みなさん さようなら

2016.09.26 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)
1999年(H11)月刊「NewTRUCK」10月号

30年400号の歴史(2)―②

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。


中川武治氏(1905~88) 元相互車輛(株)社長 近畿車体協会会長他

中川武治氏99年10月号

行くところ可ならざるなし のスーパーマン
 中川氏との対談をきっかけに車工会との間に大きな溝ができたのだが、それを埋めて余りあるものを私は中川氏から得た。
 相互車輛としての広告はこちらもお願いしたこともないし、一度だけご馳走になっただけである。何しろ、京都十条の相互の本社を訪ねるのが何時も朝の8時だったから、一杯やるどころではない。

 本人が小学校もろくに出ていないと言うくらいで、まさに身ひとつで自動車界というより京都の顔のひとりに迄登り詰めたのだから、叩き上げの標本のような人物だった。

 中川氏の生家は旧地主として羽振りを利かしていたらしいが、父親の放蕩ですべてを失い、小学校卒業と同時に染工場で働くことになり、ここで終生の業となったクルマと出会う。トラックの助手をしているうちに運転がしたくなり、18歳で自動車免許を取得した。その後タクシー会社を23歳で自営したというから、経営感覚は身についたものがあったらしい。支那事変に応召して除隊後に京都機械入社、車両工場長に就任したが、戦後経済の立ち直りの前で、経営は苦しい。そこで同志を募って資金を集めて、資本金50万円の相互車輛株式会社を設立、社長に就任した。時に43歳で、ここから中川氏の飛躍期を迎える。

 車体製作と自動車整備、自動車販売へモータリゼーションの波と本人の努力によって、事業はどんどん拡大していった。
 事業の拡大と共にいろいろな業界団体の役職も舞い込むことになり、持ち前の世話好き性格で、業界のまとめ役として欠かせぬ存在になっていったのである。

 朝8時、相互車輛の社長室に入ると、業界団体の事務局の人が書類の決裁を貰うために既に坐っている。私の前で、要領良く質問をしながら、決済印を押していく。何組もの人達が待っていることもあったが、それらはおよそ8時半ごろには終了して、後は私と話す。
 7時20分には出社というから、相互車輛の社員も、団体の職員も大変だったと思うが、この勤勉さは生涯を通じてのものであったらしい。

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みなさん さようなら

2016.09.19 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)
'99 10月号の中に、より詳しく野寺氏と車工会について言及した記事があったので、ここに掲載します。
9月19日と22日アップ分をまとめました。
木曜日更新をまだお読みでない方は、申し訳ありませんが下の≪続きを読む≫をクリックお願いします。(妙)


1999年(H11)月刊「NewTRUCK」10月号

30年400号の歴史(2)―①

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。


野寺哲二郎氏(1902~85) 元(社)日本自動車車体工業会専務理事
野寺氏H11年10月号
因縁の間柄
 最近の本は面白くなくなったという人がある。
 それも当然で、カンバン連載記事である『社長の軌跡(社長対談)』シリーズにしても、誌面に登場する前に、原稿の段階でチェックを受けているから、グサリと刃(やいば)を突きつけるような記事になるわけがない。

 昭和45年1月号に、前号で紹介した前田源吾氏との対談を皮切りに『周作対談(後に「社長の軌跡」)』はスタートした。レギュラー広告は殆どない状態だったから、スポンサーに対する配慮は必要なく、それだけ、読者には受ける記事が書けたのである。現在はあちらこちらに気兼ねしながらの記事で、商業専門誌の宿命とは言いながら、情けなくなることもある。

 その『周作対談』シリーズの第15回、中川武治近畿車体協会長、相互車輛社長との対談での(社)日本自動車車体工業会(車工会)への批判発言をそのまま掲載したものだから、ひと騒動起きた。その時の車工会専務理事が野寺哲二郎氏で、車工会との確執はその後も尾を引き、明年はトラックショーと東京モーターショー分離の商業車ショーで、正面対決する破目になっているのだから、その因縁は深くて長い。

