みなさんさようなら

2014.08.31 06:00|「東京トラックショー」
1988年(S63)11月号
「今月の論語」

トラックショーを生み出した志

三軍も帥(すい)を奪うべきなり
匹夫(ひっぷ)も志を奪うべからざるなり


 「増田さん、こりゃ当てたね。」
 昭和59年11月、第1回トラックショー会場で、多少面識のある自動車メーカーのトップの人が筆者に投げかけた言葉である。
 仮にM氏としておく。M氏は別に悪意があったわけでなく、関係者の誰もがその実現を予想しなかったトラックショーが、兎にも角にも成立したことについて、率直にお祝いを述べたものであろう。

 しかし、私は無性に腹立たしかった。
 当てた、ということは、人の気付かない、或いは反対したことを実行して大きな利益を上げた、俗に言う“ひと山当てた”というニュアンスを含む。

 たしかに、トラックショーが大きな利益を生む“金の卵”であるならば、“当てた”という表現は適切だろう。
 しかし、トラックショーは“金の卵”どころか、日新出版の“命取り”にもなりかねない要素の方がはるかに大きかった。
 乗用車に偏ったモーターショーのあり方に反発して、日本にもトラックユーザーの為のトラックショーが必要だ、としてその開催をブチ揚げたのは昭和55年である。
 この時は見事に惨敗した。身の程知らず、ちっぽけな出版社の主に何が出来るものか、これに懲りて、二度とトラックショーなどと大それたことを言い出さないだろう、という声が支配的であった。事実、筆者と日新出版が受けた経済的、精神的打撃は大きかった。

 立ち直りのきっかけとなったのは昭和57年4月から始めた月1回の論語講義である。
 若い頃から中国の古典に親しんできた筆者だが、トラックショーの惨敗くらいで落ちこむようではまだまだ修行不足、人に教えるというより、自らを鍛えることを主目的とした。つき合ってくれる聴講者は有難いお客さん、講義の後には酒食を先生の方が提供する、落語の「寝床」を地でゆく前代未聞の論語講座だ。
 よく知っている言葉、以前は心にも留めなかった論語の言葉がヒシヒシと身に迫ってくる。失敗は成功の母というが、トラックショー失敗の原因もわかってくるようになった。

 「三軍モ帥(すい)ヲ奪ウベキナリ。匹夫(ひっぷ)モ志ヲ奪ウベカラザルナリ。」(論語 子罕しかん篇)

 トラックショーなんてもう懲り懲りだ、再びあんな死ぬ思いをしたくない、と考えていた筆者を奮い立たせたものは「匹夫の志」である。
 大軍の将でも場合によれば捕らえることができる、しかしつまらない下賤の男であっても、その志を奪うことはできない。どのような障害に遭遇しても、或いは命を取られるとしても、理想実現の志を変えないのが志士である。明治維新の原動力になったのはそれらの志士だった。
 1回の挫折で、日新出版が潰れかかった程度で、トラックショー実現の志を捨ててしまっては、理想追求どころか単なる空想の域を出ていなかったことになる。

 惨敗から4年目、昭和59年11月に志を捨てなかった一介の匹夫によってトラックショーは実現した。
 儒教や論語はカビの生えたような古い道徳を説くものではない。筆者の論語講義は人に聞かせるというより、自己を律するためのものである。


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2014.08.28 06:00|「東京トラックショー」
89 2月号-1
デザインコンテスト グランプリ 宣伝車両部門・ゴールドホイール賞(松下電工・都南輸送)
・「ホワイトボデーにブルーのマーキングが社会環境に良くマッチするデザインとなっている」
・「全体的にシンプルなデザインであるが、視認性に優れ、見る者に与えるインパクトは強い」
・「大きなスクリーンがコンパクトに収納されてしまうという機能面でのデザイン性も見逃せない」
・「閉じたと時の白と、開いた時の黒のコントラストが美しい」

1989年(S64)1月号
トラックショーものがたり その3-②

ショーへの今後 報告会の挨拶
 トラックショーは盛況裡に終わったが、日新出版の本業は「NewTRUCK」の発行である。いっときの休みも許されない。
 会場から引き揚げた荷物はそのまま、荷物置き場のような事務所の中で編集作業を進める。
 89年版のガイドブックも出来上がっているが、これも応接室のソファを立てて、その中に積み上げたまま手が付けられない。

