みなさん さようなら

2016.10.31 06:00|その他月刊誌記事
1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』 11月号

30年400号の歴史(3)―⑩⑪

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。
最終回は黒木元宮崎県知事を除いてすべて故人で、レクイエム(鎮魂)として捧げる。


松永義正氏 日本軽金属(株)名誉会長
松永氏

テープカット: 左・前田源吾全日本トラック協会副会長  右・松永義正日本軽金属名誉会長 

日軽金難局打開に真価を発揮

 リストラ大合唱の現在で、役員給与カットなど珍しくもないが、社長給与を3年返上して、という例は余り聞かない。
 その実践者が松永義正氏で、私がお会いしたのはずっと後年、『人に四季あり』シリーズ取材で随分長時間にわたってお話を聞いた。お陰で日軽金だけでなく、日本のアルミ事情については少し理解を深めることができた。
 日本のアルミ精錬は、オイルショックの原油価格高騰による電力料金値上げで立ち行かなくなったのだが、ちょうどその時期、各社は精錬工場の大増設に踏み切ったばかりで、厖大な投下資金は宙に浮く形になった。
 特に最大手の日軽金は他の財閥系と違って専業であり、その打撃が深刻だった時に矢面に立ったのが松永氏で、給料を返上して体当たりで難局を打開した。安岡先生について学び、苦難の時に人間はいかにあるべきか修行したことが大いに役立った、とはご本人の弁である。

 森繁久弥氏とは早稲田の同門で、葬儀にも一周忌の偲ぶ会の集いにも参列、松永氏の幅広い交友の輪の一人で、その時に配布された追悼集『敬愛の友』の題字も森繁氏の筆になるもの。

 増田さんの言う無理なら何でも聞いてあげる、の言葉に甘えてお願いしたことが二つある。ひとつは松永氏が理事を勤めていた交詢社入社の紹介者になって頂くことで、二つ返事で、あとひとりの中山一郎元日軽金社長と共に署名した書面をご自分でお持ち頂いた。もうひとつは、'92トラックショーに出品者代表としてのテープカットと、その後のクラシックトラックの運転。早稲田の自動車部で鍛えたハンドルさばきは健在だった。

92クラシックトラックパレード
テープカットのあと、クラシックトラックのパレード うち2台は前田氏と松永氏の運転
ご両人とも60年前後の運転歴を持つ ('92年トラックショー 晴海会場)

 わざわざ日軽金清水工場にご案内頂き、日本平のホテルで遅くまで酒を酌み交わしたのも懐かしい想い出である。
(平成7年11月4日 80歳)


安田良治氏 (株)安田鉄工所(現ヤスダファインテ)会長
安田良治氏
右から 安田良治会長 ジョンストン氏(ノースウエスト航空パイロットで当時アメリカ乳業機器メーカー代理人) 安田允也社長 紺野極東CP社長 平野専務 (昭和35年8月16日)

経営者にして優れた房総の歌人

 タンクローリなどステンレス容器メーカーの経営者としての顔と、歌人安田稔郎としての顔があり、歌壇ではよく知られた存在で「嶺岡」「成層圏」などの歌集もある。
 安田氏の生まれ育った千葉県は昔から酪農が盛んであり、また伊藤左千夫とその弟子古泉千樫などの歌人も出している。安田氏は古泉千樫に歌の指導を受けて、家業と、歌づくりの両面に若い時から精を出した。
 安房鴨川の同社の工場の近くにある嶺岡の牧場にご案内頂いて、いろいろお話をお聞きしたのはもう26年も前の早春の頃だった。私が歌のことを多少は知っていると思ったのか、古泉千樫についていろいろ話して、全く知らぬとも言えず、適当に相槌を打っていた。
 牧場では、このあたり昔は馬市が立って沢山の人が集まり、婿取り、嫁取りの祭りと言われたものだ、と想い出を語った安田氏はゴルフも大好きで、そのクラブでお茶を頂いたりした。
 もう、引退して悠々自適の日々だったが、若い時には経営上の苦労もいろいろあったようだ。

   日歩2銭2厘を2銭に負けさせて 貸越通帳持ちて帰るなり
   つぎつぎに体当たり決済の時期ありき 何となく今試算表を見る

次の歌は夫妻の機微をよく描写して余すところがない。

   あやまちも無くて罵らるる家妻の 狎(な)れては我にかかはらず居り

 安田氏は晩年、喉頭ガンが舌ガンに移り、言葉が出なくなった。門人達が歌碑を建設した時、心情を歌に託した。

   癒えきらぬいたみかかへてあへぎつつ 生きつづけおり何時までか続く
(昭和59年3月10日 81歳)



