みなさん さようなら

1974年(S49)「特装車とトレーラ」4月号
特装図書館

「暁の群像」
 南條範夫著 角川書店刊
―豪商岩崎弥太郎の生涯―

多彩な登場人物
 一読(いちどく)巻を措(お)く能わず、という言葉がある。読み出したら面白くて、手から離すことができず、そのまま読み通してしまうことをいう。この「暁の群像」上・下巻はまさにこれに該当する。
 この本が私を惹きつけた理由はいろいろある。サブタイトルにもあるように岩崎弥太郎の生涯を画いた小説で、読者もご承知のように岩崎弥太郎は土佐の軽輩武士の出身で、今日の大三菱の創始者である。
 私も土佐の出身であるため、まず親近感がある。それに、維新前後の歴史は門外漢ながら多少勉強もしている。三菱は重工、自動車部門できわめて密接な関係にある。興味を惹かない筈がない。

 主人公はもちろん岩崎弥太郎その人である。しかし、よくもまあ、これだけ多彩な人物を登場させたものと感心させられる位、維新前後の重要人物は殆ど出てくる。また、これらの登場人物を実に鮮やかに描いているのも驚きだ。土佐関係では山内容堂をはじめ、吉田東洋、後藤象二郎、板垣退助、坂本龍馬、武市半平太、林有造、大江卓、谷干城、竹内綱(吉田茂の実父)などがあり、政界では伊藤博文、井上馨、大久保利通、大隈重信、山県有朋、西郷隆盛ほか財界では渋沢栄一、浅野総一郎、古河市兵衛、広瀬宰平、大倉喜一郎など、さらに福沢諭吉から、横浜の有名な女将富貴楼お倉、毒婦高橋お伝まで出てくる賑やかさである。ジャーナリストの世界では福地源一郎、犬養毅(木堂、後首相)も顔を見せる。実在したかどうか知らないが弥太郎と形影従うように三橋節弥というどうしようもない女たらしが、道化役のような形で登場する。
 岩崎弥太郎を軸とするこれらの登場人物が織りなす大ドラマは若々しい活力に満ちた幕末から明治にかけての近代日本黎明期の歴史そのものであり、彼等はそのスターであった。まさに暁の群像である。

常軌を逸した強引な商法
 ともかく読んで損をすることはない本である。維新から明治にかけての歴史に詳しくない方なら、なおさらいい勉強になるであろうし、理解を深めることもできよう。

 岩崎弥太郎については、現在でも必ずしもいい評価ばかりが与えられているわけでもない。著者もそのことを十分心得ていて、できるだけ客観的に弥太郎を眺めようとしている。ともかくやり方が強引である。土佐の方言に“いごっそ”というのがあって、いったん言い出したら絶対あとに引かない、気骨のある、負けん気の強い男のことをいう。こういう人種は土佐ならずともいるものだが、この“いごっそ”(異骨相のなまりという)的人物は特に土佐には多いようである。頭を下げることが嫌いだし、商売人には向かない、とされていた。私の育った土佐の西端は愛媛県に近く、伊予の人は商売が上手いが、土佐の人間はどうも、といわれてきた。確かに土佐人は小商売は下手である。

 ただ、岩崎弥太郎の商売は小商売のワクをはるかに越えて、今日では到底考えられないような饗応、買収そのほか、ありとあらゆる手段を土佐人特有の“いごっそ”気質(かたぎ)で押し通してしまったことに特長がある。政商という言葉があるが、まさにその権化である。そのやり方は批判をするのはともかく、むしろ余りにも常軌を逸した強引さに対して一種の爽快さすら覚える。

国策として推進された海運事業
 三菱の大をなした原動力は海運で、それは今日でも日本郵船、NYKラインとして7つの海に活躍しており、保有船腹量では世界のトップの地位を確保していて、東京海上火災、三菱重工はその派生物である。

 しかし、その起源は土佐商会という土佐藩の特産物を取り扱う、いわば県営の物資斡旋所のようなものから出発している。だから、弥太郎は当初は下級武士ながら土佐藩士として、土佐商会の経営に当たっていたものである。

 ところが、明治維新によって廃藩置県が断行され、土佐藩そのものがなくなってしまった。曲折を経て、土佐商会の事業そのものが岩崎の手に入り、土佐藩船も殆ど無償で岩崎に払い下げられた。これらの船を使って、大阪―土佐、神戸―横浜間の定期航路を開設した。大阪・土佐間の航路はその後土佐商船、関西汽船と事業主体は移り、現在は大阪高知特急フェリーとなって1日2便のフェリーが就航している。実に1世紀以上にわたって、貨客定期航路を続けているおそらくわが国で唯一の定期航路であろう。私自身、土佐商船時代の子供の頃から何回となく乗船した航路で、つい先月も利用したばかりである。横浜―神戸間の貨客船は東海道線が全通するまではドル箱航路で、各船会社が壮烈な客引合戦を演じた。この航路が再開されたのは昭和46年4月、セントラルフェリーによってである。ところが、三洋電機と住友銀行が事業主体では弥太郎が海運に賭けたほどの熱意も執念もあろう筈がなく、僅か1年半で投げ出してしまった。

