みなさん さようなら

2017.01.30 06:00|その他月刊誌記事
1971年(S46) 月刊 「特装車とトレーラ」1月号

周作対談
 その11 柏原忠治氏
 (株)多田野鉄工所 常務取締役 
 日本自動車車体工業会理事特装部会長

忙しすぎる日本人

(国電浜松町に接してそそり立つ世界貿易センタービル30階の多田野鉄工常務室での対談。このビルの対談は、昨年4月号の川崎重工の山科氏に次いで2度目。眼下には、浜離宮公園から、東京湾、新幹線、国鉄、高速道路が一大パノラマのように展開する。このビルには33階に極東開発機械工業、15階に川重自動車部、11階に萱場工業が入っており、このビルを訪れると、半日は費やされる。)

増田 今年は自動車業界にとっても大変な年になりそうです。特装車はこれまでも過当競争などずい分問題の多い業界でしたが、今年は、これまでにもましてそういう問題の決着をつけなければならないし、また、特装業界を取り巻く客観情勢は、否応なしにこの問題にピリオドを打つよう迫っているようにも思います。この大事な年に、車体工業会もこれまでの任意団体から法人格をもって社団法人になり、ますますその活躍が期待されています。特装部会長として柏原さんのご意見をお伺いしたいと思います。
柏原 私の立場は微妙ですからねえ、周りからご覧になれば色々ご不満もあるでしょうが、各役員、事務局の皆さんもよくやっていると思いますよ。ただ、構成メンバーが、色々なメーカーが寄り集まっているということは、活動の上でどうしても統一性を欠きますね。
増田 これは車体工業会の大きな特長ですね。
柏原 小型もあればバスもある、特装、特種からトレーラもできました。特装とひとくちに言っても、ミキサもあればダンプも、粉体輸送から。
増田 クレーンもあるし、ローリもありますよ。
柏原 それぞれの車種で事情が違う、これも分科会などを行って処理しているのですが、ともかく多種多様のものが入っているのです。

ひどいミキサ
増田 車種も多いのですが、同じミキサでもメーカーによってその姿勢もまた大きく違いますね。大きく分けると専業メーカーと兼業メーカーでしょうが、兼業メーカーでもそのウエイトがそれぞれ違いますし。
柏原 ミキサはたしかにひどい。工業会でも取引の正常化問題で話し合うのですが、各社の事情が違うのでなかなかうまくゆきません。
増田 私など、取材にゆきましても「止めたくて仕方ないんだが、メンツもあるし、仕様がないからやってるだけだ」なんで言ってるメーカーもあります。メンツで商売はできないと思うんですけどもねェ。(笑)
柏原 会社全体の売上げからすると、大したウエイトを占めていないところが多いですから。
増田 兼業でなくて、片手間にやってる、だから少々安くなっても大したことはないと思ってるんでしょう。それで飯を食わねばならんとなれば考え方も違ってくるんでしょうが。ミキサの売上げで損益分岐点が動くなんてところはあまりありません。川重さん、宇部さん、新潟さんあたりそうですし、萱場さんでも油圧機器の方が圧倒的に多いですからねェ。

 

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みなさん さようなら

2017.01.26 07:26|その他月刊誌記事
日本車について、寄稿者さんのちょっと面白い記事が見つかったので、掲載します。(妙)


1990年(H2)月刊「NewTRUCK」12月号

世相巷談
日本車は良くなった  大谷 健(元朝日新聞編集委員)

 私が大学を出て新聞社に入ったのは昭和27年4月、配属されたのが名古屋経済部。だからすぐトヨタ自動車担当となった。そのころトヨタも朝鮮特需で息を吹き返し、乗用車へも本格的に取り組んだ時代だった。

 しかし、その頃の日本車の性能は、乗用車もトラックもアメリカ車にはるかに遅れていた。私の先輩で満州の自動車輸送隊の将校だった人の話では、兵隊は日本車をいやがり、フォードなど外車を好んだという。なぜなら日本のトラックはすぐ故障をおこす。エンコしたところをゲリラに襲われるのはヤバイ。その点アメリカのトラックは安心だというのである。これでは日本は戦争でアメリカに勝てるはずがなかった。

 戦後、新聞社に外車割当があった。ガラの悪いチンピラ記者が外車を乗り回していたから、「パッカードに乗った森の石松」といわれた。しかし当時外車は取材上必要だったのである。ワンマンといわれた吉田首相は、仕事が終わると大磯の自邸に帰った。外車で、いわゆるワンマン道路を飛ばすのである。
 新聞社は首相にぴったりくっついて時々刻々の動静を見守る「吉田番」という若い記者を置いていた。その場合、都内ならともかく、外へ出れば外車でないと引き離されてしまう。ワンマンは新聞記者に意地悪だったから、しんしゃくしてくれないのである。

