みなさんさようなら

日新論語会                    毎月第一金曜に日新出版事務所で開いた増田論語 (写真は平成14年3月)。
「日新論語会」はトラックショーに先立つ歴史を持つ。亡くなる20日前、病院からお別れの講義に事務所に出てきた11月2日(金)も、会の皆さんは名残を惜しんでくださった。(妙)

 
2005(H17)年9月17日
儒学は古臭いものでなく、革新のエネルギーを秘めている

 官僚、特にキャリア組といわれる上級官僚は、ほとんど東大法学部出身者で占められている。ところが、江戸中期以降の行政官僚である武士層は、東大に匹敵する湯島の幕府昌平坂学問所、地方大学に相当する各地の藩校または私塾の出身者であった。その学問はすべて儒学だったから、現代で言えば中国学科または東洋学科卒業生だったと言える。
 現在、儒学を修めた人物の中で、政治家・官僚・実業に進んだ人は先ず見当たらなくて、その人たちは大学または高校で教鞭を取ってきたのが一般的である。「子曰く」などの儒学を専攻する人間は、学問の道に進む者であると、本人も学校も決めてかかっているから、その卒業生が、官僚や実業の世界に進むことはまったく考えられていないし、その道は事実上閉ざされている。それらは古臭いカビの生えたような学問であるとの認識が強い。
 それでは、江戸時代の武士官僚と現代の官僚のどちらが勝れているだろうか。単純な比較はもちろんできないが、倫理性では武士の方が上であることに異論を述べる人はないはずである。行政能力、国際適応性の点で、武士が現代官僚に劣っていたとは言えないことは、明治維新とその後の西欧化の道を推進した指導者は武士階級出身であり、日清・日露の戦いの時の困難な国際情勢を克服したのも彼等であった事実で明らかであろう。
 幕末紛糾の情勢に対応して、傑出した行財政能力を発揮した儒学教育者山田方谷の例を見てきたが、イギリスとの関係改善を推進して、日清日露の戦勝の原因を作った明治期の名外交官陸奥宗光も紀州藩の藩儒の家の出身で、坂本竜馬の海援隊にも参加している。日向の武士出身で、ポーツマス条約を結んだ小村寿太郎と共に、日本外交官の双璧である。
 武士の本領である戦争にしても、日本軍が本当に強く、国際性を持って外国に対応できたのは明治期までで、昭和期になると政治家・官僚・軍指揮官の能力は劣化している。
 東大法学部、陸海軍大学のいわゆるエリート育成機関出身者が、指導者のほとんどを占めることになったのが現近代日本の悲劇だが、その根は深くて、修復は容易ではない。
 儒学は政官財界から遠い存在になり、せいぜい教養の足しに読まれる程度になった。
 筆者は儒学を専攻した人間ではなくて、門前の小僧もいいところである。それでも、日本産業の牽引車である自動車業界団体の日本自動車工業会に対して一歩も引かずに、「徳は孤ならず必ず隣有り」をキーワードとして、乗用車重視の東京モーターショー改革の旗印を掲げたトラックショーを22年に亘って主催して、現在に至っている。
 儒学は決して古臭いものではなく、改革・革新のエネルギーを秘めているのである。
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みなさんさようなら

