みなさん さようなら

2017.05.29 06:00|「周作閑話」
1983年(S58) 月刊「特装車とトレーラ」 5月号

周作閑話

「赤城の子守唄」②

 控え室で、舞台の袖で、東海林太郎はやはり謹厳だった。私はさりげない挨拶を交わした程度だったが、この人を大きな舞台に戻した、という満足と昂奮で胸はいっぱいだった。

 高度成長の時代に移り、テレビが普及、古き良きものへの再評価が高まり、東海林太郎も昭和40年、66歳で歌謡界初の紫綬褒章、44年、70歳でこれも初の勲四等旭日小綬章を受け、40年には日本レコード大賞特別賞を、47年10月4日73歳の死に当たっては正五位勲三等瑞宝章と、その晩年は栄光に包まれ、ブラウン管にもよく登場したので、ご記憶の方も多いと思う。

 その東海林太郎の舞台を昨夜観た。もちろんご本人である筈はなく、藤田まこと扮する東海林太郎だが、姿形を似せているだけでなく、その人になり切っていて、いい舞台だった。
 藤田まことは「ことし芸歴30年ですが、前半15年は雑歴みたいなもの。昭和28年冬、東海林太郎先生と初めて会った。大雪の夜、5、6人しか客が居ない舞鶴の小屋で、先生はノーカットで舞台をつとめられ、若い私は感激した。その感動はいまも体の中にある。」(2月23日朝日夕刊)と語っている。彼にとって東海林太郎は芸能生活を支える心の師でもあるのだろう。その心の師を演じる彼の演技がまた観客の感動を呼ばない筈がない。時に笑い、泣き、大きな拍手が起こる。

 隣席の妻もハンカチを顔に当てている。妻は小さいとき、母と生別した。そのあと、2人で山道を歩いている時、父がしみじみと歌ってくれたのが「赤城の子守唄」だったという。その義父も、私のどん底の時代に亡くなり、葬儀に帰郷した私達は大阪に戻る旅費さえない有様で、この父には夫婦とも何もして上げられなかった。その父を思い出しての涙でもあったのだろう。

 東海林太郎は晩成の歌手である。早稲田を出て、当時随一の国策会社南満鉄道に入ってエリート社員の道に入ったものの、軍閥政治を批判するような調査論文を出したりして閑職に置かれ、8年後退職、30歳を過ぎて「赤城の子守唄」でデビューした。
 藤田まことの舞台は何処までが実話か、フィクションなのか、これはわからない。しかし、歿後まだ10年、その人を知る関係者も多く、フィクションにも自ら限界があったろうし、何より主演の藤田まことが心の師の姿を観衆に訴えたかったに違いない。

 歌手の芝居は最近の流行だが、役者の藤田まことが歌手東海林太郎として、そのヒット曲を歌いまくったのには驚かされた。口の開け方など、まるでその人を見るようでさえある。芸歴30年、その結晶を演技だけでなく、歌にもぶっつけたのであろう。
 藤田まことの父は藤間林太郎といった往年の時代劇のスター、いわば蛙の子は蛙の例で、スチャラカ社員、てなもんや三度笠など、彼のいわゆる雑歴から脱してホンモノの役者として前進しつつあるのはひとつのバックボーンがあり、それには東海林太郎の影響も大きいだろう。

 客演の辰巳柳太郎、新国劇の方の赤城山であまりにも有名な人で私も舞台を見ているが、77歳の今日も立派に舞台を勤めるその役者根性に接することが出来たのも嬉しかった。

 記念にと妻が買ってきた東海林太郎のカセットテープが、「赤城の子守唄」「野崎小唄」「すみだ川」「旅笠道中」「名月赤城山」「むらさき小唄」「お夏清十郎」「麦と兵隊」など彼のヒット曲を幾度も反転するのを聞きながら、この原稿を書き上げた。
  「宮本武蔵は剣を通じて己を完成させた、私は歌によって己を完成させたいのである。」と東海林太郎は書いている。
 窓外はしとどの春の雨、間もなく夜明けだ。(3月17日早朝)



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みなさん さようなら

2017.05.25 06:00|「周作閑話」
1983年(S58) 月刊「特装車とトレーラ」 5月号

周作閑話

赤城の子守唄

 昭和26年か27年かはっきりしないが、何れにしても30年も前のことになる。小さな土木請負をしていた父の頼みを受けて郷里の土佐へ帰っていたが、その事業そのものも順調でなく、私自身、全く畑ちがいの世界であったこともあって、失意の時代だった。

