みなさんさようなら

2014.10.27 06:00|「東京トラックショー」
「おはようコラム」から
2010(H22)年10月21日
トラック物語その①
世界でトップの商用車ショー ドイツのIAA展示会

 日新出版発行の月刊誌「NewTRUCK11月号」の編集作業が終わった。今月号の目玉記事は、ドイツのハノーバーで9月に開催された「IAA商用車ショー」を現地取材した本誌西襄二リポーターによるもので、3回掲載予定の第1回目である。
 アメリカに端を発したリーマンショックは、ヨーロッパにも大きな影響を及ぼして、世界最大の「IAA商用車ショー」も、開催できるかどうかの瀬戸際に立たされたようだ。しかし主催者としては、この危機を克服する切っ掛けとしてショーを位置づけて、各メーカーに参加を要請した。その結果、世界の40カ国、約1700社の参加を得て、全体規模としては前回より30%ほど縮小しながらも、堂々と開催に漕ぎつけた。
 この「IAA商用車ショー」に比べて昨年開催の「2009東京モーターショー」には、乗用車・商用車出展の慣例を破ってトラックメーカーの出展はなく、日新出版主催の「2009東京トラックショー」にも参加していない。自動車先進国アメリカにも、もちろん商用車ショーはあるが、規模はIAAショーよりはるかに小さい。トラックについてはヨーロッパ勢がダントツに日・米を離して世界を制している。その理由を考えてみたい。


2010(H22)年10月22日
トラック物語その②
因襲にとらわれて国際性を失った日・米のトラック

 日米欧のトラックには、それぞれの特長がある。我々が町や道路で見るトラックは、運転台と荷台が一体になった、単車と呼ばれるタイプがほとんどで、コンテナを載せるトレーラをトラクタ(ヘッド)が牽引する連結車は少数派に過ぎない。大陸アメリカでは、長距離輸送では連結車が原則である。ヨーロッパでは単車タイプとトレーラタイプが、それぞれの使用目的別、距離別に程よく混在している。
 単車タイプとトレーラタイプを比較すると、単車タイプは馬の背に荷物を載せる、トレーラタイプは荷物を積んだ馬車を馬が引っ張るのだから、明らかにエネルギー消費はトレーラタイプが少なくて済む。なぜ、日本はエコ時代に逆行する燃料多消費型の単車タイプに拘るのか、この理由は複雑で説明は難しく、長年の因襲の結果だ、とだけ言っておく。
 アメリカのトラクタは個人持ちが多く、その好みで巨大な運転台の後にワンルームほどの箱を付ける習慣があって、日本の燃料多消費型トラックと似たり寄ったりである。
 要するに、日本もアメリカも従来の因襲にとらわれたトラック作りに拘ったために、因襲を持たない国際商品としてのトラック作りをする欧州勢に太刀打ちできなくなった。


2010(H22)年10月25日
トラック物語その③
日本のトラックを主張する場を持とうとしない 

 日本は大陸から隔絶した島国、アメリカは1ヵ国で広大、面積に大小はあってもトラックの活動範囲はその国内で完結する。これに対してヨーロッパでは多くの国が地続きである。
 ヨーロッパはEU結成のはるか以前から、国際間の人的交流と物的輸送は盛んで、トラックそのものはそれぞれの国で製造されても、当初から国際通行と輸出を前提にしている。
 日本の人口の1割以下である北欧スウェーデンの、トラックメーカーボルボは日本を含む全世界に輸出されている。しかも日本のトラックメーカー4社の2社はボルボ社とドイツのダイムラークライスラー社の傘下に置かれ、米国メーカーも欧州勢に押されている。
 日本の乗用車はトヨタ、日産、スズキ、ホンダなど堂々と世界商品として押し出しているのに比べて、トラックがなぜ不振なのか。トラック月刊誌を発行する私としては、それなりに考えて、打つべき手は打ったつもりだったが、大勢は動かせなかった。
 例えば、自動車のショーにしても、ヨーロッパでは業界団体がトラックだけのショーを早くから開催しているのに、日本でのトラックは乗用車のショーに付随したまま。日本のトラックを主張する東京トラックショーが日新出版主催であるのは哀しい現実である。