 野寺氏が車工会専務理事に就任したのは昭和37年で、辞任の51年まで車工会の顔であり、これ程の存在感を持つ車工会事務方のトップはその前にも後にもない。

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みなさん さようなら

2016.09.15 08:00|「幽冥録」
1985年 月刊「NewTRUCK」 1月号 幽冥録

野寺哲二郎氏 元(社)日本自動車車体工業会専務理事


野寺氏1985年1月号
  上機嫌の野寺さん 昭和50年ころ

存在感のあった人
 野寺さんの訃報を聞いたのは、野寺さんが長く専務理事を勤めた丸の内、岸本ビルの日本自動車車体工業会の事務局であった。私は事務局の人達にとって歓迎されざる客のようなので滅多に訪ねないが、たまたま12月5日午後、田村慎一トラック部会長(浜名自工社長)と会う用件があり、そこで前夜4日9時半の永眠を知らされたのである。

 私は野寺さんをよく怒らせた。現役を引退されてからも、車工会のパーティの席上であからさまに敵意をむき出しにされたこともある。これは無理もない話で、私は車工会のあり方について容赦ない批判の記事を書き、その退陣を迫り、後任の事務局トップ人事のすすめ方についても指弾の手をゆるめなかった。

 この雑誌を創刊した市原富士哉氏は車工会や野寺さんのお世話になったことがずい分多かったらしい。いわば車工会の御用紙といった観のある雑誌が、市原氏から増田に変わった途端に牙を剥いたのであるから、激怒されたのは当然であろう。私は私で、車工会の言いなりになることは決して車体メーカーのプラスにはならない、という自負心があった。

 野寺さんは私より2まわり上の寅年(明治35年生まれ)、向こう意気の強い寅の歳同士とあって、その反発は余計に大きかったかもしれない。
 しかし、喧嘩ばかりしていたわけでもなくて、一度だけじっくり話し合ったことがある。昭和48年1月6日、本誌1月号の「周作対談」取材で、以前の岸本ビルの事務局だった。

 この時は上機嫌で、1月5日の自動車団体の賀詞交歓会は誕生日を祝ってくれているようなもの(同氏は1月5日生まれ)に始まって、車体業界の現状を語ったあと、趣味生活にふれて、川釣りをこよなく愛したこと、その釣日記には俳句も書き入れていることなど、風流人としての野寺さんの一面を覗かせるものだった。

 自動車、特にバスについて野寺さんは技術上の権威であったことはよく知られており、勲4等瑞宝章のほか多くの栄誉を受けている。
 優れた技術者であったことが、車体業界の技術レベルの向上に寄与した功績は大きい。
 しかし、人の活用という面では多少甘いところがあったように思われる。中川武治氏を盟主とする近畿車体メーカーの分離独立、その退陣に際しての事務局トップ人事など、車体工業会の活動に大きな影響を及ぼしたことだけに、野寺さんのために惜しまれる。
 もちろんこれは野寺さんにすべての責任があるわけでなく、車工会の会長はじめ理事などの役員に、より大きい責任はあったと思うが。

 野寺さんはそれなりのスケールもあり、車工会の声望を背負って立つところがあった。それは退陣後8年を経ても、多くの会葬者が12月6日の葬儀に参列して別れを惜しんだことにも現れている。謹んで冥福を祈る。


みなさん さようなら

2016.09.05 06:00|「東京トラックショー」
1986年 月刊「NewTRUCK」 12月号
すべてに恵まれた「第2回 トラックショー」と「デザインコンテスト」

悪役トラックで登場することがあっても、これほど明るく前向きにトラックが取り上げられたことがこれ迄あっただろうか。
車体メーカーも表面に出てきた。自動車メーカーやディーラーの下請けとして見られていた人達が堂々と胸を張って勇敢に、主体性を持ってユーザーと対している。「トラックショー」を軸に、流通面には大きな変化が訪れよう。
前を向くだけではない。あの苦しい時代、油なしで活躍した木炭車が登場したことは、豊かに満ち足りた世界に生きる人達にほろ苦い郷愁と、ある種の衝撃を与え続けたのである。