 そんな時、Sという小さな町の劇場に東海林太郎の実演がかかったことがある。テレビも民放もなく、都会には満足な劇場が少なかったその頃、歌手や俳優はいわゆるドサ廻りに活路を求めていた。美空ひばりに代表される戦後派の若い歌手達が既に台頭してきており、戦中、戦前のオールド歌手にとっては受難の時代で、東海林太郎もその1人であったのだろう。

 大きくもないその劇場は大入満員ではなかったと記憶している。自他共に認める音痴の私でも、東海林太郎の唄だけは無性に好きだっただけに、直立不動、真剣に歌い込むその唄には大きな感動を受けたものだった。
 こんな貧しい小屋で東海林太郎が歌っている。彼にはもう華やかな舞台は訪れないのだろうか、いやその時はきっと来る、このままで消えてしまうような東海林太郎ではない筈だ、と自問自答を繰り返したことである。

 郷里の仕事がどうにもならなくなって、着の身着のまま、夜逃げ同然の姿で大阪へ出たのが昭和31年、朝鮮動乱も治まって不景気のさ中、まともな就職先もなく、サンケイ新聞の当時はまだオーナーであった前田久吉氏の弟、冨治郎氏が経営していた生活合理化協会へ縁あって就職することになった。この協会を簡単に説明するのは難しいが、大阪に沢山ある市場を結んで販売促進を図る、というような一見もっともらしい趣旨はあったが、その内容は入社した私にも十分理解できないところもあるという、何とも為体(えたい)の知れないものだった。

 前田冨治郎氏は別名“つぶしの冨”。この人の手にかかった事業でうまくいったものはない、と言われ、この協会も例外でなく、私の入った時は既に左前になっており、先任の幹部は退陣させられて、私が実務面を見るハメになった。
 市場の顧客サービスに駆り出されて、のど自慢の司会、準ミスワールド嬢達を引き連れての巡回、果てはお伊勢参りのお供、軽飛行機からのビラまき、私の変化の多い生涯の中でも、何とも珍奇な仕事をしたのが30歳を出たばかりのこの頃である。養家の田畑を手放さざるを得なかったすぐ下の弟はこの協会の宣伝カーの運転手をして、本日のお買い得商品は、などと各市場を廻っていたが、協会解散後、元幹部の世話で某相互銀行へ入った。

 この協会で、各市場での“のど自慢”の決勝とアトラクションを、当時としては大阪でトップの座を占めていたサンケイホールで開催することになり、私はそのメインに東海林太郎を主張、反対意見を退けて実現に漕ぎつけた。
 東海林太郎の他に渡辺はま子、かしまし娘、ダイマル・ラケット、右楽・左楽という大阪色の濃いメンバーも入った当日の舞台だった。東海林太郎にとって、戦後、1,300人の観衆の入るホールに立ったのは、これが初めてではなかったかと思う。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.05.22 06:00|「幽冥録」
前回、松下緑氏の原稿をご紹介しました。今回はその松下氏の死に際して、父の書いた幽冥録です。
奥様の書かれた「あとがき」によりますと、氏は、80歳までは「湖畔吟遊」を続けたい、とおっしゃっていたそうです。(妙)

1998年(H10) 月刊「NewTRUCK」 1月号 幽冥録
松下 緑氏   (元日通総研調査役)

アット過ギルガ人生ナノサ

 その死の知らせは全く突然だった。
 12月5日の急死のあと8日に訃報を受け、千恵子夫人から急逝心筋梗塞のため69歳で亡くなったが故人の遺志を汲んで、親戚とごく近所の方々で別れの式を済ませたとのお葉書を戴いたのは11日。交遊が広い人であっただけに仰天した友人知己も多かったろう。

 日通総合研究所に勤めて、長い間の機関誌『輸送展望』の編集長時代に識り合った。昭和50年代の初めであったと思う。
 『輸送展望』に日通関係以外の広告を載せることになり、当時の荷役研究所所長の平原先生を通じて私に依頼があったことから、故人及び日通総研とも蜜月時代が始まった。
 しかし、契約問題のこじれから故人の退職後に日通総研とは絶縁して、2人の間柄もやや疎遠になったのは残念だった。

