公開テスト
 セントラルフェリーと筆者の繋がりは続く。それも、万策尽きて解散に追い込まれる寸前にその機会は訪れたのである。
 三菱自動車工業(株)が、北海道のあるフェリー会社からの依頼で、フェリーでトレーラ荷役を行う専用トラクタを製作した。その評細については本誌にも書いているからご覧頂きたいが、この専用トラクタについてはその必要性を筆者が力説していたことでもあり、納入する前に関係者に見て貰い、意見を聞こうではないかということになり、筆者を介してセントラルフェリーへ申し入れたところ快諾を得たものである。セントラルフェリーを選んだのは、東京近辺の大型フェリーで、昼間借用できるのはセントラルフェリーしかないことと、もうその時にはセントラルフェリーの解散も間近いことでもあって、筆者にすれば、最期の見せ場になるであろうと予測してのことであった。
 この催しはごく内輪なもので、昨年11月に筆者が50号記念事業を開いたときのような華やかさは全くなかった。
 しかし、セントラルフェリーと筆者をつなぐ最後の行事として、きわめて印象の深いものがあった。この10月17日を境として、セントラルフェリーは筆者の視界から永遠に去っていった。

大きな犠牲と教訓
 セントラルフェリーにまつわる想い出を綴ってみたが、このセントラルフェリーの解散は長距離フェリーに対する大きな警鐘と教訓を残した。まことに大きな犠牲といわねばならない。
 ただ一抹の救いは、従業員のそれぞれ元の会社へ戻ったり、新しい職場に移ったりして、この面での悲惨さは全くないことである。また、船舶も、既に3隻は外国に売却が決まり、あとの2隻も外国向けに商談がまとまりつつあるという。異国で活躍するとなれば、もう私達の目に触れることはあるまい。ギリシャやアルジェリアに売れたというから、地中海を走ることになるのであろう。
 セントラルフェリーの解散について、筆者はその企業責任などについてもっと触れるべきであったかも知れない。公共的な輸送機関である以上、儲からないから早々と撤収することは容易に許されることではないし、他のフェリー網に対する影響も無視できないと思う。その点に言及できなかったことをお許し頂きたい。          


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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