 
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みなさん さようなら

2016.10.27 06:09|その他月刊誌記事
1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』 11月号

30年400号の歴史(3)―⑨

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。
最終回は黒木元宮崎県知事を除いてすべて故人で、レクイエム(鎮魂)として捧げる。


原 乙未生(とみお)氏 元陸軍中将
原中将
エッケナー博士と原少将
昭和4年、日本を訪れた巨大な飛行船ツェッペリン号には設計者エッケナー博士も同乗していた。昭和16年訪独した原少将(当時)を招待して、日本を訪れたとき、霞ヶ浦近くの旅館で実に温かいもてなしを受けた、今でもそのことは忘れない、とねんごろなお礼の言葉があったそうである。
(写真中の右がエッケナー博士、中央原少将、東京駅上空のツェッペリン号)

陸軍の機械化に尽力した戦車の権威

 30年400号の歴史の中では、時おり奇妙な特集が出現する。その中でも極めつけは、昭和50年8月号の終戦30年記念特集号だろう。
 先ず、表紙が74式戦車を載せた東急製73式特大型製セミトレーラと牽引する三菱NW―204型トラクタ。対談が「陸軍機械化への道」と題する原乙未生元陸軍中将と増田で、その上、陸上自衛隊第七師団を見学した第3回「呉越会」の記事まで入っているという、まさに軍事一色に塗り潰された特集号だった。

 原乙未生中将のことをどこで耳にしたか記憶にないが、陸軍士官学校を卒業してから東大工学部機械科に再入学したというバリバリの技術将校で、日本の敗戦の後も戦車研修団を率いて欧米を視察するなど、戦車その他についての技術の第一人者であった。

特装車とトレーラ758月号
「特装車とトレーラ」 1975年8月号
表紙と記事中45ページに掲載された74式戦車 & 水中を渡渉する74式

 対談は新橋にある兵器工業会の一室で行われ、この時原中将は80歳、過去の記憶を辿りながら、実に克明にご自分の経歴と、陸軍機械化の曲折に満ち満ちたお話をして頂いた。3時間に及ぶ対談は、疑問の点をさらにお聞きして、私なりに関係写真を挿入、実に25ページに達した。

 「日本のトラック産業が、民需というより軍の保護育成により発展したのだが、中国の戦線ではまだ馬が主な輸送手段として活躍していた。馬じゃ戦力にならん、機械化を考えなければと論文を書いたら、たまたま産馬奨励運動の最中で、危うく筆禍事件になりかけた。日本は戦車に使うディーゼルエンジンでは先進国であったが、工業力の差で大きな戦力になり得なかった。陸軍機械化の障害になったのは階級が上になる程、クルマや機械のことがわからなかったことで、指揮ができなかった。量産するだけの工業力が備わっていないなどの理由で、陸軍の機械化は失敗だったといえる。」
 原中将は切々と果たせなかった機械化への夢を語り、陸軍という日露戦争の教訓がまだ生きているような組織、未熟な工業生産力で戦争に突入せざるを得なかった悔恨が私にも伝わってきた。この対談記録は、防衛庁にも保存されているそうである。

 原中将は終戦前、広島に赴任していて、原爆で夫人と子供3人を失われた。それから30年、原中将はその淋しさを紛らわせる手段で始められたものか、漢詩に巧みで、漢詩集を贈って頂き、年賀状には毎年の新作が付け加えられていた。
(平成2年11月 95歳)




みなさん さようなら

2016.10.24 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新 )
黒木博元宮崎県知事の記事は少し長いので、またの機会に掲載することにしました。
下記の記事にもあるように、今回登場の桑原氏に加賀料理でもてなされたことについて、そのお心遣いが身にしみて有難かったと母は今でも感謝の言葉を口にします。また前回の小笠原氏に関して、上京したての頃、ただ原稿受け取りの用で訪問した自分に、小笠原氏ご本人がきちんと上衣を着て応対して下さるのがホントに嬉しかった、といいます。(妙)


1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』 11月号

30年400号の歴史(3)―⑦⑧

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。
最終回は黒木元宮崎県知事を除いてすべて故人で、レクイエム(鎮魂)として捧げる。