第2回TS 1986年
左: 向かって左から前田源吾全ト協副会長、増田周作、舞敏方加藤車体社長
右: 戦中戦後の苦しい時代の歴史を刻む「木炭トラック」


 湾岸道路の前方、富士山がくっきり見えてきた。一昨年の「第1回トラックショー」の初日の朝、同じ道を走った時は雨粒が窓を叩いていたが、11月11日、今日は快晴になりそうだ。
 会場はもう準備万端整ったかな、と思いながら開会式の挨拶を考える。第1回は折からの雨だったし、果たしてお客が来てくれるかどうか不安は拭いきれなかった。
……
 前回の特別出品はクラシック消防車だった。今度は代燃車の木炭トラック。人間は昔のことを忘れてひたすら新しさを追う。しかし、歴史を忘却して発展はない。「トラックショー」にしても、失敗に終わった昭和55年の屈辱、第1回目のあの不安、焦燥を忘れるようになったらもうお仕舞いだ。

 8時40分、晴海の会場へ到着。準備万端整ってはいなくて、テープカットの場所をどこにしましょう、などと聞きにくる。
 そのうち、テープカットをお願いした全日本トラック協会の前田源吾副会長、加藤車体工業(株)の舞敏方社長も相前後してみえる。前田氏は筆者が取材した中での最古参の方、舞氏は加藤の管財人に就任した10年前からのおつき合いで車体メーカーの社長さんの中では酒を酌み交わした回数の最も多い方である。舞氏は今秋の叙勲で勲2等瑞宝章を受けられたばかり、前田氏も既に瑞3を受章、当方は終生勲章に縁はないだろう。

連続ハプニングのテープカット
 定時9時半、開会式に入る。トラックショー会長として「前回の50社を大幅に上廻る80余社のご参加を得て盛大に開催できるのは、私の最も光栄とするところである。一昨年の第1回では意地や対立意識があって、トラックショーを成立させることに意義があると思ったが、今回はそれらは消え失せて、諸外国に比較して恥ずかしくないショーにしたいとひたすら念願した。準備期間が長かっただけに、その間の精神的苦悩は第1回よりはるかに大きかった。このショーに展示の車は最新の機能を盛り込んだ車ばかりであり、デザインコンテストには美しいトラックが登場するに違いない。しかし、これらのトラックは一朝一夕に出来上がったものでなく、ここに至るまで先輩は大変な苦労を重ねたきた。
 横田さんをはじめ三河木炭会のお骨折りで復元した木炭車を特別出品したのも、その苦労を偲ぶためで論語の中の言葉“温故知新”の意味を改めて噛みしめて戴きたい」と挨拶した。

 続いて、前田、舞両氏から過分の激励と期待、お褒めの言葉を頂戴する。この種のショーなどでみられる歯の浮くような儀礼的な祝辞でないのが身にしみて有難く、そして嬉しい。

 さてテープカット、厳粛な面持ちで3人がテープの前に並んだが、カットするためのハサミを誰も持ってこない。まさか会長がハサミを取ってきてお二人に手渡すわけにもゆかず、大きな声で怒鳴ることもならず、暫く待ったがそのまま、たまりかねて近くにいたアルバイトの女の子にハサミと3人分の白手袋を持ってこさせた。
 ところが左隣の舞氏が手袋をはめるのにモタモタしている。よく見ると、なんと右側だけがふたつ!5人分用意はある筈なので、持ってこさせましょうかと言うと、そこはさすが元北部方面総監、勲2等の貫禄で、いやこのままでと悠揚迫らず右手袋を左手にはめてテープカット。
 第1回では用意した造花が直前になって行方不明となって胸の花なし、今度はこの大失態、いやはや開会式はついてない。

84TTテープカット
1984年第1回のテープカット たしかに造花の胸章はありません(妙)


 前日朝早く、愛知県の岡崎市から到着していた木炭トラックにはこの車を復元した横田弘徳会長と鈴木光次工場長がつきっきりで、早朝からマキを釜に入れて始動の準備をして、このテープカットの直後に走り出した。
 マキなどの固形燃料だけで走るトラックは東京では30数年ぶりとか。TBSテレビの番組の「そこが知りたい」で取り上げるからブラウン管を通じて全国の視聴者にお目見えする日も近いだろう。

