みなさんさようなら

2006年4月5日10440(2006年4月5日 撮影)

1975年(S50)4月号
あとがき

 うららかな春ともなると春宵一刻直(あたい)千金ということで、ついつい酒量も上がり、春眠暁ヲ覚エズ、で朝寝をすることが多くなってしまう。
 私は生来早寝早起きの方だが、春の一時期だけは例外で、7時頃まで寝ていることもある。
 睡眠時間が長いと夢を見ることが多いようだ。この夢に2種類あって、同じパターンが周期的に現れるものと、文字通りその場限りの夢に終わってしまうものとがある。

 周期的に見る夢がふたつある。そのひとつは大学を卒業するときのもので、もうひとつは新聞社を辞めたあとに関する夢である。
 大学の方は卒業できなかった夢で、ある時は単位が取れなかったり、月謝が納入できなかったり、卒業論文を他人に書いて貰ったのがバレたり、ともかく卒業できず困ったナと思っていると目が覚める。
 私は38才の時、6年ばかり勤務した新聞社を辞めた。それからの7~8年は経済的にもずい分苦しく、親や弟妹、妻子にも心配させたものである。母など、いつも「あのまま新聞社にいてくれたら」と、よく言っていた。
 夢は、私がその新聞社に復職するという形で表れる。まがりなりにも管理職だった私がヒラから出直しで、給料も大幅にダウンしている。

 なぜ繰返しこのような夢を見るのか。大学の方は、卒業と同時に、郷里の片田舎にひっこんで7年ほど文明生活とは絶縁しているし、新聞社勤めも日給いくらの臨時雇いからのスタートで、私のこれまでの生涯で学歴は一切効用を発揮していない。
 新聞社を辞めたのも、組織管理社会では生きていけないと、ふんぎりをつけたからであり、たとえ好待遇で何処から迎えられるような事態が起こっても、再びそのなかへ戻ることは考えられないことである。

 夢はそういう私の人生観なり、信念とは全くうら腹の形で表れてくる。やはり、これは信念は信念として、郷里や、新聞社を辞めたあとでの生活のあまりの苦しさが、私の心の片隅に、卒業したときすぐ就職していれば、あのまま新聞社におれば、という悔恨にも似た感情となって投影しているからであろう。
 生活の苦しさは、色恋沙汰よりもはるかに大きい打撃を私に与えているらしい。まさに「花より団子」で、このような忌まわしい夢から私が解放されて、バラ色の夢が見られるようになるのは、まだまだ先のことになりそうだ。



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みなさんさようなら

2014.04.14 12:32|「東京トラックショー」
96TS屋内②  '96トラックショー屋内会場風景

1996年(H8)11月号
運と人に恵まれたトラックショーの幸せ (終わり) 

堅持できるか基本理念
 開会のセレモニーが終わってしまえば、トラックショー会長としての仕事は終わったようなもので、しつらえられた会長室に陣取って、お見えになる方とお会いするだけのこと。2日目と3日目の午後、会場を一巡したが、全く新しい会社もあるし、詰めている担当の方にも未知の人の方が断然多い。
 12年前の第1回トラックショーの時は参加企業も少なかったし、まだ営業の第一線にいて出品勧誘に出ていたから、会場を廻っても担当者は殆ど顔見知りだったが、何という違いだろう。

 たしかにトラックショーは大きくなった。私の予測をはるかに超えたといっていい。日新出版の本業である月刊誌ニュートラックについては、私自身がかなりの部分を受け持って執筆しているし、記事の隅々まで目を通していて、いわば私の手の中にある。
 ところがトラックショーは私の手が届かないところの方が多くなる程、肥大化してきた。この変化にどう対応すればいいのか。手づくりのミニコミ誌と、大きなイベント。ミニコミ誌はイベントに呑み込まれてしまいそうな勢いである。ジャーナリストとしての私より、トラックショーの主催者としての私を知る人の方が断然多くなったのは事実で、これは私にとって実に困る。

 トラックショーは、ジャーナリストとしての私によって始められたもので、そのジャーナリストの面が忘れ去られて、イベントとしてのトラックショーが、ひとり歩きしてはならないのである。
 よどんだ水は腐る。

 トラックショーは東京モーターショーのトラック軽視の姿勢をジャーナリストとしての私が批判して成立したものである。その挑戦の第1回目は完敗に終わったけれども、4年後の昭和59年には今回とは比較にならない規模であったが再起の第1回トラックショーを開催して幕を閉じた。