 上海で育っただけあって、中国についての造詣には並々ならぬものがあり、その成果が、漢詩の松下流戯訳に結集して、年賀状に書くことから、月刊誌『しにか』(東アジアの文化を考える総合誌)への寄稿になり、平成5年からは毎月16日にB5版4ページ建ての『湖畔吟遊』刊行に発展していった。
 そのひとつを紹介する。陶淵明の有名な詩の一部である。
(青字が松下氏訳)

 ………
 盛年不重来    花ノサカリハ二度トハコナイ    盛年重ねて来たらず
 一日難再晨    スギタ月日ガモドラヌヨウニ    一日再び晨(あした)なり難し 
 及時當勉励    イマガ大事ヨ大事ニ生キヨ     時に及んでまさに勉励すべし
 歳月不待人    アット過ギルガ人生ナノサ     歳月人を待たず
(しにか’93年1月号掲載)

 松下流戯訳の大先輩、井伏鱒二には人生別離を「サヨナラ」ダケガ人生ダ、の名訳があり、ひとり歩きする程人の口に上がっている。
 漢詩戯訳を一冊にまとめてみたいと語っていたが、その志を果たさぬままの、サヨナラでアッという間に昇天してしまった。松下さんらしいと言えなくもないが、少し早過ぎるのではないか。


みなさん さようなら

2017.05.18 06:00|外部 寄稿者
今回は、日新出版とご縁のあった松下緑氏の原稿を掲載します。
氏は1997年12月5日、69歳で急逝されました。(妙)


1987年(S62) 月刊「NewTRUCK」 5月号

功到自然成  ―クンタォツゥランチョン

(株)日通総合研究所 編集長 松下 緑

 私は小・中学生時代を中国で過ごした。しかし、常に日本人社会のなかで暮らし日本人学校に通学したから、遂に中国語を習得するに至らなかった。これは現在においても痛恨の一事である。
 戦時下の小学校であったから、正課の授業はすべて国定教科書によったが、副読本や課外教授には外地の特色を活かしてしばしば中国に関する教材が使われた。あるとき、こんな紙芝居を見せられたことがある。(ちなみに紙芝居は日本人の発明によるもので中国にはない)

 物語の主人公は少年時代の李白である。李白はたいそう腕白で勉強が大きらいであった。ある日、河原で遊んでいると、ひとりの老婆が川べりの石で鉄の棒を研いでいるのが目にとまった。彼は不思議に思って、「おばあさん、いったい何をしているの?」とたずねた。すると老婆は「わたしは針をつくろうと思っているのさ」と答えた。李白は目を丸くして、「こんな太い鉄の棒じゃ何年かかっても針になりっこないよ」と叫んだ。紙芝居を演じていた先生は、ここで中国語をまじえて老婆の声音でこういったのである。
 「リーパイや、李白や、クンタォツゥランチョンだよ、クンタォツゥランチョンだよ」「そうして、パッと煙となっておばあさんの姿は消えてしまいました。あとには1本の針が光っておりました。おばあさんは仙人だったのです」そういいながら先生は紙芝居の最後の場面を引き出した。そこには河原に立って呆然と針を見つめる李白の姿が描かれていた。今もその情景は忘れられない。
 「このクンタォツゥランチョンという言葉は、一生懸命努力すれば必ずかなえられるということです。李白は心をいれかえて修業をかさね立派な詩人になりました。皆さんもクンタォツゥランチョンを忘れずに勉強して下さい。ハイ、今日はこれでおしまい」。

 それから50年ちかくが過ぎ、私は折にふれこの言葉を思い出すことがあったが、それがどんな漢字なのかは知らないままにいたのである。

 さて、私はここ数年、NHKのラジオ中国語講座を毎朝聴く習慣になっているが、この3月「磨杵成針」という題でこの李白の物語がテキストに取り上げられたのである。しかしテキストでは、老婆は仙人ではなく、クンタォツゥランチョンという言葉も出ては来なかったのである。私は急にこの言葉の漢字の綴りが知りたくなり、当研究所の中国室長K氏に問うたところ、彼はかたわらの中国語辞典をひいて、立ちどころに「功到自然成  (クンタォツゥランチョン)」という熟語を指し示し、私を感動せしめたのである。
 「功到自然成」はいまや私の念仏となった。


