みなさん さようなら

図書紹介

謙信・信玄 リーダーとしての条件

海音寺潮五郎「天と地と」
新田次郎「武田信玄」


歴史小説による川中島の決戦

人が人を得た歴史小説の競作
 本誌の博物館シリーズで上杉謙信と上杉家のその後を取り上げたのを機会に、NHK大河ドラマの原作となった海音寺潮五郎の「天と地と」を読んだ。ついでに、謙信のライバルだった武田信玄を描いた新田次郎著「武田信玄」も読了した。
 いずれも、作者の歴史小説を代表する大作で、殊に新田次郎のそれは彼の著作の中でも最長編ではないかと思われる。
 
この二つの本を読んでみて痛感するのは、作者それぞれの主人公についての思い入れの深さである。
 歴史小説にしろ、伝記にしろ、その主人公を美化して描くのはむしろ当然のことなので、作者なり編者の主観が入るのは当たり前の話で、それがまた読者を魅了する要素ともいえる。

 しかし、この2作のように、同時代に生きた主人公を美化すると、その相手に低い評価しか与えない、ということになる。海音寺潮五郎は信玄を、新田次郎は謙信を、それぞれ一段も二段も下に見ている。こうなると、実際の謙信像なり、信玄像は果たしてどうであったのか、読者としては困るのである。
 たとえば、両雄決闘のハイライトともいうべき川中島での謙信自身の信玄本陣への斬り込みにしても、新田次郎の方では、謙信が取り乱して信玄の本陣へ迷い込んだものである、という書き方になっている。
 このあたりの事情を小林計一郎氏(長野高専教授)は、海音寺描く信玄像、新田描く謙信像がやや事実に近いのではないか、と見ている。(日本放送出版協会「歴史への招待」11)

 こういう見方もあるかも知れないが、このふたつの本を読んで、心に残るのはやはり謙信の「さわやかさ」であり、信玄の「いやらしさ」である。信玄はいくら美化しても、領土獲得とその経営に腐心し、女性には目のない戦国の武将としか映らない。一生不犯と伝えられる謙信と女性の面での比較はできないが、領土獲得と経営については、たしかに信玄の方に分があるように思われる。その点で、謙信は関東管領という名分のもとに、無用とも思われる戦を何回も行って、兵力を消耗している。
 男の行実の美学、というような観点から、謙信、信玄を比較すると、これは問題にならない。

 海音寺潮五郎は南国鹿児島の出身で、当然のことのように「西郷隆盛」を書き、彼の代表作のひとつである。「平将門」は、これもNHK大河ドラマにもなったことがある。
 一方の新田次郎は海のない山国、長野県の出身、気象庁永年勤続というキャリアを活かした山岳、気象に関する著作が多い。ヒット映画の原作「八甲田山」はその例で、「武田信玄」の中にもその知識は大いに駆使され、誌面に生彩を与えている。
 海音寺が謙信を、新田が信玄を描いたというのは、まさに人が人を得た絶妙のコンビで、さればこそ、歴史小説の傑作が生まれ出たのであろう。現代作家による川中島決戦であり、角川書店(天と地と)と文藝春秋社(武田信玄)の出版界戦争でもある。(いずれも文庫版)

堅実安定経営の武田軍団だったが……
 「時代を同じくして生まれ合わせ、どちらかを主人と選ばなければならないものなら、信玄を選んだ方が得であろう。ぼくは人の家来になるのは嫌だが、どうしてもということになれば、謙信の方だ。」と海音寺潮五郎はそのあとがきに書いている。
 謙信と信玄を現代の経営者に見立てて、大学新卒者にどちらの会社を希望するか、と質問すれば100%近くが信玄の会社を挙げるかもしれない。
 何といっても、信玄の方は堅実で安定経営だし、その人に相応しい地位も与えられる。一方の謙信の方は、思いつきで動いたりして、危なっかしい。事実、謙信はその領土内の内紛に悩まされたが、信玄の在世中にはそれがない。

 経営的に見るなら、勝負あった、という感じなのだが、経営というものが社長の一代だけでなく、永続性が問われるとすれば、結果論にはなるが、武田は次の代で潰れ、上杉は規模こそ縮小したものの、大名としての家名を全うしてその家系は現代に繋がっている。武田会社に入ったより上杉会社に入社した方が得だった、ということになる。ただ、大会社が貧乏会社になって苦労させられることにはなったが。

後継者で差の付いたポスト謙信・信玄
 信玄の跡を継いだ武田勝頼は暗愚な人ではなかったものの、政略という点では父にはるかに及ばず、ひたすら武力による拡張政策を取った。時代は戦国から信長、秀吉、家康の天下統一へ大きく動きつつあり、勝頼にはそれが見抜けず、しかも、鉄砲による近代化兵備にも後れを取った。従来の戦法にこだわって長篠の戦いで大敗、重臣の多くを死なせ、残った人達も殆ど離反して、孤立無援になって武田家は滅亡した。
 最近、大沢商会が倒産したが、3代目社長は重役達の制止も聞かず、ひたすら積極制作に走って、堅実経営で知られた同社を破滅に追い込んだ。武田の末路とやや事情が似ている。

 一方、謙信には子がなく、甥の景勝が嗣子となった。この景勝が人物で、しかも直江兼続という超一流の家老が補佐して、関ヶ原では家康に楯突きながら、家名を保つことができた。
 合理主義に徹していた信玄も、子に対してだけは別で、甘さがあったのであろう。
 謙信は甥の景勝の資質を見抜き、さらに直江兼続を配することで万全を期していた。教育も徹底していたと思われるのは、謙信自筆の習字手本などが残っていることからも十分想像できる。

 「天と地と」「武田信玄」両者とも肩の凝らない読み物である。緑蔭、戦国の昔に思いを馳せるのも楽しいことではなかろうか。


 
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2017.06.26 06:00|コラム・巻頭・社説・社告
1984年(S59) 月刊「特装車とトレーラ」 7月号

社説
「富者の万燈」と「貧者の一燈」
零細企業も参加できるトラックショーを

 この5月に開催した 「第13回 呉越会」 の早朝セミナーでお話した、“富者(長者)の万燈より貧者の一燈”はお経の中に出てくる言葉である。詳しい説明は略するが、貧しい人のたとえ僅かの寄進であっても、その志は金持ちの多大の寄進にも勝る、という意味である。

 佐川急便の佐川清会長は比叡山延暦寺に大塔を1人で寄進した。「富者の万燈」の典型例である。宗教活動はもともと貧者の一燈によって支えられるもの、1人を救うよりも万人を済度することが宗教の目的である筈だが、手っ取り早い方法を選んだものだろう。歌舞伎の勧進帳は、東大寺大仏殿の再建の寄付を集める山伏、実は義経と弁慶が安宅の関で関守富樫に咎められて白紙の勧進帳を読むのだが、その中に、たとえ一紙半銭たりとも、の言葉がある。これこそ「貧者の一燈」なのである。