2010年10月26日
トラック物語その④
欧州には立派な商用車ショーがあるのに、なぜ日本にないのか

 ドイツ・ハノーバーで開催のIAA商用車ショーの内容は、現地取材した西襄二リポーターによる記事と写真を、今日発行の「NewTRUCK11月号」から3回にわたって、順次詳しく紹介してゆく。世界最大のこの商用車ショーには、日本からも多くの関係者が視察に訪れている。
 その見学者の中から、ヨーロッパではこれだけ立派な商用車ショーがあるのに、なぜ日本ではまともな商用車ショーがないのか、小さな出版社の主催する東京トラックショーだけなのはなぜなのか、という疑問が出てこないのか、私には不思議でならない。
 展示されたトラックなどから参考にするものはないか、会社に報告するリポートはどう書けばよいのか、頭にあるのは、そういうことだけなのだろう。
 私が初めて外国の土を踏んだのは、「呉越会」グループを率いてサンフランシスコで開催中の「トラッキングショー」見学のため渡米した時だった。こんな立派なトラックのショーがなぜ日本にないのか、どこに問題があるのか、日本ではできないのかを先ず感じた。今日、企画説明会を開催する「東京トラックショー」はこの時の見学から生まれたのである。(この項終わり)

※ 「呉越会」…“呉越会”はご存じ、中国の故事「呉越同舟」から名付けられ、洋上での研修会にピッタリの命名であった。発足記事は 2013.5.20~20133.6.10 にアップしたS48年7月号、月刊誌・記事の『 呉越同舟太平洋夢枕 らいばるどうしみなみのうみえぴそうど』をご参照ください。(妙)
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みなさんさようなら

2007(H19)年10月22日
もし土方歳三が靖国神社に祀られていたら

 日本人は、大陸諸国のように、深刻な宗教や民族間の戦いを経験しなかった。従って、例え一時的に敵味方に分かれて戦っても、融和していった。天下分け目の関ヶ原の戦いでも、双方の犠牲者を弔った敵味方塚が作られていた。会津の人が長い間サツマイモを食べなかった、というほどの薩摩嫌いは、薩長新政府の政策が会津に厳しすぎた結果である。
 日本人の心情から言えば、東京招魂社は、敵味方双方の犠牲者慰霊の施設であるべきだったと思うが、合祀者は政治優先で明治新政府建設のための犠牲者に限られた。当時戦った兵士は、国というより薩摩、長州、土佐、幕府、会津というように、それぞれが所属した藩なり幕府のために、あるいはその命令により命を落としたのがほとんどであった。ごく一部の先覚者が、幕府なり藩の意識から抜け出して、国を意識していたに過ぎない。
 もし、靖国神社に河井継之助や近藤勇、土方歳三などが合祀されていたら、と思う。中国や韓国から何と言われようと、日本人は、敵味方なく戦いに犠牲になった先人を靖国神社で招魂、慰霊してきたのだと、言い張ることができる。逆に、国共内戦(中国国民党と共産党の内戦)の国民犠牲者の慰霊はどうなっているか、と問い返すこともできよう。

みなさんさようなら

安岡先生葬儀 

2004年10月20日
恩師の葬儀の場で見た角栄元首相と細木女史

 田中角栄と細木数子の超有名人を間近に見たのは、恩師安岡正篤先生の本葬と密葬の場であった。先生の最晩年は、奥様を先に亡くした身辺の寂しさも手伝って細木女史と親しくなり、週刊誌などの絶好のゴシップネタになった。昭和58年12月に大阪で永眠された先生の密葬はそういう事情もあったので、門下生の参列は許されなかったが、私は関西の代表のつもりで参列した。マスコミも押しかけて、物々しい雰囲気の中で行われた密葬の出棺が始まろうとする頃を見はからっていたかのように、細木女史が粛々と現れたと見るや霊柩車出発直前に、演技だったのか本心だったのか、取りすがるように号泣した。