 国産乗用車の生産が軌道に乗ってくると、日本の自動車会社は輸出したかったし、それもアメリカ市場で売ってみたかった。トヨタは昭和32年8月にトヨペット・クラウン2台をアメリカに送り、モーターショーに出展してみた。そうすると「ベビー・キャデラック」と呼ばれ、評判が良いのである。
 それで調子に乗って輸出してみたら、散々悪評を買った。出足が悪くて、インターチェンジから高速道路に入ろうとしても、ぐずぐずしている間に割り込むすきがなくなる。何とか高速道路に入ってスピードを出すと車体が浮き上がってしまう。「これは自動車でなく、飛行機だ」といわれる。日本自慢のトヨペット・クラウンも「トイペット(おもちゃ)・ジャップ・カー」と笑われた。

 無理もない。日本には当時本格的なハイウェイがなかった。昭和31年に建設省の招きで日本の道路事情を視察したアメリカの道路専門家ワトキンスに「日本に道路予定地があるが道路はない」といわれる状態だった。
 同じ昭和31年春、朝日新聞の辻記者がトヨペット・クラウン・デラックスによるロンドン―東京5万キロ・ドライブを企画した。当初トヨタはもし途中でエンコされたらと心配したようだが、砂漠やけわしい山道を乗り切り、無事日本にたどりついた。日本車は悪路に強いのだが、アメリカではハイウェイを走るのが車である。当時日本車はハイウェイを走れなかった。トヨタは34年12月で輸出をいったん中止した。

 当時を知る古い自動車記者の私には、今の日本車に対する世界的な高い評価にはびっくりしてしまう。ことし1月、チェコでスコダ自動車工場を見たが、工場長は「スコダはトヨタより早く乗用車をつくり始めたのだが、今ではすっかり遅れてしまった」といい、そうさせた「悪い体制」をのろっていた。でもスコダさん、頑張れば日本に追いつけますよ、日本人がやったのだから。


みなさん さようなら

2005年01月22日
社会の公器「木鐸(ぼくたく)」の使命を自ら放棄
恥じない朝日とNHK

 NHKの放送番組に政治介入があったとの朝日新聞の報道に、NHKが反発した泥仕合が続いている。問題になった平成13年1月のNHK放送を見ていないので、内容についてはまったく知らないが、産経新聞によると、12年12月に東京・九段会館で6日間に亘って開かれた市民団体による「日本軍性奴隷制」を裁く『女性国際戦犯法廷』を取り上げたもの。主催は元朝日新聞記者の故松井やより氏が代表を努めていた「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」で、韓国や北朝鮮などの元慰安婦や各国の女性活動家が集まり、法廷の趣旨に賛同する者のみが傍聴を許され、判事団は欧米の女性法律家たち、検事団は中国や韓国、北朝鮮の代表で構成されていたが、弁護団はいなかった。被告は昭和天皇やいわゆる戦犯とされた死者たちで、昭和天皇は「強姦と性奴隷制」の責任で有罪とされた。

 事実であるとすれば、相当にひどい内容の番組で、果たしてNHKの教育番組で放送すべきかどうか、水掛け論を繰り返すより、もう一度再放送して、国民の評価を聞いてみるべきであると思う。

 NHKであれ、朝日新聞であれ、天下の公器であり、その報道は公正であると信じている一般市民は多いが、私自身はまったくそうは思っていない。はっきりした事実関係は別にして、論調などは相当にぶれていることが多くて、特に朝日の論調は、最近でこそ多少は修正されたものの、かつてはソ連、中国、北朝鮮の体制を謳歌し、東京軍事裁判の結果を金科玉条のように国民に信じ込ませる役割を果たしてきた。

 今回の泥仕合は、朝日の主張に沿った『女性国際戦犯法廷』のNHK番組に対して、政治権力の介入があったと、安倍晋三氏や中川昭一氏などの名前を挙げて大々的に紙面を割いて朝日が報道、NHKもこれに応酬しているが、本質を取り違えているのではないか。

 元朝日新聞記者が計画し、朝日新聞も後押しした『女性国際戦犯法廷』をNHK教育番組に取り上げたところまでは、朝日の偏向した企画にNHKも乗っかっているのである。 一部の跳ね上がった女性たちが、どのような政治的動きをしようと規制することはできないが、NHK教育番組が取り上げたことが適正だったかどうか、なぜ今になって朝日が取り上げたのか、反朝日的立場にある安倍晋三氏への牽制か、きな臭さも感じる。

 論語に「木鐸(ぼくたく)」の言葉があって、社会の乱れを正す言論の重要性を孔子に託しているが、NHKと朝日の応酬は「木鐸」の使命を自ら放棄して恥じないものである。




みなさん さようなら

2017.01.19 06:00|その他月刊誌記事
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 12月号
パリモーターショー・見る・読む  おわり
誇り高きアメリカのトラッカー達は現代のフロンティアである

