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みなさん さようなら

2017.12.14 04:05|「周作閑話」
文中の「中村市」は2005年(H17)、「四万十市」(しまんとし)になりました。(妙)


1990年(H2)月刊「New TRUCK」12月号
「周作閑話」

帝国連合艦隊

 「日本一の清流」というキャッチフレーズで、土佐西部の四万十川は有名になり、テレビやドラマにもよく取り上げられている。流れがゆるやかで、ダム建設に適さなかったという理由もあるが、流域に都市化の波が殆ど及んでいない、ということが最大の原因だろう。
 四万十川流域の町らしい町といえば、全国に数多い小京都のひとつ中村市で県庁の出先機関があり、鉄道の終着駅でもある。中村市から南西30kmほどの所にあるのが宿毛(すくも)市で、愛媛県との県境も近く前面には愛媛・高知両県に挟まれた宿毛湾がある。

 高知県は維新以来、多彩な人物を出していることで知られる。宿毛はさらにそれを凝縮したような、全国でも珍しい人材輩出地でその伝統は今も引き継がれている。
 在京の宿毛出身者の集まりである「東京宿毛会」は遠く明治時代に始まっており、町単位の郷土の団体としてはきわめて珍しく、歴史も最も長いのだそうである。
 「東京宿毛会」は毎年秋に開催されていて、出席するようになったのは一昨年から、今回で3回目。厳密に言うと私は宿毛出身者ではなく、宿毛湾に面した、行政的に言うとかつての奥内村、現在の大月町生まれの父母から大阪で生まれて小学生の4年余りと大学を卒業してから6年ばかり、父母の故郷に住んだだけである。妻は宿毛から来ているが、余所から入ったもので宿毛の血は流れていない。

 「東京宿毛会」の会則には、会員は宿毛市の出身か小・中・高校に在籍した人、また宿毛に縁があり、宿毛を愛好する首都圏の居住者を中心として組織する、とあるので会員の資格ありと見なされているのだろう。
 もっとも、会員といっても会費を徴収するわけでなく、毎年秋の例会の参加費や、その時に発行する機関誌『土佐すくも人』の広告収入で運営費を賄っているらしい。
 『土佐すくも人』は今回で第7号を迎え、A5判、120頁の堂々とした冊子でその内容もかなり濃いものがある。

 宿毛からはかつての日本一の出版社、冨山房を興した坂本嘉治馬、大隈重信を輔けて早稲田大学を建てた小野梓、情熱の歌人北見志保子など文化面で活躍した人物が多い。政治家にしても吉田茂、林譲治など文人肌が多く、茂の子の健一にもその血筋が見られる。
 現在でも、冨山房は別として私を含めると宿毛出身者で出版社を経営する者が3名もおり、これも珍しい例であろう。法曹部門で活躍する人が多く、この春の叙勲ではそのうちの二人が勲二等受章の栄に浴している。この人達がすべて豊かな文学的素養の持主で、先年の上海付近で起こった中学生の列車遭難事故における賠償金の、困難な折衝をまとめ上げた岡村勲弁護士は立派な漢詩を作る。
 文才豊かな人物や、本づくりのプロが多いのだから内容の濃い機関誌になるのは当然で、7号の編集後記にもあるように、一流誌の読み物にも負けない立派な玉稿ぞろいなのである。

 10月24日、皇居お壕端の法曹会館で開催された「東京宿毛会」で『土佐すくも人』を受け取って開いたら、私の原稿が巻頭に掲載されている。
 絶好の碁敵であり、酒友でもある日本文芸社の兵頭武郎社長は「東京宿毛会」の代表世話人格でもある。今度の『土佐すくも人』は昨年の例会の橋田庫欣(くらよし)先生のお話の“本土決戦と宿毛”を軸にして“太平洋戦争と宿毛”の特集を組むつもりだ、と彼から話を聞いた。

