みなさん さようなら

2017.07.31 06:00|人に四季あり
今回の前田氏のお話の最後部分に「落雀の候」の言葉が出てきます。漢口がどれほど暑かったのか、氏のご本からこの1項全文を対談下に掲載しました。「落雀…」の話をここに転載するためご著書「輸送に生きた五十五年」を開いて見てビックリ。「書き始めてから脱稿するまでに3年有余…」。初版発行の翌年には改訂版が発行されています。精魂込めて膨大な資料をこの1冊にまとめられた文章を前に、すぐには入力作業に入れず、しばらくはあちこち拾い読みしてしまいました。どこかで「輸送に生きた……」を見かけましたら、是非手に入れられることをお勧めします。(妙)


1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 6月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑥

凄絶ノモンハン事件
空の活躍、陸の悲劇

――(増田) ノモンハン事件ですね。
 前田さんのご本の中でも、この部分は貴重なノモンハン事件のドキュメントですし、自動車班といういわば縁の下の力持ち的な存在から見た他に例を見ない事件の側面史でもあります。いろいろな戦史が書かれていますが、その中に加えられていい記録だと思います。
 実は私の尊敬する住友生命保険の名誉会長としておられる新井正明さんが、この事件で重傷を負って右足を切断しています。最近、新井さんが「古教心を照らす」というご本をお出しになって、その冒頭の部分にノモンハン事件での負傷のことが出てきます。すごい戦闘であったようですね。
前田 新井さんには何度かお会いしてしています。立派な方で、愛知県トラック年金基金でも保険の件でお世話になりました。大腿部を切断してよく生きておられた。難波という曹長は撃たれて2時間で病院に収容されたが、翌日には亡くなっている。弾丸(たま)がビュンビュン飛んできて、負傷者を収容する作業がなかなか出来なかった。そういう状況の中でよく生きておられたと思います。
―― 新井さんをご存じでしたか。私の尊敬するお二人が同じようにノモンハンの戦闘に参加しておられて、そしてお知り合いだったというのは、大きなご縁を感じます。
 前田さんは飛行場大隊の自動車班長としておられた関係上、記録は空中戦闘とその地上援護の自動車隊の活躍に重点が置かれていますが、叩き落としても叩き落としても、新手のソ連機は増強されて見方の未帰還機が一機またまた一機と増えてゆく記述には思わず目頭が熱くなります。
前田 “散る桜、残る桜も散る桜”で、今日首尾良く敵機を撃墜して帰還しても、翌日は生還する保証は何もない。
 最終的には撃墜した敵機数の合計は1,101機、味方はその十分の一弱の90機だが、当初の編成の航空機の殆どと、戦闘機操縦者の大半を失ったことになり、ノモンハンで生き残っても、大東亜戦争で犠牲になり、終戦まで生存した人は教育など後方勤務となった者を除けば、極めて少ない。
 それでも、飛行部隊はまだ優秀な性能の航空機に恵まれて華々しく戦い、大きな戦果を挙げたが、地上部隊は粗末な装備で、あの大平原を徒歩で行進、優勢な敵戦車の蹂躙(じゅうりん)のままに、部隊全滅という悲劇を繰り返しました。
―― ノモンハン事件というのは一体何だったのか、何の為に大きな犠牲を出して戦わねばならなかったのか、と思いますね。
前田 当時の満州と、ソ連・外蒙古の国境紛争ということですが、それ迄にも小競り合いのようなものがあった。しかし、それほど大きな戦略拠点というわけでもなかった。
―― 幕切れも妙なものでした。日本とドイツが手を組んでソ連を挟み撃ちするのではないか、というソ連の不安を利用してドイツがいわばノモンハン事件をダシにして独ソ不可侵条約を結んだことで平沼内閣は退陣、ドイツはポーランドを急襲して第二次大戦の幕開けになります。
 ノモンハン事件は、軍隊の機械化の立ち後れなど、様々な教訓を残したのに、大東亜戦争はその教訓を生かすことができなかった。時期的に間に合わなかったと言えるかも知れませんが。
前田 民間で製造していた航空機は世界水準に達していたが、歩兵砲以下の小型兵器はてんで問題にならなかった。明治38年製の38式歩兵銃を最後まで使用していた。民間で製作させたら、軽量高性能の自動銃がいくらでも開発された筈です。
―― 私達の中学教練には38式より前の明治初年の村田銃をまだ使用していました。こうなると、兵器というより、銃剣術の柄のようなものでした。
前田 ノモンハンで航空機の故障で戦線を離脱したものはなかったが機関銃の故障で帰還する機は実に多かった。戦争責任を論じる場合、38式銃を最後まで使わせた事にもっと目を向けるべきだと思います。

