みなさんさようなら

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このブログを毎週ご覧いただき、有難うございました。
平成26年もあと数日、来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。(妙)

2009年12月26日
年をとると賢くなるか、馬鹿になるか、そのどちらかだ

 17世紀のフランス文壇で活躍したラ・ロシュフーコーは、地方貴族出身で、数々の戦乱、政争、陰謀に巻き込まれたり荷担したりする一方、数名の女性と浮き名を流して、隠退した後に痛烈な人間性批判の書「箴言録(しんげんろく)」を書いた。
 その中で一番応えた言葉に「人間、年を取ると、馬鹿になるか、賢くなるか、そのどちらかだ」がある。67歳で死んだ本人はそのどちらであったか、それは知らないが、普通は馬鹿になる方が多いのだろう。
 馬鹿という言葉が悪ければ、頑迷固陋、大歩危(呆け)小歩危、認知症、要介護、もの忘れなど、人間、年をとると良いことは余りない。私自身を顧みても、そう実感する。
 年をとって賢くなる、そんなことは果たして可能なのか。
 年をとると脳細胞はどんどん減少、肉体的にも退化する一方で、お年寄りと言えば弱者の代表にように扱われて、後期高齢者などと呼ばれる。
 ではロシュフーコーは本気で、年をとるに従って賢くなる人間もいると考えていたのだろうか。もしいるとすれば、どのような人間なのか。何をすれば年をとっても賢くなれるのだろうか。
 年末近くなって、ある人から、松下幸之助さんの晩年79歳から90歳までの折々の言葉を記録した『考えぬく日々』と、50歳代前半のアブラの乗りきった時の松下さんが書いた『PHPのことば』(2冊とも書店入手不可能)の2冊を貸与されて読了した。
 この2冊を読んで痛感したのは、50歳ですでに、世界に雄飛するナショナルブランドの松下電器を確立した松下さんもすばらしいが、晩年もそれ以上に人間的にも大きく向上して、より高い境地に到達していることに驚いた。
 晩年の松下さんが真に憂えたのは、政界経済界を担う人材の貧困で、松下政経塾を創立したのは84歳の時であった。民主党政権が誕生して、その修了生の中にも国会議員は誕生しているが、幹事長の小澤一郎はロシュフーコーの言う、年をとると賢くなるより馬鹿になる部類の人物のようである。一族郎党を率いて中国を訪問したのはいいが、まさに朝貢外交そのもので、天皇を政治的に利用するなど、師匠の田中角栄より始末が悪い。
 人間は調子に乗った時が危ない。年をとってからでは、尚更である。
 幸か不幸か、今年は苦境脱出と新生面を拓くために、脳細胞を刺激し続けた。賢くなることはないだろうが、馬鹿になるのを予防する意味合いでは役立ったように思う。


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2010(H22)年12月04日
「病中の苦味嘗めざるべからず」時には病臥読書も悪くない