桑原太郎氏 日野自動車販売(株)常務
桑原太郎氏’99年11月号

妻を力づけて頂いた広報のトップ

 荒川、小笠原、桑原の3氏がこの欄に登場するのは、それだけ日野自動車とのご縁が深かったということだろう。各メーカーと平等におつき合いしなければならないのは私の立場として当然だが、人と人との問題になると、理屈どおりにはいかない。“情”が絡むのもやむを得ないし、一人とのご縁が二人、三人と拡大してゆくのも、自然の成り行きである。

 桑原氏は、広報担当のトップとして私を最も早く理解して頂いた方だった。
 車体メーカーは規模も小さくて、前号に紹介した中川武治元相互車輛社長のように、トップとさしでお話しするチャンスはかなり初期の頃からあって、理解者は広がっていったのだが、当時も今も、自動車メーカーには広報とか宣伝とかのセクションがあってガードは固い。名もない零細業界誌ともなれば尚更である。
 その中で、桑原氏は広報や宣伝に顔を出したのを見かけると、ご本人の方から私の方に出向いて、何やかやと話しかけられることが多く恐縮したものである。

 昭和44年に先ず単身で上京して妻子のいる大阪との間を往復しながら月刊誌の基盤を固めてゆき、もう餓死することもあるまいと、家族を呼び寄せたのが2年目の昭和46年の秋、それから程なくして、女房と私を品川のホテルの加賀料理の店に呼んで下さった。
 亭主について東京に出たものの、どうなるか前途はわからないという不安の時期に呼んで頂いたのだから、女房は東京にも良き理解者はいると大感激、ボロ家での電話番にも励みがついてきたらしい。
 この欄に紹介した日野の小笠原氏の原稿も女房は受け取りに行ったが、素晴らしいセンスの方だとベタ褒めだった。

 桑原氏からはその後も、文集を頂いたり、絵画展にお招き下さるなど、以前の日野に見られた文人的色彩を強く持った方で、度の強い眼鏡姿が懐かしい。
(平成2年9月16日 74歳)


西岡昭氏 フジタ自動車工業(株)常務
藤田利太郎氏 フジタ自動車工業(株)社長
藤田・西岡氏
左: 藤田利太郎氏
右: 西岡 昭氏

フジタを今日あらしめた絶妙のコンビ

 社長と常務というより、オヤジと番頭という表現の方がピッタリの二人だった。
 その人懐っこさと技術に明るい営業マンとして西岡氏は絶妙であり、利太郎社長は、その天分を大いに発揮させていた。これ程の名コンビは車体メーカーだけでなく、一般の企業にも滅多にいない。

 海軍機関学校在学中に終戦を迎え、地元の四国電力に就職している西岡氏を藤田利太郎社長が迎えたのは昭和31年、フジタ自動車が溶接屋から車体の方へ移ってまだ間もない頃だった。利太郎社長がなぜ西岡氏に目をつけたのか、知るよしもないが、二人ともオトキチ、オートバイ狂で、その縁によるものらしい。まだ若い利太郎社長と少年のような西岡氏が、オートバイに乗る姿での写真が残っている。

 二人のコンビでフジタは快進撃、ダンプローダや自動歩みは、折からの建設ブームで四国のフジタを全国区にまで押し上げた。
 高松が本社のフジタ自動車には、郷里土佐への往復の途中でもあり、実によく訪ねたし、西岡氏もまた東京に出張した時にはわが社に必ずといって良い程立ち寄っていた。車体メーカーの人で、西岡氏ほどわが社の人間と親しくつき合った例はない。日新出版は西岡氏にとって東京のオアシスのようなものであったと思う。
 トラックショーを決行すべきかどうか悩み抜いていた時に、やろうよ、とけしかけてくれたのは西岡氏だったし、出品を決定したのは利太郎社長だった。西岡氏の根廻しがあったのは当然だが、利太郎社長は西岡氏の顔を潰すようなことは決してしなかった。

 平成4年の半ば頃から、歩行が少しもたついているし、酒も弱くなった感じで、本人は足の骨折のせいだと言っていたが、脳の方に原因があったらしい。夏ごろから入院、容態は好転することなく10月12日永眠した。10月14日葬儀の、利太郎会長の弔辞は哀切極まりないものであった。
 「昭和31年、常務を迎えた時には百万の味方を得た想いで…いま40年来の無二の親友と別れるのはまことに悲しい。運命のいたずらと思いながらも残念でならない。」
 西岡氏を失った後の利太郎会長は心なしか淋しそうで、広大な新工場を見ることなく、急死した。