 21日の報告会は、すっかりトラックショーとお馴染みになったJR東京駅前の日本工業倶楽部で3時から開催した。用意した椅子が足りなくて追加するほど、沢山の関係者に来て戴いた。
 事務局長の経過報告、編集長の展示ガイドと89年版ガイドブックに対する協力のお礼を述べたあと、筆者は次のように挨拶した。

 トラックショーも第3回を無事終了して、ややトラック業界に定着した観がある。しかし、このようないびつな形で定着することは決して私の本意ではない。
 モーターショーを開催する自動車工業振興会の背後には自動車工業会、車体工業会、部品工業会といった、日本の産業を代表する組織団体がある。その組織あげて開催するモーターショーに対抗して、トラックショーを開催するための組織となると、それを結成することは実に困難である。昭和55年、ある政治家を担(かつ)いでメーカー、ユーザー団体を一丸とした運営母体を作って、トラックショーを実現しようとしたが、メーカー団体の反対に遭って見事に挫折した。
 わが国でも最強の自動車メーカー団体に対抗する組織を作ることは不可能に近い。組織で対抗できないとなれば、組織を組織を外れた個人の責任で実施するしかないではないか。

 個人の全責任で、トラックショーといった公的の展示会を開催する、というような例は日本にも世界にもない。

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みなさんさようなら

2014.08.25 06:00|「東京トラックショー」
88TS 会場
写真 ・ イベントコーナーでは環商事が北海道からの産直販売を展開
    ・ ひっきりなしの来場者で受付は大忙し
    ・ 高所より屋外展示会場の一部を望む
(著作権は日新出版)
   

1989年(S64)1月号
トラックショーものがたり その3-①

いよいよ最終日 最高潮に
 トラックショー初日前夜と、第1日夜は会場近くのホテル浦島に泊まり込んだが、2日目の11月15日の夜は自宅に帰って寝た。ホテルは便利なようだが、ぐっすり寝て疲れを取るのはやはり自宅の畳の間の布団の中が最高である。
 自宅にいる時は朝夕欠かしたことのない仏前の読経で、2日目までの盛況を報告して、3日目もお天気なことを祈る。祈ったところでどうなるものでもなかろうが、祈るということ自体で不安を静める効果はあるもの。

 天気予報では全般に降り坂で、午後には軽い雨もありそうだという。何とかもう1日、持ってほしい。
 最終日、9時ごろ会場に到着したが、熱心な来場者がもうあちらこちらに見えている。出品者の担当の方も大変だが、今日1日、頑張って戴きたい。
 昼近くなって、来場者はどんどん増えてきた。山のように積まれていた展示ガイドが残り少なくなってきて、果たして今日いっぱい持つかどうか心配だ。抽選コーナーの方も、残念賞のティッシュペーパーが不安だと報告が入る。

 イギリスから来た技術ジャーナリストの取材を受ける、自動車メーカーが参加していないことを説明するのはなかなか難しい。韓国からも沢山の見学者があったが、これが日本のトラックショーだ、と胸を張って堂々と言えないのは辛い。名実ともに、日本のトラックショーに成長するのは何時の日か。

誤算 足りなかった資料と景品
 受付の後ろの事務局で、混ぜごはん弁当の昼食をとる。とうとう、会場内の食堂へは、開場式あとのパーティに入ったきり、食券は1枚も使わずに終わった。
 顔見知りの方にも多く会うのだが、ゆっくりお話しする時間はない。人出はますます好調、午後になって、昨日はとうとう当選者が出なかったアメリカのトラッキングショー無料招待とビデオカメラの特賞A,Bの当選者が続いて現れた。
 2日目の昨日、本当に残り少なくなっていた抽選器の中の当たり玉なのに、とうとう出なかった。この分は21日の出品者報告会の景品に廻すことにする。

 3時過ぎ、展示ガイドがなくなり、残念賞のティッシュペーパーもゼロになった。大きな誤算である。

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2014.08.21 06:00|「東京トラックショー」
88TS デザインコンテスト                                           FEVを背景に次々に登場する参加車両 (著作権は日新出版)

