みなさん さようなら

2017.07.27 04:39|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 6月号 
 『人に四季あり』  前田源吾 その⑤

20年史の始めと終わり
記念行事を前の対談

(対談は4月17日午後1時から東京丸の内日本工業倶楽部の一室で行われた。3時からは本誌20周年記念講演祝賀会が予定されており、その直前の取材である。)

――(増田)このあと、20周年記念行事が始まります。20年の歴史の中で最初に取材したお相手が前田さんで、最後がまた前田さん。
……
前田 つい先日、四国88ヶ所巡拝で、増田さんの故郷の土佐へ行ってきました。日本一の清流の四万十川の側を通って、足摺岬から船で土佐湾を横断して帰ったのですが、増田さんの故郷はまだ西の方ということだった。
 東海道、中山道、若い時には四国88ヶ所を歩き、「トラックショー」を単独主催した増田さんのエネルギーはどこから出てきたのだろうか、と土佐の海を見ながら考えたものです。
―― 時々故郷に帰って土佐の海を見ると、何か勇気づけられるものがありますね。無我夢中で20年頑張って、前田さんとお話ししたあと記念行事に臨むことが出来るのは感無量です。

計数管理による自車持込運行でひと財産
―― 前回は、病気のため現役免除になって、暫く療養の後、トラック持ち込みで、名古屋―大阪間の輸送に活躍する所まででした。特に申し合わせたわけでもないのに、運転手仲間には不文律のルールのようなものがあったようですね。
前田 大体、午後9時過ぎから12時前にかけて出発する。道はまだ砂利道で、路肩に寄れば必ずはまってしまう。路幅が狭いので、どの地点で上り下りのどちらの車が待機するか、ということが自然に決められていた。
 その地点にさしかかって、ヘッドランプで相手に信号を送って、相手が消せば待機していることになり、そのまま直進する。
 ところが、ヘッドランプの信号を無視してそのまま突っ込んでくる車がある。これはトーシローで定期便じゃない、こちらはちょっと手前で待っていると、くりから紋紋の刺青をした大男が手カギなんか持って降りてきて、“退がれ”と大声で怒鳴る。こちらは静かに、退がっても待機する場所はない、などと言っている間に後続の車が追いついて、何だ何だとポカポカ喧嘩が始まる。そのうちの一人が相手の車に飛び乗って、左にバックさせて溝へ突き落としてしまう。こうなると、喧嘩どころじゃない、相手がモタモタしている間にさっと通り抜けてしまう。(笑)
―― 大変な荒療治ですが、いっぺんで懲りて、次からはちゃんと待機するでしょうな。規則、通達なんかよりよっぽど効き目あります。
前田 運転手同士も、トラック業者間も、自然の秩序のようなものが出来上がっていて、協調してやったものです。傭車でも絶対にピンハネしない、車の貸し借りだけ、申し合わせ事項はよく守られた。
―― 計数管理はかなり徹底してやってますね。
前田 当時はまだまだ計数の観念は発達していなくて、ひたすら沢山積んで走るのが普通だった。
 トラック持ち込みで仕事をする前、入社した小西組運送で車両係を半年ほどやって、その時に徹底して車両統計を取った。
 昭和11年ごろの名古屋―大阪間の一車当たりの運賃は133インチのショート車で45円、157インチのロング車で55円、この比較をしたところ、ロング車では1回当たり10円、月に13回半から14回往復するからロング車の方が100円も有利だ、ということがわかってきた。
 また、会社持ちの車と持ち込みの車を比較すると、会社持ち車は月々平均40円ほどの赤字であるのに、持ち込みの分は黒字になっている。
―― そういうデータをベースに、36年式のシボレーロングシャシを買って実際に名阪を運行したわけですが、結果はどうでした。
前田 給料を貰った上に、小学校の校長の2ヶ月分くらいの100円ほどの純益が入ってきた。車両の消耗量より月賦の支払いの方が多いんで、その差額もあって、昭和13年8月の招集までの2年3ヵ月の間に田舎でのことだがひと財産作って、「源吾は万金(まんがね)を持っている」と言われたりした。昭和17年に一緒になった嫁さんが貯金通帳を見てびっくりしたものです。
―― 道楽もせんようになっていたから、自然に蓄まったんでしょう。それにしても大したもので、会社持ちと自分の車ではそれだけの差が出るものですか。
前田 これは車の性能は格段に良くなった現在でも同じで、大事に使う自分の車と、会社の車に乗るのとは全然違う。
 個人償却性などが言われるのはそこに原因があるわけですが、行政改革で規制緩和ということになっても、この考えは一層必要になる筈です。
 運行コストが高いということはそれだけ荷主に負担を要求するわけで、社会的にみても安全性という点からも、会社もいいし、運転手も良くなる、という制度は取り入れるべきです。白トラ、名義貸しというような方法でなくても適法で対応できる道はある筈だと思いますね。