百年戦争を覚悟して
民族保存の為の帰還

―― ノモンハン事件が終結した後、中支の漢口に派遣されますね。
前田 ソ連空軍健在なりの意思表示のつもりか、昭和14年10月の中旬、エスペー機が漢口を爆撃した。ノモンハンで活躍した飛行隊がそれに対抗するため急遽派遣されることになり、自動車分隊もトラックや共に漢口に向かった。
―― 漢口では、ソ連機の来来襲もなく、比較的平穏だったようですね。大東亜戦争の始まる前で、大陸戦線は膠着した形ですが、暑さには閉口したらしいですな。
前田 ※落雀の候、という時候見舞いがあるが、本当に雀が目を廻して落ちてきたのを目撃しました。
 漢口には1年足らずいて、翌昭和15年9月除隊となり、内地に帰還しました。
 その時、漢口の埠頭で隊長から「この戦争は百年戦争と聞く。諸子を内地に帰還させるのは、長期戦に備えて子供を作るためだ。早く大和撫子を嫁に貰って、子供を産んで貰って、すぐまた出て来るのだ」という訓示があった。
 要するに種付けに帰されたわけで、「関特演」という関東軍の大道員で、それもできないまま再び招集された者も多い。
―― 前田さんは戦争遂行に必要な輸送要員ということで、内地で活躍します。戦中戦後のご奮闘は次回でお伺いします。
(つづく)