 大晦日まであと1ヵ月足らず。今年は「月刊誌」からこの「コラム」、さらには「2011ニュートラックガイド」まで、文章の内容など丁寧に吟味してはおられず、ひたすら書きに書いた1年だった。もの書きが仕事である我が生涯の中でも、これほど書いた年はない。
 ひたすら書くことで、昨年来の危機を乗り切った感じである。特に「ニュートラックガイド」の、約100社ほどの社長と企業の紹介記事を書き分ける作業は、データが充分ではない上に、広告がらみとあって、これまでになく苦心した。
 最終段階では、朝というより深夜の1時頃に起きて書き出すことも続き、とうとう扁桃腺を腫らせて声がほとんど出なくなった。先週の金曜日にやっと原稿書きが一段落したので、「今日は仕事をしない」と腹を決めて布団に横になり、読書と昼寝に専念した。家にいて終日机に向かわなかったのは、これまでになかったことである。
 幸い、熱はまったくなくて、気分は悪くない。
 枕元に、書庫から取り出した書物を積んで、手当たり次第に片っ端から読んでいき、読書の楽しみを久しぶりに味わった。
 安岡正篤先生は、時には病床に臥す日もあったようで、「病中の苦味嘗めざるべからず」と言っておられた。病気は人間に、充分な反省と、読書の時間を与えるものである。病気を知らない私のような人間は、ただがむしゃらに働くばかりで、静かになる時間が少ない。
 せいぜい旅に出て、車中や宿舎で本を読む程度であった。家にいれば、記事を少しでも書き溜めておきたいという、脅迫観念のようなものに支配される。特に今年のように、日新出版の緊急事である、となれば尚更だった。
 それ以上無理をしたら身体は参ってしまうぞ、自分では若いと思っていても満で84歳を過ぎた老体ではないか、天が私に「休め」と命令しているのだ、と自分自身に言い聞かせて、土曜日の終日、寝床から出ずに読書と昼寝に費やした。
 読んだのは、安岡正篤先生の講演記録である。その講演は昭和30年代から40年代にかけて、今から40年から50年も前、私の30歳代から40歳代にお聞きしたものがほとんどで、これまでにも何度か読み返している。
 それにも関わらず、読後感は強烈で、先生が現在の世相をピタリと当てていること、乱世の生き方について勇気を与えられた。時には熱も痛みもない病気に罹るのも悪くない。

みなさんさようなら

2014.12.22 06:00|その他月刊誌記事
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1976(S51)年11月号
テレビで取り上げられた車検問題
NHK“スタジオ102”で2回放映
(その2)

車検は安全を保証するものではない
 車検問題を取り上げたのはNHK朝の番組“スタジオ102”の9月14日と28日の2回に分けてである。簡単にあらすじを紹介する。

 まず第1日目、プロペラシャフトの事件を簡単に紹介して、このシャフトを飛ばしたトラックは僅か2週間ばかり前に車検をパスしていた。ここで被害者の未亡人が「車検ていったい何だろう」と疑問を投げかける。そこで、運転手や車検場だけでなく国をも相手取って訴訟を起こす予定である。

 事故の原因はずさんな整備をしたことにあるらしいが、それで車検をパスしていた。そこで車検とはどういう手順で行われるのか陸運事務所の車検場を訪問する。数万円の費用がかかるからさぞ念入りの検査と思ったのに、1台の車の検査時間は4分から5分。1日に処理する代数が決められているので、ゆっくり検査することはできない、いわば組織的な手抜きといえないこともない、とは検査場の係の弁。はっきり言えることは車の数は飛躍的に増えているのに、1台1台を丹念にチェックする体制が出来ていない。昭和40年に陸運事務所の車検を受けた車が年間300万台だったのが、10年後の49年には613万台と倍になっているのに、検査官の方は824人から933人と13%しか増えていない。一方、国でさばき切れない車を指定整備工場で検査する民間車検は年間500万台に上っている。陸運事務所の方は短い時間の検査でも14%が不合格、再検査となっているが、民間の方は自社で整備、検査するので表に出てこない。そこで民間車検の中身の問題が出て来る。

 ここで運輸省の意見。国で検査するのは必ずしも2年なり1年なり保証するというものではない。余り頻繁にすることも出来ないので、1年とか2年とかいうタイミングは決めているが、その時点でその車が保安基準に適合しているかどうかを検査するのが建前である。運輸省のワッペンが貼られたということは次の検査時期を示すものである。
 このように車検は車の安全を保証するものではないが、こうした中で、全運輸労組では陸運黒書というものを発行して、車検制度などを世に問うということを言っている。以上が第1回の9月14日の放送のあらましである。

良心的な経営がむつかしい民間車検
 第2回9月28日ではトラック野郎の映画に出てくるような派手な飾り付けのトラックが映し出される。道路を走っている車はすべて車検をパスした筈なのに、国の車検をパスしない車が現に走っているというのは不思議という外はない。手抜き車検、ヤミ車検、など民間車検をめぐる不正や汚職問題が全国的に相次いでいる。この背景としては車検が国と民間の二重構造になっていることがあげられる。

