みなさん さようなら

2017.08.07 06:00|人に四季あり
(毎週/月曜・木曜 更新)

1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 7月号~8月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑧

あらゆる爆弾が降る
焼き尽くされて終戦

――(増田) 前田さんが愛知陸運へ入社するきっかけを作ったオヤジこと小西さんが愛陸を退社しますが、合併会社でうまくやってゆけなかったのでしょうか。
前田 小西さんは自他ともに認めた自動車運送業界の第一人者だったが、合併会社の常でそれぞれの派閥があり、ビール会社から来た仲田専務との仲が決裂した。
 小西組から来た者は血の気の多いのが多く、小西さんの復職運動を起こして数名ずつが関係先の家を訪問したのが、徒党を組んだ不穏行動であると誤って特高警察に通報されて、私がその元締めのように思われたらしい。電車に飛び乗って映画館に入ったりして、うまく撒いたと思いきや、ちゃんと尾行している。職業柄とは言いながら、忠実なものだと感心したものです。
―― 昭19年に入ってサイパンが陥落してから本土はB29の飛行爆撃圏内に入ります。軍需工場の多かった名古屋は特にひどくやられたようですね。
前田 19年の年末近くの12月7日、三河大地震があって、沢山の犠牲者が出たし、軍需工場も大きな被害を受けました。
 その余震も治まらない12月13日からの空襲が始まって、特に3月の12日と17日の夜間無差別爆撃で、名古屋市の半分は焼野ヶ原になってしまった。
―― 私は大阪で3月14日の夜間焼夷弾による爆撃を淀川の対岸から見ました。無数の焼夷弾が雨のように落ちて、被弾したB29が赤い焔を引いて落下、間もなく市内は火の海になりました。沢山の人が焼け死んだり、逃げ惑っていたのでしょうが、対岸から見る光景は物凄いまでに美しく、ローマを焼いた暴君ネロの気持ちがわかるような気もしたものです。犠牲者には本当に申し訳ないんですが。
前田 何回もの爆撃でお城も焼け、市内に燃えるものは殆どなくなってしまった。
 愛知陸運の1800坪ばかりの敷地には1坪に1個くらいの割合で、焼夷弾やその他の弾が落下、とうとう伝単(ビラ)の詰まった爆弾型のケースまで降ってきました。
 6月26日、このころになると、敵の方は傍若無人、高射砲の射程内の三千㍍ほどの上空を悠々と飛んで、1㌧爆弾をどんどん落としてくる。
―― ザーッというような物凄いイヤな音がしましたね。
前田 ノモンハンでも、コレヒドールでも、こんなに集中的に爆弾の雨を降らされたところはなかった筈ですが、市民の方も慣れてきて、冷静に観察するようになってきた。正に国民皆兵、常在戦場の日々でした。
―― 沖縄が陥落していよいよ本土決戦が叫ばれるようになりました。
前田 トラック輸送もこのままではいかん、体制立て直しだというので所轄を内務省から陸軍省に移したりしたのだが、もうどうにもならん状況です。
 怒部隊という本土迎撃師団が編成されて、渥美半島に上陸すると予測されたアメリカ軍に備えて、私の住んでいるところ迄も陣地づくりが進められた。
 かつては北極星が真上に見えるような北辺の地で戦ったのに、郷里が決戦場になるとは、と感慨無量だったが、名古屋市の現場と住まいの双方で頑張っていた。
 そこに、8月15日の玉音放送。雑音が入ってよく聞き取れなかったが、忍び難きを忍び、耐え難きを耐え、のところはわかって、ああこれで戦争は終わったのかと、熱いものがあふれました。
―― そして戦後の復興輸送を経て前田さんのトラック人生は新しい展開を見せますね。

