みなさん さようなら

「零戦、日本の空を飛ぶ 鹿児島・海自基地で試験飛行」 You Tubeに動画あり

2016年1月27日、復元された零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が海上自衛隊鹿屋航空基地からテスト飛行に飛び立ちました(パイロットはアメリカ人)。「You Tube」でエンジン音が聞けますので、是非アクセスしてみてください。オーナーの石塚氏は牧場、自宅や車も売り払ってかき集めた3億5000万円で、復元したアメリカ人から購入したそうです。(妙)
(参照:零式艦上戦闘機 里帰りプロジェクト)


2009年03月28日
戦後の復興に生きた「零戦」「大和」の人的技術的遺産

 先週のこの日に紹介した文春新書『零戦と戦艦大和』は、第1部が帝国海軍と米国海軍の指揮者を様々の方面から比較検討した「帝国海軍VS米国海軍」で、本書が本当に面白くて参考になるのはむしろこの第1部で、書名は第2部からとったものである。

 日本はアメリカの物量に負けたと言われるが、開戦当初の日本海軍の戦力は、むしろアメリカ以上だった。日米の運命を分けたミッドウェー海戦では、日本海軍が索敵の失敗、その後の戦略の拙さで、空母4隻、大量の航空機やベテランパイロットを失って、一気に優勢から劣勢に立たされることになった天下分け目の海戦だった。
 この大敗戦を、海軍はひた隠しに隠して東条首相にも報告せず、処罰を受けたり更迭された指揮官は1人もなかった。アメリカ側が、頻繁に責任を取らせた更迭を繰り返しているのと大きな違いである。組織を守る温情主義が死闘の中でも生きていたのは、現在の誤謬を認めようとしない官僚主義と、相通じるものである。



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みなさん さようなら

2016.03.14 06:00|その他月刊誌記事
1971年(S46)「特装車とトレーラ」3月号

編集後記
 2月号のフェリー内での座談会に続いて、本月号もまたヤクルト座談会である。今後、こういう形を続けるとは限らないが、忙しくて原稿を書いて頂く時間のない方や、質疑応答の必要な場合には便利な方法である。ただ、対談と座談会2本の記事をまとめるのは、いかにもきつい。テープに録音したものをそのまま書いてしまうと、冗長(じょうちょう)になってページを食うだけである。話を聞くのと読むのとは違うので、エッセンスを逃さず、どれだけ収縮するかが腕の見せ所であろう。幸い周作対談も好評で、お褒めの言葉を頂くことが多い。…
(このあとは、2013年4月15日アップの「わだち(編集後記)」へ続きます。妙)

1971年(S46)「特装車とトレーラ」3月号
特別座談会  (3月16日ヤクルト本社で開催)
ヤクルト冷蔵車決定の経過と1年間使用の結果について
(序文)
 ヤクルトを取材して、まず感じたことは、その野性的なバイタリティ(活力)であった。そして次に非常に基礎を大事にする。根本をみっちり固めるという姿勢である。バイタリティは新興会社にはよくあることで、モーレツ経営とか突撃精神とか、それで押しまくる、ということで、たまたまその製品が時流に合ったりすると急成長するケースは少なくない。しかし、基礎を大事にする、根本を培(つちか)うということはなかなかしないものである。野球に乗り出したり、派手な面もあるが、冷凍車の取材で痛感したのはこの点である。ワンウェイパックコールドチェーンの導入に、これまでの研究をしたということは、ヤクルトの製品そのものにも十分過ぎるほどの配慮がなされている、といっては褒め過ぎであろうか。そして、その根本姿勢は、人づくりにつながる。フランチャイズ制という複雑な機構を統御するにはあくまでも人材が必要である。座談会に出席の4人やその他のごく限られた社員の方と話をしても、そのことは十分窺える。お叱言を頂戴することが多いが、この会社のスタッフが川重や三菱重工という巨大企業とわたり合って、日本の冷凍車に一大エポックを画したことに対しては心から敬服する。

 この座談会は3月16日ヤクルト本社で開催した。その前日、人事異動があり、社内はごった返しており、榊原氏も、営業部長から広報部長に移られたばかり。住原生産技術部長も出席の予定であったが、そういう事情で欠席された。この点は直接の担当者である山本係長の出席、発言で十分意は尽くされていると思う。


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みなさん さようなら

H14年 1168 東大寺鐘楼
                  東大寺鐘楼 (平成14年撮影)
2002年3月11日(月)

東大寺の鐘

 「春を告げる奈良『お水取り』と梅香る名寺めぐり」JR東日本主催のツアーに参加して、5日から7日まで奈良京都を旅してきた。シンガポールのクルーズから帰国したばかりで月刊誌の記事執筆など仕事は山積しているが、お水取りはもう行く機会がないかも分からないと、思いきって飛び出したのである。

 奈良のホテルに午後4時集合。それまでの時間が勿体ないので朝早く出て、10時には奈良に入った。中判・35ミリ・デジカメ3つのカメラと、交換レンズ2個と三脚を担いで春日大社を振り出しに、正倉院、三月堂、二月堂、東大寺、国立博物館、興福寺を歩き廻った。万歩計で、17,400歩 13キロメートルほどだろうか。

 奈良には随分来ているが、写真撮影を目的にこれほどの荷物を持って集中的に歩いたのは初めて。それぞれの場所に思い出がある。東大寺の鐘の前に来た楠正成が同僚に、あの鐘を動かしてみせようと言ったが本気にしないので、根気よく押しているうちに揺れだしたという話を思い出して学友の前で実行したら、本当に動き出して今度は止まらず、ほうほうの態で逃げ出した。まだ10代の頃、若気の過ちの思い出である。

プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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