みなさん さようなら

2015.10.29 00:00|「東京トラックショー」
1984年(S59) 「特装車とトレーラ」 10月号 社説
異例ずくめのトラックショー
一片の志に同調する人達の力を結集

 小社の主催する'84トラックショーは出品申込を締切り、11月15日の開幕を目指して、見学者の誘致対策やショーそのものの盛り上げに全力を集中する段階に到達した。

 当初から予想されたことであったが、自動車メーカーは申し合わせたような形で、一社も参加していない。自動車メーカー抜きのトラックショーというのは、恐らく世界でも初めての珍事であろう。
 また、小社のような弱小出版社が単独で、部分的にもせよ、見本市会場を使用する総合展示会を主催するのも初めてのことであるらしい。

 全く異例ずくめのトラックショーである。しかし、小社が4年前に計画した時はこのような形ではなくて、関連する官庁やメーカー、ユーザー、荷主の団体を打って一丸とした運営母体で開催するというものだった。ところが、これが見事に失敗して、小社はあわや倒産というところ迄追いつめられた。
 手ひどい打撃は受けはしたものの、わが国にもトラックショーは必要である、という信念にはいささかの動揺もなく、一転して単独主催となったものである。

 「孟子」という中国の古典に「「自ラ反ミテ縮(なお)ケレバ、千万人ト雖モ吾往カン」の言葉がある。心に恥じることなければ、1人で千万人の敵に当たっても恐れることはない、の意味だが、筆者(増田)が今回のトラックショーを決意するに当たって、その支えとなったのは、まさにこの言葉だった。
 良いものは良い、とする常識、人の志を理解し得る義侠心、或いは人情というものの存在を筆者は疑わない。それらの心を持つ多くの人達の支援によって、「特装車とトレーラ」誌は、業界誌の中でも特異の地位を占めてこられたし、トラックショーは現実のものになったのである。

 昨日(8月30日)は筆者58歳の誕生日だった。本誌は8月号で通巻200号に到達、その記念行事のトラックショーの目処(めど)がついたこの誕生日ほど感慨をもって迎えた日はこれ迄になかった。

 一切の権威に頼らず、一片の志を持つ男と、その志に同調する人達によって構成されるトラックショーは、現代のきびしい管理社会の中で、一種のメルヘン的な価値を持つものであろう。
 この“メルヘン”トラックショーを生んだことだけでも、筆者58年の生涯は意義があり、現世になにがしかの爪跡を印することが出来た、と信じるものである。


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みなさん さようなら

2001年10月25日(木)

形だけの友好 ブッシュ・江沢民の握手を見て

 上海で開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)に先だって、ブッシュ米大統領と江沢民主席が会談、握手をしている写真を見ながらふと思った。
 あちらの要人は、握手だけでなく抱擁までするようだが、あれは単なる儀式か、マスコミへのサービスなのかよくわからない。気が付いてみると、私自身もトラックショーなどで握手をすることがあるが、どうも日本人に握手は似合わないのではないか。

 江戸城開城前に西郷隆盛と勝海舟が会見している有名な絵があって、二人は端座して見つめ合ったままである。もし、両者が握手しているとしたら絵にも様にもならない。
 「目は口ほどにものを言い」という。西郷と勝の場合、それほど話すこともなく、阿吽(あうん)の呼吸のようなもので、歴史的な江戸無血開城の大事を決めた。

 ブッシュ・江沢民の両者は初めての出会いのようだが、最初の握手は米中の狐と狸の化かし合い外交の序曲だろう。各国トップは専用機を使って気軽に世界を飛び回り、頻繁に握手を交わしながら、実のある外交成果は殆ど挙がっていない。目をじっと見るだけで、分かり合える、西郷と勝のような会見はもう外交の舞台からは消えたのだろうか。

みなさん さようなら

2015.10.19 00:00|「周作閑話」
〈2015年10月19・22日アップ〉

1984年(S59) 「特装車とトレーラ」 10月号

安重根の書

 日韓関係は全斗煥大統領の初来日によって、新しい時代に入った。それに先だち、「日韓文化人シンポジウム」が7月17、18日の両日、関釜フェリーの船上で開催された。
 このシンポジウムはその詳細な内容が紹介される前に、日本側の出席者の1人大島渚氏が途中で「バカヤロー」発言したことが伝えられて、大きな話題を呼んだ。韓国では若者の間でこの「バカヤロー」が急に流行語になりつつある、という。(7.27 サンケイ)

