みなさん さようなら

2016.05.30 06:00|その他月刊誌記事
2000年(H12) 月刊「NewTRUCK」 8月号

この業界に老舗の生まれる素地はあるのか
事例研究、百年企業と75年企業の明暗など

パブコは明年100年を迎え、高橋自動車は75年で自己破産、65年の北村はボデー比率50パーセントに。50年の輸送機工業は社長主導で社内大革新。車体業界だけでも、研究課題には事欠かない。企業永続の原則は何か。車体業界に多いオーナー企業のあり方について所信を述べてみた。

読書誌で見つけた『老舗の研究』
…(略)…
 その中の1冊が『老舗企業の研究』で、「100年企業に学ぶ伝統と革新」の副題がついている。(発行 生産性出版)……これこそ私がよく引用する論語の「温故知新」そのものである。老舗企業の中に「温故知新」がどのような形で活かされているのか、学生時代に経済史を多少囓った者として興味をそそられたからで、その期待にたがわず、実に内容の濃い本だった。

身近な75年企業高橋自動車の自己破産
 信じられないほどに不思議なことだが、この本を読み進めている間に、私の周辺の老舗企業に吉凶織り交ぜたできごとが相次いだ。副題にもあるように、この本での老舗とは百年を越えた企業を指しているが、1世紀前に日本にトラック産業は出現していなかったのだから、そこは割引して考えて頂きたい。

 先ず飛び込んだのは「5月25日に横浜市にあるダイドウトランスプラネットが横浜地裁に民事再生手続き開始を申請し、事実上倒産した。負債総額38億8,459万円。同社は大正8年創業の老舗(しにせ)で貨物自動車運送業のほか、倉庫や通関などを手掛ける物流企業」(5月28日付物流ニッポン)のニュースだった。

 大正8年、つまり1919年創業で、81年になる同社は、歴史の浅いトラック事業の中では、老舗の資格十分だったのである。ちなみに日本通運は明治5年(1872)創業となっているが、トラック以前の運輸事業から計算してのことで、ヤマト運輸は同じ大正8年、西濃運輸は昭和4年(1930)である。

 同社を単なるトラック事業の老舗企業として引用したのではない。丸山雄司社長は、私と長い交誼のある大竹一郎氏の門下生であり、大竹氏の唱える「四輪駆動経営方式」を引っ提げて、本誌に記事も書いた、新時代のトラック事業経営者の一方の旗頭と見られていた人物である。


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みなさん さようなら

2016.05.25 06:00|「幽冥録」
3月14日アップ、1971年の3月号「ヤクルト特別座談会」の中で、チラッとお名前が出た『宇田川氏』。
座談会から6年後、宇田川氏訃報をうけて書いた周作の弔辞です。(妙)


1977年(S52)「特装車とトレーラ」5月号 幽冥録

清掃界の巨人逝く
宇田川棲氏を悼む

 4月3日、宇田川棲環境保全協会長が逝去した。寒い冬であったのに桜の開花は例年より早く、既に東京では散りそめていた。
 宇田川氏はいうまでもなく清掃業界の大立者で、83年の生涯を業界の発展に捧げ尽くした人である。政府はその功に報いるに昭和40年勲5等、昨年春再び勲4等旭日章を贈っている。
 宇田川氏と筆者は住んでいる世界も違って、おつき合いといえるほどのものはなかったが、一度だけゆっくりお話を聞いたことがある。

 昭和46年1月のことで、周作対談の12回目のゲストとしてお相手願った。国鉄新橋駅近く、ガード下の粗末な全日本清掃協会の事務所で、寒い時であったため、大きな襟巻きを首からぶら下げたまま応対された。
 周作対談でお相手したゲストは50人近く、その一人一人に想い出はある中で、宇田川氏は後まで強く印象に残った人である。当時で既に78歳になっておられたと思うが、いわゆる老人臭というものを全く感じさせないのに驚いた。言葉もはっきりしているし、筋道を立てた話にもよどみがない。ゴミ、糞尿から見た江戸と東京の話など、非常に面白く教えられるところが大きかった。

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みなさん さようなら

2016.05.23 06:00|「幽冥録」
2004年(H16)「NewTRUCK」6月号 幽冥録

永崎重夫氏 (関東美川グループ創業者)
車体の白紙に絵を描き続けた革新的経営者

 永崎重夫氏は車体メーカーの名門、美川ボデー(石川県)の創業者永崎家に生を受けたが、美川ボデーを飛び出して、関東美川グループを創り上げた自立心旺盛な創業者型経営者であった。