前田軍曹の大喝一番
軍上層決定を覆す

―― 小西組運送で働いているうちに昭和12年7月に志那事変が勃発、東亜の風雲は慌ただしくなって、翌13年8月には臨時召集令状で再び軍隊に入ることになります。
 前田さんの著書「輸送に生きる五十五年」のサブタイトルは「私の奉公袋」です。この時に奉公袋ひとつで入隊してから後の前田さんは自分の生活だけの目的で働くことはなくなりますね。国のため、社会のため、業界のため、会社のためにという奉公の誠心で貫いてこられた。その大きな転機が26歳の入隊の時だと思います。
 この入隊は小西組の小西与吉氏も一緒だったそうで、この小西という人は実に面白い人物ですね。
前田 満州へ出発する前に家族との面会があったんだが、午前中奥さんが来た時にソワソワして、早く帰れといったそぶりをする。後で二号さんがやってくるからなんだ。またその後に、若い女学校を出たばかりのような黒づくめの洋装の麗人が現れたのにはびっくりした。二号さんまでは知っていたが、まさかこんな若い三号がいたとは。この人は早く死んだようです。
―― とんだ濡れ場です。その小西さんが関釜連絡船でボーイにチップをはずんで一等船室におさまり、前田さんも呼ばれてその部屋で眠ることになりますね。
前田 入れられた船倉は大変な暑さだし、スクリューの音がガンガン響いてたまらん、一等船室でバスを使い、浴衣に着替えて羽布団で目が覚めると釜山、急いで船倉に戻ると持主がない上着と軍装品がある、玄界灘にドボンしたと噂しているのもある始末。
―― 二人ともいい度胸をしていますね。ハルピンの飛行第22飛行場大隊の自動車班長として、それ迄の体験を生かした前田さんの活躍が始まりますが、その中でのハイライトは、高い位置にある貨車の上のトラックを引き下ろした一件です。
前田 前線へ応急に派兵するという想定で列車にトラックや資材を積んで出発したんだが、貨車のトラックが降ろせそうにないので、演習取り止め、情況中止という命令が出た。
 住民はわれわれに好意を有せず、という想定の中で情況中止とは何事か、と大声で繰り返し怒鳴った。その声を聞いて中尉が駆けつけて「どうした」と聞くから「戦争なら負けだと言っているのです」「この高い位置の貨車から車は降ろせないということで中止は決定された。お前に方法はあるのか」「あります」「どうしてやる」「それを聞くならいやだ。任せてくれれば50分で降ろしてみせる」というやり取りがあって、その結果、前田に任せようということになった。
 そこで、部隊が提供した150名ばかりの兵を指揮して、枕木を井桁に組み上げ、その上に携行木板を敷いて誘導路を作り、第一号車は班長自身が運転して降ろした後は、練習の意味もあって初年兵に運転させて無事に作業は修了した。
 軍隊というのは完全な上意下達方式で、兵団長以下が決定したことを下士官の意見具申で変更するなどあり得ない。
 その時はスーッとしたが、どうして情況中止の決定が引っ繰り返ったのか、時に不審に思っていたことが、ずっと後の昭和55年になって現役時代の戦友会「飛一会」の席上、兄も私もお世話になって、この演習の直前お会いした片山大尉の写真を持参した男がいたことで、私なりにひとつの解答を見出すことができました。
 片山大尉は演習当時、飛行団の副官をしており、中尉が前田がこれこれ言っていると報告した時に「あの男なら必ずやり通します」と助言して戴いたに違いない。
 兵団の決定を引っ繰り返したこの前田軍曹の大喝は、私の軍隊生活の中でもその後の社会生活の中でも一番晴れがましいシーンの筈なのに、こういう夢は全然見ない。出てくるのは軍隊でバチ廻されている夢ばかりです。
―― そうですか。私も新聞社を辞めて、もう一ぺん復職している夢をよく見ます。現実には戻ろうと思ったことは一度もないのですが、その後の生活が苦しかったから、そこから逃げる夢をみるんでしょう。不思議に、いい時の夢は見ないものですね。
 前田さんも、ウーズレーのトラックを盗んで脱走する夢を見たことがある、とおっしゃってましたが、その時の情況が苦しいと、現実には考えたこともない逃避の夢を見るのかも知れません。
 まあ、そういう夢を見ないですめば幸せですが。
前田 その後の実際の生活ではあまりいい夢は見ていません。
 この演習が終わってすぐ、今度は本当の戦争に移った。
(つづく)



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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