 官庁や業界団体主導のこの種のイベントは、慣習化、定例行事化して、自らの姿勢を問い直すことを怠り勝ちである。外部の批判にさらされることも少なくない。

 トラックショーが、第7回まで成長を継続できたのは、常に日新出版としてのジャーナリスト精神が働き続けていたからに他ならない。最終日夕刻、閉会の言葉をマイクで流した後の帰宅の車で、これからが大変だなと思い続けていた。

96TSレセプション②
上写真: 開会式後のレセプション会場で




みなさんさようなら

2014.04.08 19:53|「東京トラックショー」
96TS レセプション
写真上/日野自販・竹田晃社長による乾杯の音頭とレセプション風景 (1996.9.26)

1996年(H8)11月号
運と人に恵まれたトラックショーの幸せ ③ 


運と人を話したパーティ挨拶
 足早に来賓の人達と会場内を見て廻り開会パーティの行われるレセプションホールへ急いだが、ざっと見た感じでは、トラックショーはぐーんと大きくなり、間接的であれトラックメーカーが出てきたことによって、景観はかなり変わった。これ迄のトラックショーではトラック後部の車体だけが目立ったが、前面のキャブを押し立てての展示が出てきて、漸くトラックショーらしい雰囲気になった。

 10時半からパーティ。晴海では狭いレストランを利用するしかなかったが、このレセプションホールはさすがに広く天井も高い。開会式のあったアトリウムもそうだが、このような展示場以外の公的スペースを広く取っているのが東京ビッグサイトの大きな特色である。それは豪華客船が客室以外に、サロン、食堂、劇場などの公的スペースを大きく取っているのとも似ている。ビジネスホテルと大きなシティホテルとの違いともいえよう。
 開会式も終わってのくつろいだパーティの席なので、ぐっとくだけた挨拶をした。
 内容は「運と人」。
 これを難しくやれば大変なことになってしまうのだが、4日前に東京を直撃した台風を引き合いに出して、私の運の強さというところから話を進めた。

 ここで私が運の話を持ち出したのはトラックショーに限ったことではないが、この種のイベントは運に左右されることが実に多いからである。一年後の経済社会情勢も分からないのに、隔年開催であれば2年後の情況がはっきり掴めないのは当然であろう。景気の下降は当然、出品に大きな影響を与える。バブルの崩壊もあったし、昨年の阪神大震災の後では、阪神地区のイベントは大打撃を受けて中止に追い込まれたところもあった。
 さらに、トラックショーのように屋外展示を伴う場合には、大型台風に直撃されるとトラックそのものがひっくり返ったり仮設ハウスが飛ばされる危険もないわけではない。こういう場合、入場者も激減するわけで、22日の台風ではかなりの交通機関が運行を中止した。

 入場者が掴めないのも、悩みのタネで無料で配布するガイドブックや携帯用の袋など、どれ位用意しておけばいいのか、苦心するところである。
 さらに開会式の来賓が言葉を揃えて述べたように、トラックショーは増田によって生み出されたものであるというイメージが関係者に定着しているから、私自身の健康状態も重大な要素となる。
……
 松下幸之助氏は“運、鈍、根”をよく言ったが、事業人にとって運は非常に重要なもので、特にトラックショーのようなイベントの場合はその比率がさらに高い。
 ここに言う運とは、“さだめ”“きまりきった宿命”などの受動的なものではなくて、ある使命感を持って、ひたすら努力する人間に対しては天運もまたこれに味方するという意味合いに私は受け止めている。
……
 孔子の持っていた徳、文には比較しようもないが、トラックショーは、私が創り出したものである。もし、天が、日本にトラックショーが必要であると認めるならば、その形がつくまで、天は私を守って下さる筈だ、と私は固く信じている。

 “運”と共に、トラックショーを成立させたもうひとつの大きな要因は“人”で、官庁や団体の権威を一切借りないトラックショーであってみれば当然といえよう。私ほど、人の恵みを多く受けている人間は世に少ないと思う。このパーティーにお見え頂いている人達以外にも随分多くの方のご支援、ご指導を受けてきた。増田周作の運をトラックショーという形にしたのは“人”である。私は心からのお礼をパーティーに出席の方々に申し上げた。