 佐川急便自体が、大口荷主偏重を避けて小口、零細荷主を対象にして急成長したことはよく知られる。そのオーナーが延暦寺に対する最大の寄進者となることに、何の心理的痛痒も感ぜず、叡山もまた易々としてその申し出を受け入れたことに対して、何か割り切れなさを感じる。佐川問題が国会で取り上げられたりしていて、このあたりの考え方にその一因がありそうである。

 本誌は、自動車メーカーの大口広告だけに頼ることをせず小口の車体、機器メーカーの協力を求めることを主眼としてきたトラック専門誌である。筆者ひとりの時もコツコツとそれらのメーカーを訪ねたものであった。この多くの小口の協力者のお陰で、第一次オイルショック以降のトラック不振の中にあっても、小社の売上実績は一度も下降することはなかった。もし、自動車メーカーや大手の車体メーカーにだけ依存していたら、惨憺たる様相を呈したであろう。

 先月号(※)に書いたように、筆者は四国を縦断する活魚輸送車に体験乗車して、7時間余、飲まず食わず、休みなしで走った。輸送の第一線を支えるドライバーは実に苛酷な労働条件を強いられているのである。
 車体メーカーもまた、規模の小さい所は血みどろの苦闘を展開しており、トラック産業の底辺には陽の当たらない人達が多く存在する。この人達への理解がなくては、トラックを語ることはできない。

 モーターショーは、いわば「富者の万燈」のお祭である。そこには、トラックを作り、使う末端の人達の汗の臭いは伝わってこない。その人達が喜んで参加できるのが、本来の「トラックショー」であろう。

(※) 1984年6月号「べったり取材 活魚輸送メーカーと同乗記」を6月8日、12日の2回にわたってアップしました。


 

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2017.06.22 06:00|その他月刊誌記事
1998年(H10) 月刊「NewTRUCK」1月号

トレーラ読本《第2号》
特別座談会 温故知新のトレーラ  終わり

幻のダブルストレーラから
海コン40フィートフル積載まで30年の軌跡

(アップ写真は1998年1月号「NewTRUCK」記事内に掲載したもの)

トレーラ 98 1月号
上左: 5軸セミトレーラ
上右: 5軸フルトレーラ
下左: 40フィートコンテナ用5軸セミトレーラ
下右: 20フィートコンテナ2個積みフルトレーラ

国際水準に達した道路と遅れている車両基準改正
―では、現在に目を転じて、運輸の世界では各方面の標準がどの方向に動いているか、これからのグローバルスタンダード(世界基準)はどうなるか、皆さんのお考えをお聞かせ下さい。

山口 運輸の世界の合理化・効率化は一面でスケールメリットを求めることだと思います。この問題では、重量と嵩(かさ/ボリューム)の両側面から考えなければならないと、当時、運輸省自動車局車両課長の景山さんが発言しておられました。貨物を纏め、大きなロットにして輸送し、車両台数を減らすことが社会の要請で、それがどこまで出来るか、どの単位が合理的かを論じていく必要があると思います。
 海コンによるコンテナリゼーションはISO規格として承認されたものですから、立派な標準だと思います。具体的には長さ40フィート、幅8フィート、高さ9フィート6インチが規格指されています。
 運行する道路はわが国でもヨーロッパ並みのTT43で高規格されて本年4月には主要道路の99パーセントが適合するといわれています。近々高規格道路が公表されるものと思います。
増田 日本の高速道路はアメリカやヨーロッパにヒケを取らないどころか、上をいっているような感じを受けます。幹線道路もぐっと良くなりました。
 ところが、その折角の良い道路を走っているのは依然として変わりばえのしない単体のトラックが圧倒的に多い。
 ヨーロッパでは行くたびに車種が変わって、以前はフルトレーラをよく見かけたのですが、セミトレーラ、それも前2軸後3軸に殆ど統一された仕様がどんどん増えてきている感じを受けます。
 EU各国間の輸送が活発になってきたことも関係しているのですかね。
山口 ヨーロッパでは、アメリカと異なり、トラクタが2軸、トレーラが3軸、合計5軸が主流です。
 日本でも、先般(95年)の保安基準と車両制限令(以下、車限令)の改正でトレーラ連結全長はセミトレで16.5m、フルトレで18mとヨーロッパ並になりました。もっとも、ECのフルトレ全長は18.25mですが…。
 40フィート海コンのフルロード総重量は30t480kgとなり、今度、海コン用トラクタが軸重の上限を11.5tまで緩和されると、TT43規格の道路を走れることになります。(ここで、山口氏は持参されたグラフを示す…)
……
 フランスでは2軸トラクタの駆動軸重を13tまで許容していますが、これはアメリカとのコンテナ輸送が始まった時に打ち出した方針です。ドイツでは10tです。現在EU指令の駆動軸重11.5tは、フランスとドイツの間を取ったものと聞いています。
西 つい先日、ダブルス試作運行のきっかけを作った景山さんにお目にかかって参りました。現在は(財)物流技術センターの副理事長で低公害車の普及のお仕事をなさっていますがお元気です。
 トレーラ研究会のお話を申し上げましたら、日本のトレーラはヨーロッパ型を目指すべきだと話しておられました。

トレーラ98年1月号 ⑤
左: 20フィートコンテナ2個積みセミトレーラ
右: 20フィートコンテナ1個積みセミトレーラ

トレーラ 981月号③
左: 4軸トラック
右: ギリシャのトラックターミナルで撮影


陳情ベースでは進展しない
山口 われわれが反省しなければならないのは、メーカーは合理的な技術論を主張していかなければなれないということです。それを陳情ベースでやっていては合理性を欠く変則的なことになってしまうと思うんです。
平坂 その点、日本コンテナ協会はキチンとした調査に基づく報告に立って主張を展開しています。協会の報告書を見て下さい。
……
 全高4.2mを認めるべきだという主張を国内道路の調査からデータを揃えて行っています。
 実は、日本コンテナ協会には天下りがいないんですね。だから、筋の通った本音の主張が出来るのです。それに対して他の業界団体は役人体質に染まっていませんか。
増田 確かにそれは言えます。トラックショーを開催する時、イヤと言うほど、業界団体の役人的体質、極端な場合は役人以上の官僚的体質を痛感しました。天下りの職員が上の方を押さえているものだから、事務局は上意下達機関で、業界の方よりも上の方を向いている。
 業界団体を通していたら革新的なことは何もできない、業界団体にこだわっていたらトラックショーはまだ日本に生まれていません。
 トレーラの問題にしても、各業界団体が今迄のように揉み手で陳情を繰り返しているんでは前進しない。海上コンテナの外圧に屈して、やっと改正に踏み切るなんてのは、日本の国辱ですよ。
 メーカーそれぞれにも、役所に睨まれたらという恐怖症のようなもので言いたいことも言えないムードがありますが、業界団体もメーカーも正々堂々と言うべきは言う姿勢が必要ですね。
山口 '98年4月からは、海コントレーラに関してはヨーロッパ規格を超えるトレーラが国内で通行することになった。それなのに、一般トレーラはそれより遙かに軽いところで規制を受けるのです。もっとメーカーも運輸業界も論理的に本音を主張すべきだと思います。
根本 道路、橋梁、トンネル、いずれにも技術的にみて荷重や寸法上の許容限度が設けられています。その数字には余裕(安全)を見込んである。これは勿論必要ですが、必要以上の余裕(マージン)は、公共施設の利用のような場面では国家的損失になりかねません。
 これまで、トラックは過積載をするものという性悪説が官側に支配的だったのは民側の問題でもありますね。
 ダンプがその筆頭にあげられ、自重計を義務づけられています。更なる規制緩和を主張するなら、信頼関係を構築するためには、カーゴ車でも軸重規制を明確にする方法をとるなり、駆動軸11.5tを一般的基準として認めよ、と主張するならロードフレンドリー・サスペンションを条件とすることを盛り込んだ提案を行う等の方針を採るべきではないでしょうか。