88TS デザコン           水井・紀平さんの司会コンビと増田                        西日を浴びてコンテスト終了   
       

1988年(S63)12月号
トラックショーものがたり その2-③

絶好の天気と押し寄せた来場者
すっかり定着、最高の舞台仕立てのコンテスト


ビジュアルとハイテクの出会い
 定刻1時半、ミス水井・紀平の軽妙な司会でコンテスト開始。映像車の大きな画面にくっきりと映し出される。
 先ず、中井幸一商業車デザイン研究会会長から主催者としての挨拶があった。
 商業車のボデーデザインは非常に大きなインパクトを持っている。それだけに、環境との調和が考えられねばならない。そのため、このコンテストの持つ意義はきわめて大きい。われわれも期待と興味をもって厳正な審査に当たるつもりである。

 いよいよ、写真などによる予備審査を通過した26両の本選参加車両の登場となる。参加車両は物流車両(一般カーゴ車)、営業車両(商業バン・特装車)、宣伝車両(イベントカー、宣伝を主目的とする車)の3つの部門に分かれ、それぞれ15台、7台、4台の内訳である。

 先ず、物流車両部門のアサヒビール(株)が登場、前回のグランプリがサッポロで、輸送量も多く、大衆に密着しているだけに、宣伝も華やかだ。
 次から次へと登場するコンテスト参加車両は、司会の紹介につれて、映像車の巨大スクリーンに全景又は部分、ポイントが映し出される。
 審査員の採点スピードはかなり速い。2分15秒の間隔は少し長かったかも知れない。
 ふとステージの横を見ると、かつての名ラガー松尾雄治氏が父君のトーリク松尾雄社長と来ている。昨年7月に開催の“ムービングデザインセミナー”のゲスト講師として来て貰ったご縁がある。
 審査は好調に進む。営業車両部門には女性ドライバーも登場したが、配送車などではこれから増えてくるだろう。それだけ女性が好みそうなデザインが必要となってくる。

 映像情報車もコンテスト出場車両なので、巨大なスクリーンが2つ折になり、外観では普通のウイング車になる。沢山の人が見ている前で折りたたまれて、審査を受けた後また、映像情報車へ、その手際がまことに鮮やかで、ハイテクの極致を間近に見る思いであった。
 採点がすべて終わって先生方は後部、トラックでは左側面の控室に入って選考に移る。

          


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みなさんさようなら

2014.08.18 06:00|「東京トラックショー」
88TS FEVと抽選会場 FEV2000前の右から前田氏、外人コンパニオン、酒井氏と増田     抽選に並ぶ来場者

1988年(S63)12月号
トラックショーものがたり その2-②

絶好の天気と押し寄せた来場者
すっかり定着、最高の舞台仕立てのコンテスト


 場内一巡の後、レストランで簡単な開会パーティ。自動車問題研究所代表の平坂重雄氏が乾盃の音頭を取る。歌唱で鍛えたノドはさすがによく通る。田村慎一浜名自動車工業社長が招いた2組の外人カップルと挨拶、多くの方からお祝いの言葉を頂戴する。出品していない企業の中にもトラックショーを応援して下さる方々が沢山おられる。時節柄、目の前に泳いでいる鯛の活き造りをお出しできなかったのは残念だった。

人気のFEV特賞第1号、池田氏
 会場奥、駐車場側に置かれたFEV2000はやはり人気がある。
 不思議なご縁で知り合いとなった同郷の岩崎洋美さん紹介のアメリカ女性2人が愛くるしく、パンフレットを配ったり、写真モデルになったりしている。日本フルハーフの井上輸出部車両課長は付ききりで説明役、来場者の皆さんは大きいなアと感心している。特別展示として苦労して日本に持ってきた甲斐はあったというもの。

 夜行列車で高松からやってきたフジタ自動車工業の藤田利太郎社長、第1回からずっとトラックショーには出品しているが初めての会場訪問である。技術屋らしく、各社の製品をじっくり見ていたが、気がかりだったのは、松下電工とハイテク巨大映像情報者がうまく機能するかであったのだろう。
 さすが、この車の画面は素晴らしく、直射日光を受けても実に鮮やかに映像を結ぶ。その真価は午後の商業車デザインコンテストで遺憾なく発揮された。

 初日はまた前田源吾全ト協副会長が委員長を務める全ト協車両資材委員会が、会場近くのホテル浦島で開催され、平坂重雄氏が、トラック総重量見なおし問題について、作製した資料に基づき説明を行った。トラック業界は免許、運賃などの自由化をめぐっての議論がかまびすしいが、この方は結論は見えているようなもの。百年の大計ともいえる総重量見なおし問題に、業界挙げて取り組んで貰いたいものである。
 この日の全ト協車両資材委員会が大きなハズミとなって運動が盛り上がることを期待したいものだ。
 入場者が増えてきた。前回より多いように思えるが、屋外の空きスペースが少ないからだろうか。

