みなさん さようなら

2016.08.29 07:22|「東京トラックショー」
1986年11月第2回トラックショー 晴海
技術・展示レベルも格段に向上した「'86 第2回トラックショー」 晴海 屋外展示場

1986年(S61) 月刊「NewTRUCK」 12月号
組織としての業界団体の力と限界

まえおき
 トラックショー初日の11月11日、午前11時半から会場内の特別室で、「全国車体メーカー社長懇談会」が開催された。
 (株)北村製作所北村泰作社長、山田車体工業(株)山田健雄社長が代表世話人となって呼び掛けたもので、その模様は81ページに掲載した。

 山田社長の挨拶のあと、筆者(増田)はお礼をかねてお話ししたが、同時開催の「商業車デザインコンテスト」の審査委員の人達との打ち合わせの時間が迫っていたので、10分ばかりのお話に終わった。さらにショー2日目の11月12日夕刻、東京駅上のルビーホールで開催されていた日本貨物運送協同組合連合会(日貨協連)のセミナーでも求められて短いお話をした。この二つのお話に共通していたのは「組織」というテーマである。

組織としての業界団体論はなぜ少ない
…略…
 国や自治体と住民の関係は論じられることも多いし、筆者には問題が大き過ぎるので、ここでは取り上げない。企業の場合も、支払われる給料と生産性について直接的関係があり、それが崩れると企業そのものが崩壊してしまうので、他人にとやかく言われずとも真剣に取り組んでいるので、これも論外とする。

 従って、ここでは組織としての業界団体とその構成員である企業について述べる。この分野の組織論が世に出ることが比較的少ないのは、それぞれの業界団体に固有の性格があって、一律に論じることが困難である、という理由によるところが大きい。さらにそれぞれの業界の事情に明るい業界誌は、業界団体の援助を受けている場合が多く、その団体の批判などもってのほか、といったムードが強くて、記事になることが少ない。このような現象は業界団体にとっても、加盟のそれぞれの企業にとってもむしろマイナスである。

 「記者会」などという組織があって、適当に言論操作されているケースも多く見られる。ニュースソースとして、記者会の存在は必要かも知れないが、自由な批判を困難にしている、という事実もまた否定できない。

はじめて接触の業界団体 車工会
 17年ばかり前、この月刊誌の発行をすることになって最初に接触したのは(社)日本自動車車体工業会(以下車工会と略称)だった。
 それまでは郷里の土佐や大阪に住んで、トラックのことなどまるで知識がなく、まして車体メーカーという存在など知るわけがなかったのである。

 それがふとした縁で車体の業界誌の発行を引き受けることになったのだから、人生何が起こるかわからないが、暫く業界の人達と接触しているうちに、これはえらい世界に入ったものだ、と恐ろしくなってきた。

 車体メーカーの経営者は自動車メーカーやディーラーの下請けであると自らを定義づけており、車工会もまた(社)日本自動車工業会(自工会)の下部組織であるという意識から一歩も出ていない。「NewTRUCK」の前身である「特装車」は車工会と一部の車体メーカーの支援を受けてI氏が発行していたものだから、報道機関としての権威はまるで確立されていなかった。
 …略…
 しかし、考えようでは現状は最低で、これ以下に下がることはあり得ない。わが生涯のある時期を、人の軽蔑する業界誌に身を置いて這い上がってゆくのも悪くはない、と腹をくくるようになった。それからほぼ15年になる。

車工会 総会
車工会と絶縁してトラックショーを開催
 もう故人になったが、車工会の野寺哲二郎専務理事とはよく対立した。野寺氏が現役を退いたあとも、会合などで顔を合わせると、敵意をむき出しにされることがあって、怒りと恨みがどれだけ強いか思い知らされたものである。

 車工会の会長は、自動車メーカー直系の車体メーカーのトップが代々就任している。現在の会長は日産車体(株)会長の本田文彦氏、副会長はトヨタ車体(株)会長の藤本俊氏と新明和工業(株)顧問の五十川澄男氏である。日産車体、トヨタ車体などの企業はたしかに車体メーカーといえるかも知れないが、端的に言って自動車メーカー直属の車体工場である。一般の車体メーカーとは生産品目は同じようでも、経営内容なり意識はまるで違う。