 5月1日、肺ガンで死去、22日にお別れの会が開催されたが、筆者は当日海外に出発予定で、出席することができない。16日に成田から中国へ出発した「第32回呉越会」の結団式では、昭和48年に第1回を開催した「呉越会」初の海外となった「第6回呉越会アメリカ視察」に参加した永崎重夫さんのことに触れた。革新的考えを持った経営者であり、皆さんがこれから行く中国に、車体メーカーとしては早い時期に進出した先覚者であった、と参加お礼挨拶の中で述べた。

 中国進出もそうだったが、永崎さんは積極的に新分野に果敢に挑戦するタイプで、フランチャイズ方式というのか、車体メーカー工場を各地に作って、ユニークな労務管理と生産方式による車体製作を開始した。
 石川県に本拠を置いた美川ボデーが平塚に進出したのは、創業者永崎清太郎氏の大英断で、次男の重夫氏は平塚工場の責任者として、28歳の時に平塚工場に派遣された。旧態そのままのボデー工場のあり方に疑問を感じていた重夫氏は、さらに他の新工場建設を兄の博氏に相談するが、その承諾が得られないので、平塚工場を出て、先ず茨城県に関東美川ボデーを設立して東海(岐阜県)・山陽(岡山県)・東北(福島県)・北陸(石川県)と次々に別会社の工場を建設していった。

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みなさん さようなら

2016.05.16 06:00|その他
2004年に三菱ふそう脱輪事故が起き、会長以下7人のトップ、幹部が逮捕されました。当時、技術士の立場から西襄二氏が「NewTRUCK」に掲載した記事をお届けします。(妙)


2004年(H16) 月刊 「NewTRUCK」 6月号

技術検証    技術士・経営工学 西 襄二
誰が保証する?大型トラックの安全性

伝統的な車軸構造
 大型トラックの車軸構造は、我が国ではここ60年余に亘って基本的に変わっていない。自動車工学的にいえば、前軸は「逆エリオット式」後軸は「全浮動式」だ。長期に亘って基本構造が変わっていないということは各車間設計が類型化していることであり、構成部品も設計的に類型化している。モデルチェンジに際して前例に倣うという取り扱いを受けることが多いことでもある。長い歴史の中で設計担当者は次々に入れ替わり、新人が設計を担当する機会もある筈だ。

ものづくりの進め方
 フルモデルチェンジ(FMC)を想定して、トラックの商品企画から量産に至る標準的組織と行程を簡単に示しておこう。
 先ず組織。近年の場合、総責任者(プロジェクトマネージャー・PM)が任命され、マーケティング、商品企画、デザイン、設計、実験、生産、品質保証、購買など全社関係部門から担当者が選出・組織される。そして、経営層から示される全体日程及び予算に従って、消化しなければならない数多の課題に取り組む。
 次に行程。大日程としては、PMの任命、担当者(プロジェクトメンバー)の専任、企画取りまとめ、コンセプトづくり、と進み、以後同時展開的にデザイン、車型構成、概要設計、細部設計、生産性・コスト検討、生産設備・方式計画、試作・各種実験、デザイン審査・決定、品質審査、量産試作、設備試行、各種発表資料手配、量産開始(SOP)、発表・販売開始(SOS)と続き、更に市場の初期流動管理まで一連の重要イベントが続く。

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みなさん さようなら

2016.05.12 04:14|「今月の論語」
前回、このブログでは2000年の三菱不正事件について、レポーター・大山健一郎氏の寄稿文を掲載しました。4年後、再び「三菱」事件です。(妙)


2004年(H16)「NewTRUCK」 4月号

信を失ってしまった日本の大企業の失態
社内体制の不統一を外部に露呈する愚かさ

 名門の大企業の失態または社内不統一が目立つ。
 大阪の近鉄は球団の名義を商品化して他企業に売ると発表したが、関係者の反発を招いて早々に撤回した。
 カネボウは、化粧品部門を花王に販売して再建の足がかりにしようとしたが、土壇場で労組や社内の反対で白紙に戻して再生機構の手によって、建て直しが図られている。
 三菱ふそうは、トレーラの脱輪事故で新たな社内による検査不十分が浮上して、マスコミに大きく取り上げられている。
いずれも、社内での根回しというか、統一見解が確立されていない失態を示したもので、筆者には理解が不可能である。