 国の車検は認証工場と呼ばれる工場で整備して国の車検場に持ち込む。民間の車検は指定工場、いわゆる民間車検場であるが、ここでは整備と検査が1ヵ所ですむ仕組みになっている。検査官は公務員と同じように見なされるが、あくまでもその工場の従業員である。

 ある工場主の声。「車は道路を走っていて、書類だけが検査場へゆくケースもある。ずるく立ち回れば金儲けができる仕組みだ。不正をしているのはごく少数だろうが、不正をしようとすれば出来てしまうという制度にどうも問題がありそうだ。この民間車検制度は車が増えて、国の車検ではどうにも間に合わなくなった昭和37年にスタートした。昭和46年には車検を受ける車の3分の1が民間車検であったが、去年は遂に52%と民間車検の方が国より多くなった。さらに将来は70%位を民間に委託するのが運輸省の方針である。
 民間車検場の指定を受けるには、ある程度の施設設備、人員があればいいが、指定を受けると採算を考えなければならなくなるので一定台数をこなす必要がある。その為にユーザーを獲得する競争が起こり、安く上げるための手抜きとか儲けるための過剰整備の問題も起こってくる。そこで良心的にやることは難しくなる。

 ここで、整備が整っていながら車検場の指定を受けない工場主の「答案を自分で書いて、自分が採点することはできない。自分とこで整備した車は国で見てもらう。民間車検は仲間うちでやっているようなものだ」の声が入る。

 運輸省自動車局太丸令門整備部長。民間に車検をまかせることについて「根本的にこの制度を変えるつもりはなく運用で十分やってゆける。監査をきびしくやってゆく」。この監査をする担当官は全国に146人、1人当たり4万台の車を監査する計算となり、1人が各車検場を2回まわることになっている。予告検査から抜き打ち検査にした昨年度は摘発件数が急に増えた。
 イギリスでは民間から国に切り替えつつあり、この際発想を逆にして、検査してから整備するということも考えていいのではないか。悪質が良質を駆逐するということは避けなければならない。

 以上が2回にわたるテレビに取り上げられた車検問題のあらましである。自動車が増え過ぎて行政がこれに追いつけない事情も理解できないではないが、もう少し筋を通した車検行政は可能の筈である。 

みなさんさようなら

2014.12.18 06:00|その他月刊誌記事
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1976(S51)年11月号
テレビで取り上げられた車検問題
NHK“スタジオ102”で2回放映


東名タイヤ“殺人”落下タイヤ事故
 9月13日付読売新聞夕刊に「東名タイヤ“殺人”」の大きな見出しで、落下タイヤによる死傷事故を報じていた。事故内容は13日午前6時40分ごろ、神奈川県厚木市愛甲247の東名高速道路の下り車線を走っていたライトバンに反対車線から飛んできた大型トラック用のタイヤが激突、ライトバンはフロントガラスがめちゃめちゃになり、屋根とボンネットの一部も壊れ、運転していた会社社長が間もなく死亡、助手席にいた会社員も2週間の負傷、というもの。ゴルフにゆく途中のとんだ災難で、タイヤを落としたトラックは捜査中とのことであるが、恐らく突き止めることは出来ないだろうし、たとえ判明しても、どういう罪に問うことが出来るか検討をつけ難い。

 こういう落下タイヤの事故については、本誌に“くるまの安全シリーズ”を掲載している加藤正明氏が、“高速道路における新たな人災”スペアタイヤの落下原因と誘発事故  のタイトルで6月号に警告を発している。同氏は高速道路での落下スペアタイヤの事故は近年上昇しつつあり、落下タイヤを発見しても、これを避けることは絶望的であるとして、その事故例を挙げている。まして、読売の記事のように空からタイヤが飛んできては全くどうしようもない。加藤氏はスペアタイヤの取付器具の整備と点検が事故防止につながる、としながらも構造的にはシャシとの一体構造が望ましい、と私見を述べている。