みなさん さようなら

2017.05.15 06:00|「周作閑話」
1987年(S62) 月刊「NewTRUCK」 5月号

周作閑話
金が仇の世の中で  おわり

 私の事務所のあるあたり、銀座でも場末に近いがそれでも土地の値段は坪ン千万円はするらしい。少し行った中心部は億を超えるという。
 事務所の周辺には小さなしもた屋がまだ残っていて、理髪店、すし屋、ラーメン屋、小料理屋などが並んでいる。いわゆる地上げ屋が買い占めに動いているらしいが、一軒当たりの坪数は小さいし、まとめるのに苦労しているようだ。
 オヤジとおかみがチョッキンチョッキンやっている行きつけの散髪屋が持っている土地は数億円、なみのサラリーマンが一生働いても手にできない金額なのである。しかし、彼等にその実感はないらしく、すしを握ったり、ラーメンを茹でたりしている。たとえ、そのような金が手に入ったとしても、自分達が働いて得たものではないことをよく知っているに違いない。

 日新出版の入っているビルの斜め前にホテルがあって、その元は風呂屋、その跡に薄汚いホテル兼旅館のようなものを建て、半地下に一杯飲み屋があった。料金が安いし、よく通った。女主人は、何百円単位の計算はよく間違ったが何千万円とか億単位になるとさすがにがっちりしているらしく、立派なホテルに建て替え、本郷にもかなりのホテルを持っているので、その資産は一体どれ位あるのか見当もつかない。

 この女主人、80にも手の届く老人だが、ホテルの中にある中華料理に手伝いに出て、私達がゆくとコーヒーをおまけに付けてくれたりした。ケチだと言われるこの女主人からコーヒーをご馳走になったのは他にいないらしいが、この人とは奇妙にウマが合った。
 最近、姿が見えないと思ったら入院したという。石川県から裸一貫で出て、巨大な資産を蓄えたこの人も年と病には勝てず、病院で何を思っているのだろうか。金の亡者というより働くことに意義を見出して、働きに働いている間に自然に金の方がその身に寄り添ってきたのではないか、と今では考えている。

 宵越しの金を持たぬ、ことを自慢したのは江戸ッ子だ。彼等とて金は欲しかったに違いない。「コレ小判、今夜ひと晩いてくれろ」の願いは、折角手に入った小判があちらこちらの支払いに消えてゆくのを嘆いた悲痛で、またおかしい風景だろう。
 「金が仇の世の中、どうぞしてその仇に廻(めぐ)り会いたい」、散々に痛めつけられた仇の金だが、何とかその仇に会いたい、複雑な心理である。

 落語の「芝浜」は、しがない魚のぼてふり(天秤1本の行商)が朝早く芝浜に仕入れに行って、縞の財布を拾う、喜んで人を集めて飲んで寝てしまった後、しっかりものの女房に夢だと言われて、酒も断ち、まじめに働くというもの。お店もできて、一杯いかがと酒をすすめる女房に、酒を飲んで寝たらまた夢が覚める、と言って止すのがオチになっている。悪銭身につかず、を面白おかしく教えたものだ。

 「文七元結(もっとい)」は、バクチですってんてんになった大工職人が一人娘を吉原に預けて50両を手に入れて帰る途中、集金した50両を紛失したと思い込んで身投げしようとする若者にそのまま与える。実は集金先で碁を打っていて忘れたもので、主人が礼にゆくと夫婦喧嘩の真っ最中。女房は着るものもなく、と芝居でもなかなか面白い場面だが、吉原から連れ戻した娘と若者が一緒になって元結を売出し大繁盛、がストーリーである。

 江戸時代は現在と較べようもない位貧しかった。しかし、人々の心はもっともっと豊かで、金が大事なものであることは知りながら、醜くそれに執着することはなかった。武士は食わねど高楊枝で、ひたすら金を追って利を求める商人は士農工商の最低ランクに置かれていたのである。
 それが今では士農工がなくて全て金、金の商になり果てた。人間の志というのはすっかり忘れられてしまったらしい。

 藤原弘達氏であったか、金とウンコは蓄(た)まれば蓄まるほど臭いがきつくなる、と言っている。金あまりニッポンもまさにその様相を呈し始めている。
 成金はかつては軽蔑の意味が込められていた。ところが、最近は成金を羨ましがったりする。変われば変わるものである。ええ格好して、そんなこと金を持てない男のひがみだ、と言われればそれ迄だが。




