みなさん さようなら

2017.07.31 06:00|人に四季あり
今回の前田氏のお話の最後部分に「落雀の候」の言葉が出てきます。漢口がどれほど暑かったのか、氏のご本からこの1項全文を対談下に掲載しました。「落雀…」の話をここに転載するためご著書「輸送に生きた五十五年」を開いて見てビックリ。「書き始めてから脱稿するまでに3年有余…」。初版発行の翌年には改訂版が発行されています。精魂込めて膨大な資料をこの1冊にまとめられた文章を前に、すぐには入力作業に入れず、しばらくはあちこち拾い読みしてしまいました。どこかで「輸送に生きた……」を見かけましたら、是非手に入れられることをお勧めします。(妙)


1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 6月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑥

凄絶ノモンハン事件
空の活躍、陸の悲劇

――(増田) ノモンハン事件ですね。
 前田さんのご本の中でも、この部分は貴重なノモンハン事件のドキュメントですし、自動車班といういわば縁の下の力持ち的な存在から見た他に例を見ない事件の側面史でもあります。いろいろな戦史が書かれていますが、その中に加えられていい記録だと思います。
 実は私の尊敬する住友生命保険の名誉会長としておられる新井正明さんが、この事件で重傷を負って右足を切断しています。最近、新井さんが「古教心を照らす」というご本をお出しになって、その冒頭の部分にノモンハン事件での負傷のことが出てきます。すごい戦闘であったようですね。
前田 新井さんには何度かお会いしてしています。立派な方で、愛知県トラック年金基金でも保険の件でお世話になりました。大腿部を切断してよく生きておられた。難波という曹長は撃たれて2時間で病院に収容されたが、翌日には亡くなっている。弾丸(たま)がビュンビュン飛んできて、負傷者を収容する作業がなかなか出来なかった。そういう状況の中でよく生きておられたと思います。
―― 新井さんをご存じでしたか。私の尊敬するお二人が同じようにノモンハンの戦闘に参加しておられて、そしてお知り合いだったというのは、大きなご縁を感じます。
 前田さんは飛行場大隊の自動車班長としておられた関係上、記録は空中戦闘とその地上援護の自動車隊の活躍に重点が置かれていますが、叩き落としても叩き落としても、新手のソ連機は増強されて見方の未帰還機が一機またまた一機と増えてゆく記述には思わず目頭が熱くなります。
前田 “散る桜、残る桜も散る桜”で、今日首尾良く敵機を撃墜して帰還しても、翌日は生還する保証は何もない。
 最終的には撃墜した敵機数の合計は1,101機、味方はその十分の一弱の90機だが、当初の編成の航空機の殆どと、戦闘機操縦者の大半を失ったことになり、ノモンハンで生き残っても、大東亜戦争で犠牲になり、終戦まで生存した人は教育など後方勤務となった者を除けば、極めて少ない。
 それでも、飛行部隊はまだ優秀な性能の航空機に恵まれて華々しく戦い、大きな戦果を挙げたが、地上部隊は粗末な装備で、あの大平原を徒歩で行進、優勢な敵戦車の蹂躙(じゅうりん)のままに、部隊全滅という悲劇を繰り返しました。
―― ノモンハン事件というのは一体何だったのか、何の為に大きな犠牲を出して戦わねばならなかったのか、と思いますね。
前田 当時の満州と、ソ連・外蒙古の国境紛争ということですが、それ迄にも小競り合いのようなものがあった。しかし、それほど大きな戦略拠点というわけでもなかった。
―― 幕切れも妙なものでした。日本とドイツが手を組んでソ連を挟み撃ちするのではないか、というソ連の不安を利用してドイツがいわばノモンハン事件をダシにして独ソ不可侵条約を結んだことで平沼内閣は退陣、ドイツはポーランドを急襲して第二次大戦の幕開けになります。
 ノモンハン事件は、軍隊の機械化の立ち後れなど、様々な教訓を残したのに、大東亜戦争はその教訓を生かすことができなかった。時期的に間に合わなかったと言えるかも知れませんが。
前田 民間で製造していた航空機は世界水準に達していたが、歩兵砲以下の小型兵器はてんで問題にならなかった。明治38年製の38式歩兵銃を最後まで使用していた。民間で製作させたら、軽量高性能の自動銃がいくらでも開発された筈です。
―― 私達の中学教練には38式より前の明治初年の村田銃をまだ使用していました。こうなると、兵器というより、銃剣術の柄のようなものでした。
前田 ノモンハンで航空機の故障で戦線を離脱したものはなかったが機関銃の故障で帰還する機は実に多かった。戦争責任を論じる場合、38式銃を最後まで使わせた事にもっと目を向けるべきだと思います。

百年戦争を覚悟して
民族保存の為の帰還

―― ノモンハン事件が終結した後、中支の漢口に派遣されますね。
前田 ソ連空軍健在なりの意思表示のつもりか、昭和14年10月の中旬、エスペー機が漢口を爆撃した。ノモンハンで活躍した飛行隊がそれに対抗するため急遽派遣されることになり、自動車分隊もトラックや共に漢口に向かった。
―― 漢口では、ソ連機の来来襲もなく、比較的平穏だったようですね。大東亜戦争の始まる前で、大陸戦線は膠着した形ですが、暑さには閉口したらしいですな。
前田 ※落雀の候、という時候見舞いがあるが、本当に雀が目を廻して落ちてきたのを目撃しました。
 漢口には1年足らずいて、翌昭和15年9月除隊となり、内地に帰還しました。
 その時、漢口の埠頭で隊長から「この戦争は百年戦争と聞く。諸子を内地に帰還させるのは、長期戦に備えて子供を作るためだ。早く大和撫子を嫁に貰って、子供を産んで貰って、すぐまた出て来るのだ」という訓示があった。
 要するに種付けに帰されたわけで、「関特演」という関東軍の大道員で、それもできないまま再び招集された者も多い。
―― 前田さんは戦争遂行に必要な輸送要員ということで、内地で活躍します。戦中戦後のご奮闘は次回でお伺いします。
(つづく)

