みなさんさようなら

2015.01.29 06:00|その他月刊誌記事
1977(S52)年6月号
街道シリーズ
東海道その(6)
神奈川から平塚まで  武蔵から相模へ①

―神奈川―
 旧東海道の宿場のなかでも最も大きく変わったのが神奈川で、現在の横浜市は幕末の開港までは小さな漁村に過ぎなかった。旧東海道は国鉄東海道線より山側にあり、いまの横浜市の中心部は海である。横浜は西欧文明を受け入れた近代日本とともに発展した都市といえよう。このような都市は全国でもきわめて稀である。
 この神奈川宿は日本橋から七里、28キロ弱。足の弱い老人女子供はここが初めての泊まりとなった。弥次北(弥次喜多)はここで一息入れてまだ歩く。
 茶屋おんなの呼び声「あやすみなさいやァせ あったかな冷飯もございやァす。…」全く人を食っている。「奥がひろふございやす」北八「おくがひろいはずだ、安房上総までつづいている。」茶屋のすぐ下は海で東京湾を隔てて千葉県まで見通しの当時の神奈川宿である。
 神奈川の 客は大かた 風で切れ
 品川宿の遊客に江戸の市民が多かったように神奈川宿では船頭がよく遊んだ。風が吹いてくると、船もまた出てゆく。料理と女のいい宿場であったらしい。


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みなさんさようなら

2015.01.22 07:04|その他月刊誌記事
1977(S52)年5月号
街道シリーズ
東海道その(5)
品川から神奈川まで、旅の第1日①

期待はずれのバス旅行
 日本橋を振出しに朝日旅行会東海道五十三次のバス旅行に参加した会員は男4名、女7名の総勢11名。講師は桜美林大学教授で郷土史家の川崎明氏、でっぷり肥ってもういいお年である。参加者も若い女性が1人いるきりで、全員いいおじいちゃん、おばあちゃんで、男では筆者がいちばん若い。老人会の観光旅行といった趣でいささかげんなりする。
 時間に追われるということもあって、ここも見てゆきたいと思うところも飛ばしてゆく。バス旅行の東海道五十三次に大きな期待をかけたのがそもそもの間違いであったが、日本橋から三島までの第1回、三島から浜松までの第2回、ちょうど東海道の真ん中まではバス旅行に参加した。浜松以西は参加を中止して1人で調べることにした。バス旅行に参加したコースも必要なところは後で訪ねることにしているが、何によらずインスタント、前号巻頭に書いているように間に合わせではダメである。
 ということで以下の記事はバス旅行と、1人で訪ねたものとが浜松まではごちゃまぜになっていることを諒解して頂きたい。

―品川―
女郎が1,300人もいた品川宿
 いまの旅立ちの見送りは東京駅か、羽田空港であるが、江戸の昔は高輪の大木戸あたりまで送ってきた日本橋から8㎞弱の地点である。
 この高輪あたり、街道のすぐそば迄海であって新橋から横浜まで明治5年に開設された鉄道は現在の日野自販本社の新橋よりか海へ出て品川駅で陸へ上がった。田町の駅は海中にあったわけである。汐風の匂う海岸の茶屋で別れの挨拶をしていよいよ江戸を離れる。
 日本橋から1番目の宿場、品川はすぐである。品川からの旧東海道はいまの第1京浜国道15号線と平行したり重なったりしている。品川宿は京浜急行電車の北品川駅から青物横丁駅あたりまでの2㎞近いかなり長い区間であった。いまは賑やかな商店街となっているが、その昔は旅籠屋(はたごや)と品川女郎で賑わったところである。天保14年(1843)正月24日の調査によると、旅籠屋94軒に女郎は何と1,348人もいた。なぜ、こんな正確な数字がわかっているかといえば、

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みなさんさようなら

2015.01.19 06:00|「幽冥録」
1977(S52)年5月号
清掃界の巨人逝く
宇田川棲氏を悼む

 4月3日、宇田川棲環境保全協会長が逝去した。寒い冬であったのに桜の開花は例年より早く、既に東京では散りそめていた。
 宇田川氏はいうまでもなく清掃業界の大立者で、83年の生涯を業界の発展に捧げ尽くした人である。政府はその功に酬いるに昭和40年勲5等、昨年春再び勲4等旭日章を贈っている。
 宇田川氏と筆者は住んでいる世界も違って、おつき合いといえるほどのものはなかったが、一度だけゆっくり、お話を聞いたことがある。昭和46年1月のことで、周作対談(1989年11月号から新連載として「社長の軌跡」に改題)の12回目ゲストとしてお相手願った。国鉄新橋駅近く、ガード下の粗末な全日本清掃協会の事務所で、寒い時であったため、大きな襟巻を首からぶら下げたまま応対された。

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みなさんさようなら

2015.01.08 06:00|その他月刊誌記事
前回に続く2月号「東海道その2」は、東海道中膝栗毛や江戸の町、街道の解説なので飛ばして、今回は3月号を載せます。(妙)