 年を越した1月25日に、岸信介元首相を葬儀委員長とする本葬が青山葬儀所で行われた時、最初から身じろぎもせずに粛然と端座していたのが田中角栄元首相であった。先生の門下生を自認した福田赳夫元首相が、そそくさと来てすぐ退場したのとはまったく違った真摯な姿を私は見た。角栄氏が退陣する時に、教養がないと言われた元首相が見事な言葉を残したのは、安岡先生の指導があったからだと言われている。金脈追求から30年、先生の死から20年、角栄元首相の死からも11年、細木女史は依然大活躍中らしい。

みなさんさようなら

2005年9月2日(金)
「朝日新聞」は先ず記者の倫理観念の育成に取り組むべきだ

 またかの朝日新聞の不祥事で、1昨日は朝日自身、昨日は産経が社説でその問題を取り上げた。過ちを認めて詫びた朝日の姿勢はこれまでの隠蔽糊塗と違って評価されて良いと思うが、「朝日新聞という『伝統と看板』がかえって組織の病を生んではいないか」との自戒の言葉にやはり、朝日の病根を感じる。筆者など、朝日の伝統も看板も一切信じてはいないし、同様の考えを持っている識者は多いと思う。思い上がりも甚だしい。

 『文芸春秋』に山崎豊子女史が連載中の「運命の人」は、毎日新聞の政治部記者が外務省勤務の女性を通じて秘密文書を入手して国会で大きな問題になった事件の小説化である。新聞は「社会の木鐸(ぼくたく)」世の乱れを正す役割を持っているはずだが、その記事を作る側に人格欠陥者が多いのも、筆者がその中に身を置いて体験した事実である。
 いわゆるネタ入手にどのような卑劣な手段が使われるか、今回のような捏造もある。朝日が「伝統と看板」をいうなら、記者連中の道徳的人格形成から先ず取り組むべきである。

みなさんさようなら

2007東京トラックショー①
2007年「東京トラックショー」開場式後、湯島聖堂からお借りした孔子像の前で。
右から日本フルハーフ・比企社長、第18代当主徳川恒孝氏、日本ミシュランタイヤ・デルマス社長、湯島聖堂「斯文会」理事長石川先生、増田、日野・蛇川会長、神奈川大学経済学部・中田教授、日本ミシュランタイヤ・ランガード氏

2005(H17)10月15日
孔子の斯の文を守る自負自信と筆者に与えられたトラックショーの天命

 東京トラックショー開場式の挨拶の中、来場者へ配布のガイドブックにも、再来年2007東京トラックショーは、乗用車商用車合同の東京モーターショーと、同時開催が避けられなくなったと宣言したので、もう後に引けない状況になった。
 初日夕刻の、関係者を集めてのレセプションで、筆者は以下のように述べた。
 今朝の開場式で、徳川恒孝氏はこの4月に湯島聖堂の孔子祭の後の尚歯会(しょうしかい、高齢者をお祝いする会で数えの70、80、90、100歳に達した人にお祝い状と記念品を贈呈する。)で、80歳になった増田さんに私の手からお渡ししたと、述べたので、知らない人にも筆者が80歳になったことをPRすることになった。(徳川氏は、儒学の総本山のような湯島聖堂斯文会の名誉会長で、筆者はその役員の末席を汚している。)
 徳川氏の言葉を踏まえて、2年後の2007年には乗・商合同の東京モーターショーと東京トラックショーが同時期開催のやむなきに至ったので、両ショーの共存共栄を図るために、少なくとも後、2年は元気で頑張らなくてはならなくなった。筆者は、難問が前途に立ちはだかっている方が、意欲が湧いて元気になる性質(たち)なので、大いに頑張る積もりである。皆さんもどうか応援して頂きたい。
 人間には、難局に出遭うと、勇気百倍するのと、意気消沈するタイプがある。
 孔子は前者で、論語にも次の章がある。「子、匡(きょう)に畏(い)す。曰く、文王既に没したれども、文茲(ここ)に在らずや。天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死の者、斯の文に與(あずか)るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)其れ予(われ)を如何にせん。」斯文会のいわれである。
 孔子が、匡という土地で危難に遭った時の言葉である。「聖人といわれる文王は、もう既にこの世にはいないが、その道は現にこの私に伝わっているではないか。天がこの文(道)をほろぼそうとすると、私はこの文(道)にあずかるこができないはずだ。天にその意志がない以上、匡の人が自分をどうすることもできないだろう。」
 筆者は、孔子のような高邁な理想の「文」の担い手であるなどと、毛頭考えているわけではない。しかし、トラック界で生計の資を得ている以上、筆者としてトラック界に何か貢献しなければならない。トラックショーは、日本のトラック界だけでなく、アジアの物流界のために筆者が万難を排して成立させたものであり、その維持発展の道をつけることは、筆者に与えられた天命のようなもので、その自覚が後2年の筆者を守るだろう。