トラックは文化である
 本社主催の'90トラックショーで筆者は、ショーの目的はトラック輸送の効率化追求とトラック文化の形成であると挨拶した。
 実はこの「トラック文化」という言葉はこのパリモーターショー・ガイドブックの中で見出したのである。
 “アメリカではトラックは文化である”。はっきりとそう書いている。そして、トラッカーを美辞麗句で賛美する。事実、アメリカの平原や荒涼たる砂漠地帯のフリーウェイを走って、堂々と疾駆するトラディショナルトラクタとトレーラを見ると、まさにこれこそアメリカの文化そのものである、といった感じを受ける。

 著者のR・デラハエは書いている。
 長距離ドライバーはわれわれを感動させる。力と男らしさ、そして好ましさとマシーンを一体としたのが彼らだ。
 彼らは偉大である。
 彼らはヒッチハイカーを拾うし、キャブの中は彼らの“道路の上の住まい”に他ならない。
 長距離トラッカーはかつての“道路の人”、馬車の馭者や郵便屋さん、そして近い時代ではSLの運転手達の後継者で、開拓者であり、隊商である。
 勇ましい彼らは因習世界の外にあって、野生アメリカのパイオニア、ポニーエキスプレスの馭者、ゴールドラッシュのスーパーマンで、現代のカウボーイである。

 トラッカー達と、200万台のターボディーゼルの“モンスター”がなければ、アメリカ経済は全くのお手上げである。政府が彼らのストライキを非常に恐れている原因はここにある。
 ジェリー・マローンというありふれた“スーパートラッカー”は230kmの時速を達成したし、4通8達(しつうはったつ)したフリーウェイを彼らは150kmの時速で突っ走っているが、神が守り給うのか、事故は殆どない。
 ベアー(熊)と呼ばれる機動隊員も彼らを恐れる。彼らはお互いにCBラジオを通じて取り締まり情報を交換して60マイル(96.5km)の制限速度を無視して突っ走る。

酒と女、そして靴
 アメリカのトラックを日本やヨーロッパのそれと比較すると、エンジンは古風で、人々を夢の世界へ誘う。
 そのトップにあるのがフレートライナー、ケンワース、ピータービルトで8万ドルから10万ドル(1040万円~1300万円、1ドル130円換算)で、インターナショナル、マルモン、キャタピラー、ホワイト、デトロイトディーゼルなどもある。
 彼らはそれをバッファローと呼ぶ。
 前に大きく尽き出したボンネット、上に伸びた排気管など、空気抵抗についての配慮は全くない。
 それはあく迄も“オーダーメイド”で、バロック教会やフレスコ画にも似て、エロチシズムに満ち、遠い西の神話、武勇のシンボルでもある。
 トラックデコレーションはトラッカーにとって欠くべからざる儀式のようなものである。何の飾りもないトラックなど考えられない。

 夕闇迫るトラック・ストップ、それらは街外れにあるのだが、そこでトレーラを切り離して、トラクタで彼らは町の中へ入ってゆく。
 アメリカ最大のトラック・ストップはオハイオにあって、1万5千台ものエンジンの巨大な隊商宿である。そのトラックストアでは「トラック文化」のおよそのものが見られる。
 キャバレーではトラッカーの好きなバドワイザーが飲まれ、ブティックでは有名なトラッカーの靴が売られているが、その靴は足が疲れず、早く確実に運転できるようにデザインされている。
 そこにはトラッカー達の売春宿と、トラックデコレーションと改装のための工場がある。

※ 以上がアメリカのトラックについての記事の訳文である。例によって、迷訳、珍訳はお許し願いたい。
 このほかに、日本のデコレーショントラックについての記事がかなりあるけれども、多少的外れと思われる点もあり、読者もご承知のことと思われるので、削除した。
 小さなトラックを大きく見せようとして上へ上へと重ねたり、ゴテゴテした電飾をつけたり、ご本人達は結構粋がっていると思うが、兎小屋的発想で、とても文化といえるようなシロモノではない。それは、ある筋の人達のきんきらの洋服や靴のようなもので、一種の虚勢で、見せかけである。
 トラックは堂々と、力と優しさを感じさせるものであるべきで、アメリカのトラックこそその象徴であり、トラッカーは誇り高き「トラック文化」の体現者である。筆者もそれが好きだ。

CAMIONS passion
               写真は、フランス“CAMIONS passion”から転載





みなさん さようなら

2017.01.16 06:00|その他月刊誌記事
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 12月号
パリモーターショー・見る・読む  ④
パリモーターショー 自動車メーカー
自動車メーカーの部 (1990年 パリモーターショー)

活気の乏しい車体分野
 車体とトレーラの展示スペースも広く、多くの製品が並んでいたが、全く拍子抜けするほど、この部門の来場者は少なかった。アメリカのトラッキングショーでもそうであったが、パリではもっとひどい。よくこれで出展する企業もあると感心するほどで、出品者の担当者だけでアルコールを飲んでいる風景も見られた。

