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みなさん さようなら

2017.12.21 07:40|「周作閑話」
1995年12月号 周作閑話

ワシントン


 “音”の記憶の中で最も鮮烈なのは、B-29の爆音である。
 第二次大戦の末期、制空権を全く失った日本の空を悠々と飛んで、焼夷弾や爆弾を雨のように降らせたB-29の、ズーンと腹にこたえる爆音を記憶している人はもう少数派だろう。その爆音のテープをワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館の中、広島に原爆を落とした“エノラ・ゲイ”の特別展示場で聞いた。

 “エノラ・ゲイ”の展示についてはアメリカ内部でも論議があり、展示方法について日本側からも意見が出されるなど、相当に紛糾したようである。そのせいかどうか、特別展示場へ入る際の検問はきわめて厳重で、妻のバッグまで開かせる程だった。

 薄暗い室内で銀白色に光る“エノラ・ゲイ”は翼を外して後半部をカットした前部胴体部分で、尾翼やエンジンは切り離し、下部には原爆の模型が取り付けられている。この機体から切り離された原爆が、人類最初の惨禍を広島にもたらした。
 これで日本をやっつけた、日本を降伏させた、という派手な説明もなく見学者達も一様に厳粛な表情であったのは何か救われた気持ちではあったが、誇らしげな乗組員達の記念写真にはひっかかるものを感じる。

 昼間、下から仰ぎ見るB-29は巨大だったし、昭和20年3月14日深夜の大阪大空襲で撃墜された大きな火の玉となって落下したB-29の残骸が大阪駅前に展示されて何と大きなものかと驚いたものだったが、こうしてみるとそれ程大きくはない。ジャンボを見慣れたからだろう。

 スミソニアン航空宇宙博物館にはライト兄弟が初めて空を飛んだ飛行機から最新の宇宙衛星に至るまで、まさに人類の空への挑戦の歴史ともいえる展示物がある。その中での“エノラ・ゲイ”を除いて、科学技術やパイロットの輝かしい記録と勝利を物語っている。
 『翼よ、あれがパリの灯だ』の大西洋を初めて横断したリンドバーグの“スピリット・オブ・セントルイス”や第二次大戦の花形戦闘機である“ゼロ戦”(日)、“メッサーシュミット”(独)、“スピットファイヤー”(英)、“グラマン”(米)など、私達の記憶にある展示物は心の躍るものがあるが、“エノラ・ゲイ”だけは全く異質の展示である。
 科学技術発達の究極の恐ろしさ、現在は広島原爆とは比較にならない強力な破壊兵器が生まれ、その保有国が実験を繰り返している現実を訴えるのが目的であれば“エノラ・ゲイ”の展示も意義があるだろう。そのためには誇らしげな乗組員の写真よりも広島の惨禍を示す生々しい写真こそが望ましい。

 航空宇宙博物館の吹き抜けドームのガラスの向こう側に国立博物館が見える。この一帯はスミソニアンの各種博物館の建物が連なり、一大文化施設区域である。
 首都ワシントンは17年前と殆ど変わっていない。“エノラ・ゲイ”が航空宇宙博物館に加わり、ジョン・F・ケネディ大統領の墓の傍らにジャクリーン・ケネディ・オナシスが寄り添ったことなどであろうか。

 南北戦争の南軍の指揮官リー将軍の邸宅跡一帯のアーリントン国立墓地にはJ・F・ケネディ、その弟のロバート・ケネディのほか、戦後の日本に馴染みの深いダレス国防長官などの有名人、戦死者10万人余りが葬られ、軍人などで希望すれば現在でも遺体は埋葬できる。この日も、星条旗の半旗が掲げられていたから、埋葬があったのだろう。真新しい白い墓標にはベトナム戦争の死者が多い。