 場内を一巡して2階ラウンジで祝賀パーティ。乾盃の音頭は田村慎一浜名自動車工業(株)社長、第1回では出品者代表として、実に感動的な祝辞を述べたあとテープカットして戴いた。
 卓上にはこれも第1回と同様、まだ動いている鯛の活き造りが運ばれてくる。四国西南端の西南自動車工業の都築惣一郎社長は今年もショーを脇から支えてくれているし、調理にかけつけた板前の池田さんも一昨年のまま、人の輪は有難いものである。
…略…

何もかも初めてのデザインコンテスト
 車体メーカー社長懇談会が佳境に入りかけた頃、その反対側の特別室では商業車デザインコンテストの審査員の皆さんが、中食を取りながら打ち合わせを進めていた。
 デザインコンテストは当初の計画にはなかったことで、これ迄2回にわたってミシュランタイヤが主催した“商業車ペイントワークコンテスト”が今年も行われると考えていた。トラックショーと同時に晴海で開催できれば、お互いを盛り上げていいのではないか、と打診をしていたところ、7月末になって今年は中止するという。

 月刊誌で特集を組んだり、トラックデザインには大いに関心があり、やるかということになって住友スリーエムの協賛も取りつけた。それからが大忙し、審査員、司会の先生方の決定、参加車の募集、すべてが初めてのことだけに戸惑うことも多かったが、審査委員長に就任して戴いた深見幸男氏の好リードで開催に漕ぎつけたのである。

 司会をエノさんこと、榎本勝起氏が引き受けて下さったのが大成功だった。朝の早い筆者は5時半からのTBSラジオ番組“MMC榎さんのおはようさん~!”の熱心な聴取者で、番組2000回記念パーティにも出席した。三菱自動車を通じてお願いしたところ、たまたまその日の午後は空いているということで、この日は日野市の会合から駆け付けてくれた。

86デザインコンテスト
左: エノさん(榎本勝起氏)司会
右: BMWコミュニケーションセンターのステージ上で表彰式


 トラックショー出品車のなかの参加車両を先ず審査して、コンテスト会場となったショーと地続きのC館前へ。特設テント内の審査員席の前を22台の車が、軽妙なエノさんの司会、ナレーター長谷亜加子さんの甘いポイント紹介によって次々に登場、通過してゆく。まさにトラックのファッションショーで、BMW、キリンビールのステージカーが両横に陣取って大きく盛り上げている。風が強く、テントが根こそぎ吹き飛ばされるのではないか、と心配したが、無事終了。審査の進む間、エノさんのお話、第二の森昌子を目指す山中千景さんの歌で審査発表まで間をつなぐ。

 3時半、審査発表に先立って主催者としてステージカーに上がって、「今日は嬉しい日、トラックショーとコンテストを同時に開催、そして大ファンのエノさんと同じステージに立った」と挨拶した。
 東京湾がすぐ前の会場に夕陽が照りつける。グランプリ優勝で登場のサッポロビールのボデーが赤く染まって、その前でテレビ朝日の美人アナウンサーの取材を受ける。ハイ5秒前、翌朝ブラウン管に映るわが顔を見て、その余りの老けぶりに愕然、ドーランでも塗っておくんだった。
 お客の入りも上々だが、秋の暮れは早い。5時頃にはすっかり暗くなって初日は幕となる。


86デザインコンテスト 晴海
上: グランプリ受賞 (東部サッポロ物流)  グランプリ獲得の喜びを語るサッポロビール物流管理部岡田課長
下: ゴールドホイール賞 (キリンビール) スーパーイラストレイトの手法で500ml缶ビールをデザインしたステージ車 