 ともかく、海運振興は近代日本発展の最大の急務であった。さらに台湾出兵、西南の役など兵員、物資輸送という軍事的要請もある。P.Oなど外国船会社の進出も急で、政府は陰々陽々に国内系海運を保護育成した。今日ではとても考えられないほどの援助を与えている。

三菱の一世紀
 三菱商会となったのは明治6年、いまのスリーダイヤのマークは土佐藩の三ツ柏の紋章に由来している。弥太郎の没したのは明治18年2月7日、52歳の働き盛りの時であった。弥太郎没後の三菱については読者がご承知であろう。
 弥太郎は女を愛し、酒も好んだ。双子を含む妾6人やその子供達を妻子とともに自宅に同居させた。度外れた饗応もする。ジャーナリストの買収も平気。土佐商会を手中に収めるについてもとかくのゴシップは当時からあった。今日的な道徳観からいえば、責められるべき多くのものを持っていたことは事実であろう。しかし、何人と雖も彼の果たした大きな役割について否定する人はない。まさに巨人である。
 弥太郎によって創立された三菱商会は、近代日本の歩みとともに急成長を続けて、今日の大三菱となった。創立一世紀を経て日本経済とともに三菱の抱えている問題も深刻となってきた。弥太郎は泉下で何を思うであろうか。 


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2017.03.27 06:00|外部 寄稿者
記事執筆者・大谷 健氏については、2月16日の図書紹介をご覧下さい。(妙)


1994年(H6) 月刊 「NewTRUCK」3月号

「世相巷談」 大谷 健 (元朝日新聞編集委員) 
大事なことまでケチる

 私の友人に奇特な人がいる。大森和夫さんといい、私と同じく朝日新聞の編集委員をつとめた。政治部出身で、教育問題にくわしく、中曽根首相の教育改革を追跡した「臨時教育審議会3年間の記録」や「偏差値と内申書のウラ講座(どちらも光書房)らの著書がある。

 ところが大森さんは突如として平成元年1月、朝日新聞をやめる。25年10ヶ月の記者生活に別れを告げ、日本にいる外国人留学生との交流を図る「国際交流研究所」を自費で設立したのである。その資金に全退職金を投じた。その話を聞いてわれわれ仲間はびっくりした。俗っぽい新聞記者達はよくぞ奥さんが承知したな、などとうわさし合ったものだ。

 しかしまぎれもなく美挙である。研究所のもっとも大きな仕事は、留学生や海外の日本語学習者のために季刊誌「日本」を2万部発行し、留学生のいる日本の大学と、日本語学部のある海外の大学に配布することだ。国内の大学の一部は買い上げてくれたり、送料を負担してくれるところもあるが、無料である。
 「日本」は全部日本語で書かれているが、総ルビで、文章も外人にわかりやすいようにしてある。留学生にわかりにくい日本人の暮らしや社会生活、日本語を説明している。これが留学生に受けて大評判。海外からもお礼や注文が舞い込んでくる。大森さんは資金が切れる3年でやめるつもりが、やめるにやめられなくなった。

 これを見て外務省と日中経済協会や一部企業、団体が協賛金を出してくれ、大企業は「日本」に広告を出稿してくれた。3年でやめるつもりが、昨年で5周年を迎えた。しかし「日本」の発行費、送料など1500万円の出費に対し、収入は1200万円、その差額を大森さんが負担している。

 ところがバブル後の不況が深刻になって、広告を出してくれていた大企業が次第に出さなくなり、昨年の12月号はゼロになった。会社それぞれに事情があり、中には高年層の人員削減を発表した会社もある。大森さんも「仕方がない」とあきらめている。
 だが広告ゼロの「日本」を手に取ると、何とも情けない思いになる。企業が一生懸命に経費削減に努力するのはわかる。しかし「日本」の広告料を削ってみたところでどうということはなかろう。まず切りやすいものから切ったのだろう。台湾人、中国在住の日本人を含めて個人137人が協賛会費を払ってくれているというのに。
 大森さんが負担に耐え切れず、廃刊ということになれば、留学生達は大いに失望するだろう。ひいては日本への失望につながるのだ。大森さんの仕事は日本と留学生を結ぶかけ橋の役割を果たしている。廃刊になれば一つのかけ橋が消えてしまう。読者は中国人がもっとも多く、海外配布も中国へは49校に達する。このきずなが切れてしまうのだ。

 「日本」の昨年12月号の巻頭に細川首相のメッセージがある。実は大森さんと細川さんは朝日新聞の同期で、大森さんは政治部、細川さんは社会部を担当し、どちらも中途で退社し、1人は首相、1人は社会活動に入った。ひょっとしてこの「ニュートラック」が印刷中に細川内閣がなくなっているかも知れないが、「日本」だけはまだまだ長続きしてほしい。


みなさん さようなら

2008年3月29日
呆れた平成の先生 躾を忘れた教育ぶり
明治の教室にて

 卯之町の「開明学校」は、小学校児童の教育施設参観の対象になっているようで、この日も何組かの小学生が訪れていた。参観コースの中に、2階の教室での実習があり、小さな机と椅子に座って、指導員の先生のお話を聴くことになっている。