 大企業で、優秀な人材が数多く集まっている場合にはその中から選抜してゆけばいいのだが、中小企業で、しかも創業間ぎわで、忠実にして有能な番頭を得ることはきわめて難しい。二人の出会いはまさにその稀有の例で、天の絶妙な配剤であったとしか思えない。
(西岡昭 平成5年10月12日 64歳)
(藤田利太郎 平成6年8月6日 78歳)


みなさん さようなら

2016.10.20 06:00|その他月刊誌記事
1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』 11月号

30年400号の歴史(3)―⑤⑥

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。
最終回は黒木元宮崎県知事を除いてすべて故人で、レクイエム(鎮魂)として捧げる。


小笠原裕己氏 日野自動車販売(株)専務取締役
小笠原裕己氏’99年11月号

創業時に文筆で助けてくれた恩人

 新聞社が志望だった、と言うとおり、達意の文章を書く人だった。
 トラックの専門月刊誌を出しながら、トラックのことは殆ど知らなかった私を助けてくれた恩人である。小笠原氏と初めて出会ったのは昭和45年の秋だったと思う。既に29年も前のことで当時日野自販の開発部係長、まだ30歳代の少壮気鋭のかけ出し管理職だった。なぜか気が合って、早速原稿を依頼して、翌年の1月から連載が始まったのが『トラック戦線異常あり』シリーズである。
 大形虎夫のペンネームでメーカー各社の客観的に軽妙なタッチで描写した原稿が届くと、その数字に合わせたグラフを私が描いてインレタの地模様を貼り付けていったのも今は懐かしい想い出だ。各社を平等に扱っていたように見えて、どことなく日野びいきが垣間見えたのも当然だろう。

「特装車とトレーラ」1月号
B5版 月刊 「特装車とトレーラ」 昭和46年1月号
(資料は自販連、新車登録日報による)
「……
 いささか野次馬根性で当事者であるメーカーには申し訳ないが、今月から月毎のシェア変動を統計を示しながら論評してゆきたいと思うので、“乞うご期待 ご愛読”である。」
1月号第1回『トラック戦線異常あり』末尾より

 昭和40年代後半は、日野が快進撃を続けて大型トラックの王座を確立した時期で、筆の運びもはずんだと思われる。
 連載は3年間続いて、その後、小笠原氏はトラック販売の苛烈な戦線で累進して専務取締役に至った。血で血を洗うような戦場の指揮を執ることが小笠原氏の望むところであったのか、或いは組織の中に住む人間の宿命として受け止めていたのか私にはわからない。

 リタイヤーしたら、もう一度、別の立場から本誌に寄稿して貰いたいと考えていたが、その日は訪れないで終わった。病魔が肉体を奪い去ったのである。
 病勢が革(あらた)まる少し前、奥さんとわれわれ夫婦と交詢社で会食したが、食欲もまだあって、話も大いに弾んだ。
 もし、天が小笠原氏に閑日月を与えていればと思うと残念でならない。
(平成9年7月29日 62歳)



岡本利雄氏 いすゞ自動車(株)相談役
1990年3月号 岡本氏
                                  月刊 「NewTRUCK」 平成2年3月号

白秋の中に消えていったGMとの提携推進役

 現役社長当時の岡本氏は全く知らない。
 お近づきを願ったのは『人に四季あり』という、いわば人生の春夏秋冬を体験した方を対象にした対談記事の取材を通じてであった。人生は草木の芽生える春からスタートすると考えがちだが、母の胎内にある何も見えない暗い時代、つまり玄冬(玄はクロ、玄米などという)からスタートして、青春、働き盛りの燃え立つ朱夏を経て、澄み切った白秋の中に消えてゆく。
 詩人のペンネームにもなったこの白秋に当たる人達を訪ねて、それ迄の人生をふり返って貰おうという企画で、私は大いに乗っていた。もう一度再開しても良いと思っている。

 岡本氏は、いすゞ自動車の社長を勤めた人で、かつてトラックの王者として君臨した同社も、10トン車への取組みの遅れ、乗用車への固執などで苦境に立った。この欄に登場した日野自動車の荒川社長が、乗用車の打切り、トヨタとの提携で同社躍進の基盤を築いたのと対照的だ。