みなさん さようなら

2017.05.11 06:00|「周作閑話」
1987年(S62) 月刊「NewTRUCK」 5月号

周作閑話
金が仇の世の中で

 最近のセールス電話は会社名を言わないでいきなり個人名でかかってくることが多い。いろいろなところに首を突っ込んでいるものだから、知り合いの名が出ると失礼に当たってもいけないと思って電話に出る。

 先日も○○さんですと言われて、大阪に知人がいるものだから出てみると、これは全くの同姓異人で、あなたの学校の後輩と名乗って、商品投資の話を始めた。そういうものに一切興味はないし、耳が穢(けが)れるので聞かないことにしていると言うと、じゃあ何の楽しみがあって生きているんですか、ときた。一瞬唖然としたが、君に生き甲斐を教えて貰う必要はない、と一方的に電話を切ったものの、何か後味の悪い思いがしたものである。
 そのセールスの男は本当に金が生き甲斐と考えているのか、会社がそう言えと教えているのか知らないが、これほどはっきり言ったのは珍しい。

 嫌な世の中、と思ってもマスコミには財テクだ、NTT株だ、土地急騰だ、売上税だ、円高だ、とお金にまつわる情報が氾濫しているのだから、金が生き甲斐と信じる者が出てきても不思議ではないのだろう。
 たしかに生活をするにも事業を経営するにも金は必要だ、これは今も昔も変わらない。しかし、現在ほど金、金がムキ出しになっている時代はないように思う。

 昨年の何月だったか、出勤の朝、銀行や郵便局に長い列ができていた。サラリーマンらしい中年の男も沢山いる。一体何だろうと聞くと、天皇ご在位60周年記念コインの売出しだという。列に並ぶ人達がすべて天皇の長期在位をお祝いしている、というのでもなさそうで、将来の値上がりを見越した一種の利殖を狙ってのことであったらしい。しかし、発行枚数が余りにも多く、売れ残りも出る始末で、この思惑は外れたようだ。

 宝くじの売場でも大の男がよく並んでいるのを見かける。金儲けだけを目指す列の中に臆面(おくめん)もなくいい年の男が並んでいるのは何とも情けない風景に映る。顔色もどこか冴えなくて、ひと仕事もふた仕事もできる人のようには見えない。
 企業もモノを作ったり売ったりして稼ぐほかに、資金運用で利益を出す、いわゆる財テクが盛んで、本業以外に利益を出すことに懸命であるらしい。

 「浮利を追わず」つまり、本業以外の利殖を追求しない、というのは住友の家訓だったが、住友不動産の会長が強引な土地商法を追及脅迫された事件は耳新しい。「浮利」を追うことが現在の企業の常識であり、サバイバルに通じる、と考えられているようだ。

 ある会合で、こんな金、金の世の中はまことに嘆かわしい、と話したら、あなたは金に苦労しないからそんな気楽なことを言う、今の世の中、事業をやって生き抜くのは大変なんだ、この世間知らずが、というような目で見られた。

 金に苦労しないどころか、貧乏というのはイヤというほど体験した。体験し過ぎて身について、不感症になってしまったのが、他の人からは金に苦労しない男のように見られるのだろう。そういう生活を長い間続けていると、今日食べる米はなくても明日は何とかなる、という超楽観的な人生観が確立するものである。さすがに現在は子供達も育ってしまったし、明日の米を心配することはなくなったが、考えは変わらない。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.05.08 06:00|その他月刊誌記事
しれとこ丸船内で取材
       右から中川、藤田一航、山川船長の各氏と増田、添原二航は中川氏の向こう側で見えない


1975年(S50)月刊「特装車とトレーラ」4月号

荒れる海でのトレーラ トラック  終わり 
「しれとこ丸」関係者に聞く

ランディングギヤが短くなる?
 この取材で珍しい現象を聞いた。ランディングギアが縮むというものである。
 長距離フェリーの発足当初、トレーラのランディングギアの欠損事故が相次いだ。そこでランディングギアだけでフェリー内のトレーラを支えるのは無理だということになり、支持台俗称ウマを使うことになった。このウマも順次改良されて油圧式のものが出来ているが、このウマをキングピンの場所に当てることによって、トレーラの重力は後部車輪と、ウマによって大部分支えられることになる。しかし、左右のランディングギアは甲板に接地していて、ローリングの際は重力を受けることになる。