……座談会は9時半に始めたのだが、時計は早くも予定の12時半に近づいてきた……

トレーラ98年1月号 ④
(左から、トレーラ研究会西襄二氏、本誌増田、伊藤康憲氏、山口晟氏、根本直樹氏、平坂重雄氏)

―それでは、お一人ずつまとめて頂きましょう。
平坂 ダブルス試作運行の当初からトレーラ問題に携わって痛感するのは、われわれメーカー側の腰が引けていて、堂々と科学的根拠に立って言うべきは言う、という姿勢が貫けなかったことですね。
伊藤 トレーラ研究会は幅広く啓蒙活動を展開すべきでしょう。各界トップにも認識を正しく持って頂きたい。
 トラクタの仕様については、国内でも寒冷地の冬季路面条件等も視野に入れた動きが望まれます。
山口 海コンのフルロード運行が認められ、国際レベルの道路が整備されたと思います。早く海コントレーラだけでなく、国内の一般トレーラが国際レベルで運行できるように、メーカーも科学的な論理展開に基づき、役割を果たしてゆくべきだと思います。
根本 この四半世紀の間に、トラックの荷重問題は実重量制に移行してきました。繰り返しますが、必要以上のマージンは国家的損失を招きます。情報は正しく開示し、信頼関係を担保する技術的手段を条件としてでも、効率化を追求すべきです。
増田 先日、ボルボトラックジャパンのヨアキム社長と話しました。スウェーデンの国内市場はごく僅かなもので、常に国際的視点に立って戦略を進めなければならない。これと違って日本のトラック市場は大きなものですから、国内戦略が優先されて国際基準、グローバルスタンダードとの整合というものに余り国が向かなかった。欧州と日本のトラックメーカーの違いを痛感しましたね。国内市場も成熟した現在、トラックメーカーが国際競争力をつけるためにも、積極的に国際水準のトレーラリゼーション実現に努力すべきだと思います。
 皆さんは熱心に長い間、この課題に取り組んでこられたのですが、トップもボードもどっちかと言えば無関心だった、メーカーとして取り組む姿勢が見られませんでした。
 国内の道路輸送の効率化を図ることは日本のトラックを真に国際的なものにしてゆくためにも必要なことなのですから、その視点を持って貰いたいですね。
 山口さんのお話のように、これからは緩和された重量に見合う容積拡大にも向かってゆくとしたら、トレーラに向かわざるを得ない、そのためには、荷物の纏め方、運行システム、ドライバーの育成、トレーラむきのターミナル建設或いは改修とか様々の周辺の課題を解決してゆかなければなりません。

―長時間、熱心にご討議頂きまして有難うございました。皆さんのこれ迄のご努力に対しては本当に敬服させられるものがあります。これで終了とさせて頂きます。 (纏め 西 襄二)


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2017.06.19 06:00|その他月刊誌記事
1998年(H10) 月刊「NewTRUCK」1月号

トレーラ読本《第2号》
特別座談会 温故知新のトレーラ ②

幻のダブルストレーラから
海コン40フィートフル積載まで30年の軌跡

(アップ写真は1998年1月号「NewTRUCK」記事内に掲載したもの)

当時の前田氏の話とその経緯
(ダブルス開発の経過については当事者である前田源吾氏の自伝『輸送に生きた五十五年』が詳しく、山口氏持参の資料もこの中に含まれている。また、最初のいきさつを前田氏自身が昭和44年11月に増田に話している。本誌45年1月号掲載より引用)

前田 一昨年(43年)の8月6日の第31回日ト協車両資材委員会で、私がダブルスにはこれこれの特長がある、運送需要は旺盛だし、労働事情は逼迫している、どうしてもこれを採用しなければならぬということを力説したのです。その頃ちょうど景山さんが車両課長に就任されたところで、いま言ったようなことを説明したのです。よく話を聞いて頂いたので私も調子に乗って喋った。景山さんは「これまでのことはこれまでのこととして、ひとつ前田さんやりましょうや」とおっしゃって頂いて、ダブルス化へ大きく前進した。それから、一層研究も進め、あちらこちらで喋ったり、書いたり、ともかく動き廻りました。そうこうして、一昨年の暮れ12月16日にそれまで話を進めていたトラック協会、自動車工業会、車体工業会、あとから加わった海上コンテナ協会で連絡懇談会をつくり、ダブルスや海コントレーラの研究を協力してやることになったのです。それから何回か会を重ねて、去年の5月26日第9回の連絡会があって、いよいよ試作運行委員会を設けて、実際に動かそうということになったのですが、東名開通直後の大事故、6月の特認車問題、7月の特認車事務取扱い通達などで手間取って、約1000日遅れてやっと10月3日の谷田部の試走に漕ぎつけたのです。
増田 ずい分来ていましたね。
前田 あれは大成功でした。沢山の方が見えてダブルスに対するご理解を深めて頂きました。日本にこれだけの大型車両があったのか、割合スマートじゃないか(笑)など、なかなかよかった。
増田 メーカーも一段と熱が入ってきました。
前田 その前に8月7日京浜のターミナルで、関係者の方にフルトレの運行を見て頂いた。うちのフルトレも丁度ありましたので、これも参加させた。警視庁の石井さんが「前田さん何か見せたいものが他にもあるんじゃないですか」と呼び水を頂いたもので、……今になってみるとね、もっとグングン推し進めたら良かったとも思うが、何しろオッカナビックリ文字通り薄氷を踏む気持ちで、慎重にやってきた。11月11日にいよいよ法制委員会の方へ廻すことになり、試作運転の実施段階に入ってきました。
増田 いよいよ今年が本番ですね。
前田 おかげで関係官庁、団体、メーカーの足並みも揃って来ました。ダブルスに賭けた夢もあと一歩というところです。』