 その苦境の活路を岡本氏はGMとの提携に求めた。現在も、いすゞとGMは強い絆で結ばれているが、海外のメーカーとの提携で最も成功し、長く続いているのは両社である。もっとも、その前には日産などとの提携を試みているのだが。
 『人に四季あり』の取材が終わった後も、大森のいすゞ本社の相談役室に伺うことが多かった。ゴルフも一流、清元も名取、文章もよく書いて、社内報に連載したものは『皆さんと共に』上下2冊にまとめられた。清元仕込みか、声の凄く高い人で、家に観音様が何体もあり、事務室にも1体あった。

 遺言で、社葬にするなと指示したのもいかにも岡本氏らしい。今ではもう見られない戦前に学業を終え、社会人となった経営者の人間像が懐かしい。
(平成8年10月30日 88歳)




みなさん さようなら

2016.10.17 06:00|その他月刊誌記事
1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』 11月号

30年400号の歴史(3)―④⑤

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。
最終回は黒木元宮崎県知事を除いてすべて故人で、レクイエム(鎮魂)として捧げる。


臼井栄次郎 氏 小平産業(株)社長
臼井社長

老病死を考えさせてくれた罹病(りびょう)の経営者

 小平産業のある栃木県の小山市は現在でこそ東北新幹線の駅もできて便利になったが、その前の在来線の頃の小山往復は1日がかりに近かった。
 それでも年に2回、或いは3回、小平産業を訪問したのは、ただ臼井社長にお会いするためで、営業上の理由でもなく、取材でもない。

 若い頃は村角力も取り、大酒家でもあった人が、晩年は糖尿病に罹って、酒も禁じられ、視力もどんどん落ちていった。読書家で、大きな天眼鏡で字を拾っていたが、それも段々かなわなくなり、私の顔も、終わりの頃は判別できなかったようである。
 お昼にかかった時など、小山の街の鰻の店に、常務をしていた高瀬時康氏と一緒に連れて行って頂いたが、私に飲め飲めと言いながら、ご本人はほんのひと口の盃の酒を、本当においしそうに嘗めていた。自宅では禁じられていたに違いなく、飲むというより嘗める楽しみの一刻を私が参上することによって持てればいいではないか、そう考えていた。

 私の声はよく記憶していて、耳を傾けて一所懸命に話を聞こうとする姿勢には心打たれるものがあり、またお伺いしてお話ししなければと思ったものである。週1回の人工透析が2回になり、3回になり、入院先に伺ったこともある。
 職業柄、数え切れない人との出会いがあったが、段々症状が重くなる不治の病を抱えた現職の社長と、数年にわたって交流があったのは臼井社長ただおひとりだった。

 生老病死、人の身に起こることは明日のわが身だが、健康な人達との社会生活の中にいると、ついそのことを忘れ勝ちになる。臼井社長とのご縁は、病の兆候が鮮明になる頃から深くなったという希有の例で、病と死にどう立ち向かうか、毅然として対応していたお姿が思い出される。
(昭和61年5月20日 72歳)


大角富男 氏 日本トレールモービル(株)(現日本トレクス)総務部長
大角氏

別れを告げに突然訪ねてきた無二の酒友

 死の予感のようなものが、人間を信じられない行動に走らせたり、テレパシーが伝わると聞く。大角氏の場合がまさにそうだった。

 名古屋から東京への出張の帰途でもあったろうか。夕刻、何の前触れもなく、ふらりと風のように銀座の事務所を初めて訪ねてきた。外に出ようと、東京駅の地下街で3時間近くも飲んで話して、双方とも相当に酔いが廻って、駅の改札口まで送ってゆくと、このままでは大阪まで乗り過ごしそうだから、名古屋止まりの最終便にするという。おかしいなと思いながら、すぐ近くのホテルのバーの止まり木で、1時間過ごして再び改札口で送ったのが最後になった。

 その後、「呉越会」で私が中国に行っている間に大角氏は脳溢血で倒れ、病院で亡くなったのだが、自分で電話を取って救急車を呼び、奥さんにも「覚悟しておけ」と言葉を遺したという。最期の気力を奮い立たせた総務部長らしい気の配りようである。
 中国から帰国後、お宅に弔問したら、これ迄訪ねたこともない遠い親戚のところに出かけたり、それ迄は放っておいた庭木の剪定をしたり、不思議なことの連続だったという。
 名古屋の金山橋の近くにある日本トレールモービル(当時)の事務所には、名古屋出張の時、或いは関西に出かけた帰途、下車してまで訪ねたこともある。