※ 落雀の候
 支那には拝啓時下落雀の候と相成りという前文がある。5月初旬には水泳が始まるくらいで、湿度が高いので苦しい。従って病人も続出、5月中旬南京分遣隊に腸チブス、パラチブス発生、15名入院。自動車分隊の佐々木(誠)、大矢等重態。武昌の小隊では小泉一等兵が虫様突起炎で入院、心臓脚気を併発重体。初年兵の葛生、加藤(正)、島田、練尾、川原の6名入院。次第に暑気加わり、練兵休患者も続出するので、これを防ぐために飛行場の作業を午前中だけとし、午後は日陰で午睡または休務するようにした。これにより、入院患者は後を絶った。
 ハルピンの留守隊では、超チブスが各隊で発生し、我が隊でも60%が罹病した。真面目で、野口戦隊長お気に入りだった加瀬上等兵はあまり強健ではなかったので、慣れた原隊の方がよかろうと思って留守隊に復帰させたのが、仇となり、6月23日に死亡の報が入る。津村少尉殿、小西上等兵、正木貞次郎他が死亡し、鈴久名上等兵の降等、事故悪病流行、どこが安全なのか判らない。従弟の徹も兵站(へいたん)自動車隊で岳州方面に出勤中病を得て、後送され武昌兵站病院に入院する。
 6月下旬、武昌宿舎入口付近の田圃の稲は20~30cm伸びると稲穂を出す。水がなくて植え付けのできない田は次の雨を待って田植えをする、2回穫れても内地の半分も収穫はないようだ。
 7月1日から気温は急に上昇、最高華氏110度=摂氏43.3度。夜の室内温度93度=摂氏43.3度。昼間の温度はまだまだ何とか凌げるが、午後から風がバッタリ止まると急にムーッとむし返してくる。特に我々は3階に居たから屋根からの暑気が加わり、汗がネトネトと出て耐えられない。
 飛行場では滑走路の上を吹いてくる風は炎のようで、太陽の光線は強く顔をそむけさせる。連日の猛暑続き。7月7日は事変第3周年記念。正午を期して靖国神社の戦没将兵の霊に対して一分間の黙祷を捧げる。この日の日光直射123度=50.5度。雀はこの数週、口を開き、羽根を下げて肩で息をするようにして日陰から日陰へとあえぎあえぎ移動している。
 今日は格納庫に止まっていた雀が2羽、暑さの為に目を回してバタバタと落ちてきて目をパチクリして身動きできないでいた。「これをくわえた猫が舌をやけどした」と笑い話が出たが、満州では寒気で小便が棒になるというのと同じで、それ程ではないにしても暑さには雀が一番弱い。落雀の候とは名のみかと思ったのに事実雀の落ちるのを何回も見た。武漢は世界の三大酷暑地の一つに数えられ、印度人が印度に避暑に帰るというくらいである。武昌には未だ緑があるから幾分よいが、漢口は煉瓦とアスファルト、武昌よりは数度高い。一度漢口に外出すると股の付近はあせもで真赤になる。宿舎に帰れば部隊長も兵も全裸。越中一本に下駄ばき。ヘルメットをかぶって線内ならどこに行ってもよい。
 7月8日、直射134度=56.6度。概ねこの前後が最高気温のようで、夜に入っても96度=35.55度。暑さのために一睡もできない夜が4~5夜あり、湿度が96%もあり暑いというより苦しい。ウーウーとうなっているうちに東の空が明るくなる頃うとうとと2時間ほど眠る夜が1週間ぐらいある。その次が内地の夏の暑さぐらいで、10日余りは何ともならない。日朝点呼を取る頃はいちばん涼しい時であるが、そんな時でも脇の下から汗がにじみ出てくる。付近の松林から鶯がホーホケキョと、日本語で鳴いているとどうなっているのか気が遠くなるような思いである。鶯の鳴く頃は梅の花咲く頃と思っているのに全くおかしくなってくる。湿度は96%、こうなると日陰にいても、外にいても、高いところも低いところも同じ暑さだ。この暑さを防ぐ方法は一つよりない。3尺腰掛を背にして両足を下につけ、両手を頭の上で組むと者に接しているのは足の裏と背筋だけ。この姿勢が体温の放熱面が一番広いことになる。動かすと暑くなる。ジーッとこらえて静かにしておれば、どんな暑さにも耐えられることを悟った。戦争というものは有り難いことだ。零下30度、眉毛の凍る北満の露営、風雨に晒されたノモンハンの100余日。ここに来て落雀の暑さと、現役時代にあれだけ痛めつけられた体であるが、状況の悪い時には不思議と体の調子がよく、今日まで耐え抜いて来た。夜は東湖の水浴が許されているのでよく泳ぎに行った。飛込み台から水深3m余、犬かきで潜って行って底に手が着いても水は温かい。
 8月に入ってからは室内温度90度=32.2度以下。時々暑さがぶり返すが7月のような事はない。8月6日宣昌作戦派遣隊の出発。9月下旬から秋風が立ち、気候も内地とあまり変わらない。夜、宿舎の窓から外を眺め、耳を澄ましていると虫の音が聞こえてくる。一色、二色、三色と数えて行くと、7~8種類くらいまでは数えられるが、それ以上は混乱して判らない。とにかく虫の種類が多く、吸い込まれて行くような感じがする。武漢の地は暑くて我慢できない。今年こそは他に移ろう、と毎年口癖のようにいっていても、秋は永い。そうして短い冬が過ぎると、永い春を迎え、この地が去れないという。
(「輸送に生きた五十五年 私の奉公袋」より 第5章・ 戦争と貨物自動車/第5節・ 中支派遣/ 落雀の候 全文)



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みなさん さようなら

2017.07.27 04:39|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 6月号 
 『人に四季あり』  前田源吾 その⑤

20年史の始めと終わり
記念行事を前の対談

(対談は4月17日午後1時から東京丸の内日本工業倶楽部の一室で行われた。3時からは本誌20周年記念講演祝賀会が予定されており、その直前の取材である。)

――(増田)このあと、20周年記念行事が始まります。20年の歴史の中で最初に取材したお相手が前田さんで、最後がまた前田さん。
……
前田 つい先日、四国88ヶ所巡拝で、増田さんの故郷の土佐へ行ってきました。日本一の清流の四万十川の側を通って、足摺岬から船で土佐湾を横断して帰ったのですが、増田さんの故郷はまだ西の方ということだった。
 東海道、中山道、若い時には四国88ヶ所を歩き、「トラックショー」を単独主催した増田さんのエネルギーはどこから出てきたのだろうか、と土佐の海を見ながら考えたものです。
―― 時々故郷に帰って土佐の海を見ると、何か勇気づけられるものがありますね。無我夢中で20年頑張って、前田さんとお話ししたあと記念行事に臨むことが出来るのは感無量です。

計数管理による自車持込運行でひと財産
―― 前回は、病気のため現役免除になって、暫く療養の後、トラック持ち込みで、名古屋―大阪間の輸送に活躍する所まででした。特に申し合わせたわけでもないのに、運転手仲間には不文律のルールのようなものがあったようですね。
前田 大体、午後9時過ぎから12時前にかけて出発する。道はまだ砂利道で、路肩に寄れば必ずはまってしまう。路幅が狭いので、どの地点で上り下りのどちらの車が待機するか、ということが自然に決められていた。
 その地点にさしかかって、ヘッドランプで相手に信号を送って、相手が消せば待機していることになり、そのまま直進する。
 ところが、ヘッドランプの信号を無視してそのまま突っ込んでくる車がある。これはトーシローで定期便じゃない、こちらはちょっと手前で待っていると、くりから紋紋の刺青をした大男が手カギなんか持って降りてきて、“退がれ”と大声で怒鳴る。こちらは静かに、退がっても待機する場所はない、などと言っている間に後続の車が追いついて、何だ何だとポカポカ喧嘩が始まる。そのうちの一人が相手の車に飛び乗って、左にバックさせて溝へ突き落としてしまう。こうなると、喧嘩どころじゃない、相手がモタモタしている間にさっと通り抜けてしまう。(笑)
―― 大変な荒療治ですが、いっぺんで懲りて、次からはちゃんと待機するでしょうな。規則、通達なんかよりよっぽど効き目あります。
前田 運転手同士も、トラック業者間も、自然の秩序のようなものが出来上がっていて、協調してやったものです。傭車でも絶対にピンハネしない、車の貸し借りだけ、申し合わせ事項はよく守られた。
―― 計数管理はかなり徹底してやってますね。
前田 当時はまだまだ計数の観念は発達していなくて、ひたすら沢山積んで走るのが普通だった。
 トラック持ち込みで仕事をする前、入社した小西組運送で車両係を半年ほどやって、その時に徹底して車両統計を取った。
 昭和11年ごろの名古屋―大阪間の一車当たりの運賃は133インチのショート車で45円、157インチのロング車で55円、この比較をしたところ、ロング車では1回当たり10円、月に13回半から14回往復するからロング車の方が100円も有利だ、ということがわかってきた。
 また、会社持ちの車と持ち込みの車を比較すると、会社持ち車は月々平均40円ほどの赤字であるのに、持ち込みの分は黒字になっている。
―― そういうデータをベースに、36年式のシボレーロングシャシを買って実際に名阪を運行したわけですが、結果はどうでした。
前田 給料を貰った上に、小学校の校長の2ヶ月分くらいの100円ほどの純益が入ってきた。車両の消耗量より月賦の支払いの方が多いんで、その差額もあって、昭和13年8月の招集までの2年3ヵ月の間に田舎でのことだがひと財産作って、「源吾は万金(まんがね)を持っている」と言われたりした。昭和17年に一緒になった嫁さんが貯金通帳を見てびっくりしたものです。
―― 道楽もせんようになっていたから、自然に蓄まったんでしょう。それにしても大したもので、会社持ちと自分の車ではそれだけの差が出るものですか。
前田 これは車の性能は格段に良くなった現在でも同じで、大事に使う自分の車と、会社の車に乗るのとは全然違う。
 個人償却性などが言われるのはそこに原因があるわけですが、行政改革で規制緩和ということになっても、この考えは一層必要になる筈です。
 運行コストが高いということはそれだけ荷主に負担を要求するわけで、社会的にみても安全性という点からも、会社もいいし、運転手も良くなる、という制度は取り入れるべきです。白トラ、名義貸しというような方法でなくても適法で対応できる道はある筈だと思いますね。

