みなさん さようなら

1975年(S50)7月号 「1冊の本」
1,000号を迎えた週刊新潮と月刊PDMの廃刊
―物流ジャーナリズムの不毛を嘆く― 

1,000号を迎えた「週刊新潮」
 谷内六郎氏の表紙絵ですっかりお馴染みになった「週刊新潮」が発行1,000号を迎え、6月5日、12日と2号続きで記念号を発行した。同誌の創刊は31年2月、20年近く同一作家の絵で表紙を飾っているわけで、これは全く他に例を見ない。出版社も作家もよくもまあ、という驚きというか感慨が先に立つ。

 昭和31年といえば、私にとっても記念すべき年で、学校を卒業してから6年あまりの土佐の片田舎で逼塞(ひっそく)生活に別れを告げて、大阪へ進出した年にあたる。

 いつ頃から「週刊新潮」の愛読者になったか、はっきりした記憶はないが、かなり初期の頃からであることは確かである。「サンデー毎日」「週刊朝日」が戦前からの2大週刊誌で、「週刊読売」「週刊サンケイ」と、大新聞の発行する週刊誌がマーケットを完全に押さえているなかに、出版社系の週刊誌として「週刊新潮」は大成功し、「週刊文春」「週刊現代」「週刊ポスト」など出版社系の大量進出を見ることになって、新聞系、出版系の凄絶な週刊誌合戦が展開されることになる。

 現在ではむしろ出版系が優勢で、記事内容や企画を見ても、新聞系が出版系に追随しているように見える。そのパイオニア的役割を果たした「週刊新潮」が1000号を迎えたことに対して、惜しみない拍手を送るものである。
 同誌では、2号にわたって週刊新潮懺悔録を掲載している。これは回顧苦心談といったもので、なかなか面白い。懺悔(ざんげ)録と断ってはいても、それは謙遜であって、新聞系の週刊誌の亜流でなく独自なものを創造したいというスタッフの気負い自負心の闘いの記録である。もちろん、失敗談も披露はされているが、いずれも枝葉の問題である。

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みなさん さようなら

1971年(S46) 「特装車とトレーラ 5月号」 (通巻49号)
編集後記

 興行の世界でいうなら、5月号は異色、力作、長編ぞろいの特別興行で、ほとんど主演が増田周作ということになろうか。お金を払って大根役者の芝居を見なければならない読者にはまことに申し訳ないが、大根役者も場数(ばかず)を踏めば、それらしい役者にもなるものである。

 協同一貫輸送は、一度まとめてみたいと思っていたところへ、三菱自販からお座敷がかかって、一席うかがったものを資料を入れたりして掲載したもの。専門家の方からご覧になれば、陳腐なものかもしれないが、本人は結構一生懸命に取り組んだ。読者のなかにも専門の方はそういらっしゃらないと思うし、こちらのレベルが低いものであるから、噛みくだいて、却ってわかり易くなっているのではないだろうか。


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みなさん さようなら

2015.06.22 06:00|「今月の論語」
2000年6月号
血縁による後継者の道はひたすらの努力
―車体業界ふたつ流れの会合を持って―

 今年に入って日新出版は車体メーカーとふたつの会合を持った。そのひとつは1月13日に開催の車体メーカー後継車による座談会で、参加メンバーは須川車体、花見台自動車、浜名ワークス、矢野特殊自動車、山田車体工業、5社の後継者達である。
 もうひとつの会合は4月19日に行われた、極東開発工業、新明和工業、東急車輛製造、日本トレクス、日本フルハーフ、パブコ、輸送機工業、7社のトップの方々の仮に私が車体サミットと呼んだ会合で、いずれも会場は近く取り壊しが決定している銀座交詢社だった。
 前者は座談会が主目的で、終了後に私は、草創より保守は難しい、草創は時の助けもあるが、保守をやり遂げるのは、本人の人間を磨くことが重要だと話した。
 後者は、顔合わせに意義があり、食事に入る前に、安岡正篤先生の「六中観」の中の「意中人有り」を引いて、人を知ることの大切さを述べた。

 後継者の会の出席は、紹介を受けなくても、お父さんの顔がすぐ思い浮かぶ血筋の繋がる人達で、車体サミットの方には、血筋によるトップはひとりもいない。7社のうち、新明和工業は川西航空機というオーナー会社であった時期もあったが、戦後暫くしてその手を離れて、日立グループに入った。パブコの前身の加藤車体工業時代と三代目社長だった加藤武氏は私もよく知っている。あの劇的の日は既に24年前である。