 スペアタイヤの法規的な扱いはともかく、このような事故が相次いで起こっている実情を踏まえて、自動車メーカー側としても、スペアタイヤの安全な装着方法についての研究を進める必要があろう。
 自動車事故の原因は千差万別であり、車の一部が外れて起こる事故例は全体として少ない率であるかも知れないが、事故原因を少しでも減らしてゆくことに協力を惜しんではなるまい。

プロペラシャフト落下事故から車検を
 この読売の記事ではさらに、49年10月にも神奈川県下の東名高速下り車線に落ちていた大型トラックの予備タイヤに4台のトラックが次々に乗り上げて、2人が死亡、2人が重軽傷した例を引いたあと、同年12月13日にやはり神奈川県海老名市の東名高速下り車線で、大型トラックのプロペラシャフトが吹き飛び、対抗の乗用車に激突、運転していた大学教授が死亡するなど“落とし物”による事故が、県下で2、3件発生、警察隊では長期にわたる捜査で運転手や車を整備した雇い主らを業務上過失致死の疑いで書類送検している、と書いている。

 この記事は、落下タイヤによる事故を本紙がかなり詳しく取り上げただけに注目して切り抜いたのであるが、その翌朝、NHKテレビの“スタジオ102”を見ていて“あれっ”と驚かされた。読売の記事にあるプロペラシャフトの事故が大きく取り上げられたからである。読売の夕刊に出た内容の一部が翌朝のテレビに出てきても決しておかしくはないのだが、事故は1年9ヵ月も前に起きていることで、ニュースとして目新しいものではないし、一般の社会生活にかかわり合いが深いともいえない。偶然とはこういうことを言うのであろうと、奇妙な一致に驚きながらも、急いでテープレコードをセットした。(つづく)

みなさんさようなら

2005(H17)年12月17日
「利」に走り過ぎた日本社会が生んだ耐震偽装設計事件

 コストダウンと飽くなき「利」の追求が、人間あるいは企業をここまで浸蝕するのか、話題になっている耐震偽装設計事件の報道を見て、つくづく思う。 
 私自身も、出版社の経営を36年続けてきたのだから、印刷代管理費などのコスト低減と、企業継続のための一定の「利」の追求は当然のことであった。論語に言う「義」だけを優先していたわけでは決してない。その点が、論語を説く学者先生と違うところである。
 しかし、コストダウンの要求にしても、一定のルールがあって、安ければ安いほど良いというものではない。紙質、カラー印刷の出来上がり、レイアウトなど、ある水準は維持しなければならない。オイルショックで紙不足の折、トラック大不況で広告ページが激減した時も、コストのかかる記事ページを増やして総ページ数を維持した。その姿勢を続けたことが、結果的には関係先の理解を得た長期の「利」を生んだと思う。
 今回の耐震偽装事件では、建築士に発注側が、他にも建築士事務所があると言ったとか伝えられる。そこには双方に「信」というものはまったくなくて、ただ「利」で繋がっているだけである。厳しいコスト削減のあおりを食って、トラック運送事業は荷主からの運賃切り下げの要求を突きつけられてきた。しかし、燃料費、人件費、管理費など、どうしてもカットできない費用がある。整備を怠ったトラックが人身事故を起こすと、会社の命取りになる可能性大である。また、余りにも運賃切り下げ要求の厳しい荷主は、輸送需要が回復した時にしっぺ返しを食うことになる。
 そこには、越えてはならない一線があるのだが、外観から判断することが困難な建築では、内部にどれだけ鉄筋が使われているか、よほどのことがない限り、検査は困難である。
 おそらく、今回取り上げられた物件以外にも、似たような耐震偽装建築は多いと思う。マンションやホテルなど建設の発注元と、受注の建築設計事務所、さらに実際の建築に当たる建築事業者、マンションなどの販売業者が結託して偽装に取り組んだとしたら、外部からこれを見破ることは至難だろう。鉄筋を減らすことは顕著なコストダウンである。
 人や企業が「利」を追って行動するのは自然であるとも言えるが、飽くことを知らない「利」の追求は、かえって「利」を失うこともまた真理である。今回の事件で、関係者がその「利」を獲得する機会さえ失われたことはそれを裏づけしている。建築事務所の権威の確立など、今回の偽装事件の対策は、取られるだろう。根本は「利」と「義」、そして「信」のモラルをどう回復させるかである。日本は「利」を追い過ぎる社会になった。