運輸省景山車両課長の発言を受けてダブルスはいよいよ試作運行に一歩踏み出した。

昭43・12  自工会・日ト協・海コン協・車工会の4団体事務局ベース連結車両連絡懇談会発足
 44・6  前田氏委員長に選出
  ・8  谷田部大型車ショー開催
 44・9  連連懇をダブルストレーラー試作運行委員会に変更 第1回委員会開催
 45・6  2セットで予備運行
 46・10  愛陸5セット、大和2セット、日本運送2セット、相次いで試作運行開始
 47・4  走行約40万粁、問題なしを確認
 47・9  無事故走行100万粁達成、
 49・8  300万粁無事故走行確認
 50・1  当初提起された問題点は、300万粁走行で証明されたとして一般公開を要望したのに対する運輸省田付整備部長の発言。「今すぐ一般公開というわけにはいかぬ。今すぐやるとしたなら世界はびっくりする。」
 51・11  ダブルス推進委員会と改称したが、第26回委員会で自然消滅。

ダブルス試作運行トレーラ
          試作運行のダブルストレーラ


なぜダブルスは挫折したか?

―それでは、先ず、改めて当時を振り返って、どのような背景でどのような人達がプロジェクトを盛り上げたか、なぜダブルスは普及しなかったか、等についてお話し下さい…。

平坂 日新出版の96年版「ニュートラックガイド」ブックに私が書いた「連結車両に関する用語解説集」の中でも触れておきましたが、何といっても(トラック)ユーザーの立場で前田氏が情熱を燃やして推進されたということだと思います。背景としては経済の高度成長期であり、荷動きが拡大していました。前向きの良い時代でした。官側も運輸、道路(建設)、交通(警察庁)が同じ目的に向かって協力していた。民間側もユーザーとメーカーが物流の効率化に対して共通の認識で動いていたと思います。
 10年間の試験運行を経て、時代は安定成長期にさしかかり、ダブルスに適当な荷が集まらなくなったことが普及に至らなかった理由ではないでしょうか。
 車両の運行安全に実証が得られた成果と共に、道路の整備が進んだということも成果ではないかと思います。
根本 官民一体となって組織した「連結車両連絡懇談会」(以下、「連連懇」)は、空前絶後の委員会だったと思います。平坂さんの提案をきっかけに発足したと記憶しています。誰がリーダーシップを取ったかといえば、海上コンテナ協会(現在の日本コンテナ協会の前身/以下、海コン協)と日ト協が主役だった。
 前田さんが生産性本部(現在の(社)社会生産性本部の前身)の米国視察団に加わって、あちらのダブルス全盛の時代に接してわが国の物流効率化に必ずや資する方式として普及構想を膨らませたのだと思います。
 何故普及しなかったかと言えば、国道(高速道路ではなく)が狭い、各社のターミナル物流施設が狭い、トレーラ免許保有者が少ない、訓練システムが確立していなかった、等々の理由が挙げられます。それに、本場アメリカのドライバーの体力、あの太い二の腕で軽々とフルトレのドローバーを持ち上げ、いとも簡単に連結脱着操作をする、50回もハンドルを回さなければならないランディングギアの上げ下げ操作も彼らは簡単にやっていました。日本人向きにもっと改良しなければいけなかった。その後、電動ランディングギアが出来ましたが…。
 技術的には、周辺技術が未熟だった。ABSが当時出来ていたら普及を見たのではないかと思います。当初はトレーラのエンジンが弱かった。当時のエンジンは300馬力程度だったでしょう。それでもダブルスは累計で1000万㎞走破し、基本的な問題は全てクリアして、日本のトレーラリゼーション全般に大きな進展をもたらしました。
 その後、トレーラに関する法規上の重要事項が法制分科会の討議を経て法令に反映されるという、大きな成果も得られました。

―かなり論点もはっきりして参りました。これ迄の動きの反省を踏まえて、今後の運動はどう展開すべきか、お聞かせいただければと思います。

伊藤 海コン(トレーラ)は進展しました。ダブルスが普及しなかったのは、運用上の制限が多くまた、日本の風土に馴染まない面が多かったからではないでしょうか。当時のアメリカのダブルスや、トリプルス、オーストラリアで走っている6両連結のロードトレーン等、その国の風土から生まれたものだと思います。
 しかし、ダブルスプロジェクトの波及効果は大きかったと言えます。
山口 当時、アメリカではバン型トレーラとダブルスが全盛でした。日本フルハーフはアルミバントレを日本で普及させる目的で設立されました。一方で、コンテナリゼーションが進み始めました。マトソンが24フィート、シーランドが35フィートコンテナを使い出して日本にもその波が押し寄せて来ました。フルハーフはシーランドと関係が深いものですから、海コンの陸上輸送用トレーラにも当時取り組んでいました。海コンも当時からどんどん進化して、今日の20フィートと40フィートに標準化され、高さが8フィートから9フィート6インチに拡大していったのはご案内のとおりです。
 貿易国たるわが国が、国際物流の流れの中で海コンの規格とその流通問題に逆らえるものではない。基準緩和適用を受けてその都度当面の対応をしてきたのは、道路と関連施設の社会的基盤(インフラ)の未整備との妥協の結果です。
 ダブルスについては、フルハーフはトレーラ部分を担当させて頂き合計5セットを納入しました。累計1000万㎞走破した10年間に、世の中は重厚・長大の時代から軽薄・短小の時代へ変わった、景気も下降方向に向かった、そんなことが普及に至らなかった背景だと考えます。
 アメリカではEUコンテナのダブルスタック(2段重ね)による大陸横断に刺激され、バントレーラのコンテナ化が進み、大きさは53フィートまで大型化する独特の進展をみせました。日本でアメリカの行き方を手本にすることは、国土の事情から無理なところへ行ってしまったと思います。
増田 ダブルスが試作運行された昭和40年代の後半から石油ショックにかけて、日本は高度成長路線を走っていて、輸送量は急速に増えるし、ドライバー不足も懸念された時代でした。
 この時代に、トラック事業者が対応したのは過積みというきわめてイージーな方法で、GVW20tのトラックに積めるだけ積んで走っていた。そういう中でダブルスは過積みをしないで、安全のテストと記録を取るために運行したわけですから、もし過積みという悪しき慣習がなければ、ダブルスに期待が集まったんじゃないでしょうか。
 試作運行しているうちに今度は景気が下降してきて、ダブルスのような大きな車は要らないというムードも出てきたと思います。タイミング的にダブルスはついていないところもあったような気がしますね。