 このシンポジウムの詳細は終戦記念日の8月15日朝日新聞に、テレビでは8月19日に放映されたのでご記憶の方も多い筈である。
 その記事を繰返し読み、テレビ画面を見ての率直な感想は論点が殆どスレ違いに終わっている、その責任は木元教子、金栄作の日韓両司会者にある、ということだった。


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みなさん さようなら

2010年10月14日
因果応報 ある会社の反乱事件の結末

 企業の歩みは決して平坦ではない。30年、40年と歴史を重ねると、実に様々な出来事に遭遇するものである。10月6日に回った9社のうちの1社のエピソードを紹介する。

 社長夫妻が協力して、1969年(昭和44)に創業したその会社は順調に発展して、5年後には10数人の社員を抱えるまでになった。その中に遣り手の営業マンN氏がいて、筆者主催の「呉越会宮崎研修会」にもう1人と参加した。その言動をみると、どうも反乱を起こしそうな気配がある。そこで社長に、あの男は危険だ、と言ったがそのままだった。

 2年後、N氏は夏のボーナスを受け取った直後、部下3人を連れて、同じ種類の製品を同じようなブランドで製造販売する会社を、似たような社名をつけて独立した。まさにピンチ到来、社長夫妻はまだ技術も分からぬ新人を総動員して応急対策を講じた。

 夜も昼もない作業が続き、ある深夜、1人の新人が行方不明になった。探していると、クルマの下に潜りこんで作業をしているうちに、工具を持ったまま眠り込んでいるのを発見した。その新人が現在の社長、その人である。
 一方、反乱のN氏はその後に急逝、会社は消えて、絵に描いたような因果応報劇だった。



みなさん さようなら

2010年10月12日
会いたいと思われねば、9社もの社長を歴訪できない

 先週金曜日、月刊「NewTRUCK」の『日本のトラックに元気を!』シリーズに載せるため、神奈川県の巻では1日だけで9社の社長に会って取材した、新記録だ、と書いた。

 取材や営業をする人ならよくお分かりだろうが、目的とする「人」に会うアポ・予約をとるのがまず仕事になる。相手が会いたくて仕方がないという人物なら、日時を調節してでも待っていてくれるだろうが、あまり歓迎されない取材とか営業に訪ねたいと申し入れても、中々OKは出ないものである。創刊の頃は日新出版も増田もまったく無名、無駄足を承知で何度か訪問してやっと会ってもらえたもので、この点では楽になった。

 現在は、前もってこの日この時刻に行きたいが都合はどうか、と先ず文書で申し入れておく。……OKが出たなかで、A社の取材は何時何分まで、B社は、と細かくスケジュールを組む。
 この準備作業が順調に進むためには相手側が増田に会ってみたい、会いたくない、どちらを選ぶかだけの問題で、断る理由は“日程が会わない”で十分。トントンと順調に9社もの社長を巡訪できたのは、まだまだ現役として嫌われていない「証し」かなとも思う。

2010年10月13日
日本の産業構造の縮図 神奈川のオーナー経営者たち

 昨日のページで神奈川県のトラック関係企業9社の社長を訪問したと書いた。
 そのうち、サラリーマン社長はカーゴ車体メーカーの最大手日本フルハーフの日本軽金属出身の比企能信社長と、後部品メーカーの1社だけ、7社はすべてオーナー社長だった。

 規模的には、勿論日本フルハーフが桁違いに大きく、他は多くて約30名、少なければ数名という小・零細企業で、日本の産業構造の縮図のようなものである。
 
 オーナー企業の創業者には、学校を卒業して一旦大企業に就職した後、サラリーマン生活に満足できずに、脱サラして独立した例が多い。
 収入の点では、そのまま定年まで勤務して退職金を貰って年金生活に入った方が安定した生活ができるかも知れないが、60歳代、70歳代まで、自分の思い通りに仕事を続けられる幸せには代えられない、というオーナー経営者がほとんどである。
 そういう人たちにとって、80歳代半ば近くまで現役で働いている私は、一つの目標であるらしく、訪ねてゆくと喜んで迎えてくれる。何時までも粘っていては後継者が育たないという批判もあるが、この仕事は自分一代切りと割り切っている人も多い。