2004(H16)年9月11日
「徳を以て怨みに報いる」と孔子は言っていない 産経抄への疑問

 ロシア南部北オセチア共和国の300人以上の犠牲者を出した学校占拠事件は、世界に大きな衝撃を与えた。マスコミもこれをトップ記事で紹介したのは当然だが、産経新聞の人気コラム「産経抄」(9月5日)の表現には多少引っかかるところがあった。
 「産経抄子」は、チェチェンに対するロシア側の圧政は18世紀後半以降からのもので、その根は深いものがあって、力で独立要求をねじ伏せようとするプーチン政権への風当たりも強いが、こんな非道なテロを繰り返していては、国際社会のチェチェンへの同情も遠ざかるばかりだ。「徳を以て怨みに報いる」という東洋道徳とは無縁の世界なのだろうか。と結んでいる点である。
 大東亜戦争で日本が敗戦した時、当時中国を支配していた国民政府の蒋介石はこの言葉を使って、中国に駐留していた日本軍の帰国を許したのは事実である。敗戦間際に当時の満州地区に侵入したソ連軍が、関東軍をごっそりシベリアに抑留して膨大な犠牲者を出したのと比較すると、まったく正反対の寛大な処置であった。
 「怨みに報ゆるに徳を以てす」の言葉は、中国の古典『老子』に見える言葉だが、東洋だけでなく、キリストも「汝らの仇(あだ)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」(マタイ伝)と言っているから、東洋道徳だけの専売ではなさそうだ。先般のサッカー戦での中国人の反日行動を見ると、「徳を以て怨みに報いる」どころではない、執念深い反日教育の結果をまざまざと示したものだった。
 「徳を以て怨みに報いる」のは、むしろ中国より日本の方に見られる特質であると私は思う。敵に対する徹底的な報復は、あまり見られなくて、「水に流し」ていこうとする。
この言葉に関連して論語には次の章がある。「或ひと曰く、徳を以て怨みに報いば如何。子曰く、何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報いん。」
 たしかに、怨みに報いるのに徳を以てするのは、高尚に見えるが、それは宗教、理想の世界のことで、我々は敵も味方も一視同仁というわけにいかないのが実情ではないか。孔子の言う「直」は、報復的手段だけを意味するのではなくて、これが正しい道であることを示してやる、その結果として恩威いずれかの手段を取るのが現実的であろう。徳を受ければ、それなりのお返しをするのが当然であり、それを忘れては忘恩の徒になる。
 産経新聞は中国にはっきりとモノが言える新聞のはずで、現代中国の為政者が「徳を以て怨みに報いる」のいわゆる東洋道徳で日本に報いているか、よくご存じではないか。


みなさんさようなら

2014.09.22 06:00|「手紙」
父上様
周作筆 般若心経                 昭和47年9月23日

今日は彼岸の中日ですので 先祖供養の意味で般若心経を書きました
佛前に供えて下さい
午後は何処か寺詣りにゆこうと思っています     草々
                       周作
父上様


叔母の遺品の中にあった、42年前、46歳の父が祖父へ送った手紙。
 日蓮宗に般若心経は不要らしいが、60余年の昔、お四国遍路の門々で般若心経を上げて廻った父はそんなことに頓着しなかった。毎日『般若心経』『論語』を唱えていた父に習い、私は上記のコピー『般若心経』、次に『大学』、その次が伊与田先生の『仮名論語』の1章または半章、最近では『教育勅語』を加えて、仏壇に向かって上げている。
 それから、三浦家、小谷家、増田家のご先祖さん、父を導いて下さった諸先生、恩人と言っていた前田さん、中川さん、お世話になった日軽金の松永さん、荒川さん、多田さん、久世さん…と名前を挙げて、ホントに有難うございました、お陰様で父は最期まで立派に仕事ができました、一所懸命勉強しました、とお礼を言っていると優に30分はかかるので時々サボる。私を不信心だと言っていた父は、まぁ仕方ないか、と思っているだろう。というより、私に『大学』や『論語』を聞かされることになるなど、生前は想像もしなかったに違いない。(妙)

みなさんさようなら

 玄界灘を行くにっぽん丸 2006年        玄界灘を行く「にっぽん丸」 2006年

2006年08月26日
神は純粋に人を助けようとする行為には過分にも不足にもならない手助けをする(夏のクルーズ⑤)

 玄界灘を行く「にっぽん丸」の船上での避難訓練の記事を書きながら、見ていたNHKテレビで放映の「鎮魂のモデル船作り」については、昨日のこのページで述べた。
 通常は書斎でパソコンを打つのだが、さすがに炎暑に耐えがたくなって、エアコンとテレビのあるリビングにパソコンを移動して、目と手は別だ、とNHKの1チャンネルをつけると、高校野球の決勝戦が出て、これはかなわんと3に切り替えたら、「鎮魂の…」で、そのまま見続けたのである。女房に言わせると再放送らしい。