 ところが、このランディングギアが縮んでローリングのたびに甲板面から離れたり、ガタンと音を立てて甲板に当たったりする。十分伸ばしきっていないからだと思って、いっぱいに伸ばしておくが、30分位して行ってみるとまたガタンガタンとやっている。1台のトレーラで7回もこの作業を繰り返したのがある。

 ランディングギアが縮むのはごく一部の3台のトレーラであるが、こういう現象は皆さんも初めてのことであるらしい。中川氏も初めて聞いた話という。どうして、伸ばしきったランディングギアが短くなるのか、どうもわからないが、検討を要する課題であろう。

今後の課題
 今回のことは日本沿海フェリーにとっても利用者にとっても不幸な出来事ではあったが、逆の見方からすれば、フェリーの安全性を立証することになったわけで、長距離フェリーの発足当初から大きな関心を持ってきた筆者にとっては、フェリーもここまできたかという感慨が強い。安全性を重視するあまり、定期運航の原則を破るのも利用者にとっては困ることである。

 貨物専用フェリーも本年9月から同社ほか1社で同じ航路を共同運航することになった。客船としてのこれまでのフェリーとは性格の違う貨物フェリーに、今回のことを含めこれまでの経験を活かして、安全性、定時性を両立した運航を期待したい。


みなさん さようなら

2017.05.04 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)
荷崩れ 75 4月号
左: フェリー内の瓶類荷崩れ事故写真(S46年11月2日 増田撮影)
右: 建材を載せたトレーラ(東急車輛製造(株)中川氏撮影)


1975年(S50)月刊「特装車とトレーラ」4月号

荒れる海でのトレーラ トラック ② 
「しれとこ丸」関係者に聞く

 原ノ町あたりで気圧はどんどん下がって993ミリバール、「しれとこ丸」の観測で午後3時最低992ミリバールとなり、大きな横波を受けるようになったので、船を風波に直角に立てて、沖合へ少し出ながら低気圧の通過を見ることにした。この当時のうねりは階級で7から8あって(うねりの階級は0から9まである)相当なもので、船のローリング(横ゆれ)も最高は23度位にまで達した。

 このあたりで、気圧の谷が早く通過してくれれば問題はなかったのであるが、どっこい居坐って、「しれとこ丸」は一昼夜以上の苦闘を余儀なくされることになる。気圧が殆ど上がらず船長は、気圧計が壊れたのではないか、と思ったという。それほど、しつこい低気圧であって、「しれとこ丸」に殆どくっついていたような形となって、脱出することが出来なかった。

 問題になった、交信不通も沖に向けて微速で進んで交信可能な範囲から離れてもどうすることも出来ない。最高沖合へ離れたのは翌日午後5時ごろで陸地から165km位の位置であって、この頃陸の方では大騒ぎとなっていた。

 ジグザグに沖へ向かったり、陸へ向かったりして陸地からあまり離れず航行する方法もあろうがフェリーは重心位置も高く、不安定な積荷と一般旅客も乗せていることであり、船長としては安全第一を考え、沖合に進んだのであろう。船は当然横波に弱く、風波をタテ方向に受けていて、エンジンが動いていれば大型船はまず大丈夫とされている。安全第一という点から考えると船長の取った処置は正しかったのであろうが、大事を取り過ぎた、あそこまで沖合へ離れることはない、或いは「しれとこ丸」が構造的に重心位置が高くなっている(トラック甲板が二重になっている)ので船長は操船に自信が持てず、一直線に沖合へ向かったのであろう、というような見解が他のフェリー会社からあったことも事実である。このあたり、見解もわかれようが、ともあれ安全は全てに優先しなければならないので、「しれとこ丸」の処置は正しかったと判断される。

フェリー内のラッシングは完璧
 さて、トレーラやトラック、積荷の事故であるが、結論からいうと、ラッシング不備など、フェリー側に責任が帰せられるような事故は皆無にひとしい。事故の殆どは積荷の荷崩れと、それにともなうアオリの損傷や他車への加害である。

 事故を起こしたのはセミトレーラ5台とトラック5台、乗用車2台、その他2、となっている。このセミトレ、トラック10台のうち7台までは荷崩れ又は荷物の脱落を起こし、うち3台がアオリ損傷、トレーラの1台がランディングギアを少し曲損、トラックの1台が荷崩れの被害を受けて運転台の一部が破損、トラック1台がアンダーミラーなどを損傷している。