 近鉄は、大阪というより全国で最長の鉄道路線を持つ私鉄であるが、最近はなりふり構わぬリストラ路線を走っている。それは、やむを得ない面があるにしても、キチッとした社内での意思統一が図られていないことは、球団の名義売却問題でも明かである。
 球団名義売却ともなれば、マスコミが大きく取り上げるのは目に見えている。それを織り込み済みなら、まだ評価できるが、どうもそうではなさそうで、ドタバタ劇に終わった感じである。
 近鉄は関係企業が厖大で、それらの一々に細かい指示は出せないにしても、一般市民を対象にする球団のあり方には、軽挙妄動は許されない。

 名門カネボウは、社内の意思がどこにあるのか、と疑われても仕方のない醜態であった。社長が決定して、花王と協議して大詰めに達したところで、いわゆるドタキャンで白紙に戻した。
 現在の企業社長の権威は昔に較べて著しく低下していることは、さまざまの事件で明らかで、その実態をカネボウは遺憾なく示したと言えるだろう。
 再建を再生機構という国家、公的機関に安易に委ねたということも、企業としては失格である。カネボウの再建は、イバラの道を歩むだろう。問題を先送りするだけのことでしかない。

 三菱ふそうにとっては前のリコール問題に続いて不運であったということもできるだろうが、その時の教訓が生かされていない。リコール問題の時、筆者は社内体制の問題であると書いて、三菱自動車側から不興を買った。今回もまた、その蒸し返しではないか。
 新聞等で伝えられるように、決められている完成後の検査を怠っていたと、最近になって同社から発表されたというのだから、一体社内体制はどうなっているのだろう。隠蔽していたのではないかと疑いの目を向けられるのは当然だろう。
 社内の意見統一を図る機関はどこに所属するのか、通常は役員会で会社の向かうべきところを示して、各部署はその具体化を図り、重要な項目については社長なりしかるべき責任者が記者会見をする。通常の案件は広報部が記者発表するなり、文書を配布するのが一般的である。
 社長や広報の発表した内容がすぐに訂正されたり、しばらくして後から新事実が出てくるということは、少なくとも信用を旨とする大企業で、あってはならない。

 論語に「信なくんば立たず」とある。企業であれ個人であれ、「信」が基本であることは今も昔も変わりはない。現代社会にもっとも欠けているのは「信」である。せめて信用を根本にしており、社会も信頼する大企業だけでも一旦口にしたり、発表した内容は軽々しく変えないだけの根回しと覚悟は必要だろう。

みなさん さようなら

2016.05.02 06:00|その他
三菱自動車がニュースになっています。
過去に大規模なリコール隠しが2度、今回は「燃費データ改竄」ですね。もはや他の三菱グループも助けようがないのではないでしょうか。第1回目、2000年度のリコール隠しについてレポーター、大山健一郎氏が月刊「NewTRUCK」に寄稿した記事を掲載します。(妙)


2000年8月号「NewTRUCK」8月号
問題提起レポート   自動車評論家 大山健一郎

なぜ起こした、三菱自動車のクレーム隠し
間口の広いメーカーの不覚

社会の安全より会社の安泰
 日本で初めての地方開催の沖縄サミット、その直前の8月19日、全国民がその成りゆきを固唾をのんで見守ろうとした矢先、三菱自動車によるクレーム隠しの第一報が朝刊の一面のニュースになった。リコール対象69万台、クレーム報告書半数開示せず、見出しを見てこれはひどい、何でこんな馬鹿な、との思いを抱いたのは三菱自動車のユーザーばかりではなかった。

 そのわずか1ヶ月前に発生し、日本中を震撼させた雪印乳業による食中毒事件にも匹敵する不祥事と言っていい。雪印の事件は1万4千人の食中毒の被害者を出したが、三菱のクレーム隠しの人的被害は、今のところゼロではないかという比較の問題ではない。リコールに匹敵するクレームは、情報開示をしていれば防げたかも知れない事故を、隠すことによって起こし続ける可能性があるのだ。万一起こったときには即人命に関わる危険なものも含まれている。或いは隠したクレームの中に、すでに事故や人的被害を伴ったケースが無いと言い切れるのか。
 雪印のケースは意図的というより、会社の上から下まで弛み切った姿勢と対応のまずさに唖然とし、そこには悪質な組織的隠蔽というより、あえて言わせてもらえば、処理のまずさに自ら墓穴を掘り、傷を深くしていく哀れささえ感じられた。三菱自動車の場合は不名誉なクレーム情報は極力外部には出さず、できるものは内部で処理をするという長年の慣行があって、それが今回の発覚で一気に噴出したとしか考えようがない。社会や顧客の安全より、まず不利な品質情報はできれば隠蔽して、世評を気にし会社の安泰を優先するという古い感覚が今でも残っていて、改革と変化に乏しい伝統ある大企業の体質を見せつけられた思いがする。

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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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