 いわば「同床異夢」の会員で構成されているのが車工会だから、そのトップに企業規模の大きい自動車メーカー直系企業から人を迎えるという事情もわからぬではない。

 しかし、会長はお飾りとしても、副会長はローカルに基盤を置く車体メーカーから迎えるとか、事務局のトップ層に地方車体メーカーに理解を示し、その指導に情熱を燃やす人物を据えるなど、方法はいろいろ考えられると思うのだが、そのような方向に努力した形跡は残念ながら感じられない。

 現在の筆者は車工会の活動に興味もないし、期待もしていないが、かつてはそうではなくて、車工会と力を合わせて車体メーカーの地位向上に努力するつもりであった。
 その具体的な現れが、昭和48年から実施した車工会バン部会主催の「冷蔵冷凍車ショー」である。コールドチェーン熱が高まってきた折でもあり、車工会や車体メーカーの存在価値を示す絶好のチャンスと考えて、車工会バン部会長だった故山科隆氏に強く働きかけて、同氏の熱意によって実現したものである。

 ところが、このショーの第2回から車工会事務局は筆者を疎外するようになり、回を重ねるごとにマンネリ化が目立って自然消滅の形になった。
 筆者としては、車工会主催の「冷蔵冷凍車ショー」を拡大して「トラックショー」のような形にもってゆくことを考えていたのだが、山科氏も昭和54年には急逝、両者の共同作業の芽は永遠に消え去ったのである。

 さらに昭和55年、幻に終わった「トラックショー」の依頼に車工会事務局を訪ねた筆者に対して、北川泰一事務局長は「モーターショー」に対立する「トラックショー」などできる筈はない、と冷たく言い放ったことも忘れることができない。

 このようないきさつから車工会と筆者との縁はプツンと切れたままで、「トラックショー」は単独主催の形となったが、これは本来の意志ではなかったのである。
(つづく)
※ 野寺専務理事の「幽冥録」(S601月号)は後日、このブログコーナーに掲載します。(妙)



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みなさん さようなら

2016.08.22 06:00|「東京トラックショー」
2000年 「NewTRUCK」 9月号

まさに修羅場 不況と商用車ショーの挟撃
  (「商用車ショー」=「東京モーターショー商用車」)

小見出し
「修羅場と現場に弱い社長達」
「平和ボケで戦を忘れてしまった将軍と大名の末裔達」
「山本五十六は名将でなく政将である」
「渋沢栄一から松下幸之助までの指導者達」

 …以上の小見出し記事 略…
……
 これ迄5ページにわたって書いたのはいわば「序論」であって、これからが「本論」である。したがって、忙しい向きは、ここからお読み頂いて結構で、筆者の直接に体験したことをありのままに述べているので、こちらの方が読み応えがあると思う。或いは筆が滑るかも知れないが、事実は事実として書いているつもりであるのでご宥恕願いたい。

 昨年秋から今年にかけて、筆者はこれ迄になく精力的に、各社の社長に会い、接触を試みた。「トラックショー」に対して(社)自動車工業振興会(自工振)が、「東京モーターショー商用車」(以下「商用車ショー」と略称)をぶつけてきたことに対する自衛のための行動である。
 自工振側に言わせれば、商用車も含めて、日本の自動車ショーである「東京モーターショー」の開催権は自工振にある。「トラックショー」は一出版社が勝手にやっていることで、ぶつけるもなにもない、と言うだろう。

 「トラックショー」を主催する日新出版は「東京モーターショー」が余りにも乗用車に偏り、トラックユーザーを視野に入れていないのを批判して16年も前に「トラックショー」を立ち上げたもので、理屈になるぬ理屈をつけて、しかもこのトラック大不況の中に初めての「商用車ショー」を開催しなければならない理由はどこにある、という考えがある。