 40人ばかりの児童が教室に座って、先生が教室の壇に上がったのに、児童の半数ほどは帽子をかむったままである。中年の男女の先生が一緒に教室に入って、女の先生は盛んに写真を撮っている。帽子を脱ぐよう児童に指示はしない。どうするのか、と思ってしばらく見ていたが、たまりかねたのか指導員先生が「帽子を脱ぎなさい」と指示。やっと帽子を脱いだが付き添いの男女先生は「われ関せず」の涼しい顔をして、知らぬ顔である。「起立、礼」のかけ声も、指導員の先生が発言した。まさか、現在の小学校では帽子をかむったまま授業を受けているのではないだろうし、「起立、礼」も実行していると思うのだが、これが現実だとは信じられない気持ちであった。小学6年生の子供たちらしい。

 学校の先生方は、何を目的に子供たちを開明学校に引率してきたのだろうか。社会教育の一環として、重要文化財の古い校舎を見せるのが、カリキュラムの中に組み込まれているためだろうか。教室の壇の横には何かいたずらしたか、遅刻したのか、バケツと雑巾を持って立たされている子供の等身大人形があった。躾(しつけ)とか、礼、行儀などの大切さこそ、このような明治の学校参観で勉強させることが重要であるのに、女先生は一所懸命に写真を撮り、男先生は突っ立ったままである。
 指導員の先生は、真っ黒になった習字半紙の綴りを見せていたが、白い部分が見えなくなるほど練習を重ねた昔の習字を想像させることは、なおさら難しいことだろう。

 開明学校には、教材として使用した懸け図などの保存では群を抜いているそうだが、展示中のそれらのレベルは相当に高い。この記事をパソコン入力している最中、聴くともなしに付けっぱなしのラジオから、戦前のある時代、石川県のある小学校が老朽化した校舎を改築する基金がない。困った父兄が、すべて禁酒を誓い合って、そこで浮かんだ金で改築した、という話が報道された。過疎でその小学校は長い歴史を閉じるそうである。

 この禁酒による校舎改築は、アメリカの禁酒運動家にも衝撃を与えて、見学に来日したというが、明治初期の学校建築には父兄の並々ならぬ熱意、真剣さが込められている。
 その結晶の明治の開明学校での平成の先生と子供たち、単なる知識を教えるだけで、躾を忘れてしまった教育の結果は、各方面に露呈しているが、教育現場はかくのごとしだ。



みなさん さようなら

2006年(H18)3月4日

「天籟(てんらい)」と敗戦前後の昭和天皇の大変化

 朝日新聞のコラム欄を「天声人語」という。
 昭和20年8月の敗戦直後、日本中がどの方向に進めばよいのか、去就に迷っている時の9月5日付の朝日新聞社説に、その大変革は、どこから来たのかについて「八月十五日の天籟からである。天籟なるが故に真実を指され給うた。」とあったことを先週のこのページで紹介した。「天籟」とは天声に近い言葉で、執筆者にはその意識があったかもしれない。新年以来読み続けて、やっと読了した『昭和精神史』(桶谷秀昭著・文春文庫版)の終末、第20章「春城草木深し」篇に出てくる。

 籟(らい)とは笛の意味で、人籟、地籟、天籟の別について『荘子』の「斉物論」に出ている言葉だとして、著者の桶谷氏は解説している。人籟は、人が楽器を使って音を出すものであり、地籟は風が地上の穴などに呼応して出す音だが、その音は風がなくては生まれない。本来風に音がないとすれば、風を用いて音を生む存在は、目に見えず、耳に聞こえぬ「無」の存在でなければならない。その天籟を、聴くためには、心を無にして、つまり虚心の状態でなければならない。先に述べた孔子と顔回との問答に出た耳で聴いてはいけない、心で聴いてもいけない、気(精神力)で聴きなさい、それが「心斎」だと言っているのと、ニュアンスは似ている。

 終戦の詔勅は、天籟として虚心に拝聴すべきである、と社説執筆者は述べているのだろう。ただ、これだけでは、具体性はまったくない。各人各様の拝聴の仕方、受け取り方が出てくるのは当然で、あの当時としては、こういう言い方しかできなかった事情は理解できる。安岡正篤先生も詔勅原案に加筆されているようだが、今、これを拝読しても、敗戦という非常事態の中で、よくぞこれだけの委曲を尽くした文章ができたものだと思う。先生の加筆の中で、これは難しいと閣議で修正された部分もあると聞くが、もし現在、あのような建国以来の非常事態に対応するため、内外に国としての宣言文を出さねばならないとしたら、果たしてあれだけの格調の高い文章の起案者なり補筆者がいるだろうか。

 先週、昭和天皇は老荘思想をお持ちであったのでは、と書いた。敗戦までの天皇は現人神として、大元帥陛下として、神であり、陸海軍の統率者であった。戦後になると、モーニングを着て通常軍服のマッカーサーに会われ、人間天皇を自ら宣言され、軍服から背広と中折れ帽子に着替えて、国民の中に入って行かれた。私たちの世代は、それを目の当たりにして驚いたものだが、儒教的思考だけでは理解に苦しむ昭和天皇の大変化であった。