トレーラ US&EU
左: ヨーロッパのセミトレーラの主流は計5軸車(スペインで)
右: アメリカのダブルストレーラ

―皆さんのお話を要約すれば、
① 機運が盛り上がったのは、当時の急テンポな経済発展を背景に、高速道路の整備に呼応して大量輸送の需要に応えるダブルスが脚光を浴びた。民官を上げて普及に向けた試験運行の機運が盛り上がった。そのリーダーシップを執ったのは前田氏を始めとするトラック協会とトラクタ・トレーラメーカーであり、理解を示しインフラ整備と許認可で直接関係する運輸・建設・警察の各省庁の同調があった、ということですね。また、
② 普及に至らなかった理由は、試作運行の10年という期間に社会情勢が変わってきた、インフラ整備が必ずしも進展しなかった。
 いずれにしても、世の中の変化に対応する為に、荷の集め方、ドライバーの訓練、車両の一層の進化、など効率的な運用に耐える総合的システムとして更に広範囲の研究が必要だったのに、機運が萎んでしまった。結果的にダブルスは普及に至らなかったということになりますね。しかし、
③ あのプロジェクトは今日のトラックとトレーラに繋がる大きな波及効果をもたらした、ということですね。
(つづく)


 

みなさん さようなら

2017.06.15 06:00|その他月刊誌記事
1998年(H10) 月刊「NewTRUCK」1月号

トレーラ読本《第2号》
特別座談会 温故知新のトレーラ ①

幻のダブルストレーラから
海コン40フィートフル積載まで30年の軌跡


今からおよそ四半世紀前、わが国でカーゴ用ダブルストレーラの試験運行を切り口として、トレーラリゼーションの機運が大きく盛り上がった時期があった。足かけ10年に亘り、合計9セットのダブルストレーラが累計1000万㎞に達する試験運行を無事故で走りきり、安全性を実証する大きな成果を挙げた。しかし、なぜかその後この方式のトレーラが普及した形跡はなく、現在に至っている。
温故知新。トレーラ研究会は“日本の物流を国際レベルに”する運動の一環として初めてトレーラリーゼーションに活を入れようと発足。歴史に学ぶところから研究を始めようと思い、この座談会を企画した。かつての力溢れる壮年達は、夫々の経歴を経て髪に白いものが混ざってはきたが、記憶の正確さ・ふつふつとしたトレーラリゼーションに対する情熱には目を見はるものがあった。以下は当日の模様である…。

98年1月号 トレーラ 特別座談会
          左から、西、平坂、根本、増田、伊藤、山口の各氏  (日新出版事務所にて)

◎ 出席者(50音順・カッコ内現職・敬称略)

伊藤康憲(いすゞエンジニアリング(株)専務取締役)
根本直樹(日野自動車販売(株)業務部調査役)
平坂重雄(自動車問題研究所代表)
山口 晟(日本フルハーフ販売(株)専務取締役)
増田周作((株)日新出版社長/トラックショー会長/トレーラ研究会主宰者)
司会…西 襄二(トレーラ研究会主任研究員 物流問題研究所代表)

当日のプロローグ
本日の司会を仰せつかりました西です。
 この1月までいすゞ特装開発に在職しておりました。販売店に出てエルフを主として担当していたことが多く、皆様方のようにトレーラと深くかかわった経験はございません。定年退職してから、物流問題研究所を作りまして、NewTRUCK誌上に『日本の物流とトラック』連載シリーズ執筆のご依頼を受けた後、「トレーラ研究会」を作るから主任研究員にということで、これもご縁で、一からトレーラを勉強するつもりでお引き受けいたしました。どうかよろしくご指導をお願いします。
 ご出席の皆さんは久しぶりに一同に会されたわけですが、先ず近況からご紹介頂けませんか。

平坂 日産ディーゼル(以下、日デ)を最後に会社生活を卒業し、日本自動車車体工業会(以下、車工会)の常務理事、顧問を務めた後、現在は昭和63年に自動車問題研究を設立して代表を務めながら、日本交通科学協議会などを通じて自動車と交通問題を多角的に研究し、啓蒙と提言活動をしております。
 当時(ダブルス試験運行、以下の所属は全て当時)は日デの技術部門におり、自工会の立場の1人として仕様分科会、法制分科会、それに運行分科会に参画しておりました。仕様分科会は東急車輛製造の堀田さん、運行分科会長は大和運輸の山本さんでしたね。
根本 日野自動車工業(以下、日野自工)から日野自動車販売(以下、日野自販)に転じ、現在は販社の皆さんの教育を担当しております。一方、大阪産業大学で交通文化論講座を担当しております。
 当時、平坂さんとご一緒に自工会の一代表で仕様、法制、運行の各分科会に参画しておりました。法制分科会では会長を務めました。
山口 私は今日のメンバーでは唯一当時の仕事を続けている現役ですが、日本フルハーフ販売(以下、日フ販)で専務を務めております。
 当時は、委員としては一番の若手で、平坂さんや根本さんに一所懸命学んでいました。車工会を代表する一員としてやはり仕様、法制、運行の三分科会に参画しておりました。当時の連結車両連絡懇談会・試作運行委員へ移行するまでの経過を記した記録を持ってきたので、詳しいことはこれを参照してください。
(山口氏が持参されたのは「ダブルストレーラ試作運行委員会の概要」であるが、後にその一部を紹介する。)

伊藤 現在はいすゞの関連企業いすゞエンジニアリングでいすゞ車の開発に関係した仕事をしております。
 当時はいすゞ自動車で開発に携わっておりましたが、皆さんのように試作運行委員会分科会には属さず、自工会のトラクタ分科会長を務めておられた根本さんの下でいろいろ教えて頂いておりました。
根本 伊藤さんが№2で、その後、トラクタ分科会長を務められたワケです。
伊藤 その後、海外営業部門へ転じ、タイ国内のいすゞ系メーカーで商品企画を指導したり同車のテクニカルセンターで指導をしたりしながら、アジアの自動車ビジネスを経験してきました。


トレーラ研究会発足の決意
―それでは前後しましたが、本日の座談会を主宰します増田からご挨拶を申し上げます。
増田 本日はご多忙のところ、また雨天を押してご参集賜り誠に有難うございます。
 私が1人で自動車車体通信社を創業したのは昭和44年で、その年の終わりに当時の愛知陸運社長であった前田源吾さんにお目にかかりました。現在まで続いている社長対談の第1回で『ダブルスにかける夢』として誌面に出たのが45年の新年号、前田さんのトレーラについての熱意に打たれまして、月刊誌の名前もそれ迄の『特装車』から『特装車とトレーラ』に変更して、昭和59年に第1回の「トラックショー」を開催したのを契機に現在の『NewTRUCK』に改題しました。トラックショーを計画したのは、日本の社会生活に道路輸送が大きな役割を果たしているにもかかわらず、「東京モーターショー」にはそれが殆ど反映されていない、道路輸送に焦点を当てたトラックショーが必要である、という信念からです。
 幸いに、第4回からは全ト協さんの後援も受けられるようになって、規模も当初私が予想していたよりも大きくなり、トレーラもかなり見られるようになってきました。