前田軍曹の大喝一番
軍上層決定を覆す

―― 小西組運送で働いているうちに昭和12年7月に志那事変が勃発、東亜の風雲は慌ただしくなって、翌13年8月には臨時召集令状で再び軍隊に入ることになります。
 前田さんの著書「輸送に生きる五十五年」のサブタイトルは「私の奉公袋」です。この時に奉公袋ひとつで入隊してから後の前田さんは自分の生活だけの目的で働くことはなくなりますね。国のため、社会のため、業界のため、会社のためにという奉公の誠心で貫いてこられた。その大きな転機が26歳の入隊の時だと思います。
 この入隊は小西組の小西与吉氏も一緒だったそうで、この小西という人は実に面白い人物ですね。
前田 満州へ出発する前に家族との面会があったんだが、午前中奥さんが来た時にソワソワして、早く帰れといったそぶりをする。後で二号さんがやってくるからなんだ。またその後に、若い女学校を出たばかりのような黒づくめの洋装の麗人が現れたのにはびっくりした。二号さんまでは知っていたが、まさかこんな若い三号がいたとは。この人は早く死んだようです。
―― とんだ濡れ場です。その小西さんが関釜連絡船でボーイにチップをはずんで一等船室におさまり、前田さんも呼ばれてその部屋で眠ることになりますね。
前田 入れられた船倉は大変な暑さだし、スクリューの音がガンガン響いてたまらん、一等船室でバスを使い、浴衣に着替えて羽布団で目が覚めると釜山、急いで船倉に戻ると持主がない上着と軍装品がある、玄界灘にドボンしたと噂しているのもある始末。
―― 二人ともいい度胸をしていますね。ハルピンの飛行第22飛行場大隊の自動車班長として、それ迄の体験を生かした前田さんの活躍が始まりますが、その中でのハイライトは、高い位置にある貨車の上のトラックを引き下ろした一件です。
前田 前線へ応急に派兵するという想定で列車にトラックや資材を積んで出発したんだが、貨車のトラックが降ろせそうにないので、演習取り止め、情況中止という命令が出た。
 住民はわれわれに好意を有せず、という想定の中で情況中止とは何事か、と大声で繰り返し怒鳴った。その声を聞いて中尉が駆けつけて「どうした」と聞くから「戦争なら負けだと言っているのです」「この高い位置の貨車から車は降ろせないということで中止は決定された。お前に方法はあるのか」「あります」「どうしてやる」「それを聞くならいやだ。任せてくれれば50分で降ろしてみせる」というやり取りがあって、その結果、前田に任せようということになった。
 そこで、部隊が提供した150名ばかりの兵を指揮して、枕木を井桁に組み上げ、その上に携行木板を敷いて誘導路を作り、第一号車は班長自身が運転して降ろした後は、練習の意味もあって初年兵に運転させて無事に作業は修了した。
 軍隊というのは完全な上意下達方式で、兵団長以下が決定したことを下士官の意見具申で変更するなどあり得ない。
 その時はスーッとしたが、どうして情況中止の決定が引っ繰り返ったのか、時に不審に思っていたことが、ずっと後の昭和55年になって現役時代の戦友会「飛一会」の席上、兄も私もお世話になって、この演習の直前お会いした片山大尉の写真を持参した男がいたことで、私なりにひとつの解答を見出すことができました。
 片山大尉は演習当時、飛行団の副官をしており、中尉が前田がこれこれ言っていると報告した時に「あの男なら必ずやり通します」と助言して戴いたに違いない。
 兵団の決定を引っ繰り返したこの前田軍曹の大喝は、私の軍隊生活の中でもその後の社会生活の中でも一番晴れがましいシーンの筈なのに、こういう夢は全然見ない。出てくるのは軍隊でバチ廻されている夢ばかりです。
―― そうですか。私も新聞社を辞めて、もう一ぺん復職している夢をよく見ます。現実には戻ろうと思ったことは一度もないのですが、その後の生活が苦しかったから、そこから逃げる夢をみるんでしょう。不思議に、いい時の夢は見ないものですね。
 前田さんも、ウーズレーのトラックを盗んで脱走する夢を見たことがある、とおっしゃってましたが、その時の情況が苦しいと、現実には考えたこともない逃避の夢を見るのかも知れません。
 まあ、そういう夢を見ないですめば幸せですが。
前田 その後の実際の生活ではあまりいい夢は見ていません。
 この演習が終わってすぐ、今度は本当の戦争に移った。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.07.24 06:00|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 5月号 
 『人に四季あり』  前田源吾 その④

現免でさびしく故郷に 
体力回復再び自動車に

――(増田) 前田さんの現役兵当時は病気などのご難続きだったのですが、それに耐えた2年半は後年の前田さんの人間形成に大きな役割を果たした大事な時期であった、ということができますね。
前田 人に支配されず、支配せず、わが道を往く、という奔放な精神が初年兵で鍛え直され、2年兵では人を指導する立場になって、筋を通す、誠心を基にするということを信条とする人間に改造されたのはこの2年半です。
 当時は現免になった者は2年ぐらいしか生きられない、とも言われていて、人生25年を覚悟しなければならない、我を折り、自動車から離れ、摂生をすることを誓った。
―― 病気や事業の失敗などの挫折は人間を鍛える最良の薬ですね。小学校までは病弱だった私ですが、それから以後は全く病気知らず、その代わり事業の失敗は人に負けないほどあります。前田さんにもお世話になっている「トラックショー」も、始めは大失敗で苦杯を嘗めました。
前田 入隊の時は派手な見送りだったのに、現免となると淋しいもので、世に憚るようにひっそりと家に帰って、暫くは静養していました。家の近くの岩ヶ池まで行って、腰を下ろして自然を眺める。この時はつらかった。
 それでも秋風が吹くようになると体力も回復してきて、兄の入っていた小西組運輸から声がかかって入社しました。
―― ここで車両管理を暫くやって自前の車を持つことになるのですが、当時の車は今と較べて随分高かったようで。
前田 1936年式シボレーロングシャシが昭和11年5月の価格で3,275円。そのうち2,000円は12ヶ月の月賦で支払うので、残りの1,275円を調達しなければならない。
 父親から分け前として貰ってあった田圃が1,000坪ほどあるのでこれを処分して頭金を作ろうとしたら、一旦売った田畑が元に戻った例はない、と叔母達から待ったがかかった。それをやっと説得して、1,300円ほどの金を作って車を買った。
 この土地が今ではおそらく1億2,000万円ほどする、それで車の頭金だけだから、当時の車は随分高かったものです。
―― 今は、車も安くなっているし、簡単に月賦も組めますから、トラック事業は誰でも開業できますが、当時はひと財産を投げ出さないと、トラック1台買えない。そういう時代に20歳そこそこで挑戦した勇気と決断に敬服します。
前田 頭金を支払ったあとの2,000円の12ヶ月返済金が元利共で毎月198円、普通の月給取りが50円から60円の頃ですから、これを返すのに昼夜兼行で働いた。布団の中で足を伸ばして寝るのは月に2回か3回、あとは荷物の積みおろしの合間や走行中の一時停車の仮眠、よく体が続いたものです。

名阪トラックの日々 
中山道東海道の比較

―― その頃、前田さんが主に走ったのは名古屋と大阪の間ですね。
前田 名阪間の積合運送は昭和5年頃から始まったようで、私が自分の車で小西組運送の仕事をした昭和11年当時は100台ほどが稼働しており、毎日40~50台のトラックが上下していた。
 その時代の経済規模からするとかなりの輸送力で、その日に集荷した荷物が翌日の午前中には配達されるという形でした。
―― 現在の形に近いトラック輸送の形態が既に昭和10年前後には確立されていたということですね。
 当時のトラックの性能、道路事情からすると、名古屋―大阪間は集荷の翌日午前中に配達するのにピッタリの区間であったと思います。
 私は東海道、中山道をひとり歩きしたものですから、ご本にある昭和10年当時の状況を懐かしく読みました。今はバイパスができたり砂利道はなくなっていますが、前田さんが走っていた頃の東海道や中山道は江戸時代といくらも変わっていないようですね。
前田 カーブは多いし、行き違いのできないような狭い道だらけ、殆どが砂利道で、今と違って家も少なく、夜は暗かった。
 東海道は鈴鹿の難所があるし、中山道を使う方が多く、軽い荷物や、雪で中山道が走れない時に東海道を利用した程度です。
―― 箱根と鈴鹿を別にすると、東海道は大体平坦なんですが、歩いてみると、これはやはり大変な難所ですね。ここだけは大名も駕籠から降りて歩いたそうで。
前田 「馬がもの言う鈴鹿山」という位、きつい坂だった。
 不思議なことに、箱根、鈴鹿、宇津谷、金谷の峠は東からの坂がきつく、西への下りはなだらかです、どうしてだろう。
―― たしかにそうです。箱根も湯本から、女ころばし、猿すべりなどといった胸突き急坂があって、芦ノ湖から三島へのだらだら坂はいやになるほど長い。
 鈴鹿峠も今は新道に分断されてズタズタですが、歩くというよりよじ登るという感じで、てっぺんにある、盗賊が下から来る旅人を鏡のような岩に映して襲った伝説の鏡岩から、殆ど真下に坂下が見えます。それから先の土山までは馬子唄でも出そうな、ゆっくりした坂です。
 太平洋の方から押し上げてくる地圧がそういう地形を生んだんじゃないでしょうか。
 ご本にもあった鈴鹿峠の東の関の道は狭いですね。古い家が建て混んで、よく走り抜けられたものだと感心します。
前田 高い荷物を積んだトラックを後ろから見ると、電柱や軒瓦で左も右も20センチ位しか空いていない。ヒヤヒヤしながら通り抜けたものです。
 鈴鹿峠の麓の坂の下で冷たい水を入れてエンジンを冷やしてスタートするんだが、10分も走るとオーバーヒートを始める。
 東海道と中山道を比較すると、中山道は女性的、東海道は男性的と言えるようです。
―― そうですね。中山道には箱根や鈴鹿、越すに越されぬ大井川、といった大きな難所はありません。宮(名古屋)から桑名への七里の渡しや、今切の渡し(浜名湖)もある。というので、江戸時代の女性は中山道の方を好んだようです。東海道はダイナミックで、中山道は静か、という感じはします。
 この名阪トラック輸送の体験はトラック業の経営、業界のあり方など、前田さんの将来に大きな影響を与えたものだと思います。そのお話、再びの兵役、終戦までのことは次号でお伺いします。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.07.20 00:31|人に四季あり
(毎週/月曜・木曜 更新 )