 乾杯の音頭は竹田晃日野自動車販売(株)社長にお願いした。出品者代表というより、囲碁と酒、打つ飲む兼ね備えた趣味世界の好き伴侶、多少歳は違うが友人同表というような立場での依頼である。
 今回のトラックショーは、直接ではないが、各トラックメーカーが従来より一歩も二歩も踏み込んだ姿勢を示したのが特長で、日野自動車も日野アネックスの社名で参加して大いに盛り上げていただいた。
 竹田日野自販社長が乾杯の前の挨拶で述べたように、碁はお互いに自分の方が強いと思っており、酒もかなりいけるといういい勝負の相手はこの業界には他に見当たらないのである。竹田社長のような人物がトラックメーカー側にいること自体、私は“運”と“人”に恵まれている、ということができるだろう。
 やや厳粛だった開会式では才川至孝新明和工業(株)社長が、論語などの学問分野での私との深い縁について述べたが、和やかなパーティーの席では、竹田社長が私との碁と酒について語った。
……
 84歳の前田源吾氏を除いて、パーティー出席者の最長老は小林弘日本ボデーパーツ会長と大野金一大野ゴム用品会長。
 小林社長は増田はん、頑張りなはれやと怪?気炎、大野会長は私の月例論語講座の熱心な聴講者で、年齢は差し控えるが、このご両所の前では70歳の私もまるで子供のようなもの。立志伝中の老巨人がお祝いに駆けつけて頂いたのは何より嬉しい。
 前田氏からご持参の海苔でくるんだおむすびを分けて貰って並んで腰掛けて頂く。朝早く名古屋を出るために、奥さんか娘さんが作ったのが、新幹線で食べないままに来てしまったのだろう。おふくろの味か、おやじの味か、前田氏と並んで食べたおにぎりは最高のご馳走だった。(つづく)

写真下/'96TS 屋内会場風景
96TS 屋内

みなさんさようなら

2014.04.03 19:45|「東京トラックショー」
96 屋外展示場 '96トラックショー屋外展示場

1996年(H8)11月号
運と人に恵まれたトラックショーの幸せ ②

 続いて後援いただいている(社)全日本トラック協会の野間耕二理事長は、全ト協がトラックショーを後援するに至った経緯とジョイントイベントとして全ト協が主催している“まち・トラック環境展”について述べ、環境に対する全ト協の取組姿勢に理解を求めた。

 出品者を代表して先ず尾藤三郎トヨタ車体(株)会長から、同氏が会長を勤めている(社)日本自動車車体工業会会長としての立場も踏まえた車体メーカー側のトラックショーへの期待を述べ、車体の品質向上に、ユーザー層の忌憚のないご意見を賜りたいと補足した。

 同じく出品者代表の才川至孝新明和工業(株)社長は、屋外最大の展示スペースを占めた特装車トップメーカー社長としての立場もあるが、より重要なのは毎回のトラックショー開会式の挨拶で、私が引用している論語などの儒学の教えの勉強で同門であったという不思議な縁である。二人の師は私の叔父の伊与田覚で安岡先生の直門である。叔父がまだ気鋭の小学校教師の頃、中学二年の私は叔父と大阪で共同生活を始め何人かの郷里の師弟などがこれに加わった。寝食を共にする塾的教育の第一期、有源舎時代である。

 戦後、叔父は教職を辞めて安岡先生の教学普及に挺身するようになったが、大阪と京都の界にある八幡の禅寺の庫裡に住んで京阪の大学生を寄宿させた。単に寝食を提供するだけでなく、儒学を主とする教育を施した。第二期有源学院の時代で、大阪大学工学部在学中であった才川氏は学院に身を寄せて卒業後も叔父との学縁を保ち続けて、叔父の設立した成人教学研修所でたびたび講義している。
 私と才川社長は同門の第一期、第二期の代表的存在で、その二人がトラックショー主催者、出品者代表として顔を揃えたのだからまことに不思議な縁である。…

 最後に立ったアメリカのトラックジャーナリストであるスティーブ・スタージャス氏が、流暢とはいえないまでも、はっきりわかる日本語で適切なトラックショーに対する祝辞を述べたのには皆さん度肝を抜かれたようだ。
 スティーブ氏は日新出版との間に記事契約を結んでおり、彼の記事は何度も月刊誌ニュートラックに掲載されているが、これ迄日本語は全く喋ったことがないのである。その彼がなぜ、の疑問については記事の中に裏話を載せた。

 4階に通じるエスカレーターの前に張られたテープの前に6人が揃って、ひとときカメラにポーズを取り、カット。

 こうして書けば長いが、所要時間は僅か20分。この種のオープニングセレモニーの祝辞には事務方の作った空疎で観念的、公式的な言葉が並ぶものだが、トラックショー開会式にはそれが全くなかった。日本にもずい分大がかりの展示会はあるけれども、簡潔にして要を得た開会式としてはトラックショーの右に出るショーはなかったのではと自負する。
 官庁や団体という権威によることなく、人と人との繋がりの上に成りたっているトラックショーを凝縮した開会式である以上は当然の帰結なのであるが、権威によらない大がかりのショーが日本には存在しないのだから、比較の方法がない、という方が適切だろう。(つづく)

             抽選会で特賞のアメリカ旅行が当選したお二人
96 抽選会




プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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