みなさん さようなら

2017.02.27 06:00|その他月刊誌記事
1982年(S57)「特装車とトレーラ」3月号

特集 トレーラリゼーションへの提言 
日本の車両法規は世界の中で孤立 ②

GVW見直しだけに焦点が当たっているが…

10年でカベにぶち当たった20tの枠
 現実は関係者の想像をはるかに越えて進んだ。6t車、8t車、10t車と急ピッチに大型化に進んだトラックは20t枠設定から僅か10年そこそこで、そのカベにぶちあたってしまったのである。
 このカベをぶち破る方法としては、欧米では常識となっているトレーラ化の方向があるのだが、そのトレーラ化に道を開く法令が不備であった。不備というより、トレーラという思想が全く当初にはなかったといった方が正しい。トレーラは大型トラックの延長線上にあるものではなく、重量物などを運ぶ全く特殊な車両であるという認識が現在も、関係官庁の人達に強いのは厳然とした事実である。ダンプトレーラの新規導入を事実上禁止しているのはその一例に過ぎない。
 総重量制の考え方からは、軸数を増やし、軸距を長く取って積載量を増やしてゆく、という合理的な大型化、トレーラ化への方向は導き出せないのは当然であり、海上コンテナの導入についても、特認、また特認、という形でしか対応の方法を見出せなかったのがこれまでの姿であった。

過積ダンプこそ20t制の産物
 わが国の大型化は、合理的にでなく、最も非合理的、非合法的でしかも最もイージーな方向へひたすら邁進した。いわゆる過積みである。
 馬力はアップし、車体は頑丈になって法定積載量の2倍も3倍も積んでビクともしないトラックが出現、「わが社のトラックはどんな酷使にも耐えます」というキャッチフレーズで売りまくったツケが過積みの横行であった。
 逆説的或いはブラックユーモアかも知れないが、「過積みこそ日本の高度成長を支えた原動力である」という人があって、これは一面の真理である。小さいサイズの、少ない台数の車で沢山の貨物を運ぶのだから、輸送効率の点からいえばこれに勝るものはない。……

 特に、総重量20t制が有利に働いたのは、土砂、骨材、鋼材という建設資材運搬用トラックでその代表格がダンプカーであり、過積みと言えばダンプとまで言われる存在となった。
 筆者は東京湾のいちばん入り込んだ海岸近くに住んでいるが、関西出張などで早朝5時頃家を出る時、恐ろしい風景によく出くわす。
 さし枠を3段ほど重ねて、ベッセルの長さほどの高さで、カチカチにつき固めた土砂などを運ぶダンプの列である。この積みつけにはずい分時間をかけているだろうと感心させられる。
 地響きをたてて、黒煙を吐きながら轟進するこれらのダンプコンボイこそ、総重量20t枠に閉じこめられたトラック大型化の極限の姿なのである。積載量は恐らく30tを超えているだろうから、総重量では40t以上、軸距の短い3軸トラックとしては、その製作技術、積付け技術、そのいずれを取っても世界に比類のない最高レベルのものであろう、と思わず見とれることがある。

 道路脇に終夜営業の飲食店があり、運転手諸君が車を止めて出入りする姿を見ると、恐ろしいお兄さんというタイプでなく、ごく普通の20代か30代にかけての青壮年であることが多い。
 彼等、ダンプのオーナードライバーの生活と意見については本誌56年11月号にそのレポートが掲載されているが、その生活は決して恵まれたものではない。
 過積みが一般化すれば、運賃立てもそれに応じたものとなり、過積みのウマ味はなくなってしまう。ウマ味どころか、過積みをしなければ車の月賦も払えないし、生活もできない、というパターンの中に組み込まれてしまった彼等の姿をそのレポートは生々しく伝えている。……

立法の趣旨と離れて一人歩きの法運用
 法律は時として、その成立から遠く離れて一人歩きを始める。動物愛護という普遍的な精神の生類憐れみの令が、実際の施行面では犬一匹、鳥一匹殺せないというこの法が悪法であることを当時の人達は皆知っていたが、その悪法を止めさせるのには将軍綱吉の死を待たねばならなかった。
 総重量20t制を悪法とは言わない。しかし、その法があることによって、大型化、トレーラ化への合理的な道を塞いで、過積み車の横行を許し、法が意図したところの道路、橋梁の保全を妨げているとしたら、法の趣旨とは逆の方向へ法自体が引っ張っていっているという、法が陥り易い落とし穴に入り込んだひとつの例であると指摘して誤りないと思う。