親会社消極姿勢30年
飛躍を阻んだ再三の逸機


組合副委員長から
20歳早い重役抜擢

―― 昭和20年8月15日の終戦で軍は解体されて、軍人精神の塊のような前田さんですが、気持ちの上の切替えはすぐできましたか。
前田 ご聖断は出たのだから、耐え難きを耐えて祖国を復興させねばならぬと誓ったものです。張り詰めた気持ちは戦時中と同じだった。そんな時、陸軍中尉が一個分隊ぐらいの兵隊を連れてきて、機関銃で脅しながら、車を出せと言ってきた。何にするんだと聞くと、木曽の山にこもるためだと言う。何言っとるんだ、陛下のご詔勅は下った、国民も辛抱せよ、と言っておられる、車は絶対出さんぞと頑張った。
―― 私にも同じような体験があります。四国善通寺の仮宿舎で終戦を迎えたのですが、すぐ近くに捕虜収容所があって、下士官が襲撃しようと言い出しました。マアマアという説得で中止になったのですが、実行していたら文句なしの戦犯で、命はなかったでしょう。
 しかし、こういう混乱も間もなく治まって、戦後復興に取り組むことになりました。
前田 終戦直後はガソリンやオイルの自動車用の物資が放出され、進駐軍の横流しもあったりして、代燃車は片っ端からガソリン車に戻したのですが、これも一時的なことで、再び代燃車に逆戻りした。
 この頃の風潮で、各職場で一斉に労働組合が結成されて、愛知陸運にも従業員組合ができ、私が副組合長に推された。
 集約会社で部長以上は合併会社の代表者、まして愛陸の親会社は誇り高きビール会社、車両課長以上に昇進することはないと覚悟して、仕事は人一倍やったが、どちらかというと一匹狼で、小西組の残党の頭領のように見られて煙たい存在であったようだ。それが組合を握ることになると五月蠅い存在になりそうなので、役員に選任したい、という考えが仲田社長にはあったらしい。
 その頃、大日本ビール会社の傍系の朝日炭坑でトラックが欲しいと言ってきた。部品や何かを調達して新車を2台組み上げて納車したら、仲田社長から苦情が出た。
 仲田社長と朝日炭坑の山本支店長とは犬猿の仲、役員に推薦してやろうと思っている人間が、その手助けをするとは、ということだろう。「ワシャー情けない」とひと言。
―― 親の心子知らず、ですか。
前田 終戦直後放出されたガソリンもそろそろ底をついてきたので、東京近くの草加の日本代燃器に発注していた20台の代燃器を引き取りにトラックで行った時、ビール会社の目黒工場に寄って傍系会社担当の岡本常務にお会いした。どうやらこれがメンタルテストだったらしく、間もなく開かれた総会で取締役に選任され、営業部長に就任しました。
―― いよいよ名門の愛陸の経営陣に加わったわけですが、逆に言うと苦労を背負い込む第一歩でもあったのでしょう。
前田 ビール会社の傍系の役員は定年近い人間が就任するのが常識になっていたのにまだ34歳で、20年は早いと言われたものです。仲田社長の強い後押しと、岡本常務の判定で実現したのでしょう。
 仲田社長とは随分長いお付き合いで、尊敬していたし、私を頼りにされていたようです。

物資不足の復興輸送
本格的路線事業の台頭

―― 米よこせデモが宮城へ押しかけたり、食糧不足、物資不足が暫く続きました。
前田 配給された燕麦(えんばく)を鶏にやってもケッケッと足で跳ね飛ばして食おうともせん、それを人間に食えというのだから。家でも女房がミシンを踏んで頑張っていた。
―― 少ない食糧ですが、市民にとって命の綱、その輸送は大変だったでしょう。
前田 本格的な自動車生産はまだ先のことで、戦災車両の修理やつぎはぎで凌いでいた。
 三菱重工業大幸工場では自動車の再生をするというのでGHQ(進駐軍司令部)が神経をとがらせて調査に来たものの、戦災でやられた車両2台をやりくりして1台に再生する、というような実情を見て安心して帰ったということも聞きました。
 飛行機を作った高い技術も、寄せ集めの品質がマチマチの部品ではまともな整備はできない。愛陸でも遊休車を15台ほど修理に出したが、使い物にならないのも出てきた。修理費を払え、払わぬで揉めたが、三菱ではトラック生産のきっかけを作って貰った、という記録があるそうです。
 トヨタの方は部品も豊富に持っていたので、比較的順調に車両の再生作業が進んでいた。
 一番不足したのはタイヤで、東海タイヤという会社が全国から中古タイヤを集めて再生していたが、台が悪いんで、エアーを張っただけで蛙の腹のように膨らむのも出る始末。再生タイヤ10本で新品タイヤ1本分持てばいい、という位だった。
 進駐軍の車両の払い下げを受けたのもタイヤが目的で、燃料を食うシャシは使えない。タイヤを外して雨ざらしにしたが、そのうちの10tレッカー車だけは後に大いに役立った。
 まあそういう苦労をしながらも大日本麦酒の名誉にかけてヤミ輸送はやらず、市民の食糧輸送のために車両を優先的に廻したものです。
 昭和23年に愛知県貨物自動車運送組合は解散、愛知県貨物自動車協会が設立され、24年には賠償物資の工作機械などの搬出があり、所轄も内務省から運輸省に移されるなど、業界の戦後処理は大体25年ごろ迄に終わって、愛陸にも25年12月に東京路線の免許が下り、本格的な路線体制へ移っていった。