 それなら、宿毛湾に入った帝国海軍連合艦隊の想い出でも書こうか、と軽い気持ちで請け合って“帝国海軍栄光の日々―少年の瞼に焼き付いた連合艦隊―”というタイトルの短い文章を綴って渡しておいたのが、巻頭に載った記事である。その中に、小学校全校児童60名ばかりで戦艦「陸奥」の見学に行ったことを書いたので、1頁大の陸奥の正面写真も載っていた。ただし、この写真は私の見た時より少し後のもので、水雷よけの大きなバルヂが取り付けられ、船腹が大きく膨らんでいる。
 なぜ、宿毛出身者でもない私の原稿を先に載せたのか。恐らくその後に続く玉稿の“露払い”役を私に担わせたのだろうが、事実、他の方々のものはずしりと読み応えがあり、一般市販の図書に決してヒケを取らないものがあった。

 郷土史家橋田庫欣先生の“宿毛湾と日本海軍”は、いわば秘話とでもいうべき宿毛から見た帝国海軍と人物の側面史である。
 宿毛湾が艦隊の錨地として適地である事に先ず着目したのはアメリカ海軍の方であった。もし日本へ侵攻する場合、この辺鄙の地を押さえれば、日本軍がこれを攻めることは難しく、アメリカ側は海上からの補給が容易である、との理由による。

 アメリカの動きを察知した日本の駐米武官の報告を受けた海軍は早速陸海の参謀達を宿毛に派遣、湾の内外をくまなく調査した。その結果、大正9年に第二艦隊が、その翌年には連合艦隊が来航して、昭和3年から毎年、または年に数回も太平洋での訓練の基地となったのである。私の見た帝国連合艦隊は昭和10年から14年にかけてのもので、巨大戦艦の「武蔵」や「大和」はまだ完成していなかったけれども、第二次大戦前の最も充実した時期であった。

 艦隊の錨地として宿毛湾は絶好の地理的条件を備えてきたとされるが、それは陸の孤島にも等しい陸上交通の不便さ、沿岸の未開発というマイナス条件も含まれていた。
 鉄道がつけばスパイが入り易くなるので、歴代の連合艦隊の司令官長は殆ど反対であったというが、もしそれが事実なら宿毛周辺の人達は長い間、海軍のために交通の不便さを押し付けられたことになる。そのせいかどうか、戦後になって鉄道は西に伸びたが、モータリゼーションの普及でそのテンポはダウン、第三セクター方式で宿毛に鉄道が入るのは平成6年の予定である。

 都会がなくネオンの光などもないので、乗組員が陸上を恋しがらないのも理由の一つに挙げられているが、ネオンどころか陸上の灯火は殆ど見えない真っ暗闇の湾内に艦隊は錨を下ろしていたと思われる。逆に式日など、あかあかとイルミネーションされた軍艦の姿は陸上からよく見えたものだった。

 橋田先生の記事によると、昭和16年夏、連合艦隊を率いた山本五十六司令長官が上陸、松田川支流の篠川で長官幕僚12名がフンドシひとつになって子供に返ったように鮎漁を楽しんだという。さらに、第二次大戦の始まったあとの昭和17年のある日。山本長官は旗艦「大和」ほか一部の艦隊を率いて宿毛湾に入港、宿毛町長ほか3名が「大和」に長官を慰問したところ「日本にアメリカの飛行機が来だしたら負けだ、そうならないように全力を尽くして頑張っている」と長官は言った。その後上陸した長官は、ハイヤーで高知に向かい、宿泊して戦陣の疲れを癒やした。これが山本長官最後の本土での夜となる。

 米軍機が日本を初空襲したのは昭和17年4月18日で、山本長官の宿毛入港はその前か後か、米機が日本を襲うようになったら日本は負けだ、との焦りが太平洋戦争の明暗を分けたミッドウェー海戦となり、長官は昭和18年4月18日戦死した。

 宿毛出身の山岡耕筰東京芸大教授がヴァイオリン変奏曲“荒城の月”を演奏の後、来会者は打ち解けて談笑した。その中に大戦末期、宿毛湾にあるわが父祖の地柏島に特攻隊として進駐した震洋134隊半谷達哉元隊長ほか数名の隊員の姿があった。半谷氏とは不思議な縁で、「'90トラックショー」の景品となった大量のキャンディーは半谷氏の寄贈によるものである。


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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