みなさん さようなら

2017.08.03 06:31|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 7月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑦

足りぬ物資と集約失敗 過酷な条件下の決戦輸送

第一次集約の会社に
兄から離れて新出発

――(増田) 「子供を作りに」昭和15年9月、中国の漢口から日本へ帰された前田さんですが、つい先日、その漢口へ行って東湖の対岸にある武漢大学を見て、あのあたりに前田さんのいた宿舎があったのかと思ったものです。
 翌年には太平洋戦争が始まります。不思議に前田さんは招集されずに終戦を迎えますね。
前田 一緒に帰ったうちの80%ぐらいは「関特演」の特別招集で満州に集められて、それから南方に派遣されて苦労した人は多かった。私は軍需品の輸送に従事する要員ということで、招集を免除されていたと思います。
―― 前田さんが帰国された昭和15年は陸運統制令の発令があって、第一次戦時統合でトラック企業の集約が行われていた時です。
前田 大体ひとつの警察署管内、なかには2つ3つの署にわたって集約した場合もあって、車両台数は30台から50台位の規模だった。
 応召したとき持っていた38式のシボレーは徴発されたあと、兄が1年古い37式シボレーを私のために買ってくれていたのだが、ナンバーがない。
 どうも兄が豊川の海軍工廠(しょう)へ所轄外の仕事に行っていることで警察署の担当がツムジを曲げて交付しなかったらしい。
 ところが、そこの署長さんの娘が私の中隊長のお嫁さんになっていて、言付かったお土産などを署長官舎に持参してあれこれお話をしたあと、車検証がおりないので仕事ができないとお話すると、すぐ担当を呼んで「永年ご奉公して帰郷したのだからすぐ手続きをしてやれ」のツルの一声で翌日にはナンバーがおりた。
 ちょうど第一次集約の真っ最中で兄も参加して三栄組を中心に興亜運輸という集約会社ができた。
 役職も決まっていて、軍隊帰りの私の椅子がない、暫く車に乗っていてくれ、というのでラッパの尻(ケツ)押しをすることになった。
 この興亜運輸の専務の斉藤清さんは後に愛知県タクシー協会長になった人だが、招集されてフィリピンで苦労した。A級戦犯で処刑された東条さんなどの遺骨を祀った三ヶ根山の七士の碑の傍らに比島観音を建立した中心人物です。
―― 兵隊に行って苦労した人より軍隊を知らない人の方が軍国主義反対とか何とか叫んでいます。生命を捨てて、国のため、社会のために尽くすのは尊いことだと思うんですが。
前田 一国一城の主のような人が集まっている集約会社で何時までラッパの尻押しをしていても仕方がない。兄の義雄は興亜運輸の車両担当の役員をしていたので、私が側にいると心強いようだったが、思い切って兄弟別々になることを考えて昭和15年の年末にその決意を打ち明けた。
 兄弟一緒だと、何かあった時に二人とも駄目になる、別々におればどちらかは助かって手を差し伸べることができるだろう。
 兄が大石義(良)雄で、こっちは大高源源吾(五)、忠臣蔵みたいなもんだが、仲は良かったですよ。
 兄はトラックから離れて岡崎で工場を三つほどやっていた。私が愛知県のトラック協会会長になった時、しっかりやれと激励してくれました。
―― いい話ですね。
前田 兄と話し合った後、昭和16年の早々、先に除隊になっていた小西のオヤジ(与吉氏)を訪ねたら、なぜ早く来なかった、ということで、第一次集約会社として存続していた小西組運輸(株)に勤務することになった。
 この時が、誰をも頼らず自分自身の決断で世の中を渡ってゆく人生の、本当のスタートであったような気がします。

人も車もひどい状態
失敗だった企業集約

―― 昭和16年12月、太平洋戦争に突入していよいよ戦時色が濃くなり、第一次に続いて第二次集約が実施されますね。
前田 昭和18年3月末日を期限に名古屋市内が4地区、郡部は大体警察署単位で、22社の集約会社と中部トラクターを含めて、愛知県は23社の体制になった。
 都市部の会社は大体150~200両、郡部は60~100両程度の規模だった。
 その前に、大日本麦酒が名古屋操車を買収して愛知陸運と名称変更、私のいた小西組運輸などを吸収して第二次集約会社の一社になった。私は小西組運輸の常務から新会社の車両課長になったんだが、部長以上の役職はすべて合併会社の代表者、昇格出世など一切望まずに怖いものなしで頑張ろうと決心したものです。
 ところが年長者は、まず抹茶を一服、という有様。50歳代から60歳代の人だし、親会社は格調の高いビール会社、給料はチャンとくれるというのだから無理もない。
 若いのは兵隊や徴用にとられるし、トラックの方も200台あったうち実際に稼働できるのは3分の1、あとの3分の1は部品も外されて、トラックの形としているだけという状態です。
―― 人もトラックもひどいものですな、そんな状態では軍需品の輸送も円滑にゆかなかったのでは。
前田 弾丸(たま)が前線に届かない。人もトラックも燃料・部品も不足している中で、無駄なことばかりやっていた。第二次集約は明らかに失敗でした。第一次の30~50両で止めておけばよかったものを、150~200両にしたのがいけなかった。敗戦間近になってやっとそのことがわかった有様です。
―― 経済行動を国家が統制するのは難しいですね。社会主義の経済がうまくゆかないのもそこに原因があるのですが。
前田 ガソリンも割当になっていて、一応登録してある200台分の配給はある。その分を3分の1の稼働車両に割り振っても1日1台当たり3ガロン、10㍑位にしかならん、これで走れるのは35~40km、いきおい代用燃料ということになって、使えそうなのは何でも使ってみた。
 アセチレン、木炭、マキ、石炭、コーライトなどだが、初めのうちは燃焼効率が悪くて随分苦労させられた。後には効率の良い薪ガス発生炉が考案されたのですが、そのマキの確保も大変で、会社ごとに山林を買ったり、山の闊葉樹林は殆ど姿を消した。今でも旅行していて、燃料に使い頃の樹林あるなぁ、と思ったりします。
―― 乗用車は木炭、トラックはマキが多かったようですね。第2回のトラックショーでは代燃トラックを実際に走らせましたが、年輩の方は懐かしかったようです。
 一方、アメリカでは同じ頃に年間20万台という史上空前のトレーラを生産して、ヨーロッパと極東戦線への軍需品輸送に大車輪の活躍をしている。兵力の差以上に輸送力の違いは大きかったですね。

