みなさん さようなら

2015.04.27 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1973年(S48) 「特装車とトレーラ」 5月号

国鉄だらだらストに思う
そこまでのんびりできるか

 4月下旬の国鉄を中心とする交通ストは空前の規模になると予想されている。若い読者には記憶はないと思うが、昭和22年2月1日、アメリカ軍占領下においてゼネストが計画されていたが、当時の進駐連合軍司令官マッカーサー元帥のツルの一声で中止になったことがある。いまはツルの一声的な存在の人は日本にはいないので、おそらく、かなりの混乱が起こることが予想される。

 戦後の労働運動の経過を辿ってみると、三井三池のような民間単産の壮烈なまでの闘争は段々影をひそめて、官公労主導型に移ってきているのが特長である。朝日新聞社あたりでもストで新聞が発行できなかったことがあるが、今日では昔語りになってしまった。これは、使用者側にも、労働者側にも、長期的なストや、闘争により、経営に大きな影響を及ぼすことを恐れて、真剣にその対策に取り組んだ結果である。会社を潰したのではそれこそ元も子もなくなってしまうという両者の意識が、要求は要求として、協調するべきは協調するという路線を生み出したものであろう。

 ところが官公労は違う。労資双方に親方日の丸的なところがあり、経営意識はさっぱりないのである。

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みなさん さようなら

2015.04.23 06:29|コラム・巻頭・社説・社告
1977年(S52) 「特装車とトレーラ」 4月号 

間に合わせ文化の是非
―心ゆくまで研ぎ上げることの難しさ―

 この巻頭の社説ともいえない駄文を毎月書き続けてもう7年になる。業界誌で発行者が巻頭言を何年も書き続けている例は、私の知るところでは「荷役と機械」誌の平原直先生があるのみである。平原先生はおそらく20年も書き続けておられると思うので、私などは足元にも及ばないのだが、毎月ということになると、これはこれでなかなかしんどい話なのである。

 今月は何を書こうかなと思って迷って新聞を拾い読みしていると、幸田文さんの「間に合わせ」という小文が目についた。(朝日新聞3月11日付夕刊 日記から欄)子供のころから心にかけているのに60年もたってまともに出来ないものが和裁の運針と包丁研ぎである。大工さんのそばで1年ほど暮らしたがその研ぎを見ているうちにはっりと心に落ちるものがあった。大工さんは心ゆくばかり研ぎあげていて決して間に合わせということをしていない。自分は運針も研ぎも間に合わせでしていた。間に合わせとは何と愚劣なことか……。

 読んでいて恥ずかしくなった。幸田さんにとって、運針も研ぎもいわば余技である。お針は女のたしなみといっても幸田さんは文章でもって一人前以上の仕事をしていらっしゃる。幸田さんの文章は決して間に合わせではない。ところが、それで飯を食っている私は間に合わせの文章でお茶を濁そうとしている、と思うとますます書けなくなってしまった。

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みなさん さようなら

2015.04.16 06:00|その他月刊誌記事
1973年(S48) 「特装車とトレーラ」5月号
特装風土記
上州路に夕陽が赤かった
国定忠治の虚像と実像

関東工業新田工場の近くにある忠治の墓 
 東京大森のお寿司屋さんの所蔵している古いピストルが国定忠治が使用したものであるらしいということがわかって話題になり、NHKの朝の番組でも取り上げられた。テレビで国定忠治の墓や遺品のある養寿寺が紹介されて興味深く見たが、それから数日後、この寺を訪れようとは夢にも思わなかった。

 一体成形のFRPボデーで脚光を浴びている(株)ポナの製造元である関東工業(株)新田工場を4月13日訪れた際、この近くに国定忠治の墓がありますから、ということで、内田道夫工場長のご好意で案内して貰ったものである。

 このあたり、まだ武蔵野の面影を残して、桑畑と、漸く青々としてきた麦畑が続く。春霞でいつもはよく見えるという赤城山は姿を現さない。国定忠治の墓のある養寿寺は何の変哲もない農村の寺である。忠治の墓は墓地の隅に建っているが、忠治にあやかろうとする博徒たちが墓石を欠いて持って帰るので、四角い墓も丸くなってしまって原形も止めない。これ以上欠かれてはということで、今は金網ですっぽり囲われて、あの世にいってまで、檻の中に押しこめられている格好である。

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みなさん さようなら

2015.04.13 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1973年(S48) 「特装車とトレーラ」 5月号
将来的展望にたった価格改定へ
車体業界の体質強化を