みなさん さようなら

2017.03.16 06:00|「今月の論語」
(毎週/月曜・木曜 更新 )
今回の原稿を読んで、まず、「ああ、やっぱり日本人の根本は変わってないんだなぁ」と思いました。
サッカーの試合後、サポーター達によるスタジアムでのゴミ拾いや、どの国にも分け隔てのない応援をするスポーツマンシップに感激されたり、大震災の被災者が寒風の中でも辛抱強く列に並ぶ様子がネット上に掲載され、各国のメディアも随分取り上げて話題になりました。
110年前の「笠戸丸」移民の様子を知る人は今では皆無に近いと思われるのに、平成の人も同じ事をしているんですね。DNAでしょうか、日本人を作った一切のものに感謝です。(妙)


1994年(H6) 月刊 「NewTRUCK」 3月号
今月の論語

ブラジルの新聞が絶賛
神州清潔の民の誇りを持った「笠戸丸」第一次移民のひとびと

 年末から年初にかけて遠く南米へ旅をした。
 ブラジル第一の都市サンパウロの『ブラジル日本移民史料館』を訪ねたいきさつについては、本誌『周作閑話』に書いたが、同館で入手した『日本移民八十年史』(B5版451ページ)の記事の中で、強く胸を打たれた部分を紹介する。
 日本からブラジルへの集団移民約780名が「笠戸丸」でサントスに上陸、サンパウロの移民収容所に到着したのは1908年(M41)6月19日のことだった。以下に引用するのは同じ月の25日付の現地新聞「コレイオ・パウリスターノ」紙に掲載のソブラード記者の記事である。

 「移民は19日、船より上陸し、同日サンパウロに到着せり。その船室及びその他の設備を見るに、皆相当の清潔を保ちおり……さればサントスにては日本船の3等室は、大西洋航海の欧州船一等室よりも清潔なりとまで評せるものありき。
 ……移民収容所に入るに当たり彼等は整然として列車より下り少しも混雑せず、その車中を検するに一点の吐唾の痕なく、又果物の皮等の散乱せるもの一もなかりき。則ち見る者をして不潔なりと思わしむべき一物も存ぜざりしなり。
 ……又真鍮の頭を有する小さな竹の棒の先に付けたる小旗を持ちたる者多かりき。この旗は一対宛ありて一は日の丸にして他は黄緑なり。則ち日本国旗及び伯国(ブラジル)国旗なり。これらの移民は吾人に厚意を表さんが為、日本において作れる絹の伯国国旗を持ち来るなり。優美なる又高尚なる心事なるかな。
 ……而してその洋服は皆移民らが自身の費用を以て買い整えたるものにして、見るさえ心地よき清潔なる新しきものなりき、又婦人は木綿の手袋を用いたり。
 1時間ほど食堂にありし後、彼等は自己の室及び寝室を見んがために出て行きたり。然るに驚くべし、彼等の去りし後には一つの煙草の吸殻及び又は一つの吐唾もあらざりき。是れ他国移民が忽ちその居所を踏み蹂みたる煙草及び吐唾を以て不潔を極むるに比して雲泥の相違なり。」

 ソブラード記者の目に映った85年前の日本人移民の姿は、ややベタ褒めのところがあるにしても、他の国の移民達とは全く違った清潔で心事高尚な人達だった。
 同記者はさらに次のようにも書いている。

 「781名中読書力を有する者532名で総数の68%、残余の249名は無学だといっているが、全く文字を解さないのではない。結局文盲は全数の10%にも達しない。
 ……伯国語を学ぶに熱心であること、妻を信頼し、多額の現金をこれに托すること、携帯品が多いのは、欧州移民の如くには全くの貧困者ではない証拠であり、将来サンパウロの産業は、この日本移民に負うところが大きいだろう。」

 この予見は見事に適中して、現在のサンパウロとその近郊の農産物生産はほぼ日系人の独占状態であり、ブラジル最高レベルのサンパウロ大学の学生中、全人口の1%に過ぎない日系人が10数%を占めて、卒業生はブラジル社会のあらゆる分野で活躍している。

 論語に次の言葉がある。
   君子コレニ居ラバ、何ノ陋(いや)シキカコレ有ラン。(小罕第九)

 夢に描いた新天地とは大きく異なる苛酷な状況の中で、移民達はひたすら働き、子供を教育した。その移民の子孫が10数万人も日本に出稼ぎに来ている。父祖の国の日本は彼らの目にどう映っているだろうか。


ブラジルの新聞は、他国の移民との違いを描写していますが、「恥ずかしくないように」という気持ちが日本人の心の底にあるのだと思います。その心構えで精一杯身なりも整え、日の丸と、これからの国の旗を持って上陸したのでしょう。(妙)


みなさん さようなら

2017.03.13 06:00|「周作閑話」
1994年(H6) 月刊「NewTRUCK」 3月号
周作閑話

サンパウロの移民史料館 ②

 史料館は9階建てのブラジル日本文化協会ビル(略称文協ビル)の7階8階を占めている。
 史料館については、斉藤氏の著書を通じて大体のことは承知していた。最近は国内各地でも郷土史料館がづくりが盛んで、古い生活用具や農耕漁撈器具の展示が多く見られる。
 移民史料館の展示品もそれらと似たものもあるが、少し詳しく見てゆくと、日本から持参したものと、現地で作ったものは明らかに異なる。風土、文化の全く違った中で、当初はコーヒー栽培を主体に入植した移民達が、ブラジルの社会の中で必死に生きていった“あかし”の品々の展示には胸を打たれる。

