みなさんさようなら

2014.03.31 02:55|「東京トラックショー」
9694 テープカット
写真左/'96(東京ビッグサイト)  右/'94 (晴海見本市会場)挨拶する前田源吾氏
1996年(H8)11月号
運と人に恵まれたトラックショーの幸せ

トラックショー凝縮の開会式

 「本日ここに、180社に及ぶ出品者各位のご協力のもとに第7回にあたる'96トラックショーを開催することは私の無上の光栄とするところであります。いまから12年前の昭和59年に、晴海の国際見本市会場の一隅で、今回とは較べものにならないささやなか規模のトラックショーを開催して…」ここ迄は型どおりの開幕の挨拶が順調に口から出たが、一瞬あの日の風景が瞼に浮かぶともういけない。ぐっと胸に迫るものがあって目頭が熱くなり、すぐ後の言葉が続かず絶句した。

 「私の愛読している論語の中に“行くに径(こみち)に由らず”という言葉があります。君子は近道、脇道は避けて堂々と天下の大道を歩むものだ、の意味ですが、トラックショーもまた右顧左眄(うこさべん)したり術策を弄することなく、信じる道を突き進んでまいりました。この私の志に対して終始ご支援を賜った皆様に、心からのお礼を申し上げてご挨拶といたします。有難うございました。」

 この間2分弱。9月26日午前9時半にスタートして、主催者と来賓の6名が挨拶と祝辞を述べて9時50分にはテープカットを終了させようという離れ業のようなスケジュールだから悠々とお話ししているゆとりはない。

 来賓のトップは前田源吾全ト協副会長、84歳の老軀を名古屋から運ばれての臨席である。前田さんは日本のトラック近代化の最大の功労者だから、肩書きなど無用で、体の動く間はぜひトラックショーには出てくださいとの私の願いに「這ってでも行く」と言われた。こうして連続7回の前田さん臨席が実現したのだが、あの侘びしい第1回トラックショー開会式の時にも前田さんは私の横にいた。(2013年9月16日アップのテープカット写真参照、左が前田源吾氏)
 12年前と今と、一瞬の私の絶句の原因はどうやら前田さんだったらしい。前田さんは、7回目トラックショーと私の70歳古希のダブルセブンの祝いを述べて、さらりと日本のトラック近代化の歩みについて述べた。(つづく)

'92トラックショー 
晴海のドーム館(東館展示場)とテープカットの来賓 左・全ト協副会長前田源吾氏 右・松永義正日本軽金属名誉会長
92TS ドーム館
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みなさんさようなら

'70ガイドブック
※ 3月8日にアップした記事の中で、遅くなったことをお詫びしていたガイドブックである。中には左の、前田源吾さん推薦状が挟み込まれていた。44年前のもの。まだ大阪―東京を行き来していた頃で、自前の事務所もない人間の、推薦状を書いてくださった前田源吾さんにはただ感謝である。(妙)

'70ガイドブック 1970年(S45) 「特装車とトレーラ」4月号
編集後記

 '70ガイドブックをお届けする。新年早々、着手したのだが、そろそろ花だよりも聞かれようという季節になってしまった。遅れたことを深くお詫びしたい。
 できるだけ、直接取材をするということで、ずい分あちらこちら走りまわった。雪の深い新潟、雨で困った九州、さすが暖かかった南国高知など。おかげで、それぞれのメーカーの姿がナマで捉えられたのは大きな収穫であった。百聞は一見に如かず。

 編集の遅れた原因として、当方の努力不足もあったが、メーカー側の資料不備も大きな原因であった。〆切何日までとお願いしてあっても、なかなか、揃っていない。間違いなく送るからと言われても、待てど暮らせど資料は届かぬ。何回も足を運ばねばならぬところも多かった。

 その点、やはりトップメーカーあたりは、さすがに、キチンと、資料が整備されており、スムースに取材できた。人手不足ということもあろうけれども、情報時代といわれる現在、自社製品の写真や、データ位はすぐ引き出せるようにしておく必要がある。特装車、特種車は一品生産であっても、相手と相談しながら仕様を決めてゆくという行き方もあろうが、シャシーメーカーもドシドシ特装部門へ乗り出してきている以上、誰でも、よくわかる資料を作っておくことが営業上も大きなメリットをもたらすのではないか。
 