 酒を酌み交わした友は、私自身が酒徒であるだけに数え切れない程あるが、仕事を完全に離れて心ゆく迄気持ち良く飲めたのは大角氏だった。それだけ飲んだが、広告出稿にはきびしく、没後に却って良くなった。公私のけじめはきちんとつける人であり、私もその要求はしなかった。
 書道を習っていて、遺品の1本を貰い受けたのが、今も机上の筆架に下がっている。
(昭和60年10月14日 60歳)




みなさん さようなら

2016.10.13 06:00|その他月刊誌記事
1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』 11月号

30年400号の歴史(3)―③

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。
最終回は黒木元宮崎県知事を除いてすべて故人で、レクイエム(鎮魂)として捧げる。


碇谷福松 氏 碇谷自動車工業会長
碇谷裕雄 氏 碇谷自動車工業社長

碇谷社長
鎮守の夏祭り いなせな碇谷裕雄氏

職人肌オヤジと多趣味息子の取合せ

 後継者が先に逝くという悲運に見舞われた父子である。
 福松氏はボデー業界の草創期に、外車のシャシに、お客の好みに応じた乗用車の架装からスタートした。トラックボデーに本格的に取り組んだのは戦後からで、下町の工場地帯で地域の世話役としても活躍していた。典型的な下町の工場主、オヤジさんというタイプで、小柄な身体をよく動かしていた。

 福松氏が職人肌であったのに対して、息子の裕雄氏はややボンボン的なところもあり、ゴルフ、釣り、読書も半端ではなく、クラシックカメラのコレクションも相当なもの。趣味の中でも一番熱中していたのが碁で、福松氏も打ったが、裕雄氏には3目か4目程度の棋力だったと思う。私もよくお邪魔して、父子と石を並べたものである。

 そういう裕雄氏だったから、会っても余り仕事の話はしない。車体業界には珍しい、ゆったりとした趣味人であった。
 もし、車体メーカーの家に生まれなければ、どこかの先生でもして趣味生活を楽しむのだが、と本人から聞いたこともある。何かと心労の多い車体メーカーの経営は心身を蝕むことが多かった筈だが作業服を着て現場に立つなど、精一杯の努力はしているように見られた。

 平成6年の夏ごろから体調を崩して、入院すると既に手遅れだった。その訃報は出張先の松江で聞き、山陰の詫しい町で飲む酒は切なかった。

 既に90歳に近い福松氏の悲嘆ぶりは察するに余りがあったが、現役に戻ってもとの意欲を示したと聞いた。裕雄氏の令息修氏が3代目社長に就任、立派に会社を経営している。福松氏はほぼ4年後に天寿を全うして大往生を遂げたが、ほのぼのとした父子との出会いであった。
(裕雄氏 平成4年9月 61歳)
(福松氏 平成8年12月 93歳)


みなさん さようなら

2016.10.10 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)
大きく引き伸ばされた対局中のこの荒川氏の写真は、長い間日新出版事務所に飾ってありました。(妙)


1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』 11月号

30年400号の歴史(3)―②

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。
最終回は黒木元宮崎県知事を除いてすべて故人で、レクイエム(鎮魂)として捧げる。


荒川政司 氏 日野自動車工業(株)相談役
荒川氏-

文人粋人行くとして可ならざるなしの名経営者

 名経営者であり、粋人で、文人的素養も十二分という現在のトップには見出すことが難しいタイプの人物であった。
 ひそかに、荒川さんを目標に置いたこともあるが、経営手腕は足元にも届かず、氏の得意とした連句を巻くなどの芸当は理解の外で、碁では三目も置かされ、軽妙洒脱な文章は真似ができない。さらに野球のルールさえ知らぬ超スポーツ音痴の私に対して、学生時代は陸上で鳴らし、スポーツ解説にも一家言を持っていた荒川さんに、ひどいコンプレックスを感じないことはなかった。

 やっと、プレジデント社から『今こそ論語』を出版して一矢を報いた時には、既に幽明境を異にしていたから、この世では百般、わが身の不能不才を思い知らされる存在であった。
 東京下町のやんちゃ坊主がそのまま大人になった感じもなきにしもあらずだが、その玉成には人一倍の努力があったことは想像に難くない。

 例えば、その戒名には碁の別称であるところの爛柯(らんか)が付けられる程の碁キチであり、また強くもあった。実に考え考え抜いて石を置く超長考派で、ノータイムで石をばら撒く私とは好対照だった。3目置きながらも、勝利は目前と思われた時に、当方の失着を咎めた長考の一石によって局面を覆されてしまった悔しさは忘れられない。報復戦を考えないでもなかったが、その長考を思い出すと、断念せざるを得なかった。

