みなさんさようなら

2015.03.30 06:00|その他月刊誌記事
 今回は42年前のちょうど今頃開催された「冷蔵・冷凍車ショー」についての原稿を掲載します。(妙)


1973年(S48)4月号
'73 冷蔵・冷凍車ショー
―その成果と今後の課題―

(社)日本自動車車体工業会が主催した'73冷蔵・冷凍車ショーは本誌記事にもあるとおり、きわめて盛況裡に3月16日から3日間の会期を終えた。
 冷蔵・冷凍車ショーという単一車種で45台という大量の展示があったというのは、わが国ではもち論初めてのことであるが、世界的にみても、おそらく例を見ないのではあるまいか。この理由として、
① 冷凍食品を中心とする低温輸送に対する関心が急速に高まってきた。
② それにつれて輸送用車両、機器メーカーの新機種の開発が盛んであり、新規メーカーの進出もあいつぎ、既存メーカーも意欲を大いに燃やした。
のふたつがあげられると思う。

 このショーの具体的な成果については、ショーの終了直後であり、後日、おそらく車工会バン部会から発表されると思うので、筆者の感じたこのショーの成果、今後への教訓を率直に述べてみたい。

 冷蔵・冷凍車ショーはそれぞれのメーカーの製品をユーザーならびに関係者に見て頂くことを目的としているのは当然で、その目的はかなりにまで果たされていたと思う。展示方法についても、これまでのメーカー単位の出品を、車型、車種別に整理配置したことなど、これまでの各種ショーにはみられなかったことで、これは評価されてよいことだろう。

続きを読む >>

スポンサーサイト

みなさんさようなら

 2月9日アップを再度お読みいただければ分かりますが、元日新出版の従業員だった彼が、事務局長の座でいられたのは2009年の東京トラックショーまでです。以降、増田前社長は彼を企画運営から外しました。


「(日新出版勤務時代に)編集長ではなかったのに完ぺきに編集長の仕事をしていました。…編集長の仕事は完全に身に付いているのですが…。」(ヨコロ氏の月刊誌「ザ・トラック」、あとがきに書いた於久田氏の文章です。)

青年海外協力隊の経験ある岡田氏は日新出版入社後、於久田氏を飛び越して編集長になりました。
 日新出版では、亡くなった増田社長が皆の原稿に目を通し、「ヨコロ、こんなこと書くな!書き直せ」と横路氏の記事にはしょっちゅう苦言を呈し、「オクダ、この色づかいは…!」とやり直させていました。

 於久田氏は 「東京トラックショー」を自ら立ち上げた、主催した、会場をビッグサイトに移してショーを発展させた、などと事実に反して言い廻っています。このまま黙っていては、朝鮮の慰安婦問題同様、ホントにする人が増えてくる、なりすましはまかりならぬと抗議の声をあげることにしました。

 彼がアライアンスを組んだという某社、大阪の広報室には事情を説明し、プレス関係者に話を聞いて事実確認してほしいと付け加えました。すでにこの企業のWebから彼の粉飾プロフィルは消えています。ショーのパンフレット、カタログの印刷部分(Webと同じ文面)についても訂正を依頼するのがいいのでしょうが、そこまでは…と思いました。また先日は、彼が広報委員をしている団体に、彼の高言について団体としてはどういう見解をお持ちなのかと訊ね、返事を貰う予定です。(妙)





みなさんさようなら

2015.03.23 06:00|その他月刊誌記事
大井川 S52
(写真上: 早朝の大井川 昔の川越しのあたり)

1977年11月号
街道シリーズ
東海道その(10)
府中から島田まで 越すに越されぬ大井川①

―府中―
 追分を過ぎてすぐ、森の石松暗殺の因縁から次郎長一家に討たれた都田一家の供養塔が建っている。ごく新しいものだが、奇特な人もいるものだ。上原一里塚というのがあるが、榎が茂り過ぎたため、植えかえたとあり、貧弱だ。
 旧東海道は大体静岡鉄道に沿って府中、つまり静岡市に向かう。静岡の市街に入る前、右手少し入ったところに由井正雪の首塚のある菩提樹院がある。クーデターに失敗して安部側川の河原に梟されていた正雪の首をゆかりの女性が盗み出し、朝早く門の開いたこの寺の住職に頼んで葬って貰ったという。

続きを読む >>

みなさんさようなら

2015.03.09 06:00|その他月刊誌記事
1977年(S52)10月号
街道シリーズ 
東海道その(9)
三島から江尻まで 富士を仰ぐ海道筋①

―三島―
三島女郎衆の化粧の水
 東海道第一の難所、箱根八里を越えると三島宿である。三島といえば“ノーエ節”が有名。
 延々と続いてキリがないこの“ノーエ節”は農兵節ともいい、幕末の横浜で洋式の訓練を受ける兵隊さんを唄ったものというが、三島の遊里に移されて全国に広まり、現在はどうか知らないが、私の学生時代にはまだ手拍子入りで盛んに唄われていたものである。“サイサイぶし”ともいう。

 三島は富士山の溶岩流の末端部分で、三島駅前の楽寿園という公園に地表の溶岩部分が美事に残っている。この溶岩層の間を流れてくる富士山の伏流水が地表に出て、その一部が女郎衆の化粧の水となったわけである。三島大社の近く、農兵節の碑のある公園には、美しく澄んだ水がこんこんと溢れて流れており、子供達の絶好の水遊び場となっている。