下: 出品車両の一部photo
1986年12月号デザインコンテスト①

商業車デザインコンテスト'86・ノミネート車両
〈デザインコンテスト移動車両部門〉
◆アサヒカーゴサービス ◆アルプス産業 ◆エクシング ◆NTT ◆オカモト ◆環商事 ◆神田運送 ◆共同輸送 ◆キリンビール ◆群馬日産ディーゼル ◆今泉自動車工業 ◆山九 ◆寺岡精工 ◆東京コールドサービス ◆東京コスモ石油 ◆東部サッポロ物流 ◆トナミ運輸 ◆BMW Japan ◆日立エレベーターサービス ◆日立クレジット ◆日立製作所 ◆森永製菓 ◆リコーゼネラルサービス
〈トラックショー展示車両部門〉
◆愛知陸運(浜名自動車工業) ◆旭運輸(関東工業) ◆岩手雪運(坪井特殊車体) ◆極東開発工業 ◆キリンビール(日本フルハーフ) ◆新明和工業 ◆東信化学工業 ◆ハローポニー(千代田車体) ◆豊興運輸倉庫(関東工業) ◆万倉商事 ◆名糖運輸(加藤車体工業) ◆雪印物産(東光冷熱エンジニアリング) 


鯛の頭がお菓子に化けて
 ホテルに引き上げ、サッとひと風呂浴びてホールで待ち合わせ、1階の飲み屋に入ったが、サービスが余り好くなくてビールの乾杯程度で道路を挟んだ離島センター1階の“土佐自慢”へ。ここのマスターも社長も土佐は土佐でも、筆者とごく近い所の出身で話がはずみ、酒がはずむ。
 鯛の頭は何十もすべて捨てた、要るなら明日取りに来い、といっても初めは本気にしなかったが、翌日、翌々日、ちゃんと受け取りに来た。恐らくその夜のメニューには鯛の兜煮、アラ煮が登場したことだろう。鯛がお菓子に化けてショーが済んでから事務所に届いた。


※ ここで人物紹介 … 榎本勝起さんとテープカット手袋の御仁、舞敏方氏
 舞敏方氏については、2016年6月20日アップの「加藤車体工業 ドキュメント」後半部分〔更正会社としてスタート〕もご参考に。(妙)

榎本勝起氏  2000回を迎えた“榎さんのおはようさん~!”

榎本氏
 “ノド”で勝負する人間には歌手などさまざまあるけれども、榎さんこと榎本勝起氏の場合、単にノドというだけでなく、勉強と努力の勝負、体力の勝負といった面が強い。
 そのことは月曜から金曜までの朝5時半から1時間番組の“榎さんのおはようさん~!”を聞いている人にはよく分かっていると思う。それだけにファンも多くてキー局のTBSラジオを始め全国に 350万人もの聴取者がいるという。

 スポンサーの三菱自動車の広報室からご案内を受けて、5月23日夜、TBSで開催の2000回記念パーティに出席したのは、わが社にとってもスポンサーの三菱自工への義理立て、というより、榎さんのファンのひとりとしてお祝いを言いたかったからである。

 その語り口からしてもっと若いと思っていたのに、私といくらも違わない昭和4年生まれと知らされたのは大きな驚きだった。逆三角形の厚い胸、つややかな顔色、大正末年生まれの私を除いて、当夜の出席者中では最年長、である筈なのにこの若さはどうだ。ジョギングや狩猟で体を鍛えると同時に、万巻の書を渉猟して巷談(こうだん)奇談珍談のネタ集めをするという頭脳鍛錬も若さを保つ大きな要因だろう。
 三菱トラックのPR番組というだけでなく、ラジオ放送の国民番組として、1日を迎える人々に力強い励ましの声を与え続けてほしい。 
1986年「NewTRUCK 7月号」

舞 敏方 加藤車体工業社長  勲2等瑞宝章受章
舞敏方氏
 秋の叙勲で舞敏方加藤車体工業(株)社長が勲2等瑞宝章を受章した。
 関ヶ原の戦いの西軍石田三成の部将舞兵庫の血を引いて、厳父舞伝男氏は陸軍中将、敏方氏も昭和18年陸軍大学卒、終戦時は陸軍少佐、参謀本部参謀、昭和27年陸上自衛隊に入りアメリカ日本大使館付き防衛駐在官などを経て、北方の守りの最高ポスト、北部方面総監に就任した。その功績によって今回の受章となったものである。

 退官後、昭和51年、加藤車体工業(株)管財人、53年に代表取締役となり、陸軍、陸上自衛隊で培われた見事な統率力は、車体メーカーの管財人、経営者として発揮され、同社を、昔日をはるかに上回る現在に導いた。
 大正5年生まれ、丁度70歳。泰然自若とした酒もまた絶品で、時に同席させていただくのは、筆者の喜びのひとつである。
1986年「NewTRUCK 12月号」