 話していたのは、佐藤明雄という哲学専攻の学者で、中国の福州と縁があり、戦争で沈んだ民間船のモデルを作ってその犠牲となった船員や乗船者の鎮魂に努めると共に、福州の人たちに学資援助を続けている方であった。その最後の方で、ドイツの哲学者エッケハルトの「神は純粋に人の為に尽くそうとする人に対しては、過分にも不足にもならない手助けをするものである」という内容の言葉を紹介された。一方で、原稿をパソコン打ちしながら、耳に入ったのだから聞き違いがあるかも知れないが、この言葉には打たれた。

 佐藤氏が、大学で哲学を専攻したいと父君に申し出たところ、「哲学ではメシが食えないが、それを承知なら」と許可されたそうで、もともと食えないはずの哲学の道に進んだのだから、メシが食えさえすれば、余りは何か人の為に尽くすのが当然だと決めた。それが、戦争で犠牲になった民間船による戦没者の鎮魂のためのモデル作りと、縁のあった福州の人たちへの学資援助に繋がった。阪神大震災の時には、その用件で中国を訪問中だったが、住まいのマンションは全壊に近い状態なのに、まるで魂があるかのように、本などが散乱している中に船のモデルだけがそのまま残っていた、という内容だった。

 太平洋戦争中に犠牲になった民間船と船員の鎮魂の為に、大阪商船三井船舶の失われた商船の名称と船員すべての記録をまとめた『商船が語る太平洋戦争』を自費出版されたのは、私も存じ上げている野間恒(ひさし)氏である。野間氏には『豪華客船の文化史』始め優れた船に関する著作があり、もっとも情熱を注いだのはこの『商船が語る太平洋戦争』であったと思われ、巻頭に掲げられた「この書を5713柱のみ霊に捧ぐ」の言葉が、野間氏の真情をよく物語っている。

 靖国を声高に叫ぶ人は多いが、その部門部門の犠牲者をどれだけの人が弔っているだろうか。急逝した前田源吾氏は、全国戦友の菩提を弔うために全都道府県の護国神社巡拝の悲願を立て、愛孫代参の沖縄を除いてすべて完遂した。「人のために」の行動は美しい。

みなさんさようなら

2014.09.15 06:00|「幽冥録」
航走実演会 中川さんと2人の夢が実現したフェリー航走実演会

2002年(H14)8月号
「幽冥録」
日新出版を終始愛して見守った中川政弘氏(元東急車輛製造(株)社員)

 日新出版創立以前の自動車車体通信社から、その死まで実に30余年にわたって深浅の差はあっても、終始厚誼が続いた。特に、私が大きな恩誼を受けたのは、ひとりで自動車車体通信社を切り盛りしていた昭和45年から48年にかけてで、いわゆる業界誌という色目で接することなく、兄弟分を以て遇してくれた。
 中川さん自体が、多少サラリーマンの枠からはみ出したところがあり、サラリーマンを嫌って脱サラした私とウマがあったのだろう。
 両者が揃って海が大好きで、ちょうど長距離フェリーが各地に就航し始めた時期と重なって、中川さんは東急車輛製造のトレーラ担当管理職の立場だったから、お互いに都合が良かったのである。

 2人でやり揚げた最大傑作は、今は姿を消したセントラルフェリーの新造船を一隻借り切り、トラック・トレーラ・車体メーカーに参加して貰って、長距離フェリー航走実演会を開催したことだろう。もちろん、大型フェリーを1日借り切るカネはどこにもない。3,000円の購読料が振り込まれる度に、引き出して当座のしのぎにしていた頃で、とてもゆとりのカネなど全くなかった。フェリー会社との折衝は何とかついたが、自分の事務所もないし、各社担当者を集めて協議する場所を借りるカネもない。助け船を出してくれたのは中川さんで、当時は東京駅八重洲口にあった。