 この点では、わがトラックショーの方が断然人出が多い。
 もっとも、出品の方もホロシートのカーテン式やホロ枠組みのもの、ダンプ、タンクローリ、トラック搭載クレーン、テールゲートなど変化に乏しいものが殆どで、関係者を引きつける新味に乏しいのも事実であろう。
 アメリカでもそうだが、ヨーロッパでも、車体部分はほぼ完成の域に達したと考えており、これを積極的に変えてゆこうとする努力はメーカー側にもユーザー側にも乏しいように見える。
 日本ではウイングタイプが急速にこの10年ほどで普及して一般化したが、このような変化はアメリカにもヨーロッパにも全く見られないのである。
 このようにテンポの変化がまことにのろい車体業界としては、1年おきのモーターショーに、以前と違った新工夫の製品を出品することは困難で、それだけ入場者の誘致にも積極的に取り組めない事情があると思われる。

 その変化に乏しい車体部門で目についた製品といえば、次のようなものが挙げられよう。
 先ず、側面開放への取り組みである。ウイング的な発想へは到達していないが、カーテン式、或いは引き戸式、或いは、側壁を上下分割して開くものなどが目に付いたものの、画期的なものにはお目にかかれなかった。トレーラ後部にフォークリフトを取り付けたものは10数年前に見たことがあるし、今夏のアメリカのトラッキングショーでも出品されていたが、このことはフォークリフトの普及が欧米ではかなり遅れている、ということの現れとも見ることができるのではないか。
 ウイングタイプの普及しない理由として、筆者の直接に聞いた話によると、アメリカでは、ウイングが広がるためのスペースがない、ドイツでは背高荷物が積めない、上方からの荷役ができない、というものであったが、これは理由にならない理由であると思う。

 アメリカに比較すると、欧州の方が側面開放車がまだしも多く見られるが、これはアメリカの場合、ごく初期のトラック時代からバン型が圧倒的で、後方荷役のみを考えてきているのに対して、欧州の方はホロがけ車が主体で、側面開放しやすい構造で、そこからカーテン式の方に進んだのであろう。
 しかし、欧米とも、トラック荷役については日本ほどせっかちでなく、労働不足もそれほど逼迫(ひっぱく)した状態にはないという事情が背景にあるのではないだろうか。

 アメリカのセミトレーラ、欧州の脱着ボデー車のように、エンジン部分を切り離して貨物を積みおきしておくシステムが普及している場合、トラック荷役は寸刻を争うというものではなくなる。駐車スペースも日本より広く取れることも、トレーラや脱着ボデーの利用に有利に働くことは言うまでもない。
 ただし、パリのモーターショーでは脱着ボデー車の展示は全く目に付かなかった。脱着システムが完成され尽くして改良の余地がなくなってしまったのか、脱着ボデーのシェアが低下しているのか、このあたりの事情を確かめることはできなかった。

 わが国のトラックショーで坪井特殊や東京車輌などから出品されているトラック床面を拡大してゆくというタイプは1台だけ見ることができた。片方はボデー面積の半分ほどのスペースを引き出して、片方は側壁を上下分割して開口部を作る。日本のように、何倍にも床面積を拡大してゆくというものはない。そういうニーズがないのか、それだけの器用さを持ち合わせていないのか、これもわからない。

 しゃれたトラクタとトレーラ一体となった商品展示車があった。こういうクルマが出てゆくと、クルマそのものが人目を引くことになって効果を発揮することになるに違いない。
 床傾斜のクルマもいくつか見られたが、この分野でも、花見台自動車やタダノ、フジタ自動車などの開発意欲によって日本の方が先行しているように感じられた。
 小口集配車にはさすがフランスと感心させられるしゃれたデザインのものがあったが、機能的にこれというほどのものはない。
 機械的にトラック荷台上の貨物を前後移動させる装置は全く見られなかった。わが国でもまだまだこれからというもので、欧州での登場は当分先のことだろう。
 バラ積貨物やタンク車両のダンプ式のものが多いのも、日本やアメリカのショーと大きく相違しているところだ。
 フルハーフがその本拠地アメリカよりパリでずっと広いスペースを取り、出品車種も多かったのには少し驚く。もっとも、フルハーフ、トレールモービル両社とも本家のアメリカより日本のトラックショーの方がスペースも広く、展示内容も充実していたが。
 部品資材もそれほどのものはない。

パリモーターショー 車体・トレーラ
車体・トレーラの部 (1990年 パリモーターショー) 

パリショーのトラック讃歌
 パリモーターショーの小間展示のひとつに、自動車の写真パネルや写真集などを売っているコーナーがあった。
 その中に、1冊のビニールパックされたトラックファッションの写真集がある。その中を見せてくれと言ったが、こちらは日本語、あちらはフランス語、やりとりしている間に、この本はまだお売りできない、ということが分かってきた。何でもいいから譲ってくれと談判して、パック包装のまま日本円で8千円ほど出して購入、日本へ帰って開いてみて、これが、欧州、アメリカ、そして日本のいわゆるファッショントラックの写真集であることが判明した。