2日目も好天
 2日目の朝、今日も天気はいいようだ。それほど寒くもないのは何より。
 ずい分いろいろな方が見える。健忘症のほうなので、挨拶をしたあとでも、ハテどこの会社の人だったか、と思い出せない方もずい分ある。相手にすれば、筆者のような憎体(にくてい)なアクの強い男は一度会ったらなかなか忘れられないだろうが、お会いする方は皆さん善人ばかり、しかも数が多いのだから一度お会いしただけで覚え込むことは至難である。
 ずい分失礼した方も多いと思うので、この欄を借りてお詫びしておく。

 人の流れはなかなか切れない。第1回の時は、時に淋しいこともあったが、今回は満遍なく入っているようだ。説明員の人達も大変だろう。男女のアルバイトがそれぞれの持ち場で頑張っていた。皆よくやってくれたし、いい若者だった。

西南自動車・木炭車

左: 日野自販からのお誘いで訪問したときの西南自動車・都築社長 (1984年4月)
右: 横田自動車工業が参考出品した木炭車


龍馬に似いちょる 銀座の夜
 薄暗くなった会場を後に東京駅上のルビーホールへ。日貨協連の青年組織がトラックショーに合わせてセミナーを開催しているので、顔を出すように依頼されていたもの。
 「トラックショーに見えるお客さんの所属団体は大体全ト協、自販連、車工会で、この3つの団体はいずれもまとまりの悪いことで定評がある。若い皆さんは組織によりかかるという考えを捨てて、自分達で組織を盛り立ててゆく心構えが必要、人と人との結びつきを大事にしてほしい。」と挨拶したが、お昼からのセミナーの疲れからか、私語をしたり行儀の悪い人達も見受けられた。人の話を聞くマナーも若い人には大切だろう。50人ばかりの会合。

 晴海にとって返し、ホテルで同宿の西南自動車工業と島内自動車の男女7人を連れて、わが女房と銀座の日本料理の店に行く。
 西南は活鯛を千匹近く運んできた。都築社長は今回は来られなかったが奥さんと事務の女性と男性2人、島内は高知から代表者親子ともう一人、愛媛の西南端と高知からはるばる来てくれたのである。出品ブースも隣り合わせ。

 島内さんは目が少し悪い。暗い所からいきなり明るい所へ出たりするといけない、と息子さんが介添え、親子の情景がいい。
 一日中、魚の匂いにつきまとわれていた皆さん、魚はもういいと、店の名物である“かしわ”を牛乳で煮る“飛鳥鍋”をつつきながら談笑、昨夜に続いてすっかり田舎弁になってしまって、ぐいぐい飲む。あんたは顔つきも話し方も坂本龍馬によう似いちょる、と島内さん、龍馬は120年も前に死んだ。駄ぼらを吹くところ、やはり土佐の人である。

課題を残してフィナーレ
 雲が垂れ込めているが、どうやら今日一日は持ちそうだ。9時過ぎ会場へ入るともう団体のお客さんが見えている。青森からのようだ。
 いよいよ3日目最終日、来場者の波は好調である。TBSが木炭車を取り上げるとかで朝から録画取り、横田会長も大張り切り、放映は12月に入ってかららしい。
 万倉商事の金本社長に誘い込まれて、同社のテントで一杯、缶入りの酒に小さな棒をさし込むと忽ちお燗がつく不思議な酒を初めて飲む。

 夕刻までお客の足は落ちなかったが、4時過ぎると各ブースでは撤収の準備が進められる。
 5時10分前、南館受付前で簡単な閉会式。
 「準備期間は長かったが、始まってしまえばアッという間の3日間だった。大体予想どおりの成果であったと思う。ここまで来たトラックショーがこれからも増田周作、或いは日新出版の単独主催であっていいかどうか、課題は大きい。」と挨拶したあと盛大な拍手を戴く。