 復元された掘立小屋のような住まいにはご真影(天皇皇后両陛下のお写真)が掲げられている。
 ブラジルに移った移民達は永住するつもりはなくて、何年かコーヒー園で働いた後、まとまった金を持って日本に帰国するのが目的だった。しかし、現実は厳しくて、ブラジルの大地にしがみついて生き抜いていかねばならないことを知らされる。雇われ農夫では収入も押さえられているので、請負、自作への道を歩み出して、ブラジル社会の中に一定の地位を占めることになるが、帰国はますます遠いものになってゆく。

 ブラジル国内でのナショナリズムの台頭、第二次大戦下では、ブラジルは対日宣戦布告、戦後は、日本の敗戦を信じようとしない、いわゆる勝ち組と負け組の血の争いなど、移民とその子孫にとって厳しい時代が続く。
 そして、戦後のごく短い間の第2次の移民を迎えて、現在のブラジルでの日系人はおよそ140万人、ブラジル人口の1%を占めるが、その社会的地位はかなり高く、五世も登場している。
 それ迄にはなかった新種の作物などを導入してブラジルの農業を大きく発展させたのは日系人であるし、ブラジルに進出した日本企業も多い。

 移民史料館は、笠戸丸の第1回ブラジル移民以来の足跡を追い、日系人のブラジル社会に果たす役割や日本とブラジルの交流友好促進について、その展望を示している。

 ところが、史料館建設の1978年当時には思いもかけなかった事態が日系人社会に起こった。
 逆移民、いわゆる出稼ぎ問題である。
 1980年代、ブラジルは深刻な経済危機に直面して、逆移民、つまりドイツ系はドイツ、ポルトガル系はポルトガルにというように、父祖の国への移動が活発になった。折柄バブル景気で労働力不足に悩む日本に対して日系人が移動するのは当然で、当初は観光ビザでの不法就労だったものが、90年には入国管理法が改正されて、日系人の正式に就労を目的とする日本入国を認めることになった。
 国策としてブラジル移民を奨励した日本政府の、せめてもの誠意であろう。

 正確な数字は不明だが、日本に入国している日系ブラジル人は約14万人、ブラジルの日系人のほぼ1割に相当し、ブラジルへの送金額は10億ドルと推定する向きもある。外資不足と高度のインフレに悩むブラジルにとってこれは大変な金額になる。
 反面、いきのいい青壮年層の流出による日系人社会の空洞化、家族関係等に不安要素も大きいという。
 斉藤氏の『ブラジルと日本人』は、私をサンパウロの移民史料館に導き、日系人のUターン現象の実態にふれることになった。

 昨夜(1月28日)丹青社の佐々木朝登氏(丹青社研究所顧問)と、ブラジルのこと、博物館のあり方などについて大いに語り合った。その内容を記すゆとりはないが、これも斉藤氏著書により結ばれたご縁である。
 叶わぬことだが、斉藤氏は一献酌み交わしたかった人物である。
(おわり)


みなさん さようなら

2017.03.09 09:28|「周作閑話」
1994年(H6) 月刊「NewTRUCK」 3月号
周作閑話

サンパウロの移民史料館

 「安全には十分気をつけて下さい、マシンガンを持って銀行に押し入った強盗がいざ引き揚げようとしたら、自分達の車が盗られていた、というところです」リオデジャネイロから空路サンパウロ入りしたわれわれを迎えた現地ガイドはバスの中で厳重に注意した。
 連れて行かれたのは、小高い土地にあるサンパウロ大学構内にある毒ヘビ研究所。人影も疎(まば)らで、ここなら安全だと思ったのだろう。

 「移民史料館へ行きたいが、コースに入っていますか」と聞くと、入ってはいないがその近くで皆さんと降りますから、と答えた。
 この移民史料館のことを知ったのは一冊の本だった。

 南米は私にとって全くの未知の世界である。
 出発までに予備知識を仕入れておきたいと思って、地理や人文の書物を6冊ばかり購入したのだが、普通の月なら月末でいい記事の締切が年末のために繰り上がっているし、南米へ25日出発だから、24日迄には仕上げておかねばならない。諸用も普段より多い。とうとう南米についての勉強は殆どできないままで出発の日がきた。
 日本とは真裏の一番遠いところに行くのだから飛行時間も長い。時差は12時間あって、昼夜は完全に逆転するから、現地時間に合わせるには24時間寝ないに限る、向こうでも本を読む時間は十分ありそうだと判断して、南米について買った本は全部持って行った。

 その中の1冊が斉藤博志著『ブラジルと日本人』(サイマル出版)で、書名のとおり、ブラジルと日本人のかかわりについて実に達意の文章で書かれている。
 著者の斉藤氏は両親と共に移民の子としてブラジルに渡って、苦学しながらサンパウロ大学社会政治学科を卒業した文化人類学者である。しかし、単なる学究の徒ではなく、農耕生活や、現地の邦字新聞記者編集者の体験をバネとして、ブラジルの日本人と日系人のために尽力した。1908年(M41)笠戸丸で第1回の移民700名余りがブラジルに渡って70年の記念事業のひとつとして、ブラジル日本移民史料館の建設が決定し、その推進役として奔走したのが斉藤氏であり、自ら初代館長に就任したが、その5年後の1983年、直腸ガンのために死去、64歳だった。
 15歳でブラジルに渡り、現地の学校をその国語であるポルトガル語で卒業した斉藤氏が、記者や編集者の体験があるとはいえ、どうして日本エッセイストクラブ賞を受けた程の軽妙でユーモアがあり、しかも内容の濃い日本文が書けるようになったのか、もちろん豊かな天分にも恵まれていただろうが、人一倍の努力をしたに違いない。