実体とかけ離れた“法”が存在するだけ
…(略)…
 ところが過積みだけは、そこに“法”がある、というだけの存在である。過積みだけでは危害を及ぼすことはないし、お顧客(とくい)さんには喜んで貰え、稼ぎが良くなり、省エネ省力大量輸送にも貢献する、そこで咎められるのは法に違反していること、公共の資産である道路や橋梁に悪影響を与えること、排気、震動、騒音といった交通公害を撒き散らすことであろうが、このあとの2つの項目に自責の念を持つのはこれもまた類い希な善人であろう。

 つまり、過積みという行為そのものには殆ど違法行為をしているという自責観念はないのである。道交法で荷主責任を問うという姿勢まで打ち出さざるを得なかったことは、過積みに対して大手輸送業者でも過積みが一般化していた何よりの印であろう。取り締まりの警察にしてから、悪質の過積みと、(良質の?)多少の過積みをはっきり区別しているのは、これもまた過積みに対する当局の考え方を示すものである。

現行法の下では根絶できない過積
 …(略)…
 従って、いくら取締りを強化したところで車の性能が法基準をはるかに超えたものになっている以上、過積みの根絶は不可能に近い。しかも、最近のように輸送環境が厳しくなればなるほど、背に腹は替えられぬとばかり、最も安易に輸送効率を上げることのできる過積みに走るのは自然のなりゆきである。
 現在のトラック需要の低迷が景気原因だけでなく、過積み取締りの弛緩にあるという推測もあながち的外れとはいえない。新道交法実施のいわゆる過積み規制ブームの裏目がでたということであろう。
(つづく)


 
スポンサーサイト

みなさん さようなら

2017.02.23 06:00|その他月刊誌記事
1982年(S57)「特装車とトレーラ」3月号

特集 トレーラリゼーションへの提言 
日本の車両法規は世界の中で孤立 ①

GVW見直しだけに焦点が当たっているが…

世界で孤立している日本の車両法規
 本誌28ページの資料※は国際道路連盟(International Road Federation 略称IRF 本部米国ワシントン及びスイスジュネーブ)から発行され、弊社には資料提供を受けている米国のトレーラ工業会(Truck Trailer Manefacturers Association 略称TTMA)から送られてきたものである。IRFはわが国の(社)全日本トラック協会及び(社)海上コンテナ協会も加盟しているので、直接送付されてきているものと考えられ、既に一部には公表されているが、車両総重量見なおしについて、本誌が常に論陣をはってきたいきさつもあるので、トレーラ特集号であることも考慮して本号に掲載することにしたものである。

 この資料で特徴的なことは、世界の各国で実施されている軸数や、車両タイプによる重量規制でなく、日本が1軸10t、総重量20tのきわめて簡単明瞭な、見方を変えれば最も非合理な車両規制を実施していることである。韓国は日本のそれの直輸入なので、日韓両国だけが世界の中で、全く特異な車両重量制を実施していることになる。
 なぜこのようなことになってしまったのか。このままで良いのか。改善の方法はないのか。これまでに触れたことも含めて述べてみたい。
※ P28~35に下表/商業車の大きさと重量の最大値 (ヨーロッパ、北・中央・南アメリカ、アフリカ、アジア・中東・オセアニア、それぞれの各地域での幅、高さ、長さ、軸重、最大総重量)の数値が挙げられています。(妙)
3月号P28