……日本の道路輸送の形は国際水準から遅れている、これを何とかしなければ私のトラックについての仕事は終わらない、その使命感のようなものからトレーラ研究会を発足させたわけです。
 政府の方でも4月に発表した「総合物流施策大綱」の中に、「トレーラリゼーションの一層の推進」がうたわれていますが、これ迄の経緯から見て、これを実行あるものにするのはなかなか難しい。
 運輸業界も、荷主も、メーカーも、勿論官側も協力して進めなければならないのですが、トレーラリゼーションを積極的に推進しようという研究機関も組織も現在見当たりません。

 ここはひとつ老骨に鞭打って、トラックショーを実現させたあの熱意でトレーラリゼーションに取り組もう、と決意を固めたわけです。前田さんにはこの決意はお手紙では伝えてありました。つい先日(11月26日)名古屋のお宅をお訪ねし、改めて前田さんの志を継いでトレーラ研究会を推進するとお話ししたところです。
 この新年で85歳になる前田さんは、何度もの病気を克服して非常なお元気ぶりでした。この座談会にも出席したいのだが、もう東京に出るのは難しい、皆さんによろしく伝えてほしいと、用意されたメモを頂きました。
 このメモの下に「ひと廻り若ければメンバーに加えて頂きたい、残念乍らこれだけ書いただけで字が二重に見える」と付け加えておられます。

 全ト協の浅井会長にもお目にかかりまして、井上常務から事務局でも来年度からトレーラの勉強会をやるというお話がありました。私どもの活動と連係を保ちながらやってゆきたいと思っております。

 この会は何処にも遠慮せずに、日本のトレーラ化はどうあるべきかを求めてゆくもので、それには苦い体験も含めたこれ迄のことを先ず温ねることから始めなければならない、それが論語の「温故知新」の精神だと思います。

(つづく 次回は前田氏の話とその経緯/なぜダブルスは挫折したか)



みなさん さようなら

2017.06.12 06:00|その他月刊誌記事
1984年(S59) 月刊「特装車とトレーラ」 6月号

べったり取材
活魚輸送車メーカー (西南自動車)と同乗記 終わり

84年6月号①
(写真左: たぐり寄せられた網の中でハネ廻るタイをタモですくい上げる。5~6尾まとめて上げるのは熟練作業。)
(写真右: 男女のペアで大小ふたとおりのケースへの収納。ハネるタイを手際よくケースに詰める作業はスピード第1。)


 工場で作業服、その上に着る雨合羽、ゴム長靴を借りて重装備、タイを活魚輸送車に積む深浦港の現場へ。眼鏡を拭き、カメラレンズを拭き、横なぐりに叩きつける雨中、決死的撮影を敢行したスナップ写真である。これほど苛酷な条件下での撮影は初めてのこと。

84年6月号②
(写真左: 活鯛の詰まったケースを素早く秤に載せて計量。記録係がメモして集計。)
(写真右: 計量の終わった活鯛ケースはコンベアーで輸送車へ。生きている間に水槽に入れないと大変。)

84年6月号③
(写真左: 活鯛ケースを水槽に沈める。水槽の水の化学成分、水温管理、酸素補給など大切なノウハウ。)
(写真右: 竿一本でケースを水槽内に要領よく積み重ねてゆく。熟練を要する作業だ。)


生まれて初めての大型トラック同乗
 ここ迄くると、クソ度胸が据わって、この活魚輸送車に高松まで同乗してみようという気になった。社長に申し出ると、よかろうと言う。それじゃこれを持ってゆけと、大きなブリを上げて棍棒で頭を叩いて即死させ、氷詰めに包装してくれた。

 工場へ戻ると、同乗する活魚輸送車が待ちかねていた。どうやら、社長が1時間取り違えていて、9時出発を10時と考えていたらしく、ブリの包装などで遅れたのである。
 大急ぎで服を着替え、キャブに飛び乗って、社長や小林さんに送られてスタート。9時25分だった。この時には高松までのほぼ350㎞、7時間を超える飲まず食わずのトラック同乗になろうとは夢にも思わなかったのだが……。

 恥ずかしながら、トラック専門誌の発行者である私が、大型トラックに乗って走るのはこれが初めてなのである。
 当方の都合で遅れたのだから、当然運転手サンのご機嫌はよろしくない。豪雨は容赦なくウインドを叩き、いささか滅入ってきたが、伊予と土佐の境を過ぎて、宿毛の町へ入り、あのあたりが女房の里の家で、中村を通ると、ここに先祖の墓があって、などと話すうちに、段々うち解けてきた。
 片坂、久礼坂は昔は難所で、木炭バスの時代はお客は降りて歩いたりした、車に酔う人が必ずいて、それは大変だった、と話すと、そういう話は聞いているとの返事。

飲まず食わずの走り抜け 厳しいプロ
 太平洋岸から須崎、高知を通り、四国山地を吉野川沿いに横断、讃岐平野に下る頃まで、雨は降り続き、川には濁流が渦巻いていた。

 運転手、野々下サン30歳はひたすら前方を凝視して、ハンドルを捌く。その間にもポツリポツリ、2つ違いの姉さん女房にこの8月子供が生まれること、18の時免許を取ったこと、大阪に働きに出ていたこと、タクシーのようなお客相手よりこうしてひとりでハンドルを握っている方がいいこと、など話す。

 大歩危を過ぎたあたり、小用のため雨中飛び降り、また飛び乗って発進。時刻は2時半、対岸を中村発10時59分の「急行あしずり6号」が暫く並行し、追い抜いて行った。あの列車の高松到着が午後4時15分、この車の乗るフェリーの高松発が5時10分、水一杯飲まず走る理由がやっと分かってきた。
 これほど急いでいながら、決して無理をしない。要所要所を引き締めて、ハンドルを握る姿にはプロドライバーとしての自信と厳しさが溢れている。

84年6月号④
(写真左: 午後2時半過ぎ、大歩危を過ぎた頃、4時15分高松着の「あしずり6号」が追い抜いていった。急がねば。)
(写真右: 讃岐平野に入ると霧が発生してきた。金比羅さんの鳥居の向こうはぼんやり、霞んで見えない。)


 讃岐平野に入ると雨は上がったが、こんどは名物のガス発生、一時はライトを点けて走る。高松市内では信号などで時間がかかり、ジャンボフェリーの出る高松港到着は4時35分、トラックの列の最後尾につけてヤレヤレ、野々下サンの顔がやっと和らいだ。

再び活魚料理 いい一日 高松の夜
 カメラを構えている私の姿を認めてピョコンと頭を下げた野々下サンと活魚輸送車は「神戸丸」の中へ姿を消していった。愛媛、高知、徳島、香川の四国4県を走破したトラック道中の終わり、7時間余りのご縁だったが、おっかなそうな顔をしていても、いい人だった。