1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 5月号 
 『人に四季あり』  前田源吾 その③

ひとつの誠の軍人勅諭 現役兵と闘病の人間改造

誠は神、仏、仁愛の心 
軍人勅諭で人間改造を

――(増田) よく働き、よく遊んだ10代の前田さんのお話は前号にお聞きしました。思う存分遊んで、楽しんで、苦しい時には先に楽しんだから諦めよう、という独特の人生観を確立されて、それからの前田さんの人生はその通りになる、見事なものだと感心します。
 まあ、私達の10代はもう戦争に入っていて、遊ぼうにも遊べない時代でした。その点、前田さんは戦前の、平和なのどかな時代を自分の働いたお金で満喫できたのは羨ましいような気もします。
 徴兵検査で甲種合格になって、昭和8年の1月に現役兵として入隊されますね。その出発の日が大変だったようで。
前田 知立(ちりゅう)の町にいた70名余りの芸者のうち、50人ほどが駅まで見送りに来た。これにはびっくりしましたが、それが最後の花道、以後、一切知立の花柳街に足は踏み入れなかった。
―― 新兵さんの入営に50人もの芸者のお見送りとは豪勢なものです。私の場合、1年繰り上げで最後の徴兵検査で甲種合格、四国善通寺の師団の工兵隊に入営しましたが、これが昭和20年8月3日、敗戦の10日ほど前、寄せ集めの召集兵と一緒で、入れ歯や禿げ頭の駆け足もろくに出来ないおじさん達と一緒でした。
 こんな兵隊集めて戦力になるのかと思っていたら、敵が上陸する前に蛸壺を掘っておいて、戦車が上陸してきたら火薬を爆発させて心中する、これなら動かなくてもいい。えらい所に入ったな、と思ったら、戦争の方が終わってすぐ復員、兵営の門を潜ったというだけで、教育らしい教育は何も受けていません。
 前田さんのご本「輸送に生きた五十五年」を読むと、当時の内務班教育の実態がよくわかります。
 内務班の教育というのは、日常の起居動作、兵隊としての訓練、それと精神教育でしょう。
前田 要領よくキビキビ立ち廻らんと、すぐビンタが飛んでくる。
 3年前に入隊して上等兵になった兄が、ともかく10番以内に入っておかねば苦労する、というので頑張ったが、三等症は出るわで、初めのうちは就寝時間になると敷布に顔を埋めてよく泣いた。
―― 消灯ラッパは、「新兵さんは可哀やネー、また寝て泣くのかヨー」だとか。
前田 三等症の薬をひそかに兄が面会の時に持ってきてくれたが、これが大変な粉薬でなかなか呑み込めない。見つかったらことだから便所の中で呑むが、口がふくらむほどムッとして、随分苦労させられたものです。
 それが、上官の中尉殿に見つかって、オレの薬も頼む、ということになった。
―― 同病相憐れむ。(笑)
前田 いい人だったが、後に殉職しました。
―― 戦前は学校では「教育勅語」、軍隊では「軍人勅諭」が必ず奉誦されたものですが、特に軍隊ではバックボーンになるもので、徹底的に叩き込まれたものでした。
前田 「朕は汝等と股肱(ここう)と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてこそ其の親しみは特に深かるべき」、「抑々(そもそも)此の五ヶ条は我軍人の精神にして一つの誠心はまた五ヶ条の精神なり」などは今でも深く信奉しています。
 この世の中で誠は一番大切なことだと思っていたが、それが一貫して軍人勅諭の中に流れている。誠とは神の心であり、仏の心である、仁愛の心である。この軍人勅諭で前田源吾はひとつの悟りを開いて、新しい人間になったといえます。
―― いまの若い者は軍隊のような厳しい集団教育は知りませんが、人間を鍛える、という点では、戦前の軍隊教育は大きな成果を挙げたと思いますね。
 軍隊教育を受けた人も第一線では少なくなりましたが、どこかにバックボーンのようなものが一本通っています。

空を志願して当て外れ 
三河所払いの父の言葉

―― 一般兵科の歩兵連隊と違って、飛行連隊は、技術連隊のようなものですから、そのための教育が実施されたわけでしょう。
前田 徴兵の段階で、それ迄の学歴や職歴を考えて集めているので、その技能に応じて配置されます。
 種類は機関(エンジン)、飛行機(機体)、自動車、無線、電機、機関銃と高射機関銃、鍛工、通信、気象、暗号、縫工、靴工、喇叭(らっぱ)の13種。機関はエンジニアや工業大学校卒が多く、飛行機は大工さんがかなり入っていた。
―― 昔の飛行機はベニア板に麻布を張ったりしていましたので、大工さんが必要だったんでしょう。
前田 自動車は「ワッパ」と愛称されて「石部金吉」的人間より人間性もあり、幅が広くて応用動作のきく人間が多かった。無線の中には頭のいいのがいたようです。
―― 面白い軍人集団ですね。
 前田さんは、入隊前に自動車運転はお手のものだったから、その点では苦労しなかったんじゃないですか。
前田 当時はウーズレーが多く、兄から運転の要領を教えられていたこともあって、運転は連隊で一番、という自信はあった。
 入隊してから5ヶ月ほどたった時の試験では、普通で3分から4分かかるところを1分50秒でやり切って、計測が違うのではないかと、もう一度やり直したこともあります。
 ただ、飛行機の操縦演習をする将校達を朝2時ごろから起きて迎えに行く時は苦労した。1時間近くもクランクハンドルを回してエンジン始動に取り組む。夜が白むころ飛行場に到着するが、演習は上がって下りるだけ、朝食前には終わってしまう。
 この午前2時からの自動車との苦闘が身にしみて、どんな身分になっても自家用運転手は使わないと心に決めた。今でもオーナードライバーで、自分で運転します。
―― 前田さんは、同じ初年兵の中で頭角を現して、上等兵候補者に指名され、選抜1等兵になり、一般の兵隊より格段に厳しい訓練を受けてやがて上等兵に、新兵さんが入ってきて2年兵、今度は教える側です。兵隊の初年兵と2年兵は陣笠と殿様のような違いで、身の回りのことは初年兵がすべてやってくれます。
 そこで今度は猩紅熱に悩まされることになって。
前田 39度を超える高熱が何日も続いて、体は消耗する、軍医殿は後で君はもう駄目だと思ったと言われた位。それでも窮すれば通ず、まだまだ自分の体は大丈夫だという自信を持って乗り切りました。
―― 重病を克服して下士官コースの伍長勤務上等兵、普通の現役兵は2年で除隊の時に一等兵ですから大変な努力でしたね。
前田 「君が代一等兵」というのもあった。
―― 何ですか、それ。
前田 「苔のむすまで一等兵」。(笑)
―― 万年平社員のようなものですな。2年で満期除隊になるところを再度下士官候補に志願して残りますが。
前田 満期が近づくにつれていろいろ考えた。自動車を運転する人間も増えて、運転士から運転手、運転者と地位は下がる一方だと聞いていたし、折角軍人精神を体得したのに、あの生活に戻るのも嫌だ、これから自動車より飛行機の時代、太く短く大空に生きようと決心して志願、50人中15人が合格しました。
 これで空を飛べる、と喜んだのもつかの間、相変わらず自動車をやれと言われた。そんな筈で志願したのではない、と申し出ても、「自動車工場をやらせるために残したのだから飛行機の操縦試験は受けさせない」と取り上げてくれない。自動車をやるなら除隊してもできる。そこで父親に除隊したいと手紙を出した。
 その返事が、「中隊長殿と合意しているのだから許さぬ。それでもというのなら境川からこっちへは来るな」。
―― 所払いですな。三河へ入るべからず。(笑)
前田 それじゃどうにもならんので、残留組に入ってもう2年勤務することにしました。
 ところが、それも僅か数ヶ月で今度は湿性胸膜炎で再度入院、兵役生活は無理ということで現役兵免除になった。
―― 2度の入院でお世話になった小沢という人間味溢れる軍医さんが本に登場しますね。
前田 本当にお世話になりました。その後の私が過酷な運命を生きてこれたのは小沢軍医によるところが大きい。戦後の昭和34年、お訪ねしたら、3年前に亡くなっておられて残念でならなかった。
(つづく)