車の概念を欠いた昔の輸送
 筆者は数年前に旧東海道を歩き、今又中山道を歩いていて、その最大の難所和田峠を越えたばかりである。街道を歩いて痛感するのは、昔の輸送形態の中で、車という概念が全くといってよいほど欠如していたことである。車が存在していなかったわけではなくて、平安時代には牛車(ぎっしゃ)が出現したし、やはり牛に牽かせる荷車が存在したことは弊社の発行する「特装車とトレーラ ガイドブック」79年版表紙の広重描く東海道五十三次“大津”の版画にも見られるとおりである。京都と大津の間の逢坂峠に車が多く使用されたことは、今も残る轍(わだち)の跡が深く刻み込まれた敷石が証明している。
 江戸でも大八車が多かったことは、それらの職人が多く住んでいた車町が存在したことでも明らかである。(かつての車町が三菱自動車、日野自販本社の所在地に近いのも興味深い。)

 しかし、それらの車の使用範囲はごく一部の地域内に限られていた。その理由として、山道河川が多い日本の地形が車の使用を阻んだこと、江戸時代初期に成立した宿駅伝馬制度によって東海道なら五十三次、中山道なら六十九次の宿場ごとに、その宿場に用意された人馬に荷物の中継が義務づけられ、車の使用は認められなかったことなどが挙げられる。運賃体系も一駄何文というように馬の背に乗せた料金制となっていて、車についての料金制度は見当たらない。当時の大量輸送は専ら舟運に頼っていて、陸路の輸送は馬や人の背で細々と運ばれたのである。

馬車から自動車へ 自然に移行の欧米
 明治になって初めて馬車が登場して文明開化のシンボルとしてもてはやされたが、その一方で人力車が大変な普及ぶりを示したことでも明らかなように、輸送を人力に頼るという傾向はまだまだ根強かった。
 一方、明治初年に登場した鉄道は全国的にそのネットワークを形成していって、明治30年代1900年の始め頃までにはほぼ現在の幹線の形成が終わって、日本の交通体系に大変革をもたらした。陸上輸送は鉄道が主体となって、その末端を人馬が、後になって部分的にトラックが使用されるという通運事業が明治から大正、そして昭和の30年代までの輸送体系であり、鉄道が通っていない地方ではまだまだ人馬が輸送の主役を占めていたのである。

 当時、欧米、特にアメリカではモータリゼーションが貨物輸送分野にも及んで、第二次大戦末期には軍需物資を輸送するため、年間20万台以上のトレーラを生産したと記録されており、それ以来、20万台を突破したのは第一次石油ショック直前の1973年に一度あっただけで、既に半世紀以上も前からモータリゼーション、トレーラリゼーションはその頂点に達していた。

 欧米のモータリゼーションにはそれに先行する長い馬車の歴史があって、フランスの車体工業会の前身は1844年に発足した馬車のボデー組合で、アメリカには西部劇でお馴染みの馬車の活躍があり、馬車の定期便は欧米でも早くから開始されていた。馬車に続くものとして自動車が現れたわけで、キャリジ又はバンを牽引するのが馬力から自動車に変わったという観念が強く、トレーラへの発想も自然であり、動力が強力になったのだから、軸数を増やして、できるだけ沢山の貨物を運ぼう、トラックの後方にもう1台くっつけて引っ張ろうという考え方が起こったのも当然である。
 欧米の車両法規はその馬車から自動車へ、さらにより強力なエンジンの開発にともなう合理的な積載量の増加へと発展していった過程をよく示している。
※ 本年1月5日から19日までアップした記事“パリモーターショー”もご参照下さい。(妙)

GVWが決められた昭和26年の日本
 最近でこそ自動車の年間生産高が1千万台を超して、世界一の自動車生産輸出国になり、輸出先で貿易摩擦を起こしているわが国でであるが、それは僅か10余年の間のことである。
 第二次大戦まで、タクシーといえば殆ど輸入車であったし、トラックは陸軍があれこれ助成してその育成に努めていたものの、国産車は決して自慢できるものでなく、僅かに三輪トラック、小型トラックでようやく気を吐いていた程度のものだった。
 昭和20年の終戦を迎えてからも暫くはその事情は変わっていない。人員輸送のバスには現在姿を消したトレーラバスなどが現れて大型化の兆候は見られたものの、貨物輸送は鉄道が主役で、トラックは僅かに末端の集配送、或いは小口輸送を受け持つ程度であった。