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みなさん さようなら

2002年6月13日(木)
ある結婚式の祝辞から(1)
時習館のいわれ

 豊橋市に住む知人のI氏から長男の結婚式に、新郎側の主賓として冒頭に祝辞を述べて貰いたいという熱心な依頼が何度かあり、お断りする理由もないままにお引き受けして当日になった。新郎新婦はボストンに留学して、その地で知り合い帰国して就職という間柄で、現代風に媒酌人なしの結婚式が麻布の由緒あるカトリック教会で行われた。

 披露宴はこれ又アメリカ人のクラブだったが、I氏が私に祝辞を依頼したのは、論語の話をせよという意味合いがあったと思う。幸い、新郎の出身高校は豊橋の時習館高校で藩校の名称を踏襲しており、論語冒頭の「子曰わく、学びて時にこれを習う、また設(よろこ)ばしからずや。朋(とも)遠方より来るあり、また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや」から命名されているのは明らかだった。

 今日の列席者は運が良い、聖書と論語の西洋東洋の教えを聞くことができると前置きして簡単に意味を解釈、学習と時習の大切さを説いた言葉を、新カップルに贈った。さらに豊橋松平藩三代目信明は、老中上座(内閣の主要閣僚)に就任、大いに功績があり、学問上でも独自の見識で時習館をリードした名君だったと、その学風を述べた。

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みなさん さようなら

2015.06.08 07:47|「周作閑話」
交詢社(H16)6390
交詢社(H16 周作撮影)

2000年(H12)「NewTRUCK」6月号
私にとっての「日本工業倶楽部」と「交詢社」 ①

 分不相応という言葉がある。日新出版は零細出版社でありながら、日本を代表する二つの社交機関を使い分けて使用してきた。
 そのひとつは、東京駅丸の内側の社団法人日本工業倶楽部であり、他のひとつは銀座の同じく社団法人交詢社である。そして、この二つのうち、日本工業倶楽部は昨年末で使用停止、交詢社も5月26日で取り壊しのため銀座を離れる。
 日本工業倶楽部は、主として会社の記念行事、講演会、トラックショー説明会・報告会、記者発表など、多人数を集める会に使用、交詢社は銀座の日新出版事務所に近いことから、いわば応接室、食堂利用の接待の場として利用することが多かった。
 それぞれの目的にピッタリした大小の部屋があり、利用する側としてはまことに有難い建物であり、私だけでなく、そのいったんの閉鎖を惜しむ声は大きい。
 建物が消えるということだけでなくて、日本のある時代の良き姿が消えてゆく。私にはそう思えて仕方がないので、その設立の経緯、私との関わりなどを述べて惜別の言葉にしたい。
 設立は交詢社がはるかに先輩で、ちょうど120年前の明治13年(1880)、日本工業倶楽部は大正6年(1917)、建物の方は、交詢社は元の建物が関東大震災で焼失した後に昭和4年(1929)再建したものだが、日本工業倶楽部の建物は設立の翌年に完成したのをそのまま使用してきた。
 両社の設立の間には、37年の差があり、それぞれに当時の時代相が反映していて興味深いものがある。

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みなさん さようなら

東急車輛製造(株)中川氏の「呉越会」研修記①~⑤は、このブログコーナーをお読み下さる皆さんにとって、昔の企業戦士仲間、業界の空気が懐かしく感じられたのではないでしょうか。中川氏は晩年、いつも文明堂のどらやきを手みやげに日新出版の事務所に来てくださった。そして必ず、「増田さんが好きなものだから…」と言って、真顔で私に念を押すのでした。(妙)


1971年(S46) 5月号
編集後記

○ この特集号の記事でおわかりのように、「第2回呉越会セミナー」で高知県西端の筆者の郷里のすぐ沖を通過した。丁度その時刻、筆者の出番で、というより、そういう時間帯にしたのであるが、郷里の島影を遠くに見ながら一席ぶっている筆者の胸中に望郷の念とは別の感慨があった。

○ この日4月18日、その数日前、正確には9日に筆者の叔父が死んだ。父の妹の亭主で、父とは従兄弟(いとこ)の間柄であったこの叔父は、いろいろな形で筆者に影響を与えた。学歴もない人だったが学問的素養はかなりあって、軍隊でも、役場の吏員生活でも、きわ立った存在であったらしい。

○ 筆者の名前、周作はこの叔父の命名だから、いわば名付け親に当たる。こういう名前をつけるのが得意とみえて、叔父の4人の男子に、可丈、振作、士丈、大八郎と命名した。
 文章もうまいし、筆も立ち、弁舌もなかなかのものがあって、しかも押し出しがいい。まじめに吏員生活を続けていれば、村長から県会と早くから打って出られた叔父の欠点は、大酒飲みであったことである。

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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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