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みなさんさようなら

*2004年4月13日(火)
年来の知己多田敏雄氏急死

 五島列島の旅先で多田敏雄氏の急死を聞いた。
 五島列島という日本最西端の離島の宿に着いたら、家人からすでに連絡があって、電話をかけると多田氏が急死したという。一瞬全く信じられなかったが、現実は現実。プレジデント社を退職した後の再就職した職場を去ることになり、9日夜開かれた送別会に出席した帰途の駅で転倒、そのまま急死、心筋梗塞であったという。
 多田氏とは20年ほどのお付き合いだが、銀座日新出版で開講中の月例論語講座の塾頭的立場にあり、何くれとなく切り盛りをしてくれていた。編集作業についてはプロ中のプロで、私が出版した『今こそ論語』と『従心日録Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』の校正からレイアウトすべてを完璧にこなしてくれた。彼の支援がなかったら、まともな装丁の本を世に送り出すことは不可能であったろう。ともかく生真面目で、全く手を抜くことをしなかった。そのため、この1ヵ月ほどは不眠不休の状態であったことは、彼が最後に掛けてきた電話でも察しられた。編集に生き、死んだ多田敏雄氏の冥福をただ祈るのみである。

(五島列島から急遽帰京、ホームページを打ち終えて、これから通夜に向かいます。葬儀は13日午前10時から11時まで、川崎市高津区下作延1890 エヴァホール津田山)


*2004年4月22日(木)
五島列島の小さな島の寺で、ご住職に上げて頂いた多田氏供養の読経

 多田氏の急逝を聞いてからの五島列島の一人旅は気が重く、翌日の奈留島から中通島に渡るフェリー時刻まで1時間ほどあったので、島の人にお寺はありませんかと聞くと、あの小さな山の向こうにありますとの返事。本堂に上げて頂き、灯明とお線香で私なりの読経をしたいと思って庫裡で案内を乞うと、上品な老婦人が出てきた。趣旨を話すと、どうぞお上がり下さいという返事。静かに読経して出ようとしたところに、老婦人が住職が用意をしていますからしばらくお待ちをと、仏壇に灯明を点したり香を焚く準備を始めた。
 令息らしい若いご住職が僧衣を着けて出座、真宗のようで、南無阿弥陀仏を唱え、30分あまりも熱心に経を上げて頂いた。沖縄を除けば日本の最西端の五島列島の小さな島での、多田氏供養のための読経である。私にも初めての体験だが、若いご住職にとってもこのような旅人の依頼による読経はこれまでなかったことだろう。不思議なご縁を思う。
 ご住職、ご母堂を交えてお茶を頂きながら、しばらくお話した。四国八十八箇所巡礼を含めてずいぶんお寺詣りをしたが、キリスト教信者が多く、カソリックの教会を巡る五島の旅の途中に聞いた多田氏急逝の報せと寺での供養は、一生の想い出になるだろう。

みなさんさようなら

2014.09.08 06:00|「幽冥録」
2006年9月号
「幽冥録」

不屈不撓の95年 前田源吾氏逝く
トラックと求道心を兼ねた唯一人生の師


 この虚脱感はどうしたことだろう。
 95歳にもなった前田源吾さんだから、何時天寿を全うされても、お別れの覚悟はできているはずだったが、日新出版36年の歴史の大きな部分が消えた感がする。
 数年前にすでに、女婿の柴田勉愛東運輸社長から、親父さんのまさかの時には、お言葉をもらいたい、という依頼を受けていたので、何時かはと思っていたが、とうとうその日を迎えることになったのである。
 夏休みの旅行から16日の夜に戻って、先ず入ったのが8月13日深夜の前田源吾さん急逝の報であった。
 有難いことに、安岡正篤先生はじめ、人生の師といえる方々に私は恵まれてきたが、生業としているトラック業界で、師と呼べるのは前田さんしかいなかった。