 中には素晴らしい写真もある。アメリカのそれが殊にいい。その中の10枚ばかりを大きく引き伸ばして、トラックショーの会場に展示、希望者に抽選で差し上げようと思っていたが、前日の雷雨で車両などの搬入が大混乱してカラー写真の貼り付け作業が初日朝にずれ込んで、そのどさくさの中で、心ない入場者か関係者によって持ち去られてしまった。入場者に見て貰ったあと、無料贈呈する予定であっただけに、残念でならない。

 この写真集のうち、日本のデコレーショントラックに関するものが2枚もパリモーターショーの公式マガジンの『ライブリー・イズ・ア・ローリー』(愛すべきトラック)に転載されている。
 1枚は毒々しいキャバレーの装飾を圧縮したようなキャブ内部と、トラック全体を灯火で飾り立てた写真である。
 フランス人から見ればエキゾチックと映るかも知れないが、日本人の筆者としてみると、一部の愛好家に頒布される写真集と違い、パリモーターショーの公式マガジンに転載されているだけに、実に恥ずかしい思いがする。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.01.12 06:00|その他月刊誌記事
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 12月号
パリモーターショー・見る・読む  ③
前世紀末に始まったパリ『自動車サロン』は世界の自動車の歴史そのものである

花の都パリは世界の自動車の都
パリ 自動車ショー
右:   1929年は両大戦の間で自動車生産最高の年
左・中  1948年および1949年のサロンのポスター

1世紀を超えて未来へ
 8馬力エンジンが、恐慌から立ち直った1932年ショーのハイライトであった。1934年ショーはシトロエンの“ラ・トラクシオン”のシャシのない前輪駆動車によって爆弾のような衝撃を受け、23年間も生産し続けられたマスプロ車の中の伝説的存在である。
 内外の騒がしさにも拘わらず1936年ショーは大成功で、各メーカーは競って意欲的な新製品を発表した。
 しかし、時代は戦争に突入し、自動車メーカーは戦車、牽引車、6輪車などの軍用車の生産に追われることになり、新型車の発表も殆どなくなった。

 終戦後、モーターショーは再開されて、80万に上る入場者を迎えたものの、売るべき商品は殆どなかった。
 1949年から自動車生産は戦前の水準を超えるようになり、1950年のショーではルノーの全輪駆動車が登場した。しかし、デラックスカーのいくつかのトレードマークは姿を消して博物館ゆきとなった。
 ルノーはアメリカ市場に挑戦したし、1958年にはフランスでは最初の年産100万台を突破、1960年には200万台、1972年には300万台を超えた。
 モーターショーは隔年の開催となり1988年からは、“モンディアル”(世界イベント)と名称を変更、100万人の入場者を迎えることになって、不動のものとなったのである。
 モーターショーは数多いが、パリサロンはその中でも最も重要なものであり、各国のメーカーはその新製品をパリで初展示するため、“世界の自動車の都”と呼ばれてきた。前世紀にスタートしたサロンは100年の長い歴史を持ち、現在もお祭りであり、これからも人間社会のために進歩し続ける技術革新発表の儀式なのである。

(自動車についての技術と歴史に全く疎(うと)い筆者にとって、この翻訳作業は文字どおり難行苦行であった。自動車部門の読者にとって、誤訳、珍訳、迷訳が多く目に付くことと思われるが、ご容赦戴きたい。
 にも拘わらず、この作業に取り組んだのはモーターショーを通じて垣間(かいま)見るフランス自動車1世紀の歴史に限りない興味を持ったからである。
 ルノー、シトロエンなどフランスのクルマはなぜ世界に覇をとなえられなかったのか、自動車と文化というものについて考えさせられる。)

目立ったドイツ・北欧トラックのパワー
ゆるやかに時が流れる車体の分野


EC的な欧州のトラック
 パリモーターショーの商業部門の記事を書くにあたっては、前にも述べたように、筆者自身が商業車そのものの専門知識の持ち合わせがない。従って、ひとつの感触というか、それもこの7月、アメリカ西部のアナハイムで開催の国際トラッキングショーと、筆者が主催するわが国のトラックショーとの比較をしながらの、単なる見たままの記事に終わっていることをご了承戴きたい。
 先ず、自動車部門から見るとしよう。
 感じたことは、アメリカ車との大きな相違で、キャブオーバータイプが圧倒的に多い。この点では、日本に近いということが言えるかも知れない。