続きを読む >>

みなさんさようなら

2015.03.05 06:00|その他
於久田氏 「東京トラックショー」創立者になりすましか
彼を会員や講師に抱えているところ以外は、プロフィルを全部削除したり、ページそのものを消して下さいました。
ご協力に感謝します。(なりすましの模様は2月9日アップに載せました)

そして今回、〈街道シリーズ東海道〉の箱根から三島へ進もうと、次の「特装車とトレーラ(月刊NewTRUCKの前身)」1977年10月号を出してきたところ、当時の横路・於久田氏にほんの少し触れている箇所があったのでご紹介します。実にいいタイミング!!
◆リレー連載 読者のつくるページ◆の項に、矢野完氏が寄稿したもので、三島~沼津の紀行は次回にまわします。(妙)


1977(S52)年10月号
◆リレー連載 読者のつくるページ◆
矢野 完(まさる)
S47年4月 日本沿海フェリー(株)貨物部次長
S50年4月 同社 東京港営業所長 現在に至る

第6章 親分ご免なすって
 ボスと異なり、親分というのは上下関係にて“親分子分”というように子分が頼れるのが親分である。すなわちボスより何となく“アタタカミ”のあるのが親分であろう。
 最近の“特装車とトレーラ”ルポ記事・あとがきと毎号“親分”という二字が繰り返されているのはご承知の通り。於久田君が入社してから目立って多くなったようである。(横路君は自分も親分と思っているのだろう“親分”の二字が割合に少なかった。)
 けれど、“親分”という敬称を使っているのは、これは当たり前のこと。

1.親分と、横路君・於久田君の間には雇用関係があること。
2.親分が子分達の面倒みがよいこと。
3.親分と呼ぶにふさわしい知識(常識より少し上)と教養を身につけていること。
4.社長と呼ぶには企業規模が余りにも小ぢんまりとし過ぎていること。
5.酒を飲んでも子分達は親分に勝てないこと。

のようであるが、私が“親分”と呼ぶ理由は、こんな世の中のありきたりのものではない。
 日本に長距離フェリーがポツリポツリ。フェリーとトレーラを組み立てて儲けようという運送屋さんも少ない頃のこと。
 “セントラルフェリー”というのがあった。首都・阪神の二大経済圏を結んでの華々しいデビューに比しては事業は順調でなかったようである。
 親分が、このフェリーを借り切って、お客を満載し東京湾をひと廻りしたことがある。このフェリーは間もなく外国に売られてゆく運命にあったが、とにかくお客を満載したのはあとにもさきにもこの一度だけ。
 私は、この航海こそ“カラユキさん”のように売られてゆくフェリー“セントラル”への最後の親分のハナムケであったと今でも信じている。そして親分にとっては多分一生を通じての忘れられぬ快挙であったことだろう。
 私は、親分のこの行為に対して勲章に代わるに“親分”の称号を捧げ、この人こそ“親分”とよぶゆえんである。

第7章 トレーラ業界にもの申す
 当日の川崎港フェリー岸壁には何百人という“特装車とトレーラ”関係の人達が招待された。私もその一人であったが、一業界誌が、これだけの人達を集めることが出来たのは親分の人徳と、もの珍しさからではあろうが。
 振り返ってみると、当時の“特装車とトレーラ”誌は主幹の親分と秘書、兼編集助手、兼カメラマン、兼家事担当の“女房殿”の二人きりで東京は十条の梁山泊で雑誌をつくっていたのである。

 折角、親分は“身銭を切って”フェリーを借り、「フェリーとはこんなもの」と教えたのだ。そこに集まったトレーラ・メーカーの諸賢兄殿。何故、親分を利用して、フェリーとトレーラの組み合わせを大いに売り込まなかったのだろうか。

 アメリカでは既に、その数年前に“トレーラ船”が就航している。トレーラ船の所有会社トランスアメリカン・トレーラ・トランスポート社のカーター社長は「商船の近代化は、いずれも高度の自動化技術が導入されており、荷役方法には従来のクレーンに代わってロール・オン・オフ方式が、強調されている。世界の新しい商船は、この方式が、今後の輸送の合理化・高速化に重要な役割を果たすと考えているためだ」といっているではないか。

 話は元にもどって。
 これだけの人達を船に缶詰にしておいての手ぬかりは千載一遇のチャンスを逃したのではないかと、非常に残念に思っている。この場を利用して“フェリーとトレーラの組み合わせこそが次の輸送革新である”と打ち上げていれば少なくとも、フェリーによるトレーラ無人航送もテンポが速かったのではなかろうか。そして、かのオイル・ショック時にあわてふためくこともなかったのではないか。


*******
サイト内 ご参考 増田周作原稿 アーカイブの項

① 「フェリー航送見学試乗会始末記」  2014.1.17~2014.2.7 アップ
1972年(S47)「特装車とトレーラ」1月号 
―50号記念行事―  ドキュメンタリー

② 「セントラルフェリーへの挽歌」  2014.2.10~2014.2.23 アップ 
1972年(S47)「特装車とトレーラ」12月号
―短かったその命と想い出―




プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