 トラックだけに撤収作業は早い。忽ち屋外から車の影は幻のように消えて、会場跡はくろぐろとした夜の闇に包まれてゆく。

 木炭車はトレーラで帰っていったが、横田会長は今夜は東京泊まり。第1回ショーからどうお礼を言っていいか分からぬほどのご支援を戴いた※東信化学工業の日野専務の車に横田会長と同車して、銀座のホテルへお送りする。78歳の横田会長は木炭車が東京に出て、沢山の人に見て貰ったことを大変喜んでおられた。木炭車復元に意欲を燃やしたご本人にはまた格別の感慨がおありなのだろう。明日はバスに乗って、東京の街を見ます、とおっしゃる横田会長と別れてすぐ近くのわが社へ。ショーは終わった。
(おわり)

※ 1984年の「第1回トラックショー」出展申込書、第1号は東信化学工業でした。(妙)






みなさん さようなら

2016.09.01 06:20|「東京トラックショー」
下の色紙は、2011年9月21日に書いた「無為」です。すい臓摘出手術から2ヶ月後の文字で、どこか弱々しい感じですね。
8月22日から今回までアップの原稿は、なぜ日新出版主催の「トラックショー」を自工会、車工会が後々まで目の敵にしたのか。また、分離した「東京モーターショー商用車」を「トラックショー」開催同年にわざわざぶつけてきた理由がよくわかる記事です。この後も、車工会側が日新出版を排斥するショー「ボデーショー(仮称)」の構想を練ったこともあり、また別の機会にご紹介します。(妙)

無為

1986年(S61) 月刊「NewTRUCK」 12月号
組織としての業界団体の力と限界 ②

「無為」が最良の手段であることも多い
 「トラックショー」参加企業は関連部材を除くと殆どが車工会メンバーである。ショー初日の「全国車体メーカー社長懇談会」の出席メンバーもまた数名を除いて車工会員で、車工会の総会や大会に顔を見せないトップ層が多かった。
 このふたつの行事に車工会事務局は全く関与していないし、出品者代表としてテープカットをして戴いた舞敏方加藤車体工業(社)社長は、車工会の役員としてではなく、筆者の尊敬する長老としてお願いしたものである。

 これほど会員企業からその存在を無視され切った業界団体は皆無であろう。
 この原因は業界団体である車工会と絶縁して独自の行動を取る業界誌の主張に、多くの会員企業が同調したことから起こったもので、この事実を以て、車工会に対する反逆とか、車工会無用論につながると見るのは当たらない。
 自工会の下部組織として車工会を位置づけるトップや事務局からは「トラックショー」の発想は絶対に出てくるものではないし、どこか別の世界の出来事くらいの認識しか持ち得ないとしても当然だろう。
 筆者は何代目か前の車工会会長である青木正信氏(元日産車体社長)とお話した意外に歴代会長とほとんど口を利いたことがない。事務局はそのような機会を作ろうともしないし、こちらから頭を下げて会うのもバカげている。要するに、車工会なり車体メーカーの存在を大いにPRしようという意図を持ち合わさないトップや事務局なのである。

 こんな車工会の業界活動では一般の車体メーカーが気の毒だ、何とかしなければの思いが「トラックショー」の実現につながったわけだが、案外車工会のトップや事務局は立場上の限界を知って、一切の制約を加えずに、黙っていて、それで暖か「くトラックショー」を見詰めていてくれたのかも知れない。「無為」が最良の手段であることも決して少なくはない。

トラックメーカー抜きの「トラックショー」
 「トラックショー」になぜ自動車メーカーは参加しないのか、報道関係者はじめ実に多くの人から質問された。
 常識的に考えれば「トラックショー」はトラックメーカーが参加していないのはおかしいのである。海外の同種のショーを見てもトラックメーカーはすべて参加している。

 自動車メーカーの参加お断り、と言った覚えは全くないのであるが、自動車ショーは自工会の別働隊のような(社)日本自動車工業振興会(自工振)の主催する「モーターショー」以外には認められない、という建前がある以上、自動車メーカーとしては参加のしようがないのである。
 物流展とか建設機械化展とかいった自動車が主役でなくていわば添え物のような場合ならいいのだが、自動車主体のショーではダメということらしい。