 カタログひとつにしても、ずい分おざなりなのが多い。カタログは何といっても重要なセールスポイントになるものだけに、すみずみまで配慮の行き届いたものであってほしい。お金を沢山かけたからいいものができるとは限らないが、セールスマンの代行をするものと思えば、あまりケチケチするのは考えもの。

 歴史の新しい産業だけに、各メーカーの考え方もマチマチだ。同じところから出発して、細々と、車体の修理や、月に何台かの一品生産の宣伝車や何かしかできないところと、グングン時代の要求するものを考えて、真剣に取り組んでいるところでは格差はますます広がるばかり。成長産業といわれるなかで、成長することは簡単に見えてなかなか難しい。成長産業であるだけに、他部門からの進出も多く、従って、競争は烈しくなる一方であり、停滞は落伍を意味する。これからして1,2年が肝心で勝負どころであろう。

 印刷所から上がってきたゲラ刷りを校正しているとああすればよかった、この部門も取り入れておいたらと悔やまれることがやたらと多い。しかし、如何ともならず、原稿のまま印刷機にかかってしまう。出来上がりを見るのが楽しみなような、それでいて恐ろしいようなまことに複雑な、現在の心境である。

みなさんさようなら

2014.03.20 03:18|「手紙」
母上様
手紙3月20日

暖かくなったり、寒くなったり、一向に定まらない天気が続いています。先日は○○子(三女)にお祝い有難うございました。それぞれ卒業式もすんで四月の入社式、入学式を待つばかりです。○子(次女)の謝恩会には私も出席しましたが、何百人の男女のなかでトップで、早々と慶応に決まっていたものですから、他の父兄からお祝いをうけたり、羨ましがられたり、親としては肩身の広い思いをしたことでした。あんなに弱かった子が、体も大きくたくましくなって、工学部という、いちばん男らしい学部に入ることになろうとは全く考えもしませんでした。男50人に女一人という割合の学生生活で、どういうことになるか紅一点で大事にされるだろうと冗談を言っています。
妙子は先生への謝恩会も帝国ホテルという豪華版で、全員振袖、大騒ぎでした。…四月一日からいよいよ社会人、増田の孫うちで、いちばん早く月給を貰います。…皆と一緒にやってゆけるか心配ですが…。○○子の入った都立学校も上のクラスです。
子供達が育ってゆくことは、こちらも年をとってゆくことで、嬉しくもあり、淋しい気もします。
仕事の方、一般の情勢はきびしいのですが、私の方は順調です。…コンピューターの易で、私の運勢は後半、みごとによくなるとでているそうで、うちの本のうしろに書いたのを送りますから、読んで下さい。物事をくよくよ考えずに、これからよくなると考えていたら気が楽で、運も開けてくるというものです。
春から上京ということで私も孝子も用意していたのですが、ちょっと拍子抜けです。宿毛に腰を据えるということでなしに、東京の夏は過ごし易いし、冬の寒いときは土佐で、という具合に自由に考えたらどうですか。飛行機もあることで、移動はラクです。
三月末帰る予定でしたが、仕事の都合で四月中頃すぎになるでしょう。羊かん届きましたか。皆によろしく。
                          三月二十日 (1975.3.20)
                             周作
     母上様

みなさんさようなら

2014.03.17 23:17|コラム・巻頭・社説・社告
1975年(S50)「特装車とトレーラ」7月号 コラム
役人か(やくにん)か役人(えきにん)か
考えてみたい役の字の持つ意味


 漢字にふり仮名をつけるテストである。①役人、②荷役、③懲役、①は「やくにん」②は「にやく」「にえき」と二つの答えが出るだろう。③は「ちょうえき」。①を「えきにん」としたり、③を「ちょうやく」と書いたら恐らく×点であろう。「やく」と「えき」がどう違うのか、荷役にふたつの呼び方があるのはどうしてだろう。役人を「えきにん」と呼んではいけないのか。考察してみたい。