 1789年のワシントン初代大統領就任からクリントンまで、ほぼ200年の間にアメリカは41名の大統領を送り出している。最も評価の高いのが、建国のワシントン、南北戦争のリンカーン、大恐慌から第2次大戦のF・D・ルーズベルトで、中でもリンカーンがベストワンであるらしい。ケネディは暗殺から暫くの間の評価は急騰したが、現在は下降しているとのこと。最近の大統領の評価はもう少し年月を置かないと定まらないだろうが、ベスト3に入る大統領は見当たらない。

 F・D・ルーズベルトは第2次大戦の末期、チャーチル、スターリンとともにヤルタ会談に出席した2ヶ月後に病死した。その時の、頬がこけてやつれきった顔の映像は時々放映される。だが、元気な時は堂々とした、いかにもアメリカを代表する立派な顔だった。
 ファーストレディ、つまり大統領夫人についてもアメリカ人はなかなかうるさい。リンカーンの妻メアリーだけは悪妻だったとされるのに対して、トップはF・D・ルーズベルト夫人のエリノアである。小児マヒで体の不自由な夫を助け、その死後は人権運動などに活躍した。夫婦の得点がF・D・ルーズベルトのように高いのはむしろ珍しい。

 ギリシア風の大建築リンカーン記念堂の前の細長い人工池にはワシントン記念塔の姿がそっくり映って、その向こう側にキャピトル、国会議事堂の大きなドームが見える。観光客が必ず目にする首都ワシントンの顔だ。
 今度の旅行では、リンカーンについての本を何冊か読んでみて、これ迄描いていたイメージの変更を迫られた。
 巨大なリンカーンの大理石の坐像の背面に彫られた「人民の、人民による、人民のための政治」を唱えて、奴隷解放の父と讃えられる民衆政治家、人権政治家、理想主義政治家として彼をとらえることは皮相な見方である。

 リンカーンによって戦われた正味4年間の南北戦争では、両軍合わせて60万人余りの戦死者を出した。アメリカが参戦した第一次大戦で約11万人、第2次大戦の約32万人の戦死者の合計よりはるかに大きな犠牲を払っている。世界の内戦の中でもその数は最も多い。
 なぜ膨大な犠牲を払ってまで戦い抜かなければならなかったのであろうか。
 その原因を詳しく述べることは私にはできないし、その紙数もない。ただ、言えることは、リンカーン大統領が登場した1860年のアメリカは建国から80年は経過しているものの、国としてのまとまりにはまだ欠けている部分が多かった。
 南部の綿花栽培はアメリカの輸出の大きな部分を占めていて、その労働力は奴隷に頼っていたから、南部に奴隷制擁護論者が多かったのは当然だった。
 しかし、家畜のように人を売買する奴隷制の非人道性を批判する動きもあり、奴隷制の拡大に反対する共和党が1854年に結成され、6年後にリンカーンが大統領に就任するのをきっかけにして、南部諸州は続々と連邦を脱退、新しい政府を樹立する動きになった。

 リンカーンは直ちに奴隷制を廃止しようと考えたのではなくて、北部にも南部にも属さない中間の州については奴隷制を認めてもよいとさえ言っている。
 南北双方に妥協の動きはあったけれども、アメリカンはひとつでなければならないとする北部およびリンカーンと、自分たちの国を造ろうとする南部との戦端は回避することができず、泥沼の戦いとなった。結果は北軍の勝利に帰したけれども、戦死者は北軍の方がはるかに多かった。この戦いのさ中に奴隷解放宣言は出されたが、人種問題が現在まで尾を引くことを彼は考えただろうか。

 優れた名演説を遺したリンカーンは正規の教育を受けていない。弁護士から大統領になる迄の彼は相当のかけ引きもしたが、大統領に就任する頃からは実に優れた洞察力と明確な理念を持つ卓抜した指導者に成長していった。第2回大統領当選直後に凶弾に倒れた悲劇性も加わって、殆ど神格化された感じはあるが、やはり歴代大統領のトップであることに異論を挟む人はないだろう。
 彼の死後アメリカは黄金時代に、日本は明治維新から文明開化の道をまっしぐらに進むことになる。


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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