 昭和55年に「トラックショー」を計画したときには自工会に協力を求めて拒絶され、ショー自体が挫折した。従って、自動車メーカー抜きで考えなければ、「トラックショー」成立の芽は全くないことになる。
 昭和59年の「第1回トラックショー」の時は自工会はじめ一切の官庁、団体に対して後援あるいは協賛のお願いをしなかった。協力依頼をしなければ協力拒絶を食うこともない。

 日本にはさまざまのショーがあって、特定企業主催の場合を別とすれば、業界団体が関与しないショーは皆無といって過言ではない。直接主催か間接的に後援協賛に廻るかは別として、業界団体が協力しないことには業界のショーは成り立たない、と考えるのは当然である。
 その常識をぶち破って「トラックショー」が成立するかどうか。向こう見ずでは人後に落ちない筆者も悩み抜いた。

 自工会の態度はわかっている。自動車メーカーは当然参加できない。車工会も協力しない。問題は車工会メンバーである車体メーカーの動向である。車工会は自工会のように独自のショーを持っているわけではないから、「トラックショー」への参加拒否を会員に強制することはできない。自由意志に任せるほかはないのである。

 自工会がどう出るか、車工会を通じて車体メーカーに不参加を働きかけるのではないかとも考えたが、これをやり切れる役者が車工会にはいないから、この線はないだろうと楽観した。
 結果から言えば、自工会側は自動車メーカーの参加しない「トラックショー」など成立する筈がない、と考えていたフシがある。「まさかトラックショーが出来るとは…」。直接間接に自動車メーカーの多くの人の言が耳に入ったのは事実だ。

“まさか”の「トラックショー」が実現して
 筆者は昨年春から全国のトラック業者約千人を訪ねる“とらっく人国記”シリーズを開始した。「モーターショーのトラックショーに行ってきました」「昨年はモーターショーの乗用車だったから今年はトラックですね」などと言われることはよくあったが、筆者が「トラックショー」を主催する張本人であると知っていたのは皆無に近かった。
 まさか、目の前にいる男が、と思うのも無理はないのだが、これからは多少違ってくるかも知れない。
 “まさか”の「トラックショー」が成立して、第1回より第2回が盛大になってみると、自工会なり自動車メーカーも、あれは日新出版と一部の車体メーカーが勝手にやっていることで、我々にはなんら関係はない、とばかり言っておれない事態が生じてきた。

 トラック業者や荷主が「モーターショー」の商業車館を見るか「トラックショー」を見るか、その選択は彼等に任されているのである。彼等にとって、主催者がどこであろうが、要するに見たいものを見せてくれるショーであればそちらに行く。
 「モーターショー」と「トラックショー」の双方に参加した車体メーカーの担当者達はお世辞も含めて、「モーターショーとは全然手応えが違います」と語っている。
 さらに、「トラックショー」来場者の中でキャブに関心を示した人が殆どなかったという事実も注目されねばならないだろう。出展が車体メーカー主体だから、ボデー主体のレイアウトになっているのは当然としても、この事実がトラックの流通面に与える影響は決して小さくない。

組織の強さ、弱さ
 組織はその構成員を保護すると共に、拘束もする。車工会は十分な保護とリードもできなかったが、拘束もしなかった。自工会は協力依頼を拒否することによって、いったんは「トラックショー」開催を阻止したが、協力依頼をしないという肩すかしで「トラックショー」の成立を許して、トラックメーカー参加を難しくした。
 その結果、車体メーカー主導の「トラックショー」となったのだが、自工会にとってこれは望ましい形なのか、やむを得なかったことなのか。

 自工会が日本を代表する自動車産業の総本山であるのは言う迄もない。いわば最強の業界団体であり、組織である。
 その自工会の意に反して筆者は「トラックショー」を成立させた。といっても、自動車メーカーと事を構えるつもりはさらさらないし、「トラックショー」のPRに威力を発揮した特別号では、トヨタを除く自動車メーカーの協力を得た。
 組織はそれに頼ろうとする人にとっては力強い存在だが、その力をあてにしない者に対しては時として無力である。
 自工会と車工会、強弱ふたつの業界団体のはざまに立って「トラックショー」は成立したのである。
(おわり)



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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