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みなさん さようなら

2016.08.18 06:00|「周作閑話」
2000年(H12) 月刊「NewTRUCK」 9月号 
周作閑話
座禅の形のまま死んだ鉄舟

……
 人間的には、海舟(勝海舟)、鉄舟(山岡鉄舟)より泥舟(高橋泥舟)の方が上だと思うが、今回は鉄舟に絞る。
……
 明治以降、慶喜は公爵を授けられて栄誉を回復、海舟は海軍卿などを歴任して伯爵、歯に衣着せぬ評論や座談で人気があった。鉄舟は各県知事などの後、明治天皇の侍従となり子爵、泥舟だけが一切世に出ずに終わった。

 4人の明治元年の年齢は海舟42歳、泥舟33歳、鉄舟32歳、慶喜31歳、歿年は鉄舟が52歳、泥舟68歳、海舟76歳、慶喜は82歳の大正に入るまで生きて、孫娘の高松宮喜久子妃を膝の上であやしている写真が遺っている。
 明治天皇の侍従となった鉄舟には、相撲で天皇を投げ飛ばして怪我をさせたという話があるが、鉄舟の語る事実は次の如くである。

 宮中での某夜、天皇は侍従達と議論しながら大盃で酒を飲んでおられたが、議論で負けの気配なので、鉄舟に坐り相撲を挑んだ。泥酔の天皇とまともに勝負もできず、さりとてわざと負けるのも天皇のためにならぬ、じっと坐っていると天皇は拳で鉄舟の目をついてきた、ヒョイと体をかわすとそのまま前に倒れて微傷を負われた。臣下達は鉄舟に謝れというが、逆に臣下と相撲を取ること、深酒を慎むことを諫言して天皇も諒承された。

 天皇に深酒を慎むべきと言った鉄舟の酒も相当のもので、30歳半ばから胃病に悩まされたが、剣禅書の修行は死の前日まで続け、前年から揮毫の書扇面は15万枚に及んだ。死の前夜、見舞客も退屈だろうし、自分も聞きたいからと三遊亭円朝を呼んで一席喋らせた。翌日、見舞いに来た海舟に冗談を言って座禅の形のままで絶命した。
 「全生庵」では円朝没後100年を記念して命日の8月11日に「円朝座」の特別公演があり、鉄舟の墓参も兼ねて行こうと思っている。


2000年(H12)8月17日 
「増田周作のおはようコラム」

円朝没後100年 墓のある全生庵での圓朝座

 山岡鉄舟が創建した「全生庵」で開催された「三遊亭円朝没後100年記念圓朝座」に行ってきました。江戸の昔から大名屋敷や寺社が多く、小高い地形で、上野にかけての傾斜地には庶民も住むという、江戸を縮めたような地域です。森鴎外もこの近くに住んで、その家を「観潮楼」といっていたから海も見えたのでしょう。

 地下鉄の千駄木駅で降りて、三崎(さんざき)坂を下る途中にある谷中(やなか)小学校の正面は大きな破風を持つ和式のつくりで、役所も粋なことをします。

 「全生庵」では先ず山岡鉄舟と、その脇にある円朝の墓にお詣りしました。もう臨終というその夜、鉄舟が円朝に命じて落語をやらせたことは先日のこのページに書きましたが、鉄舟死後12年目の明治33年(1900)8月11日に死んだ円朝は、鉄舟の傍らに葬られたのです。この日はちょうど円朝の祥月命日でした。

 中曽根康弘氏が首相時代よく座りにきて、「大道坦然」のその書が掲げられた座禅堂に円朝の遺影、遺筆、愛用の茶杓などが飾られ、円朝直系の5代目の弟子に当たるまだ若い三遊亭小田原丈さんが立派な献茶の作法を行った後、開演です。

 先ず、鈴々舎馬桜師匠の「敵討札所の霊験」があり、次が金原亭馬生師匠の「牡丹灯籠」でいずれも円朝創作の、複雑に入り組んだ長い因果の一部が演じられたのですが、その部分だけでも悪党の凄さ、因果の恐ろしさは十分でした。
 円朝という不世出の落語家がどうして生まれたのか、いま調べているところで、銀座松屋で開催中の円朝収集の「お化け絵展」も観にゆくつもりです。