 「やく」と「えき」がどう違うのか。私は学者ではないので、正確な回答は出せないが、「やく」は人を使う、或いは物を使う、「えき」は人に使われる、物に使われる、と解釈してほぼ間違いはないと思われる。
 役人、役職、取締役、役所などすべて「やく」である。イメージ的に、えらい人、お役所、お上(かみ)など一般レベルより上から人を使う人、或いは建物を連想させる。一方、懲役、使役、労役、苦役などいずれも、「えき」のつく方は本人の自由意思でなく、労働に従事させられることをいう場合が多い。

 荷役に「にやく」「にえき」と療法の読み方があるのは、「にえき」の場合、重たい荷物を肩に担いだり、車で引っ張るような荷役の機械化以前の状態をいうことが多く、パレットとフォークリフトによる荷役のように、機械化された荷役作業を「にやく」と呼ぶことが多い。現在の荷役作業は「にやく」と「にえき」が混在している状態で、望ましい姿は「にえき」をなくして、「にやく」に持ってゆくことである。

 荷役は「にえき」から「にやく」に移るのが望ましい姿であるが、役人は「やくにん」で昔も今もいいものであろうか。封建時代や前近代的な時代はたしかに役人は支配階級であり、人を使う立場にあった。文字通り「やくにん」である。終戦後、公僕という言葉がよく使われたが、これは英語のPublic servant の直訳で、公共の使用人、つまり「えきにん」に相当する。昔の役人は、支配階級にふさわしい教養と、清貧に甘んじる、いわゆる「武士は食わねど高楊枝」的なモラルを要求された。金銭的要求を満たすのは町人であり、階級的序列と経済的序列は別のものであった。

 ところが、現在は要求は町人、民間ベース以上、公僕的な意識はさらさら持ち合わせない、まことに厄介なお役人衆を作り上げてしまった。ひとつ、役所、役人を、「えきしょ」「えきにん」と呼びかえる運動を始めてはどうか。

みなさんさようなら

2014.03.14 02:50|コラム・巻頭・社説・社告
1971(S46)「特装車とトレーラ」11月号 コラム
良い製品だけが売れると限らない
―真剣に考えたい広報活動―


 あるメーカーに取材に行ったとき、「製品を発表したらよそに真似をされるから」といって拒否されたことがある。開発段階にあるのならわかるのであるが、既に製品となって市場に出てからの話である。これほどはっきり秘密主義を取らなくても、積極的に製品を発表したがらないメーカーはまだまだずい分多い。架装メーカーの体質の古さを如実に示している。

 特装車なんて宣伝をしても売れるものではない、と頭から決めてかかっているメーカーの多いことも事実であり、筆者も、宣伝をしたからすぐ売り上げが伸びるなんてことは考えない。
 しかし、どんな体質の古いメーカーにしてもその製品の特質なり、メリットをどのようにしてユーザーに理解させるかの努力を軽視するところはあるまい。なかには、メーカー、ユーザーの間が人間関係で結ばれていて製品のことなど論外だというメーカーもあるが、こうなると最早、現代企業とはいえないので、これこそ論外である。

 ユーザーに製品を説明する手段としては直接相手方に会って時には現物を見せて説明する。最も原始的な形態である。その次が、カタログという印刷物を使って、ユーザーに説明する。この段階までは架装メーカーのまずまずのクラスは到達しているようである。
 現在の状態で最も普遍的なのがマスコミを利用する方法である。そのマスコミも新聞から始まって雑誌の印刷媒体からラジオ・テレビの電波媒体へと複雑化してきているが、架装メーカーで全面的なマスコミを駆使しているというのは、一部の例外を除いて見当たらない。本誌のような業界新聞、雑誌に記事や、広告を載せるのが普通の形である。