 碁では長考派だったが、経営上は長考派ではなくて果断であったという。乗用車生産の放棄とトヨタ自動車との提携、天野千代吉氏とのコンビによる大型トラックトップへの道を切り拓いた点で、日野だけでなく、トラック界の巨人であったと思う。
(平成7年2月6日 83歳)


みなさん さようなら

2016.10.06 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)
肩書きは1999年秋当時のものです。(妙)


1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』 11月号

30年400号の歴史(3)―①

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。
最終回は黒木元宮崎県知事を除いてすべて故人で、レクイエム(鎮魂)として捧げる。


赤司新作 氏  (株)矢野特殊自動車元社長
赤司氏’99年11月号

負託の任を果たした異色の経営者

 車体メーカー経営者としては異色の人であった。
 元々、法律労務コンサルタントとして戦後の労働運動の嵐に揉まれた矢野特殊の創業者矢野倖一氏に依頼され、矢野入りをした。矢野氏ご夫妻に信頼が厚く、その期待に応えて、矢野特殊をよく守り、現在の発展への基盤を築いた。
 その自負もあったのかも知れないが、相当のワンマンぶりで、現社長の矢野羊祐氏はじめ、矢野家の人達には相当きびしく当たっていたようである。倖一氏の負託に応えて、経営者として大成して貰わねばならぬという使命感がそうさせたのだと思うが、経営者育成方法として、それが正しかったのかどうか。

 昭和54年には「第6回 呉越会欧州自動車視察セミナー」にご一緒した。ちょうど20年前のことだが、斎藤治三浜名自動車工業(現浜名ワークス)常務、この蘭にも登場する西岡昭フジタ自動車常務、山科喜彦いすゞ特装開発社長、そして赤司氏の4名が、鬼籍に入っている。

 初めのうちは、赤司氏とよく行っていたのだが、この「呉越会」の後、少ししてから両者の間柄はぎくしゃくしたものになった。両者とも個性が強い方で、反発するところがあったのだろう。トラックショーについても批判的で、赤司氏が社長の間は東京モーターショーへの出品はあってもトラックショーへの参加はなかった。日本自動車車体工業会(車工会)のバン部会長などもしていた赤司氏には、トラックショーは車工会をないがしろにした行動だと映ったのであろう。
 政治家の山崎拓氏を中央政界に送り出すのに尽力、赤司氏の葬儀には参列して切々たる弔辞を読んでいたことが記憶に残る。
(平成7年9月23日 75歳)


みなさん さようなら

2016.10.03 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)
1999年(H11) 月刊『NewTRUCK』9月号

30年400号の歴史(1)―①

1世代とは30年をいう。
30年のうねりの中で、出会いの縁に恵まれた多くの人々との間にはそれぞれドラマがあった。
それは遠い昔のようでもあり、昨日のことのようにも思える。忘れ難き人々で綴る30年史である。


山科隆 氏(1925~79) 元車工会バン部会長 川重車体取締役
山科隆氏 ’79年8月号
業界のことを殆ど知らない筆者にとって山科氏(左)はよき指南者であった。アメリカの商業車の実情を聞く。
(昭和45年2月)


トラックショーの先駆「冷蔵冷凍車ショー」決断
 青天の霹靂としか表現の仕様のないその死であった。酒は好きだったし、また強かったが、まさかあのような形で最期を迎えることになろうとは全く予想もできなかった。

 徒手空拳で私が東京に出て、この仕事を始めてすぐの頃、一番頼りになったのは東大法学部を出て川崎航空機入りし、川崎重工に合併後、自動車事業部の企画部長に就任、それまでのスチールやアルミのバンボディとは別のFRPサンドイッチパネルを引っ提げて、ヤクルトに採用されるなど、意気当たるべからざる勢いであった頃である。
 同年輩という親しみもあったのだろうか、たったひとりでちっぽけな業界誌を切り廻している私を何くれとなく面倒を見てくれた。最初に会ったのは昭和45年の早い時期で、その前年の10月に山科氏が(社)日本自動車車体工業会(車工会)の米国自動車業界視察団の団長として訪問した成果を聞くのが目的だった。