※ 落雀の候
 支那には拝啓時下落雀の候と相成りという前文がある。5月初旬には水泳が始まるくらいで、湿度が高いので苦しい。従って病人も続出、5月中旬南京分遣隊に腸チブス、パラチブス発生、15名入院。自動車分隊の佐々木(誠)、大矢等重態。武昌の小隊では小泉一等兵が虫様突起炎で入院、心臓脚気を併発重体。初年兵の葛生、加藤(正)、島田、練尾、川原の6名入院。次第に暑気加わり、練兵休患者も続出するので、これを防ぐために飛行場の作業を午前中だけとし、午後は日陰で午睡または休務するようにした。これにより、入院患者は後を絶った。
 ハルピンの留守隊では、超チブスが各隊で発生し、我が隊でも60%が罹病した。真面目で、野口戦隊長お気に入りだった加瀬上等兵はあまり強健ではなかったので、慣れた原隊の方がよかろうと思って留守隊に復帰させたのが、仇となり、6月23日に死亡の報が入る。津村少尉殿、小西上等兵、正木貞次郎他が死亡し、鈴久名上等兵の降等、事故悪病流行、どこが安全なのか判らない。従弟の徹も兵站(へいたん)自動車隊で岳州方面に出勤中病を得て、後送され武昌兵站病院に入院する。
 6月下旬、武昌宿舎入口付近の田圃の稲は20~30cm伸びると稲穂を出す。水がなくて植え付けのできない田は次の雨を待って田植えをする、2回穫れても内地の半分も収穫はないようだ。
 7月1日から気温は急に上昇、最高華氏110度=摂氏43.3度。夜の室内温度93度=摂氏43.3度。昼間の温度はまだまだ何とか凌げるが、午後から風がバッタリ止まると急にムーッとむし返してくる。特に我々は3階に居たから屋根からの暑気が加わり、汗がネトネトと出て耐えられない。
 飛行場では滑走路の上を吹いてくる風は炎のようで、太陽の光線は強く顔をそむけさせる。連日の猛暑続き。7月7日は事変第3周年記念。正午を期して靖国神社の戦没将兵の霊に対して一分間の黙祷を捧げる。この日の日光直射123度=50.5度。雀はこの数週、口を開き、羽根を下げて肩で息をするようにして日陰から日陰へとあえぎあえぎ移動している。
 今日は格納庫に止まっていた雀が2羽、暑さの為に目を回してバタバタと落ちてきて目をパチクリして身動きできないでいた。「これをくわえた猫が舌をやけどした」と笑い話が出たが、満州では寒気で小便が棒になるというのと同じで、それ程ではないにしても暑さには雀が一番弱い。落雀の候とは名のみかと思ったのに事実雀の落ちるのを何回も見た。武漢は世界の三大酷暑地の一つに数えられ、印度人が印度に避暑に帰るというくらいである。武昌には未だ緑があるから幾分よいが、漢口は煉瓦とアスファルト、武昌よりは数度高い。一度漢口に外出すると股の付近はあせもで真赤になる。宿舎に帰れば部隊長も兵も全裸。越中一本に下駄ばき。ヘルメットをかぶって線内ならどこに行ってもよい。
 7月8日、直射134度=56.6度。概ねこの前後が最高気温のようで、夜に入っても96度=35.55度。暑さのために一睡もできない夜が4~5夜あり、湿度が96%もあり暑いというより苦しい。ウーウーとうなっているうちに東の空が明るくなる頃うとうとと2時間ほど眠る夜が1週間ぐらいある。その次が内地の夏の暑さぐらいで、10日余りは何ともならない。日朝点呼を取る頃はいちばん涼しい時であるが、そんな時でも脇の下から汗がにじみ出てくる。付近の松林から鶯がホーホケキョと、日本語で鳴いているとどうなっているのか気が遠くなるような思いである。鶯の鳴く頃は梅の花咲く頃と思っているのに全くおかしくなってくる。湿度は96%、こうなると日陰にいても、外にいても、高いところも低いところも同じ暑さだ。この暑さを防ぐ方法は一つよりない。3尺腰掛を背にして両足を下につけ、両手を頭の上で組むと者に接しているのは足の裏と背筋だけ。この姿勢が体温の放熱面が一番広いことになる。動かすと暑くなる。ジーッとこらえて静かにしておれば、どんな暑さにも耐えられることを悟った。戦争というものは有り難いことだ。零下30度、眉毛の凍る北満の露営、風雨に晒されたノモンハンの100余日。ここに来て落雀の暑さと、現役時代にあれだけ痛めつけられた体であるが、状況の悪い時には不思議と体の調子がよく、今日まで耐え抜いて来た。夜は東湖の水浴が許されているのでよく泳ぎに行った。飛込み台から水深3m余、犬かきで潜って行って底に手が着いても水は温かい。
 8月に入ってからは室内温度90度=32.2度以下。時々暑さがぶり返すが7月のような事はない。8月6日宣昌作戦派遣隊の出発。9月下旬から秋風が立ち、気候も内地とあまり変わらない。夜、宿舎の窓から外を眺め、耳を澄ましていると虫の音が聞こえてくる。一色、二色、三色と数えて行くと、7~8種類くらいまでは数えられるが、それ以上は混乱して判らない。とにかく虫の種類が多く、吸い込まれて行くような感じがする。武漢の地は暑くて我慢できない。今年こそは他に移ろう、と毎年口癖のようにいっていても、秋は永い。そうして短い冬が過ぎると、永い春を迎え、この地が去れないという。
(「輸送に生きた五十五年 私の奉公袋」より 第5章・ 戦争と貨物自動車/第5節・ 中支派遣/ 落雀の候 全文)



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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