 大体このような3段階の広報活動があるのだが、第1段階のクチコミから第3段階のマスコミまでを通じて、選任の広報担当者を置いているメーカーとなるとこれはまた実に少ない。第1段階にはもち論、専任者がいる筈はなく、営業マンや技術マンが図面をかかえてユーザーのところへ行くし、第2段階でも、社内のスタッフで作るカタログはまことにお粗末なものが多く、社外の専門業者に発註するケースもあるが、これまたポイントを外したような出来上りになっていることが多い。第3のマスコミを利用しているクラスでも、専任者を置いているメーカーは少なく、営業や、総務兼任、なかには社長自らというのまである。もち論企業規模が小さく、いくつもの職を兼任しなければならないメーカーも多いのだが、結構人員も多く、営業マンもずい分居るところでも専任の広報マンを置いていないところが多い。
 
 専任の広報マンがいないのだから、資料の保存も十分でない。例えば、本誌のガイドブック作製で、資料などを請求すると、さア写真がない、あってもアングルが悪かったり、ピンボケであったり、仕様、諸元もはっきりしない、というのが多い。製品の出来上るのを待ちかねてすぐ納車というのではゆっくり写真を撮るヒマもない、という事情もあるらしいが。
 宣伝とは金のかかるもの、そんなところに金をかけたり、専任者を置いたりするのは勿体ない、という気持ちもわからぬでもないが、少くとも、隷属的な、下請的な位置から脱して、独自の製品なり、営業方針を打ち出そうというメーカーでそんな姿勢では困ると思う。

 10年前の製品がそのまま通用するような時代ならそういう感覚でもいいかも知れない。しかし、技術革新の波は容赦なく押し寄せてくる。今年の新製品は来年も新製品であるとは限らぬのである。新しい製品をいかにディーラー、ユーザーに知らせてイニシアティブをとるかである。人海戦術に頼っている間に後れを取ってしまう。
 企業イメージなり、その製品の特長を手際よく説明すると謂うことは、営業マンにとって、イロハであると思う。喋らせたら何とかできるが、書かせたら駄目というのも多い。第一、手紙すらろくに書けない人がずい分居る。そういう意味で書くということは実にいい勉強になるものである。

 自動車メーカーは新製品の出るごとに写真と、詳細な説明を送ってくる。ほんの改良程度のものまで入っているため、その全部を記事にすることはできないがそういう記事が、あちらこちらの新聞雑誌に掲載される効果は大きい。マスコミを上手に利用しているといえよう。
 架装メーカーで、この作業をやっているのは、新明和工業(株)川西モーターサービスと、日本フルハーフ(株)の二社のみである。或いは他のメーカーもやっておられるかと思うが、筆者の手元には届かない。先月及び本月号で一部のメーカーに記事を強要して掲載してみた。広報の専任者を置くのが無理なら交替制など考えてみてはどうだろう。口と財布は閉じるに利あり、は昔のことである。

みなさんさようなら

1970年(S45)「特装車とトレーラ」3月号
編集後記

 万国博開幕もあと1ヵ月。大阪の街は急に万博ムードが出てきた。会場も最後の仕上げに急ピッチのようだが、万博建設に特装車の果たした役割は大きい。動員された特装車は今後どの方面で再び活躍するであろうか。四国架橋、西へ伸びる山陽新幹線など、大きな工事は西へ西へと進む。
 その万博会場へ軽金属協会が10台のトレーラ式移動トイレを寄附したのは明るいニュース。満タンになればトラクタで引っ張って処理する。ピーク時には何十万にも達する見物客の排泄物の処理にトレーラが活躍するのを想像するだけでも面白い。
 今月の周作対談は汚物処理のトップメーカー森田特殊、花やかな特装車の中で、地味な存在の衛生車づくりに精魂を傾ける人達の姿は尊い。

 各方面から期待されているガイドブック70年版の編集に入って大忙し。出来るだけ多くの正確な資料を読者にお届けするため東奔西走の毎日である。それにしても、メーカーと製品の多いこと。大きなキャビネットを購入して、資料を整理しているがなかなか追っつかぬ。
 このガイドブックは昨年中に完成して読者にお届けしなければならないものだったが、何しろ月刊誌を軌道に乗せるのに一生懸命で今日まで延びてしまったことをお詫びする。その代わり立派なものを作ってお届けするのでご期待の程を。