 現在の車両総重量20tの大枠が車両制限令という建設省政令、運輸省省令のなかの保安基準によって、がっちりと決められたのは自動車産業がこのような状態に置かれていた昭和26年のことで、既に30年余りも昔のことである。
 この昭和26年はわが国にとって非常に記念すべき年で、それまで君臨していたマッカーサーが退任、サンフランシスコで対日講和条約と日米安全保障条約、いわゆる安保が調印されて、日本はアメリカの傘の下ではあるが、敗戦から6年ぶりにやっと一人歩きを始めたのである。

 当時は幹線道路といっても殆ど未舗装で橋は木橋が多く、現在の状況からするとまさに隔世の感があり、その上を土埃をあげて走るトラックの姿を見ることも珍しい時代であった。
 長い戦争と占領下という事情によって、外国の情報も殆ど入手できず、まして海外視察など夢にも考えられない時代に、総重量20tという法令は作られたのである。
 三輪トラックや2軸の2~4t車が全盛の時代であり、よもやこの20tが将来大きなカベになろうとは誰1人考えなかったに違いない。当時、その制定に参画して現在も健在のS氏が、まさかこうなるとは思ってもみなかった、と述懐しているのは偽らざる心境だろう。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.02.20 06:00|「今月の論語」
1994年(H6)月刊「NewTRUCK」2月号
今月の論語

地位も職場もすべて捨てて

 先日、30数年前に勤務していた新聞社の社員が数名訪ねてきた。ある展示会を開きたいので意見を聞きたいとの用件である。
 退社したのがちょうど30年前だから、在社当時の同僚や10歳下ぐらいまでの後輩も社に残っていない。その社は55歳が定年で、ごく近く60歳に改めたばかりなので、あのまま勤務していたら、もう13年も前に定年になって放り出されていたことになる。

 誰彼の消息を聞くと、死亡した者、病気の人が多い。社長はよろしいな、というからそれなら会社を辞める勇気があるかと聞くと、いやとても、という答えである。
 その時に、何を根拠にしていたのか、脱サラで成功しているのは38歳の時に実行した人であると、その中の1人が言い出した。その新聞社を私が辞めたのが38歳だった。
 サラリーマンにとって38歳は、通常であれば何らかの管理職の肩書きがついているだろうし、子供は小学校から中学へ進むくらいになっている筈だ。

 折角の地位も捨てて新しい仕事を始めて、果たして妻子を養ってゆけるだけの収入があるだろうか、10年先、20年先はどうなるだろうとの不安もあるに違いない。退職金や貯金だってたかが知れている。第一、女房が賛成してくれるかどうか。第一線でバリバリやって会社も期待をかけているようだから、うまく行けば重役コースに乗れるかも知れない。
 こういうことを考え出すと、脱サラを決行する勇気は消え失せてしまう。そのうちに40代が過ぎ、50代に入ると、脱サラを言い出さなくても、肩たたきで関連会社への出向ならいいが退社勧告も起こる。窓際で余命を永らえても数年のことである。

 どこそこは何千人などと雇用調整の新聞記事が踊っているが、その新聞社でも大幅の人員削減は避けられないという。
 入社させた以上は定年まで面倒を見る終身雇用制度は、社員の忠誠心、企業との一体感を持たせる意味では実に有効であるが、現在のように変化が多く、技術革新による省力化が進む時代、果たしてそのままの制度が維持できるかどうか疑問である。

 ぬるま湯でも何でも、とにかく会社にしがみついていたいという人は、どのような待遇を受けようと甘受して残るべきだろう。
 しかし、この会社では俺の能力は発揮できない、トップも頼りないと考える人は思い切って飛び出すことをお勧めする。38歳の当否は別として、40歳までのまだ体力も十分で変化に対応能力のある年齢が望ましい。

 子曰(のたま)ワク、鄙夫(ひふ)ハ与(とも)ニ君ニ事(つか)ウベケンヤ。ソノ未(いま)ダ之ヲ得ザレバ、之ヲ得ンコトヲ患(うれ)エ、既ニ之ヲ得(う)レバ、之ヲ失ワンコトヲ患(うれ)ウ。イヤシクモ之ヲ失ワンコトヲ患ウレバ、至ラザル所ナシ。(陽貨第十七)

