みなさん さようなら

2015.11.26 03:58|コラム・巻頭・社説・社告
2008年4月5日から7月15日まで船上の人となった父でしたが、帰港の2ヶ月後、リーマンショックが世界を廻ります。日新企画(現・日新)の大借入金を代わって返済する過程でガン発病。加えて、横路氏の裏切りという辛酸を舐めた、まさに「天国から地獄」の4年間。しかし最期まで困ったとも苦しいとも言わず、「安らかな気持ちだ」と言って眠りに入り、そのまま冥界へ船出しました。前回、2008年冬の庭で魚を焼く写真を掲載しました。のんきに見えますが、リーマンショックと翌年に迫るトラックショー、父の胸中がどんなものだったか、私には想像もつきません。(妙)

2008年飛鳥出航
左/大桟橋上で横断幕を広げて行ってらっしゃい、「日新論語会」の皆さん   
右/急ぎ船室にとって返し、「お見送り有難う」を書いて貼り付け、甲板から皆さんに手を振る

飛鳥Ⅱ 横浜
2008年4月5日 横浜大桟橋を離れる「飛鳥Ⅱ」


2009年(H21) 月刊「NewTRUCK」 1月号

巻頭特別記事

誰もが予測しなかった
39年前に戻った新車販売


 12月2日付けマスコミ各紙は、11月の新車販売(軽自動車を除く)は21万5783台、前年同月比27.3%の下落で、11月としては昭和44年以降39年ぶりの低水準だった、と報じた。
 12月の新車販売も苦戦は必至で、当初予測された昨年並みの、343万台の年間予想販売台数を大きく下回るのは決定的だという。

 昭和44年(1969)は筆者にとって、それまでの大阪での生活を切り上げて、トラックの専門誌を発行するために、単身で何も知らない東京へ乗り込んだ、我が生涯でも記念すべき年だった。
 当時の日本は、まさに高度成長真っ盛り、東京は建設ラッシュに沸き返っていて、その活気に圧倒されながらも、トラックの取材や広告獲得を始めた頃である。
 田中角栄通産相(当時)が「列島改造論」を展開、地価を含む狂乱物価が日本中を襲い、オイルショックが引き金になってトイレットペーパー騒ぎが起こったりした。
 いわゆるバブル経済の崩壊が始まったのは、昭和が平成に変わった1990年代に入った頃からで、日本経済は乱調子気味になり、政治的にも不安定要素が高まった。

 筆者が上京した昭和44年(1969)から現在までのほぼ40年間は、経済成長とストップが交錯した時代であったという記憶だが、まさか単月であったとしても、新車販売がその年の水準にまで下落するとは、まったく予想もしなかったことである。



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みなさん さようなら

祥月命日の先週21日、阿部塾長のお世話で「日新論語会」の皆さんと、銀座で中華料理を囲みました。父とも馴染みだったその店の主人から83歳の母に、「ずっと気になっていて」と差し出されたご仏前のお線香。3年前に亡くなった父を思って下さったのでした。店も顔ぶれも以前のまま、師匠のいないのがちょっと寂しい晩秋の午後でした。(妙)

2008年12月
2008年11月25日

秋の夕べ。庭先に揚がる魚を焼く七輪の煙

 七輪の魚焼きに填(はま)った昨今である。魚には目のない方だったが、炭火で焼いた魚を家で食べたくなり、近くの日用品売り場で、卓上コンロのような七輪まがいを買ってきたが、炭火の起こり方が今ひとつだった。月刊誌にそのことを書いたら、8月に読者の方から本格的な三河特産の七輪に炭まで添えて送ってくださった。

 爾来、禁酒休肝の土曜を除く休日には、いそいそと近所のSATYに自転車で魚の買い付けに行くのが例となった。SATYの魚売り場のおじさんとも顔なじみになって、今日はこれが美味いよ、などと奨めてくれるようになった。

 68年前、中学2年の時に大阪にいる叔父と自炊生活をするようになり、ガスもついてないボロ長屋で、薪をくべる竈と豆炭使用の七輪(カンテキと言った)による自炊生活を始めて以来の、七輪使用の調理である。
 その頃は、ご飯を炊いた薪の燃え残りを「消し炭壺」にとっておいて、炭の着火に使用したが、今は着火剤という便利な火付けがあって簡単に火を起こすことが出来る。それでも、昔を想い出しながら団扇でパタパタ煽ぐこともあって、これはこれで乙なものである。



みなさん さようなら

延光寺 3492
            四国霊場第39番札所 延光寺 (増田家墓所)