 フランス地元のルノーが大きなスペースを取っているのは当然だが、メルセデス・ベンツ、ボルボ、スカニア、イベコ、マン、ダフなどの欧州各国の製品が多く、詳しく見れば、それぞれのお国柄やメーカーによる違いがあるのだろうが、筆者にはそれを区別することができなかった。EC経済統合はトラックの世界で既に実現しているように感じられる。
 欧州の道路を走ってみても、各国のトラックが混じり合って走っているので、その差が少ないのは当然かも知れない。
 デザイン的には、横のラインを強調して、下部の駆動部分と上部のキャビン部分を分離した様な形のもの、キャビンの上にベッド部分を重ねたものなど、上へ上へと積み重ねたようなものが多く目に付いた。
 また、ボンネットタイプでは、ボルボの新型のNL10、NL12に見られるような先端部をぐっと絞ったデザインのものが多く、アメリカのトラディショナルなでんとした大きな角形のボンネットを持ったものは見られない。
 ヨーロッパ、特に大陸部分ではセミトレーラより、フルトレーラの方がまだまだ多く、トラクタとトレーラの分離がはっきりしていなくて、アメリカのように、トラクタを自己保有して、いわゆる曳き屋のようなオーナードライバーの存在が許されないという事情もあるのだろう。
 アメリカのトラッキングショーでは家族連れのトラッカー達の姿が多く見られたものだが、パリではそのような光景は余り見られなかった。
 中・小型については、正直のところ日本車との区別をつけることが難しいほど。集配車などについては、日本の方がバラエティに富んでいるのではないか。
 乗用車の展示場に較べて、商業車館の方はやはり入場者は少ない。この点ではアメリカのトラッキングショーの方の人出がもっと多かったように思う。
 各自動車メーカーの受付にはさすがパリだと思わせる美女が多くいたが、熱気というか、活気はもうひとつだ。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.01.09 08:14|その他月刊誌記事
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 12月号

パリモーターショー・見る・読む  ②
前世紀末に始まったパリ『自動車サロン』は世界の自動車の歴史そのものである
Pari オートサロン
左: 1898年第1回のパリオートサロン
右: 1899年第2回 パリオートサロン
(パリショー、公式マガジンより)

自動車とショーの隆昌期
 1900年のショーは万国博開催のために中止された。何台かの自動車が展示されたが、それらは運搬の部門だった。
 人間社会を恐ろしいほどの力で変革させるものが自動車にはあった。
 この年に、自動車工業は世界で初めての国際会議を開いたし、自動車工場が続々郊外に建てられた。

 1901年には2つのショーをグランパリで開催したが、この会場はその後も1962年まで継続して使用され、スペースが狭くなったため、現在のボルテ・ド・ヴェルサイユに移った。
 1984年には、フランス自動車の100年を記念してもう一度グランパリでショーを行っている。 
 1901年と翌年のショーには、何と100人ものミュージシャンのオーケストラが音楽的雰囲気を盛り上げた。

 1902年ショーでは初めて電気照明となり、23万人の入場者はライト、ミュージック、そして場面の変わるシネマとグラフィに酔いしれたのである。
 外国勢が進出したのも1902年ショーの注目すべき現象で、フィアット、メルセデスは別として、アメリカからロコモティブ、イギリスからナビア、ベルジカなどが集まった。それぞれの製品の優秀さを競う時代がやってきたのである。
 この時期、絶え間のない技術的進歩が見られた。トランスミッション・ベルトはチェーンに置き換えられ、プレス加工の鋼製シャシは一般化し、4気筒は普通仕様になった。
 エンジンはオートマチックバルブを装備、1分間1000回転となり、チェーン使用はまだ残っていたが、現在のトランスミッションシステムは既に現れており、バーナーは電気方式に変わってバッテリーやマグネットが普遍化した。最初のショックアブソーバが出現したのもこの頃である。

 1903年ルイ・ルノーはダイレクト・ドライブ、マグネットとスパーキングプラグを発表した。
 1904年にはグランパリはもう狭くなって、トラックは外に押し出されてしまった。
 オートマチック・キャブレーターこの年代の終わりに現れている。
 1905年、来場者のためにパリ市内のバスサービスが開始された。

ショーの転機と一次大戦
 マニュアル・アクセレーターとディスク・クラッチは1906年に出現した。6気筒車が多くなり、ブレーキは4輪の圧縮エアーシステムが一般的になった。弾性タイヤは博物館ゆきになり、ミシュランはフランスから欧州全体へ販売網を拡げていった。
 洗面器、アイスボックス、写真室まで備えたリムジン車も出現したのである。
 ショーは年々膨らんでパリでは欠くことのできない年中行事となった。ひとつの頂点に達した1907年ではパリ―北京横断の成功車は中国の漆で飾られた豪華な柱のスタンドに飾られたのである。
 派手になる一方のショーは1908年に華美なデコレーションを規制したり、ゴシップジャーナリストにとってショーにまつわる女性達は格好の目標とされたりで、地味な雰囲気となった。

 1909年には自動車クラブと、製造者組合が共同歩調を取ることができなくなり、1910年には、自動車と二輪車の組合から選出の委員達により運営された。
 10年前に100㎞の時速壁を越えたクルマはこの年には、ガソリン車によって200㎞を突破した。
 1911年、ショーはなく、1914年にはいくつかのスポーツカーやデラックス車を除いて左ハンドルとなり、電気はライティングや始動に使われるようになった。もっとも、クランクハンドルはそれとは別個に15年も使用されたのである。
 馬車をベースにした自動車のスタイルはこの頃からボンネットは平たく長くなり、シャシは低くなった。