 前田さんとのご縁は、本誌創刊の頃に遡って、現在に及んでいる。
 日本のトラック近代化の先導者であった前田さんには、トラックの右も左も弁えない筆者がその道の専門家に教えを乞う意味で始めた「周作対談」の第1回のお相手に登場して頂いてからのご縁である。この記事は昭和45年(1970)新年号に掲載されたのだから、もう36年も前で、対談相手の方はほとんど鬼籍に入られたり、完全にリタイヤされて、当時からご縁が続いているのは前田さんただ1人となった。

 トラックについて、前田さんから教えられたことは数限りなくあるし、「東京トラックショー」にとって前田さんは当初からの最大の理解者であり、支援者であった。

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みなさんさようなら

横浜港   (東京湾に入って横浜入港はもうすぐ 2006年8月撮影)

2006年8月19日
東京湾上 故人の回想

 8月10日から夏休みをとって「済州島と海峡花火・阿波踊りクルーズ」を楽しんできた。その詳細については、順次このページに紹介してゆくが、最終コースの16日深夜、四国小松島を出港してから熊野灘にかかる頃から、迷走する台風10号の影響で、2万tあまりの「にっぽん丸」も大揺れに揺れた。遠州灘を通過して伊豆半島沖で大きく北に針路をとって、相模灘にかかる午後から海は静かになり、東京湾に入るとすっかり凪いだ。
同行した妻に、「35年前、この東京湾を大型フェリーを借り切って回ったことを覚えている?」と話し始めたが、その2年前、私が単身上京してトラックの世界に飛び込み、ようやく家族を呼び寄せた直後に実施したのが、今は姿を消した「セントラルフェリー」の新造船を借り切って、トラックメーカー・トレーラメーカーの車両のフェリー積み込み航送テストだった。このイベントが現在の「東京トラックショー」に繋がる日新出版のイベントの皮切りであり、借りた小さなボロ家で妻が電話番する2人の協同事業の始まりだった。

(※ セントラルフェリーの記事は、
月別アーカイブ 本年 1/17~2/7「フェリー航走見学試乗会始末記」 と 2/10~2/23「セントラルフェリーへの挽歌」も合わせてご覧下さい。)
              
 回想は、このイベントに全面協力して実現させた東急車輛の中川政弘氏に及ぶ。中川氏はその2年後、メーカーの関係者約30名を集めて、「さんふらわあ」に東京港から乗船、高知に向かった第1回の「呉越会」にも、部下の社員まで動員して、受付から部屋割りまですべてたった一人で何もできない私に代わって取り仕切ってくれたのである。中川氏はその他にも、わが社の創業時代に何くれとなく骨身を惜しまずに協力して頂いた大恩人だったが、その多くは海に繋がるものだった。氏の退職後、数年そのお礼の意味でわが社の仕事を手伝ってもらったが、この時もゴミ集めまで含む雑用を献身的に勤めてくれた。中川氏は金沢八景に住んで東京湾とは縁の深い人だったが、平成14年に鬼籍に入った。

 東京湾はさらに、もう一人の忘れられない恩人の回想に繋がる。『今こそ論語』『従心日録Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』の制作に尽力していただいた元プレジデント編集長で名編集人だった多田敏雄氏で、その出会いは東京港から横須賀に向かった自衛艦の上であった。一昨年急逝、この4月には、三回忌に当たる「偲ぶ会」に私は世話人の代表を務めた。

 中川、多田両氏の回想に耽りながら午後6時前、横浜に上陸。帰宅した私を待っていたのは創業以来の大恩人前田源吾氏の13日深夜急逝の知らせである。(昨日既報)

 「諸行無常」は世の習いであり、論語にも「子、川の上(ほとり)に在りて曰く、逝く者は斯(かく)の如きか。昼夜を舎(お)かず。」とある。川は流れて已まないが、海はさらにダイナミックに海流があり、時に狂瀾怒涛の様相を呈する。私には海が向いている。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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