 アマゾンの釣りを『オーパ』に書いた開高健氏は、この本の序文の中で「斉藤先生は、背骨が1本、いや2本くらい通っているほどの剛気があった。友だちとして、あるいは師匠として、最高の人物であった。」とその死を惜しんでいるが、開高氏もその友、師の斉藤氏の後を追った。
 『ブラジルと日本人』は持ち込んだ本の中でも真っ先に読み通した本で、サンパウロに到着したら何をおいても斉藤氏が心血を注いだ移民史料館を訪れたいと心に決めていた。

 それともうひとつ、この史料館の建設については丹青社の佐々木朝登ディレクターの協力があったと斉藤氏が書いている。丹青社はわが国でもトップクラスの展示装飾会社であり、日新出版の主催するトラックショーも取り仕切っているのだが、これは正直のところ意外であった。サンパウロにも同種の企業はある筈なのに、なぜはるばる日本から仕事をするために出て行く必要があったのか、仕事ぶりを見てみたい気もする。

 毒ヘビ研究所を出て市内をバスの中から見物、次に降ろされたのは東洋人街、東洋人とはいいながら目に付くのは日本字の看板ばかりである。一行が案内されたのは土産物店の“まるやま”で、コーヒーなどの買い物は女房に任せて街の通りを抜けて移民史料館へ行く。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.03.06 06:00|「周作閑話」
1982年(S57)月刊 「特装車とトレーラ」 3月号

閑谷学校 (しずたにがっこう)

 この1月から始まったNHK日曜夜の大河ドラマ「峠の群像」は原作者が通産官僚出身の堺屋太一氏ということもあって、経済忠臣蔵という側面を持っている。従来は吉良上野介とともに憎まれ役の筆頭であった大野九郎兵衛に対しても、現在でいえば財政担当専務という役柄として正当な評価を与えようとしているなど、これまでに見られなかった新工夫が見られる。

 昨年の大河ドラマ「おんな太閤記」のラストシーンは、大阪夏の陣で敗れた豊臣方の本拠である大坂城が炎上するのを遠く京都から“ねね”が涙ながらに見るところで終わっている。これが元和元年5月(1615年)のことで、天下は徳川氏の下に統一され、明治維新(1868年)までの間、ほぼ250年間、世界でも珍しい戦争のない平和国家が続いた。
 徳川家康は武将、政治家としても非凡の英雄で、本人も学問好きであったし、学問を大いに奨励した。その子で尾張藩祖となった義直や黄門で知られる孫の光圀などは、学問の世界でも大きな業績を残している。犬公方(くぼう)と呼ばれた5代将軍綱吉となると、学問に淫(いん)したと評されるほどのめり込んで失政をするようになるのだが、将軍家がこうだから、三百諸侯すべて学問熱心になったのは当然である。

 武士はエリート階級で官僚であるから、剣術が強いだけでは勤まらない。学問をして教養をつけ、財政にも明るくなることが要求された。それぞれの大名は領国を持っているが、それは固定のものでなく、もし治政に失敗すれば、国替え、或いは取潰しになる。また、領民から年貢を取立てるにしても、無理矢理に収奪をすれば一揆という手段に訴えられる。そこで、新田を開拓したり、その地その地の特産品を作って、領国外に移出して外貨を稼ぐことに各藩が懸命になった。「峠の群像」では赤穂藩の塩が出てくるが、これはごく近年まで、赤穂地方を潤してきたものである。

 学問の奨励、産業の振興という目的を持って各藩はそれぞれの治政を展開したが、それは治政コンクールのようなもので、○○藩は良く治まっている、天災や凶作の時にも死人は全く出さなかった、などと評価されることになる。

 お隣の中国は、完全な中央集権国家で、政府から任命された官吏が地方官として赴任する形を取っていた。日本のような世襲大名ではないので、ごく短い任期で交代する。こういう形では、その任期の間だけ何とか無事に治めれば良いということになって、50年、100年という長期展望に立った行政を展開することは難しい。

 現在は開発によって緑が失われつつあるが、それでも樹木の多いことでわが国は世界のトップに位置している。これは自然の条件もさることながら、代々にわたって営営として治山や治水に努めた結果なのである。ハゲ山の多い、中国大陸や韓国を見るとその差は歴然としている。

 学問は私達が想像する以上に奨励されていた。江戸時代のわが国民の識字率は半数を超え、文化の先進国と考えられた欧米を凌いでいた。幕末、開国によって日本へやってきた外国人がひとしく驚いたのは、貧しいけれども教養が高く、礼儀正しい日本人の姿だった。それは都市の人民だけでなく、地方の名もない村々でもそうだったと報告されている。明治11年に東北から北海道へ辺地ばかり選んで旅をしたイギリスの女性旅行家イザベラ・バードのレポートは実に活き活きと当時の鄙地農民の姿を描いて胸を打つ。(1月のNHKラジオ第2世界のノンフィクションで放送された。)