 荷崩れ又は脱落を起こしたのは積載物が瓶類3台、洗剤1台、(以上セミトレーラ)建材1台、飼料(トラック)となっている。
 ラッシング不備による事故は1件もなく、フェリー内のラッシングは、ほぼ完璧の域に達しているとみてよかろう。長距離フェリー発足当初はいろいろな事故が伝えられたが、トレーラ支持台車(俗称ウマ)カーストッパーなど、緊定用具の研究開発、カーフェリー乗組員の熟練、トレーラメーカー側のフェリー用トレーラの開発など、さまざまな要因が相互作用して、今回のような荒天に際しても、事故を最小限に阻止できるところまで到達したものである。

 乗組員は荷崩れを防止するため、いろいろな手段も講じたようであるが、いつ崩れるかわからぬ荷物の下で作業をすることは、非常に危険でもあるし、又その場合、荷崩れを防止する有効な手段をとることも困難である。

 ここにひとつの事例として、荷崩れの写真を2枚お目にかける。上左の写真は、筆者が撮影したもので、酒瓶の荷崩れの現場写真で、昭和46年11月2日、セントラルフェリー内での事故である。このとき筆者の家族は大阪から東京への引越にセントラルフェリーを使用し、なけなしの家財と家族全員が乗船していた。潮岬あたりで、揺れはひどくなり、とても立っておれない状況となった。いったい、こういうときトラックデッキはどういうことになるものか、家財を載せたバントラックもあることでもあり、トラック甲板へ下りかけたが、とても階段を下りられない。ちょっと揺れが治まるのを待ってトラックデッキに下りて撮影したのがこの写真である。もし荷崩れを起こす前ウロウロしていたら、この乗用車のようにペシャンコに押しつぶされていたであろう。一升瓶の山に押しつぶされての往生もまたいいかもしれないが、いい笑い話のタネにされるのがオチである。このときバントラックの家財道具には何の異常もなかった。もう一枚は、中川氏撮影のもので、建材が荷崩れを起こしかけているところで、右側のアオリが少し押し広げられている。このような形で、荒天に遭ったらひとたまりもあるまい。

 荷崩れの問題はフェリーに限ったことではないが、陸上走行と違った条件下におかれること、荒天時では手の打ちようがなくなることなど特に留意する必要がある。車両間隔の狭いトラックデッキでは他の車にも被害を与えることにもなる。運送業者全体として有効な防止手段を考えるべきであろう。それと過積載もこういう荒天時には弱いので要注意である。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.05.01 06:00|その他月刊誌記事
1975年(S50)月刊「特装車とトレーラ」4月号

荒れる海でのトレーラ トラック
「しれとこ丸」関係者に聞く

土曜日の「しれとこ丸」行方不明騒動
 2月22日土曜日午後、自宅で原稿を書いていると電話、小社に実習に来ている日大博士課程研究生の若林君からで、「日本沿海フェリーの『しれとこ丸』が行方不明だそうです」。間もなく、他からも同様の電話連絡があった。早速テレビをつけると、画面の下に「22日朝苫小牧到着予定の『しれとこ丸』が入港せず、連絡もとれないで行方不明です」とのテロップが何回も流れる。
 ニュース番組になると、よく顔を出す東京新橋の同社本社で、塚本慶一社長ほか幹部社員の記者会見の状況が流される。大変な報道陣で、最近はちょっと途絶えているが、飛行機が墜落した時の状況によく似ている。いかにも状況が遭難確実のような扱いで、「無線電話の交信地域の外へ出ていることも考えられます。」と放送するし、配達された夕刊を見ても、一面の大きな扱いである。

 この「しれとこ丸」は47年の4月の処女航海に妻とともに乗船、船中で開かれた座談会の司会を勤めた、因縁浅からざる船であり、沿海フェリーとも親しい仲である。すぐ駈けつけることも考えたが、沈没を本気に信じる気にはなれない。なあに、波を避けて沖合へ遠く出たんだろう、と何時ものように夕方から酒を飲み始めた。電話が殺到してどうせ繋がらないであろう、と遠慮していたが、さすがに気になって7時頃電話をすると都合良く出て、矢野貨物営業次長と話すことができた。「何か手伝うことがあれば出てゆこうか」というと、「大変な人で、坐るところもない」との返事。そのまま飲み続けていたら8時前、緊急のニュースがあって、船舶、人員とも無事であることが確認されたという。