 つまらない人間と一緒に就職してはいけない。課長にならないうちは早くなりたいと思い、いざなってみるとその地位を失いたくないと心配する。その地位を守るためには何をするか分からないからだと、いう意味である。
 課長、部長、重役、社長とて同じで、いったん手にした地位は何としても失うまいとする。30代後半の脱サラはいったん手にした地位を捨て切れるかどうかであり、その勇気と実行力が新分野を開拓する根源となる。管理職にもなり、会社が未来を嘱望する程の男でなければ脱サラは成就しない。
 思い切って変化の時代に身を投げ出してみてはどうだろう。道は開ける筈である。


みなさん さようなら

(毎週/月曜・木曜 更新 )
1月26日のブログには1990年12月号「NewTRUCK」掲載、大谷健氏の“日本車は良くなった”の記事をアップしました。
大谷氏は朝日新聞編集委員だったそうです。
朝日新聞を大嫌いな父が、どうして朝日新聞に籍を置いた人を寄稿者に選んだのか。
昨日開いた94年3月号に答えを見つけました。安心してアップできます、どうぞご覧下さい。(妙)


1994年(H6)月刊「NewTRUCK」3月号
ブックスタンド
「問題記事」 大谷 健
ある朝日新聞記者の回顧― 草思社 2000円


 筆者の大谷健朝日新聞元編集委員は、本誌に毎号辛口エッセイ『世相巷談』を執筆しているので、読者もよくご存じの方である。また、氏は私(増田)の旧大阪商科大学の後輩にも当たり、個人的にもごく親しい仲である。

 某夜、彼と盃を交わした時、朝日と日経の記事は信頼できないから一切読まない、と酒の勢いもあって言ったら、当然のことながら彼は怒り出した。
 国民の目を大きく狂わせたのは朝日の中国報道であり、田中角栄の礼讃であった。福田赳夫を先に首相にしていても、時間的ずれはあったかも知れないが日中の国交は回復しただろうし、ロッキードによる悲劇的な田中角栄の退陣はなかったと私は思う。
 中国だけではない。旧ソ連、北朝鮮寄りの、どちらかといえば社会党路線に従った朝日の論調が、日本の『良識』であるかのごとく錯覚させた朝日の責任は重い。

 しかし、このことは朝日新聞の記者なり記事がすべて一色に染められていたことを意味するものではない。ただ、慌ただしく新聞に目を通す一般読者にどれだけ、もうひとつの意見が浸透しているか、となるとこれは疑問だ。
 記事の対象となった当事者や、該当記事に関心のある人は別として、一般読者は、朝日のいわゆる『良識』に振り廻されていたのではないか。
 その風潮の中で、朝日にはこんな記事もあったんですよ、と大谷氏の書いた『問題記事』を抽出して一冊にまとめた意義は大きい。この著書によって朝日を見直す人も多いと思われるので、氏は朝日に対する大きな貢献をしたことになり、特別表彰ものだろう。

 問題記事はいくつかあって、冒頭に出てくるのは買春問題である。朝鮮人女性に対する戦時中の強制買春連行を最も熱心に報道しているのは朝日だが、氏のその記事の始めの部分に次のような執筆記事の引用がある。

 「だが、ご婦人がいかに柳眉を逆立てて国際売春を糾弾しようとも、富んだ国と貧しい国があり、富んだ国に男が、貧しい国に女がいる限り、国際売春は決して絶えることはないだろう。(中略)
 売春は人類最古の職業といわれる。そして売春現象にも、経済原則が貫徹し、一国の経済力をはっきり反映しているのである。」

 これでは買春を批判して論陣を張っていた朝日内の女性記者の神経を逆なでするもので、果たせるかな、大反論の記事が同じ朝日に載ったそうである。
 私も売春には経済原則が貫徹し、さらに国民性あるいは精神風土のようなものも多少の影響はあると思っている。
 十数年前、韓国を南から北まで一人旅をした時、強制売春(買春ではない)に近い目にあって、辛くも脱出した経験を持つ私の、これは実感だ。
 売春記事はほんの一部であり、原子力、中国報道、国鉄民営化、経団連、投機などの問題について、朝日の『良識』とかなり違った論陣を張った問題記事を掲載している。特に精彩を放つのは国鉄民営化についてのそれで、本書の白眉である。