みなさん さようなら

2002年8月15日(木)

昭和天皇最後の公務お出まし 
終戦の日の全国戦没者追悼式

 明治天皇最期のお出ましは昨日お伝えした東京大学卒業式臨御だったが、昭和天皇のそれは、昭和63年8月15日の武道館での全国戦没者追悼式ご臨席のためのものだった。那須ご用邸で静養中の天皇はヘリコプターでお着きになり、やっと手すりに掴まって降りられるお姿をテレビで拝見して、その余りのご憔悴ぶりに粛然としたものである。

 再びご用邸に戻られた天皇は、発熱があって、9月8日皇居にお帰りになり、間もなく病臥され、毎日輸血の救急車が皇居に急いだが、翌昭和64年1月7日崩御された。

 祖父に当たる明治天皇の時代は日清日露の戦いがあり、日露戦争で旅順を攻めた乃木希典将軍は大量の戦死者を出したお詫びに、天皇のご大喪に合わせて殉死した。その乃木将軍が学習院院長として最期の講義をしたのが、皇太孫時代の昭和天皇に対してであった。昭和の時代の戦争犠牲者は、一般市民をも巻き込んで、日清日露戦争の数十倍に達した。終戦後は、大元帥陛下としてではなく、平和天皇として国民の象徴の地位にあられたが、戦争の被害者に対しては、哀惜の念を持ち続けておられたと思う。陛下としての最期のご公務が、終戦記念日の全国戦没者追悼式であったことは意義深い。



今、読書は、前回の「明治宮殿のさんざめき」に続き、「女官 明治宮中出仕の記」を読んでいます。これも非常に面白く、お勧めの1冊です。(講談社学術文庫2016年7月11日発行 本体1,050円)アマゾンのレビューには、「初版は昭和35年、まだまだ明治時代を記憶していた人が多い時代にはかなり衝撃的な内容の一冊だったらしく…その後再刊されることが無かったのも稀覯本になった原因のようで、一時は古本市場で1,2万円ほどで取り引きされていたことを考えると、今回学術文庫に所収されたことで、読みたかった人には助かると思う。」とあります。(妙)

同書の中から―
 陛下がすこしお風邪気味のある日、つかつかとご前に出た藤波子が、「お上だって生きている人間ですぜ。御病気の時に医者の言うことをお聞きにならなきゃ駄目です。なあお上、なあお上」と、お返事のあるまでくり返しているので、さすがの陛下も、「うん」と仰せになりましたが、藤波子が退出してから、「あれはうるさい親父だが、わしが子供の時いたずらしてよくお蔵に入れられたのだ。その時さすがの一位(生母中山一位の局)もわし一人を入れて置くわけにも行かず、いつもあれがお供でいっしょに入れられたのだからね」と、御述懐になったこともございます。また、「習字は嫌いで仕方ないのだけれど、これだけ遊ばさない内はお食事は差し上げませんと、一位がそばに見張っているので、…一位がちょっとでも向こうを見たすきに、大急ぎで墨を塗って、どんどんまくってしまった。あの時分は真黒の草紙だったので、かえって都合がよかったよ」などと大声でお笑いに…
……
 小説というものは、作家の創作ですから、何をいってもさしつかえはないのでしょう。…ある本に、局の廊下に紫の紐があって鈴がついているとやら、私は一度も見たことがありませんでした。…まして明治天皇が誰かの局へなど、おいでになったなどとは、誰が何といおうとも、絶対に嘘だといいきります。
……
 御健康のためというのでお許しにはなりますが、やはり何となくお寂しいのか、このお留守中はとかくお上のご機嫌がよくないので、側近者は皆困りました。「皇后宮(昭憲皇太后)さんが弱いから、わしより早く死なれてはたいへんだ。一日でもよいから後に残ってもらわなければね。先に死なれては皆がわしを一人にして置いてはくれまいし、今時気に入るような女はないよ。だから体を大事にしてもらうために、海岸にも行かせるのだ」と仰せになっていました。




みなさん さようなら

2002年8月14日(水)