1977(S52)年3月号
街道シリーズ
東海道その3
日本橋から品川まで 江戸のうち(1)

―日本橋―
日本街道の起点
 お江戸 日本橋 七ツ立ち
 今も昔も日本橋は日本の各地への起点である。東京から○○キロというのはこの日本橋の真ん中にある道路元標から起算する。日本からロンドンへ○○キロというのもここからである。
 起点ではあるが、唄にあるように旅に出る人が全部この日本橋からスタートしたわけではない。東海道でいえば、品川から先が街道で、それまでは江戸の市中である。江戸のあちらこちらから出て来た人はこの品川で1本の街道へ入るし、江戸へ入る人はここから江戸の各所へ散ってゆく。見送りの人は品川まで送ってきて別れた。だから、品川まではどの道が東海道ということはないのである。ただ、日本橋を出発して品川へ向かう人のコースは大体決まっていた。江戸時代に発行された各種の旅行案内書にも日本橋から品川までのコースは一定している。
 筆者の参加することになっている朝日旅行会の東海道五十三次アワーは日本橋からいきなりバスで出発するので、せめて東海道のごく初めのところだけは歩いてみようということで、日本橋から品川まで弥次喜多よろしく歩いてみた。

七ツ立ちとは午前4時出発のこと
 正月2日快晴。日本橋を七ツ立ちとゆきたかったが、これはとても無理な話。七ツとは今の時刻では午前4時のことである。昔の時刻の数え方はいまの12時を九ツとして、2時間を1単位とし、八ツ、七ツ、六ツ、五ツ、四ツと区分し、再び正午の九ツに戻る。六ツは6時で明け六ツ、暮れ六ツという。だから七ツは午前4時。朝の早いのは全く苦にならない筆者でも、真冬の午前4時では真の闇、とても取材など出来はしない。第一、日本橋まで出る電車が動いていない。いまの新幹線の始発は東京駅を午前6時にスタートするが、昔の朝立ちはそれより2時間も早い。これでもずい分早いと思うが、さらに2時間も早い八ツ立ちもあって、これを夜立ちといったというから恐れ入る。

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みなさんさようなら

2015.01.05 06:00|その他月刊誌記事
1977(S52)年1月号
街道シリーズ
東海道その1  (推せん図書・東海道五十三次 百二十五里・十三日の道中  中公新書/岸井良衛著)

なつかしい四国へんろの旅
 古い街道を歩いたり、いろいろなことを調べてみたいとは私の若い時からの念願であった。その具体的な行動が、今から25年前の昭和26年春のお四国88ヵ所遍路である。このお四国巡礼の動機は、戦没学生慰霊、先祖供養などいろいろあったが、根底には古い旅の姿を訪ねてみたいという願望もあった。その頃は、まだモータリゼーション以前の段階で、バスが通る道以外に車の姿を見ることがなく、昔のままの街道、山路の形を多く遺していた。ホテルや民宿といったものも地方にはなくて、昔ながらの木賃宿、遍路宿があった程度である。
 このお四国遍路も現在は大きく変貌して、団体バスやマイカーですいすいと廻ってしまう。札所(ふだしょ)の寺には駐車場があって、車がびっしり、悠長にへんろ道を歩くことも出来ないようなラッシュぶりである。
 私は若い頃、土建業をやっていて中年になってジャーナリストの世界に入ったという恐らく外に見られない経歴を持つ男であるが、私の年代で古い形の四国へんろをしたきわめて珍しい例であったと思う。当時は食糧事情も余りよくなく、社会生活もまだまだ不安で行き会うお遍路さんはごく少なく、それも老人ばかりであった。

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みなさんさようなら

2003年(H15)年1月号
「わだち}(「NewTRUCK」編集後記)

あけましておめでとうございます

 年賀状などで羊の可愛い絵が見られるが、干支ではなぜか未歳と書く。子・丑・寅と並ぶ12の動物の中で、一番日本には縁が薄く、輸入されたのは明治以降。虎や龍は日本に実在しなくても、絵などではすっかりお馴染みで龍虎相食む、などの諺も多い。ところが、羊になるとこれが少なくて、「多岐亡羊」「羊頭狗肉」くらいで、分かれ道が多くて羊を見失うとか、看板に偽りありという程度。「羊質虎皮」中身はからっきし駄目な人間が虎の皮を被って威張っていても、何かあるとすぐ本性が暴露される、不況になると周章狼狽する、どこかの社長みたいな人間を指す諺である。
 未の方も夜明け前を表す「未明」などくらいで使用範囲は狭い。羊羹は、甘い菓子ではなくて、遊牧民族が好んだ羊のスープが語源。いずれにしても、干支からはパッとしない羊だが、日本も迷える羊にならないように注意が肝心だ。
プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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