みなさんさようなら

2011年10月3日(増田周作のご意見番)
「誠心誠意」と「正心誠意」は大いに違う 

「麒麟も老いれば駄馬に劣る」で、別に麒麟を気取るつもりはないが、老いてしかも病気上がりとなると、「カラ元気」による発信だろうと取られる可能性が大きいような気もする。しかし、敢えて継続する。
 「四字熟語」集が、よく売れていて、4年ぶりに日本人大関に昇進した琴奨菊はその就位口上で、宮本武蔵の「天理一空」を引用、話題になっているようだ。記者団にも出典と意味が分からないだろうから、わざわざ解説付きであったらしいが、なぜ単純でも良いから自分の言葉で喋らなかったのか、久しぶりの日本人大関なのに、と残念である。
 外人力士の白鳳が大関だか横綱就位に「四字熟語」集から引用した言葉を使ったので、慣例になったと聞くが、力士は力士で、学者ぶることはなく、率直に自分の決意を自分の言葉で述べればよいことである。親方や後援者の配慮も足りなかった、と思う。
 「四字熟語」でいえば、野田首相の就任演説で「誠心誠意」に取り組むでなくて、「正心誠意」で、としたのは、新首相の特別の思いがあって、「誠心」を「正心」にしたのだ、勝海舟が使っていたから、とマスコミは報じていたそうだが、本当は「正心誠意」が正しいので、「誠心誠意」は俗化した使い方なのである。
 原典は、古典「四書」の一つ『大学』の冒頭にある。「正心誠意修身斉家治国平天下」つまり天下を平らかにしようと思う者は先ず、その自身の心を正しくすることから始めていかなければならない、という教えである。『大学』とは言うが、以前は漢文の入門編のようなもので、10歳くらいの武士の子なら暗誦していた言葉だった。
 それが「誠心誠意努力して、実現に努めます」という「のらりくらり逃げ口上」を得意とする官僚や政治家が良く引用するようになって、本来の意味が失われてしまい、漢字そのものが「正心」から「誠心」に変わったのだろう。
 言葉は軽々しく弄ぶものではないが、野田首相の「正心」を引用したのは良いことだ。

