みなさん さようなら

2017.08.10 06:06|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 8月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑨

地獄絵図のやりくり算段
悪夢のような昭和29年

――(増田) 朝鮮動乱という川向こうの火事で潤った日本経済も、動乱が治まると火の消えた様になって再び不況になります。この時に、愛陸の仲田社長が定額現払いを強く主張してその実現に奔走されたことは特筆すべき事柄ですね。
前田 「定額の仲田か仲田の定額か」と言われるほど徹底してその実現に打ち込んだ。この問題は現在でも大きな課題で、その完全実施にかけた意欲には頭が下がる。
 仲田さんは愛知県貨物自動車協会の会長という立場で奔走されたのですが、愛陸そのものの業績は必ずしも良くない時期に業界の為に努力したことについては、親会社からも時に忠告されていた程です。
 もし、あの当時の業界に仲田さん程熱心な方が数名おられたら、その後の高度成長期を後盾にして業界の地位向上と安定成長が図れたものだと残念です。
―― 昭和28年から29年にかけての業界は倒産したり、吸収合併されたり大変な試練の時期を迎えます。愛陸も例外ではなく、給料の遅配や高利の金の借用など、倒産寸前のようなところまで行っていますね。ビール会社がバックについていながら、どうしてそんなところ迄追い詰められたのですか。
前田 ひたすら安全に欠損を出さないようにという消極姿勢で、必要な時に資金の投入ができなかった。ビール会社から来た重役も一緒に、東京のビール本社へ行って事情説明してもなかなかラチがあかない。その間にも状況は一層悪化して、金融機関、ディーラー、燃料資材方面などあらゆる手を打ったし、40余両の車両減車、104人の人員整理を含む荒療治も断行した。
 私自身もありとあらゆるツテを頼って、10万、20万の金策に走って私の責任で借用した金は1200万円に達した。これは当時の運賃収入のほぼ半月分です。
 そうこうしているうちに、ある生命保険会社からの融資も決定、地獄のようだった昭和29年を乗り切りました。
 ビール会社の方には仲田社長に対する不信感もあったようで、年末に辞任された。
 仲田社長には当初、小西の残党として睨まれたが、是非の判断と人物評価は厳正であり、人や業界の面倒もよく見た人です。第二次集約会社の形で13年間持ちこたえたのは仲田さんの功績であり、私にとっても34歳で重役に登用して戴いた大恩人です。

なぜそこ迄の義理立て
人間前田の良さと限界

―― ビール会社からは不渡りを出してもかまわぬ、とまで言われたのでしょう。オーナーでもないのに、個人的に金策までして愛陸を支えることはなかったんじゃないですか。前田さんはまだまだ若かったんだし、キャリアも十分、私なら潰れるものは潰れるに任せて、独立しますね。結果がどうなるかは別ですが。
前田 小西のオヤジ(与吉氏)もあんたと同じようなことを言うた。
 首吊りを見た時には、早く楽にしてやろうと足を引っ張るようでないと事業は成功せん、とも言われるが、私についてきてくれた人達を一時的にせよ見殺しにして、外に出ることはとても出来ない。
―― その点が前田さんの本当にいいところですが、事業家としてみると、ある限界を自分で設定しているような感じも受けますね。
 思い切って飛び出して、事業的に大成功していれば、業界の世話役として滅私奉公している前田さんの現在はなかったかも知れないし、前田さんの人生観は別のものになっていた可能性もありますね。
前田 地位も金も何もかも捨てて丸裸になってしまうことはなかなか難しい。オヤジから多少のものを分けて貰っているし、生まれ故郷の近くに住んでいると、みっともないことはできない。
―― たしかにそうですね。私は親父から貰ったのは借金くらい、土佐から遠く東京に離れますと、知ったのは誰もいません。
 おまけに40歳過ぎまで地位も金も何もない、これ以上悪くなったら一家心中という状態で東京へ出たのですから何をやっても恥ずかしくない、人が軽蔑する業界紙でも何でも、ということです。
前田 失うものが何もない、というのは強い。
―― 好き好んでなったわけじゃなく、要するに甲斐性がなかっただけのことです。それでも、社員や身内が増えてきますと、あまり身勝手もできず、安全を考えるようになりましたね。

逸した合同のチャンス
条件付きで愛陸社長に

―― 昭和29年の危機は一応回避して30年から35年頃までは比較的順調に愛陸は伸びているようですね。
前田 減車して30年には135台にまで落とした車両も35年末には439台に増加しているし、30年を基準年とすると、35年には路線部門はほぼ5倍になっています。
 この間、仲田さんの後に社長に就任した並木さんは就任後僅か半年で急死された。初代の飯田社長は着任半年で死亡、並木さんの後の馬場社長も半年目に乗用車が市電と正面衝突して血だるまの大怪我、同日に奥さんの母堂が亡くなって、身替わりになったのだろうと言われた。私も社長になってから暫くは、塩を撒いて出勤したものです。
 愛陸の業績も急上昇して、世間の評価も高くなり蘇東運輸と半田通運と愛陸の三社合同論が持ち出されたことがある。最後の段階になって馬場社長が尻込みして、蘇東と半通が合併、以後は名鉄運輸として発展することになった。
―― 惜しかったですね。もし三社合同が実現していれば愛知の路線の地図は変わっていたのは確実でしょう。どうも肝心の時に、親会社の意向とかで、チャンスを逃しています。
前田 馬場さんは五高で池田勇人元首相と同期、東大出の方だった。親会社の「あまり大きくするな、損は出さないように」という消極姿勢を反映して、資本の蓄積も充分できないうちに、36年の末あたりからまた業績低下に見舞われることになった。
 私としては増資の必要性を感じて、それなりの手は打ったつもりだが、親会社の意向で打ち切りとなり、その間に事情は悪化、39年にはビール輸送部門と路線を分離して名古屋サッポロ運輸の社長には馬場愛陸前社長、愛陸社長には私が就任した。
 金はこれ以上出さない、増資はいけないという条件づきの社長で。

30年式典はお葬式に
トヨタへの軟着陸を

―― 前田さんにとってひとつのチャンスだったと思いますが、従業員を放り出すことはできなかったお気持ちもよくわかります。
 株主でもあり、大手荷主でもあるトヨタへ大きく接近することになりますが。
前田 その頃はトヨタ社内でも輸送効率向上をめぐって論議があったし、ビール会社の意向もあってトヨタに全面的に支援の申し入れもできない状況の板挟みの中で苦心しました。47年には従来の千早町の本社から小牧のターミナルに本社を移した。
―― 私が前田さんに初めてお会いしたのが44年の末ですから、まだ千早町の頃でしょう。
 47年の8月には盛大な30周年式典をホテル・ナゴヤキャッスルで開催していますね。
前田 これが心血を注いだ30年の愛陸でのお葬式で、10月には退任を申し渡されました。そのあと、愛陸はますますトヨタへの傾斜を深めて50年にはトヨタの完全系列に入った。
―― ビール会社のご都合主義と消極姿勢に翻弄されたような前田さんですが、ビールからトヨタへ、愛陸という第二次集約の名門会社を軟着陸させた功績は大きいと思います。
 前田さんには事業人生のほかに車両の効率化や業界の世話役としての大きな活躍がありますし、豊かな信仰と精神生活がある。次回以降にお伺いします。
(つづく)


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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