 東京に出て僅か半年足らずで、日本のトラック産業のことも十分に呑み込めていないのに、いきなりアメリカの最新情報に接触したのだが、まだ若かったから海綿が水を吸うようにその知識は吸収されていった。
 ちょうどその頃、日本のトラックは大きく変わりつつあった。高度成長を支えたダンプなどの建設型車両や、物資輸送のアメリカのアオリつき平ボデートラックは既に成熟段階に達して、量的拡大はあるもののその分野からは記事や広告の対象になる新しい車種の開発は殆ど見られなくなっていたのである。

 その一方で、昭和30年代の末期に、アメリカのバン・トレーラ技術に直結する軽金属メーカー系の日本フルハーフや日本トレールモービル(現日本トレクス)が相次いで創立されて、車体分野に新風を吹き込んでいた。
 名神・東名高速道路の開通、海上コンテナ上陸、長距離フェリーの就航などが相次いで、物流環境が大きく変貌しつつあるその時期に、いわゆるボデー屋の枠から超越した指導者山科氏を知った意義は限りなく大きい。

 昭和48年に第1回を開催した「冷蔵・冷凍車ショー」は、私の提言を受けた山科氏の決断により開催に漕ぎつけたもので、彼の指導力、実行力がなければ実現は不可能であったと思う。その山科氏も当初はなかなかウンとは言わなかった。自動車の展示会としては(社)自動車工業振興会(自工振)が主催する東京モーターショーがあって、その中に山科氏がバン・バス部会長を勤める(社)日本自動車車体工業会(車工会)のブースもある。自動車の大がかりな展示会を仕切るのは自工振だけだと思い込んでいる自工振に対する遠慮もあったろう。

 車工会がやらなければ私がやる、と迄言い切ったことで山科氏は踏み切ったのだが、この頃の自動車車体通信社は私ひとり、従業員も事務所もない、一匹狼みたいな気概だけは強く、それで押し切っているところがあった。この年にはメーカー関係者約30名を集めて「第1回呉越会セミナー」を開いている。(「呉越会」と命名したのは翌年の第2回宮崎セミナーから)

 「冷蔵・冷凍車ショー」は昭和48年3月16日から3日間、神宮外苑絵画館周辺で開催された。まだ肌寒い頃でコート姿の見学者も目立ったが、事務局や出品関係者のショーに賭ける意欲は熱かった。私自身も山科氏に決断を迫ったいきさつもあり、自動車メーカーへの出品勧誘や、運営企画、ガイドブックの作成に至る迄できるだけの協力はしたつもりである。
 出品車約50台、機器だけの展示もあり、冷蔵・冷凍車のごく限られた車種での展示会であっても、わが国初の商業車ショーとしては大成功であった。

 その成功に気を良くしたのか、第1回の反省をすることもなく、第2回以降、毎年開催の方針を打ち出して先細りとなり、数回で消滅してしまった。私が相談を受けることも第2回からなくなっていたのである。野寺哲二郎車工会専務理事と私との確執があり、事務局側として私に協力を求めることを潔(いさぎよ)しとしなかった事情もあったと思う。

 車体メーカーの地位向上が月刊誌の充実にも繋がると信じて、「冷蔵・冷凍車ショー」をきっかけに、他の車種も参加する総合トラックボデーショーとして拡大させてゆくことを考えていた。
 ところが、「冷蔵・冷凍車ショー」は車工会バン部会の単一車種の枠に止まって、それを発展させようとする意図は全く持っていなかった。第1回は成功したとしても単一車種で、毎年同じパターンの展示会をするのは無理で、新製品がそれ程続々と登場するわけがない。
 こうして、山科氏との間に距離を置くようになっていった。

 山科氏との初めての出会いから8年後の昭和53年、私自身が団長として「第5回呉越会セミナー」でアメリカ西部、中部、東部までの大視察を敢行し、翌昭和54年には、山科氏はバス部会長として車工会員を率いてヨーロッパを視察、私もまたそれを上廻る陣容で「第6回呉越会欧州セミナー」を実施した。

 山科氏が不慮のアクシデント(転倒)で急死したのは同氏が欧州視察から帰国した直後だった。それはお互いに気の強い者同士がライバル関係に立ちつつあった時期に相当する。トラックショーは「冷蔵・冷凍車ショー」の教訓の上に成立したものでもある。山科氏が存命なら、その前に大きく立ちはだかったか、或いは良き協力者となったか、前者なら手強い相手だった。

「第6回呉越会 欧州セミナー」 大歓迎を受けたスカニア社、日章旗の前で記念撮影
呉越会 スカニア訪問




プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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