 午前中、早くも特賞アメリカトラッキングショー見学ツアー無料招待3本の1本が出た。富山市の池田運輸(株)の池田博社長で、奥さんとご一緒に見えたもの。
 続いて、特賞Bビデオカメラ当選は広島県トラック協会常務理事の斎木輝雄氏、トラックショー来場者の地域的広がり、層の厚さを示すものだと思えて、いい傾向だ。

審査員のイキも合って打合せ
 第2回商業車デザインコンテストのゲスト審査員の紅一点、レナウン(株)情報室色彩担当の萩原準さんは早々と到着。デザイン部門は女性の進出が最も急な世界、萩原さんもその中で活躍している1人である。
 アイデックス深見幸男社長、日本デザインセンター梶裕輔社長、神奈川大中田信哉助教授、東京芸術大学小池岩太郎名誉教授は腰を痛めておられるのを押してステッキを手に見える、日大芸術学部中井幸一教授を迎えて審査員は勢揃いした。

 レストラン別室で、司会の日野自動車提供文化放送ラジオ番組「走れ歌謡曲」のパーソナリティ紀平真理さん、水井(みつい)久美さんを交えて、コンテストの打合せ。一昨年の第1回の時は、審査員の先生方も初めての方もあって打合せが手間取ったが、数回の会合を重ねて皆さんはすっかり打ち解けてきているので、スムーズに進行する。
 1時、ビデオの録画撮りで、トラックショーのあらましについて話す。相手がなくて、1人で喋るのはどうも難しい。
 1時半、コンテスト開始。審査員席は東京都トラック協会所有のイベントカーで、ステージがあり、後部は控え室になっていて、この種のコンテストには最適の車両なのである。

 前方はFEV2000の巨大なコンビネーション、向かって右には大型映像情報車、舞台装置としてはこれ以上望めない絶好のレイアウトだ。
(つづく)
88TS 懇親会開会式後の懇親会

みなさんさようなら

2014.08.14 09:33|「東京トラックショー」
88TS テープカット 開会式テープカット 右から酒井、前田両氏と増田

1988年(S63) 12月号
トラックショーものがたり その2-①

絶好の天気と押し寄せた来場者
すっかり定着、最高の舞台仕立てのコンテスト


明日はいい天気、開会式迄
 11月13日、トラックショー前夜の空には鋭い鎌のような月が出ていた。明日はいいお天気だと、予報も入っているし、雨の心配は全くない。
 第1回のトラックショーの時、自宅から晴海に向かう車のウインドウを叩く雨音に、果たして会場に人は来るのだろうか、などと感じた不安を今更のように思い出す。
 打つべき手はすべて打った。事務局から発送して返事のあった分、出品者からばらまかれた分、たしかに手ごたえはあった。ただ、前回をどれだけ上回ることができるかだ、と思いながら、この夜は会場近くのホテル浦島で安らかな眠りに就いた。おそらく、会場では深夜まで設営作業が続けられていたに違いない。
 例の如く4時頃起きて、「NewTRUCK12月号」原稿の校正作業、トラックショーがあるからといって、月刊誌の発行をおろそかにすることはできない。
 窓外が白み始める。車の音が聞こえるようになってきた。6時半、これも例のとおり、ホテルの狭い部屋でテレビ体操、自宅だと、このあとお経を仏壇に上げるのだが。
 8時前、校正作業終了。大急ぎで洗面、朝食をすませて、会場へ向かう。昨夜は雑然としていた会場は一夜のうちに、準備完了して開会を待つばかりになっていた。
 屋外はちょっと詰め過ぎかな、と思う。出品者も限られたスペースの中に2台も3台も並べようとするので、無理もないのだが、もう少しゆとりのあるレイアウトが欲しい。

 祝辞とテープカットをお願いしている日本フルハーフ酒井直之社長は早々と来場、早朝名古屋を出た(社)全日本トラック協会前田副会長も定刻10分前には到着した。第1回の時の胸につける造花の紛失事件、第2回の出品者代表の舞敏方社長へ右手だけ2つの白手袋を渡した事件があるだけに、準備作業も念を入れていたのだが、このために雇っていたコンパニオン嬢が、待ち合わせ場所で、9時半定刻寸前になってやっと到着、開会式が始まった。