みなさん さようなら

山崎先生・書

論語 2003年(H15)10月11日 

論語の師 山崎道人先生100歳の大往生

 10月4日、湯島聖堂での論語の師、山崎道人先生が数え年の100歳で逝去された。儒学の先達には長命の方が多く、宇野哲人、諸橋轍次両先生も数えの100歳で永眠しているので、山崎先生も先師の跡を見事に追ったことになる。
 山崎先生とのご縁は、湯島聖堂斯文会(しぶんかい)で、先生が受け持っていた「論語味読講座」に参加したことに始まる。昭和57年から日新出版で毎月第1金曜日の夜、論語の講義を始めたものの、私自身は系統的にカッチリと論語の講義を受けたことがない。

 人に教える以上、まともに論語の勉強をしなければ申し訳ないと、湯島聖堂に出かけて論語の講義を調べると、山崎先生の「論語味読」が見つかったので、入門したのである。先生が体調の不全を理由に中止するまで、講義を拝聴したのは前後6年くらいであったろうか。たしか、火曜日の午後の講義で、仕事の都合もあって毎回出席はできなかったが、都心にありながら深い緑に包まれた湯島の講堂で、諄々として論語を説く先生の講筵(こうえん)に連なるのは、多忙な日常の中で、心が洗われるような一刻であった。黒板に先ず、一点一画も疎かにしない字で先ず月日を記して、君子不器之章などとその日の講座の題目を添えて論語の原文を書き、講義が始まる。生徒は、相当の年輩で女性が多かった。
 講義もさることながら、学期末には有志男女が先生を囲む一席を設けるのが楽しみで、塾頭の常世田光老人を筆頭に小唄・新内・都々逸など、さながら江戸芸能会のような趣で、先生も目を細めて、盃を干しておられた。健啖家であり、酒もかなり強かった。

 国内各地の修学旅行にもよく出かけたが、平成元年には13日間の予定で、中国の詩人や諸葛孔明の跡、果ては先生の信奉する朱子学の本山ともいうべき廬山近くの白鹿洞書院までも尋ねた。先生はすでに80歳の半ばに達していたが、杖をつきながらも健脚で全行程を元気でこなした。朱子の「白鹿洞書院掲示」を講義された先生の姿が目に浮かぶ。

 論語に「黙してこれを識し、学んで厭わず、人を誨(おし)えて倦まず。」とあり、先生はまさにそれを身を以て実践した。旧制の師範学校を卒業して、小学校の教員も勤めてから大東文化学院高等科に入学し直して、東京学芸大学の教授になった刻苦勉学の見本のような学者であった。先生に出会ったことは、私の生涯の幸せであったと感謝している。

 6日に行われたご葬儀に出席できた湯島聖堂論語会の男性門弟は私一人、他は先生に先立ったり、あるいは病臥中なのである。私の部屋には、先生の揮毫による「穆如清風」(ぼくとしてせいふうのごとし)の額がある。先生の学恩に報いるためにも頑張らねばと思う。


みなさん さようなら

2002年10月3日(木)
歌と書に独自の境地を開いた巨人 会津八一生誕百二十年(上)

 早稲田大学の大隈講堂の近くに会津八一記念館があり、その郷里の新潟市にも(財)会津八一記念館があって、機関誌『秋艸(あきくさ)』は昭和62年の創刊号以来の愛読者である。日本海に近い松林の中の記念館には何度か足を運んだことがある。新潟県トラック協会の中山修会長は熱心な会津八一の尊敬者で、社には『涵養(かんよう)』の、八一自筆の見事な書がある。今年は、生誕一二〇年記念行事が早稲田と新潟で行われた。

 会津八一を知らない人のために、その簡単な経歴を説明する。早稲田で始めは英文学を講じて後に東洋美術史を担当、法隆寺の建立年代の研究で、文学博士号を受けた。戦災で新潟に疎開して「夕刊ニイガタ」の社長なども勤めたが、和歌と書に独特の境地を開いて、現在ではその方面での評価がきわめて高い。特に奈良を愛し、東大寺大仏を詠じた「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」薬師寺東塔の「すゐえんのあまつおとめがころもでのひまにもすめるあきのそらかな」光明皇后をモデルにしたと伝えられる法華寺十一面観音の「ふじはらのおほききさきをうつしみにあひみるごとくあかきくちびる」は絶唱とされている。和歌はすべてカナで綴られているのが特長である。