厳しい暑さの中、最期まで職責を全うした明治天皇

 内陸地帯の方が暑さが厳しくて40度近く、東京でも35度前後、例年にない暑さだとマスコミは報じている。環境汚染による地球温暖化現象などといわれるが、自動車も殆ど無くて、エアコンも全く使われていなかった明治時代でも、結構暑かったことをある本で知った。ドナルド・キーンの大作『明治天皇』(新潮社)の、第61章「明治天皇崩御」に出ているのだが、天皇崩御の明治45年(1912)の夏の東京は異常の暑さで、7月中旬には連日32度を越え、19日には34.5度を示した。

 かねて健康の衰えが目立っていた天皇は、この日昏睡状態に入り、30日崩御した。明治37年以来天皇は糖尿病で、2年後には慢性腎臓炎に罹り、身体の衰えが目立つようになったが、天皇は公務に一切手抜きをせずに、7月10日、東京帝国大学卒業式に臨幸の時には歩行もままならず、階段の昇降は軍刀を杖代わりにする有様だった。15日、枢密院の会議に臨御の天皇には、それまでに見られなかった姿勢の乱れがあり、三度も居眠りをした。既に身体的には限界状態に達していた上に、連日の酷暑が追い打ちをかけたのだろう。至高の職責を最後まで全うしようとした明治天皇にとって厳しい夏だった。


「明治宮殿のさんざめき」(文春文庫)の中から簡単に。
明治天皇が昏睡状態になられたのは7月19日の夕食時。孫の高松宮がお見舞いの記憶を日記に書いていた。臣下である二位の局、柳原愛子(やなぎわらなるこ・大正天皇の生母)が明治天皇の右手をしっかり握っていた。当時7歳、高松宮は柳原が実の祖母であることを知らず、臣下であるのに皇族をさしおいて、という違和感から記憶が鮮明なのだろう、とのこと。
明治天皇の崩御は、公的には7月30日午前零時43分。当時の内務大臣原敬の日記によれば、践祚に関わる準備に時間を要したので、実際には2時間前、29日午後10時43分。
明治天皇は生涯9万首余の和歌を作り、それらはいらなくなった書類の袋をご自分で切り開いて、その裏紙に書き付けていた。
詠み終えた和歌は机の上の、3,4個のボール箱の中に入れられた。ボール箱は、これも再利用で、三越製のワイシャツの空箱をそのまま書類の整理箱としていた。また、最も多くの和歌を詠んだのは明治37年、日露戦争開戦の年。“はからずも 夜をふかしけり くにのため 身をすてたりし 人をかぞへて”…
という情景が描かれている「明治宮殿のさんざめき」。今上天皇までと余りにも違う現皇太子殿下。マイホームパパの天皇は見たくないのですが。(妙)


みなさん さようなら

ご意見番 2011年8月1日
人生、時には中休みも必要。進んでガン検診を受けよう

 先日、スポンサーのS社、S社長55歳の訃報を聞いた。一昨年の「2009東京トラックショー」直後に身体不調を訴えて、その時には既に肺ガンが各所に転移しており、手術の方法がなく入院治療を続けていたのだと知らされて、暗然たる思いである。

 入院患者の多くはガン罹患者で、再発の患者も多いようだ。しかも私よりずっと年下、40歳代、50歳代の働き盛りが結構多い。
 ガン検診を受けよう、初期のガンなら完治の可能性がきわめて高い、と盛んに言われているにもかかわらず、まだまだ躊躇(ためら)っている人が多いようだ。働き盛りの年齢でガン宣告を受けるのは、人生設計の大きな障害になる、と考え勝ちだが、時には入院して中休みの落ち着いた読書、思索などの時間を持つことも長い人生では必要だと思う。

 85歳で初めて入院して体験したことだが、時には中休みが必要だと痛感する。中国の政治家、文人は、左遷されたり逆境におかれることで人間味に深みが増し、思索創作活動に進歩が見られて、一段と高い境地に到達している。
 私の場合、病気欠勤が1日もない一本調子で、人生最晩期の85歳まで働きずくめで来て、ようやく一服の入院という始末である。健康であったのは喜ぶべきことだが、10年に一度くらいの割合で入院生活を送っていたら、違った人生が歩めたかも知れないし、日新出版も変わっていたかも、と思うがもう遅い。