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みなさんさようなら

2014.08.11 06:00|「東京トラックショー」
88TS 11月11日深夜 FEV2000   1988年11月11日深夜、京浜国道を晴海会場へ向かうFEV2000

1988年(S63) 12月号
トラックショーものがたり その1
FEV2000 日本へ 思い切ったPR作戦 ④

しっかりと日本の土を踏む 
 ランプウェイを出て、カメラを構えてみたが、FEVはなかなか出てこない。どうやら、エンジンのかけ方がわからなくて手間取っているようだ。突堤の先端にはビールのCMを横腹に大きく描いた飛行船が繋留されている。次々に入港してくるコンテナ船や貨物船を見ていたが少し寒い。車の中に入って待つことにする。

 出て来ます、との知らせでカメラを持って飛び出す。そろりそろり、前進して、ヘッドが船外へ出てきた。ランプウェイの途中でいったん止めて写真撮影、日本フルハーフ所属の鬼頭カメラマンはカラー写真、筆者はモノクロ、ガイドブック表紙や、トラックショー記念品の写真立てに入れたカラー写真は鬼頭氏撮影のもの、ここに掲載の写真は筆者が撮った。
 ランプウェイの先端部が接地する屈折部では、タイヤを噛ませたり添木をしたり、傷つけないための最新の作業が続けられる。これだけ周到なロールオン作業をロサンゼルス港で実施していれば、後部スカート部の傷はなかったであろうにと、悔やまれる。商品を作ったり、扱ったりする場合の日本とアメリカの注意力の差であろう。
 日本の土をしっかりと踏んだFEV2000は、埠頭内をぐるりと一巡して保税地区の定位置へ。巨体にも拘わらず、身のこなしは極めて軽い。
 すぐに、内部が開けられないので、そのままにして引き揚げる。

 11月8日、加藤車体でのウイング車1万台達成ラインオフの式典に参加して、その足で大黒埠頭に行き、日本フルハーフ社の人と立会いで内部に入る。4.1m高さ、12m長さの社内はさすがに広い。前部の接続部分と後部タイヤ部分の間の、ちょうど中低床のようになっている部分だけで、通常のバントレーラの広さがありそうに見えるほどだ。
 車内に掲示の案内板は英文だがそのまま使えそうだ。打合せをすませて先に帰社した。

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みなさんさようなら

2014.08.07 06:00|「東京トラックショー」
88TS FEV2000日本の土を踏んだFEV2000

1988年(S63) 12月号
トラックショーものがたり その1
FEV2000 日本へ 思い切ったPR作戦 ③

運行許可は出ないのにFEVはカルメン号で日本へ
 FEV2000の来日が本決まりになって国内運行が問題になってきた。
 もちろん保安基準はオーバーしているが、改造など思いもよらない。こういう特別な車の運行について、役所側の対応の悪さ、非能率さについて、話はよく聞かされていたが、まさか、メーカーでもなく、ましてユーザーでもない出版社の主が、この問題に関わるようになろうとは思いもかけなかった。
 世の中にはあり得ないような話が時として起こるが、FEV2000の運行で筆者が役所に足を運ぶなどというのは、その最たるものだろう。

 知己の中田信哉神奈川大学助教授の紹介された運輸省の某課長から担当者の某係長にまた紹介されたまではまずまずだった。
 運行業者には筆者と縁が深い日本通運を選定、担当者と事務局長が直接窓口である関東運輸局へ出向いて、担当官と話したところ、難しいことばかり言って埒(らち)があかないから顔を出してくれ、と言う。
 顔を出すのは何でもないが、もともと政治家と役人嫌いの筆者のことである。喧嘩でも始めたら何もかもぶちこわしになってしまう。
 気は向かなかったが、FEV2000は誰に頼まれたわけでもなく、筆者自身が日本に持ってこようとしているものである、ここは忍び難きを忍び、耐え難きを耐えよう、日本の敗戦時のような覚悟で関東運輸局へ出向いた。
 事務室に入って先ず驚いたのは、ソウルオリンピックを映すテレビが付けっぱなしになっていて、かなりの人がそれを見ている。机の上に書類らしきものは皆無でポケーッと腕組みをしている人も多い。3時半ごろの役所の風景が、何とも異様でしばし呆然としていた。思わず「役所ってのはヒマだなぁ」と日通の担当に口走ってしまった程である。