 第一次大戦勃発の1914年にフランスは世界的な自動車輸出国になり、年間に3万8千台を製造した。
 戦争中はショーはなく、終戦の翌年1919年に再開された。戦時中、自動車やルノー製の戦車は大活躍して、その技術も大いに進歩した。ルノーの戦車は戦車博物館に保存されている。
 戦争末期にはフランスには12万の車があり、400人に1台の割合であったが、アメリカは18人に1台、600万台を保有、欧州はアメリカのはるか後塵を拝することになった。

大衆車登場と恐慌
 シトロエンは1919年、一次大戦直後のショーから登場した。ギヤメーカーのアンドレ・シトロエンは、フォードのテイラーシステムを採用して、日産100台という欧州車としては初めてのマスプロ車、A型シトロエンを登場させた。
 10馬力、4人乗り、2ドア、電気照明、スクーター、予備車輪装備のこの車は欧州最初の大衆車で、ルノー、プジョーなどもこれに追随してゆく。
 “吠える20代”は自動車産業も例外ではなく、すべてのことが可能となり、その証明を見ることができるようになった。

 1923年、西フランスの自動車クラブはル・マンで最初の24時間レースを開催、平均時速92㎞を記録した。
 1925年は万国博のためグラン・パリが使用できなくて中止したが、自動車のファッション化はますます進んだ。

 1926年ショーでは、アメリカ車の影響を受けた6シリンダー車が登場、1927年には前輪駆動車が出現、そして1928年、8シリンダー車を各社が競って発表、クルマはますます快適で安全なものになってゆく。
 1929年、フランスでは39人に1台、年産25万台の両大戦の間で最高の自動車生産を記録した。
 しかし、この年10月、ウォール街の衝撃はフランスも捲きこんで、多くの自動車メーカーが姿を消したのである。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.01.05 05:56|その他月刊誌記事
パリモーターショー
左: パリモーターショー公式マガジン
右: 第1回オートサロンの招待状

1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 12月号

パリモーターショー・見る・読む

花の都パリは世界の自動車の都
3部構成で綴る1世紀に近いその歴史
欧州商業車の現状・そしてトラック文化


3部構成のパリショー紹介

 パリ・モーターショー、あちらではオートモービル&トランスポート・ワールドと英文名では言っている。直訳すれば“自動車と輸送の世界”ということになろうか。
 先月号でお知らせしたように、筆者は10月5日、モーターショー反対のシュプレヒコールに迎えられて、パリモーターショー会場に入り、見学した。
 ただし、パリの会場はわが国のモーターショーの旧・新会場である東京晴海、千葉幕張のほぼ4倍という途方もない広さで、1日や2日の見学ではとても見尽くせるものではない。訪ねたのはトラックと車体の展示場だけだが、それだけでまる1日を要した。
 しかもトラックや車体についての専門知識を持っていない筆者にとって、技術的な記事を書くことはお手上げに近い困難事である。
 幸い、会場で入手した公式雑誌が非常に面白くて、わが国のモーターショーのガイドブックのような固さがない。やはりフランスだなと思わせる記事がいくつか掲載されている。

 それらの中で『モーターカーの物語』というタイトルの、パリモーターショーの1世紀に近い歴史と、フランスの自動車産業のあゆみを絡ませた記事の概要に筆者の解説を加えて掲載する。
 もう1篇は「愛すべきトラック」(原名ラブリーイズアローリー)といい、トラックドライバーとトラックファッションについてのものには、アメリカのトラッカー達の生態が生き生きと描かれており、わが国のいわゆるデコレーショントラックも紹介している。
 今回のトラックショーで、わが国で初めて公開されたピータービルトのトラクタをご覧になった読者も多い筈であるから、この記事は興味を持って読んで戴けると思う。
 そして、パリモーターショーのトラックと車体とトレーラについて、本年7月に訪問したアメリカ西部アナハイムで開催の国際トラッキングショーや弊社の主催するトラックショーと比較対照しながら紹介してゆきたい。
 以上の3部構成の順序は、
第1部  自動車の物語
第2部  パリショーの紹介
第3部  愛すべきトラック
とする。不備、誤謬(ごびゅう)の点があればどしどしご叱正をお願いしたい。


前世紀に始まったパリ『自動車サロン』は世界の自動車の歴史そのものである

モーターショー出現まで

 フランスは自動車が誕生した地で、最初のモーターショーが『自動車サロン』として開催された。
 初めての国際モーターショーはパリのチュイルリー宮の庭園で、1898年に開催されたのだが、それに先だった自動車の動きがあったことはもちろんである。
 自動車を誰が初めて作ったのか、フランス人だとかオーストリア人だとか、定説はないようで、ウィーンに行けば、ここが自動車発祥の地だという。
 たしかなことは1885年にゴートリープ・ダイムラーが自分で開発した小型単気筒エンジンを三輪車に取り付けて走ったことで、その翌年にはもうひとりのドイツ人、カール・ベンツが今日の自動車のような形でクルマを走らせた、このふたつの車は今も、ダイムラー・ベンツ博物館に保存されていて、筆者はこの秋見ることができた。
 1889年、パリで開催の万国博覧会の記念建造物としてエッフェル塔が建てられた。自動車はそれより数年前に出現して、フランスはその発展に大きく寄与している。プジョーなどが、それ迄の蒸気駆動の車に変わってガソリン駆動の自動車に転換させていった。
 進歩は著しく、1891年にはパリ―ブレスト間の自動二輪レースがプジョーによって主催され、その2年後にはパンハードのパリ―ニース間のレースに人々は仰天した。