2002年10月4日(金)
日々新面目あるべし 会津八一4条の『学規』(下)

 会津八一の出身地新潟市では、毎年新成人に八一の作になる『学規』を贈っている。
 若い人に与える教訓として、かつては普遍的な『教育勅語』や、吉田松陰の『士規七則』などのように、尊敬する人物の教訓を自らの戒めにする例が多かった。教育勅語は廃止されたし、学生や若者に訴える「信条」や「教訓」がなくなったが、会津八一の『学規』は、何時の時代にも通用する若者だけでなく、人の生き方を示す立派な教えである。

1,ふかくこの生を愛すべし 
1,かへりみて己を知るべし 
1,学芸を以て性を養うべし 
1,日々新面目あるべし 

の4条からなっているのが八一の『学規』である。

 自殺者が3万人を超えるといわれる日本だが、それぞれの生は、はるかな先祖から受け継がれてきたものであり、その周辺の人たちを考えても、生は愛しなければならない。
 省みて己を知る、論語にも「三省」の言葉がある。己を知ることは人を知ることにもなるのである。また論語にも「芸に游ぶ」の言葉がある。学芸は人間性を養い高める大事な要素で、これがないとカサカサした人間になってしまう。日々新面目あるべし、我が日新出版及び私が、常に心がけているのはこの「日々新面目」なのである。

みなさん さようなら

2015.10.01 06:00|NANDEMO「YOGUS」
周作対談 S48年12月
                         周作対談(昭和48年)
1988年(S63) 月刊 「NewTRUCK」 9月号

「真実はひとつ」
晴れて無罪の、本誌とご縁の深い黒木博宮崎県元知事

 田中角栄元首相のロッキード裁判は主役が病に倒れて、いつ決心するか見とおしがつかないが、黒木博元宮崎県知事の3千万円事件は7月28日、一審有罪を覆して控訴審での無罪が確定した。
 傍聴席の支持者からは喚声が上がり、すすり泣きの女性もあったと新聞は伝える。
 「あの黒木さんに限ってそんなバカな」。元知事の逮捕の記事を読んだときの第一感であった。

 黒木元知事との初めての出合いは昭和46年2月7日、川崎と宮崎を結ぶ日本カーフェリーのPR航海の船上で、同乗記者団を前に自ら熱心にこの航路の持つ意味を説いたのである。
 筆者の育った土佐西端の地は日向灘を隔てて、天気のいい日は宮崎の山々が見えた。その故郷の地を宮崎に向かう船上から間近に眺めた感激は今も忘れられない。

 もう一度黒木知事に会ってみたくなり、カーフェリーで宮崎に入り、知事と一時間に及ぶ単独取材をしたのは昭和48年12月12日、身ぶりを交えながら物流、人材養成、緑保全の重要性を訴えた。その宮崎県に寄せる愛着の深さは筆者の胸を熱くした。この対談は50回に及んだ周作対談の中でも、異色圧巻であった。

 その翌年4月19日、第2回呉越会宮崎ゆきで全員が知事のお話を聞くことになっていたが、スケジュールと会場の都合で13名が15分ばかりお目にかかった。

 さらに51年の5月16日、第4回呉越会で知事は県庁講堂で1時間余り、参加者全員にじゅんじゅんと宮崎県の生きる道について話をしたのである。
 筆者にとって前後4回にも及ぶ黒木元知事とのご縁であっただけに、3千万円事件は正に青天の霹靂(へきれき)であった。
 やましい金であれば3千万円の領収証を自筆で書くわけはない。これはなにかハメられたようなものだろう、告発者が建設業者だというから、県の工事発注の不満の意趣返しかも知れない。元知事は「真実はひとつ」と言い続けて弁解がましいことは一切口にしなかったという。

 晴れて青天白日が立証された黒木さんだが、既に81歳、新聞で見る写真は老いの影が濃い。
 しかし、お元気なうちに汚名を雪ぐことが出来たのは喜ばしい。黒木ファンの1人として静かな余生を送られることを祈る。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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