月賦販売の口火を切る
惜しかった片手五百万

―― 戦後の凄いインフレを押さえるため、アメリカからドッジがやってきて荒療治をしますね。朝鮮動乱で息をつくまで不況の嵐が吹きまくりました。
前田 どこも青息吐息で、新車が出てきてもそれを買う資金がない状態で、ニッサンの車が1200台も雨ざらしになって錆が出ている。
 そこで、懇意にしている人達に「錆びただけ払うという条件で車を使わせないか」と持ちかけたら、そりゃいい、と愛知トヨタに話を持ちかけたが、担当課長は鼻で笑って取り合わない。そこでニッサン側と話をすすめて無利息1年月賦を条件に30両の注文を出した。
 ところが今度は愛知トヨタの上の方が承知しない。ニッサンを撤回してトヨタを入れろと執拗に迫ってくる。今更ニッサンへ断ることもできないんで、金に困っていることでもあり、出資でもあれば話は別だが、と口をすべらしたことから、それじゃ出そういくらだ、これだけと片手を開いて見せたら、よかろうとなった。当時の愛陸の資本金は500万円、そこにトヨタ側から同額が入ったら主権は移ってしまうと心配した仲田社長が、300万円と申し出て了承された。この時に500万円受け入れておけば愛陸のその後の運命は変わったと思うんだが。
―― そうですね、ビール会社の都合にふり廻されて愛陸は随分足踏みしたように見えます。
前田 さてトヨタ側から資本を受け入れるとなると、ニッサンの方には不義理をすることになる。関係者に日参するようにしてお詫びをしてやっと許して戴いた。※
 こんなことはあったものの、1200台の在庫は25年の春頃には全国にさばけていった。おそらく、これがトラックの月賦販売の最初であると思います。
(つづく)

※ 前田氏のご本から転載 
 「さて、トヨタの出資を受けるとなると、立場のないのは私である。まず当事者の松下氏と渡辺氏にこの数日間の経過を詳細に話したところ、渡辺氏(通称ナベさん)は兵隊検査の時知立で一緒に毎晩のように遊んだ仲。「前田君、君がそうしてザックバランに話をしてくれたので君の立場もよく判った。君は若いからまだ先が長い。我々の事は考えなくともよい。そうする事によって愛陸が展開して行く事であるなら、わしと松ちゃんは了承するから上の方へは礼を尽くせ」とアッサリ下りてくれた。社長の柴山乙彦氏、販売部長の足立幹二氏に一切を申出たところ、温厚な柴山社長に烈火の如く怒られた。今日もお伺いして坊主になって来るべきところだけれどもと、お許しを請うた。そのころ特高を追放され、総務部長をしておられたのが川村要作氏(現愛知日野会長)。30年以上親交を願っているが、そのころは大きな目をしたこわい男という感じしかなかった。1ヵ月近くも毎日のようにお詫びのためにニッサンへ日参した。柴山社長さんは立派な方、「これ以上貴方を苦しめるに忍びない。今日から一切をあきらめます」と無罪放免して頂いた。足立さんも何年かのち小西さんの経営したシボレーの代理店の専務をやられ、今日もアシダ商会の代表者でダンロップタイヤーの関係でお取引願っている。一番胸を撫で下ろして喜んでくれたのは渡辺、松下両氏だった。友人は有り難い。これで一件落着。」
(「輸送に生きた五十五年 私の奉公袋」より 第7章・ 終戦と復興輸送/第2節・ 戦後の試練 部分)



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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