みなさん さようなら

2017.07.17 08:04|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 4月号 
 『人に四季あり』  前田源吾 その②

父と引いた大八車が60年の輸送人生の原点

一世一代の大仕事で奮闘 遊びも一人前以上の毎日

――(増田) このA型フォードで、前田さんが一世一代と書いた働きをしますね。
前田 昭和5年は名古屋東部の開発が進められた年で、桶狭間古戦場の北に野球場が建設されることになり、清水組(当時)の請負でした。この一帯はサバ土の山で、坂道にさしかかると車両がサバ土にのめり込んで動けなくなる。ある土木請負師が、現場に砂や砂利を納入することになっていたのですが、40車ほどの砂利を轍に捨てたところで、これ以上の損はもうご免だ、と言い出した。あと10車も投入すれば大丈夫だと言って、坂道を切り開くことに成功しました。
 工事が進むにつれて、輸送量も増大したが、傭車を何台かして需要をこなす一方、傭車が1日5~6車はこぶところを、傭車が来るまでに1車、引き揚げてからまた2車、1日8~9車も運んだものです。
―― よくそこ迄働けると感心しますね。ショベルカーがあるわけじゃないし、ダンプでもないから全部スコップ作業でしょう。
前田 相撲も体力があって、スコップはね上げで、満載になるまで一ぺんも頭を上げなかった。
 土場の一本道を一番後から入っても、真っ先に出てきた位早かった。
 それでいて、仕事が済むと知立の街に遊びに行き、12時頃に帰って、日の出る頃には河原で砂利をハネ上げていた。
―― よく体が続いたものですね。よく働き、よく遊び、の見本みたいなもので。
前田 寝る時間は大体5時間、それ以来、その癖がついて朝も早く目が覚めてしまう。
―― 私も朝は早い方ですが、その代わり夜も早い、とても真似はできません。50貫(約200㎏強)のセメント樽を背負って車から下ろした、というのはこの時分のことですか。
前田 土工あたりと時には喧嘩をして、なめられたらかなわん、という気勢を示したものです。この時の清水組の荒谷という監督さんが無事工事が完成したのを非常に喜んで、「君の言うことは何でも聞くから」と言ってくれた。何も頼みには行かなかったが。
―― ウチの親父も力自慢で、若い時分、沖仲仕(おきなかし)をしていて、セメント樽を背負って歩み板を渡れたのはオレだけだ、と言っていました。今はそういうのはいませんが、以前は力自慢が多かった。私も若い頃、土建屋をやって、セメント袋50㎏のをフウフウ言いながら担いだのに、土方はふた袋を平気で担ぐ、戦後はまだまだ力仕事が沢山残っていましたね。

温かい人情の中での生涯最良の日々を過ごして
―― 一世一代の働きをした昭和6年の暮近くなって、兄さんが除隊、前田さんは家を出ますが。
前田 あちこち転々して、三弘自動車に落ち着き、知立(ちりゅう)に住んだのですが、、この翌年、昭和8年1月に現役兵として入隊するまでの9ヵ月の間は、私の人生の中で、何の屈託もなく、自由奔放に我が意のままに、やりたい放題に暮らせた時代でした。
―― 宿や魚屋の小母さん、小父さん、料亭や置屋のお母さん、経営者の人達、みんないいひとが、本の中に登場して来ます。前田さんの本の中で、一番ほのぼのした部分はここですね。
 満州事変が始まって、戦争の気配が出てきた頃ですが、まだまだ人情豊かないい雰囲気だったことが、本から感じられます。私達の世代は子供の頃からいきなり戦争で、そういう時代を知らなかったのは残念です。
前田 割り切った考えを持っていてね。楽しいことを先取りして何でもやる、苦しい時にはその良い時代を思い出して諦めよう、老後のため若い時に蓄えるなんて考えは全然なかった。
―― 先憂後楽の反対ですな。あの時は良かった、もういっぺんああいうことをしてみたい、と考えなかったですか。(笑)
前田 全然なかった。楽しみを先取りしたからこそ、苦しみを乗り越えられたと思っています。事実、現役を除隊してからは、酒、タバコは一切やらず、バー、キャバレーには足を踏み入れずに現在までやってきた。
―― よく180度転換できるものですね。
 いよいよ徴兵検査を受けて甲種合格、入隊を待つだけ、という時にお遊びの後遺症が出ますが、よく検査で見つからなかった。
前田 見つからなかったが、入隊までが大変だった。(笑)

感無量の昭和天皇崩御 殯宮祗候と大喪礼参列
―― 年明け早々の昭和天皇崩御は、昭和の御代と共に生きて忠誠心の厚かった前田さんにとって、感無量のものがあったと思います。
前田 2月12日、宮内庁からの殯宮祗候(ひんきゅうしこう)というお招き状を戴いて参内しました。
 正殿松の間には祗候者の席が20ばかり、その他に皇族、ご親族の席があり、この日は高松宮妃殿下がご参拝になりました。
 一歩進んで幕の中へ入ったところで拝礼しましたが、御簾の向こうに金襴に覆われたお棺が拝され、それは厳粛なものでした。
 40分近く菊のご紋章の入った椅子に静座して祗候申し上げ、茶菓を賜って退出いたしました。
―― ごく選ばれた方々の祗候だったようですね。24日の御大葬はもちろん。
前田 死んでも本望という覚悟で参列しました。
 天皇陛下の御誄(るい)は日本の将来を語るように清浄無垢、玉音朗々と164ヵ国の国賓の胸を打ったことと確信しています。
 明治生まれの私共には、日本の人心はどうなる、という大きな心配がありましたが、世界の指導国となった状況を目のあたりにして、もう思い残すことはありません。
 昭和という激動の世に生を享けたことを今更ながら心から感謝申し上げたいと思います。
 下手な歌を一首詠みました。

   先帝に捧ぐる誄(るい)の声うらら
    外(と)つ国賓(くにびと)の胸に響きぬ

―― まさに臣源吾の面目です。私もご病気中、崩御の記帳、宮殿の参拝、御大葬のお見送りに参りました。桜田門外でしたが、雨と涙が頬を流れて止まりませんでした。
 第2回からはいよいよ20歳になった前田さんのお話から進めてゆきたいと思います。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.07.13 05:22|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 4月号 
 『人に四季あり』 前田源吾 その①

久敬(きゅうけい)という言葉がある。前田さんと初めてお会いしたのが20年前。以来長いご厚誼を戴き、その一貫した至誠の精神と行動についてはお会いするごとに畏敬の念を深くしている。トラック業界の至宝といっても過言ではない人物である。
第一回は生い立ちから現役入隊までと昭和天皇とのお別れを語る。

・明治45年(1912)生まれ
・大正15年 高等小学校卒
・昭和3年 貨物自動車運送業自営
・昭和8年 現役兵として飛行連隊入隊
・昭和11年 小西組運輸(株)常務
・昭和13年 応召旧満州、中国に転戦
・昭和15年 除隊
・昭和17年 小西組愛知陸運(株)に合併
・昭和24年 同社常務 (昭39~47同社社長 昭44~現在愛東商事(株)、愛東運輸(株)社長)
・その他 (社)全日本トラック協会副会長 同車両資材委員会委員長 (社)愛知県トラック協会会長など多数の公職就任中
・昭和59年 勲3等瑞宝章受賞