 朝日とは対極線上にあると見られている文藝春秋の月刊誌1月号において、2ページにわたって、大谷氏へのインタビュー記事を掲載している。これは全く異色の扱いで、それだけ大谷氏への評価が高いのだろう。
 大谷氏のような大記者のOB、現役の人を動員して、産経の『正論』文藝春秋の『諸君』の向こうを張る月刊誌を朝日ジャーナルの後身として、朝日新聞は発行してはどうか。 


みなさん さようなら

2017.02.13 06:00|「今月の論語」
1990年(H2)月刊「NewTRUCK」2月号
今月の論語

筆禍で廃刊したある月刊誌
唯だ女子と小人とは養い難しと為す

 「孔子と日本人の幸福感」というタイトルに惹かれて“DAYS JAPAN”(月刊誌 講談社)を購入した。初めて見る月刊誌だが驚いたことに、この1月号で廃刊するという。その理由は、アグネス誤報の一件で読者の信頼を失ったからである、と土屋編集長が痛恨の「お別れの言葉」で述べている。11月号の特集記事「講演天国ニッポンの大金持ち文化人30人」で事実誤認があった、というが、私はこの記事は読んでいない。

 アグネス・チャンについては“文藝春秋”誌上で華々しい論戦があったことは記憶している。あの舌足らずの日本語の話を有難がって拝聴する人達が大勢いる、という金余りニッポンの現状を揶揄(やゆ)したところに勇み足があったのだろう。
 最後の号となった1月号の孔子特集の中に評論家、海江田万里氏の「80年代日本10大ニュースを“論語”で読む」があり、よく知られている論語の言葉を引用して社会現象を分析している。

 そのひとつに次がある。いわゆる“セクシャル・ハラスメント批判流行”の風潮を取り上げる。

 唯ダ女子ト小人トハ養ナイ難シト為ス。之レヲ近ヅクレバ則チ不遜ナリ。之レヲ遠ザクレバ則チ怨ム。(陽貨第十七)

 その解説、叱れば泣き出す、おだてればつけ上がる、そこで殺せば化けて出る、と日本では古来から言われてきた。さすがの孔子でも、女子と徳のない者は扱いにくかったようで、近づけると無遠慮になり、かといって遠ざければ怨む。……

 DAYS JAPANの編集者がアグネス・チャンを引き合いに出さず、男性だけを取り上げていれば、まさかの廃刊に追い込まれることはなかったと思うのだが、相手が悪かった。最終号で、女子と小人は養い難し、を取り上げてみても時既に遅しである。
 この字句は女性蔑視の封建儒教思想の表れである、として攻撃材料にされることが多い。

 「婦女子の言、聞くべからず」は会津松平藩の家訓であった。しかし、その教えを受けた藩士の娘の中から最も進んだ女性を多く生み出しているのである。12歳で渡米、帰国してから明治社交界のトップレディとなった大山捨松、新島襄を助けて京都に同志社大学を興した山本八重子など、封建思想の権化とみられる会津出身の女性の活躍は光っていた。

 現在、私は儒教の総本山ともいうべき東京湯島聖堂斯文会で、論語も勉強しているが、学友の3分の2は女性であるし、幹事役2人もその中から出ている。本誌に連載中の中国旅行に出かけたメンバーも男女同数であった。セクシャル・ハラスメント反対を叫ぶ人達よりも彼女達の方がその生き方に主体性を持ち、進んでいる。

 孔子をして養い難しと言わせた女性関係については、殆どわかっていない。ただ、単なる女性蔑視論でなかったことは、とかく問題は多いが、衛の国公の実力夫人である南氏に政治理想実現のために近づいて、高弟の子路からたしなめられている事実からも立証できよう。
 ふと洩らした言葉が記憶され論語に入ったことは、編集者の中にも共感を覚えた人がいたからだろう。もっとも、この言葉を実感として体験しなかった男性がいれば幸せだが。 



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