 このような高い教養を持った江戸期の日本人を生み出した教育制度がどのようなものであったかを詳しく説明するゆとりはないが、大まかに言うと、幕府のお膝下の官学としての昌平黌(しょうへいこう)があり、各藩には官学としての藩校やそれに準ずる郷校、そして民間教育機関として私塾、寺子屋があった。明治初年の藩校は278校、郷校の正確な数は分からないが、寺子屋は全国1万5千余あったという調査記録がある。(笠井助治著近世藩校に於ける学統学派の研究 上下2巻)

 1月23日、筆者が訪れた閑谷学校はその郷校のひとつである。前日、旧知の岡山三菱ふそうの塩原社長、山口部長と懇談して一泊、山陽美川ボデーで永崎社長と会い、小さな山の向こう側にある校舎にご案内頂いたものである。工場の裏側に古い道があり、昔はこの道を通って閑谷学校へ行ったそうなんですよ、との話。

 山あいの閑静な地に、中国風の石垣に囲まれた堂々とした一見禅寺形式の講堂、広い前庭を隔てた小高い場所の聖廟、閑谷神社、諸門などの建物があり、講堂は国宝建造物、その他の主な建物はすべて重要文化財、その一帯は国の特別史跡に指定されている。
 講堂などの屋根は普通の瓦でなく備前焼で赤味がかって美しく、ケヤキ、桧、松の選りすぐった良材によって入念に作られたこの建物は元禄14年(1701年)の完成、忠臣蔵の発端となった松の廊下の刃傷のあった年に当たり、既に300年近く経っているが、ビクともしていない。
 これら一群の建物はいわば儀式用のもので、建物の左側、火除(ひよけ)山と呼ぶ大きな土堤を隔てて学房、宿舎、食堂があったが、これらの建物は失われて、新しい建物となり青少年教育センターになっている。

 岡山藩には城下の岡山に藩学校があるのに、どうしてこの山あいの地に、このような立派な学校を建てねばならなかったのか。その説明には江戸時代を通じての名君としての評価が高い備前岡山池田藩祖池田光政について語らねばならないが、紙数も尽きたので、ごく簡単に触れる。

 池田光政(1609-82)は良臣を登用して治政に努め、大土木工事を起こして児島湾に大きな新田を作り灌漑の便を図り、流水戸数4000以上という大水害の時にも、ひとりの飢えもないようにせよと下知、藩の総力を挙げて復旧した。
 学問には最も熱心で、近江聖人中江藤樹に私淑、参勤の途中大津の旅宿でその講義を聞くのを常とし、その高弟の熊沢蕃山を重用したことは有名である。幕府の官学は儒教の中でも朱子学であったが、光政自身は異端の挙とされた陽明学を信奉した。

 現在残っている閑谷学校の建物は、光政の子綱政の治政に完成した。場所の選定や岡山の藩学校がありながら、武士も農民も共に学ばせるという士庶共学の方針を立てて実行、隠居してからも綱政に対して、学校の存続を要求し続けたのは光政だった。
 閑谷学校は正式の藩校のワキの役割を持ち、庶民の入学も許した珍しい学校であった。それにも拘わらず、大変な藩の費用を注ぎ込んで完成させ維持してきたことは、教育を重視した江戸時代のなかでも特筆されることであろう。

 ただ、この学校で学んだ生徒のなかで、特筆される人物は出ていない。岡山県全体が人材貧困で、今もハングリー精神が欠如したおっとり型が多いのは、ゆき届いた治政と良民教育のせいであろうか。
 萩の松下村塾、九州の広瀬淡窓の咸宜園、大阪の緒方洪庵の適塾といった教育としては十分でない私塾で人材を輩出していることと較べて、改めて教育の中で指導者と施設の問題について考えさせられたことであった。


みなさん さようなら

2017.03.02 08:02|その他月刊誌記事
1982年(S57)「特装車とトレーラ」3月号

特集 トレーラリゼーションへの提言 
日本の車両法規は世界の中で孤立  おわり

過積20年を許した行政の怠慢と不決断
 世界百数十ヵ国のなかで、わが国だけが総重量制を採用していることの歴史的背景については、これまで述べてきたとおりで、やむを得ない点があったことも事実であろう。
 しかし、このような事態になることを見通して、的確な手段を講じるという先見の明と、実情に合わなくなった法体系の手直しをするという果断さが関係者に欠けていたことも指摘されねばならない。

 現在、論語が一種のブームになっていて、その中に「過ちを改めないのが本当の過ちである」「つまらぬ人間は過ちを改めようとせず、何とか理屈をつけて誤魔化そうとする」(文【かざ】る)という痛切な一節がある。わが国の総重量制への固執はまさにこの言葉通りである。…過積みという違法行為を蔓延させ、正直者がバカを見るという行政を20年近くも続けて、やっと運政審の答申を受けて、何とか考えてやってみるかと重い腰を上げるというのは、行政の怠慢といわれても仕方のないところであろう。