 自動車工業会が派遣した視察団の報告書を整理しながら今更のように日本のヴァイタリティ(活力)を感じた。自動車王国アメリカにトラック生産では、ホンの僅かではあるが、生産台数では追い抜いている。エコノミックアニマル、イエローモンキー、などと風当たりもきびしいが出る釘は打たれる。経済大国大いに結構。
 ただ、日本の国を忘れてはいけない。ヨーロッパの自動車業界が殆ど米国の軍門に降ったのに、日本はひとり気を吐いている。この業界にいい意味での愛国者が多いことは嬉しい。横文字に征服されるのはCoca Colaで十分だ。

 さァ春です。アジアで初めての万博見物に世界のお客様がやってくる。美しい国日本、繁栄する国日本、礼儀正しい国日本を見て貰いましょう。

みなさんさようなら

2014.03.05 03:25|その他月刊誌記事
2012年(H24) 「NewTRUCK」10月号 
「北陸トラック物語」
金産自動車の流れ そして現在

    写真は弊誌「特装車とトレーラ(NewTRUCKの前身)」掲載広告   左 S47年8月号・右 S48年4月号
金産自動車

 日本海側の石川県松任(まつとう)に、日野系列の有力車体メーカーの金産自動車があって、そのルーツは戦時中に設立の軍需工場金沢産業で、戦後は民需に転換、製造する金産バスは筆者の故郷、高知の県交通バスはほとんど金産製で、すっかりお馴染みだった。
 第1回呉越会セミナーは、高知を舞台に実施したが、朝から昼も酒が出て、中年のバスガイドもすっかり出来上がっていた。
 途中で、「どうしてこのバスはこんなにガタガタなんでしょう。ウチの会社(県交通)も経営状態が悪いからカネ払いもできなくて、古いバスを修理もせずにそのまま使っているからでしょうか」と真っ赤な顔をして、呂律の回らない舌で捲し立てた。参加していた金産自動車社員の苦り切った顔を見て、バス内は爆笑の渦。40年も前の想い出である。
 ブランド名は違うが同じ系列のバスを2つの社風の異なる車体メーカーで製造している、しかもバスの需要は減り続けている。トラックにしても、かつてのような爆発的な需要の回復は望めない。

 日野自動車内部でも真剣な検討が何回も重ねられたはずである。
 その結果が、日野車体という会社はなくなって、トラック車体部門は金産自動車発祥の地にトランテックスとして、バス部門はいすゞ自動車との協業のジェイ・バス本社工場が新たに小松市内に建設され現在の姿になった。

みなさんさようなら

2003年3月3日(月)

町中に溢れる 百万石加賀ゆとりの文化 

 金沢を案内して頂いた橋爪氏のカーラジオから、お能のお知らせが聞こえてきたのには驚いた。東京では考えられないことだが、「加賀宝生」といって、かつては謡いは欠かせない男の嗜みであった。前田利家によって開かれた加賀百万石の城下町金沢は、全国でも希な文化都市であり、学問・芸能・繊織・陶磁器・金箔などの分野で他の都市に見られない文化の華を咲かせた。その名残は町の中の至る所で今も見られる。雪吊りは兼六園が有名で、それぞれの家でも庭の樹木に雪吊りがしてあり、土塀にはひび割れを防ぐ優雅なワラの覆いが吊り下げられている。町中の道は曲がりくねって、小さな流れがあり、クルマはスピードが出せない。お茶屋もあり、歩いて回る時間が欲しい金沢の旧市街である。
 兼六園に木の香もかぐわしい「時雨亭」が復元されていて、大名茶に相応しい大きな座敷や茶室が連なる凝った造りには、感嘆した。新しいデザインの洋風の休憩所が公園の中にあったりするが、それらとは比べ物にならない加賀文化の茶室だった。
 漆器の老舗の旦那で、航空機からバス製造の企業を興した加藤義一郎氏は、成長した金産自動車の経営を日野自動車に委ねて、晩年は金沢漆器業界のまとめ役として活躍した。

(金産自動車についての記事は5日(水)アップ予定)
プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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