 飛行機と違って、ある時間音信が途絶えたからといって、1万トン近い大型船が、そうやすやすと沈没してたまるか、という自信はあったものの、ひょっとして、トラックやトレーラが荷崩れを起こしたり、横転して暴れ回ったとか、エンジンが故障ということもあるかも知れない。万一ということもある、と気がかりだったがこの朗報でその不安も消えて、改めて酒をおいしく飲んだものである。
 「しれとこ丸」は22日朝の到着時間より32時間ほど遅れて、23日午後3時苫小牧に接岸した。

荷崩れ対策が急務
3月4日東京港「しれとこ丸」船内で取材

 無事到着してめでたしめでたしとはなったのであるが気がかりだったのは、30時間余りも遅れるような荒天で、フェリー内のトレーラやトラック、積荷がどうなったろうか、ということである。積荷の荷崩れが多少あったと発表されているが、果たしてどの程度の被害なのか。荒天時のフェリー内の事故についてはこれまで度々耳にしたことはあるが、真相を掴むことはなかなか難しい。今回は行方不明事件が華々しく報道されたことでもあり、フェリーの安全性についての一般の関心が高まっているので、この機会にぜひ、当時の状況、被害状況について直接取材をしたいと申し入れておいてところ、日本沿海フェリー側もこれを了承し、3月4日、「しれとこ丸」の東京帰港時に、直接取材をすることに決定を見たものである。

 取材は3月4日午後6時、「しれとこ丸」が東京フェリー基地へ入港して、トラック、トレーラの下船が終了したあと、同船のラウンジで行った。「しれとこ丸」の中原良典船長は関係方面の事情聴取に呼び出されて乗船していなかったが、トラック甲板などの直接指揮をとった一等航海士の藤田一誠氏、二等航海士の添原卓氏、当時は乗船していなかったが、この海域に明るく、取材当日の「しれとこ丸」船長でベテランの山川如水氏が取材に応じた。さらに矢野完貨物営業部次長も同席した。

 小社側は増田と、本誌連載シリーズ「フェリーとトレーラのノートより」で、トレーラは勿論のこと、船体、海象、気象に博学知識ぶりを遺憾なく発揮した中川政弘氏に同行をお願いした。同氏は東急車輛製造(株)のトレーラ部長代理であると同時に、(社)日本自動車車体工業会トレーラ部会流通委員長でもあり、いわばトレーラメーカーの代表としての参加である。以下の記録は誰がどのような発言をしたというような記事のまとめ方でなく、増田がそれらの発言をまとめるとともに、若干の解説を加えたものである。従って記事についての責任はすべて小社にあることをお断りしておきたい。

無理な出港ではなかった
 2月20日午後11時15分、「しれとこ丸」は東京港を出港している。この時気象条件についての判断に甘さがあったのではないか、との意見がマスコミなどに出されたが、出港時風速は秒速15~6mで20m以上になっていれば出港を見合わせることになっており、無理な出港ではなかった。この程度の気象条件は冬季はよくあることで、他の同方向に向かうフェリーも出港しており、気象に対する判断が甘かったということはないと思う、とのフェリー側の説明であった。冬季、この海域は風波が高いことがよくあり、この程度の風速で出港を見合わせるようなことがあれば逆に利用者の方から突き上げがでてきたであろう。定期運行の輸送機関という使命からも、欠航という事態はできるだけ避けねばならない。結果論からいえば、丸一日以上遅れて苫小牧に入港しているのだから出港を見合わせた方が良かったかも知れないが、それはあくまでも途中海域での風波が予想をはるかに超えて高くなっていた、ということで、出港時の判断が甘かったことには繋がらないであろう。

 当日の航走トレーラ、トラックは以下のとおりである。
   ・セミトレーラ  41台
   ・大型トラック  24台
   ・小型トラック  6台
   ・中型トラック  10台
   ・乗用車     29台
   ・特殊車     4台
          計 114台

異常気象に翻弄されて苦闘
 うねりが大きくなって、既定コースを北進できなくなったのが、原ノ町沖あたりで、時刻は21日午後3時頃。この海域までは予定時間から僅かの遅れで到達している。
 カーデッキのトレーラやトラックはその時までに通常は6本のカーストッパーによるラッシングを8本にし、背の高い荷物や不安定な荷物に対しては、オーバーラッシングを施して、荒天準備は終了していた。
(つづく)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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