みなさんさようなら

2008年12月11日
紅葉と雪 これまでに見たこともない大歩危小歩危の絶景

 12月5日は本年最後の、「納め論語」だった。7時半に講義を終えて、折り詰め弁当と到来の銘酒、焼酎などで忘年会で大いに盛り上がったところで東京駅に向かい、午後10時発の寝台特急「瀬戸」に乗車した。持参した弁当の残りと、売店で買った酒で横浜駅あたりまで、仕上げの酒を飲む。
 岡山駅で土讃線の特急に乗り換え、琴平を過ぎて四国山脈にさしかかると、雪模様になってきた。まだ盛りの紅葉の上に、盛んに吹雪が舞う。名所の小歩危(こぼけ)大歩危にかかる頃には、雪と紅葉が入り交じり、下の渓流と相まって、これまで何十回となく往復した土讃線の景観の中でも、凄絶ともいえる美しさであった。
 昨年末に急逝した妹、伊豆良子の一周忌を前に、兄としてのせめての供養の気持ちで制作した遺詠・写真集に、30名ほどの方々から寄せられた追悼の短歌と文章をまとめた『白き雲』の出版記念会と、一周忌出席のための帰郷の旅である。
 ふと、「兄ちゃん、ようもんてくれたね。ええ景色やろ」と、隣の席で妹の語りかける声がしたような感じがする。この素晴らしい景観は、妹の贈り物であったのかも知れない。

みなさんさようなら

2002年12月13日(金)

途方もないスケールの三峡ダム工事現場
これほどの大工事の監督ができたら


 三峡ダムは途方もない巨大なコンクリートの塊である。高さ185メートル、ダム堰堤の長さ約2300メートル、発電機70基、総発電量1820万キロワット、この高さに船を押し上げる5段式の閘門は2台、閘門では通過に2時間余り要するので、時間短縮のために1万トン重量の船を吊り上げる垂直リフトも研究中というから驚きの連続だった。
 この日は霧が深くて、展望台に上がっても対岸は見えないし、三分の2が完成したダム堰堤も先端部は霞んでいる。古代中国の治水に大きな功績があった帝王「禹(う)」と古代人、現代の建設マシーンと作業員をからめた巨大なモニュメントがある。
 下流の吊り橋を渡って対岸の工事現場では、第三期工事の堰堤を築く基礎部分の掘り下げ工事を開始したところで、長江の流れは完全にせき止められていた。ひっきりなしに重ダンプが行き交い、水面から仰ぎ見るダム堰堤は恐ろしく高い。この堰堤が完成すると、僅か半月ほどで、175メートル高さまでの貯水が完了、東京大阪間に匹敵する重慶まで平水位になる。もちろん世界一の長さの貯水ダムである。若かりし日、海岸の土木工事に従事していた私の夢は大工事の監督だった。この三峡ダムの監督はどんな人だろう。

2002年12月16日(月)