 長生きするだけが幸福であるとは決して言えないが、働き盛りの40歳代、50歳代で、ガン検診を受けずに手遅れになる事態は絶対に避けたい。ガン医療は日進月歩である。急速に進歩しているのは確実なので、進んでガン検診を受けよう。
 折角、親から授かった命、粗末にしては、先祖や両親に申し訳ない大不孝である。



みなさん さようなら

(毎週/月曜・木曜 更新)

7月28日に続いて―。
に日に新たに、日々に新たに、また日々新たなり(ヨコロ氏のHP「会社案内」より)
「タケノコだわぁ!」と言って大笑いした母は、「あの人(父)が見たら怒るわ、きっと」とも言ったのでした。

苟日新、日日新、又日新.。

この短い一文の中で、月刊誌発行人が2ヵ所(正=「」「又日に新たなり」)も間違えていいものでしょうか。
「ワード」でも「一太郎」でも、“まこと”と入力すれば“苟”に変換されるのに、不思議ですね。
彼がどうやって「」の字にしたのか、ホント、謎です…。(妙)


8月2日
(すい臓全摘手術は2011年7月27日 上の写真は8月2日)

2011年8月3日
順調に回復②

 静かな毎日である。ケータイは仕舞い込んであるし、日課だったテレビ体操と書も休業状態になった。病室にやってくる家族や社員が唯一の騒音元で、外界の様子は全くわからない。ろれつの回らぬ口で「外は暑いか?」と聞いたら、当たり前でしょ、という顔をされた。

 ベッドの足下からぐるりと囲う、カーテンで仕切られた領域が現在、私の食堂兼書斎兼寝室である。まさに「起きて半畳、寝て一畳」、方丈でもこうはいかない。こんな究極の居住空間で、子どもか孫のような年齢の看護師さんたちに脈をとってもらい、顔を拭いてもらい、変わりはないかと尋ねてもらう。

 流動食が続いていることもあり、腹に力が入らないし、点滴のチューブが繋がっている腕では、「文藝春秋」でも長く持っているのは辛い。そこで、一枚一枚バラして読むことにした。読み終えたら、ベッドの脇のくず籠へ入れれば良い。これはなかなか新鮮な読書方法だ、と気に入っている。読む時間も歩く距離も少しずつ延ばしていきたい。


2011年8月4日
順調に回復③

 昨日書いたように、力の入らない手で「文藝春秋8月号」のページを少しずつ破り取っては、読んだものからベッド脇の屑籠へ捨てている。自宅にいれば庭の緑や鳥たちが目を休ませてくれたが、今や、クリーム色のカーテンと壁が視界に入る全てだ。話し相手はいないし、栄養や痛み止めはつながれたチューブから入ってくる。一切のムダを省いて、思索と読書三昧の時間を過ごせるのも、病気になったおかげだと考えるようにしている。

 今号も、賛同と共に深く感じ入る記事があった。仙台に本社のある河北新報(かほくしんぽう)社社長、一力(いちりき)雅彦氏が「アイデンティティーの復興」と題して、1000年に一度といわれる3月11日の大震災以降、地元紙としての使命感で、どのように活動したかを綴ったものだ。
 政治家にぶら下がって、もらった材料だけを諾々と掲載しているような、大手マスコミの取材班では決して書けない、臨場感いっぱいの内容である。

 河北新報社は明治30年に創刊しているので、私が創業した日新出版は規模、歴史の上でとても及ばない。しかし、その精神では決して引けを取っていないつもりだ。トラック業界の地位向上のために、ひとり気を吐いて「トラックショー」を立ち上げたのも、Webサイトで毎日コラムを発信し続けているのも、現場主義、天命と思う「もの書き」としての精神からである。

※「もの書き」の家族になるものではない、とつくづく思います。見舞いに行っても「唯一の騒音元」と書かれますから。(妙)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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