84年6月号⑤
(写真左: 高松東港フェリー埠頭で最後に乗船する「魚伸」の活魚輸送車。7時間余りの四国走り抜けのラストである。)
(写真右: 午後5時10分、「神戸丸」は航跡を残し出港。活鯛は翌早朝の神戸の競りにかけられ、夕刻市民の食前に上る。)


 フジタ自工の西岡昭常務が無線のアンテナをおっ立てた愛車で迎えにきたが、ブリの土産とトラックに同乗してきたことにはさすがに呆れ果てていた。このブリは細分したうえ、味噌漬けにして配分したそうである。
 この夜、藤田利太郎社長と西岡常務のお招きで、活魚料理の店“讃岐水軍”へ。昨夜から、今日の1500尾の活け鯛と1尾のブリとの同車、魚縁は続く。飲まず食わず、トラック振動で腹ペコの身に讃岐の酒が美味しくしみ通る。

 何の虚飾もなく、体ごとぶつかって働く人達に接したいい1日だった。加藤汽船の乗り場で名物のうどんをすすり、快い疲労と酔い心地で船内のベッドに横たわったのは10時。

84年6月号⑥
(写真左: 「えらいまぜ(南風)じゃが気をつけて」 運転手を励ますボデー上の都築社長。)
(写真右: 野々下運転手。)
(写真中: 「えらい目にあったなァまったく。土佐人がえらいか、伊予人が賢いか、大酒飲んで社長2人が大激論して、今朝は増田サンが6時に叩き起こすんだもんネ。そんな心がけだから碁も上達せんのや、ちゅうて食堂からやいやい言われる迄打つんだから。
撮影助手も大変で、横なぐりの大雨で、ずぶ濡れになって、靴下までビショビショ。
おまけに増田サンはブリを貰って、トラックに乗ってハイさよなら、こちらはおいてけぼり、ひどいよ。でも、こんな風景見たの初めて。面白かった。」(小林)

(おわり)






みなさん さようなら

2017.06.08 06:00|その他月刊誌記事
S59年西南

1984年(S59) 月刊「特装車とトレーラ」 6月号

べったり取材
活魚輸送車メーカー (西南自動車)と同乗記 ①

養殖漁業のメッカに誕生の活魚輸送車
 日野自販商品開発部の小林卓主管から、愛媛県の活魚輸送車に行くが同行しないか、とのお誘いを受けた。よく聞くと私の郷里とは宿毛(すくも)湾を隔てた対岸、幼少時代朝夕眺めていた土地である。美味い魚にありつけるぞ、という期待もあってふたつ返事で引き受けたのは当然だ。

 名古屋、大阪を経て海路高知へ上陸。土讃線終点の中村下車、先祖の墓参をすませて、城辺(じょうへん)町の西南自動車工業(株)に到着したのは4月18日の5時少し前、都築惣一郎社長が待ち受けていた。お互いに同年輩、都築社長は商売柄、対岸の土佐側にはよく行っているし、私の父の出身地柏島でこの月末に挙式の結婚の仲人をするという。30年来の旧知のように話がはずむ。

 宿毛湾沿岸から宇和海にかけては養殖漁業のメッカ。かつてはハマチ、現在はタイが盛んになっている。ハマチは多少生産過剰気味で、価格も低落傾向にあり、土佐側での業者の経営難は私も耳にしている。
 そこでタイなどの高級魚が注目されるのだが、養殖のタイはエサの関係で天然魚に比較して、死後8時間を経過したあとの味の劣化が著しい。生産地でしめたのでは、おいしいタイを遠距離の消費地に届けることはできない。

 水槽で泳がせて運ぶと、積載効率が落ちるうえに、魚体に傷がつき易い。活きたタイを静止状態にして輸送する活魚輸送車が、魚の生態を知り尽くしたこの地区に誕生したのは当然の結果であろう。さらに都築社長の娘婿は東大理学部博士課程を修了した学究で、化学的裏付けに協力して貰ったという。まさに鬼に金棒だ。

架装技術の向上を物語る歴代の活魚車
 都築社長に工場を案内される。元来は整備を主体にしていたのだが、活魚輸送車を始めてからそのウエイトは段々高くなって、現在は売上の60%を占めるに至っているという。
 工場内では日野シャシに活魚輸送車を架装中だった。その第1号ともいうべき、平ボデートラックに、水槽や各種の機器や酸素ボンベなどを搭載したもの、さらにシャシに組み付けた中期の製品、架装中の車を見ると、活魚輸送車の開発過程なり歴史がよく理解できる。

 架装中の車には、水温を一定に保つための強制冷却機器が取り付けられていたが、従来製品の多くは運転手が水温をチェックして温度上昇があると、後部氷槽内の氷を投入して押さえる方法を採っていた。「随分沢山のタイを殺した」と都築社長は笑うが、活き物を扱う車の開発にはそれなりの犠牲があったらしい。

 大きな浴槽のような木製の枠組みがあり、手作りでFRPのボデーが作られている。最新の製品は要所にステンレスが使用され、仕上がりがスマートになっている。強制冷却装置を取り付けることによって活魚輸送車の技術レベルは大きく前進したが、まだまだ工夫したい、と語る。

 なお、活魚車についての実用新案登録願が昭和58年6月22日に出され、同年7月11日に出願番号58-096161として受理され、活魚輸送用自動車として意匠登録願が59年3月21日に出願、4月9日に59-010877として同じく受理されている。

S59年 西南
    外は雨。午前8時の始業を前に勢揃いした西南自工の活魚輸送車づくりベテランの皆さん。左端 都築社長。


豪雨の中、重装備の決死的撮影行
 都築社長と工場を見学している内に、松山廻りで入った日野の小林さんが到着した。暫く工場や車を見て、深浦港の活魚料理と民宿を兼ねる店へ。途中の展望塔のある所には、日本の生んだ第二次大戦中の名機“紫電改”がこの近くの海中から引き揚げられて展示されていて、これは唯一の遺品という。

 今月号に掲載の「周作閑話」に書いたような話をして、よく食いそして飲む。これほど沢山の種類の魚をいっぺんに食べたのは初めてのことである。
 城辺町の立派なサンパールホテルに戻って一泊した翌朝、窓ガラスを烈しく叩く雨音で目を覚ました。暴風雨の感じだが、約束通り都築社長は7時半きっかりに迎えに来た。

S59年 宇和海

活魚輸送車のボデー上から見た作業現場。上方は宇和海に開けて、タイの養殖場がある。中央は陸揚げのための生け簀、その手前が浮作業場。タイを上げて、ケースに詰め、計量してコンベアーで輸送車の水槽へ運び上げる。

(つづく)






みなさん さようなら

1984年(S59) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

「興亡 電力 民営・分割の葛藤
大谷 健 著 白桃書房

電力を国鉄にしなかった硬骨の人 ②
“電力の鬼”松永安左ェ門の壮絶な闘いの記録

人材の貧困 電力と国鉄の大きな違い
 電力再編の教訓が最も活かされなければならないのは国鉄であろう。しかし、この本を読んで痛感したのは、電力と国鉄の事情の大きな相違であった。