 1895年にはフランス自動車クラブを結成、これが世界で最初である。同じ年、世界初の自動車レースがパリ周辺で開催され、15台ほどの自動車が見世物として展示された。そして展示の重点は自動車二輪から自動車に移ってゆき、1897年からは、自動車の方が群衆のアトラクションの主役となり、自動二輪は後退していき、モーターショーへの道が開かれたのである。

'98年世界初のショー
 チュイルリー庭園のテラスで世界で初めてのモーターショーがフランス自動車クラブ主催で開かれたのは1898年のことだった。6月15日から7月3日までのこのショーには77社のメーカーを含む232の出品があり、14万の入場者が展示の車に魅了された。
 大統領はこれらの車は悪臭のする醜いものであると言ったが、大衆は熱狂してそれを迎えたのである。
 この年は、女性2人が運転テストをパスし、ギヤボックスを改良して、ダイレクトドライブ仕様が出現した。
 1898年の自動車輸出は前年の62万3千フランから175万フランに増大した。
 1899年のショーはやはりチュイルリーだったが、きちんとした展示場と中央通路を持ち、良好な照明、洗練されたブロンズと花に縁取られたデコレーションに彩られていた。

 その数週間前、ミシュランタイヤをはいた自動車が時速100キロメートルの壁を突破する驚くべきスピードを出している。
 19世紀は自動車にとって荒々しい希望と夢を持って終わりを告げたのである。
 1899年ショーは前年を凌いで、日曜日だけで1万人以上の入場者が押しかけたし、4つのオーケストラが絶え間なく音楽を流した。
 アメリカの自動車産業はまだ初期段階にあり、ショーの終了後のあるフランス製の自動車は受け取るまで18ヶ月も待たされたのである。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.01.01 20:25|伊與田先生コラム
2017年鎌倉八幡宮
2017年(平成29年) 穏やかな元旦の鎌倉八幡宮

あけましておめでとうございます
今年もこれまで同様、ご高覧いただければ幸いです。
今回の年頭のご挨拶は、伊與田先生のコラムにしました。5日からは、1990年12月号に掲載した「パリモーターショー」の記事と写真を何回かに分けてお届けします。(妙)


2006年1月1日(日)
年頭随想    伊與田 覺
 
新年おめでとうございます。
 クリスマスはキリスト教圏では、イエスキリストの降誕を祝い、自らもキリストの心に還ろうとする最も神聖な日であることはご承知の通りであります。
 日本を含む東洋圏に於いては、正月元日が一年の中で最も敬虔な節目の佳日としているのは古来変わらないのであります。

 平素われわれ人間は相対の世界に住み、そこで自己中心的に動き易いのです。然し人間にはその相対に対して絶対の世界もあるのです。それは時代や民族を超えて変わらないルール即ち道であります。この道を人間の立場から利に対して義というのです。これを又至善とも言います。至善は一です。従って「正」字は至善即ち一に至って止まるという意味です。それは天(神)の心に合致するものです。人間は神と動物の中間的存在です。数学の世界的泰斗と称された岡潔先生が亡くなられて間のない頃にお宅を訪ねました。仏前で先生の噂話をしている時に、奥様が数枚の色紙を持って来られました。その中に「覚(さ)めたる人を神と言い、眠れる神を人と言う」のを発見して強い衝撃を受けたことがありました。正月の元旦は誰しも自(おのず)から覚めたる人となるのは不思議です。近江聖人中江藤樹先生はこの「當下(今)一念」(とうげいちねん)を相続する事が尊い人生だと申しております。かって先師安岡正篤先生が、藤樹書院でこの四字を揮毫される気高い後姿が昨日のように憶い起こされます。孔子の高弟曽子は魯鈍と評されながら「吾日に吾が身を三省す」と生涯変わることなく、後世宗聖(そうせい)と称せられるようになりました。然し一般は正月気分が薄れるに従って俗化し、十一月十二月にもなればずたずたに崩れ、奈落の底へも落ち込むのではないかと不安に思うようになる。そんな時に正月がめぐり来て心機一転するのです。お恥ずかしいことながら私の九十年の生涯はその繰り返しでした。然し人生は諦めてはならない、終わりの日まで及ばずながらも精進を重ねる覚悟です。皆さまの限りないご鞭撻をもお願い申上げる次第でございます。



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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