 出てきた担当官はソフトムードだったが、役所的対応をくり返す。
 それからいろいろのやり取りがあったが、事態は進展しない。その原因は運輸局側にも日通側にも、非常に珍しいケースなので、的確な方法を指示したり、見出すことができなかったところにあるようだ。そのため、アメリカのフルハーフ社にも必要書類の指示などができず、ムダな日米間のやりとりが繰り返された。
 モタモタしているうちに、FEV2000はロサンゼルス港からワレニアスラインのその名も「カルメン号」に乗せられてアメリカの地を離れた。10月8日のことである。

 車は太平洋上を日本に向かっているのに、陸揚げ地の横浜から東京晴海への輸送のメドは立っていない。
 一時期、道路運送を断念して、艀(はしけ)で直接晴海に運ぶことも考えたが、アメリカから日本への運賃よりはるかに費用がかかる。
 もう一度お出ましを、と日通から懇請されて再び関東運輸局へ。担当官の1人は10月始めに替わっていてまた振り出し。

 分厚い法律書など出して、ああのこうの、と言い出す始末に、とうとう業(ごう)を煮やして、それほどうるさいことを言うならもういい、トラックショーに来た人には申し訳ないが、別に入場料を貰っている訳じゃないし、日本に持ち込んだことで俺の責任は果たしたことになる。横浜の埠頭にFEVは置いたまま、トラックショー会場には写真を飾って、役所の対応でここまで持って来れなかったと大きく書いて貼り出す、と日通の担当と運輸省から日通に来た人に言い放って席を立った。
 悪いクセが出てしまったが、それから程なく、運べるようになりましたと連絡を受けた。カルメン号が日本に間近くなった頃である。

見てトラック、読んでトラック
 話を少し戻す。
 FEV2000の特別展示が決定した6月ごろから、トラックショーのPRをどうするかが話題になった。

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みなさんさようなら

2014.08.04 06:00|「東京トラックショー」
88年トラックショー FEV2000ロサンゼルス港のFEV2000コンビネーション(左)とカルメン号へ積み込み作業(右)

1988年(S63) 12月号
トラックショーものがたり その1
FEV2000 日本へ 思い切ったPR作戦 ②


 昭和59年の第1回トラックショーの時、初日の朝は雨、果たして人は来るだろうか、会場へ向かう車の中ではそのことばかり考えていた。幸い、雨にもめげず来場してくれる人達を見たときはホッと安堵の胸を撫でおろしたものだった。
 第2回もまずまずの人出だったが、第3回を迎えてもその不安は去らない。出展する車体メーカーや機器メーカーは自信の製品を出品するだろうし、それを見て貰うために、ユーザーを動員する筈だが、自動車メーカーとディーラーのネットに比較すると問題にならない。

 何かめぼしい目玉になる特別展示品がほしい、その目玉を見るだけでもトラックショーへ行った価値がある、というほどのものはないか、昨年から考え続けていたことだった。
 トラックショーのきっかけになったのは、昭和53年の春、サンフランシスコで開催のトラッキングショーの見学で、運営委員長のG・シェラド氏に会っていろいろ話を聞いたことだった。彼に聞けば何かいい知恵を貸してくれるかも知れないと思って、昨年秋、アメリカに渡り、彼に会った。
 しかし、トラッキングショーはすっかり定着していて、特別展示を考えなくてもユーザーはやってくるという。アメリカは、日本と違って、オーナードライバー的なユーザーが多く、彼らは好みのパーツを自分で選択して、好みのトラクタを作る。いわばアセンブリだから、トラッキングショーで新しい商品を見て、自分のトラクタを作る参考にする。
 しかも、トラッキングショーの主催者はその地区のユーザー団体であるトラック協会だから、来場者の動員手段を持っている。
 日本とアメリカのトラックショーの違いを再確認した形になったが、めぼしい特別展示品のない時には、PeterbiltかWhiteの最新のトラクタを借りる折衝を引き受けてくれるよう依頼して帰国した。