あわや売国非国民に
悲惨な統制の犠牲者

前田 燃料のことについては、どうしても忘れられない出来事がある。
 燃料そのものは代替品があって何とかなったが、一番困ったのが潤滑油。魚油のようなものの配給はあったが、クランクケース内で凝結して使い物にならない。
 どうにもならなくなって、愛知県の経済警察の方に今後の見通しなど聞いてみても、さっぱりわからんという返事だった。
 愛知陸運と同じような第二次集約会社の名古屋貨物に足立俊一さんという早稲田出身の車両課長がいた。この足立さんの弟で日本硝子の資材係をしていた氏家さんからの話として、日本硝子には機械油の配給があるが、陶器会社なので要らない、アルコールと交換して貰えないかと持ちかけられた。
 当時はガソリンよりアルコールの方の配給が多くて、手持ちも相当にあったものだから渡りに船と公定価格で交換した。ここで、なにがしかを懐へいれていたら大変だが、それは全くなかった。
 機械油は濃度は薄いが、潤滑油と混合すれば十分使えると思ったのも糠喜びで、真夏の暑いさなかに経済警察からの呼び出しだ。
 全くの犯罪者扱いで、調べている巡査部長は扇子を使っているのに、こちらは国民服のホックを外しただけで怒鳴られる。
 潤滑油がなければトラックは止まる、公定価格でアルコールとオイルの交換をしたまでで、やましいことはない、と申し立てても「とかなんとか言いやがって貴様も同じ穴の狢(むじな)であろう」と脅してくる。
 3日間取り調べて、調書を作って「私の行為は売国奴で非国民である」と認めて自署押印をせよと迫る。
―― ひと一倍愛国心の強い前田さんに売国的行為とか非国民とは、相手が悪かったですな。
前田 とんでもない話だ、軍人であった時と同じく今も愛国の赤い血が燃え続けている、腹を開いて見せてやりたいぐらいだ、と言っても、何としても自認せよ、できないならまた明日出直して来い、となった。
 翌日、出頭してまた同じ事を繰り返していると、巡査部長の様子がおかしくなってきた。聞いてみると召集令状が来たという。階級は補充兵で、未教育との返事だ。そこで言ってやった。
 軍隊はメンコの数やら日数やらという。メンコとはアルミの食器のことで、同じ階級でもメンコの数がものをいう。私は軍曹の一等級で、5年余り兵営や野戦の飯を食ってきた。あなたもビンタや早駈け、腕立てをどれ位やらされるか、よく味わってくれ、と言ったら、そんな気持ちの悪いことを言ってくれるな。(笑)
―― 攻守ところを変えた感じですな、スッとしたでしょう。
前田 気持ちが良かろうと悪かろうと、帝国陸軍はあなたひとりを例外にすることはできない。お世話になったついでに一つだけ要領を教えて上げる。ビンタを取られる時には逃げないで両足を踏ん張って相手の殴り易いように顎を突き出してゆく、そうすると5つのところは3つに、3つのところは2つになる。
―― 教えているのか、脅しているのか。(笑)
前田 これで売国奴にも非国民にもならずにすんだ。
 気の毒だったのは一方の当事者の足立さんで、徹底的に締め上げられて、取り調べ中に靴で向こう臑(ずね)を蹴られ真っ赤に血だらけになっていたらしい。
 足立さんは福知山線沿線の銀行の頭取をしていたほどのいい家の出で、当時の運送業界では珍しい大学出のインテリだった。丁度その頃、息子さんが陸軍幼年学校を受験していて、経済事犯で父親が被告になっては悪い結果を及ぼすのではないか、と心配したものか、未決仮釈放で帰郷の時に鉄道自殺しました。
 あと1年すれば、戦争も終わっていたのに、貴重な人材を失ったものです。
―― 戦争にはいろいろな犠牲者が出ますが、一番悲惨な例ですね。インテリだけに、余計に悩んだし弱かったんでしょうか。取り調べた部長のその後は。
前田 無事に生きて帰って、どこかの警察署長になったという話は聞きました。ところが名前はどうしても思い出せない。
(つづく)


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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