父と引いた大八車が60年の輸送人生の原点

大八車の阿呆綱を引く 輸送に縁の深い土地柄
――(増田) 小島直記という伝記作家がこんなことを言っています。「自伝信ずべからず、他伝信ずべからず」つまり、自伝を書くような人は大体が成功者だから、自慢話になることが多い。失敗や欠点は余り書かない。他人が書く場合、依頼されて書くのだから、いい所を拡大して悪いところは出来るだけ隠す、どちらにしても、伝記は余り信用できないのだから、読者は注意しなければならない。
 前田さんの自伝「輸送に生きた五十五年―私の奉公袋」(昭和58年刊)は、私も熟読しましたし、今度お話を聞くのにまた読み返した。いちばん熱心な読者だと思うのですが、恥は恥、失敗は失敗として赤裸々に書いていますね。
前田 ところが、都合の悪いことで隠している部分もある(笑)。人に話せんこともあって、3合目から8合目くらいしか書いていない。まあ、嘘は書いてない筈。
―― やっぱり隠していることがありますか(笑)まあ、この対談では、隠していることも少しは出すようにして貰って。
 前田さんがトラックとのご縁が出来たのは、生まれた土地柄によるものが大きい、という気がするんですがね。(出生地は名古屋市の東、現在の刈谷市)
前田 母親が早く死んで祖母が面倒を見てくれたんですが、小学校の2年生位から、田の草取りの手伝いをしたり、冬休みには親父が市場へ野菜を出すのを手伝ったりした。真っ暗な2時、3時ごろ出て大八車の前につけた阿呆綱をただ引っ張るだけですが、伊吹下ろしが吹きつけて寒いなんてもんじゃない、帰りは南京袋の中に入れられて首だけ出して空車のバランス役、まだ8歳だった。
―― 大変な実物教育ですね。いまの親じゃとてもできない。小さい時、若い時の苦労は後になって役に立ちます。何が起きても、あの時に較べればまだまだ、という気持ちになります。その点、今の人はかえって不幸ですね。
前田 大八車の上で東海道の松並木が後へ後へと移ってゆく、大きな杉の木があって、後年トラックで名古屋―岡崎の間の松並木の枝ぶりが全部頭の中に入るようになっても、この杉の木のことは忘れられなかった。
―― 名古屋という大消費地と、東海道、鎌倉街道といった交通動脈が近いところに生まれ育ったことが前田さんのトラック人生を運命付けたんじゃないですか。
前田 この一帯は日本のデンマークと呼ばれたところで、米、大根、西瓜、甘藷、何でもおいしいものが取れたし、養蚕も盛んでした。
 親父は田舎の人には珍しいアイデアマンで、桑の苗を作ったり、仕入れて売る、鶏の餌料や肥料も扱う、野菜は市場に出す、ということで輸送の仕事は結構あったようです。それで、大八車から馬車、自動車へと進んでいった。

学校の先生志望だったが級長になれずに断念
―― ところが、そのまま輸送ということではなくて、学校の先生になろうという気になりますね。
前田 親戚に教員や僧籍の人が多いし、小学校の3年生位から成績もだんだん良くなってきた。
 当時は中学校を卒業するには、400円もかかるというので、殆ど進学する者はなかった。高等小学校で一番になったら学資のかからない師範学校に上げてやろうと言われて勉強もしたが、一番の級長になかなかなれん、喧嘩をしたりして要注意人物だったこともあって、2番止まり、とうとう断念しました。
―― 師範出てもせいぜい小学校か中学校の校長どまり、行かん方が良かったんじゃないですか。
前田 先生になってもマアマアの先生で、生徒になめられるようなことはなかったとは思いますよ。
 それと、本来が無口で「源吾は一日に3回しかモノを言わん、一年に3回しか笑わん」と言われていた位だから、先生になって理路整然と話をすることに不安もあった。この無口の本性は今でも変わりません。
―― それだけ喋れれば十分じゃないですか。(笑)
前田 この頃じゃ大体朝から晩まで喋ってることも多い。しかし、何か不安で、ちゃんと原稿を書いたり、メモをとったり、用意をせんと安心できない。
 早いとこ、喋らんでもようなって、仏様でも1日中彫っていたい。
―― そういうお気持ちわからんでもない、私が一人で東海道や中山道歩いたのも、何日も誰とも喋りたくない、という気持ちもあったからで、今日は無口同士の対談で。(笑)
 高等小学校を卒業してどうしました。
前田 先ず、誓いを立てた。第一は親の言うことは聞かない、第二は我が意のままに進み、人に支配されず人を支配せず。
―― 実行できましたか。
前田 一番目は誓いだけでええのに実行した。(笑)二番目は兵隊行って上等兵で命令をかけるようになってそれ迄です。
―― 支配されず支配せず、私も一人で思う存分生きたいと思ったのですが、事、志と違って支配してるのか、されているのか、自由に生きるというのは現代難しいですね。
前田 しばらくは鍬頭になって、農耕、収穫すべて取り仕切ってやりました。高等小学校時分には体も力も一人前になって、仕事も遊びも大人の仲間入りです。

昭和2年父親が運送業 シボレー28年式で営業
―― お父さんが昭和2年11月に貨物自動車営業の許可を受けていますね。
前田 親父の方も大八車ではだんだん間に合わなくなって、馬車に切り換えていたが、この輸送効率も知れたものです。
 この頃になると、T型フォード全盛時代に入っていたのですが、トラックの数はまだまだ少ない。夏など、西瓜の出荷を待って蚊帳の中にいると、夜半に揮発油の臭いをさせてやっとT型フォードが集荷にやってくる。こんなことでたまらんというので、三つ違いの兄の義雄を自動車学校にやって免許を取らせ、運送事業の免許申請をした。ところが免許は下りたものの肝心の車が手に入らない。T型フォードは1926年で生産打ち切り、この頃には全くの入手困難になっていて、やっと翌年の昭和3年7月にシボレー28年式シャシーが入手でき、2tトラックとして架装しました。丁度、夏の西瓜の最盛期で、仕事が殺到、一日に16円もの利益が出たこともあって、こんなに儲かるものかとびっくりした。
 その代わりよく働いて、夏の間は午前中の出荷待ちに仮眠する程度で、床に入って寝ることはなかったほど。
―― 若かったし、無理もきいたんでしょう。昭和5年には兄さんが現役兵として入隊されて、トラックは一人で切り廻すことになりますね。
前田 まだ免許証はとっていないんで、免許証を持った運転手を雇った。これが下手で、手取り足取り教えながら走らせる。
―― どっちが運転手だかわからない。(笑)
前田 どうしても免許証が要るんで、甲種(すべての車種に適用)の試験を受けたが不合格、運転には自信があったのに、助手上がりでは甲種に一回では合格させない、ということになっていたらしい。改めて乙種特定の試験を受けてパス、翌6年には甲種にも合格、晴れて一人前の運転手です。
 車の方もシボレーの28年型がダメになって、29年式から発売されていたA型フォードに替わります。
―― 兄さんはいないし、免許証は取る、車は新車、得意の時代ですな。本には梅吉さんという遊び好きの伯父さんがいますが。
前田 御前さま、御前さ、と呼ばれてモテていた。この伯父が「お前らの芸者の買い方はだらしがない。オレは17の時に芸者を身請けした」と説教する。(笑)
―― 数えの18の甥に、大した伯父さんで見上げたものです。
前田 子供もなかったし、異腹の6人の子育てに苦労した親父とは全く対照的な生き方をした人です。
(つづく)




みなさん さようなら

2017.07.10 03:27|その他月刊誌記事
YouTubeで、「抜刀隊」「陸軍分列行進曲」「学徒出陣式」「警視庁機動隊観閲式 分列行進」 などのタイトルを入力すると、西南戦争時の警視庁『抜刀隊』を讃えた曲が聴けます。映像も様々。1886年(明治19年)、作曲者はフランス人にも係わらず、長調の部分以外は、ガイジンさん作曲という違和感はありません。日露戦争「白襷隊」などの貴重な動画もたくさんアップされています。前奏部分が少し違っていたりするのですが、私自身は「抜刀隊 ユニオンポップスブラスバンドによる演奏」が好きで、時々聴いています。コメントによると動画は陸軍戸山学校音楽隊のようです。是非、動画をご覧になって下さい。明治の雰囲気が聴けます。(妙)