11月21日は増田周作の祥月命日です。あれから3年が経ちました。病床で12月号の原稿を仕上げたのが11月15日。翌16日には「…余命は数日と思いますのでお目にかかることは出来ませんが、…来年のトラックショーは是非ご臨席のほどをお願い申し上げます。」と、第18代当主徳川恒孝様へ切なる願いを書きとめ、これが最後の文章になりました。父の言う、“あの世への道行きの時間”は、長かったのか短かったのか。最晩年(2012年)の初夏から、トラックショーの原点であったフェリーで九州から北海道へ懐かしい人々を訪ねてひとり、取材に出かけたのは幸せな道行きの時間であったと思います。取材に快く応じてくださった皆様、また弱った父に手をさしのべてくださった皆様のご厚情に、深く深くお礼申し上げます。(妙)


2003年(H15) 月刊NewTRUCK 12月号
わだち(編集後記)

 まだ年末まで1ヶ月余りもあるから、何が起こるか分からないが、日新出版も私自身にとっても慌ただしい1年だった。「東京トラックショー」、文化講演会があり、『従心日録Ⅲ』発行、各所への論語講義、執筆などこれまでの生涯で一番充実した生活だったし、健康にも恵まれた。生来貧乏性の私は、バタバタしているのが一番で、悠々と毎日が日曜日という風雅な生活はそぐわないのである。
 というものの、来年はトラックショーもないし、江戸開府400年も終わったから少しはのんびりできるだろう。

 旅にも出たいし、本も読みたい、書にも力を入れたい。バリバリ現役でポックリというのが理想と言う人もいるが、その前に僅かながらの、あの世への道行きの時間があったら有難いなと思う。


みなさん さようなら

2015.11.12 03:46|コラム・巻頭・社説・社告
下欄の記事は、1979年のものです。
トラックショー第一回の試みはこの翌年、1980年でしたが団体の反対に遭ってあえなく沈没。
それから4年、1984年に50数社と日新論語会の志でようやくアジア初のトラックショー開催にこぎ着けました。
「トラックショー」を「東京トラックショー」に改称したのは21世紀に突入した2001年(H13)です。(妙)


1979年(S54) 「特装車とトレーラ」 11月号 

商業車ショウ開催の提唱
業界全体のレベルアップを図る必要性

 第23回モーターショウが華やかに開催されたが、主体はあくまでも乗用車であって、商業車、特に大型車が刺身のツマ的存在であることは例年通りである。
 アメリカやヨーロッパでは毎年、各地で大がかりな商業車の展示会があるのに、アメリカに次ぐ自動車生産国であるわが国でなぜ、まともな商業車展示会が開催されないのか、筆者は不審に思い続けてきた。

 その理由として、わが国の商業車の流通体系は自動車メーカーと、その系列の販売店による販売ルートが確立していてセールスマンが足繁くユーザーを訪問、情報を流しているから、いちいち実物を見なくてもいい、ということがまず挙げられる。
 さらに、欧米はトレーラが主体であるし、ボデーやパーツについて、ユーザーの選択の幅がかなり広いが、わが国ではリジッドつまり単車のトラックが殆どであり、いわゆる純正部品という考えが徹底して、シャシを決定すればあとはすべて自動的に決まってしまう、カタログで十分だということが理由の第2としてあげられる。

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みなさん さようなら

2015.11.09 00:00|NANDEMO「YOGUS」
1984年11月号 銀座

1984年(S59) 「特装車とトレーラ」 11月号

百花繚乱! 諸国チンドン屋の銀座大集結

 イヤー!、びっくりしたのなんの。

 事務所の窓際でボヤーッと下界を眺めていると、斜め前のホテルからタケちゃんマン、石川五右衛門、忍者ハットリくん、カウボーイ、銭形平次、芸者、お姫様、海賊、ピエロetc、古今東西の人気者が玩具箱を引っくり返したようにゾロゾロ出て来る。
 ハテ、ゆうべの酒がまだ残って白昼夢を見ているのかと目を凝らして見詰めても、30人近い異様の人体(にんてい)の男女に相違はない。

 どうやら、チンドン屋の大集合らしいと気が付き、一体なぜハイカラな帝都の顔ギンザに出現したのか、好奇心にかられてノコノコ下りて宰領に聞くと、明後日、有楽町の日劇あとに開店する西武デパートの宣伝のために全国のチンドン屋が集められたのだ、という。

 そういえば、西武の銀座進出は銀座デパート戦争の火付け役として話題を提供していたが、ニューメディアお盛んのご時世に、最も古典的なPR方法であるチンドン屋を使うとは、ヤルものである。
 筆者の横で、艶然と微笑むのはピーター、美輪明宏も顔負けの女装の美青年であり、後方の黒いのは、富山市で開催される全国チンドン屋大会で優勝経験を持つ大ベテランで、文字通り裸一貫で生きているが、全身を黒褐色に塗り潰すのは大作業であるらしい。本籍は熊本。