みなさんさようなら

2008年10月4日アップ書

2008年10月4日
「思無邪」の君徳は牧場の馬にまで及んで逞しく育っている 古代の詩

 「思無邪」となると難しいが、「無邪気」は普段よく使う。まだ、あどけない、作為を全く知らない幼児が自然にふるまう動作、口から発する片言などを表現するのに「無邪気」はピッタリの表現である。
 月例論語講座では聴講生の中から順番に、研究成果の発表をすることになっていて、発表者には希望する文字を書いて差し上げる。発表者のM氏の希望は「思無邪」で、論語に「子曰(のたまわ)く、詩三百、一言もって之を蔽(おお)う。曰(いわ)く、思い邪(よこしま)無し。」(為政第二)とあるのが出所である。
 古代中国では、祭祀・外交・宴会などの儀式の時に、音楽に合わせて、伝承された詩を歌う慣習があった。その内容は、喜怒哀楽の情、自然賛美、恋情、君徳の礼賛など様々で、孔子の時までには3000もあったと言われている。
 孔子は、それを300ほどまでに整理して、後の詩経になる元を作ったとされる。
「詩三百」とはおよその詩の概数を指したものである。
 「思無邪」は、現在の詩経の中に収められている魯頌(ろしょう)という魯の僖公(きこう)を讃える詩の篇名である。(書き文字参照・音ケイ)
 僖公は、孔子が理想とした周公の子の伯禽の定めた法則を守って、倹約して民衆を愛し、農牧畜に力を注いだので、その「ケイ」つまり牧場の馬は、逞しく育った。君主の「思い邪無し」の徳の感化が、牧場の馬の成育にまで及んだ、という如何にも古代らしい大らかな表現の詩であると思う。
 孔子と弟子との問答の中には、よく詩の一節が用いられたのであろう。高弟の子貢が孔子に「貧しくても卑屈になって諂(へつら)うことなく、富んで威張ることがないのはどうでしょうか」と問うた時、孔子は「それも悪くないが、貧しくても道を楽しみ、富んで礼を好む、というには及ばないな」と応えた。すかさず、子貢が「詩に切するが如く磋するが如く琢するが如く、磨するが如くとは、このことを言うのでございましょうか」と言った。わが意を得たように孔子は「お前と初めて詩を語れるようになったなあ。昨日といえば明日が分かる」と褒めている章がある。「切磋琢磨」の語源は「詩」の衛の武公の修養を怠らなかった様子を讃えた「衛風」の中に出ている。
 詩は、宴会などで音楽に合わせて朗唱するだけでなく、孔子門下の研修の教材としてもよく使われた。時には琴なども使ったことが論語にも出ていて、当時の学風が偲ばれる。

みなさんさようなら

2011年10月1日
夏の想い出 垣間見た「生老病死」
 
 今年は残暑の感触があまりないままに、秋に突入した感じがする。
 この夏は、エアコン付きの病院でほとんど過ごしたので、猛暑は経験する機会がなかった。もちろん我が生涯で、こういう暑さ知らずの夏は初めてのことである。
 長く生きていると四季折々、いろいろ想い出が重なるものだが、強烈な日射しの照りつける夏のそれが一番印象に残っている。私の場合は、66年前の敗戦の日8月15日、カンカン照りの兵営の庭で聴いた終戦の詔勅である。
 南国土佐育ちなので、雪の深い冬や凍えるような寒さはあまり体験していないし、24歳から5年ほど、剥き出しの炎天下で汗みどろになりながら土木作業に従事したことが、特に夏の印象を濃くしているのだと思う。
 特にこの夏は、入院見舞い以外に訪れたことのない病室で過ごしたことは、それまでに入院経験が皆無だった私に、いろいろなことを教えてくれた。
 「生老病死」の「四苦」は、よく言われるが、病院こそまさにその縮図である。産婆さんの取り上げがほとんどなくなった現在、人は病院で生まれ、老いて病んだ身体を病院に横たえ、多くの人は、家に帰ることなく病院で死を迎える。
 入院した前半は一般病棟だった。夜昼を問わず、救急車で運び込まれる急患が多かった。腸出血が止まらない、脳溢血で倒れた、などの患者が搬送されてくるのだが、看病に来る身寄りもいない、という現代を象徴するような一人ものもいた。
 術後は外科病棟に移されて、ここでは各種のガン手術を受けた患者がほとんどだった。私のように初めて、というより2度目、3度目の人が多かったようで、面会室に出ているのは元気な方で、ベッドにやせ細った身を横たえたきりの患者もいる。気がつくと姿が見えなくなっていたこともあった。病院では、遺体に取りすがって号泣する、という時間的余裕はもう許されないのだろう。
 点滴を受けながら憔悴しきった患者を、数人のいかつい身体をした男が取り囲んで、書類を見せながら強く迫る風景も見た。金銭上のトラブルで解決を迫っているのだろう。「病苦」の上に「借金苦」まで背負い込んで大変だな、と患者に同情したけれども、取り立てる方も死なれたら元も子もなくなる、これも必死になるのも当然かも知れない。
 病院暮らしの夏に、快適な想い出などあるはずもないが、遅まきながら「生老病死」の一端を垣間見て、我が身の老病死を真剣に考える切っ掛けができたのは良かったと思う。
プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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