1972年(S47) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

特装風土記 その9 熊本県の巻 終わり
雨は降る降る 人馬は濡れる

西南戦争の分岐点―熊本城攻防
 西南戦争は明治6年征韓論にやぶれて薩摩に下野した西郷隆盛が、明治10年2月、旧薩摩藩士を中心とする精鋭1万3千を率いて上京を開始したことに始まる。西南戦争の原因については色々言われており、筆者にも考えはあるが、ここでは触れない。結果から言えば西郷は敗れ、城山で自刃するのである。このクーデターの失敗は西郷さんの声望を落とすことにならず、むしろその人気を高めて、上野の銅像は東京のひとつのシンボルになっている。

 明治10年という年は、明治維新から漸く10年、御一新で政治体制は一変したが、その基礎はまだ固まらず、全国に不平分子はあり、政情は極めて不安定であった。その時に明治維新最大の功労者であり、国民的人気も絶大の西郷隆盛が行動を起こしたのであるから、明治新政府は最大のピンチを迎えたことになる。
 鹿児島から熊本まで、九州各地の不平士族の集団を糾合しながら、無人の野をゆくようにして熊本城に到達した。もし、熊本城が落ちれば九州全土は勿論のこと、全国の不平分子は一斉に蜂起するであろう。

 城は加藤清正築く名城、守るに堅く、攻むるに難い。しかし城兵僅か4千、なかには西郷に恩顧のある者も多い。いつ寝返るかも知れない。1万3千の精兵を迎えて果たして熊本城の運命や如何に!これを守る者は誰ぞ、と書くと大時代的な講談調になるが、この人こそ熊本鎮台司令長官谷干城少将であった。谷干城(たてき)は土佐出身、この時41歳。城を出て西郷軍を討つべし、という議論を押さえて籠城策を採り、固く城を護った。官軍の来援を待つことにしたのである。

 明治10年2月22日、西郷軍は熊本城外へ到達した。これより先、熊本城天守閣及び熊本の街が焼けた。失火となっているが、今日では自ら焼いたという説が有力である。天守を焼き、街も焼いて、籠城軍の覚悟を決めさせたものであろうか。街を焼いたことは西郷軍の利用を阻止し、城内からの見通しを良くしたであろう。城を焼き、街を焼いて谷干城は熊本を護り、政府軍を勝利に導いた。
 22日、23日と一気に攻め落とそうとする西郷軍と籠城軍との間に烈しい戦闘が繰り広げられたが決着がつかず、長期戦の構えになった。

屍山血河の田原坂
 当時、小倉第14連隊長は乃木希典(まれすけ)少佐。谷干城の来援の依頼を受けて、その先発部隊は熊本城へ19日に入城することができたが、後続の本隊は22日、熊本市北の植木町で西郷軍と接触し、ここに両軍、屍山血河の戦闘をほぼ50日にわたって繰り広げることになった。雨は降る降る、の唄の続きである。

  山に屍 河に血流る 
        肥薩の天地 秋さびし

 官軍側が増援される間、乃木隊は頑張った。対手は名にし負う薩摩隼人(はやと)、白刃を引っさげて切り込みを何度も敢行する。この当時大砲、小銃も勿論活躍したが、昔さながらの白兵戦も幅を利かせた。なかでも激しかったのは田原坂の攻防で、3月4日から実に17日、官軍の死傷3千、銃弾を一日に25万発から40万発、大砲も毎日1千余発を撃ち込んで、漸く3月20日になって田原坂を陥している。天守閣に陳列されてある大木にささった砲丸や、弾痕の写真など、狭い地域に文字通り雨霰と飛び交わした状況を想像させるのに十分である。城攻めならいざ知らず、野戦の一地点の攻防でこれほどの長い戦闘は日本の戦史の上にもなかったのではないか。関ヶ原の場合でも数時間で勝負はついている。旗色の悪くなった方は逃げ出すのが相場で、田原坂を中心とする熊本北部の戦闘は、始めは互角、時間の経つほど四郷軍は不利となっていった。

 この戦闘で、乃木連隊は軍旗を紛失した。いまの若い人に軍旗、連隊旗といってもピンとこないかも知れないが、軍隊生活を体験した人なら、軍旗は神聖なもので、これを紛失するなど大変な事柄であることが想像できる筈である。この軍旗は旗手が勝手に部署を離れて戦闘に参加して戦死してしまい、西郷軍に奪われてしまったことが真相のようである。この事件で乃木は責任を感じ、死に場所を求めて奮戦したが、重傷を負っただけでこの責任も不問にされた。

 この軍旗事件はその後の乃木の一生に大きな影を落とすことになる。日露戦争の旅順203高地攻防で多くの兵士を死なせたことなどもあり、明治天皇崩御の時、夫人とともに自刃したことは読者もご承知の通りである。
 4月15日、熊本に到着してから50日、西郷軍は敗走を始めた。9月24日、西郷自刃。

 多くの人血を流して西南戦争は終わった。これから明治日本は大きく前進することになる。
 いま、当時の主だった人の年齢をみてみると、そのあまりの若さに驚かされる。
 官軍側からいると、陸軍中将山県有朋が40歳、谷干城41、乃木29。西郷軍の隆盛51歳は別格として、別府晋介31、桐野利秋40,村田新八42である。明治も若かったし、活躍した人達もまた若かった。

 西郷軍には十代の少年も多く参加していたらしい。城内の谷干城の銅像の前に佇みながら、むなしく馬齢を重ねる筆者自身を情けなく、また腹立たしく思ったことだった。





みなさん さようなら

2017.07.06 06:00|その他月刊誌記事
(毎週/月曜・木曜 更新)

1972年(S47) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

特装風土記 その9 熊本県の巻 ②
雨は降る降る 人馬は濡れる

 事務所にもびっくりしたが、清田正光社長に会ってまたびっくり。路線の運転手でも、もう少しまともな服装をしている。人は見かけによらぬもの、ということもあるので敬意を表して挨拶。清田社長も東京から取材に来たことにはびっくりしたらしい。まあまあと、事務所の奥の椅子に案内される。熊本県経済連の仕事は殆ど一手にやっており、東京へも車を出している。年輩の人が入ってくると「おい常務、代わってくれ」と、そそくさと車庫の方へ出てゆく。この常務さんが浜田正雄氏。低温輸送には意欲的で、これからの低温輸送についての抱負を語る。熊本から宮崎にかけての低温輸送業者が軒並みダウンしたのはまだ昨年のことである。情勢が一挙に好転したとは思えないが、中部九州から南部にかけて、これからフェリーなどの影響もあり、低温輸送の需要は起こってくるであろう。業者の再編成の動きもあるようである。ともかく、これまでのような過当競争による運賃のダンピングは避けなければならない。日本冷凍輸送協会設立のことを知ってますかと尋ねると、知らない、という。世話人の福岡運輸あたりから連絡がなかったものであろうか。いろいろ立場は違っても、同じテーブルに着いて業界共同の利益のために話し合うのが協会の趣旨である筈だから、呼びかけるべきだし、またそれに応じるのが筋であろう。

 ボデーは福岡ボデー一辺倒。トレーラタイプに日本トレールモービルが一部入っている。シャシは日野が多い。
 事務所の奥はかなり広い車両置場になっている。熊本県の経済連をバックにしているから、貨物もあり、支払いも堅いであろうが、農産物はとかくシーズンが片寄りがちである。冷凍食品など、加工食品化して付加価値を高めて運賃負担力をつけるとともに、平均した出荷を図ることが課題であろう。輸送業者の立場からすると、生鮮食品にだけ依存するのは非常に危険である。

 浜田常務にバス停まで車で送ってもらい、熊本市内へ引き返す。かなり寄り道になったけれども、地場業者のありのままの姿を見ることがきたのは大きな収穫であった。百聞は一見に如かず、である。福岡ボデーに寄って、吉田勝武直販部長に会ったときにこの話をしたら、あそこまで行きましたか、とびっくりしていた。

加藤清正の築いた名城―熊本城
 昼までの大雨もかなり小降りとなり、傘なしでも歩けるし、夜までに博多に入ればよいので、熊本城へ出かける。
 熊本城に足を踏み入れたのは20年あまり前、学生の頃であった。天守閣はまだ再建されておらず、宇土櫓という三重の櫓というか小天守があるだけの淋しい城趾であった。その時も小雨が降っていたと記憶する。
 天守閣の内部は郷土史料館になっていて、古代からの石器、土器に始まり、加藤清正、細川家から西南戦争関係遺品まで数多く陳列されている。