手直しのチャンスは40年前にあった
 結果論になるが、手直しのタイミングは昭和40年前後に一度あったと思う。日本フルハーフが38年に、日本トレールモービルがその翌年に設立され、程なく東名、名神高速道路の開通、海上コンテナの上陸、長距離フェリーの就航という、わが国の輸送体系を根本的に変えてしまうような出来事が相次いだ時期がある。

 また、この時期は、車両の大型化がカベに突き当たって過積みに走り始めた時期にも相当する。この時点で既にわが国独自の総重量20t制は輸送システムの国際化、車両制作技術の向上という両面からその矛盾を露呈したのであった。
 その矛盾を手直ししないまま現実は目まぐるしく進展して、法体系だけが取り残されてしまい、海コンに押しまくられて、やれ特認だ、高さを3.8mだという弥縫策(びほうさく)に終始した。

 官庁、民間、メーカーが協力してダブルストレーラを誕生させたのもこの時期から少し後、昭和46年のことだが、肝腎なのはダブルスを作ることより、そのダブルスを走り易くする環境の整備であった筈である。10年余り経った今も、関係者苦心のダブルストレーラが棚ざらしのままになっているのは、ハードに走ってソフトを忘れたわが国の輸送体系近代化をよく象徴している。
 この時期は官民の間も比較的しっくりしていて、新しい輸送体系に取り組もうという姿勢が見られた。もし、法体系の見直しが強力に主張されたら、総重量の見直し、さらには軸重制への移行が今から10数年も前に実現したかも知れなかったのである。

10年に及ぶ本誌のロングキャンペーン
 ここで筆者・増田個人のことを言わせていただくと、筆者が本誌の発行責任者としてお目見えしたのは昭和45年のことである。それまで輸送やトラックに全く無縁の世界にいたこともあって、当初は業界の実情がさっぱり分からなかったが、車両法規の矛盾に気が付いたのはかなり早かった。

 50回に及んだ「周作対談」のトップに、ダブルストレーラ生みの親、前田源吾氏(現全ト協副会長)にぶつかって、今から考えると全く冷や汗だが、ここでトレーラのことを初めて教えて戴いたのである。(45年1月号に掲載)
 それから程なく平坂重雄氏(現車体工業会常務理事、当時日産ディーゼル工業在籍)の知遇を得ることになり、同氏の指導もあって、48年から“くるまの法律シリーズ”をスタートさせ、法体系の問題点を指摘し続けてきた。
 このキャンペーンは57年の今も続けられているのだから、実に10年に及ぶロングキャンペーンということになる。その時その時の線香花火的なキャンペーンを張ることに汲汲としているジャーナリズムの中にあって、経済的に何のプラスにもならぬキャンペーンを10年続けたことについては、いささかの感慨と自負がある。

 車体工業会事務局と本誌筆者の間は決して友好的な関係にあるとはいえない。筆者はジャーナリストの立場から時として容赦のない筆誅を事務局に加えるときがある。平坂氏の車工会入りについてもその任に非ずとして筆者は反対し、その論陣を張ったこともある。
 それにも拘わらず、平坂氏と筆者の友誼は10年余にわたって変わることなく続いているのは、車両法規を何とかしなければ、という両者の信念がその間を結びつけていたからである。…

単なるGVW見直しに終わってはならない
 運輸省が重い腰を上げて車両総重量の見直しを含む車両の大型化に前向きな姿勢を見せ始めたことは、たしかに歓迎すべき事態である。
 しかし、ここで注意するのは、この見直しが総重量20tを23tにするという現行法規の単なる拡大に関心が集まっていることである。見直さなければならないのはわが国の車両法規の思想と非合理性であって、総重量見直しはその一部に過ぎない。
 この非合理性を温存したままで総重量を23tに変更するようなことになれば、一部の関係者が危惧する事態、つまり多少の過積みはいいだろうとなって、過積み枠がさらに拡大することも起こりかねない。
 単車トラックならここまで、という明確な一線を画してそれ以上は軸数と軸距をふやした合法的なトレーラへの道を切り開いてやるべきである。欧米がそうだからといって猿真似をする必要は全くないが、合法的な運送効率という点で彼等が優っているのは事実である。

 欧米では一般化しているトレーラ輸送が、法令の上でも実際の運行面でも特別なものとして取り扱われているのは行政の怠慢もあるが、輸送業者、荷主、そしてメーカーの姿勢にも大きな問題がある。ひたすら過積に走り、過積みに耐える車づくりに狂奔したメーカーの責任も、行政側に負けず劣らず大きい。

 合法的な効率輸送はどうすれば達成できるかを真剣に取り上げねばならない。官庁が○○委員会という組織を作るとき、大学教授の肩書きを有難がるクセがある。筆者の知るところ、学者先生で、物流の権威と自称する人はあっても、輸送効率アップに最も効果のある車両法規の見直しに対して、真剣に取り組んだ人はいない。
 おそらく、車両大型化についてはそのための委員会が組織され、この問題に余り縁のなさそうな人もその席に連なると思うが、関係者はこの行方を注視し、その声をこの改正に反映させる努力を重ねなければならない。

 自主的積極的な活動が殆ど展開できない日本自動車車体工業会の下部組織のトレーラ部会しかトレーラメーカー発言の場がない、という現実は、日本のトレーラリゼーションを推進するべき役割をメーカー自体が放棄してしまった姿勢そのものである。この時期、これでいいのか。
(おわり)

プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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