 今年の春闘は2万円台の賃上げ要求もみられるというかつてない大型闘争となっている。いたちごっこというわけでもないが、物価もまた大幅値上げが続いている。長い間据置だった架装料金の値上げを実施する車体メーカーがふえてきた。現状では当然のことで、むしろ遅きに失した位である。材料費、人件費とも高騰して、生産合理化のむつかしい車体業界が、よくぞここまでやってこられたという感じがする。

 車体業界の値上げがむつかしかったのは、自動車ディーラーを介在させねばならないその販売形態にあったといえよう。自動車ディーラーは産業界でも珍しいほどの熾烈な販売合戦を繰り拡げているため、いきおい価格競争となり、上ものにしわよせする結果となる。体質的に脆弱な車体メーカーはそのいいなりになったのもやむを得なかったかもしれない。

 これまではそれで良かったとしても、今後の様相は違ってくるし、そのテンポは予想外に速いだろう。

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みなさん さようなら

2004.04.10 ホームページ論語
組織は万能ではない 
ピタリと正しい方向を決めて実行してこそ力を発揮する

 3月24日、ロータス・トラック・ネット発会式直後の講演会に招かれて、1時間半ほどの話をしてきた。ロータスは整備業者の団体で、その中の大型車専業者が80社ほど集まって新しい組織を作った。クルマは定期的に車検を受けなければならないし、事故などの場合もある。クルマに整備は付きものなのだが、大型専業者の間にはかつてないほどの危機意識が漂っていて、生き残りを賭けた同憂者の集まりだと言って差し支えない。

 トラックそのものの稼働台数が減少傾向にある上に、営業上の強敵が厳然と立ちはだかったのである。大型トラックの販売店は、本来新車販売で利益を確保すべきであるにもかかわらず、各社間の競争が激しいために新車販売の利益を確保することができず、販売後の整備などのアフターサービス部門で稼ぐ方向に変わってきたのである。トラック販売業者はトラックユーザーと最も近い関係にあるので、整備の仕事を確保するにはきわめて有利である。そこで、専業者は整備市場ではじき出される傾向が出てきた。

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みなさん さようなら

2015.04.06 06:00|その他
「関西師友」 1961年(S36)4月号
―暁の鐘― 

四国へんろ

 戦後まもなく、学校を卒えて、土佐の西南隅にすっ込んだ私はその翌年、昭和26年の3月から4月にかけて四国八十八ヶ所の霊場行脚、俗にいう“四国へんろ”を行って、戦災の瓦礫と夏草の中で陣没先輩学生の菩提を弔う誓いの一部を果たした。

 それから丁度十年になる。
 まだ幼かった頃には、私達の部落へもよくお遍路がやって来た。小さなお堂に泊まっていることもあったし、身なりのいいお遍路さんは家に泊めたりもした。身なりのいいということは乞食遍路ではなくて修行遍路であることを意味する。
 この修行遍路の中にも、浮き世を捨ててしまって、まじない、占い、お灸、はりなどを施しながらぐるぐるとお四国を何十回となく廻る専門化した遍路と、発願の筋があって、お四国の札所だけを打って廻り娑婆に帰る遍路とがある。お四国とはお大師さま、弘法大師が開基された四国八十八ヶ所霊場のことをいう。四国遍路についてはこれ位の知識しか持っていず、平素、余り信心もしない私が唐突にお四国に行くと言い出したので、家族も半ばあきれたり驚いたりしたが、母は遍路の制服を白無垢で一通り作ってくれたし、笠も金剛杖も恰好だけは一人前の遍路が出来上がり、国家安穏、家内安全祈願四国八十八ヶ所奉納と、型通りのお札を謄写版(とうしゃばん)で印刷して、「戦没学生之霊」「先祖代々之霊」と書いた位牌と共に経箱に納め、奥の細道に匹敵する紀行文を物にせんと原稿用紙も十分用意した。

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みなさん さようなら

1973年(S48) 「特装車とトレーラ 4月号」
編集後記

 3月10日から11日にかけて、本誌の記事にもあるとおり、まことにご機嫌な東京―高知直通フェリーの処女航海に招待されたが、高知に上陸してからがまた大変だった。

 この欄でも書いたように、筆者の父母は健在で高知県に在住しているのであるが、同行の客もあることで、高知へ到着したその日の昼から、まさに酒池肉林ならぬ魚ぜめが続いた。でっかい鰹と皿鉢(さわち)料理に土佐の銘酒“土佐鶴”“司牡丹”も一升瓶を数本用意してあった。

 昼、夜と飲んで、朝もまた飲む。これから取材にゆくんで、といっても父は「なあに高知というところは朝からでも飲んでどこへ行っても不都合はありゃせん、土佐流儀でその方が喜ばれる」と言って盛んにすすめる。

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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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