 この熊本城は加藤清正が慶長6年(1601)から7年の歳月を費やして築城したもので、当時、大阪城、名古屋城とともに天下の三名城と呼ばれた。加藤清正は今でも熊本では人気があり“せいしょこさん”と尊敬されている。清正は賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍や、朝鮮征伐のときの虎退治などで知られる猛将であるが、政治家としても優れた治績を示した。今の熊本市の基盤はこの時にでき上がったし、領内にも堰堤(えんてい)など治水事業も数多く残した。加藤家は次代忠広の時、領土を没取され、細川忠利が小倉から入って幕末に及んだ。細川家は室町時代以来の名家であり、代々文武の嗜みのある領主が出て、領内はよく治まった。赤尾浪士が討入のあと、大石良雄はじめ17人が預けられたのは芝白金細川綱利の邸で、深夜にも拘わらず綱利は一同を引見して厚遇した。この扱いに見習って他の預かった大名も待遇を良くしたと伝えられる。

 薩摩の島津家は徳川幕府にとって油断のならない相手であり、脅威であった。結果は長州の毛利と結んだ島津に徳川幕府は倒されたのであるが、この島津に備えたのがこの熊本城であった。清正は築城家としても知られ、金の鯱(しゃちほこ)で有名な名古屋城天守閣は清正の建造に成る。今の熊本城に見られる下方に緩く上方はぐっと直立して覆い被さるようになった石垣など、優れた築城の技術を今も見ることができる。天守閣前に清正手植えたという大銀杏があり、熊本城を一名銀杏城ともいう。銀杏いすゞモーターの社名のいわれである。

 薩摩の島津に備えた熊本城がその真価を発揮したのは、江戸時代を過ぎて明治に入った10年の西南戦争の時である。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.07.03 06:00|その他月刊誌記事
1972年(S47) 月刊 「特装車とトレーラ」 6月号

特装風土記 その9 熊本県の巻
雨は降る降る 人馬は濡れる

熊本のメーカーディーラー
 旅先で雨に降られること位困ることはない。第一に気が滅入ってしまって、意気はさっぱり揚がらぬ。馴染みの対手であればどうってこともないが、初対面ではそうもいかない。
 早朝、大阪からの寝台列車で熊本に降り立ったら、かなりきつい雨脚が駅前広場を濡らしている。ゴミゴミした駅前だが、これは全国の中小都市に共通のもので、駅前のきれいなのは東京駅の丸の内側くらいなものである。

 朝食をすませて、タクシーで市内十禅寺町の南星工作所へ。集材機、ウインチなどのメーカーであり、トラック搭載のクレーンも作っているので、立ち寄ったもの。上野企画課長と面談。技術畑の人らしいが、もひとつハキハキせぬ。初対面でも話が乗ってつい時間を忘れる人もあるが、どうにもうまく入ってゆけないこともある。上野課長は後者のほう。南星工作は熊本の地場産業としては大きく、重工業の少ないこともあり、重きをなしている。

 雨がひどいので、タクシーを呼んで貰って、市内の南のはずれ、南高江の熊本三菱ふそう自販へ。この3号線沿いには各自動車ディーラーが進出している。
 ふそうでは読者の田中保而特販課長と面談。地方では本誌をよく読んでくれている人と語るのは楽しいことである。雨でいささかクサっていた筆者もやっと生気を取り戻した。話しているうちに飼料運搬車の新車が入ってくる。自動車精工の販売会社であるリフトの福岡営業所山田義広君も同乗していたので、呼んで貰い、現地の事情なども聞く。若いハキハキした好青年である。富士自動車の製品の取り扱いもやっていて、新発売のオートゲートは註文をとったのに製品はなかなか到着せず困ったとこぼす。

 ここで傘を借りて、国道沿いのディーラーを訪ねる。熊本日野は畠中哲男業務課長と会う。ここは、以前は購読していたのに今は中止している。内容も良くなったんだからも一度読んで下さいよ、と依頼。冷凍車などにも意欲的であるし、来月は講習を受けにゆきます、と言う。

 また少し歩いて、銀杏いすゞモーターへ。銀杏(ぎんなん)は熊本城にある木で、時には熊本の異称にもなるという。それにしても、植物名のディーラーというのは全国でもここだけではないだろうか。石田四郎業務課長。小型の冷凍車はまだまだだが、保冷車はかなり出るようになったし、これから冷凍車も出そうです、と話す。

 南九州のダンプ市場では圧倒的に強い日産ディーゼル南九州販売では、成迫好則業務課長と針貝元章統括課長のお二人と会う。昨年、熊本を訪ねた時、宮本武蔵の墓のことを書いた。そのときの記事を覚えていて、話をされたのには恐縮。何の気もなしに気軽に書いたのに読者はよく覚えていてくれる。有難いことである。北海道で九州で、熱心な読者に会うことは心励まされるものがある。なかには編集後記や随筆しか読まず、肝心の自動車の方の記事には目を通さないという、何の為にこの本を購読しているのだろうかと、当方にとって有難いやら、有難くないような読者もある。成迫課長は勿論そんな読者ではない。新発売の川西の天突きダンプも幾台か入っているが、評判はいいようだという。川西としては思い切った大判のポスターをそれぞれのシャシメーカーごとに作って配布しているし、この天突きダンプに賭ける熱意は相当のもの。南九州はまだまだ建設工事があり、ダンプ需要はかなり見込めるようだ。ただユーザーがユーザーだけにかなり荒っぽい商売をしなければならないと、他のディーラーも言う。虎穴に入らずんば虎児を得ず、か。

 熊本いすゞ自動車では読者の林課長は不在で有馬盛行車両本部長と会う。全車両のうち、特装車のウエイトはまだまだ低く、手間もかかるので、やはり完成車を重点的に考えてゆきたいとのこと。無理からぬところで、ディーラーの最大公約数的な考え方であろう。しかし、将来的にみると特装車のウエイトは高まってくることは事実であり、ディーラーの総合戦略の中での特装車の取り扱いをどうするかも等閑(なおざり)にできない問題と思うがどうだろう。

 熊本で唯一の車体メーカー、松本車体製作所は昨年工場も訪ね、技術担当者にも会ったが、バス、トラックが重点で、特装には積極的でない空気が感じられた。市内中央街のビルの一室にある本社を訪ねると、清水正雄総務部長が、本を売りに来たんですか、とのっけから言う。本のセールスと思われるところを見ると、まだまだ人相が良くないらしい。そんなことで東京から旅費をかけて来るもんですか、こちらも聞きたいことがあるし、あなたの方だって私から話を聞けば何か得るところがある筈だと、暫く話す。この清水総務部長さん、話し出すと車のこともなかなか興味があるようで、FRPのローリ、フルハーフのバンキットのことなど、専門的な話もする。大乱戦の九州のバン市場で、フルハーフのドライバンキットの組立では価格の点で他メーカーと競争することは難しいようだ。

低温輸送専門業者 新九州運輸
 新九州運輸という、低温輸送の専門業者があり、冷凍・保冷車の大型車が20台ほど持っており、トレーラタイプもあるというので、ディーラーに場所を聞き、タクシーで出かける。熊本市からだと北の方向にあたり、この一帯は西南戦争の古戦場で、西軍が死力を尽くして攻防した田原坂(たばるざか)も近い。タクシーの運転手は話し好きであれこれ喋っていたが、田原坂へ行ってくれ、と言うと、あんなところへ行っても何もありませんよ、平べったい台地で、どうしてあの場所で大いくさをやったんでしょうねエ、というので諦める。当時の地形とは変わっているのかも知れないが、田原坂の古戦場というと、天然の要害ということを想像しがちである。

 道路沿いの電柱に酒王“美少年”という広告が連なっている。
 悲壮な歌詞とメロディーで知られる“田原坂”を読者はご承知であろう。
 
雨は降る降る 人馬は濡れる
      越すに越されぬ 田原坂
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
      馬上ゆたかに 美少年

 著者若かりし頃、ある青年運動をしていた。そのグループで酒になると必ずこの唄が出たものである。悲壮のなかにも美しさがあり、熊本では踊りにも振付されているという。
 あれこれ回想しているうちにタクシーは目的の新九州運輸に着いたらしい。所在地は熊本県鹿本郡植木町広住286-1、まことに粗末な事務所でとても冷凍、保冷車の20台も持っている業者とは見えない。間違えたのではないか、とタクシーをともかく待たせておいて、確認したが、小さい看板も上がっているし、社長も在社しているというのでタクシーを返す。
(つづく)



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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