 チンチンドンドン、チンドンドン、背中にビラ下げて、面白うてやがて悲しいかつての姿はなく、現代のタレントチンドン屋は明るくそして屈託がない。


 

みなさん さようなら

2015.11.05 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1984年(S59) 「特装車とトレーラ」 11月号

次号から誌名は 「NewTRUCK」 に
日本の新しいトラックのあり方を追求

 本誌は次号、59年12月号から誌名を「特装車とトレーラ」から「NewTRUCK」に変更いたします。読者や広告主の皆様にとっては突然のこととして驚かれるに違いありませんが、誌名改題は当社にとって長い間の課題でありました。

 昭和40年、本誌が月刊「特装車」として発足したのはダンプ、ミキサ、ローリなどのいわゆる特装車を対象としたもので、その時点では誌名と内容が一致していたのですが、年月を経るに従って、誌名と記事内容に大きなズレが出てまいりました。
 これらの特装車は構造的には特装車であっても生産量が増えるに従って標準仕様のものになり、一品生産的な特装車として色合いを薄くしているのが現状です。その反面、アオリ付き平ボデー車が殆どであったカーゴ系のトラックの多様化、特装化が目立って、毎月のように各種の特装仕様車が登場して話題になっています。

 このような現状を反映して、本誌の記事はいわゆる特装車に関連するものから、カーゴ系トラックの方に大きく重点が移るようになってきました。
 トラックの大半が特装車になってしまえば、特装車という呼び方そのものが意義を失うことになりかねません。業界の理論的支柱であるべき本誌が記事内容と必ずしも一致しない誌名に執着することは、トラックと特装車の概念にも混乱を生ずる恐れがあり長く苦慮してきた課題であります。
 しかし、永らく親しまれてきた「特装車とトレーラ」の誌名を捨てることにも大きな未練があり、そのチャンスを掴みかねていたのが実情でありました。

 小社は誌名改称のチャンスを、小誌創刊200号記念行事としてわが国初の“トラックショー”を開催するこの時期に求めました。
 小誌の12月号は、トラックショー特別号として、入場者に洩れなく配布する“ガイドブック”を兼ねて発行します。従って、印刷物は現行の数倍にも達し、“特装車とトレーラ”に馴染みのない関係者にもゆき亘ることになり、新誌名の小誌を理解して戴く絶好の機会であります。

 “NewTRUCK”のNewは、小社名“日新出版”の新です。一所に停滞することなく常に前向きに取り組んでゆくことは、企業にとっても商品にとっても最も重要なことであります。
 わが国のトラックは、法規制その他の面で欧米諸国に著しく立ち遅れています。トレーラ化の遅れはその最たるもので、原誌名の“特装車”に“トレーラ”をプラスしたのも、その役割を強調したものでありました。“NewTRUCK”はこの精神を引き継いで、日本に“新しいトラック”の秩序を一日も早く招来しようとの願いも込められています。
 “NewTRUCK”と英文名にしたのは、デザイン的な意味の他、海外の読者に親しみ易いものにして、将来の国際活動に備えたものです。
 小社の意図をご賢察のうえ、前誌名と同様“NewTRUCK”にも倍旧のご支援を願い上げます。

みなさん さようなら

2001年10月26日(金)
怪物ぶりは相変わらず 大竹氏夫妻と久々の会食

 佐賀で、物流事業者たちの指導をしている大竹一郎氏夫妻が上京して、我々夫婦と食事を共にした。まさに論語にある「朋(とも)遠方より来るあり、また楽しからずや」で、酒は全く飲めない大竹氏を置いて、私だけが杯を重ねた。4人で会食するのは10年、いやもっとになるかも知れない。交友は30年以上、歳は大竹氏が1歳上である。
 二人の違いは、下戸と上戸だけではない、大竹氏はどちらかと言えば左がかって、私は論語、彼はコールドチェーンなど物流理論の大家、当方は飯の種のトラックの知識すらゼロに近い、ファッション・グルメ、女性を楽しませることでも、私は全然歯が立たない。

 こんな二人が30年余りも、仲良くしてこられたのは、余りにも何もかもが違いすぎて、喧嘩にもならなかったからだろう。共通点と言えるのは、サラリーマン生活をさっさと切り上げていること、権勢とは一切関係がないことぐらいかも知れない。
 一時は健康を損ねてどうかと思われたが、病院から出たのを奥さんが見ると、ほとんど無くなっていた髪の毛が黒々と生え、10歳も若く見えたという嘘のような話が食事の間に披露されて大笑いになった。怪物ぶりはあちらが何枚も上である。


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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