 国鉄は、国営化されてからの歴史が永く、上から下まで、骨の髄までどっぷりとその悪しき習性が染みついている。電力の場合は、国営化されたといっても僅々数年のことで、松永のように電力会社の経営に当たった人は健在だったし、関西電力の太田垣士郎のように、松永の民営優位論を見事に実証させた人材も電力、配電内には豊富であった。国鉄内部に松永や太田垣を求めることは絶対的に不可能で、人材の点で先ず最大の難関に逢着するであろう。
 外部から求めようとしても、小林一三、堤康次郎、五島慶太のような大モノ鉄道人は全く姿を消してしまった。利権あさりの政治家や、隠居仕事に財界に籍を置いている老人に、松永のような蛮勇と気骨と実行力を求めることは、木によって魚を求めるに似ている。

 電力再編の壮絶なドラマを綴った本書を読了して、国鉄問題の解決はますます難しい、と痛感せざるを得ない。このままでは行き着く所まで行って、再生の途を模索するより方法がないのではないか、という気がする。

今こそ松永イズム その盛り上がりに期待
 確かな先見性、予見性を持つこと、時流に抗してもその信念を堅持することの難しさも本誌は教えてくれる。後になって、どの方法が正しかったかについて、歴史は非常な審判を下すものである。

 この舞台になった昭和10~20年代、私は学生で、卒業後は郷里に帰ったため、このドラマを肌で感じたことはなく、戦後の停電事情を僅かに知るに過ぎない。
 後年、日本工業新聞社に僅かの間就職して社長に就任していた稲葉秀三氏を識った。戦時中は革新官僚として国家統制を進め、思想的背景を問われて検挙された人で、松永とは反対側に位置し、本書にも登場する。稲葉氏は今も健在だが、学者、評論家に終わったままである。

 松永安左エ門が97歳で死去して13年、国鉄などの公営事業が重大な転機を迎えたいま、松永イズムは再び問われ脚光を浴びている。しかし松永その人は求むべくもない。関係者は、自らの非力を嘆くことなく、電力再編の教訓を範として努力すべきであろう。

 私も、国鉄貨車再生の一手段としてピギーバックを提唱し、国鉄と自動車側を結ぶ研究会を本年の「呉越会」のテーマに取り上げて実行した。
 なお、著者の大谷健氏は朝日新聞東京本社論説委員、大阪商科大学(現市立大学)で私の後輩にあたり、本書の再刊に一役買った松下緑氏(日通総研編集長)は私の親しい友人であることを私ごとながら付記する。


・大谷健氏の著書、原稿については、2017年2月16日ブログ 「問題記事―ある朝日新聞記者の回顧―」と2017年3月27日ブログ「大事なことにケチる
・松下緑氏の著書・原稿は2017年5月18日の「功到自然成」と松下氏の追悼は5月『幽冥録』の「アット過ギルガ人生ナノサ
で既出です。(妙)


みなさん さようなら

1984年(S59) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

「興亡 電力 民営・分割の葛藤
大谷 健 著 白桃書房

電力を国鉄にしなかった硬骨の人
“電力の鬼”松永安左ェ門の壮絶な闘いの記録

民営国営の壮大な実験 電力再編成
 今、私の生活の場である東京の電力は東京電力から、その前に住んだ大阪は関西電力、故郷の高知は四国電力から供給を受けているのだが、この体制は昔から同じであった、と考えている人は多いのではあるまいか。
 そう思われるのも無理のない話で、電力会社が現在の編成になったのは昭和26年、既に33年も前である。
 その前は国営(公営)で、さらにその前には民営の長い時代があった。つまり、民営→国営→民営と、振り出しに戻ったことになる。

 電力産業という巨大な基幹産業がこのような変転を重ねたことは、モノを生産し販売し、流通させる事業の主体が、民営、国営いずれがふさわしいかについての壮大な実験作業を展開した、ともいえる。さらに敷衍(ふえん)すれば資本主義経済か、社会主義経済かの論議にも発展するであろう。

 それはまた、行革臨調の目玉ともいうべき国鉄のあり方について、大きな示唆を与えることは言う迄もない。電力も、国営のままでいたら、現在の国鉄と同じようなお荷物になったかも知れないのである。

軍閥、GHQの後押しで壮絶な闘い
 国鉄主体の、だらだらストが横行した少し前まで「むかし陸軍、いま総評」とゴリ押し姿勢が批判された。30年余り前、「うちのマッカーサーがうんと言わん」と女房に頭の上がらぬ亭主は戦後の被占領下の日本を支配した絶対者の名を借りて嘆いたものだった。
 日本の電力は、軍閥とそれに同調する革新官僚と呼ばれるグループによって、国営(公営)に移され、GHQ(マッカーサー司令部)の圧力によって再び民営に戻されたのである。

 しかし、そのいずれの場合も、すんなりと移行したのではない。社会体制を根底から変革する暴力革命ではないのだから、軍閥やGHQといっても、命令一本やりで遂行することは不可能で、そこに現状維持派、改革派に分かれた、政治家、官僚、事業家、学者などが烈しい攻防戦を展開する。

 本書に展開される凄絶ともいえる葛藤のドラマは、まさに事実は小説よりも奇なり、で巷に溢れる企業小説や経済記事など足もとにも及ばぬ迫力を以て読者をその世界に引き込む。
 その立役者が「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門(1875-1971)で著者もまた、松永に主人公の役割を与えている。

“電力の鬼”松永安左エ門の真骨頂
 社会主義国家の経済停滞、英、仏などの国営化政策の失敗、中国の自由化などによって、国営、民営の優劣はほぼ解答が出た観がある。その現在ですら、国営(公営)にこだわる多くの人達が日本にもいる位だから、戦前、戦中、戦後を通じて一貫して民営の優位性を唱え続けた松永安左エ門の存在は驚異に値する。

 GHQの後押しがあったとはいえ、民営に移行する過程での松永は正に四面楚歌、政界も官界も実業界も、そして言論も殆ど松永の敵の観があった。当時、労働界を牛耳った電産はいう迄もない。

 著者は冒頭の部分で、昭和12年当時、東邦電力社長であった松永が長崎で語った談話に触れる。「産業は民間の諸君の自主発憤と努力に待たねばならぬ。官庁に頼るなどはもってのほかのことで、官吏は人間のクズである。この考えを改めない限りは、日本の発展は望めない。」

 松永は長崎県壱岐島の出身、郷里という気楽さもあってこの放言が出たのだろうが、産業の発展は民間の活力で、という持論は終生変わることなく、その身を置いた電力事業の民営化問題でその真骨頂を発揮して巨大な足跡を印したものである。
 著者はこの壮絶な闘いのドラマを淡々とした筆致で進め、鬼の松永の迫力が行動を通して奔(はし)って飽かせない。
(つづく)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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