落雀の猛暑を凌ぐ猛烈に辛い四川料理の「火鍋」と天秤棒荷役の重慶

 宜昌から西へほぼ一時間のフライトで重慶に到着する。この区間が人気の高い2泊3日の「三峡クルーズ」の旅になる。重慶は武漢・南京とともに中国三大ストーブといわれるほど夏の暑さが厳しいところで、猛暑を表す「落雀の候」の時節見舞いは、余りの暑さに雀も目を回して落ちるということから出ている。この暑さを凌ぐ四川料理の一種が「火鍋」で猛烈に辛い。汗をとことん噴き出させて、サウナ風呂と同じ効果を狙うのだろう。
 重慶は、長江と嘉陵江の合流点にある半島状の小山に開けた町で、別名「山城」とも呼ばれる。日中戦争の時、蒋介石率いる国民党政府が、重慶に籠もって頑強に抵抗、日本軍は長江と厳しい山地に阻まれて攻略できず、爆撃してもトンネルや横穴が多いので住民の被害は少なかった。三国志の蜀の国で、守るに固く攻めるに困難な地帯であった。
 船着き場は、町よりはるかに低いところにある。水位が一定しないため、船は長い歩み板の先端に碇泊するので、荷物はもっぱら青竹の天秤棒にぶら下げて人の肩で運ばれる。100キログラムが標準で一回8元、日本円でほぼ120円程度だと聞いた。1日に2回から3回運ぶようだが、昔の「苦力(クーリー)」もこういう姿であったのだろうか。

みなさんさようなら

(毎週/月曜・木曜 更新)
呉越会2739

2002年12月10日(火)
高揚した熱気と厳しい生き残りの戦い 「中国呉越会」で見た車体業界の印象

 11月30日から12月7日までの「第三十回特別中国呉越会」は無事終了した。大フィーバーの上海を振り出しに、3分の2が完成した宜昌三峡ダムを見学、重慶、南京、青島のトラックメーカーや車体メーカーを順次訪問、北京では中国トラック産業のVIP及び車体メーカーの代表約20名の人たちと丸一日を費やして突っ込んだ意見情報交換、白熱したビジネスの話し合いがあり、その夜は紫禁城の園地料亭での盛大な宴会が持たれた。
 団長として参加した私は、各工場での挨拶、ミーティングの主導、宴会での乾杯(カンペイ)などのハードなスケジュールすべてをこなして、体調はすこぶる良好だった。
 痛感したのは、2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博に向けての高揚した中国の熱気であった。と同時に、中国の市場経済は想像以上に進展しており、日本の4倍にも達する車体メーカーが、生き残りを賭けた品質と価格の厳しい競争を展開中の事実。さらに責任者が一様に若く40歳前後と見受けられたなどである。南京から青島の空路は小型機のため、団員のトランクが重量オーバーで積載できなかったのを三人がかりの徹夜で届けてくれた感動の物語もあった。このページ及び月刊誌で引き続き掲載していく。

2002年12月11日(水)
アジアの国際都市から世界の国際都市に 上海の今昔

 上海の超高層ビルは3000余り、日本全土の合計よりも多いというからその建設ラッシュが思いやられる。古い時代の上海を偲ぶ街角や路地裏はどんどん壊されて、あと数年でおそらく姿を消してしまうだろう。その中で、変わらないのは黄浦江沿いの旧ガーデンブリッジ近くの1900年前後のクラシックで重厚な建物が並ぶ一画である。その対岸はテレビ塔などの超高層ビルが林立して、一世紀を隔てた上海の今昔の見事なコントラストを見せている。世界の都市の中で、これほど鮮やかな新旧の対照を示している場所はない。
戦争の時代まで、上海はアジアにおける第一の国際都市で、陰謀や革命家が渦巻く「魔都」であり、「上海バンスキング」の享楽的な夜の世界が繰り広げられる都市だった。
 長崎から「上海丸」「長崎丸」の2隻の定期船が就航、長崎県上海市と呼ばれるほど日本人には親しまれた都市で、旧ガーデンブリッジの対岸の旧ガーデンマンション(上海大厦)は、当時のアジア最高層の建築で、上海に行ったことのない日本人にも知られていた。
 上海は、その特色をますます発揮して、アジアだけでなく世界有数の国際都市に発展中であり、世界初の公共輸送機関としてのリニアモーターカー運転も間近である。