車工会との間の一波乱と結末
 年が明けた1月5日、自動車団体の新年賀詞交換会で、(社)日本自動車車体工業会(車工会)の藤本俊会長とお会いして、トラックショーのことを話したことが、一時的に紛糾する原因となった。
 筆者としては、トラックショーを私物化する意図はさらさらない、かといって、トラックショーの成立に心血を注いできた筆者にとって、その前途がどうなってもいいとは全く考えられない。
 何かいい方法はないかと思って藤本会長と会ったのだが、事態は思わざる方向に展開していった。
 日新出版の介入を一切排除して、モーターショーを主催する(社)自動車工業振興会(自工振)の指導、支援のもとに車工会がオートボデーショー(仮称)を主催しよう、という形にするという方針が伝わってくる。

 トラックショーはモーターショーのあり方を批判して、孤立無援の苦しい状況の中で、漸く成立したものである。そのモーターショーの勧進元である自工振の傘の下で、オートボデーショーを開催することは、トラックショーの志が死ぬ。
 トラックメーカーが直接参加していないトラックショーはたしかに変則的である。しかし、シャシだけなら、日本中どこでも見ることができる。トラックユーザーが本当に見たいのは車体など、その周辺の部分ではないのか、トラックは乗用車のように自動車メーカーからポンと完成品で出てくるものではない。自動車メーカーのペースで、架装メーカーのもとで初めて最終完成品となる。
 車体メーカーが出品するからといっても、車体部分だけの出品というわけでもなく、ちゃんと足はついていて自走して来る。
 車工会事務局のあまりの不甲斐なさ、自主性の欠如に呆れた筆者は、車工会とは一切絶縁して、トラックショーを遂行しようとハラを決めたのである。これはもちろん、将来にわたって、筆者なり、日新出版の単独主催でゆこうとするものではない。
 トラックショーにふさわしい運営形態が整えば、何時でもそちらに移す、という基本態度に変わりはない。

一(いち)出版社の意地を見せてやる
 車工会は、一出版社の主催するトラックショーでは、などと言っている。いかにもチマチマしたスケールの小さいショーであると言わんばかりである。

 思い切り話題になるようなもの、誰もこれ迄に考えなかったものはないか、アメリカのトラクタを持って来るといっても、外車のトラクタはベンツが既に国内を走っているし、二番煎じは免れない。
 第1回トラックショーのクラシック消防車、第2回の木炭トラックのようなレトロ趣味のものでなく、もっと未来志向のものはないのか。

 あれこれ考えているうち、ふとアメリカのフルハーフ社が試作した未来トラックFEV2000コンビネーションのことが頭に浮かんだ。
 デトロイトから東京まで、どうしてあのでかいシロモノを運んでくるのか、費用は、国内はスムーズに走れるのか、そういう考えは一切無視して、日本フルハーフに当たってみたのである。

FEV2000 前田さん
 依頼はしたものの、完全な自信はなかった。一出版社の主催するトラックショーに、果たしてFEV2000を貸し出してくれるだろうか、まあダメでもともとだ、と考えていたところに、案外早くOKの返事がもたらされて、いささか拍子ぬけの感があったことは否めない。
 FEV2000は長さ18m余り、幅2.6m、高さ4.1mのビッグサイズ、空気抵抗削減、軽量化と積載量増加、安全性向上など数々の新機軸を織り込んだ未来志向の車両である。トラックショーの目玉、特別展示車としてこれ以上のものは世界でも見当たらない。

 しかもこの時期、(社)全日本トラック協会(全ト協)では車両総重量見なおしの素地づくりの作業をすすめていた。総重量見なおしは、サイズの大型化をただちに意味しないが、トラックの先進地アメリカから、既に大多数の州で自由に走れることになっているFEV2000を日本に持ってくることは大きな刺激材料になるだろう。
 総重量見なおしを悲願とし、執念ともいえる意欲を持ち続けたのが全ト協副会長の前田源吾さんである。

 “周作対談”の第1回ゲストに登場して戴いて、ダブルストレーラに賭ける夢をお聞きしてから既に20年近い歳月が過ぎたが、前田さんは一貫した姿勢を崩さずに持ち続けている。
 第1回トラックショーの開会式で「トラックショーは坂本龍馬を生んだ土佐の男、増田さんにして成しえた快挙である」と言ってくれた前田さん、そして今年の春、「誰が何と言ってもトラックショーは増田さんを中心に進めるべきだ」と励まして戴いた前田さんである。FEV2000は前田さんに対するささやかな恩返しにもなろう。(つづく)

88年 前田源吾氏&シェラド氏写真左・ アメリカ国際トラッキングショー会長シェラド氏  右・ 恩人の前田源吾さん

プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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