2002年12月12日(木)
三峡ダムの町宜昌と王昭君の物語 長江の岸にバスを停めて一席の講義 

 上海から西へ空路でほぼ2時間、三峡ダムの町宜昌に到着する。三峡クルーズはこの町から出発して上流の重慶に向かうか、重慶で乗船して宜昌で下船するのが一般的である。
 宜昌の町は古代には楚と呼ばれた国の重要都市で、時の政治のあり方に憤慨して投身自殺した大詩人屈原と、王昭君の出身地である。漢の元帝が西の異民族の王と修好を結ぶために、王女に仕立てた宮女を贈ることを考えたが、美人ではもったいない、そこで絵描きに宮女の絵を描かせて一番の不美人を贈ることにした。宮女たちは、絵描きに賄賂を送って美人に描いて貰ったが、王昭君だけは容貌に自信があったのか、賄賂を送らなかった。そこで、不美人に描かれた王昭君を贈ることにして、実物を引見すると、これが絶世の美女。悔やんでも後の祭りで、王昭君は遠くの異民族に嫁いで行った。王昭君は立派に親善の使命を果たして、異国の王と幸せな生活を送ったと伝えられる。
 三峡ダムの見学は午後から、市内には見るべき名所もない。そこで長江の川岸にバスを停めて、中国の簡単な歴史と中国人の精神構造に大きな影響を与えてきた孔子などの儒教と、老子荘子の流れの道教の話を一時間ばかりした。これも呉越会学習の一環である。(つづく)

みなさんさようなら

徳川氏講演

2006年12月6日
維新は遠く 東京龍馬会に徳川氏の講演(その1)

 東京竜馬会の発足20周年記念の会が、11月26日、一橋の如水会館で徳川恒孝氏の特別講演会を加えて開催された。坂本竜馬の会は全国にあるが、東京竜馬会はその中でも、歴史的にも古く、積極的な活動をしていて、私も理事に名を連ねている。
 徳川氏の講演のテーマは「パクス トクガワーナの終焉-得たものと失ったもの-」だった。パクスとは平和の女神のことで、パクス ローマーナといえば、ローマ帝国の支配下における平和というほどの意味である。それにならって最近では、江戸時代徳川幕藩体制下の平和の時代を、パクス トクガワーナという言い方で表現される例が増えてきた。
 龍馬は薩長連合のまとめ役として活躍、幕府討伐のきっかけを作った人物だが、将軍慶喜の大政奉還と時期を同じくして暗殺された。その龍馬の会に、徳川宗家の当主が臨席して講演をされたのだが、この席には倒幕の指揮者として西郷隆盛と共に活躍した薩摩の大久保利通、幕府の艦隊を率いて函館に向かい五稜郭で抗戦した榎本武揚の2人の曾孫に当たる方も見えていた。維新の戊辰戦争以来140年近く、徳川氏は宗家と会津の血が混じった方で、この人たちの顔を見ていると、維新のあれこれを追想して実に興味深かった。

2006年12月7日
権力と富の分離 人は武士なぜ札差に養われ 龍馬会徳川氏講演(その2)

 江戸時代の特徴といえば、武人が社会のトップの行政官でありながら、260年の長期にわたって平和を維持したことである。徳川幕藩体制が崩壊した時にも、外国の革命にありがちの流血は極めて少なかった。一般的に革命では旧勢力は一掃されるが、日本の場合、最後の15代将軍徳川慶喜は最高の貴族公爵に任ぜられ、16代家達、17代家正は戦前まで続いた貴族院の議長を父子で極めて長期にわたって勤めた。18代当主恒孝氏も江戸ブームで引っ張りだこの状況だが、このような例は海外では全く見られない。
 徳川氏は、日本独自の共生型社会が江戸時代には成立していた。具体的には、権力と富の分離、武士のモラルと洗練された経済社会の共生があったと強調する。
 武士階級は全人口の5~7%で、彼らの生活は江戸初期こそ農民を超えていたが、全国的な土地開拓、貨幣経済の発達などで農民、商工民の生活レベルは後期になる程著しく向上した。それに引き換え、武士のサラリーつまり石高はほとんど固定されたままであった。江戸に住む直参武士などは、支給されるサラリーである蔵米を担保にして札差(ふださし)と呼ばれる高利貸から前借した。「人は武士 なぜ札差に 養われ」の川柳がある。

プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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